2023年10月09日
人は家畜になっても生き残る道を選ぶのか?
X(旧Twitter)を見ていて、コロナ対策に関して私と同じような考えをお持ちの医師がおられたので、フォローしました。それが著者の森田洋之(もりた・ひろゆき)医師です。事実と論理に基づいて、堂々とコロナ対策のおかしさを主張されていました。特に、マスクやワクチンの押し付けに反対されたり、医療施設や老人介護施設における面会禁止措置のおかしさを指摘されるなど、素晴らしいご意見をお持ちだなぁと思いました。
その森田医師が夕張市で働いておられたことを知って、俄然興味が湧いたのです。財政破綻によって市立病院が大幅に縮小された夕張市。しかし、それにもかかわらずと言うか、それがあったからこそと言うべきか、夕張市の医療費は削減され、住民の健康状態も特に悪化もしなかったのです。そのことを知っていたので、森田医師の本を読んでみたいと思い、この本を買いました。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
「2019年に始まった新型コロナウイルス騒動。
医療業界をはじめ行政やメディアに先導されたこの騒動は、残念ながら「経済を壊し」「人々の絆を断ち切り」「自殺数を増加」させてしまった。
私は経済学部出身の医師という立場から、このような過剰な感染対策によるデメリットを憂いていた。だが、この「過剰にコロナを恐れてしまう風潮」は2022年になっても依然として継続している。」(p.2)
「今後もこのような風潮が続くのであれば、それこそ「新しい生活様式」となって社会に定着し文化になってしまうのだろう。
私はそんな「家畜」のような生活を、感染を恐れて人との絆や接触を断ち切るような社会を、絶対に子どもたちに遺したくない。」(p.3)
高校のサッカー部で、部員の一部にコロナ感染者が出たと言うだけで、みんなが楽しみにしていた大会に参加できないなんて事態も発生しました。コロナの健康被害は非常に小さいとわかってきたにもかかわらず、人々は恐れから過剰に反応してしまっている。その過剰な反応によって、これまでの正常な社会生活が壊されているのです。
森田医師は、これが本書を書こうとした動機だと言います。愛する子どもたちに、このような社会を遺したくない。その強い思いが、あえて世の流れに抵抗させるのですね。
「交通事故で3千人〜5千人、インフルエンザで1万人、自殺で2万〜3万人の日本人が毎年毎年死んでいるのである。ちなみにこれだけ大騒ぎしている新型コロナ肺炎は、この世に登場してから通算でまだ100人しか日本人を殺していない(注:数字は2020年4月現在のもの。ちなみに新型コロナ死は2020年が約3千人、2021年が約1万5千人)。」(p.13)
これは私も早い段階から主張していました。「交通事故を恐れて車をなくせ!と主張するのですか?」と。しかし、多くの人は論理では納得しません。マスコミから不安を煽られ、怖がる大衆に対して政府がこびて、その悪循環で無意味で無駄な対策がどんどんとられていった。私もそう感じています。
「こうして高齢者は入院・入所した途端に行動を制限され寝たきりになっていく。
多くの高齢者の願いは、「自宅で好きなものを食べて、自分らしく生活したい」という至極単純なものだ。それなのに、世間や医療のゼロリスク神話はいともたやすく高齢者の生活を奪ってしまう。リスクを恐れるあまり、多くの高齢者は今「かごの鳥」になっているのだ。」(p.18)
私も高齢者施設で働いていましたから、このことはよくわかります。ただ、恐れているのは医療関係者や家族だけではありません。当のお年寄り自身も恐れているのです。だから、関係者がみんな恐れて、恐れの相互作用によって、ゼロリスクを求める結果になっていると思っています。
「自動車の製造を止めれば、交通事故で死ぬ年間100万人の命を救えたはずだ。でも僕らは歴史上決してその選択肢をとらなかった。意識するかしないかにかかわらず、我々はリスクと共存し、それを許容して生きてきたのだ。」(p.20-21)
理屈で言えば、まさにその通りなのです。けれどもほとんどの人は理屈で考えて選択しているわけではありません。恐れによって萎縮してしまっている。だから、論理的な選択ができないのです。
「もちろん新型コロナにかからないことで健康を保つことも大事だが、過度の自粛や行動規制で親しい人たちとの交流が減ってしまって本当の健康が得られるのか?という視点はもっともっと大事だ。健康とは体の話だけでなく、心の健康も、社会的な健康(絆を紡ぐことで生まれる良好な人間関係・コミュニティーとしての健康)も含まれるのだから。」(p.23-24)
人も社会も総合的なものです。比べ得ないものを比べて、選択しなければならないのです。それなのに、感染しない、重症化しない、ということだけに特化した選択がなされてきた。この思考のいびつさには、本当に腹立たしく感じました。
「マスクがよい、ワクチンが効く、人との接触を減らせば感染リスクが下がる、手洗い・消毒は基本だ。そんな話はすべて、事実の半分に過ぎない。マスクをしてもしなくても、人と接触してもしなくても、変異株ごとに効果が薄れてゆくワクチンを打とうが打つまいが、新型コロナにはかかるかもしれないし、かからないかもしれない。統計的に差があったとしても、自分で実感できるほどの差ではない。それよりも長年にわたってマスクをし、人との接触を避け、ワクチンを打ち続けるほうが負担の方がはるかに大きい。にもかかわらず、都合のよい面だけを取り上げれば、あたかも世のため人のために役立つ知識のように見えてしまう。」(p.26)
テレビを中心とするマスコミは、連日朝から晩まで同じことを繰り返し、国民を「恐れ」で洗脳してきました。一部の事実だけを切り取ることで、それだけが事実の全てであるかのように錯覚させる手法で洗脳したのです。もちろん、簡単に洗脳されてしまう国民がそのレベルだというだけのことですがね。
「なぜ日本の医療業界は縦の機動性も、横の機動性も乏しいのか。それは、日本の病院の8割が民間で、基本的にお互いがライバルであること、そして国の指揮命令系統が及びにくいということが大きく影響しているのだ。ちなみに、先進国の病院は多くが公立もしくは公的病院で、純粋な民間病院は僅かである。」(p.39)
日本はコロナ病床が十分あったにもかかわらず、病院同士の連携が取れないなどで、一部で医療逼迫が生じた。つまり、病床数の問題ではなく、機動性の問題なのだと森田医師は分析します。そして、その元凶は市場経済による競争にある、と指摘されています。
この点に関しては異論があります。私はそうは思いません。このことは、また後で書きます。
「合計特殊出生率日本一の鹿児島県・徳之島の伊仙町で子育てをするママさんは言う、
「地域のどこに行っても子どもたちが名前を呼ばれて可愛がられる。安心して地域の人間関係に子どもを任せられる徳之島での子育ては、都会での子育てとは雲泥の差」と。
私の前任地・北海道の夕張市では、頻回に徘徊する100歳で重度認知症のおばあちゃんもアパートで一人暮らしをされていた。近所の人たちの何気ない見守りなどの「地域住民の絆」は、通常病院や施設でしか対処できないだろうと思われる高齢者の医療・介護需要を、いとも簡単に吸収してしまっていた。それはまるで、豊かな土壌が降り注ぐ雨を吸い込むようだった。」(p.41-42)
私が住んでいたタイでも、暮らしている多くの日本人、特に女性から、子育てがしやすいという声が聞かれました。どこに連れて行っても、タイ人が子どもを歓迎し、大事にしてくれるからです。親が子どもを見ていなくても、お店の従業員が見ていてくれる。親が責められることがない。だから楽なのです。
お勧めしている「神との対話」でも、進んだ文明では小さなコミュニティで暮らすと言っています。大都会では隣人の顔も知らなければ、どんな人が住んでいるかもわからないことが多々あります。そんな状態では、健全なコミュニティを作ることは難しいのです。
ただ、タイ人の妻を日本に連れてきた時、言われたことがありました。「人がいない」と。家はあるのに、車は走っているのに、人の姿を目にしないのです。田舎であってもそうです。人はそれぞれの家にこもり、または街に出かけていて、集落に人影がありません。タイでは、どこへ行っても人の姿があるのに。
昔のような縁側で夕涼みなんて文化も廃れました。人がいるのかどうかすらわからない家の中で、エアコンを効かせて、それぞれが孤立して存在している。それが今の日本のような気がします。そんな日本で、かつてのようなコミュニティは復活するのでしょうか?
