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世界は誰かの正義でできている アフリカで学んだ二元論に囚われない生き方 [ 原 貫太 ] - 楽天ブックス
Youtube動画(原貫太・フリーランス国際協力師)でよく観ている原貫太(はら・かんた)さんの新刊が出ると聞いて、さっそく予約して購入しました。原さんは、アフリカの問題や支援状況などを報じているフリージャーナリストです。
アフリカの問題については、すでにテラ・ルネッサンスの活動を知っていて、そこである程度の知識はありました。なので興味を持って、動画を観ていたのです。テラ・ルネッサンスについては、代表の鬼丸昌也(おにまる・まさや)さんに興味を持って、本を読んだり集会に参加したりしました。その集会で小川慎吾(おがわ・しんご)さんのことも知って、本を買って読みました。「ぼくは13歳職業、兵士。」や「ぼくらのアフリカに戦争がなくならないのはなぜ?」などの本をすでに紹介しています。原さんもアフリカでは、小川さんの活動に随行したりしておられるようです。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
「「正義の反対は、また別の正義かもしれない」
アフリカ・コンゴ東部の紛争地で武装勢力と向き合った時、改めてそう気付かされた。銃を持ち、武装闘争を続ける−−その行動だけを見れば、彼らは「悪」と映るかもしれない。しかし、彼ら自身は、その戦いを自分たちの生まれ育った村や家族を守るための「正義」だと信じていた。彼らと笑顔で握手を交わした瞬間、その手の温もりに、自分の心の中にあった冷たい固定観念が溶け去るのを感じた。」(p.2)
すべての戦争は防衛戦争だと言われます。第二次世界大戦において日本は、日本を守るために致し方なく開戦したのです。
そして「鬼畜米英」と呼んで敵国兵を鬼畜のような極悪人だと決めつけました。しかし実態は、彼らもまた愛する家族を持つ同じ人間だったのです。
「しかし、世界について学べば学ぶほど、その複雑さと多層性に圧倒される。何が正義で、何が悪なのか−−それは視点や状況によって絶えず変化し、普遍的な正しさなど存在しないのではないかと思える瞬間がある。答えを求めても、確固たる結論にはたどり着けない。その曖昧さこそが、世界の本質なのかもしれない。」(p.4-5)
お勧めしている「神との対話」でも言うように、「正しさ」は相対的なものであり、すべての人にその人なりの「正しさ」があるのです。つまり、「絶対的な正しさ」などない、ということが真実だと私は思います。
「「知らなければ、もっと幸せに生きられたかもしれない」
そんな思いが胸をよぎることは、一度や二度ではなかった。
コンゴ東部の現実を知れば知るほど、同じ地球で、同じ時代に生きるはずの人々が、私たちとは全く異なる過酷な現実に直面していることを痛感する。しかし、その現実から目を背けることは、私にはできなかった。むしろ、その闇の中で懸命に生きる人々の姿を、自分自身の目で確かめたいという思いが強まっていった。」(p.22-23)
大学生の頃の原さんは、アフリカの紛争被害者の支援を行うNGOでインターンシップをしていて、そこで実際に見たアフリカの現状に衝撃を受けたのですね。
こういう「知らなければよかった」という感覚は、多くの人にあるんじゃないかと思います。そして、何に対してそう思うか、また知ったことでどういう行動をとろうと思うかは、人それぞれ感性の違いがあると思うのです。私の場合は、学生の頃、新宿のパブで出稼ぎに来ていたフィリピーナと出会って、フィリピン人の子どもの支援をしたいと思って行動したことがありましたね。
「このような現実を知ると、「コンゴの武装勢力の民兵はみな野蛮なんだろう」と感じるかもしれない。だが、そこには単純な善悪では捉えきれない複雑な事情が存在する。
民兵は麻薬を与えられ、正常な判断力を失った状態で行為に及んでいる場合が多い。また、上官からの命令でレイプすることを強要され、命令に背けば自らの命を奪われる可能性もある。さらに、民兵の中には、武装勢力に入る前に自身の村が襲われ、家族を殺され、「民兵になるか、その場で死ぬか」という究極の選択を迫られた者もいる。彼らは加害者でもあり、同時に被害者でもあるのだ。」(p.25-26)
この辺のことは、先に紹介したテラ・ルネッサンスの本にも書かれてありました。
