2025年01月01日

今日、誰のために生きる?2

今日、誰のために生きる?2 [ ひすいこたろう ] - 楽天ブックス
今日、誰のために生きる?2 [ ひすいこたろう ] - 楽天ブックス

SHOGENさんの2冊目の本が出版されると聞いて、すぐに予約した本が届いたので読みました。2024年12月26日の出版ですが、すぐに届いて、この年末年始で読み終えましたよ。
著者はSHOGENさんの他、1冊目の本でも一緒に書かれたひすいこたろうさん、そして今回は、はせくらみゆきさん藤堂ヒロミ(とうどう・ひろみ)さんも加わっています。

はせくらさんと藤堂さんは、ブンジュ村の村長がSHOGENさんを助けてくれる2人の女性として予言されてた方のようです。導きによって2人と出会われたことで、SHOGENさんが伝えたかったこと、ブンジュ村の村長が遺言として1人でも多くの日本人に伝えてくれと言われたことが、さらに強力に広まっていくように思います。


ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。

ショーゲンは、いつも無駄を省いて、効率よく生きようとしているけれど、
 無駄とか、しょうもないことの中に、
 幸せっていうのがあるのに、もったいないなあ……。
 効率よく考えるのであれば、生まれてすぐ死ねばいい。
 人はいかに無駄な時間を楽しむのかっていうテーマで生きてるんだよ。
 お前の心のゆとりはどこにあるんだ?
 ショーゲンの幸せはいったいどこにいったんだ?
」(p.16)

SHOGENさんがブンジュ村で暮らしていた時、3歳のザイちゃんが流れ星をつかまえに行きたいと言うと、お父さんは一緒に探しに行ったのだそうです。それを見たSHOGENさんが無駄なことだと言うと、お父さんはつかまえに行ったこともない人から言われたくないと言って、このように話したのでした。

人は何のために生きるのか? ただ効率を求めるのであれば、どうせ死ぬのだからさっさと死んだらいいとも言えるわけですね。
日本の古い歌に「遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん」(梁塵秘抄」)というのがあります。大河ドラマ「平清盛」の挿入歌としても使われていました。人生とは遊びであり、経験を楽しむもの。だから効率よりも道草を楽しんだらいいと私も思うのです。


畑から野菜を収穫する人は、その野菜がどんな思いで育てられたのか、まず野菜を育てている人からわざわざ聞きます。料理する人は野菜を収穫した人から、この野菜を育てた人がどんな思いで育てたか、そして、どういう思いで収穫してきたのかを聞くのです。だから、食事にありつけるのに、すごく時間がかかるんです(笑)。
 村長は、「”物語” を食べるということがすごく大事なことなんだよ。それは昔、日本でもやっていたことなんだよ」といっていました。
」(p.19-20)

一つひとつの行動が単なる作業ではなく、その前の物語を聞いて味わうことなんですね。そして自分自身もまた物語を作っている。時間がかかる、非効率、たしかにそうかもしれないけど、それは映画を観るのに時間がかかるのと同じなんですね。


僕らも真似てみませんか?
 子どもにこういってあげませんか?
「今日学校に行ったら、まず誰に声をかける? なんて声をかける?」
 その問いかけが、人に対しての思いやりを育てます。挨拶って、本来、そういうものだったようです。
」(p.32)

ブンジュ村では、その日に出会う人にどんな言葉をかけてあげようかと事前に考えて、その言葉をかけてあげていたそうです。それがブンジュ村の挨拶であり、形式張ったものとか、とりあえず声を交わすというものではなかったようです。


「ショーゲンが感じたこと、学んだことを、1人でも多くの日本人に伝えてほしい」
 僕は村長から、そういわれました。
 村長は日本人がもっと心に余裕を持ち、豊かな五感を使って自然を愛し、自分を愛することができたなら、世界が変わると信じていたからです。
「世界の中でいちばん、空を見上げる余裕を持っていたのが日本人なんだ。
 取り戻してくれ、今すぐに」
 そういわれました。
」(p.37)

村長からこのように言われて、SHOGENさんは多くの日本人に伝えようと、誰かと出会えばすぐにブンジュ村のことを話すようになったのです。

そして村長から、自然破壊をしてしまうような人間が生かされている理由、この大自然の中での人間の存在理由を、次のように聞かされたそうです。

それはね、どれだけお花がかわいくても、夕焼けが美しくても、
 満月がきれいでも、『かわいいね』『美しいね』『きれいだね』と
 いってあげる存在がいないと、そのものたちが浮かばれないでしょ?
 本来、人は自然破壊とか環境汚染するためではなく、
 生きとし生けるすべてのいのちに対して、祝福の言葉をかけ続けるために
 生まれてきたんだよ。
 そして、それをいつも心においてできていたのは、
 日本列島に住んでいた、あなたたちだったんだよ。
 当時の日本列島に住んでいた人たちは、
 生きとし生けるすべてのいのちに対して、祝福の言葉をかけ続けていた。
 日本のみなさんが虫の音をメロディとして聞こえるのは、
 ご先祖さまたちが、生きとし生けるものすべてに祝福の言葉を
 かけ続けていたからなんだよ
」(p.38-39)

