先日の記事「今を楽しむことに専念する」に、広瀬つみきさんからコメントをいただきました。
謙虚であることと、適度に自信を持つことの、バランスが難しいとのこと。
それに対して私は、バランスではないというコメントを返しました。
その真意について、説明することにしましょう。
私も以前はそうでした。謙虚さと自信は、相反するものと思っていたのです。
たとえば、「自分は頭が良い」と自信を持っている時、それをストレートに言うと自慢になります。
謙虚な人は、そう思っていたとしても言葉では、「私などたいして頭が良くはありませんよ」と言うものだと思ったのです。
自慢するのは鼻持ちなりませんが、謙虚すぎるのも厄介です。
「いやいや、私などが前の方に座っては(いけません)。他にふさわしい方おられますから。」
そう言って、いくら勧められても前に座るのを固辞する人がいますよね。
あれなども主催者からすると厄介でしょうがないと思います。
「そんなに遠慮することないじゃないの。誰が前で誰が後でも、大した差はないんだから。」
こういったことから、バランスが大事だという発想になるのです。
つまり落とし所を探るという感じですね。
そしてこれが、KY(=空気を読む)という考え方にもつながっていきます。
どのくらい主張して、どのくらい遠慮すれば良いか、そのバランスを見極めることが重要だということです。
でも、バランスというのは、非常に難しいものです。
ただ突き進むだけを考えるなら簡単ですが、進み過ぎてもいけないとなると、「じゃあどのくらいが丁度いいの?」という疑問が出てきます。
こういう考え方は、常識に従うという考え方になり、結局は他人の価値観の中で生きることになってしまいます。
だから幸せになれないのです。
何かができるからという理由があることで、自信が持てると思っていませんか?
それが間違っているのです。
そういう根拠のある自信は、偽物の自信です。
たとえば、テストの結果がクラスで1番だったとしましょう。40人のクラスで1番だから頭がいい。そう思って、自信を持ちました。
ところが、全クラスで見ると、200人中の100番でした。「あれっ?普通じゃあないか。」そう思って、自信を失いました。
これが根拠のある自信の正体です。
相対的に比較することによって生まれる自信は、結局その根拠を他人に求めているのです。
つまり他人とか環境に左右されます。
自分で決めているようで、実は他者に決めてもらっているのですよ。
だから、本物の自信を持たなくてはいけません。
本物の自信とは、根拠のない自信です。
それは、「自分は素晴らしい存在なのだ」という事実に対する、絶対的な認識から生まれます。
ミスをするかもしれない。愚かなことをするかもしれない。でも自分は、絶対的に素晴らしい存在なのだ。
そう信じ切ることが、根拠のない自信を持つことなのです。
一方の謙虚さも、実は同様なのです。
相対的に比較することによって生まれる謙虚さは、本物ではありません。
本物の謙虚さとは、他人も同様に素晴らしい存在なのだと認めることから生まれます。
他人のことを絶対的に素晴らしい人だと認識していたら、どうして粗末に扱えるでしょうか?
どうして劣っているとバカにすることができるでしょうか?
たしかに行った行為は、愚かだったかもしれない。考え方は、幼かったかもしれない。でも、絶対的に素晴らしい存在なのです。
あなたは赤ちゃんのことを、歩くこともできない愚図なヤツだとバカにしますか?しないでしょう?
それは、赤ちゃんがいずれ、歩くことができる大人になる存在だと知っているからです。
それならもう、答はわかりますよね?
自分は、いつかその素晴らしさを完璧に表現する存在になる資質を持った存在だと、知ることですよ。
他人は、いつかその素晴らしさを完璧に表現する存在になる資質を持った存在だと、知れば良いのですよ。
実際、私たちはそうした存在なのです。
それを知ることによって私たちは、幸せになることができます。
そしてその幸せな状態を道具として、自分らしい素晴らしさを完璧に表現することを目指すのです。
2012年05月31日
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