最初は、夜9時には寝ないと次の日がもたない感じでしたが、慣れると11時でも平気になりました。
日本育英会の奨学金ももらえたため、金銭的にも余裕ができました。
それで休みの前日などは、友達と飲みに行くこともありました。
そうは言っても、月に数回ですけどね。
あるとき、歌舞伎町にあるフィリピン人がいるというパブに行くことになりました。
店の名前はテンツーファイブ。今はもうありませんが、今でも名前を覚えています。
普通のカウンター形式のパブですが、接客してくれる女性がフィリピーナでした。
彼女たちがカタコトで話す日本語は、なぜだか可愛らしく感じます。
顔は日本人など東洋人と違い、エキゾチックな感じがします。
「あなたー、こんど いつくるのー?あいたいなー。」
そんなことを言われて、鼻の下を伸ばしたのです。
何回か通った頃、彼女たちが月末に帰ることを聞かされました。
おそらくビザの関係で、帰国してまた日本に戻ってくるのでしょうけど、その頃の私は、そんな仕組みも知らなかったのです。
帰国する前の日が最後だと言うので、私はまた、のこのこと出かけました。
いつもはお揃いの制服姿の彼女たちが、この日はそれぞれバラバラです。
そのブラウスなどが、どう見ても安っぽいのです。
この日は最後だから、私服なのだと説明してくれました。
おしゃれをしたい盛りの若い女の子たちなのに、自分が着る服をけちって、両親へ仕送りしたりしている。
出稼ぎに来たのですから、仕送りをするのは当然かもしれませんが、ここまでするのかと涙がこぼれそうになったのです。
性格が可愛らしくて、純朴な少女のようなフィリピーナに、私は魅了されたのでした。
それからしばらくして、彼女たちを助けるために、私にも何かできないかと考えるようになりました。
それで探して見つけたのが、フォスタープランと当時は呼んでいた慈善団体です。
月に5千円でフィリピン人の子の精神的な里親になるというもの。要するに貧しい暮らしをしている子どもの支援です。
月に5千円というお金は、当時の私にしては相当の額でした。
でも、月に1回、飲みに行くのを我慢すれば、出せない金額でもありません。
私は自分が楽しむことを犠牲にしても、支援したいと思いました。
歌舞伎町で出会ったフィリピーナたちを見て、「何かしなければ」と思った気持ちを、現実に示したかったのです。
それから支援する団体を変えたり、タイに来てはタイの子どもたちを支援したりと、子どもたちの支援活動を続けてきました。
考えてみればもう30年になります。
あのフィリピーナたちとの出会いがあったから、今の私の姿がある。
そう思うと、今どこで何をしているかもわからないあの娘たちに、ありがとうと言いたくなるのです。
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