すべての生命、すべての自然に祝福の言葉をかける。見て、触って、聞いて、味わって、「素晴らしい」「素敵だ」「かわいい」「美しい」「最高だね」「美味しい」などと祝福する。それが人間の存在意義であり、その祝福こそが祈りなのですね。


実際、僕は変わりました。
 いちばん変わったことは、心に余裕を持てるようになったことです。
 村長が日本のみなさんへのラブレターだといっていた本は『今日、誰のために生きる?』というタイトルですが、この答えは「自分のために生きる」です。
 いつだって「自分のために生きること」です。
」(p.44-45)

村長から言われて、ブンジュ村のことを日本人に伝えてきたSHOGENさんは、そのことで自分が変わったと言います。伝えるということは他人のためではなく、自分のためになっているんですね。
そのことがわかってくると、伝えようとして聞いてくれないことがあっても、落ち込んだり恨んだりせずにその行動を続けられるし、逆にその行動を続けていれば、そのことがわかるようになるのだと思います。


漠然とした不安が消え、心配が消え、深い深い安心感に包まれる。
 その安心感をあなたにプレゼントするのが、この本の目的です。
 安心感の中で生きられたら、心から満たされます。
 本当の意味で自分を生きられるようになります。
 すると人生は勝手にうまくいくようになります。
 そして、それが平和(大調和)のはじまりとなります。
」(p.48)

このようにひすいさんは本書の目指すところを語ります。
私も、何があろうと「大丈夫だ、何とかなる」という絶対的な安心感を持つことが重要だと考えています。それがあれば、不安や恐れから自分らしくない生き方を選択する必要がなくなるからです。


あと、日本でいうお手当。それはもう、めちゃくちゃやっていました。撫(な)でてあげたり、さすってあげたり。自然のエネルギーを取り込んでいる人ほど健康なので、そういう人にお手当をしてもらうと、どこか悪い人がいても身体本来の力を取り戻せるといっていました。ちなみに親指よりも小指のほうが自然意識に近いから、自然のエネルギーを送るときには、小指から触ってあげるといっていました。」(p.63)

ブンジュ村ではレイキのようなことを意図的にやっていたようですね。

丁寧にゆっくりするということは、気にかけるということです。私たちも気にかけてもらうと嬉しいですよね。それと同じで、気にかけるとは、愛なのです。それは、いのちを愛でていくということ。究極、いのちそのものが自然だから、自然を愛でていくところに繋がっていくのだろうと思うんですよね。」(p.64)

ヒロミさんが言われるように、レイキは時間がかかります。チャッチャッとやって終わりじゃなく、傍に寄り添って時間をかけてゆっくりと気にかけてあげます。それが愛すること。人に対しての所作もそうですが、モノに対する所作でもゆっくりと丁寧に心を込めてやる。日本の茶道とか舞踊とかの文化に、そういう点が見て取れますね。


言葉を通して祝う、祝福するという意味ですね。漢字では、「寿ぎ」とも書くようですが。一種の予祝(前祝い)のことでもあります。村長さんのお話とかぶると思いますけれども、私たちは祝い合うために、喜び合うために、言葉という道具を与えられたと考えています。」(p.122-123)

「言祝(ことほ)ぎ」という言葉について、はせくらさんが説明した部分です。
ひすいさんは「前祝いの法則」という本で、日本の文化は予祝だったと言われていました。私たちが言葉を操れるのは、互いに祝い合うため、愛で合うため。そういう言葉を使っていきたいですね。


あと、当時のショーゲンはいつも効率を求めていたというけど、今は世界全体に、効率という名のモンスターがのさばっていますよね。無駄をはぶき効率を求める生き方は、「今」を未来の手段にする生き方になりがちで、意識は今ここを離れて未来(結果)に偏りすぎてしまう。その意識状態では、日本語本来の言霊の威力は発揮できなくなってしまうのかもしれないですね。」(p.125)

効率を求めるのは、今ではなく未来に生きることになってしまうと、ひすいさんは指摘します。

今すごく理解できたことがあります。それは、村長がずっと僕に気をつけてほしいっていっていたことがあったんです。それは、日本語を話す人たち、今を生きている人たちは、発言したことが形になりやすいということ。だから「発言に気をつけて」といっていたんです。」(p.126)

今に生きることによって、言葉は創造の力を発揮しやすくなる、ということでしょうか。はせくらさんの説明を受けたSHOGENさんは、村長さんの言葉を思い出して、このように語っています。


あと、縄文の人たちは、「自分の好きなこと」を語る時間が、とっても多かったって村長はいっていました。」(p.127)

でもたしかに、自分の好きなことを語っているとき、エネルギーも上がって、心の状態もよくなりますよね。どちらにしろ、縄文の人は心にゆとりがあったんですね。ゆとりが生み出すのは遊び心。縄文を代表する火焔(かえん)型土器は、完全に遊び心の表れですよね。無駄を楽しんでないと絶対にあの形にはならない。効率の真逆にアートがある。」(p.127-128)

