2025年03月16日

ミレイと自由主義革命

MILEI ミレイと自由主義革命 世界を変えるアルゼンチン大統領【電子書籍】[ ニコラス・マルケス ] - 楽天Kobo電子書籍ストア
MILEI ミレイと自由主義革命 世界を変えるアルゼンチン大統領【電子書籍】[ ニコラス・マルケス ] - 楽天Kobo電子書籍ストア

国家財政が破綻して、ハイパーインフレに苦しむアルゼンチンに救世主が現れた。それがミレイ大統領です。
オーストリア学派の自由主義者であり、「小さな政府」を掲げて、その通りに国家運営をしていますが、ハイパーインフレが止まり、奇跡の経済成長が期待されています。

そんなミレイ大統領に関する本を翻訳したということで、さっそく買ってみました。
これまでほとんど知られていないアルゼンチンのこともあるし、自由主義がほとんど理解されていない日本において、こういう本が出版されるということそのものが奇跡的なことではないかと思います。
著者は政治アナリストのニコラス・マルケス氏とラジオの司会者でもあるマルセル・ドゥクロス氏。第一部はマルケス氏による「アルゼンチンの近現代史」と「ミレイの登場と躍進、そして大統領選挙」という、アルゼンチンの政治経済の流れをまとめたものです。第二部はドゥクロス氏による「ミレイと自由主義思想、特にオーストリア学派経済学」というテーマです。


ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。

ハイパーインフレの懸念があったインフレ率は18%(卸売の年間インフレ率)まで下がり、失業率は6.9%、貧困率は38.5%(以前の54.3%から改善)、困窮率(ホームレスに近い生活困難者)は8%(以前の20%から改善)にまで減少し、実質賃金も上昇しています。(以上、2024年12月末時点)。
 この背景には、長年の社会主義政策で恩恵を受けてきた既得権益層の激しい抵抗をものともせず改革を進める「実行力」、わずかな議席数(上院7人、下院38人、知事ゼロ)という少数勢力でありながら他党の協力を取り付ける「調整力」、そしてアメリカの新大統領トランプやイーロン・マスク、イタリアのメローニ首相など世界の有力者から支持を得る「外交力」といった、ミレイ自身の高い政治力があることは間違いありません。
」(p.@)

実は、日本には自由主義者がほとんど存在しません。また、オーストリア学派の経済学もほぼまったく知られていません。このことが、日本が衰退している原因のひとつでもあります。」(p.B)

「はじめに」で、本書を翻訳して日本に広めようとした自由主義研究所の藤丸順子(ふじまる・じゅんこ)さんはこのように、アルゼンチンのミレイ大統領のことを紹介しつつ、日本の不甲斐なさを嘆いておられます。

アルゼンチンの国家主義の最近の失敗から、日本は何を学ぶことができるでしょうか? それは、世界のどの国も、いかに強大で、裕福で、発展していても、将来が保証されているわけではないということです。国家が肥大化し、増税し、個人の自由を規制し、福祉を個人の成長に置き換えると、どんな大国でも崩壊する可能性があります。アルゼンチンで起こったことは、すでに世界の他の地域でも起こっているのです。
 ミレイの自由主義革命の勃発は、アルゼンチンにとって歴史的な好機であるだけでなく、世界全体にとって、うまく機能する考え方と、体系的に失敗する考え方があることを思い起こさせるものです。
」(p.ⅺ)

「日本語版へのまえがき」の中でマルセル・ドゥクロス氏は、今、目の前で起こっているアルゼンチンのミレイ現象が、日本だけでなく世界に役立つと言っています。


ミレイのプロジェクトは大統領選挙から始まったわけではない。彼は、退廃の根本原因は「文化の退廃」であり、それが具体的な結果として「経済の退廃」に現れていると考えた。そして、ミレイは「文化の戦いに勝利し、文化の退廃を阻止したい」と強く思ったのだ。これが出発点であり、これこそが重要なのである。ミレイはリバタリアンの経済学者として、問題の根源が文化にあると判断した。アルゼンチンの経済的惨状は、肥大化した無秩序な「国家介入主義」の産物であり、単なる経済政策の転換だけでは解決できないと考えたのだ。同時に、その略奪と惨状を維持してきた「政治カースト」の覇権的・社会主義的な枠組みを撤廃する必要がある。」(p.3)