「「電気自動車を運転する時、スマートフォンを使う時、ジュエリーを眺める時、これらの製品が作られる過程で支払われた人的な代償について、少しだけ考えてみてください。私たちは消費者として、少なくともこれらの製品が人間の尊厳を尊重して製造されていることを求めていきましょう。この悲劇に目をつぶることは、それに加担することを意味するのです」
「愛の反対は無関心である」という言葉がある。ムクウェゲ医師の言葉にあるように、「目をつぶることは、それに加担することを意味する」のだろう。私は、無関心であることで、コンゴ東部の人々の苦しみに加担することだけは避けたかった。」(p.29)
ムクウェゲ医師がノーベル平和賞の授賞式で述べた言葉だそうです。フェアトレードというのも、こうした思いから作られた制度です。
たしかに、私たちには何ら効果的なことができないかもしれないけれど、少なくとも関心は寄せたい。私もそういう思いがあって、こういった類の本を読んだり、動画を観たりしているのです。
「ユーチューブというプラットフォームにおいて、コンゴについて発信している他の日本人はほとんどいない。私の動画が最も注目される発信源となっていることに、次第に重い責任を感じるようになった。
物事を深く理解するためには、「鳥の目」と「虫の目」の両方が必要だ。鳥の目とは、広い視野で物事を捉える俯瞰的な視点であり、虫の目とは、目の前の細かな事実を直接見ること。そして、その両方を兼ね備えることが、物事を正しく捉え、真実を伝えるために不可欠だ。」(p.31)
原さんが情報発信する上で、一方的にならないように注意しているそうです。一方的な見方を押し付けるような情報発信、たとえばセンセーショナルに人々の情動に訴えるような情報発信は、真の問題解決につながらないと思われたのですね。
「そんな浮ついた気持ちのまま、すべての活動を終えた最終日、充実感に浸りながらマニラの空港へと向かっていた時のことだ。車窓からふと外を見やると、ボロボロのワンピースを着た7歳くらいの女の子が、赤ん坊を抱えながら「お金をください」と物乞いをしている姿が目に飛び込んできた。
その瞬間、心の中で何かが音を立てて崩れ落ちたような気がした。焦りとも、悲しみとも、怒りともつかない、ただ目の前の現実を受け止めることができない感覚だけが残った。」(p.90)
「SNSでの承認欲求に溺れ、本来あるべき目的を忘れていた自分が情けなく思えた。もっと深く、もっと本質的な課題に目を向けるべきだったのではないかと、強く後悔した。
そしてもう一つは、「なぜ世界はこんなにも不条理なのか」という疑問だった。」(p.90-91)
「同行していた仲間たちは「ああいう現実もある」「仕方がない」と口にしたが、私はどうしてもその現実を「仕方がない」というひと言で片付けることができなかった。何かできることがあるのなら、どんなに小さな一歩でも、その現実に抗いたい。「仕方がない」という言葉で思考を放棄せず、その問題に向き合って生きていきたい。そんな思いが芽生えた瞬間だった。」(p.91)
原さんが大学1年の時、6日間のマニラでのスタディツアーに参加したそうです。動機は、海外ボランティアの経験が就職に有利になると思ったから。炊き出しや見学など、「お試し国際協力」だったと原さんは言います。けれども、その時の衝撃が、原さんを本格的な国際協力に駆り立てることになったのですね。
「マニラの空港に到着し、トイレに駆け込んだ私は、個室の中で一人涙をこぼした。世界の広さと、己の小ささを思い知らされた。その悔しさが涙となって溢れ出た。
その時、私の心の奥底から「誰かに伝えたい」という強い衝動が湧き上がってきた。この経験を、そしてこの感情を、どうにかして言葉にしなければならない。そうしなければ、自分が壊れてしまいそうだった。」(p.93)
「伝えたいのに、伝えられない。この無力感にどう対処すればいいのか。
なぜ人々は、世界の現実に目を向けようとしないのか。若さゆえの苛立ちも会っただろうが、その時に感じた「無力感をどうにかして乗り越えたい」という思いが、今も私の原動力になっているように思う。
世界には、知らなければならない現実がある。知ってしまったからには、伝えなければならない。その思いこそが、私を今日まで突き動かしてきた。」(p.94-95)
原さんは最初から、支援することよりも伝えることに意欲を感じておられたようです。同じことを経験しても、どう感じるのか、どういう衝動が起こるのかは、人それぞれなのでしょうね。