自分が好きなこととは、情熱を傾けている対象です。人それぞれに、情熱の対象が異なるもの。それが個性。だから、それぞれがそれぞれに情熱を傾けて、それを語り、表現することが重要なのだと思います。それが愛の表現であり、祝うことであり、遊ぶことになると思います。


人間はいつもどこかで争いをしていて戦争がなくなることはありません。しかし、気づいたら、小指と親指が争っていたなんてことはありません。
 身体のどこかが不調なときは、その部分がほかの部分を助けているからです。症状が現れているところは、必ずどこかを助けている結果なんです。
 身体はいつだって助け合っているんです。現代人がまだ到達していない「争わずに助け合う世界」をすでに実現しているのが、あなたの身体です。

「身体」こそ100年先をいく、僕らの先生であり、「ご神体」なんです。
 そして、身体こそ縄文宇宙。身体こそ100年先を行くタイムマシーンだったのです。
 身体と深く繋がることこそ「宇宙WiFi」に繋がることであり、「縄文センス」を開花させ、人間の可能性の扉を開くことになるのです。
 そのとき、あなたのハートに満たされるものが安心感です。そこは大調和の世界です。
」(p.172-173)

たしかに身体は、各部位が争うことはありません。調和があり、助け合いがあるのです。左足を傷めれば、右足は自然と左足をかばうようになって、右足にも痛みが出たりする。文句も言わずに傷ついても左足をかばおうとする。それが身体ですね。
もし人類がその域に到達すれば、戦争など起こりようがありません。そしてそれが本来の人間の姿であれば、そこには必然的に安心感があるはず。安心感がなければ到達できないでしょう。

では、誰からそれを始めるのか? 他の誰かが先に始めるのか? ・・・考えてみればわかるように、自分から始めるしかないんですよ。

誰の人生だって、嫌なことがあったときの帰り道は、葉っぱが揺れて「大丈夫だよ」と伝えてくれているんです。
 僕らは気づいていないだけなんです。繋がっていないと思っているから、見えていないだけです。
」(p.175)

身体が自然と調和が取れて助け合っているのだとすれば、自然も同じであり、自然の一部である私たちも同じはずなんですよね。みんなつながっていて、調和が取れている。だから私が困っていれば、傷ついていれば、必ず誰かが、何かが、助けようとしていてくれている。寄り添ってくれている。ただそれに気づいていなかっただけ。
では、どうすればいいのか? そう、ただ気づけばいいんですよ。そこに気づけば一体感が得られ、安心感の中で自分らしく、大自然の中の自分として生きられるようになるのです。


ヒストリーやルーツは、いいことだけとは限りません。みんな、お金を出して映画を観に行きますが、その主人公には、いいことばかり起きるわけではないですよね?なのに、なんでお金を出してわざわざ映画を観に行き、主人公に自分を重ね合わせて観るんですか?
 いいことも悪いことも織り交ぜて、体験したいテーマがあるからです。いい・悪いを超えて、見たい世界があるんです。それが「物語」というものです。
」(p.180)

順風満帆の物語なんて、ちっとも面白くありませんよね。波乱万丈だからこそ面白い。小説なら読みたくなるし、映画なら観たくなります。
私たちの人生も同じことではありませんかね? 人生は遊びであり、ドラマ(物語)なのです。


ご飯をゆっくり食べる時間を削って、家族と過ごす時間も削り、慌ただしく生きている人がたくさんいますが、幸せになることより、いったい何を優先したいのでしょうか?
 とはいえ、忙しい現代人は、毎食丁寧に食べることは難しいことでしょう。ですから1日1回でいいので、よく咀嚼して、ゆったり丁寧に味わうことを心がけてください。
 ブンジュ村では無駄を楽しむ心のゆとりをとても大切にしていましたが、まさにこれは、心のゆとりなくしてできないことです。
 ゆっくり食べる時間を作る。このゆとりの中に、幸せが生まれるんです。
」(p.195-196)

さらに箸置きがあります。箸置きは何のためにあるかというと、箸を置いてゆっくり味わうためにあるのです。」(p.196-197)

たしかに箸置きというのは、最初に食卓に箸を並べて置くためだけにあるとしたら、何だかおかしいですよね。なるほど、食べている間も、箸を置いておけばいいし、そのためにあったんですね。
ダイエットの方法として、よく噛んでゆっくり食べるというものがあります。その具体策として、食べ物を口に入れたら箸を置いて飲み込むまでは箸を持たない、という方法がありました。そもそも箸で食べ物をつまんで食べるという食べ方からして、少量を口に入れる食べ方になり、食事に時間をかけることになります。箸や箸置きを使う日本の食文化は、食事をゆっくりと味わいながら食べることに最適なものかもしれませんね。


虫の音に耳を傾け、自然の美しさを愛で、日々の食事を丁寧に味わう。
 本音に素直になり、愛を持って言葉を語り、自分を愛する。
 心に余裕を持ち、生きとし生けるものに感謝し、すべてを「かわいいね」と愛する。
 僕たちのご先祖さまがずっと続けてきたこの暮らしの記憶を、1日も早く思い出していきたい。
」(p.217)