「序文」においてアグスティン・ラへ氏は、ミレイ大統領の改革の本質をこのように言っています。


しかし、ミレイには他の人たちとは明らかに違う点があった。それは彼のカリスマ性である。つまり、ミレイの人柄や型破りな行動が持つ説得力、最も政治的にタブーな話題にも果敢に切り込む勇気によって、多くの国民にとって魅力的なキャラクターになったのだ。その結果、ミレイをゲストに招いた番組は軒並み高視聴率を記録し、ミレイは市場原理によって主要メディアに一気に浸透し、人気のパーソナリティとなった。」(p.4)

型破りなミレイ氏が大統領になった背景には、メディア受けしたことや、キャラクターが国民に受けたことがあったようですね。

経済問題では、ミレイの文化の戦いの焦点は、「社会正義」という名の下で強制的な再分配を行う政治カーストの欺瞞を打ち砕くことだった。この名の下で国家は膨張し、公共支出は拡大し、公職、特権、規制、顧客主義、汚職は増加し続けたのだ。」(p.6)

社会主義的な政策によって国家財政が肥大化し、そこに群がる公金チューチューを養うことになっていた。今の日本も、まさにこの通りですね。


ミレイ「だから私は、人生とは学ぶことだと理解しているのです。私に起こったすべての出来事を、泣くための言い訳として受け止め、そこから教訓として受け止め、それを活かして学び、前進することもできるのです」
私「何か特別な失敗(恋愛・人間関係・仕事など)で、心に残り、生涯の教訓となるようなものはありましたか?」
ミレイ「いいですか、なにかに挑戦する人は皆、失敗も人生の一部だと考えなければなりません。
」(p.56)

その意味では、人生は成功と失敗の繰り返しであり、大切なのは失敗からも成功からも学ぶことです。すべてが学びであることを理解すれば、あることを成功や失敗と定義することは非常に難しくなります。本当の失敗は、失敗から学ばないこと。つまり、自分の身に起こることは、学ぶために起きおるのです。それを活かして学ばなければ、同じ失敗を繰り返しますし、それはあなたの身に何度も起こることになるのです」」(p.56)

これはニコラス・マルケス氏によるインタビューだと思われますが、ミレイ氏は実に深遠な真理を理解しておられるようです。


「私は正直な人間です。たとえ非常に不快なことだとしても、常に真実を話す人間、私は心地よい嘘よりも、不愉快な真実を好むのです。つまり率直なのです。あなたが好きか嫌いかはわからないが、私はそういう人間なんです。いつだって本当のことを話す。それが私の生き方で、変えようがないんです。でも、それこそが、政治カーストと私との大きな違いなのです。正直に向かい合い、嘘をつかない。だからといって、私が間違いを犯さないわけじゃないし、私は完璧でもない。ただ、自分の価値観に忠実に一貫して行動することで、気持ちよく生きられる。平和に眠れる。自分を責める必要がないから。私は正しいと思うことをするだけです。」(p.101)

インタビューに答えたミレイ氏の言葉の一部ですが、私は、政治家は正直であることが何よりも重要だと思っています。他人を操作しようとして嘘をつけば、その嘘を隠そうとしてさらに嘘を重ねることになり、自分自身は良心の呵責を感じながら「仕方ないのだ」と言い訳をし、その嘘で騙された人も幸せにならないのです。


自由とは、抽象的な意味や拡散的な意味ではなく、「個人に対する強制がないこと」を意味している。基本となる考え方は、「他者の生命や財産を侵害しない限り、人は自分の人生で自分の望むことをする権利がある」ということだ。多くの人がこれ自体には賛同するだろうが、他者を犠牲にしてまで生きる権利はないという問題も提起される。」(p.171-172)

