2012年06月04日

私が考えるこの世の仕組み

このことをどう書こうか、ずっと迷っていました。

この世がどうなっているのかということ。

これを話さないと、私が言おうとしていることが理解できないと思うからです。


でも、この結論に至るまでの過程を説明しないと、私の言うことを突拍子もない話だとして、誰も耳を貸さないかもしれない。

それでは意味がないので、どう説明しようかと悩んだのです。

「私の生い立ち」として、私の恥ずかしい過去を晒したのも、そのことが目的です。

私がどんな人間で、どんなことを悩み、どう考えて、どんな結論に至ったか。

それを詳らかにしようと思ったのです。


でもそれでは、あまりに時間がかかり過ぎてしまいます。

しかし、どうにも良いアイデアが浮かびません。


ただ救いはあります。それは、私以外にも多くの人が、同じようなことを言っているからです。

それで思い切って、結論を先に書くことにしました。

何の説明もなしに読んでも、理解どころか受け容れることさえ難しいこともあるでしょう。

でもこれが、今の私が得た結論なのです。



私たちの真実の姿は、「ひとつのもの」です。

それを神と呼ぼうと、エネルギーと呼ぼうと、生命と呼ぼうと、空(くう)と呼ぼうと、みんな同じことです。

ともかく私たちの本当の姿は、「ひとつのもの」なのです。


「ひとつのもの」は、それだけで存在していますから、完全なものです。

そこにはすべてが揃っていて、足りないものはありません。

存在するために必要なものは、他には何もないのです。


ただ「ひとつのもの」には悩みがありました。

それは、自分が完全で素晴らしい存在だということは知っていても、それを感じることができないのです。

たとえば、太陽の下の明るいライトを考えてみてください。

どんなにライトが明るかろうとも、周りが同じように明るければ、その明るさがどれほどのものかわかりません。

明るさを素晴らしいと感じるためには、明るくないものが必要なのです。


そこで「ひとつのもの」は、この世を作ることにしました。

それは、自分自身を体験的に知ることができる完璧な世界です。


体験的にものを知るためには、自分ではないものが必要です。

すなわちそれは、比較すべき対象です。

そのために自分を無数のパーツに分割したのです。


それは、時間と空間という軸を作ることでした。


時間と空間によって、「自分」とは別のものの存在が生まれます。

ここで言う「自分」とは、自分を認識している「自分」のこと。つまり今の自分です。

今の自分は、それ以外のものと比較をすることで、体験的に今の自分を認識できるのです。


ただここでまた問題がありました。

たとえば先程の例で、たくさんの明るいライトができたとしても、ダメだということです。

明るくない存在が必要です。

しかし分割されたパーツは、そもそも素晴らしい「ひとつのもの」です。


そこでもう1つの工夫を加えました。

それが忘却と呼ばれるものです。

自分自身の素晴らしさを忘れるのです。

それによって分割された「ひとつのもの」のパーツは、素晴らしくない自分になることができました。


そしてもう1つ、大事な要素があります。

それは自由です。

分割されたパーツは、それぞれの自由意志によって、自分が何であるかを定義できることになりました。


これで完璧です。

分割されたパーツ同士は互いに協力し合い、自分が何であるかを定義しては、それを体験的に知ることができるようになったのです。


選択は自由ですから、素晴らしくない自分を選択してもかまいません。

ただ、忘却したとは言え、分割されたパーツは本当の自分を知っています。

より本当の自分に近い自分を体験的に知った時、そのパーツは喜びを感じます。

一方で、より本当の自分から遠い自分を体験的に知った場合は、そのパーツは気持ち悪さを感じるのです。


そのパーツがこの世界に来た目的は、自分の素晴らしさを体験的に知って喜ぶことです。

つまり喜びたいという気持ちにしたがっていれば、自動的に本来の自分を体験できる仕組みになっていたのです。


しかしそれぞれのパーツは、自由に考え方を選択する力があります。

理論的に正しい考え方を選択することもできますが、そうしない自由もあるのです。


やってみて上手くいかない(=喜べない)なら、それは選択した考え方が間違っているのですが、そう考えない自由もあります。

相手が悪い、環境が悪いと考えて、いつまでも問題を解決しないでおく自由もあったのです。


何度も何度も同じことを繰り返し、それでも気が付かないでいる自由もあります。

「そのやり方は上手くいかないよ」と誰かがアドバイスしても、それを聞かない自由もあります。


しかし、いつかは必ず本当の自分を見出します。

なぜなら、いつかは同じことを繰り返すことに飽きるからです。

「バカバカしい。もうこのやり方はやめよう。」そう言って、他のやり方を試すでしょう。

そうしているうちに、必ず本当の自分を見つけ出す考え方を選択することになるのです。


だから宗教は、必ず人は救われると言うのです。

法華経では、何億回、何兆回、何京回もの生まれ変わりの後に、必ず仏になれると言うのです。

そもそも、そうなるようにこの世はできているのですから。


だから「救われる」という言葉は間違っています。

それぞれの分割されたパーツは、もともと救われる必要性などないのです。

ただ自分自身の本来の姿を思い出すだけで良いのです。



以上が、私が現時点で考えているこの世の仕組みです。

この世に時空があり、相対的になっている理由は、体験的に自分自身を知るためです。

そして自由があって、素晴らしくない状態でいるのは、本来の素晴らしい自分を知るためです。

そして私たちは今までも、これからも、その目的に向かって進むのです。


生きることは目的ではありません。なぜなら、生きないということは不可能だからです。

幸せになることも目的ではありません。私たちはもともと、幸せな存在なのですから。

素晴らしい人間になることも目的ではありません。私たちはもともと素晴しいのです。

忘却した自分を体験的に知ることで思い出す。その喜び、その感動を味わうために、私たちは生きるのです。

posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 11:43 | Comment(0) | 私の考え | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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