「薬を飲んでも無駄と言っているのではない。119人に1人でも、かけがえのない命を救えるのならそれは非常に大きな効果である。しかし、その1人に入れるのかどうかが「確率論」であるということに変わりはない。「それならは、副作用も考えて私は飲まない」という選択肢だって、間違いではないのである。」(p.51)
日本は画一的であり、同質を求められます。いや、同質を強要される文化があります。だから、個人の自由が往々にして侵害され、その侵害を当然とみなすのです。
タバコやアルコールの健康被害も同様です。たしかに統計数値には表れていますが、個人に現れるかどうかは確率的なもの。だからこそ、そのリスクを知った上で個人の自由に任せるというスタンスが重要だと思います。
自由に自分らしく生きること。それこそが、何よりも尊ばれるべきものだと思うからです。
「つまり、少なくとも我々が頑張った「ソーシャルディスタンス・マスク・手洗い・消毒」などの感染対策は、客観的事実としてRSウイルスやその他ウイルスの感染拡大の防止にはあまり効果がなかった、ということだ。」(p.54)
コロナ対策として国民全体がマスクなどの対策を強要されたにもかかわらず、RSウイルスなどの感染症が多発したという事実があります。そういう事実を無視して、自称専門家がマスクを強要する。そしてそれをメディアが拡散し、政府が後押しする。まったく科学的ではない対策が、さも正当であるかのように堂々と行われ、押し付けられる。本当に愚かなことです。
「アメリカの北部に隣接するこの2つの州は、全く違う感染対策を実施しているのだ。ノースダコタはマスクを義務化し、経済規制も強固に実施した。一方サウスダコタはマスク義務なし、経済規制もほぼ無し、いわゆるノーガードに近い非常にゆるい感染対策だった。その両者の感染者数を比較してみると、ほとんど一緒、きれいに同じ曲線を描いていることがわかる。」(p.57)
こういう事実の指摘は、SNS上でも多数見られました。しかし、メディアも政府も、そしてほとんどの国民も、恐れを捨てることはありませんでした。
「ただ、日本の医療崩壊について言えば、世界一の病床数を誇っていながら、2年経ってもまだ全病床の2.5%しかコロナ対策に回せなかった。つまり医師会含め医療業界全体は新型コロナに対して一丸となって対処できなかったのだ。これではいくらピークを後にずらしても、いつまで経っても医療の受け入れ体制は微増しかないだろう。」(p.58-59)
今回のコロナ禍では、日本医師会がガンだということもよくわかりました。硬直した全体主義的な組織だからだと思います。まったく自由がなく、それぞれの医師が日本医師会に反して対策に立ち上がるということもなかった。
森田医師は、病院のほとんどが国公立なら、政府の鶴の一声で連携できたと思われているのでしょう。たしかに、そういうことが可能かもしれません。実際に諸外国がそうしているのですから。しかし、国公立ばかりの状態による弊害もあります。計画経済と同じですから、非効率で上手くいきません。保育園の経営を見れば明らかではありませんか。
私はこういう問題は、むしろ個々が自由に考えて行動できるようにすることによって、その時にふさわしいリーダーが現れ、やり方が出てくると思っています。問題なのは硬直した全体主義的組織であり、その解決策としては自由の推進しかないと思っています。
「実は、私がいままで
「大事なのは重々わかるんだけど、今ちょっと忙しいから…」
と後回しにしていたコミュニケーション術のキーワードがそこにあったのだ。
つまり、
「へ〜」=傾聴
「そうだよね〜」=共感
「わかる〜!」=承認
今までコミュニケーションスキルの講演などで散々聞いてきた「傾聴」・「共感」・「承認」って、これなのか!と。」(p.108-109)
ファミレスで若い女性が、延々とこういう会話をしていたのだそうです。話題は日常の些細なこと。それに対して必ず「へ〜」「そうたよね〜」「わかる〜!」と繰り返し相槌を打つ。そこにコミュニケーション術の極意を見出されたのだそうです。
これはたしかにそうですね。特に男性は解決策を示そうとしたり、どうでもいい話題だと面倒くさがって無視しがちです。私もそうなので耳が痛いです。(笑)
けれども女性のこの共感的な会話は、相手を否定せずにありのままに受け入れています。何も解決策を示さないから無意味なように見えて、実は問題解決になっているのです。
それは、問題というのは、その人が問題だと思うから問題なだけだからです。受け入れてもらうことで心が軽くなるということは、問題視しなくなっているということ。つまり、問題が解消しているのです。
「徘徊するから鍵をかける。おむつの中の便をいじるからツナギを着せる、夜中に暴れるから睡眠薬を飲ませる…。こんなことさせられたら心のやさしい介護職ほど真っ先に辞めていきます。ウチでは介護のゴールは『信頼関係の構築』とスタッフに言っています。そのためには何をしてもいいと。施設に鍵をかける、というのは、爺ちゃん婆ちゃんを信用していないということ。だからウチでは鍵はかけない。外から鍵をかけられた、監獄のような場所にいて気持ちのいい人がいますか?そんなところで信頼関係が生まれますか?徘徊するなら、とことん付き合う。信頼関係ができれば、ここが居場所として落ち着ける場所になったら、徘徊という周辺症状は消えていきます。居たくない場所だから徘徊するんです。」(p.123-124)
この拘束の問題は、老人介護だけでなく障害者介護においても同様ですね。私は老人介護施設で働いていたので、拘束されるお年寄りを見てきました。だから、私自身は老人介護施設に入りたくないし、家族を入れたくもないと思っています。
けれども、本当にここにあるように拘束せずに上手くいくのか? という疑問はあります。この引用した文は、神奈川県の郊外で介護施設を経営する加藤忠相氏の言葉だそうです。信頼関係を作れば拘束は要らなくなるとのこと。
でも、意思の疎通さえできないお年寄りに対して、どうすればいいのでしょう? 徘徊すればずっと付き添うって、いったい誰が付き添うのでしょう? その介護士にも生活があるし、仕事の割当もあるのではありませんか?
この方以外にも、拘束は不要だと主張される方はいらっしゃいます。しかし、現場を経験した私には、それが可能だとはなかなか思えないのです。機会があれば、その拘束しない介護を体験させていただきたいものだなぁとは思いますが。
実際に繰り返し便いじりをするお年寄りの布団や衣服を洗い、ベッドや床をきれいに拭き、手を洗って爪に入った便を取り除いてあげるということを、毎日のようにやってみてください。それも暇な時間にするのではなく、食事前の忙しい時間にすると考えてみてください。どんなに心優しい介護士だって嫌になるでしょう。便いじりできないようにツナギを着せたり、ミトンをはめたくなってしまうのです。そういう介護士のつらい思いも、わかってほしいなぁと思います。
「でも、よく考えてみれば「何かあるに決まっているのが人生」。特に高齢の方々にとって人生はそんなに長い時間が残されておらず、その短い余生の最後に「何か」があって人生が終わるわけである。
その「何か」が何になるのか、何にするのか…。その人生の選択は本人の課題であって我々医療者の課題ではないのではないだろうか。
そう、実は「何かあったら困る」のは患者にもまして医者のほうなのである。」(p.128)
これは医療者だけでなく、介護者にも言えますね。家族もそう。つまり、周囲の人にとって、その人に何かあることが受け入れられないのです。自分たちの責任にされてしまうから。
では、その責任を押し付けているのは誰か? それは本人と言うよりも世間であることが多いように思います。何かあったら、まったく関係のない人たちから責任を問われる。日本にはそういう同調圧力があるのです。
そういう同調圧力があるから、医者が対処しなければ世間も家族もその医者を叩きます。だから医者はリスクを負えない。
では誰がリスクを負うのか? 本人しかいません。しかし、それが認知症になっているお年寄りとなると、どうでしょうか? 本人が責任を負うことにできますか?