自由とは強制されないことですが、自由と自由がぶつかることもあります。その場合、生命や財産を侵害してはならない、というルールは守られるべきだと言うのですね。

ミレイ氏は、堕胎に反対しています。その理由は、胎児であっても1つの生命だと認める立場からです。つまり、親の自由を行使するために胎児の生命(自由)を奪うことは許されないという考えなのです。
私は、これは一理あると思いました。しかし、たとえばレイプされた女性は、それでも産み育てなければならないのでしょうか? たとえ愛情を注げなくても産むことが、胎児のためになるのでしょうか?
これは、一概に「これが正解」とは言えない問題だと思います。胎児を「自由を認めるべき生命」とするかどうか、という議論もあるかと思います。私は、もし胎児の自由を認めるのであれば、親には産むまでは仕方ないとしても、育てる義務からは解放すべきだと考えます。
その考えを拡張すると、産んだから育てるのが義務という考え方も、見直すべきではないかと思っています。人は自由なのですから、相手の生命を奪わない限り、自由にさせるべきです。育てたくない人は、子どもを社会に預けて、全体で育てる仕組みがあってもいいと思うのです。


税金の徴収を窃盗と結びつけることに抵抗を覚える人はいるかもしれないが、これは十分に議論する価値がある。なぜなら、資源の移転には、「自発的な移転」と「強制的な移転」の2つの方法しかないからだ。自発的な移転とは、売買や贈与、自由意思に基づく融資、寄付など、自分のお金や資源をどう使うか自主的に決定する場合をいう。一方、強制的な移転には、窃盗、恐喝、そして徴税のことをいう。こうした2つのカテゴリーに分けるならば、もし国家を泥棒と呼びたくないとしても、少なくとも徴税が強制的な移転に該当することは認めざるを得ないだろう。」(p.182-183)

税金とは国家による搾取であり、窃盗だと言うのですね。たしかに、自発的な贈与ではないのですから、窃盗と同じでしょう。
お勧めしている「神との対話」では、進んだ社会では人々は自発的に所得の10%を社会のために寄贈するとありました。理想的には、そういう社会でありたいものだと思います。


なぜなら、中央銀行による金融政策は、そもそも成功の見込みがないからだ。市場プロセスは常に変化しており、貨幣需要のデータ収集を無意味なものにする。もし官僚が必要な情報を入手できたとしても、すでにその情報は古くなっており、新たなプロセスが進行しているからである。したがって、仮に政治家たちが中央銀行の通貨発行により利益を得ようとしない場合であっても、マネタリーベースを人々の需要以上に拡大するならば、その政策は失敗することになる。その一方で、もしマネタリーベースを個人需要以下に引き下げるとすれば、同じようにそれは失敗する。そして、たとえ奇跡的にマネタリーベースの拡大が正しく行われ、目標達成に成功したとしても、「そもそもなぜ市場に任せず、中央銀行がわざわざ介入を行ったのか?」という疑問は依然として残る。」(p.189)

このように、中央銀行による金融政策は無意味だとして、中央銀行不要説を唱えています。
これについては、一定の理解はできるのですが、だったらどうやって通貨発行をするのか? という疑問が残ります。そこは私の勉強不足の部分だと思っています。
もちろん、異次元の金融緩和によってもインフレに振れることがなくて、さらに異次元の金融緩和を進めた結果、円がダブついて円安になっているという現実があります。そして物価高になって庶民が苦しんでいますが、日銀も政府も有効な手を打てていません。インフレやデフレを都合よくコントロールすることはできない、というのが歴史的な真実かと思っています。


古典的自由主義の基本理念とはなにか? 「私有財産の尊重」「個人の自由と責任」「他人に危害を及ぼさない限り国家が介入すべきではない」「官僚機構は治安と司法(安全と正義)の提供に専念する」というものだ。
 ミレイは、政治家の手から離れた効率的な配分メカニズムがあれば、最も困窮している人々への医療と教育に関する再配分政策の維持にさえ賛成してきた。
」(p.228)

自由主義と言うと、弱肉強食の競争社会で弱者切り捨てをイメージするかもしれません。しかし、ミレイ氏は弱者保護も最大限に考えていることが伺えます。ただしそこに、政治家による恣意的な補助政策は介入させないのです。
本書では語られていませんが、私はベーシック・インカムこそが、効果的な再配分方法だと思っています。これなら恣意的な選別は不要ですから。

