基本的人権として自由があることは、ほとんどの人が受け入れておられるでしょう。
まあこれとて、奇跡的なことですけどね。
世界には、自由が認められていない国が多々ありますから。
ただ、自由主義の国であっても、自由にはかなり制限があります。
すなわち、自由と奔放は違うから、自ずと責任が伴うというわけです。
何をしても良いわけではなく、公共の福祉に反しない限りは自由だという考えです。
まあそういう考え方もあろうかと思いますが、私は少し違った見方をしています。
法律などでいくら制限したとしても、その人が何を考え、どう行動するかを完全に縛ることはできません。
そういう意味で人は自由であり、それを侵すことはできないのだと思うのです。
たとえば、車を運転してスピード違反をすれば、捕まって罰金を取られます。
「自由なんだから、罰金は払わないよ。」というわけにはいきません。
いや、積極的に払わないことはできるでしょうけど、逮捕されたり強制的に徴収される可能性はありますよね。
たしかに、自分が行った行為が原因となって、何らかの不利益を被ることはあるでしょう。
でも、それを覚悟の上で、その行為を行う自由はあるのです。
そういう意味で、人は自由なのです。
「そんな犯罪を犯すような悪いことをやる自由なんかないでしょう。」
そう考える人は、この世に絶対的な善悪という価値観(倫理観)があると信じています。
でも、そんなものは存在しません。
たとえば、人殺しは悪いことでしょうか?
「そんなの当然だよ。それが許されるなら、何でも許されるじゃないか!」
そう言われるかもしれません。
でも、戦争で人を殺すと勲章がもらえたりして、人々から褒め称えられます。
ここでは人殺しが正しいことなのです。
「そんなの屁理屈だ!侵略しようとする相手を殺すことは、自分を守ることだから正しい。それが許されなかったら、強盗から身を守ることもできないじゃないか。」
その気持はわかります。私も、何度も何度もそういうことを考えてきたのです。
でも、第二次世界大戦に負けたから、日本は敗戦国として裁かれました。
では戦勝国は正しかったと言えるのでしょうか?日本は絶対的に悪かったのでしょうか?
私は、どの意見が完全に正しく、どの意見が完全に間違っているなどとは言いません。
なぜなら、人それぞれに価値観があり、その価値観においては、その意見は正しいのですから。
つまり、絶対的な価値観などないということです。
大塚公子さんの「死刑執行人の苦悩」という本を読んだことがあります。
国家の命令を受けて、自分とはまったく関係のない誰かを殺さなければならない。
「いったい何のために自分は働いているのか?」
死刑執行人は、そういう悩みを持つのだと言うのです。
でも、そういう人がいなければ、死刑という制度も成り立ちません。
人を殺すのは悪いことなのに、国家による殺人は正しいことなのでしょうか?
植物人間状態になって、生き返る可能性がないとされる人がいます。
しかしそういう人の生命維持装置を勝手に止めることはできません。
生命を維持するのには多大な費用が必要で、身内にたくさんの負担をかけ続けなければならないのです。
その状態を救おうとして患者を殺せば、それは殺人になります。
殺せば多くの人が助かるのに、それでも人殺しは悪いことでしょうか?
私は、簡単に答えを出せることではないと思うのです。
実際、私の心の中でも揺れ続けてきたし、今も揺れ続けています。
だから言えるのは、答は1つではないということです。絶対的に正しい答などというものはないのです。
人は、そのときどきに応じて、「これがもっとも自分らしい」と感じる答(価値観)を自由に選択します。
そしてその選択した結果を体験し、そのときに湧き上がる感情から、また考え方を検討し直すのです。
そうやって揺れながらも、常に自分らしい方向へ近づこうとするのです。
私は、それが生きるということだと思います。
だから、その自由な選択を阻害してはならないと思うのです。
自由を阻害するのは、何も国家権力ばかりではありませんし、地域社会とも限りません。
自分自身が自分の自由を制限していることの方が、はるかに多いと思います。
「常識だから」と言う時、その人は目に見えぬ多数の人の考え方というものを勝手に作り出して、それに自分を従わせようとしています。
「こんなことをして恥ずかしい」と言う時、羞恥心や罪悪感を受け入れることで、その人自身が自分を制限するように仕向けています。
自分が受け入れた価値観を自分が守るなら、それは楽しいことでしょう。
本当は受け入れていないのに、他から押し付けられたり、自己制限するから苦しくなるのです。
そして苦しくなると、それを他人にも押し付けようとします。
もし他人がそれに従わないと、腹が立って仕方がありません。
だって、自分が苦しみながら従っているのですから。
他の人がその制限から逃れることができるのは、ずるいという気持ちになるからです。
このことは、私自身がそうだったから、そう思うのです。
学校で黙々と掃除をしている時、ふざけて掃除をしない級友のことが憎らしかった。
どうして先生は、こういうのを注意して、ちゃんと掃除をさせないのかと思った。
何度、先生にチクってやろうと思ったことか。
私自身が勝手に、私の心を制限していたのです。私はまじめに掃除をすることを、楽しんでいなかったのです。
この世は、楽しむためにあるのです。
それを自分で勝手に苦しむための世の中にしてしまっているだけなのです。
だから、そのことに気づくだけで、今すぐ、この場で、幸せになれるのですよ。
2012年06月12日
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