それで私は、家から逃げ出したのです。
同じような話題の連続ですみませんが、そのことを書くことにします。
広島から島根の実家に戻ったときのことです。
原理研究会の仲間からは帰らない方が良いと言われたのですが、私は親を説得するつもりで帰省しました。
親は、キリスト教の牧師さん(プロテスタントですから)のところへ、私を連れて行きました。
統一教会はキリスト教の異端とされていましたから、正統派の牧師の意見を聞けということです。
そうすれば私の目が覚めるだろうと、親は期待したのでしょう。
2ヶ所に行って話をしたのですが、母親はがっかりしたようです。
あまりに人格的でない牧師さんだったり、議論にならない議論を繰り返す牧師さんだったからです。
それでも親は、私が騙されているのではないか、洗脳されているのではないかという疑いを、捨てきれなかったようです。
母親は私を信じたいという気持ちを強く持っていましたが、やはり世間の噂には勝てなかったのでしょう。
1週間ほど滞在し、私は広島に戻ることを告げたのですが、親は私を帰さないと言います。
広島に帰ったら、私が二度と戻って来ないような不安があったからでしょう。
私は、広島から私を迎えに来た会の人と、連絡を取り合っていました。
近所への外出は許されていたので、そのときに会って話をしたのです。
そしてその人から、強行突破するしかないと告げられ、私も承諾しました。
時間と場所を決め、私は荷物を持ってそっと家を抜け出すつもりでいました。
父親は仕事に出かけたので、母と姉を何とかすれば、脱出は可能だと思いました。
私はまず荷物をバッグにまとめて、玄関近くに置いておきました。
しかしそれが母親に見つかってしまい、警戒されてしまったのです。
「あんた、帰ろうと思うとるんかね?ダメよ。帰らせんよ。お父さんとまず話しんさい。」
そう言う母親に対して、私はウソをつきました。
「帰らんよ。荷物を持って来ただけだけえ。」
待ち合わせの時間が、刻々と近づいてきます。もうそろそろ出ないと遅れてしまう。
はやる気持ちを抑えながら、「トイレ」と言って、私はこたつから出ました。
玄関の前を通ってトイレへ行き、用を足して出ると、そのままバッグを取って玄関に降りたのです。
しかし、すぐに母親がやってきてわめきました。
母親は私のバッグを握っているので、私は必死で振りほどこうとします。
手を叩く真似をしましたが、母親はその手を離しません。
何をされても絶対に手を離さないという形相で、泣きながらわめいています。
母は、姉に助けを求めました。
姉が加勢に来ては脱出が難しくなる。私は本気で母親の手を叩こうかと思いました。でも、叩けませんでした。
すぐに姉が飛んできて、私の背後に回って玄関のドアに鍵を掛けました。
こうなっては、脱出するのはもう無理です。
そのとき私はひらめきました。
「そうだ、裏口がある。このまま駆け上がって裏口に走ればいい。もし運良く鍵がかかっていなければ、2人に追いつかれずに脱出できる。」
私は手を緩め、母と姉に言いました。
「わかった。もう行かんから。手を離してよ。」
2人を安心させ、油断させる作戦です。
バッグをしっかり握っていた母が、その手を緩めた瞬間です。私は意を決して玄関から廊下へ、土足で駆け上がりました。
驚く2人をしり目に、廊下の先の裏口へ一目散に駆けます。
裏口のドアは、幸いなことに鍵が掛かっていませんでした。
裏口を開けると、私は表に飛び出したのです。
背後で姉が叫ぶ声が聞こえます。私は後を振り向かず、待ち合わせ場所に向かって走りました。
心臓が飛び出しそうなくらい、懸命に駆けました。
そして待ち合わせ場所よりもはるか手前で、迎えに来た会の人の車に乗ったのです。
私が時間になっても来ないので、心配して迎えに来ていたのでした。
車に乗っても私は、連絡を受けた父が車で追いかけてくるのではと心配しました。
助手席で頭が低くなるように深々と座り、外から見つからないようにしたのです。
そして、誰はばかることなく泣きじゃくりました。
「これでいいんですか!?本当にこれでいいんですか!?」
親を裏切っての家出。
それまでの親に逆らうことのない良い子が、まるで別人になったかのような行状。
しばらく私は、車の中で泣き続けたのです。
そうまでしなければいけなかったのか?
そういう疑問を持たれると思います。
しかし、世界人類を救うという偉業をなすためには、親も犠牲にしなければならないと思っていました。
いつかはわかってくれる。そしてそのときはきっと、「あのときはよくやった」と認めてくれる。そう信じるしかなかったのです。
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