わかっているのです。本当は本人の自由にさせてあげたい。でも、それを許さない空気がある。その空気に抵抗するのは難しいのです。
けれども、この風潮を変えていかない限り、私たちはみんなが誰かに押し付けられて自由を奪われる運命にあるのです。
「しかし、問題はどちらの立場に立つかではない。後述するように、どちらの立場に立っても本質は同じ、「他者の多様性を受け入れてあげられること」と「それでも味方でいてあげられること」だと私は思っている。」(p.131)
森田医師はコロナのワクチンを受けない考えですが、奥様は受けられたそうです。それを公開された時、批判するコメントも多々あったようです。奥様を説得すべきではないかとか、放置しておいてそれで愛と言えるのか、などなど。
私は、森田医師の考えに賛同します。なぜなら、愛は無条件だからです。無条件とは、相手がどうするかは相手に任せる、相手の自由にさせるということです。相手がどうであれ、それを受け入れるのが無条件の愛ではありませんか。
「もしかしたら、彼も孤独に一人で悩んでいたのかもしれません。患者さんの行動変容も、若手医師の行動変容も一緒なんですね。人の心を動かすのって「味方になる」ことからしか始まらないのかも…。」(p.144)
タバコをやめようとせず、糖尿と血圧の薬を出せという患者に、どう向き合えば良いかと悩む若い医師に対して、森田医師は「味方になること」をアドバイスしたのだそうです。つまり、まずは信頼関係を築くってことですね。信頼関係がない状態で上から目線で命令されても、誰も従おうとはしませんから。
そして、この若手医師に対するアドバイスも同様で、上から目線で正論を吐くのではなく、まずは受け入れて、味方になることが重要だと森田医師は思われたようです。
ただ、それがテクニックであっては意味がないと思います。目的が患者を変えることであるなら、味方になることがテクニック(方法)になってしまいがちです。
先ほどのワクチンの話でもあるように、目的が「味方になること」でなければならないと思います。つまり、愛することです。相手を完全に受け入れて、相手を信頼して、完全に味方になることです。ただ、自分がどう考えるかは正直に伝える。たとえ嫌われたり、反発されたりしようと。自分に正直であることです。
その結果、相手が変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。でも、その結果はどうでもいいのです。目的は、味方でいることですから。
「もちろん、国全体で集団免疫を得るためには若者のワクチン接種も必要、という議論はあるだろう。
ただ、リスクが限りなくゼロに近い若者に対して、
「国全体の利益のためなのだから、妊娠・出産などへの長期的な副作用のリスクには目を瞑れ」
という全体主義的な論調には大いなる違和感を感じる。強く反対の意を表しておきたい。」(p.154-155)
重症化しやすいお年寄りの命を守るために、ほとんど重症化しない若者もワクチンを打つべきだ、という主張も多々ありましたね。「(高齢者の)命と経済とどっちが重要なんだ!?」と迫る人もいました。
私も森田医師の考えに賛同します。リスクというのは、全体を見る必要があるのです。もちろん、考え方は人それぞれでしょう。だからこそ、一方的に押し付けてはならないと思います。
「病院は「治療の場」です。そこでは安全・安心が基本です。
「ノドにご飯を詰まらせたら大変!」と絶飲食、「転んで骨折したら大変!」とベッドの上で安静に。
病院でなにかあったら大変ですからこれは当然です。
でも古川さんは安全・安心を得た代わりに「生活」を奪われて寝たきりになってしまった。
「生活の場」に戻っただけで元気になって、昔の教え子にも会えるようになった。」(p.187)
末期の肺がんと認知症で入院していた古川さんは、寝たきりで話すことも食べることもできなくなっていたそうです。それが宮崎県の「かあさんの家」に入居したら、1ヶ月で自分でご飯をモリモリ食べるようになり、昔の教え子が訪ねてくれば昔話をして楽しむようにもなったのだとか。
これは、刺激のないただじっとしているだけの病院から、生活の場に戻ったことによる変化でもあるのでしょう。あるいは、ここには書かれていませんが、薬の影響もあるのではないかと思います。末期のお年寄りに対しても、たくさんの薬を飲ませる医者はいます。
本当に守るべきは命なのでしょうか? それとも、人間らしく生きることなのでしょうか? まさに、この本のタイトルで問われていることですね。
「今、夕張市では病院がなくなった代わりに、24時間対応の在宅診療、24時間対応の訪問看護がすべて揃っているんです。
夜中でも馴染みの医師・看護師が見に来てくれて、診察してくれて、家で点滴までしてくれる。」(p.192-193)
財政破綻した夕張市は、市民病院を1/10に縮小したそうです。ただし、在宅医療にシフトすることで、その穴を埋めようとした。それが功を奏したということのようですね。
豊かになった日本では、何が何でも大病院で最先端の医療を受けたい、と考える人が多いようです。けれども、そうすることが必ずしも生活の質に寄与するわけではないということが、この夕張市の実例からわかる気がします。
「これは少なくとも、経済学的な最適な状態=「限りある医療資源が全国民に適切な量だけ分配されている状態」とは言えないだろう。各都道府県によって医療の提供量がこれだけ違うのだから言い訳のしようがない。まさしく「市場の失敗」と言っていい。」(p.210)
県別に人口あたりの病床数と1人あたりの入院医療費を見てみると、相関関係があることがわかったそうです。つまり、病床数が多い県ほど、1人あたりの入院医療費が高くなっている。
その理由はいくつか考えられますが、病床があるのだから埋めてしまおうという考えが広まっている、ということだろうと思います。医療者は、入院した方が安全だし、その分、病院も儲かると考えるし、患者も入院した方が安全だと考える。そしてそれを容易にしているのが国民皆保険制度です。懐があまり傷まないのですから、安易に入院を選択するでしょう。
「こんな状況で、我々日本国民は「医療を自由競争・市場原理に任せてきてよかった」と言えるのだろうか。
もう一度言う。医療はビジネスには馴染まない。」(p.215)
森田医師は、医療がビジネスとして行われているからこういう問題が起こるのだと考えておられるようです。
しかし、私はそれは違うと思っています。医療界に自由競争なんてありませんよ。自由競争というのは、他の誰かの指示に従うのではなく、事業者が自分で考えて価格やサービスを決められるから成り立つのです。国民皆保険制度によって医療のサービスや単価を政府に決められている状態で、どうやって自由競争が行えるのでしょう?
これは保育もそうです。介護もそうです。政府が事業に関与し、売値を決めてしまっている。だから事業者は、その売上の中でコストを考えなければならない。だから保育士や介護士の報酬を上げることもできず、人手不足になっているのではありませんか。
医療もそうです。コロナで病床の増減に機動性を欠いたり、病床や医療スタッフの貸し借りもスムーズにできなかったのは、自由競争が邪魔したわけではありません。逆に、自由競争じゃないからできなかったのだと思います。
もし、サービスと単価を事業者が自由に決められたらどうですか? 病床が足りない県があれば、隣県の病院が「うちで引き受けるけど10%増しでどう?」というような取引もできたはずです。患者に対しても、「10%増しならすぐに入院できるけど、そうでないならしばらく待たないといけない。どっちを選びますか?」と、それこそ患者の自由意思を尊重できたはずです。
また、政府や自治体が運営するから、無用に病院を作って病床を増やし、医療費を増加させていたと言えるのではありませんか? 儲からなければ削減するという市場原理が働けば、病床数も適正に維持される。そのことを夕張市は示したのではありませんか?