私も、先に書いたようにフィリピン人の子どもの支援をしてきましたが、タイで暮らすようになってから、タイ人の支援もするようになりました。そんな中で、ひょんなことで支援することになったのがチンタナーさんでした。チンたなーさんのことはブログ記事の「運命の出会いについて」でも書きましたが、知ったのなら伝えたくなるんですよね。
「留学中、私は、冬休みの期間を活用し、単身でウガンダへ渡航することを決めた。学生団体での活動やアメリカでの学びを通じて国際協力への関心は高まっていたが、まだ具体的なキャリアやビジョンを描くには至っていなかった。それでも、漠然と「国際協力の分野で生きていきたい」という思いだけは確かにあった。」(p.96)
「アフリカ諸国の中でウガンダを選んだ理由は、「子ども兵」の問題に迫りたいという思いがあったからだ。子ども兵という「労働」は、国際労働機関による「最悪の形態の児童労働条約」によって、売春や債務奴隷などと並び「最悪の形態の児童労働」として定義されている。」(p.96)
国際ボランティアの経験から国際協力の分野で働きたいと思われた原さんは、子ども兵に関心を持ったことからアフリカに関わることになったようです。
「それから9年が経った今も、私はアフリカに足を運び続けている。アイーシャとの出会いが、私をこの大陸に引き寄せ、深く関わらせることになったのは間違いない。彼女が語ってくれた苦難の物語は、私の心に深く刻まれ、私の人生を大きく変えるきっかけとなった。」(p.107-108)
アイーシャというのは、12歳で反政府ゲリラによって誘拐され少女兵にされた女性です。厳しい生活の連続や戦闘に参加を強いられるだけでなく、兵士と結婚させられて子どもを産むことも強制された。そんなアイーシャとの出会が、原さんをアフリカに留めるきっかけとなったようです。
「進路について考える時、頭で理屈をこね回し、自分を納得させるのは簡単だ。しかし、そこで本当に重要なのは、心が本当に納得し、胸が高鳴るかどうかだ。
どんな進路を選んだとしても、絶対的な正解など存在しない。自ら選んだ道を、自らの行動で正解にしていくしかないのだから。ならばこそ、人生を懸けてもいいと、心から納得できる道を選びたい。そんな強い思いが、私の心に静かに湧き上がってきた。」(p.116-117)
こうして原さんは、南スーダン難民を支援するNGOを自ら立ち上げるという道を選ばれました。
「たしかに、現地での支援活動は尊く、今この瞬間に困っている人々を救うことには大きな意味がある。それは疑う余地のない事実だ。しかし、目の前の一人を救うだけでなく、世界中の困難に直面するすべての人々を救いたいと願うならば、私一人の力では到底及ばない。もっと大きな「うねり」を生み出す必要がある。世界の変革は、一人の力ではなく、多くの人々の意識と行動によって成し遂げられるものだからだ。「私」が世界を変える主語であってはならない。
だからこそ、私は決意した。アフリカをはじめとした世界の現状を広く伝え、多くの人々に関心を向けてもらうことで、共に世界を良くする仲間を増やしていこう。この時の決意は、私が現地での支援活動から「伝える」という仕事へと転じていく大きなきっかけとなった。」(p.124)
支援活動をしてきた原さんの中には、やはりそれではもどかしいものがあったのですね。そして、原さんが最初に感じていた「伝える」という仕事、ジャーナリストの仕事に変わることになっていったのです。
「休職してから数週間が経ち、ようやく外に出られるようになると、朝からゲームセンターに入り浸り、何時間もコインゲームに没頭する日々が始まった。目の前のゲームに集中することで、嫌な記憶や感情から一時的に逃避できる気がしたからだ。」(p.135)
自ら立ち上げたNGOで支援活動を続けた原さんは、様々なプレッシャーから適応障害を発症し、起き上がれなくなってしまったそうです。そんな原さんが救いを求めたのがゲームだったとか。
ここを読んだ時、私の記憶が蘇りました。そう言えば私も大学生の頃、進むことも退くこともできずに悶々として引きこもりになり、夜な夜なゲームセンターに入り浸ったことがありました。当時は50円で1回できるテレビゲーム。あの集中できる時間が救いだったのです。
「逆説的に聞こえるかもしれないが、弱さを受け入れることで、人は強く生きられる。なぜなら、弱さは誰かと互いに補い合うものだからだ。自分の弱さを正しく認識することで、周囲の人々と上手に助け合うことができるようになる。
