人は死んだらどうなるのだろう?地獄とか天国とかへ行くのだろうか?
死んで、もしあの世というものがないとしたら、いったいどうなるのだろう?
そんなことを考えていました。
夜、布団に入ると、気がつくと朝になっていたということがよくありました。
子どもの頃は、夜中に目覚めることはほとんどなかったし、眠りも深かったから、あまり夢を見ない(覚えていない)ことが多かったのです。
まあオネショ(寝小便)をしたときは別ですけどね。私は小学校6年生まで、よくオネショをしていました。
最近はその逆で、何度も目が覚めるし、よく夢を見ます。ただ覚えていないのは同じで、記憶力が悪いからでしょうかね。
話がそれました。戻しましょう。
それで私は、死とは夢を見ない夜が永遠に続くこと、と考えてみたのです。
まあ、そう考えられなくもないではありませんか。
永遠に目覚めない夜。なんだかロマンチックな響きもありますが、それを死と考えてみました。
すると、なんだか無性に怖いし悲しいのです。
その死を想像しながら、布団にもぐって泣いたこともありました。
中学生になったころ、母から勧められた本がありました。
「生命の實相」とタイトルにあったと記憶しています。
別に母は生長の家の信者でもありませんし、そんなことも知らず、誰かから良い本だと勧められたので、私にも読ませたのだと思います。
生長の家とは、1930年に谷口雅春氏によって設立された宗教団体だと、ネットで探すと書いてありますね。
神道、仏教、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教などの教えに、心理学や哲学なども融合した教義なのだと。
それはさておき、その本を読んで、私は驚きました。
病気になるのは、その人が病気になると信じているからだと言うのです。
だから健康になることを信じていれば、健康になるのだと。
つまり、信じたことが現実になるという話が書かれていたのです。
私がまだ、潜在意識のことを知るはるか以前の出来事です。
そのとき私は、初めて「引き寄せの法則」を知ったのです。
ただそのとき私は、他のことを考えました。
今にして思うと、私は応用の天才じゃないかと自画自賛したいくらいです。
私が考えたのは、「もし死なないと信じたら、人は死なないのではないか。」ということです。
無邪気とも言えるし、ある意味で問題の核心を突いているでしょ。
私は、その本の考え方に心酔しました。だってそれによって、怖かった死を逃れることができるのですから。
ただ、「信じたことが現実になる」という考え方を初めて受け入れたのは、実はもっと以前のことです。
小学生の2〜4年生の頃、こんなエピソードがありました。
そのころ、神様を信じていました。
親や祖父母から、いつも言われたのです。
「あんたが隠れて悪いことをやっても、天から神様が見ていて、ちゃーんと知っとるんだけえ。」
そんなすごい神様なら、私が何を考え、何を言おうとしているのかも、きっと知っているに違いないと思いました。
そして、もしそうなら、ひょっとしたら私が考えていることも、実は神様が考えさせているのだとも思いました。
だとすれば、こうして「神様が考えさせているのだ」と考えることも、神様が考えさせている...。
なんだか哲学っぽいですね。子どもっぽくない子どもでした。
それから私は、もし神様を本当に信じることができるなら、空を飛べるのではないかと思いました。
人間が空を飛べないのは、神様のことを本当に信じ切ることができないからだと。
座布団を積み上げ、そこからジャンプして空を飛ぶ練習をしましたよ。
「あー、まだ信じきれてない。」
床に落ちる恐怖心を感じるたびに、私は自分の信仰の薄さを嘆いたのです。
このように、その本を読む前から私は、「信じることが現実になる」ということを知っていたのかもしれません。
だから、そんな無謀なことをしようとしたし、死なないかもしれないということを思いついたのだと。
今にして思えば、おちゃめな私自身がかわいらしいです。
けっこう笑えるじゃありませんか。
しかし当時は、本当に真剣でした。
そういう私だったからこそ、今、それまでの疑問が解けるまでになったと思います。
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>直村 雅也さん
コメントありがとうございます。
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