日本では、何でも同一サービス同一料金が当然だ、という考え方が広がっていますが、世界ではそんなことはありません。タイでは、同じ路線のバスであっても、乗車賃が違います。サービス内容に違いがあるからです。乗客は、どのバスに乗るかを自分で選ぶことができます。日本には、そういう自由がないのです。
だから、タクシー業界を守るためにライドシェアが解禁されません。海外で利用した人なら、その便利さがわかります。けれども、利用したことがない人が、恐れ(不安)から反対しています。
自分が怖いなら、自分が利用しなければいいだけのことです。これまで通りにタクシーを利用すればいいではありませんか。それなのに、他人がライドシェアを望んでいるのに反対し、他人の自由を奪おうとする。
こういう自由がないのが日本の社会なのです。だから選択的夫婦別姓制度や同性婚制度の導入にも、関係のない人が反対する。ただ怖いから、不安だから反対して、それを願う人々の自由を制限しようとする。ぜんぶ同じ構図じゃありませんか。
そして、医療界も同様です。自由がない。規制ばかり。不安や恐れを背景に、政府がコントロールしようとする。どこにも自由競争なんかありませんよ。森田医師は、そこを正しく理解していないと感じました。
私は、この本で述べられている森田医師の基本的な考えには賛同します。ゼロリスクはないし、比較が困難なものを比較して何かを選択しなければならないなら、それは本人が決めるべきなのです。
だから私も、自由を奪われてまで長生きしたいとは思いません。ただ生きながらえるだけの人生はお断りします。
けれども、そういう自由が多くの場面で奪われているのが、今の日本社会なのです。ぜひ、そういうことを考えてみてもらえたらいいなぁと思います。
そして本書は、そういうことを考えるきっかけを与えてくれるものだと思います。
2023年10月15日
女子大生、オナホを売る
おそらくX(旧Twitter)で何かのポスト(旧ツイート)を見て、面白そうだと思って買った本だと思います。タイトルもよくわからず、「女子大生」が何かをしたのか、そういう設定での話なのか、それすらよくわからずに買ったのです。(以前、女子マネージャーがドラッカーを読んだら・・・みたいな設定の本もありましたよね。)
そんなよくわからない状態で読み始めたのですが、内容はいたって真面目なマーケティング手法に関する本でした。ただ、著者の神山理子(かみやま・りこ)さん(通称:リコピン)が、かなり面白い人だということはよくわかりました。
ちなみに「オナホ」と言うのはオナニーホールの略で、男性用のオナニー補助器具のことを言うのだそうです。そういう方面にはあまり興味がなかったので、まったく知りませんでした。(存在は知ってましたけどね。)
リコピンさんは、そもそも下ネタが苦手。それなのに、自分でオナホを作って売るというD2C(Direct to Consumer:企業が自ら企画・製造した商品を、小売店などを通さず自社ECサイトで直接、顧客に販売する方法)をやって成功させたことが注目されているのです。それだけでなく、いくつかの事業を立ち上げては起動に乗せて売却するということをされているようです。
どうしたらそんなことができたのか、どういう思考回路だとそんなことが可能になるのか。とても興味深く感じました。
リコピンさんは、マグロ漁船に乗ってみたり、ひよこの仕分けをするなど、一般的な人があまりやらないようなことを積極的にされています。また高校生の時は、学校に七輪を持ち込んで魚を焼いたことで火災警報を鳴らし、スプリンクラーを起動させてしまい、停学処分も受けたことがあるようです。
こうしたことからも、一般的な人とは、そもそもの思考回路が違うのではないかと感じました。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
「事業を成功させるには、良いコンセプトが必須です。
これはtoBだろうがtoCだろうが、有形商材だろうが無形商材だろうが、例外はありません。
良いコンセプトとは、「良いインサイトに突き刺している」ということです。
そして「良いインサイトの発掘」とは、簡単にいえば「顧客の気持ちを、顧客以上に理解して、彼らすらも気づいていない悩みを代わりに見つけてあげること」です。
そして、彼らすら気づいていない悩みに対して、「先回りして解決策を提供する」のがコンセプトであり、事業です。」(p.48)
まぁ、これがビジネスの王道だと言えますね。簡単に言えば、顧客満足度に訴求するということですから。
ただ、リコピンさんも言われるように、顧客が不満を感じていても、何にどう不満なのか理解していないこともあるのです。そういう顧客に対して、「これが不満に感じるポイントですよね。そうでしたらこれによって解決できませんか?」というアプローチをする。単に顧客の声を聞くというレベルではないのです。
この点に関してリコピンさんは、徹底的にインタビューなどをしてリサーチしています。それも様々な観点から。具体的な手法に関しては、ぜひ本書をお読みください。
「人が「面白い」と言ったものを、全力で楽しみ、相手の世界観に没入してみましょう。
なぜなら、「面白い」と思われるものには、必ず理由があるからです。
その理由を集め続けると、人が面白いと思うものを作るための手札となります。
私はよく、出会った人に「最近、面白かったものは?」「今、ハマってるものは?」と聞きます。
映画、アニメ、趣味、様々なことを聞いて、自分も見たりやったりするようにします。
そのときの心構えとして重要なのは、試してみるという感覚ではなく、「心の底からそれを ”面白いもの” と捉えて全力で楽しむことで、相手の世界観に没入する」こと。
すると不思議と、それの何が面白いのかがじわじわと理解できるようになり、新たなニーズが見えます。」
(p.134-135)
自分の興味の範囲には限界があります。それでは新たなビジネスを生み出すことは難しいでしょう。自分がまったく興味がなくても、他の誰かが興味があると言っているなら、そこに飛び込んで、同じように感じるまで味わってみる。そういう姿勢が重要だとリコピンさんは言います。
でも、それはリコピンさんの才能だなぁと思いました。リコピンさんは、ビジネスを成功させるためにイヤイヤそれをやったとは思えないからです。そもそも、そうやって他人のことを詳しく知ることが好きなのだと思います。
そしてこのことは、人間関係において非常に重要な視点だと思いました。つまり、人はそれぞれ違うのですから、相手のことを理解できないことが前提なのです。そうであれば、同質を求めたり、同質を押し付けたりするより、異質を面白がる視点が重要ではないかと思うのです。
「自分が買うもの一つひとつに対して、「なぜこの商品を買ったのか」と自問自答を繰り返します。
「どこでその商品を知ったのか」「なぜ他の商品を買わなかったのか」「今、持っているものではなぜ満足できないのか」「それを購入することでどうなりたいのか」など、”「どうして?」責め” を繰り返していきます。
「欲しい理由」をきちんと言語化できるようになると、思わぬインサイトに気づけるようになったり、キャッチコピー力が上がったり、PR戦略を思いつけるようになったりするなど、全般的なマーケティングスキルが上がります。」(p.138-139)
リコピンさんは、単に興味を持つとか関心を寄せるだけでなく、それを言語化することを勧めています。
これは私も同感です。レイキの練習において、感じたことを言語化することで感性を育むことができると思っていたからです。言語化するとは、無意識を意識するということです。意識してこそ、自分の無意識を変えることも可能です。
ぱっと見た目はセンセーショナルな感じがする本書ですが、内容はいたってまじめなマーケティング手法に関する指南書でした。
そういう意味では、私としては少し残念であり、読んでいる途中で興味を失ったりもしました。けれども最後まで読んでみると、著者のリコピンさんそのものが、実に興味深い対象だなぁという気がしました。
なので、この本の紹介記事は書くまいと思っていたのですが、読み終えた後で急遽、紹介記事を書くことにした次第です。
マーケティングに興味がある人にも役立つと思いますが、私のような感性の人も、リコピンさんに興味を持たれるのではないでしょうか。
2023年10月23日
敵とのコラボレーション
Twitter(現在はX)の投稿で紹介されていた本です。
SNS上、特にTwitterでは、投稿やコメントで激しくやり合うことが多いように思います。それはもう議論ではなく、叩き合いの様相を呈しています。そういう中で、この本を参考にしているというツイート(現在はポスト)があり、興味を持ったのです。