さらに言うと、アルゼンチン政治史においてミレイの思想に最も近い先例は、保守的な政党ではなく、社会党の初期に見られる。社会党の創始者であるフアン・B・ジュスト(1865-1928)は、国際貿易の支持者であり、中央銀行の創設を断固として反対していた。彼の考え方は、労働者の権利と福祉を守るものであった。また、彼は世界の常識(現在のほとんどの議員よりも一般的な感覚に沿って、次の2つの予言的な問題を指摘していた。
(1) 輸入制限の危険性
もし輸入が制限されれば、海外から商品を買うことができないアルゼンチン国民は、国内の事業家たちから高価で低品質の商品を買うしかなくなる。(輸入代替モデルの失敗により、この指摘は正しいことがわかった)。
(2) 通貨の独占の危険性
もし国家が通貨を独占すれば、財政赤字と無秩序な通貨の増発が発生し、固定所得の労働者を直撃するインフレを生む。ジュストが提案したのは、紙幣印刷機から政治家を遠ざけるための金本位制であり、これは「過激なリバタリアン」と同じ考えだ。
」(p.229)

これは、今の日本の状況に似ていますね。関税が高くて品質の良い海外のお米を輸入できなくて、高いお米を買わざるを得なくなっています。ますます米離れは進むでしょう。いったい誰が得をするのでしょうか?
そして、異次元の金融緩和やコロナ禍による異次元の財政支出によって円がだぶつき、物価高が進行しています。所得が上がらない庶民が困る現実が現れています。

また、トランプ大統領の保護主義政策も、ミレイ大統領の自由主義とはまったく違うもののようです。関税を上げると脅して思い通りにしようとする恫喝外交は、破綻するように思います。


実際、与党に抵抗する多くの野党の有力者たちは、これまでの政治モデルは使い尽くされており、そして解決策がミレイの指摘にあることをオフレコでは認めている。しかし彼らは「現状は一朝一夕には変えられない」とし、リバタリアン(ミレイ)が今日までに達成した以上の「より大きな政治的コンセンサスが必要」という信念に固執している。しかし、それには特権を失いたくない既得権益層との大規模な交渉が不可欠である。したがって、改革を一挙に断行しようとする「オール・オア・ナッシング」の戦略は、決して無責任ではなく、むしろ現状では唯一実行可能な改革のアプローチだと言える。」(p.233-234)

答えは出ているのだから、ぐずぐずと改革を遅らせていても、状況は何も変わらないと言うのですね。だから、根回しをしていたらできないので、一気呵成に改革を断行すべきだと言うのです。アメリカではイーロン・マスク氏の改革が、まさにこういう手法かと思いました。


完全に誤りなのは、「輸出を増やし、海外で競争力を持つには通貨安が不可欠」という理論だ。競争力は資本効率や技術の高度化、生産性といった要素に関係しており、為替レートとは何の関係もない。そうでなければ、あらゆる国が日本の技術製品やスイスのチョコレートを輸入しないはずだ。さらに、もし世の中に広く信じられているこの残念な「通貨安」理論が正しいのであれば、アルゼンチンはすでに世界で最も豊かな国になっていたに違いない。」(p.247)

日本は輸出立国だから円安がいいのだと言う人がいますが、ドゥクロス氏は完全否定しています。私もそう思います。昔のように安かろう悪かろうの製品を輸出するには、円安が効果的だったかもしれませんが、それで社会の経済が良くなるわけではありません。良いものだから多少高くても買う、高ければ高いほどブランド力が高まる。それが真実の姿だと思うのです。日本の車は、そのくらい価値があるものではありませんかね?


「講演は無料ではありませんでした。施設使用料や講演者への謝礼が支払われたはずで、実際には多くのコストがかかっているのです。つまり、結局は参加しなかった人が、この『補助金』の負担を強いられているのです」と強調した。
 政治家の裁量で振り分けられる公的資金が関わるものには、いずれ必ず政治化してしまう。これは過激派アーティストへの助成と同様に、文化関連の公的機関においても起こり得ることだ。
」(p.261)

奈良県でも公金を投じて韓国のアーティストを呼ぶ企画がありましたね。中止になったようですが、こういうことがたくさんあります。公金を使うということは、みんなが支払っているということです。それが理解できない人が多いように思います。