SHOGENさんのこの思いを、私も共有したいと思います。だからまずは1食でもいいから、ゆっくり味わって感謝しながら食事をしましょう。そして、外を歩いている時は空を見上げて、心のゆとりを取り戻しましょう。そう思うのでした。


あるとき、村長の奥さんであるママダマスが、僕にこういってくれたことがありました。
「村長は、ショーゲンにいろいろと教えることで、自分で腹に落としてたところもあるのよ。ショーゲンに伝え続けることで、自分も理解を深めていたのよ」
 そういわれたとき、ロボットのような自分でよかったんだと思えました。
」(p.218)

教える者がもっともよく学ぶ。私もそう言っていて、私がこの幸せになる考え方を広めようとしているのも、私自身がより深く理解するためでもあるのです。
そして、教える対象がいるということは、教える側にとってもありがたいことなんだなぁと改めて思いました。教えさせていただけるからこそ、自分が学ばさせていただけるのです。そういう意味では、ダメな自分という存在でも、存在意義があるってことですね。


SHOGENさんと言えば、2025年7月5日のことが気になりますが、何が起こるかはどうでもいいことだなぁと私は思っています。それより、その日を境に、世界はより良い方向へと進んでいくんじゃないかというワクワク感があります。私たちは「ひとつのもの」であり、つながっている。だから、何があろうと大丈夫だ、何とかなる。そういう気持ちになれるのです。

本書を読んで、さらにその感を強くしました。今年もきっと良い年になるでしょう。

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2025年01月12日

70歳からの手ぶら暮らし

70歳からの手ぶら暮らし [ 松原惇子 ] - 楽天ブックス
70歳からの手ぶら暮らし [ 松原惇子 ] - 楽天ブックス

Youtubeで本の紹介をしている動画を観て、面白そうだと感じて買った本になります。
著者は松原惇子(まつばら・じゅんこ)さん。私はよく存じ上げなかったのですが、おひとりさまの終活を応援する団体、NPO法人「SSS(スリーエス)ネットワーク」を立ち上げた方のようです。


ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。

65歳で持ち家を手放し、75歳で愛猫を亡くし、母を亡くし、ひとり身で身寄りもなく、国民年金で年金額も少ない、ないない尽くしのわたし(わたしの「手ぶら暮らし」の詳細は1章で)。傍から見たら不幸の条件が重なって見えるかもしれないが、強がりでもなんでもなく、実際は違う。毎日を機嫌よく暮らしている。」(p.3)

一方、日本人は、総じて不安症と言ってもいいほど、不安な人が多いように思う。
 日本人はお金があっても不安、住む家があっても不安、体力が落ちても不安、血圧が上がればもっと不安、そして、家族のある人もない人も、ひとりで迎えるだろう老後の不安を抱えている。
 わたしも日本人なので気持ちはわからないではないが、果たして、それでいいのだろうか。不安を抱えたまま人生を終わっていいのだろうか。
」(p.4)

身寄りもなく賃貸住宅暮らしだったり、90歳過ぎても一人暮らしだったり、貯金が0円だったり、条件だけをあげると不幸の掛け合わせのように感じるだろうが、実際は……。あとは読むときのお楽しみとしておこう。」(p.5)

「はじめに」の中で、松原さんはこのように書かれています。たしかに条件だけ数え上げてみれば、不安に感じても仕方がないと思えるかもしれません。けれども、同じ条件でも不幸な人がいれば幸せな人もいる。たとえ老後であっても、幸せは条件じゃないってことですね。


これは幸運で片づけられる出来事ではないだろう。わたしが彼女に魅かれるように、社長も彼女の率直で正直な人柄に心を動かされたからこその親切だったのではないだろうか。
 そう、幸運を引き寄せる種は、天から降って来るのではなく、自分の中にあるのかもしれない。
」(p.46)

これは90歳で賃貸アパートで一人暮らしをしている千葉さんという女性の実例だ。貧しい家庭環境で育ち、18歳で仙台でひとり暮らしを始めた千葉さん。ところが、そこで出会ったお菓子会社の社長から、学費を出すから手に職をつけろと言われて経理を学んだ。そのことが、自立して独りで生きる力を与えてくれたようです。
千葉さんのように賃貸アパートだと、建て替え時に追い出されたりもします。更新で値上げされたりすることもあります。そして、老後の所得は年金以上に増えるあてもないし、高齢者一人暮らしで新たに部屋を借りるのは大変です。しかし千葉さんの大家さんは、千葉さんの人柄が気に入って、建て替え後も同じ賃料で最期まで暮らしていいと言われているのだとか。

千葉さんは貯金はないと言います。でも健康だから何の不安もないと。詳細には語られていませんが、年金は12〜13万円くらいはありそうですね。それで家賃が5万円で、死ぬまでこの固定費が変わらないと保証されているのであれば、まぁ、今が大丈夫だから将来も大丈夫と思えるかもしれないなぁと思いました。
ただ、何ごとにもネガティブに考えず、ありがたいことだと考える方のようなので、そういう幸運を引き寄せているのかもしれません。