著者はアダム・カヘン氏。職業はよくわからないのですが、ファシリテーターということでしょうか。大学で研究もされているようだし、企業で代表もしていたとか。
本書はサブタイトルにもあるように、「賛同できない人、好きではない人、信頼できない人と共同する方法」ということがテーマのようです。私はサラリーマンでしたから、企業内ではこういうことがあるなぁと思いました。つまり職場に気に入らない上司、同僚、部下がいて、彼らと一緒に仕事をしなければならないという状況。そういう時、どうやって仕事を遂行すればいいのかという問題に、本書は答えを与えてくれるものと思ったのです。
ただ、読み終えてから思うのは、ちょっと違うなぁという感想です。言わんとするところは何となくわかるのですが、何だかしっくりきません。
でも、そのいわんとする部分に役立ちそうだと思える点もあったので、ここで紹介することにしました。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
「本書は、特に関係者が互いに賛同できない、好きではない、信頼できないような問題において、その問題のあらゆる党派を一つの部屋に招き入れることによって、不可能に思われる未来を創造しうる考え方と行動を指摘する。」(p.4-5)
「もう一つ、背景にあるのは、この世界の対象的な二つの潮流だ。一つ目の潮流は、ネットワーク化が進み、より多くの声が共有されるようになったことで、特定の人が自分の望むことを無理やり一方的に進めるのが、難しくなってきたというものだ。これは本書で述べる取り組みへの追い風と言えるだろう。しかし同時に、世界の多くの場所で逆の潮流が高まっている。トップダウン型、いわば独裁的な体制がさまざまな文脈において台頭しているのだ。私は一つ目の潮流を後押しするため、そして、二つ目の潮流と闘う人を支援し励ますためのツールを提供するものとして、本書を執筆した。」(p.14)
つまり、敵対関係の人々が問題を解決するための方法に、対話によってみんなで決めるやり方と、圧倒的なリーダーの支配で独裁的に物事を推し進めるやり方の2つがあり、カヘン氏は、独裁の台頭を押さえ、民主主義的な話し合いによる解決方法を推し進めるために、本書で示すやり方が役立つと言っているのですね。
「それぞれ自分が重大だと思うことをどうにかしようとする。どうにかするには、他者と協力する必要がある。この他者には賛同できない人、好きではない人、信頼できない人も含まれる。だから私たちは悩む。この手の人たちとも協力しなければならないと考えると同時に、協力なんてとんでもないと考えるのだ。」(p.24)
「しかし、この従来の想定は間違っている。複雑な状況で多様な人々と一緒に仕事をする場合、コラボレーションはコントロールできるものではないし、そうする必要もない。
非従来型のコラボレーションの方法、ストレッチ・コラボレーションは、コントロールという想定を捨て去るのだ。調和、確実性、従順という非現実的な幻想をあきらめ、不協和音、試行錯誤、協創という混乱した現実を受け入れるのだ。」(p.24-25)
カヘン氏が示す新しい方法はストレッチ・コラボレーションと名付けられています。ここには従来のコラボレーションの概念を引き伸ばし、根本的に変える3つのストレッチがあると言います。
「第一に、他の協働者(コラボレーター)との関係について、チーム内の共有目標と調和を重視するという狭い範囲に集中することから抜け出し、チーム内外の対立とつながりの両方を受け入れる方向に広げていかなければならない。」(p.25)
共通目標を持たないのであれば、企業のプロジェクトのような場面とはまったく違います。プロジェクトを完遂するという共通目標があるから、好きじゃない人や意見が異なる人がチーム内にいても、何とかしてまとまっていこうとするのです。それを否定するのがストレッチ・コラボレーションということになりますね。
「第二に、取り組みの進め方について、問題、解決策、計画に対する明確な合意があるべきと固執することから抜け出し、さまざまな観点や可能性を踏まえて体系的に実験する方向に広げていかなければならない。
第三に、状況にどう関与するか、すなわち私たち自身が果たす役割について、他者の行動を変えようとすることから抜け出し、自分も問題の一員であるという意識で状況に取り組み、自身を変えることを厭わない方向に広げていかなければならない。自分自身がゲームに足を踏み入れるのだ。
この三つのストレッチはいずれも、当たり前と思われることの反対の行動を要求するゆえに、ストレッチ・コラボレーションはハードルが高い。複雑さに後ずさりするのではなく、複雑さに飛び込む。人がたいてい違和感や恐怖を覚えることだ。」(p.25-26)
たしかに当たり前ではないし、複雑でよくわからないというのが私の感想です。あれ? 目的は何? 問題を解決することじゃないの? 解決することばかりか、その問題さえも共有せず、いったい何を目指すのでしょう?
「敵化は現実の差異を理解し、処理する方法の一つではある。圧倒されるほど複雑で多彩な現実を単純化して白黒はっきりつけてくれる。現在の状況がはっきりし、それに対処することにエネルギーを総動員できる。しかし、ジャーナリストのH・L・メンケンが言うように、「人間のどの問題にも安易な解決策は常にある−−ただし、それは格好よくて、もっともらしいが、誤っている解決策」なのだ。敵化すれば、気持ちが高ぶり、満足感があるし、正義や英雄気分さえ感じるものだが、たいていは直面している課題の現実を明らかにするのではなく、むしろ曖昧にしてしまう。敵化は対立を増強し、問題解決と創造性の余地を狭めてしまう。そして、決定的な勝利という実現不可能な夢をもたせて、実行すべき現実的な取り組みから気をそらせてしまう。」(p.36)
私たちはすぐに善悪二元論にまとめようとします。ロシアとウクライナ、イスラエルとパレスチナ(ハマス)など。そして、自分の支持する側を「正義」とか「正しい」と主張し、対立する相手を「悪」とか「間違っている」と決めつけます。こうして、互いの支持者も含めて激論を戦わせますが、解決する方向へは進みません。どんなに力で相手をねじ伏せようとしても、仮にそれが上手くいったように見えても、恨みの炎はくすぶっているのです。
SNS上で日常的に繰り広げられていることですが、こんなやり方では上手くいきません。おそらく、多くの人がわかっていると思います。だからフラストレーションを溜めているのです。しかし、多くの人はまだ、この「敵化」というやり方を捨てられずにいます。そこに固執してしまっているのです。
「私がタイで理解するに至ったことは、問題の複合する状況に直面しているときは常に、政治でも仕事でも家庭でも、四通りの反応、すなわちコラボレーション、強制、適応、離脱の選択肢があるということだ(タイのチームは、国内から変化をもたらすことに主眼をおいていたので離脱については検討しなかった)。四つすべての選択肢がとりうる状況にあるとは限らない。たとえば、強制を採用する手段はないこともある。しかし、常にこの四つの選択肢から選ぶ必要はあるのだ。」(p.53)
タイでは、タクシン派と反タクシン派による抗争が長く続きました。その間に2度もクーデターが起こりました。ここでいう強制ですね。私はそのころタイで暮らしていて、この状況を部外者として眺めていました。
そういうこともあり、カヘン氏と同じ空気を吸っていたのだと思うと、何だか親しみを覚えました。なので、ちょっと冗長な感じで結論がなかなか出てこない文章を、何とか最後まで読むことができたという感じです。
「他者と−−仲間や友人はもちろん、おそらくは反対者や敵対者とも−−協力して、より効果的な打開策を見つけ、今の状況にできるかぎり大きく、持続的な影響を及ぼすならば、コラボレーションは好機となる。しかし、コラボレーションは特効薬ではない。そのリスクは、実り少なく、遅々として進まないということだ。大幅に妥協する、相手側に取り込まれる、自分たちにとって最も重要なことを裏切るという結果になるリスクがあるのだ。」(p.54)
事態に関与する人々が協力し合うことを望むなら、コラボレーションは役立つでしょう。けれども、そう望まないのであれば、コラボレーションは役立たないばかりか、害悪にさえなるのですね。
「コラボレーションは唯一の選択ではないのだから、与えられた状況で、コラボレーションを選ぶのか、それとも強制か、適応か、離脱か、意識的に考える必要がある。」(p.59)
まずは、4つの選択肢のどれを選ぶかという問題があります。その中でコラボレーションを選択肢た場合にのみ、本書のストレッチ・コラボレーションという方法が役立つというわけです。