「市場の失敗」が存在するため、政府が規制や再調整をしなければならない−−こうした考え方は、社会民主主義からいわゆる中道右派に至るまで広範な政治主流派に深く浸透している。実際は、着飾った身奇麗な左翼の理想的な共犯者にすぎないのだが、どの政府もこの誤謬を受け入れ、問題の「治療」と称して病気よりも悪い対策を講じてしまう。結果として、問題解決を狙った政治的介入は、何も治さないばかりか状況をさらに悪化させるという過ちを繰り返してきた。」(p.273)

しかし、そうした介入が行われると、市場が本来もたらすシグナルは歪められ、状況はかえって悪化してしまう。そもそも市場は完全でも不完全でもなく、そうした次元で分析すべき対象ではない。市場に「失敗」を見つけようとする行為自体が、そもそも探す必要のないものを探すという誤りにつながる。市場とは、あくまで個々人の多様な嗜好や選好が絶えず反映される「協調と調整のプロセス」にほかならないのだ。」(p.273)

日本でも、国民民主党や維新の会など、まるで自由主義であるかのような主張をしていますが、実態は「大きな政府」を目指す社会主義政党だと思っています。与党はもちろんのこと、野党もすべて、介入主義を捨てていないのです。これは、エリートである自分たちがコントロールしないと社会は大変なことになるという漠然とした不安(恐れ)から生じているのでしょう。
しかし、それが社会主義(統制主義)である以上、自由市場を歪めることになり、上手くはいきません。自由市場は、個々人の意思の総合であり統合です。したがって揺れ動くものです。揺れ動くからこそ、個々人の意思(考え)を絶妙に調整できるのです。

しかし、自由で自発的な交換こそが、取引のたびに双方に利益をもたらす唯一の仕組みである。だからこそ、買い手と売り手は取引が成立すると互いに「ありがとう」と言い合う。片方がお金を受け取り、もう片方が商品やサービスを受け取るときに、双方が感謝の言葉を交わすのだ。これは、一方が何かをして、他方が見返りを与えない状況下の「ありがとう」「どういたしまして」とは全く異なる。」(p.274-275)

自由市場では、互いが満足し、互いが得をしたと感じることができます。それが「取引」なのです。それが可能なのは、それぞれの価値観が違っているからです。それぞれが手放したものより取引で得たものの方が価値が高いと思うから、相手に対して取引に応じてくれたことを感謝するのです。


彼らがよく口にする常套句の一つは「市場経済が強化されるにつれ、資本の集中が進む」という主張だ。そこでは、金持ちはますます金持ちになり、貧乏人はますます貧乏になるという図式を裏付けるかのような統計データが提示される。しかしこれらは、嫉妬を原動力にした介入主義的集産主義の信奉者たちがいつも示す他のすべての統計と同じように、恣意的な数字にすぎない。

 ハビエル・ミレイが2024年2月、アメリカでの基調講演で指摘したように、1800年から現在にかけて世界の貧困率は95%から5%に低下している。私たちの実感とは異なるかもしれないが、事実として、世界は現在歴史上もっとも豊かな状態にあると言える。
」(p.276)

自由にさせれば富は集中するという不安や恐れから来る思い込みは、世界は昔より明らかに豊かになってきているという歴史が完全に論破しているのです。


自由で自発的な合意を前提とするならば、理論的にはすべての労働者が雇用される余地がある。もちろん、賃金の水準を決定する資本効率が低ければ、賃金はわずか一皿ばかりの食べ物程度になるかもしれない。この状況に「賃金が低すぎる」と国家が最低賃金制度によって介入すれば、生産性が最低賃金に達しない人々は労働市場から排除されてしまう。」(p.278-279)

私も以前は、最低賃金を上げれば貧困層は減ると思っていました。もちろん急激にではなく、徐々にですが。しかし、撤廃した方がいいという意見を聞いてなるほどと思い、持論を変えていました。
今ならはっきりと理解できます。最低賃金の制限があれば、そのコストに見合う労働提供力がない労働者を、事業主は雇いません。赤字になるだけですから。つまり、能力の低い人を労働市場から排除する制度が最低賃金制度なのです。