お金がないのは、決して悪いことではない。選択肢がないので、迷わなくて済む。これは高級有料老人ホームに入所された方たちの取材をして痛感していることだからだ。なぜなら、高級有料老人ホームに自分の身を預けるというのは、相手の管理下に自分を置くということ。それを安心という人にとっては、良い所かもしれないが、自由な老後を過ごせるわけではないからだ。」(p.84-85)

これは、両親が亡くなった後の実家で暮らす70歳の女性の実例。独り立ちすることなく親と同居を続けて、結果として今の状況になった。家はあるがお金はない。だから老人ホームに入るという選択肢がない。実家で一人暮らしを続ける以外に方法がなかった。そしてそれを受け入れて覚悟を決めたからこそ、平安な気持ちで暮らしていられるのだと言うのです。
私は高級老人ホームとも言えるところで老人介護職をしていました。だからこそわかるのです。介護されるようになると、本当に自由がありません。


わたしなりに分析すると、彼女には「ひとりの覚悟」ができている。ひとりで高齢になることから逃げようとしない。どんと、ひとりを受け止めて生活している。そして、今の生活を楽しんでいる。それに尽きるような気がする。」(p.95)

これは、実家で親の介護と看取りをして、今はUR住宅で一人暮らしの71歳の女性の実例だ。母親の介護では、余命3ヶ月と宣告されたこともあり、同意のもとに施設に預けたそうだ。私も家族介護の現場を見ていますが、家族じゃないからやりやすいということはあるのです。
毎月20万円ほど料金がかかったそうですが、余命3ヶ月だから思い切って預けられたのだと言います。実際は半年かかってしまい、ちょっと焦ったと笑って言われます。

UR住宅に引っ越したのは、実家の面倒をみるのが大変だったから。私もマンションを買っていましたが、管理が面倒くさいと感じていました。
ただこの女性は、特に収入もないようなので、賃料の高いUR住宅でいつまで暮らせるのか気になります。その部分は明確に語られてはいませんが、おそらく残りの人生が何年かを計算し、そこまでは金銭的に大丈夫という算段をされておられるようです。そしてその後のことは……。まぁ何を決めておられるのかはわかりませんが、覚悟をされておられるようです。


いいんですよ。自分が幸せなら。人がなんと思おうといいんですよ。
 自分の幸せは自分で決める。人と比較する必要もないし、ましてや後ろめたく思う必要などまったくなしだ。だって、あなたのしもの世話をしてくれるわけじゃないでしょ。
」(p.105)

75歳で団地暮らしの女性の実例。使えるお金は少ないが、団地猫の世話をして、時には自腹で動物病院で治療を受けさせたりしているという。他人からすれば、そんなもったいないことに使わなくても……と思うかもしれませんが、この女性がこれで幸せだと感じているのですからね。


わたしは思った。母はすべてを受け入れたのだと。そして、過去と比較することをやめ、目の前の現実と向き合い、明るく楽しくお世話になろうと決めたのだ。
 わたしは仕事柄「いい所があったら教えてください」とよく聞かれるが、今度から、「いい所はないけど、いい所にすることはできる」と答えることにする。
」(p.111)

松原さんのお母さんは、ずっと自宅で暮らしたいと思っておられたそうです。しかし96歳の時に転倒して3ヶ月入院し、身体機能が衰えたことで、松原さんは施設に入るよう説得したのだとか。最初は抵抗していたお母さんですが、最後はそれを受け入れ、受け入れたからにはその状況で明るく暮らそうとされたのですね。
どうするのが正解かなどはわかりません。ただ、松原さんはそうするのが良いと考え、お母さんもそれで良いと受け入れた。受け入れたからには、その状況で幸せであろうとした。そういうことだろうと思います。


「74歳ということは……、あと、14年をどう生きるかってことですよ。薬を飲んで長生きしたいのか、体のことを忘れて、残りの人生を生きたいのか……。松原さん次第です」と言うではないか。
 お見事! そういうことですよ。わたしは嬉しくて、小学生のように元気な声で、お礼を言うと、診察料260円を支払い、外に出た。ああ、なんて空気がおいしいのだろう。
「余命14年か」。そのつもりで、毎日を一生懸命生きないといけないな。些細な人間関係のことで悩んでいる暇なんかないわ。コロナ禍のどんよりした空気の中に久しぶりに光を見た気がした。
」(p.131)

コロナ時代に、駆け込めるかかりつけ医が必要だと思った松原さんが診療を受けて検査をすると、コレステロール値が異常など、いくつか良くないデータがあったそうです。それで薬を飲むべきか医師に相談すると、その医師から平均寿命まで14年なのだから、その生き方は自分で考えるべきだと諭されたのですね。
本当に、こういう医師ばかりだったらいいなぁと思います。そうすれば無駄に医療費が増大することはないし、無駄な医療によって、ただただ延命させられるような人生を過ごさなくて済むと思うからです。