「ストレッチの第一の要素は、協働する相手との関わり方、つまりチームに関してである。従来型コラボレーションでは、チームの調和を達成すること、およびチーム全体としての利益と目的に焦点を定め、それがぶれないように人々をコントロールし、制限していく。しかし、複雑でコントロールされていない状況では、焦点を維持することは不可能だ。なぜなら、チームメンバーの考え方、所属関係、利害が著しく異なり、それに基づいてメンバーが自由に行動するからだ。だから、ストレッチしてチーム内外に存在する対立とつながりに関する先入観を捨て、受け入れ、対処しなければならない。
第二の要素は、チームでの取り組みの進め方である。従来型コラボレーションでは、解決しようとしている問題、その問題に対する最善の解決策、その解決策を実行するための計画、その計画の取り決めどおりの実行に関して明確な合意に達することを重視する。しかし、複雑でコントロールされていない状況では、そんな確定的な合意や予測どおりの実行を達成することは不可能だ。なぜなら、チームメンバーは互いに賛同できない。信頼できない関係であり、またチームの行動の結果は予測不能だからだ。だから、何がうまくいき、何が自分たちを前に進ませてくれるのか、一歩ずつ発見するためには、ストレッチして多くの考え方や可能性を実験、つまり実際に試してみなければならない。
第三の要素は、対処しようとしている状況に自分自身がどう関与するか、つまりどんな役割を果たすかである。従来型コラボレーションでは、計画を完全に実行できるように、いかに人に行動を変えさせるかを重視する。それはつまり暗黙のうちに、他者に行動を変えさせ、自分自身は状況の外か上に置いているということだ。しかし、複雑でコントロールされていない状況では、これはまったく不可能だ。誰にも何もさせることなどできはしない。だから、ストレッチして状況にしっかり足を踏み入れ、自分自身が行動を変えることへの抵抗を捨てなければならない。」(p.92-94)
たくさん引用しましたが、これがストレッチ・コラボレーションをまとめた部分だと思いました。
従来型のコラボレーションは、同じ目的を有している仲間のチームなら効果があっても、敵対する関係においては役立ちません。そもそも協働したいとも思っておらず、相手を叩きのめしてでも自分の目的を遂行しようとしている相手と対峙しているのですから。
そこでストレッチ・コラボレーションは役立つとカヘン氏は考えておられるのですが、私はこれを読んでも「なるほど!」とは思えませんでした。
この3つの要素ですが、1つ目は、相手は協力してくれないものと受け入れ、その上でどうしていくかを考えようということです。2つ目は、こうすれば上手くいくなんて方法はないのだから、先入観を捨てて考え得るあらゆる方法を試してみようとすることです。3つ目は、他人を動かしてどうこうすることは不可能だと理解し、その上で自分がどうするかを考え、その可能性の枠を広げるということです。
つまり、相手は思い通りに動かないことをしっかりと受け止め、効果的な方法もなければ到達点も明らかではないことを受け入れ、そこに飛び込んで可能性の枠を広げてできることをやる、ということになるかと思います。けれども、それで上手くいくのかどうか、これではまったくわかりません。ただ、上手くいく可能性はあるよね、とは言えるかと思いますが。
「この調和一辺倒のコラボレーションを採用しようとすると、たいてい失敗し、結局は「適応」か「強制」か「離脱」に戻ることになっていたのだ。
協働する場合、愛と力を交互に発揮することが必要だ。まず相手と関わる。関係が続き、濃密になると、やがて相手のなかに融合や屈服、すなわち関係を維持するために自分にとって重要なことを二の次にしたり、妥協したりせざるをえないという不快な感情が生まれる。この不快な反応もしくは感情は、相手が主張したり、強く要求したりする行動に切り替える必要があるという合図だ(アレナスやスズキが自分にとって重要なことを主張したように)。ところが、相手の主張が続き、強くなると、やがては当方に阻止、反対、抵抗の衝動が生まれる。この反応もしくは感情は、双方が関わることに戻る必要があるという合図だ」(p.116)
コラボレーションでの問題解決ができない時は、「適応」「強制」「離脱」のどれかが採用されることになるというのがカヘン氏の分析です。つまり、協働して問題解決できなくなるということです。
そうせずにコラボレーションを続けるには、「関わり」と「主張」という役割を繰り返すことが重要だと言うのですね。つまり、対立した時は無理に推し進めようとせずにただ関わってるだけの状態になり、関わりが確認できる状態であれば相手の主張をむやみに受け入れたりせずに、しっかりと主張していく。この、関係を壊さないように押したり引いたりすることが必要だとカヘン氏は言うのです。
「つまり、関わることと主張することの間を行ったり来たりするには、アンバランス(退行的な状態に入る境界を超える)を知らせるフィードバックに注意を払い、バランスを取り戻す動きをする必要があるのだ。関わることが屈服をもたらし、相手を操作する恐れがあるなら、主張を促進するときだ。主張することが抵抗をもたらし、相手に強要する恐れがあるなら、関わりを促進するときだ。大切なのは、静的なバランスの位置を保つのではなく、動的なアンバランスに気づき、それを修正することなのだ。」(p.120-121)
相手との位置関係を硬直的に決めつけるのではなく、今の状態を敏感に察して、自分の立ち位置を変化させることが重要だと言うのですね。
こちらが優位に立って、相手が屈服している状態も放置してはいけないのです。相手の中にある主張を引き出してやる。それはこちらにも言えることで、妥協して主張を封じ込めてはダメなのです。
「ストレッチ・コラボレーションは他者と協力する方法だが、従来のものとは異なり、次の三つの基本的な変化が必要になる。
第一のストレッチ、対立とつながりの受容では、力(パワー)と愛(ラブ)という補完し合う衝動を、どちらか一方だけ選ぶのではなく、両方とも使わなければならない。力は、自己実現の衝動であり、断固として主張することで表現される。愛は、再統合の衝動であり、相手と関わることで表現される。この二つの衝動を同時にではなく交互に使う必要がある。
第二のストレッチ、進むべき道の実験では、現状を強化するダウンローディングやディベートに偏るのではなく、新しい可能性を浮上させる対話(ダイアログ)とプレゼンシングを用いることが求められる。つまり、話すこと、聞くこと、特に聞くことを狭めずにオープンにしておくということだ。
第三のストレッチ、ゲームに足を踏み入れるでは、傍観したまま、他者を変えようとしかしないのではなく、活動に飛び込み、自分が変わろうとすることが求められる。
この三つのストレッチは、染みついた行動を変えなければならないものだから、ほとんどの人にとってなじみがなく、違和感のあるものだ。新しい行動を習得するには繰り返し練習あるのみ。」(p.168-169)
ストレッチ・コラボレーションを行うには、3つのストレッチが必要で、それは「対立とつながりの受容」「進むべき道の実験」「ゲームに足を踏み入れる」という言葉で表現されるものです。そしてそれは、これまでとは全く異なる思考習慣だから、練習する必要があるようです。
たしかにこれまでのように、相手を威圧したり懐柔しようとしたりして、相手を変えようとするとか、自分が妥協するだけのコラボレーションとは、まったく違う思考が必要になりそうですね。
「ストレッチを学ぶときに直面する第一の障害は、習慣的な物事のやり方の慣れ親しんだ快適さに打ち克つことだ。「こうあらねば」という平叙文から「こうもできそうだ」という仮定文に移行する必要がある。自分の意見、立場、アイデンティティへの愛着をゆるめる必要があるのだ。より大きく、自由な自己のために、小さく、窮屈な自己を犠牲にするということだ。したがって、こうしたストレッチは恐怖感と解放感の両方を与えるだろう。」(p.180)
「最も難しいと感じるような状況、すなわち、こちらの期待するように相手が動かず、いったん休止して新しい前進の道を見つけざるをえないときこそ、学びが最大になる。
そう、敵は最大の師になりうるのだ。」(p.181)
これまでやってきた方法ではないので、そこに踏み出すには恐れ(不安)を感じてしまうでしょう。しかし、その恐れ(不安)を乗り越えて一歩を踏み出せば、そこに新たな境地が開けるかもしれません。これまで考えてもみなかった何かが見つかるかもしれない。
もしそうなったら、敵対する相手は邪魔な存在ではなく、その新境地を教えてくれる師であったとも言えるのですね。
言わんとすることはわかるのですが、相手がこのストレッチ・コラボレーションを理解せず、協力しようともしないなら、果たして上手く行くでしょうか?
