このことをどう書こうか、ずっと迷っていました。
この世がどうなっているのかということ。
これを話さないと、私が言おうとしていることが理解できないと思うからです。
でも、この結論に至るまでの過程を説明しないと、私の言うことを突拍子もない話だとして、誰も耳を貸さないかもしれない。
それでは意味がないので、どう説明しようかと悩んだのです。
「私の生い立ち」として、私の恥ずかしい過去を晒したのも、そのことが目的です。
私がどんな人間で、どんなことを悩み、どう考えて、どんな結論に至ったか。
それを詳らかにしようと思ったのです。
でもそれでは、あまりに時間がかかり過ぎてしまいます。
しかし、どうにも良いアイデアが浮かびません。
ただ救いはあります。それは、私以外にも多くの人が、同じようなことを言っているからです。
それで思い切って、結論を先に書くことにしました。
何の説明もなしに読んでも、理解どころか受け容れることさえ難しいこともあるでしょう。
でもこれが、今の私が得た結論なのです。
私たちの真実の姿は、「ひとつのもの」です。
それを神と呼ぼうと、エネルギーと呼ぼうと、生命と呼ぼうと、空(くう)と呼ぼうと、みんな同じことです。
ともかく私たちの本当の姿は、「ひとつのもの」なのです。
「ひとつのもの」は、それだけで存在していますから、完全なものです。
そこにはすべてが揃っていて、足りないものはありません。
存在するために必要なものは、他には何もないのです。
ただ「ひとつのもの」には悩みがありました。
それは、自分が完全で素晴らしい存在だということは知っていても、それを感じることができないのです。
たとえば、太陽の下の明るいライトを考えてみてください。
どんなにライトが明るかろうとも、周りが同じように明るければ、その明るさがどれほどのものかわかりません。
明るさを素晴らしいと感じるためには、明るくないものが必要なのです。
そこで「ひとつのもの」は、この世を作ることにしました。
それは、自分自身を体験的に知ることができる完璧な世界です。
体験的にものを知るためには、自分ではないものが必要です。
すなわちそれは、比較すべき対象です。
そのために自分を無数のパーツに分割したのです。
それは、時間と空間という軸を作ることでした。
時間と空間によって、「自分」とは別のものの存在が生まれます。
ここで言う「自分」とは、自分を認識している「自分」のこと。つまり今の自分です。
今の自分は、それ以外のものと比較をすることで、体験的に今の自分を認識できるのです。
ただここでまた問題がありました。
たとえば先程の例で、たくさんの明るいライトができたとしても、ダメだということです。
明るくない存在が必要です。
しかし分割されたパーツは、そもそも素晴らしい「ひとつのもの」です。
そこでもう1つの工夫を加えました。
それが忘却と呼ばれるものです。
自分自身の素晴らしさを忘れるのです。
それによって分割された「ひとつのもの」のパーツは、素晴らしくない自分になることができました。
そしてもう1つ、大事な要素があります。
それは自由です。
分割されたパーツは、それぞれの自由意志によって、自分が何であるかを定義できることになりました。
これで完璧です。
分割されたパーツ同士は互いに協力し合い、自分が何であるかを定義しては、それを体験的に知ることができるようになったのです。
選択は自由ですから、素晴らしくない自分を選択してもかまいません。
ただ、忘却したとは言え、分割されたパーツは本当の自分を知っています。
より本当の自分に近い自分を体験的に知った時、そのパーツは喜びを感じます。
一方で、より本当の自分から遠い自分を体験的に知った場合は、そのパーツは気持ち悪さを感じるのです。
そのパーツがこの世界に来た目的は、自分の素晴らしさを体験的に知って喜ぶことです。
つまり喜びたいという気持ちにしたがっていれば、自動的に本来の自分を体験できる仕組みになっていたのです。
しかしそれぞれのパーツは、自由に考え方を選択する力があります。
理論的に正しい考え方を選択することもできますが、そうしない自由もあるのです。
やってみて上手くいかない(=喜べない)なら、それは選択した考え方が間違っているのですが、そう考えない自由もあります。
相手が悪い、環境が悪いと考えて、いつまでも問題を解決しないでおく自由もあったのです。
何度も何度も同じことを繰り返し、それでも気が付かないでいる自由もあります。
「そのやり方は上手くいかないよ」と誰かがアドバイスしても、それを聞かない自由もあります。
しかし、いつかは必ず本当の自分を見出します。
なぜなら、いつかは同じことを繰り返すことに飽きるからです。
「バカバカしい。もうこのやり方はやめよう。」そう言って、他のやり方を試すでしょう。
そうしているうちに、必ず本当の自分を見つけ出す考え方を選択することになるのです。
だから宗教は、必ず人は救われると言うのです。
法華経では、何億回、何兆回、何京回もの生まれ変わりの後に、必ず仏になれると言うのです。
そもそも、そうなるようにこの世はできているのですから。
だから「救われる」という言葉は間違っています。
それぞれの分割されたパーツは、もともと救われる必要性などないのです。
ただ自分自身の本来の姿を思い出すだけで良いのです。
以上が、私が現時点で考えているこの世の仕組みです。
この世に時空があり、相対的になっている理由は、体験的に自分自身を知るためです。
そして自由があって、素晴らしくない状態でいるのは、本来の素晴らしい自分を知るためです。
そして私たちは今までも、これからも、その目的に向かって進むのです。
生きることは目的ではありません。なぜなら、生きないということは不可能だからです。
幸せになることも目的ではありません。私たちはもともと、幸せな存在なのですから。
素晴らしい人間になることも目的ではありません。私たちはもともと素晴しいのです。
忘却した自分を体験的に知ることで思い出す。その喜び、その感動を味わうために、私たちは生きるのです。
2012年06月04日
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