競争原理が支配する現代社会では、多くの人が強さを誇示し、弱さを隠して生きている。しかし、実は弱さこそ、その人の替えのきかない魅力なのではないだろうか。ちっぽけなプライドを捨て、悲しい時は悲しいと、苦しい時は苦しいと、素直に表現すればいい。重要なのは、自己肯定ではなく、自己受容なのだ。」(p.140)
適応障害になった原さんは、けじめとして自ら設立したNGOを離れることにしたそうです。
私も、自らの人生を再出発させようとして、ハマっていた新興宗教の団体と決別し、大学を辞め、新たに他の大学に入学し直すことを決めました。そのことはブログ記事の「新興宗教にハマりました」などで書いています。原さんと同じではないのですが、なんだか親近感を覚えました。
「コンゴでの紛争やそれに伴う苦しみは、決して私たちから遠い世界の出来事ではなく、私たちの生活と切り離せない形でつながっている。
だからこそ、こうした問題を根本的に解決するためには、現地での支援活動にとどまらず、問題の実情を広く伝えることが不可欠だ。誰かを救おうと手を差し伸べる前に、その誰かを無意識のうちに私たち自身が踏みつけてはいないか、自分たちの足元に目を向け、問題の本質を見極めなくてはいけない。問題を世界中の人々に伝え、私たちの意識と行動を変えることこそが、より大きな変革を生み出し、問題の根本的な解決を導く鍵となる。」(p.162-163)
「社会問題に対して多くの人々が関心を持ち、深く考えてもらうために、私は何よりも「事実」を伝えることが最も重要だと信じている。意見や信念を表明することは避け、あえて距離を置く。それは、社会問題に対しての無関心や反発を避けるための方法でもある。」(p.163)
最初に書かれていた「鳥の目」と「虫の目」ですね。物事はすべて多角的ですから、一方的な見方で報じれば、問題解決から遠のいてしまうことがあります。昨今のオールドメディアの凋落は、まさにこのジャーナリズムの本質を忘れた結果としか思えません。
「私が目指すのは、受け手に社会問題を「自分事」として捉えてもらうことだ。そのためには、受け手自身が考える時間を持つことが必要不可欠だと信じている。誰しもが考える力を持っているからこそ、私は意図的に事実「だけ」を伝えることに徹している。」(p.164)
「このようなことを書くと、「そもそも事実とは何か?」という疑問が生じるかもしれない。
たしかに、これは難しい問いだ。事実というものは、見る人の視点や立場によってさまざまな解釈が生まれる。哲学者ニーチェも「まさしく事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみ」と述べているように、私たちがどう捉え、どう伝えるかによって、事実の姿は変わり得る。
しかし、私がここで強調したいのは、解釈があるからといって、事実の価値が損なわれるわけではないということだ。むしろ、異なる視点や解釈を持ち寄ることで、事実の多層的な理解が可能になる。」(p.166-167)
「事実と向き合う際には、「その事実がどの視点から切り取られているのか」を常に意識することが重要だ。視点を変えることで、同じ事実でも全く異なる意味や解釈が生まれることがある。」(p.167)
多くの人は、「事実」そのものだけでなく、「事実」と「解釈(解釈した事実)」との区別ができていないと思っています。
たとえば「群盲象を撫でる」の故事にあるように、象を触ったら太い円柱のようなものだった、という事実は、単に足を触ったからです。象を触ったらぐにゃぐにゃした太いホースのようなものだったというのも、単に鼻を触ったからです。それぞれは「事実」であっても、真実の象を表してはいません。部分的な「事実」と全体的な「事実」は違うのです。
さらに、その事実をもとにした解釈は、事実とは別物です。触ったら太い円柱だということが一部の事実だと思っていたら、それが全体的な象を表すかどうかはまだわかりません。けれども、触った一部の事実だけで、それを象だと解釈したのです。
こういうことを利用してメディアの多くは、報道しない自由を行使すること、つまり事実の一部を報道することで、特定の解釈を流布して視聴者を洗脳しようとしています。
意図的にそうしていないとしても、自分が切り取った事実が全体を反映しないことはあるのです。もし、そのことを前提にするならば、原さんのように謙虚に事実を伝えるという姿勢が、ジャーナリズムの基本ではないかと思いました。