そこで政府は、強制的に能力の低い人を雇わせようとします。障害者雇用促進法などによって。けれども、そういうことをすれば事業主は、全体での人件費を適正化しようとします。つまり、能力の高い人の賃金を低く押さえて、能力の低い人の賃金に回すのです。
最低賃金という規制が、障害者(あるいは高齢者など)を雇えという規制につながり、全体として労働生産性を下げるような仕組みを市場に強制することになっているのです。


ミレイ大統領を批判する人々は、選挙戦において「リバタリアンが勝てば、燃料への補助金がなくなり、適正価格を支払わなければならなくなる」と主張し、まるでそれが重大な問題であるかのように騒ぎ立てた。これこそ、アルゼンチンでいかに「援助と不幸の文化」がはびこっているかを示す例である。私たちは、国家の支援なしに自力で進歩して対価を払うという夢よりも、施しによる安心感を優先してしまうのだ。この姿勢は、ポピュリズムが人々の精神を去勢することに成功した証拠である。」(p.280)

補助金がなくなれば自分たちが損をする。損をしたくないから補助金を求める。国民のこのクレクレタコラ精神と、それに迎合した政治によって、国民の自由と進歩が奪われます。

一人当たりの投下資本(資本化率)が上昇すれば、人々の暮らしは全般に向上する。そして、その恩恵を最も大きく受けるのは、いつの時代でも「最も困難な状況にいる人々」である。ある美食家の実業家はかつてこう語った−−「ステーキを食べるなんて、1日2枚が限界だ」。しかし、もしこの実業家がさらに100万ドルもの利益を上げ、そのおかげで新たな雇用が生まれ、多くの家庭が冷蔵庫を満たせるようになり貧困から抜け出したとしても、その新たな富を見て社会主義者は激怒するのである。妬みと恨みに駆られた政策は、政治家とその取り巻きだけを大金持ちにし、大多数の人々を抜け出せない惨状へと追い込み続けるだけなのだ。」(p.281)

資本(お金)は、お金を稼ぐ能力が高い人に集まるべきなのです。そうすればその人(事業家)は、資本を元にさらに価値を生み出し、世の中を豊かにします。社会の豊かさとは、社会のお金の多さではなく、社会に提供された価値の多さだからです。
しかし、お金を稼ぐ能力がないのに政治力によって特定の人にお金が集まると、そのお金は浪費されるだけであり、貧困者の救済には役立たないのです。貧乏人が責めるべきは金を稼ぐ事業家ではなく、稼ぐ能力もないのに政治的に金を得る公金チューチュー(利権に群がる人々)ではないでしょうか。


もし社会主義者のグループが自由社会の中で、自主的な結社として社会主義の前提のもとに暮らすことを望むなら、自由主義はそれを完全に許容する。自発的な関係性は、伝統的な雇用主とその従属関係にある被雇用者を意味するわけではない。なぜなら、自由主義の原則においては、他人に望まないことを強制しない限り、どのようなコミュニティを作り、どのように生きるかは個人の自由だからだ。ところが、社会主義はその逆を認めない。」(p.282)

自由主義の言う自由とは、他人を強制しない限りそれぞれの自由を認めるというものです。他人の生命を傷つけたり、財産を奪う自由は認められません。それ以外は自由です。しかし社会主義は、支配者が「これが正しい」と言うことに従わない自由を認めないのです。


自由主義者で市場原理を支持する層の間ですら、オーストリア学派の仮定を擁護する人々は、ある種の過小評価を受けてきた。その理由の一つは、両者の間に多くの共通点があるものの、オーストリア学派は「政府は経済分野で何もする必要がない」「経済学は、将来起こりうることを知るために必要なツールを持たない」という前提に基づいているため、ユートピア的だと見なされてきたことにある。理論的な欠点や疑問があるから過小評価されてきたのではない。「オーストリア学派の前提に反対する政府の利害関係者」に支配されている状況では、それが現実の政治・経済政策に適用される可能性はほとんどないからである。そもそも自分の権力と影響力を縮小しなければならないと説いてくる経済学者を、どの政治家が自ら招き入れようとするだろうか。」(p.289)

