偉そうな言い方ですみませんが、本当に般若心経の意味がわかった気がしたのです。
私が般若心経と出会ったのは、入院していた祖父の回復を祈って読経するようにした ときです。
最初は意味もわからず、「ぶっせつまーかーはんにゃーはーらーみったーしんぎょー・・・」なんて、木魚を叩きながら読んでました。
そこに意味があるとも考えていませんでした。そうそう、私にとっては呪文と同じだったのですよ。
それが20歳くらいだったか、ひろさちや氏の解説本を読んで、「なるほど、そういう意味があったのか」と思ったのです。
でもそのときは、書いてある言葉の直訳として理解しただけで、本当の意味でわかったわけではありません。
お釈迦様が舎利子という弟子に説明するような感じで話が展開し、最後は「だからみんなで手をつないで、天国へ行こう!」みたいな真言(マントラ)で終わります。
しかも万物は空(くう)だから、増えもしないし減りもしないとか、あれも無い、これも無いというだけでは、わけがわかりませんでした。
いや別にひろさちや氏の解説が悪いと言っているのではありませんよ。
おそらく多くの人が、それぞれに「こんな意味じゃないの?」と思いながら読み、解説していたのだと思います。
それから25年ほど経って、私にはスーッと般若心経の意味が心の中に入ってきたのです。
「なるほど、そういう意味だったのか!」
そんな感じです。嬉しくて、嬉しくて、仕方なかったですね。
まるで難しい数学の問題がきれいに解けたときのような感激でした。
そのキーワードは、有名な「色即是空、空即是色」(しきそくぜくう、くうそくぜしき)という言葉にあります。
色(しき)というのは万物のこと。この世のありとあらゆるものを指します。
つまり「万物は即ちこれ空(くう)であり、空は即ちこれ万物である」と言うことですから、「万物=空(くう)」となります。
そしてこう続きます。
空(くう)であるがために、生じることもなく、滅することもなく、汚れることもなく、清らかになることもなく、増えることもなく、減ることもない。
色も無く、受想行識(じゅそうぎょうしき)も無く、眼耳鼻舌身意(げんにびぜつしんい)も無く、色声香味触法(しきしょうこうみそくほう)も無く、限界も無く、意識界も無い。
無明も無く、無明が尽きることも無い。老も死も無く、老死の尽きることも無い。苦集滅道も無く、智も無く、得も無い。
もうなんだかわからなくなりますよね。
でも、こう考えてみてください。
要は、この世で「ある」と思っているものは、すべて「ない」のだと。
赤ちゃんが生まれる(生命が生じる)と私たちは思っていますが、そんなことないんだよと言っているのです。
老いて死ぬ(生命が滅する)と私たちは思っていますが、そんなことはないんだよと言っているのです。
レイプされて汚れることも、純潔を保って清らかになることも、財産が増えることも、存在価値が減ることも、すべてないんだよと言っているのです。
もし、私たちの本当の姿が「ひとつのもの」だとして、それしか存在していないのだとしたら、まさにそうではありませんか?
無から有が生じることはありません。
そして存在するすべてが「ひとつのもの」であるなら、あとはその中で姿形が変わるだけのことです。
エネルギー保存の法則を覚えてますか?それと同じですよ。
このように、万物=空(くう)であるがために、あると思っていることが実はないということが、般若心経の意味の核心なのです。
これはいったい何を表しているのでしょうか?
私はこれを、「この世は幻想だ」という言葉で表現できると思いました。
この世は幻想です。夢です。想像の世界です。
だから、夢の中で「ある」と思っても、現実には「ない」のです。
私たちは夢の中(この世)にいるから、こちらこそが現実だと思っています。
でも本当はこちらが幻想であって、現実は別にあるのです。その現実が空(くう)、すなわち「ひとつのもの」だというわけなのです。
だからこのことがわかれば、もう苦しむことも何もなくなるというわけです。
だって、何が起ころうともそれは幻想なのですから。
苦しむ必要性がないのです。
「じゃあ、それを証明してみろよ。」
そう言いたくなるかもしれませんね。
でも残念ながら、証明はできないのです。
だって証明できちゃったら、幻想の世界で遊べなくなるじゃありませんか。
あまりに現実的で、幻想であると思えないからこそ、幻想の中で遊べるのですよ。
神様だってバカじゃありませんから、我々ごときが証明できるようなヘマはしませんって。
ただ、想像してみることはできます。
なぜこの世がこうなっているのかということを、論理的に考えてみるのです。
もしこの世が意図して創られたのなら、必ず何らかの秩序があるはずです。
そしてその秩序は、その目的に即していなければなりません。
つまり、この世がこうであることを論理的に説明できるモデル こそが、この世の真実を示していると言えるのです。
「もし意図的に創られてなかったどうなるの?」
良い質問ですねえ。
では逆にお尋ねしましょう。もし、意図的に創られたと考えて生きた時、本当は意図的に創られていなかったとしたら、何か問題はありますか?また、その逆はどうですか?
わかりますよね。たとえば「あの世はない」と思って生きて、死んだ時にあの世があった場合と、その逆ではどっちが良いか(=得か)という問題です。
あの世があると思って死んで、あの世がなかったら、それだけのことじゃありませんか。
もしその逆だと、後悔するでしょうねえ。「あちゃー、しまった。こんなんだったら、もっと別の生き方をしておけばよかった。閻魔様、許してー!」みたいな。(笑)
証明ができないことを証明できる理論はあるのですから、あとはそれを信じてみるかどうかだけだと思うのです。
信じて生きるのと、信じないで生きるのと、どっちが得かということを考えてみれば、自ずと結論は出ると思いますよ。
2012年06月08日
●コメントを書く前に、こちらのコメント掲載の指針をお読みください。
あの世があるのかないのか
断言することはできませんが
この世の有様を客観的にとらえることができて
良かったと思います(^-^)/
>ハルキ☆ノアさん
コメント、ありがとうございます。
少しでも何らかの役に立てたと思うと、私も記事を書いた甲斐があるというもの。
伝えてくださって、本当にありがとうございました。
初めてお邪魔させて戴きます♪小山ひな子と申します♪この度は私の拙いブログの愛読者登録となうフォローを頂戴し御縁を繋げて戴きまして本当に嬉しく感謝申し上げます★頂戴致しました良い縁起から素晴らしい御縁を育んで行けます様に心よりお祈り申し上げております♪どうぞよろしくお願い致します。
>小山ひな子ひよこひめゆりさん
コメント、ありがとうございました。
今後もどうぞよろしくお願いします。
こんばんは。僕も一時期般若心経や空海を勉強してました。最初に入った会社の入社試験で、「色即是空とはなにか?」という問題がでたんですが、そのときはうまく答えられなかったんですよね。
色即是空、空即是色。
深いですよね。
そうでしたね。仏教系の大学に行かれたのでしたね。
般若心経は、大般若経のエッセンスを凝縮したもので、玄奘三蔵や鳩摩羅什が訳したとされてますが、いずれも仏滅後、約1000年が経過してからということになりますね。
それからすでに1500年が過ぎたことになります。
こんな大昔から、悩むことも苦しむことも必要ないのだと言われてきたのですね。