「この新しい取材方法は、特に貧困地域や紛争地でその真価を発揮し、コンゴでの取材は、従来の枠に囚われない多面的な報道を生み出すことが出来た。テーマに縛られず、現地の声を拾い上げることで、視聴者にとってよりリアルで臨場感のある映像を届けられる。
この「現地をありのまま伝える」スタイルこそ、私がこれからも目指していくべき方向性だと確信した。」(p.184-185)
あらかじめテーマ(結論)を決めて、それを訴えるのに補強できる事実だけを拾っていくというのが、今のテレビなどがやっている手法ですね。原さんは、そういうオールドメディアの報道手法とは一線を画して、独自のと言うか、本来あるべきジャーナリズムのあり方を追求しておられるようです。
「1993年、あるカメラマンが撮影した1枚の写真が、「なぜ、ただ撮影するだけで、助けないのか?」という疑問を世界中で巻き起こした。
『ハゲワシと少女』という写真をご存知だろうか。1993年、南アフリカの写真家ケビン・カーターがスーダンで撮影した1枚だ。飢餓に苦しむ幼い少女が倒れ込むように地面にうずくまり、その数メートル後方には彼女を見つめるハゲワシが立っている。今にも命が尽きそうな少女と、その背後に迫る死の象徴であるハゲワシ−−この衝撃的な構図は、1993年3月26日付のニューヨーク・タイムズ一面に掲載されるや否や、またたく間に世界中で注目を集め、アフリカの飢餓問題を象徴するイメージとして広がった。」(p.190-191)
ピューリッツァー賞を獲得したこの写真で、カーター氏は一躍有名になりました。しかし、このバッシングが原因で彼は精神的に不調をきたし、不幸な最期を遂げたのでしたね。
「ジャーナリズムには、「公平性を保つこと」や「取材対象に過度に介入しないこと」という重要な指針がある。これらの指針は、報道が偏らず、広く信頼されるための基盤だ。感情に流され、その場で支援を行えば、報道の客観性が損なわれる危険性がある。事実をありのままに伝えることが、より大きな影響を生むための第一歩なのだ。
目の前の数人を救うことには、その瞬間には確かな価値がある。しかし、事実を広く伝えることで、結果的により多くの命を救うことができるという考え方もある。」(p.195-196)
なぜ助けないのだ!?とジャーナリストを責める声がありますが、私は、考え方は人それぞれだと思うのです。
「本当に意味のある支援とは、よく言われるように「魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教えること」にある。つまり、支援を提供する者がその場から去った後も、現地の人々が自立した生活を送ることができるような支援が求められる。
しかし、この「魚の釣り方を教える支援」は、決して容易なものではない。現地の文化や価値観、社会構造を深く理解し、適切な方法でアプローチする必要がある。それには時間と労力がかかり、試行錯誤を重ねることも求められる。」(p.198)
緊急避難的に物を与える支援は必要ですが、本当の支援は、その人たちが自立できるようにしてあげること、支援無しで暮らせるようにしてあげることだと思います。
しかし、それは言うは易く行うは難しなのですね。でも、だからこそ、それぞれの人がそれぞれの価値観で動いて試行錯誤を繰り返すことが重要だと思います。そのためにも、価値観が違う人のことを安易に責めないことが大切ですね。
「安全で快適な日本にとどまり、それなりに幸せな生活を送る選択肢もあるはずなのに、なぜ私はこんな仕事を選んでしまったのかと、自問自答することもある。そのたびに「誰かがやらなければならないことがあるなら、その誰かに自分がなってやろう」と自らに言い聞かせる。恐怖も葛藤も消えることはないけれど、何度倒れても、また前を向こうと決心する。」(p.213)
ここを読んだ時、私と似ているなぁって思いました。私もある時、どうせ誰かがやらなきゃいけないことなら、逃げることを考えるんじゃなく、積極的に自ら進んでやるようにしようと決めたことがありました。だって、逃げて他人にその役割を押し付けたところで、何だかいい気がしないのですから。そういう自分らしくない自分を正当化しようとすることも、とっても嫌だと思ったんですよね。
だから、損を引き受ける覚悟を決めたのです。アニメの「宇宙戦艦ヤマト」の歌詞にもあるように、「誰かがこれをやらねばなぬ 期待の人が俺たちならば…」という心境です。この歌を聴くと、いつも涙がこぼれます。まぁ、私が決めたのはせいぜい、グループで誰がリーダーになるのか、程度のことでしたけどね。