もちろん、これまでのコラボレーション手法で上手くいかないのなら同じことではないか、とも言えるわけです。試してみない理由にはなりません。
ただ、もうちょっと上手にわかりやすく書いてほしいなぁ、という思いが残ります。外国人の著者に多いのですが、まるで小説のように自分の歩んだ道を書かれています。そういう文を読まされても、それが知りたいことではないし、後で役立つ情報かと思って読み進めても、まったく関係がなかったりします。
どうせ書くのであれば、ストレッチ・コラボレーションによって、当初想定していた解決策とは違う方法がどういう展開で見つかり、結果としてどううまく行ったのかという実例を書いてほしいものです。書かれていたタイの対立も、結果的に何の成果も残していないようです。
本書を読んで、「これで上手くいく!」とは感じませんでした。ただ、少なくとも自分がコラボレーションの必要性を感じているのであれば、その可能性を感情的になって捨てるような愚を犯さないために、役立つかもしれないな、とは思いました。
2023年10月27日
私が見た未来 完全版
これもSNSで知った本だと思います。ひょっとしたら広告だったかもしれません。基本的にこういう予言の類は読まないのですが、この本のことを知った後に、ペンキ画家ショーゲンさんの話を知って、そこにも2025年7月5日とあったなぁと気づいて、それで買ってみることにしたのです。
著者は漫画家の竜樹諒(たつき・りょう)さん。本書ではたつき諒と、平仮名になっています。
たつきさんは以前、3.11を予言したとして有名になったのだそうです。ぜんぜん知りませんでした。1999年、世間がノストラダムスの大予言で盛り上がっている最中に「私が見た未来」という漫画本を出版されたのだそうです。表紙には「大災害は2011年3月」と書かれていたとか。その後、たつきさんは漫画家を引退されたそうです。
その出版から12年後、実際に東日本大震災が起こり、その漫画本が注目されることになったのです。
本書は、たつきさんが再び世に警告を発するために出版された漫画本とのことです。それは、「本当の大災害は2025年7月にやってくる」ということだそうです。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
とは言え、これはマンガが主体の本です。たつきさんが予知夢を見るようになった経緯とか、予知夢の意味とか、関係のない過去の作品も収録されています。なので、その辺はすっとばして、予言に関係する部分のみを引用します。
「本当は「1999年の災害は小規模に、そして大災害は2011年3月に」と書くつもりでした。この具体的な日付である「2011年3月」という年号は、『私が見た未来』の単行本の〆切の日に「夢」で見ました。
この日付が漫画に描いた大津波の夢と関係があるのかどうか、そのときにはわかりません。でも、これはとても重要な日付だと思い、急遽、年月だけを付け加えたのです。」(p.54)
前作の「私が見た未来」の表紙に3.11を予言するかのような年月が入れられた理由を、このように言われています。
「1999年の災害」が何を指しているのかわかりません。ノストラダムスの大予言は不発でしたし、記憶に残るような災害はありませんでしたから。
それに、何だか不自然です。夢で年月だけ見たなら、それを本の表紙に入れようとは思わないでしょうし、仮に重要な年月だと感じたとしても、「大災害は2011年3月」とは書かないでしょう。何かまだ正直に語っていない感じがしてしまいます。後で「大災害」という言葉も見たと言われていますが、なぜその本に書こうと思われたかは不明ですね。
「この夢が東日本大震災の津波の予知夢だったのかどうか、私にはわかりません。それはあくまでも皆さんがあとで解釈してくださったことであって、少なくとも私自身には、そういう自覚はありませんでした。
東日本大震災は冬でしたが、夢の中の私は半袖姿の夏服です。そして、夢で見た津波の高さは、東日本大震災のそれよりも、もっと巨大でした。
ですから、この夢は、このあとに見た ”2025年7月” に関わる予知夢だったのではないか、と今になって思います。」(p.74)
「インドに行っているときに、これから起こる大災難の夢を見ました。
たとえるなら、ドロドロのスープが煮えたったとき、ボコンとなるように、日本列島の南に位置する太平洋の水が盛り上がる−−そんなビジョンが見えたのです。海底火山なのか、爆弾なのか、そこまではわかりませんが。そのとき宿で一緒にいた女性にも話していました。
そしてつい最近、また同じ夢を見ました。今度は日付もしっかりと。
その災難が起こるのは、2025年7月です。
私は空からの目線で地球を見ていて、Google Earthと同じといえばわかりやすいかと思います。突然、日本とフィリピンの中間あたりの海底がボコンと破裂(噴火)したのです。
その結果、海面では大きな波が四方八方に広がって、太平洋周辺の国に大津波が押し寄せました。その津波の高さは、東日本大震災の3倍はあろうかというほどの巨大な波です。
その波の衝撃で陸が押されて盛り上がって、香港から台湾、そしてフィリピンまでが地続きになるような感じに見えたのです。」(p.82)
文章には、年月までしか書かれていません。夢のことを書いた日記には、その日時を「2021年7月5日 4:18AM」と書かれています。これまでにも、夢を見た日と現実になった日が同じことから、2025年7月5日に起こるのではないか、と思われているようです。
日記には、竜が出てきたとか、「森林伐採なんかするから防波堤の役目なくなっちゃったじゃんか!」という言葉も書かれています。でも、東日本大震災以上の津波だとすると、森林の防波堤の役目も限定的だと思われますがね。
「大切なのは、準備すること。災難の後の生き方を考えて、今から準備・行動しておくことの重要さを改めて認識してほしいのです。」(p.87)
では、具体的にどう備えるのでしょう? この文の後に、リモートワークとか地下の飲み屋を避けるとか、3.11後の行動傾向が書かれていますが、それがどれほどの役に立つのでしょう? はなはだ疑問に感じます。
この本の影響かどうかわかりませんが、スピリチュアリストと思われる人たちがさかんに2025年7月の大災害について語るようになりました。「不安を煽るつもりはありませんが…」と前置きしながら、カセットコンロを買いたくなって買ったとか、備蓄の話をします。いやいや、津波が来て避難しなければならなくなったら、そんなもの役に立たないでしょう。
それに、仮にそういう備蓄品が役立つような状況になったとして、備蓄してない大勢の人がいたらどうするんですか? 分け与えるために備蓄してるんですか? どうもそういう問題ではない、という思いが込み上げてきます。
もちろん、備蓄しておくことはリスク管理の観点から重要でしょう。しかし、それはふつうにやっておくべきことであって、2025年7月に津波があるから、ではないと思うのです。
「そうなると気になるのは、2025年7月に起こる大津波の後の世界についてですが、私には、ものすごく輝かしい未来が見えています。
大地震による災害は、とても悲惨でつらいものです。でも、地球自体がマグマという熱エネルギーを抱えて生きているわけですから、どうしても避けられないものなのでしょう。それを覚悟した上でみんなが協力し合えれば、必ず生きていくことができます。
しかもそれは、明るくてきれいな未来です。」(p.88)
これも現実的には違和感があります。では3.11の後、被災地の人たちの未来、つまり今の状況は明るいものになっているでしょうか?
もちろん、たつきさんを責めたいわけではありません。たつきさんにも理由ははっきりしないけど、明るい未来が夢で見えてしまったのでしょうから。
それに、ショーゲンさんがブンジュ村で聞いた話も、明るい未来が予言されてるようです。(まだ本を読んでないので、実際はどうかわかりませんが。)
この明るい未来の夢は、2001年1月1日に見たとありました。そこには、「大災難後の明るい未来」と見えたようです。たつきさんは、「2011年3月」を見た時は「大災害」という言葉が見えたけれど、「2025年7月」は「大災難」と見えたのだそうです。なので、自然災害ではなく人災かもしれない、ということを書かれています。
人災であれば、可能性は事故か事件。事故でそんな規模は難しいので事件だとすれば戦争でしょうね。あるいは津波は象徴で、瞬く間に世界中に広がる人為的なウイルスによる感染症かも。
とまあ、そんなことをいろいろ考えてみるのですが、たつきさんは備えてほしいから本書を出版したと言います。でも、思うのです。何をどう備えるの?