いまだに身内がいるのが当たり前という前提で社会が動いている証拠だ。今の政治を見ていても、家族がいるのが当たり前、いない人は変人扱いだ。この国は人権のない国だとつくづく思う。でも、そのことについて戦わないわたしたちも悪いのだが。」(p.137)

一人暮らしの女性が救急搬送される時、救急隊員から当たり前のように身元保証人を尋ねられたという事例です。これだけ「おひとり様」が増えているのに、いまだに家族に任せることを当然とした社会から変わっていないのです。
私も、この問題についてよく考えます。高齢者の一人暮らしだと、住居を借りるにも、仕事を探すにも、苦労することが多いのです。それは、身元保証を求められるから。もっと合理的に考えて、最終的な保証は国がするように変えていく必要があるんじゃないかと思っています。


SSSの会員から「今はいいけど年を取ってからがひとりは不安」という声をよく聞くが、誰かに幸せにしてもらおうという気持ちがあるから出る言葉で、「自分を幸せにするのは自分」と知れば、不安は消えるはずだ。
 正直言って、誰かがいつもそばにいるのは煩わしい方が大きい。
」(p.148)

不安な人は、他人から幸せにしてもらうしか方法がないと信じているのでしょうね。だから他人を頼り、他人に依存し、自分自身を蔑ろにするのだと思います。

「こんなに明るいひとり暮らしなら、長生きしてもいいかな」と思わせる人の共通点は、強い孤独力を持っていることだ。彼らは、むやみに寂しがらない。それどころか、心の中は知らないが、いつ会ってもにこにこしている。ひとり暮らしで話し相手も子どももいないのに、である。
 彼女らが口々に言うのは、「ひとり暮らしは煩わしい人間関係がないからいい。夫や子どもがいないのは寂しいどころか自由でいい」と。
」(p.152-153)

そうなのです。一人でいることに不安や恐れがなければ、むしろ自由でいいと感じます。

ひとりを満喫している90歳の方は、毎晩寝る前に、自分の体の部位に手をあてて、「ありがとう、心臓さん」「ありがとう、膝さん」と感謝を捧げるそうだ。そうすると、体が喜ぶのがわかり、明日も楽しく生きようと思うのだそうだ。
 皆さん、努力しているのだ。孤独を味方に付ける自分なりの言葉のマジックを持っているのだ。
」(p.154-155)

これはレイキの自己ヒーリングと通じるものがありますね。独りと言っても、いたわるべき自分の身体もあるのです。そうやって身体との会話を楽しむこともできます。


そういえば、うちの父が生前によく言っていた言葉がある。父は子どもに価値観を押しつけたり、心配だからこうしろと言うことが一切ない人だった。だから、わたしはいつものびのびしていた。
 その父の言葉、それは「自由に生きなさい。自由ほど素晴らしいものはない」であった。当時は、よく理解できなかったが、この年になると納得できる。人生で一番大事なものは、お金でも家族でも仕事でもなく自由であること。
」(p.161)

私も同感です。もっとも大事な価値観は「自由」です。それなのに、不安や恐れから安心を求めて自由を手放す。けれども、動機が不安や恐れですから、安心という現実は引き寄せられず、相変わらず不安や恐れのまま。ただ自由がなくなるだけ。そのことに多くの人に気づいてほしいなぁと思います。


なんかの広告で、ゴッホの言葉を引用したらしいが、あまりにも、今のわたしの心境にぴったりな言葉だったので響いた。その言葉とは−−。
「美しい景色を探すな。景色の中に美しいものを見つけるんだ」である。幸せの目で見れば、名もない日も輝いてみえる、という意味らしい。
」(p.207-208)

すべては見方次第なのです。だから、今あるがままで誰もが簡単に幸せになれる。そう、私も言っているのです。


「手ぶら暮らし」というタイトルから、モノを持たない生活の話だと思った方もいると思うが、この本は、終活や断捨離を勧める本ではない。はっきり言って、それはたいしたことではない。木で言えば、枝葉だ。大事なのは根だ。そして根となるのが、生き方だ。老いをどうとらえているのか。どういう姿勢で生きているのかだ。」(p.212-213)

そして、いきいきと暮らしている皆さんにはある共通点があることに気づいた。それは次の3点だ。」(p.213)

「おわりに」で、このようにまとめておられます。重要なのは生き方なのです。そしてその生き方のポイントは3つあり、それを次のように言われています。「足るを知る」「感謝の心」「好きなことがある」 つまり、今あるがままで十分だと見ること、十分どころか恵まれている見る視点を持つことですね。そして、今の現状に満足しているから、その安心感の中で自分らしい生き方、自分が好きなことをする生き方ができるのです。


本書でいろいろな方の実例がありますが、どれも将来は絶対に安泰だと言えるものではありません。著者の松原さんも、今は仕事があって収入があるからUR住宅で暮らしていけるのであり、もしそれがなくなれば、UR住宅から出ていかなければならない。そうなったらどうやって暮らしていくのか? 絶対的に安心できる状況ではないのです。
しかし、そうであっても安心して生きることはできる。すべては自分の気持ち次第、見方次第だと言われているように思います。

