前回の記事で、私たちを悪の道(=自分らしくない考えや行い)に引きずり込んでしまうのは、不安という名の悪魔の仕業だと言いました。
ではこの悪魔は、どうやって生まれたのでしょうか?
聖書にもサタン(悪魔)が登場しますが、三大天使長であったミカエル、ガブリエル、ルーシェル(ルシファーとも言う)の中の、ルーシェルが堕落してサタンになったとされています。
この話は、実に面白いと思います。
もし、神とは別の存在としてサタンがあるとしたら、これはいわゆる二元論ですが、神の定義がおかしくなります。
神は「すべて」であるとされていますから。
ですからサタンとは言え、神が創りだしたものでなくてはならないのです。
堕天使ルーシェルは、金星が象徴です。ルシファーとは明けの明星のこととされていますから。
天文学的に言うと、惑星の中で金星だけが自転が逆向きなんですよね。
これなども、金星が反逆の象徴として、面白いです。聖書が書かれた頃、それが知られていたとは思えないのですけどね。
さて、聖書の話は置いておいて、不安の話に戻りましょう。
実は不安は、愛から生まれます。
神から生まれたサタンと重ね合わせて考えてみると、なかなか面白いでしょ?
もっと言うと、この世には愛しか存在しません。
その理由はまた改めて説明しますが、もしそうだとすると変だと思われるのでしょうね。
愛しか存在しないのに対極とも言える不安が生じるのですから、その仕組みがわかりません。
それを説明しましょう。
愛しか存在しないのに対極の不安が生じるのは、愛の度合いが薄まることが不安として感じられるからです。
たとえば、カイン・コンプレックス で説明したカインとアベルの物語です。
神はカインを愛していたけれど、何らかの事情があってカインの捧げ物を受け取らず、アベルの捧げ物だけを受け取った。
神の愛が減少したと感じたカインは、アベルを誘い出して殺したという話です。
カインは、神の愛が減ったと感じた。つまり、神から愛されないという不安を感じたのです。
神から愛されないという不安は、自己の存在感を脅かすものでした。
だからアベルを殺してでも、神の愛を取り戻す必要性があったのです。
しかし、愛が減少するということはあり得ません。
なぜなら、すべてが愛だから。
神とはすべてであり、また愛なのです。
しかし、愛が減ったと感じることはできます。
「私が考えるこの世の仕組み」 で書いたように、この世は相対的な体験のために創られたので、忘却によって素晴らしさを忘れ、素晴らしくないことも選択できます。
と言うことは、すべてが愛であることを忘れ、愛がなくなることがあると考える自由があるのです。
この説明でどうでしょうか?この説明だと、愛と不安の説明が、神とサタン(悪魔)の説明と一致していて、面白いでしょ?
「神=愛=すべて」でありながらも、そこに「サタン(悪魔)=不安」が生まれる余地がある。
不安とは、愛がないと感じることです。
ではなぜこの世は、本当はすべてが愛なのに、愛がないと感じられるようになっているのでしょうか?
そのために殺人事件まで起きていると言うのに。
それについては、すでに説明した通りです。
素晴らしさを体験的に知るためには、素晴らしくないものが存在しなければならないのです。
友のために命を投げ出すことが素晴らしい愛だとするなら、友のために命を投げ出せない人々が必要なのです。
命を投げ出すことに不安を感じて投げ出せない多数の人がいるからこそ、命を投げ出す行為が燦然(さんぜん)と輝くのではありませんか。
不安は、この世を創った目的のために必要なものです。
でも、不安に支配される必要性はありません。
不安に支配される時、人は何かに依存し、執着するようになるのです。
考えても見てください。
私たちの本質が「ひとつのもの」だとして、その存在が永遠で、他に何もないのだとすれば、どうして他に必要なものがあるでしょうか?
私たちには、必要なものは何もないのです。すべてがそろっているのです。ただそれを、見ないでおくことができるだけなのです。
愛はあるのです。消えることはないのです。ただそれを、ないと考えることができるだけなのです。
「必要性はないのだ」ということを、考えてみましょう。
本当は「考える」ではなく、「思い出す」というのが正しいのでしょうけど、私たちにとっては「考える」方が理解しやすいでしょうね。
もし私たちが「ひとつのもの」だとしたら...。そう考えてみれば、必要性が存在しないことがわかるのです。
まずは理屈で理解する。そうすると徐々に、それを体験できるようになります。
世の中は、そんな風にできているのですから。
2012年06月07日
この記事へのコメント
コメントを書く
●コメントを書く前に、こちらのコメント掲載の指針をお読みください。