その中でも、23歳のときの失恋が、もっとも辛かったですね。
新聞奨学生として2つ目の大学に通っていたころです。
恋愛に奥手な私でしたが、やはり彼女が欲しかったのです。
それで、たしかアルバイト情報誌の掲示板に交際希望の案内を載せてもらって、何人かの女性と電話で話をしました。
その中の数人と会うことができ、私にも女友達というものができたのです。
その中に、目がキラキラしたかわいい女の子がいました。
私はすぐに好きになり、デートをするようになりました。
それが6月くらいだったでしょうか。
何度目かのデートで初キッス。順調に交際を深めて行きました。
私のような奥手な人間に、こんなに順調な恋があって良いものだろうか。
夢の中のような、天にも登る気持ちでいたのです。
そのころ私は、神奈川県の川崎市に住んでいました。でも彼女は千葉県の船橋市。オートバイで首都高を飛ばしても40分はかかりました。
それでも私は、時間を見つけては会いに行ったのです。
あるときなどは、彼女と離れたくなくて、深夜まで彼女の部屋にいました。
もう帰らないと新聞配達に間に合わない。そんなギリギリまで一緒に時間を過ごし、後ろ髪を引かれる思いで彼女の部屋を後にしました。
それからは猛ダッシュで川崎の販売店に戻りましたよ。
首都高では側壁に張り付きそうになるくらいにすっ飛ばし、途中で新聞を配達するトラックを追い越しました。
そんな純情な恋も、変化が起こるものですね。
8月には、2人で泊まりがけのデート。中禅寺湖のホテルへ行き、一緒にテニスなどを楽しみました。
それが恋の絶頂期だったのだと、今になればわかります。
それから2週間もたたないころ、もう雲行きが怪しくなりました。
長くなるので、別れに至る詳細は省きます。ただ言えるのは、頂上から転落するのに、さして時間はかからないということです。
「もう、あなたとは会えない。」
9月のある日、その電話が私に恋の終わりを告げたのです。
彼女には、新しい彼氏ができていたのでした。
あんなにお互いに好きになり、愛し合ったと思っていたのに。
私の何が悪かったのだろう?どうすれば、別れずに済んだのか?ひょっとしたらまだ、よりを戻せるのではないか?
様々な考えが、私の頭をよぎります。
部屋にいると、今にも彼女からの電話のベルが鳴るのではないかと、つい期待してしまいます。
悲しくて、辛くて、息もできないほど苦しい。
気がつくと、私は息を止めていました。
それでも私にとって幸いだったのは、新聞配達の仕事があったことです。
時間になれば販売店へ行き、自転車に乗って配達しに行きます。
少なくとも配達中は、彼女のことを考えずに済みました。その時間が、私を救ってくれたのだと思います。
母親にも電話をして、辛い気持ちを話しました。もちろん友達にも。
親友は、1回は話を聞いてくれましたが、しつこく話す私に怒り出しました。
「それ以上言うな!もし言ったら絶交する!」
そう言われて、とても悲しかったです。
でも今になって思えば、愚痴を言わせないようにしてくれた彼の言葉も、私にとって救いだったのだと思います。
約1年間、心が痛かったです。
もし彼女がよりを戻したいと言ってきたら...。そんなことばかり想像していました。
そして失恋から1年後、私は自分の気持ちにけじめを付けることに決めました。
「もう後は振り返らない。」
彼女との思い出の品を処分しました。ただ1枚の写真を残して。
未練かもしれませんが、思い出は残したかったからです。
それから私は大学を卒業し、就職して埼玉県へ引っ越しました。
1年ほどで今度は東京都の大田区へ引越し。
数年後には転職して横浜市へと、数度の引越しをしたのです。
失恋から10年近くたったある日の夜、アパートの電話が鳴りました。
電話に出ると、しばらく無言。いたずら電話かと思った時、ため息とともに懐かしい声が聞こえてきました。
「わたし。○○です。」
私はまだずっと神奈川県に住んでいるに違いないと思った彼女は、104(NTTの番号案内)で探して見つけたのだそうです。
こんな奇跡もあるのですね。
もし私が埼玉県に住んでいたら、東京都に住んでいたら、彼女は私を見つけられなかったでしょう。
ただ、もう甘い関係に戻ることはありません。
彼女はその後、他の男性と結婚して子どもができたのですが、離婚したのだそうです。
お互いに、10年という長い時間を過ごしてきたのです。
私の心の中で微かに残っていた失恋のしこりは、その時に完全に消えたのかもしれません。
そしてその大失恋のお陰で、私は大きく成長できたと思っています。
どんな辛いことでも、時間は辛さを薄めてくれる。
身体を動かし、頭に他のことを詰め込むことで、つらい時間を過ごさなくて済む。
そういう貴重な知恵を、その失恋から学んだのです。
今でも私は彼女に、心から感謝しています。
「あなたとのあんなに辛い別れがあったから、私は強くなれた。ありがとう。」
彼女の電話から数年後、最後まで残していた彼女の写真を、私は処分したのです。
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