私も、何とか就職ができてアパートを借りることができたので、今は妻と一緒に暮らせています。それもこれも、健康な身体があったからだとも言えます。ありがたいことです。しかし、将来どうなるかは未知数です。生涯現役の覚悟を持って生きていますが、どうなるかはわかりません。ただ、どうなったとしても「大丈夫だ、何とかなる!」という思いを持って生きています。

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タグ:松原惇子
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 11:13 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年01月25日

あなたが独りで倒れて困ること30

あなたが独りで倒れて困ること30 (一般書 439) [ 太田垣 章子 ] - 楽天ブックス
あなたが独りで倒れて困ること30 (一般書 439) [ 太田垣 章子 ] - 楽天ブックス

これもYoutube動画の本の紹介で知った本になります。たしかにお一人様の老後がふつうになってきた現代、どういう困ったことがあるのかわかってないことがあるかと思います。そういう興味から、この本を買って読んでみました。
著者は太田垣章子(おおたがき・あやこ)さん。司法書士さんですが、お一人様の高齢者が困難に直面する状況に出くわすことで、この問題を切実に考えておられるようです。


ではさっそく、一部を引用しながら本の紹介をしたいと思います。

この問題の要因は、急速に高齢化が進む日本で、制度だけはまだ「呼べばすぐに駆けつけてくれる家族がいる」前提だからです。日本の制度では『サザエさん』のような「家族が支え合う」時代のままで、時が止まっています。ところが家族関係が希薄化してきたことに少子化も加わり、家族だけでは到底太刀打ちできなくなってしまったのが現実です。」(p.3-4)

今の状況は本来の仕事ではない、彼らのシャドーワークで成り立っています。国は我慢強い、親切な善意ある人たちに頼りすぎています。でもそれでは、この先ダメなのです。」(p.4-5)

だからこそ何が問題で、何を決断する必要があるのか、そこに気が付いて欲しくて、この本に対策のポイントを詰め込みました。」(p.5)

「はじめに」で太田垣さんは、このように現代のお一人様老後の問題点を指摘されています。ただ、本を読めばわかりますが、この「はじめに」では国の問題を指摘しているにもかかわらず、本文では本人がどう対処するかに終止しています。しかも、「考えておきましょうね」くらいで、具体的にどう対処すれば解決するのかについては、踏み込みが浅いと感じました。


二人でいても、結局のところ「おひとりさま」なんだ……。そんな当たり前のことに、今さらながらに気が付きました。自分は結婚さえすれば奥さんに看取られると思っていましたが、そんな保証はどこにもないのです。」(p.27)

結婚して配偶者がいるから、お一人様を避けられるわけではありません。当たり前なのですがね。だって、どちらかが先に亡くなり、残された方がお一人様になるわけですから。また、一方が認知症になったら、それだけでも双方がお一人様なのです。


分からないから不安なんです。
 でも不安だからとお金を使わないことにばかり注力していると、「亡くなった時がいちばんお金持ち」になってしまう可能性もあります。
」(p.52)

老後が心配だからと貯金に励む高齢者が多いようですが、それで幸せなのでしょうかね?


ところが、その空室が目立つ狭い部屋ですら、70歳になるとなかなか借りられません。」(p.90)

高齢者と言うだけで、賃貸住宅を借りられないという現実があります。こういうところこそ、行政が保証人になって、大家さんが安心して貸せる仕組みを作ってほしいと思います。


あとは生活保護を受給するしかなくなります。でも生活保護を受給するためには、その受給ラインの家賃帯、つまり5万3000円以下(金額はエリアによって変わります)の物件に住んでいないといけません。」(p.157)

ミズエさんは、もっと早く今より家賃の安い物件に、引っ越しておかなければいけなかったのです。そうすれば家賃補助が受けられたはずです。」(p.157)

たまたまミズエさんの住んでいるエリアは、低所得の方々への居住支援を手厚く行っている地域でした。そういうエリアは、明け渡しの判決書を持って行政の窓口へ相談に行くと、緊急性があるということで担当者も頑張ってくれることが多いのです。」(p.159)

ミズエさんのケースが、生活保護受給要件よりも高い賃貸住宅で暮らしていたために、生活保護が受けられないということのようです。でも、これはおかしいですよね? だって、生活保護を受けなくても大丈夫だったからこそ、そういう高い賃貸住宅で暮らしていたんです。でも、その状況で働けなくなって、生活保護を受けたくなることはあり得ますよ。けれども、その状況ですぐに引っ越そうと思っても、高齢を理由に借りられないという現実があるのです。八方塞がりじゃありませんか。


たまたま今回は畠山さんが最初に亡くなったけど、この先、誰がどうなるかは分からない。だからこの付かず離れずの関係性が、ひとり住まいには心強いともみなさん話してくださいました。」(p.173)