権力者(政治家)は、権力をふるいたいのです。その取り巻きは、利権によって経済的な恩恵を受けたいのです。それを否定し、そんな手腕を振るわなくても上手くいくと主張するのがオーストリア学派なのですね。
このことで私は、「鼓腹撃壌」という故事を思い出しました。中国の堯帝(ぎょうてい)の時代に、老人が腹つづみを打ち、大地を踏み鳴らし、歌を歌って天下泰平を喜んだという故事ですが、天主様がどうかなど自分には関係ないと老人は言います。そしてそれを聞いた堯帝は喜んだのです。政治が特に何もしないことで、国民が幸せでいる。これが理想かと思います。


要するに、人は皆「自分の幸福を最大化する新たなシナリオを目指して行動している」という普遍的法則があるのだ。それは、各自が「自分の目的」のために「自分のやり方」によってである。
 つまり、自由主義こそがすべての平和的な個人の幸福追求と両立する唯一の哲学なのである。それゆえ自由主義は道徳的にも非常に優れている。市場プロセスは最終的に社会全体、とりわけ最も困っている人々に利益をもたらすので、道徳的観点だけでなく功利主義的観点からも正当化できるイデオロギーなのだ。
」(p.298-299)

何を幸せだと感じるのか、その幸せを得るためにどうするのかといったことは、それぞれ異なるのです。その前提に立たないから、特定の幸福、特定のやり方を他人に押し付けようとして、上手く行かなくなっているのです。


ドイツ語で書かれ北米ではほとんど知られていなかったミーゼスの著作の助言に反して、FRBは1921年から1929年の間に通貨供給量を62%も増やした。通貨シグナルが歪められ、資源が誤って配分されると、私有財産があろうとなかろうと問題が生じるのは必然だ。」(p.301)

つまり、市場規模をはるかに超える通貨を供給したために、あの世界大恐慌が起こったと言うのですね。日本の異次元の金融緩和やコロナ禍での異次元の財政出動はどうなのでしょうね?

ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスが私たちに教えてくれたのは、「社会主義は善でも悪でも、道徳的でも非道徳的でもない」という洞察だ。社会主義は、論理的に破綻しており、診断も誤っており、矛盾と虚偽の前提に基づくため、理論としてそもそも実現不可能なのである。そのため、社会主義が強制的に実施されれば、必然的に不道徳で権威主義体制に匹敵する悲惨を招き、すでに世界中で無数の罪なき人々の命が奪われてきた。」(p.302)

社会主義(統制主義)は人の本質に反するから、論理的に間違っているのです。人の本質は自由です。


さて増税と大きな政府、規制をますます強化して社会主義の様相を強める2025年の日本にはミレイは現れていないし、一見してこれからも現れそうにない。しかし、現在GDP60%ほどの政府規模は毎年1%ずつ上昇し、人々は目に見えて貧困化しつつある。現状の打開には、政府が国民の生活と価値観に介入すること、つまり本書で言う「文化の戦い」としてのこども家庭庁、文科省、農水省などの廃止が不可欠だ。ミレイの出現と本書の出版が、日本人が近く目覚めてくれる(一助となる)ことを期待してやまない。」(p.325)

「訳者あとがき」の中で自由主義研究所研究員の蔵研也(くら・けんや)さんは、このようにまとめています。


私も、自由主義が何よりも重要だと思っています。政府が余計な介入をしても、効率が悪く、コストがかさみ、利権の温床になるだけだからです。
たとえば保育園や介護事業をご覧なさい。需要があるにも関わらず、人手不足です。なぜでしょうか? 賃金が不当に低く押さえられるからです。自由経済市場に任せれば、需給バランスが取れるのです。
けれども多くの人は、それでは貧乏人がサービスを受けられないと不安になり、政府の介入を望みます。クレクレタコラです。こうして市場は歪められ、コストがかさむ割に需要は満たされず、利権ばかりが膨らんでいるのです。

もういい加減に不安や恐れを捨てませんか? 不安や恐れからクレクレタコラになることをやめない限り、社会は変わらないと思います。この国民にして、この政治家ありです。政治を変えたければ、国民が意識を変えることだと思います。

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posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 15:26 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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