「私の周りには、アフリカで活躍している友人や知人が少なくない。その多くが、「日本では社会不適合者のように見られていたけれど、アフリカに来てからは生きやすくなった」と語る。彼らは、アフリカという地で自分らしく生きられる居場所を見つけたのだろう。」(p.227)
これも共感します。私もタイで暮らしたことで、同じようなことを感じたからです。原さんも、日本で行きづらい人にアフリカに来ればいいと誘うことがあるようですが、私もタイに来たらいいとよく言っていました。
「一方、ウガンダでは不確実性が日常の一部となっている。渋滞や停電は珍しくなく、予定通りに進まないことが前提の文化が根づいている。そのため、時間管理も日本ほど厳密ではなく、生活の中に自然と「余白」が生まれる。」(p.230)
タイもそうです。雨が降れば雨宿りをするしかなく、時間を守るのはムリ。スコールですからびしょ濡れになっちゃいます。また、バンコクでは渋滞が前提だから、お酒の席の待ち合わせでは、先に着いた方が飲みながら待つのがふつうでした。
「一方で、標準化が進んだ日本社会では、「こうあるべき」という価値観が強く根付いている。
近年では、多様性を尊重するはずの「ポリティカル・コレクトネス」すら、新たな「正しさの標準」として普及しつつあるように思う。本来、「誰も傷つけない」という理念に基づいた取り組みであるはずが、「これが正しい多様性のあり方だ」という一律的な枠組みが形成され、かえって人々の考えや行動を窮屈にしている場面も見受けられる。」(p.237)
「さらに、現代の日本社会では「コンプライアンス」という名のもとに、法令を守る以上の過剰な意識が広がりつつある。
もちろん、法令遵守は社会の秩序を保つうえで不可欠だ。しかし近年では、倫理観や公序良俗といった曖昧な社会規範にまで過剰に気を配る風潮が見られる。」(p.238)
たしかに、そういう一面が感じられます。「差別」だからと「言葉狩り」をする風潮も、私にはやり過ぎだと感じます。言葉そのものには意味がないことが多く、それを使う側の意識の問題だったり、受け取り手の感じ方の問題だったりするからです。教員実習で担当の先生から「「人格」という言葉は差別用語だから使わないように」と言われたのは衝撃的でした。「人」に「格」はないのに、あると認めている言葉だからだと。
「一方で、アフリカの社会には、こうした「凸凹」がそのまま受け入れられるような柔軟性があると感じる。例えば、ウガンダの市場でのやり取りや、時間に縛られない人々の生活態度には、一律に整えることよりも、それぞれの状況や個性を尊重する文化が根づいているように思う。
この「揺らぎ」や「幅」のある社会では、多様な人々がそれぞれの形で存在できる余地がある。それが結果として、生きやすさや人間らしさを支える要因になっているのではないだろうか。」(p.239-240)
私は、タイで自由を感じることができました。それは、「こんな生き方でもいいんだ」という気付きがあったからです。それまで日本で培ってきた「かくあるべし」「かくあらねばならない」という当たり前のように思っていた前提が崩れたのです。
日本人から「タイの〇〇の相場はいくら?」と標準価格を尋ねられることがよくありましたが、そのたびに私は「ピンキリだよ」と答えていました。バス代も電車代も一律ではありません。同じ料理だって、どんなところで食べるかで雲泥の価格差があります。その多様性をタイは包含していたのです。
「ウガンダの友人はそんな日本社会を「メンタルの貧困」と指摘した。彼女の言葉を借りれば、日々の生活の中で意思決定の機会が奪われることで、主体的に考える力が少しずつ衰え、創造性が失われているのだという。」(p.242)
「もう一つ、日本で主体性が奪われていると感じたのは、コロナ禍のマスク着用だ。感染拡大を防ぐためのマスク着用は理解できるが、無人の公園でもマスクを外さない人々を見た時、「マスクを着けなければ」という基準が目的化し、「何のために」という問いが置き去りにされているように思えた。ただ基準に従うだけの行動が、いつの間にか当たり前になっていたのではないだろうか。」(p.242-243)
まさにそうだと思います。非科学的な対策を強要し、それをしなければ非国民であるかのように責め立てられましたね。日本人の精神的な貧困性と言うか、寄らば大樹の陰という思考を感じて、生きづらい社会だなぁと思いました。