偏屈者と言われて親族から見放されていた畠山さんが、一人住まいのアパートで亡くなられた時、すぐに発見されました。これは、公営住宅に住む仲間がいて、毎日の習慣をなんとなくわかりあっている関係があり、それによって異常をすぐに発見できたということでした。
都会の孤独と言われ、アパートの隣の人がどんな人か知らないなんてことはよくあります。でも、それでは部屋で亡くなっていても発見されず、事故物件にしてしまいます。ひとり暮らしであっても緩やかなコミュニティを作ることが重要なのだと思います。

一昔前は民生委員が地域を巡回し、高齢者含め要支援の人たちをサポートしていましたが、今の時代、民生委員も高齢になり、新たになろうという人も少なく、結局のところ「私を助けてください」と声を上げた人しか気づいてもらえない世の中になっていることを実感しました。」(p.183)

昔のような地域のコミュニティがなくなっているのですね。そうであれば、そこに行政が関与する必要があるのかもしれません。


50代から、自分が介護になった時のことをイメージして、その手続きを誰に依頼するか決めて託しておく。その方が保険に入るより大切なことです。そして、これこそがほんとうの意味での「終活」というものです。」(p.192)

死亡保険とか認知症保険というのは、それを受け取って後のことをしっかりやってくれる人がいてこそ役立つもの。だから、まずはそういう人を決めておかないといけない。家族関係が希薄になり、お一人様が増えてきた現代、後のことを誰に託すのかという問題があるのです。


すると病院は頭を抱えるわけです。
 そりゃそうですよね。ここで万が一のことがあれば、病院だって困ります。入院する際には、やはりすぐに対応してくれる「身元保証人」が必要なんです。
」(p.198)

昔はもう少し緩い扱いを病院側もしていたのでしょうが、万が一の時に家族が対応してくれないとか、入院費を払ってももらえないということが増え、結果どんどん厳しくなっているようです。」(p.199)

病院に入院するにも保証人が必要です。家族と縁がなくなったお一人様にとっては、まだ意識がはっきりしている状態であっても、入院させてもらえないという現実があるのです。


それでも自分の人生は自分で決めたくないですか? 大切な家族に判断させて、その人の先の人生に十字架を背負わせたいですか?」(p.212)

日本には、尊厳死協会というものがあり、この団体では、病気が治る見込みがなく死期が迫ってきた時、自分自身がどうしたいかを選ぶ権利を認めてもらう活動を行っています。協会では、「リビング・ウイル」といって、自身の意思を書面に残しておくことをすすめていますからぜひHPを見てください。」(p.212)

終末医療をどうするのかという問題は、自分で決めておくべきなのだと思います。公益財団法人「日本尊厳死協会」は、加入費は年会費2,000円(この記事を書いた時点)で、リビング・ウィルの管理などをやっているようです。


そこで初めて、後見人や身元保証会社がある、ということも教えてもらいました。もし自分が身元保証人と契約しないまま、突然入所することになった場合には、戸籍上の親族に打診がいくということも知りました。」(p.219)

老人介護施設に入所するにも保証人が必要なのです。そういう親族がいなければ、法的な後見人か身元保証会社に依頼しておくしかありません。しかし、そこまで考えて、お金を出して依頼しておく人がどれほどいるでしょうか?

身元保証人は、対象となる人物(ここでは入院する人や入所する人のこと)に何かあった際の緊急連絡先となったり、本人の意思が確認できなくなった時には、治療をどうするかの判断をすることもあります。
 そのため気軽に引き受けられるものではもちろんありませんし、背負う精神的責任も決して軽いものではありません。
」(p.234)

保証人は、安易に友人に依頼できるようなことではないってことですね。


もはや自分で自分の「死」の前後を備えておかないと、どうしようもない時代ということです。それこそが「少子高齢化社会」なのです。」(p.257)

日本の場合、亡くなるなど、その人に何かあった時に対応できるのは家族・親族か、正式に権限を与えられた者だけです。」(p.262)

繰り返しになりますが、日本では(今後、法制度が変わらざるを得ないかもしれませんが)、家族・親族以外には、何の権限もありません。だから当然、事実婚のパートナーには、何の権限もないことになります。たかが戸籍、されど戸籍なのです。」(p.267)

法律上の家族や親族にしか、その人が意思決定できなくなった時に、その人をどうするかを決める権限がありません。あとは、きちんと法的な手続きをした第三者です。
このことが、家族関係が希薄なお一人様の老後が増えてきた現代の状況とアンマッチなのです。


本書では、問題点を指摘してはいるものの具体的な解決策が示されていません。お一人様はどうすればいいのか、簡単には言えないのでしょう。
たしかに、保証会社はあるので、そこと契約しておけばいいとは言えます。しかし、相手が会社である以上、自分に何かが起こって必要になるまで存続しているかどうかはわかりません。なので、絶対的に安心な解決策とは言えないのです。

本書を読んで思ったのは、これはもう社会のバグだなということです。法律を変えて、お一人様でも安心して暮らせるようにしていかなければならない。そう思いました。

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posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 13:39 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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