地下鉄サリン事件を起こしたのがオウム真理教だとわかったとき、宗教、特に新興宗教に対する世間の風当たりが強くなりました。
昔は「宗教はアヘンだ」と言われ、洗脳されておかしくなり、まっとうな判断ができなくなってしまうと思われたのです。
オウム真理教の事件によって、「やっぱりそうじゃないか」という気持ちを、多くの方が持たれたことでしょう。
洗脳という言葉も流行りました。
困ったのは、キリスト教や仏教をはじめとした既成の宗教団体です。
こぞって「うちの宗教はオウムのようなことにはならない」と、声明を発表しましたね。
あれを見て私は、「嘘つきだなあ」と思ったのです。
なぜなら、既成の宗教であっても同じことは起こり得ると、私にはわかっていたからです。
それは、次のような理由によるものです。
1.あの世があり、この世の生命よりも大事なものがあるとしているから。
2.宗教的な指導者の意見が、その宗教の考えになるから。
別に洗脳など必要ないのです。
洗脳と言ってレッテルを貼り、問題の本質を見ないことの方が危険だと思います。
歴史を見ればわかるように、キリスト教は十字軍で大量虐殺を行なっています。
まああれを虐殺と呼ぶかどうかは、それぞれ意見があるでしょうけど。
仏教だって、宗派間の争いで何人も死んでいるではありませんか。
イスラム教においては、もう言うまでもないでしょう。
このような事実は、必然的に起こったと私は思っています。
この世の生命より大事なものがあり、宗教的な指導者が「これを神が望んだ」と言えば、末端の信者は信じる他ないでしょう。
それを信じずに我道を行くことは、至難の業と言えます。脱落者の烙印を押されることになりますから。
だから、既存の宗教であっても、同じようなことは起こり得るのです。
もし、本当にそういうことを起こさない宗教があるとしたら、それはどんな宗教でしょうか?
まず、この世の生命よりも大事なものはないとすると、宗教として成り立ちません。
死んだら無になるなら、何もあえて苦労しなくても、盗んでも奪っても、面白おかしく生きれば良いのですから。
問題は2番目です。
そもそもプロテスタントは、カトリックが神の御心は宗教的指導者(神父)によって伝えられるということに反発し、信者それぞれが直接、神とつながれるとして生まれたものでした。
ですから、聖書をどう解釈するかなど、本来は信者それぞれに任せるべきだと思うのです。
そのように、指導者が教えるのではなく、信者それぞれが考えて正しいと思うことこそが神の御心に叶うとするなら、集団で殺人計画など起こり得ません。
それぞれの信者の自由を奪い、誰かの意見に従わせようとすることが問題だと思うのです。
もう一つは、「神の御心がある」ということを否定しなければ、必ず問題が起こります。
単独で銃を乱射する事件などのように、神に命じられたと思うことも可能だからです。
神に意思があり、この世を思い通りにしたいと願っていると言う宗教は、すべて問題を起こす可能性があるのです。
間違えないでいただきたいのは、だから問題を起こすということではありません。
その可能性があるということだけです。
宗教を信じるかどうかは、人それぞれだと思います。
私は、どれが良いとか、どれが悪いなどとは言いません。
ただ言えるのは、オウムが問題だとする根拠は、そのまま既存の宗教にも当てはまるということです。
それを良いか悪いかというのは、また別の次元の問題だと思います。
2012年06月01日
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