前の記事 で、自分自身の性欲の強さについて書きました。
でもこの性欲の問題は、私一人の問題ではありません。
それが証拠に、世界中の多くの宗教が、この性欲を抑える試みをしているのです。
性欲とか情欲、色欲などとも言います。
たいていは、男性が女性に対していだく邪(よこしま)な思いと考えられています。
それは抑えがたいものとされ、完全に抑えるか、それとも妻帯を許すという、2つの対処方法に分かれます。
仏教では、タイなど上座部仏教だと、僧侶は女性に触れることも許されません。もちろん、女性と交わることも結婚することもご法度です。
日本などの大乗仏教は、2派に分かれます。1つは出家した僧侶は妻帯を許さないというもの。禅宗はそうですね。
一方、妻帯も認める宗派もあります。浄土真宗など念仏系の宗派です。
キリスト教だと、カトリックは神父などは妻帯できません。一方のプロテスタントの牧師は、妻帯はOKのようです。
すべての宗派を正確に調べたわけではないので、ひょっとしたら一部誤りもあるかもしれませんが、そのときはご容赦ください。
要は、妻帯を許すかどうかバラバラだということです。厳しいところは女性に触れることさえ許さないのです。
禅宗の僧侶の話で、面白い話があります。
禅僧とその弟子が川を渡ろうとしていたら、見目麗しい女性が川岸に立っていたそうです。
困っている様子なので聞いてみると、川を渡って向こうへ行きたいのだが、橋も渡し船もないので困っていると言います。
すると禅僧が言いました。
「ならば私が抱いて渡ってしんぜよう。」
言うやいなや、禅僧は女性をひょいっと抱え上げ、そのままザブザブと川を渡り始めました。
弟子は、慌てて禅僧の後を追いかけました。しかし、胸中は複雑です。
たしかに女性を助けたことにはなりますが、戒律では女性に触れてはならないことになっているのです。
「私の師は、戒めを破ってしまった。いったいどうなるのだろう?」
悶々としながらも、川を渡り終えました。女性は禅僧に礼を言い、立ち去って行きました。
禅僧は何ごともなかったかのように、道を歩き始めたのです。
弟子は、禅僧の後をついて歩きながらも、どうも釈然としません。
それで休憩の時、思い切って禅僧に尋ねてみました。
「さっきの川で、どうして女を抱いて渡ったのですか?戒めを破ったことになるのではありませんか?」
すると禅僧が答えました。
「なんだお前、まだ女を抱えておるのか?わしはすでに、あの河原で下ろしてきたぞ。」
そう言って笑ったのでした。
私はこれを、こう解釈しました。
仏教で戒めているのは執着することです。
弟子は、戒めにとらわれていたのです。しかし禅僧は、すでにそういうものからも自由で、女性にさえも執着していなかった。
性欲とか情欲というのも、我を忘れてしまってのめり込むイメージがあります。
つまり性欲があっても、執着しなければ良いのではないか、ということです。
しかし、こういうことを考えていた頃は、まだその先の光が見えませんでした。
座禅修行でもすれば性欲にもこだわらなくなるのだろうか?
でも、破戒僧という言葉もあるように、厳しい修行を積んでも、一時の迷いで性欲に溺れてしまう人もいます。
この問題が次の展開を迎えたのは、改めて書きますが、「神との対話」 に出会ってからのことです。
→記事「性欲に対する考え方が変わるきっかけがありました」もご覧ください
2012年06月13日
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