実際、3.11の前だって、それなりに備えていたのです。けれども想定外のことが起こった。だから大変なことになったのです。
今度は確実に想定内でしょうか? そうだとすれば、津波を防波堤で防げない以上、低地から避難する他ありません。どこからどこへ避難すればいいのでしょう? 引越さなければならないのでしょうか? どこへ? そのために何ができるでしょう? お金のない人はどうしたらいい?
結局、人は、何もできないのです。具体的にわからなければ、つまり想定内でなければ、ほとんど対処できません。せいぜい「そういう可能性もある」と意識するくらいのものです。
たつきさんには申し訳ないが、単に不安(恐れ)を煽るための材料として使われるだけではないかと思っています。
2年くらい前でしょうか、備蓄しろと不安(恐れ)を煽った有名人が何人かいらっしゃいましたよね。どうなりました? 備蓄が必要な状況になりましたか? 「そういう状況にならなかったなら良かったじゃないか」と言うかもしれませんが、備蓄した人たちは不安に駆られたのです。不安を煽る人がいて、不安を煽られた人がいた。スピリチュアル的には、不安の集合意識が大きくなっただけではないでしょうか。
お勧めしている「神との対話」では、不安は愛の対極だと言っています。つまり不安は、愛ではないものです。愛を広めるのと、愛ではないものを広めるのと、どっちが良いのでしょうか?
被害者意識のままでいれば、不安(恐れ)はなくなりません。もし、私たち自身が創造者であり、だから「引き寄せの法則」によって現実を創造するのだとするなら、恐れ(不安)を動機とした恐れの世界を創造したいのでしょうか? それとも愛の思考による愛の世界を創造したいのでしょうか?
私は、問われているのは私たちが主体性を持つかどうかだと考えています。災害が起こる必然性があるなら起こるでしょう。でも、それだけのことです。起こることはすべて最善であり、必然であり、完璧である。なぜなら、存在するのは「存在のすべて」だけだから。それが傷ついたり、消滅する(死ぬ)ことはないから。その認識に至ることだけが、災厄を避ける唯一の方法であり、良寛さんが示された方法だと思っています。
2023年10月29日
おあとがよろしいようで
ご存知、喜多川泰(きたがわ・やすし)さんの新作です。喜多川さんの小説は、どれもこれも秀逸で間違いがありません。人生の本質に通じているテーマを、感動的に表現しているからです。
あまりに感動したので、喜多川泰全集を母校の中学校に作りたいなぁと思い、それまでの小説を全部買って寄贈したくらいです。また、タイでも多くの人に読んでもらいたくて、すでに読んでいた本も買い直して、日本人が集まる施設に寄贈したりしました。
今回も、Facebookで新刊の発売を知ったので、予約して買いました。小説なので、あっという間に読めてしまいますが、やはり感動して涙を流してしまいました。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
と言ってもこれは小説なので、あまりネタバレにならないよう引用はごく一部にとどめます。
物語のあらすじですが、主人公は群馬県から東京の大学に入学したばかりの門田暖平。ネクラで内向的。友だちもできないし、どうせ一人で生きていくしかないんだと自分のことを諦めている。親と一緒に暮らすのが嫌で、どこでもいいから出ていきたいと思い、東京の大学に入った。そこで落研との出会いがあり、誘われるがままに落語をすることになる。
その落研での人間関係の中で、暖平は様々な気づきを得て成長していきます。人と関わることの素晴らしさ、いろいろな経験をすることの素晴らしさを、感じるようになっていくのです。
「子どもたちを専門学校や大学に通わせる、それもそれぞれ一人暮らしをさせるというのは簡単なことではない。やりたいとかやりたくないとか関係なく必死で働く必要があったんだろう。
わかってはいるのだが、素直にありがとうと言えない。そして、そんな自分に対して、人としての薄情さを感じて自己嫌悪に陥る。」(p.77)
暖平の父親は地方都市の写真館を営んでいました。時代の流れでフィルムというものがなくなり、現像やプリントという仕事が皆無になってきて、写真館の仕事はイベントでの撮影がメインになっていました。同じ「写真」とは言え、業務内容はまったく違います。待ち構えて写真を撮るなんて仕事はほとんどなく、自ら出向いて運動会や修学旅行などの学校行事の撮影を主たる仕事にしていました。
暖平は、そんな父親の苦労をわかっているようでいて、なかなか受け入れられなかったんですね。たしかに、親が写真屋のおっちゃんの顔で自分の学校にやってくるのは、なかなか受け入れがたいものがありますから。
「落語の登場人物はみんなどこか抜けてる。いや、どこかどころかかなり抜けてる。欠点だらけなんですね。だけど、一つだけいいところが誰にでもある。その一つだけのいいところで江戸の社会にちゃんと居場所をつくって、お互いにそれでよしとしているんですね。何の文句もない。この部分を直せとか、もっとこうしろ、なんて相手に要求しない。
お互い人間だから、馬鹿なところとか、自分勝手なところとか、あるよねってのが根底にある。」(p.106)
「でもそれに気づいてから、できるだけニコニコしていようって思ったんだよな。そして、自分もそのままでいいと思ってもらいたいんなら、相手もそのままでいいって思わなきゃいけないって気づいた。そしたらさ、大袈裟かもしれないけど世界が違って見えたんだよ。社会も周りの人も何も変わってないのに、みんなそのままで仲良くなれんじゃんってなって、誰も完璧である必要なんてないって思えるようになったら、自分もそうじゃなくてもいいんだって思えたっていうか……どう、わかる?」(p.108)
落研の先輩の1人、健太のセリフですが、健太は高校の頃、自分ではないものになれというようなプレッシャーを感じていたのだそうです。そんな時に落語に触れて、無理に変わらなくていい世界があることを知り、落語の魅力に取り憑かれたのだとか。
たしかに、そう言われてみるとそうですね。いつもボーっとしている与太郎、喧嘩ばっかりの棟梁、知ったかぶりのご隠居など、欠点だらけの人がぶつかり合いながらも楽しく暮らしています。
本当は、人それぞれ違っていていい。ただそれを受け入れさえすれば、みんなが笑って暮らしていける。落語は、そういう世界を示唆しているのかもしれませんね。
「『世界はこんなもんだ』『世の中はこうだ』『俺にはこんなことしかできない』『俺はこういう奴だ』と『世界』や『自分』を認識している。そう判断するに至った情報はどこから得た?
お前の目と耳、肌、といったたった一つの窓だ。」(p.175)
「そういう状況に自分が置かれたら、いやでももっと別の世界を見て世界を知りたいと思うだろうにと、なんとなく考えていたのだが、実際にそれをしないで、「世の中とはこんなもんだ」「俺はこうだ」と決めつけていたと、直感的に感じたからだ。」(p.175)
「俺たちは、何を見るか、何を聞くか、何を感じるか、何を経験するかによって、世界に対する認識が変わる。」(p.176)
暖平は部長の碧(あおい)から、視野が狭いことを指摘されます。ほんのわずかな経験を元に、自分や世間を決めつけている。もしそのことに気づいたなら、もっと広い世界を経験したいと思うのではないか、というわけです。
世界は可能性に満ちています。ただそれを信じないことによって、自らを制限しているだけなのですね。
視野が広まれば、世界や自分に対する認識も変わってきます。他人のことも理解できるようになるでしょう。たとえ同意はできなくても、その人にはその人の人生があるのだと思えるはずです。そうなれば、他人にも自分にも優しくなれるのではないでしょうか。
重要なのは、今の自分の狭い認識に他人や世界を合わせようとすることではなく、自分の認識を広げることです。そうすれば、世界も他人も、今あるがままで受け入れられるようになります。そうやって他人の自由を受けれれば、自分も自由になれます。今あるがままの自分でいいのだと思えるようになるのです。
今、あるがままの他人や自分を、そのままに愛しく思う。それが寄り添うということ。そうすれば、自分の中が平和で幸せなものになるし、そういう人が増えれば、世界もまた平和で幸せなものになっていくのではないでしょうか。
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