「経済発展が進んだ日本では、日常生活の中で「死」を意識する瞬間は少ない。もちろん、自分や身近な人が末期の癌を患っていたり、医療従事者としてコロナ禍の最前線に立たれていたりした方にとっては、死は身近なものかもしれない。しかし、多くの人にとっては、「明日自分が死ぬかもしれない」と考えることは稀であり、「死」を意識する機会そのものが少ないように思える。」(p.250)
「確かなことが一つある。これまでに死を免れた人は誰一人としておらず、私たち全員が致死率100%の運命を背負っている。
現代の生活では、死の存在が遠ざけられ、私たちの日常からその姿がほとんど見えなくなっている。しかし、私も、あなたも、そしてあなたの大切な人も、例外なくいつか必ず死を迎える。」(p.251)
私が個人的に接した死は、私が小学生の時に亡くなった父方の祖父母だけです。母方の祖父母は、私が大学生で離れて暮らしている間に、いつの間にか亡くなり、遠いからという理由で葬式にも参列しませんでした。でも、父方の祖母が自宅で亡くなったこともあり、死を身近に感じられる経験があったと言えます。
しかし現代では、病院で死ぬことが増えたこともあり、死ぬ瞬間や死んだ直後を経験しない人も多いようです。老人介護施設でも死を間近に見てきましたが、他の利用者様には知らせないよう配慮されました。私はそのことに違和感を感じました。知らせて、それぞれが感じたいように感じさせればいいのに。そう思ったのです。
「生と死は、単純に対立するものではなく、むしろ連続したものだ。生の延長線上に死があり、それは生の終わりであると同時に、生の価値を鮮やかに浮かび上がらせる存在だ。」(p.251-252)
お勧めしている「神との対話」でも、死は生の地平線だと言っていますね。生の終わりが死ではなく、お割のように見えるのが死なのです。つまり、幻想なのです。けれど、真実ではないとしても、生に限りがあると思わせてくれるからこそ、死の価値があるのです。
「ウガンダの友人の言葉が深く心に刻まれている。彼は毎晩、「今日1日を生きられたこと」に感謝するのだそうだ。かつて極貧生活を経験していた彼は、「もしかしたら明日は生きられないかもしれない」という現実と向き合いながら日々を生きてきた。
胸の奥に静かに、しかし深く響くその言葉には、命の儚さを知るからこその重みがあった。そして、そうした意識があるからこそ、過去や未来に囚われることなく「今」に集中し、与えられたものに感謝しながら、現在を精一杯生きる力が湧いてくるのだという。」(p.252)
私も、いつも今日が最期の日かもしれない、という思いを忘れないようにしています。私自身だけではなく、妻と一緒の日も最後かもと、毎日毎日考えるのです。
「アフリカの貧しい地域を訪れた当初、私も「ないもの」ばかりに目が行った。整備されていないインフラ、不十分な医療環境、限られた教育機会−−目に映るのは課題ばかりだった。
しかし、現地での日々を重ねるうちに、厳しい暮らしの中にも確かに「あるもの」に目が向くようになった。そして、アフリカの人々が大切にしている価値観の中に、日本人が学ぶべき教訓があることに気づかされた。例えば、目の前の1日1日に感謝しながら、現在を精一杯に生きる姿。便利さや効率を追求する現代社会とは異なる価値観が、彼らの生き方を支えているように思えた。」(p.255-256)
私もタイで最初は、日本の良さを広めることがタイのためになると思っていました。しかし、なかなか思い通りに動いてくれないタイ人たちを見ているうちに、ふと「日本人が来る前だって彼らは彼らなりに上手くやっていたんだよな」という思いが湧き上がりました。こういうやり方でも彼らにとってはOKなんだと思えるようになってから、私はより自由になれました。
そして、自由になってから振り返ると、日本がいかに窮屈な社会だったかがわかりました。日本社会はタイ社会に学ぶべきことがある。そう感じたのです。同じようなことを、原さんも思われたのですね。
本書は、アフリカの実態とか、アフリカ社会の課題を訴えるものではなく、著者の原さん自身がどういう思いを経て今に至ったかを説く中で、アフリカだけでなく、日本だけでなく、世界全体の問題点を浮き彫りにし、その解決に向けた方策を示した内容になっていると感じました。
私は、私なりのやり方でその課題に取り組んでいます。原さんもそうでしょう。さて、みなさんはどうでしょうか? ぜひ本書を読んで、その取り組みに役立ててください。
