2023年08月01日
すべては今のためにあったこと
Facebookで伊勢修養団の中山靖雄(なかやま・やすお)氏の本が出版されると知って、すぐに注文した本になります。
伊勢修養団のことは知っていて、中山氏ではありませんが、寺岡賢(てらおか・まさる)氏の講演を聞いたこともあります。
本書の著者は中山氏だけでなく、その奥様の中山緑(なかやま・みどり)氏と、映画監督の入江富美子(いりえ・ふみこ)氏も名を連ねています。入江氏は、映画「1/4の奇跡」の監督だったのですね。(私は本で「1/4の奇跡」を読みました。)
どうやらこの本は新装版(改訂版)のようで、前作に緑氏と入江氏の対談を加えたような体裁になっていたようです。
実は最初は新装版だと気づいていなかったのですが、読み勧めていると、どうも読んだ記憶があるなぁという気がしてきて、私のブログを検索してみたのです。すると、ありました。2013年に発行された「すべては今のためにあったこと」を2020年6月に読んでいました。
なので、改めて紹介する必要もないかとも思ったのですが、当時とはまた違う気づきがあったのではないかと思い、紹介記事を書くことにしました。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
「私たちは、ついつい事柄を良し悪しにしてしまうものです。健康は良くて、病気が悪い。若いほうが良くて、年を取ることが悪い。生きていることは良くて、死ぬことは悪いなど、そんなふうに二者択一にしてしまいます。
よく考えてみれば、病気がなければ、健康もないのです。年を取らなければ、若さというのもありません。死ぬという世界がなければ、生きるという世界は成り立ちません。ところが私たちは、どうしてもこれが良くてこれが悪いという二極の世界を生きてしまうわけです。
本来、「良し」「悪し」というのは、一対の岸だと思うのですね。その両岸の間をどう流れるかということが大事です。
「よしあしの 中を流れて 清水かな」という句があります。これは、掛詞(かけことば)で「よし(葦)・あし(葦)」と「良し悪し」を掛けています。よし(良し)あし(悪し)にぶつかり、その中を流れながら清められていくということです。」(p.31)
私がお勧めしている「神との対話」でも、この世は二極(相対的)であり、片方がもう一方を支えているという話があります。どちらか一方だけでは存在できないのです。
ですから、一方を毛嫌いするのではなく、そういう世界なのだと達観して生きることが重要なのだと思います。
「私の講演が始まる頃になると、母が家内を呼び、
「公演が始まる時間だから、悪いけどベッド半分起こして」
と言って、ベッドの前の神棚に向かってじーっと手を合わせて、拝むのです。
寝たきりですから、きちんとは座れないので、腰に枕と毛布を当ててなんとか座れるようにして、じーっと手を合わせている。
「講演が終わる時間になったらまた来てね」と母が言うので、一時間半くらい経ってから家内が行くと、まだ母が同じような状態でじーっと祈っているのだそうです。」(p.66)
82歳で脳梗塞となり、寝たきりになられたお母様は、中山氏が講演に出かける時に挨拶をすると、必ず「どこへ行くのか?」「何時から何時まで講演するのか?」と尋ねられたのだそうです。中山氏は、そんなことを聞いても意味がないだろうと思い、冷たい物言いをしてきたのだとか。
お母様が亡くなられた後、その話になった時、奥様の緑氏は、絶対に言うなと言われていたけど時効だからと言って、この話を中山氏に聞かせたそうです。
親というのは、こういうものなのですね。直接は言わなくても影で祈っている。私の母親も、おそらくそうだったのではないかと思うのです。
「「天が喜ぶ生き方」は「目に見えない世界」の中に見出すことができます。
私たちは、普段「目に見える世界」を中心に生きています。「目に見える世界」では、何かが「できる」「できない」、「うまい」「下手」などが、はっきりわかります。ですから、目に見えたことだけを見て、ついつい「正しい」「正しくない」とか、「いい」「悪い」と言ってしまいます。
しかし、人の心の中は見えません。見えないからよくわかりません。自分の心のことですらわからないことがありますね。人の心のように「見えない世界」はわからないし、感じにくいものです。しかし、「見えない世界」を大切にして生きていくことが、天が喜ぶ人生にはとても大事なことなのです。」(p.75)
目に見える世界とは、自分が知って理解できる世界のことですね。だから人は往々にして、自分の価値観で他人を裁いてしまうのです。また、他人の真価を知ることなく無視してしまうのです。
「自分で人生を終わらせてしまう行為は、心である「しい」がもっとも強い状態になっている時です。自分だけしか見えていない状態です。「たま」に「しい」がしっかりついてしまい、天に戻れない。だから、自死は天に帰れなくなると言われているのです。」(p.92)
中山氏は、自殺すると魂が天に帰れない(と言われている)と言っていますが、私は違うと思います。もしそうだとすれば、魂が救われないことになってしまうではありませんか。
もちろん、安易に自殺しても良いなどと言っているわけではありません。しかし、「神との対話」でも言っているように、魂が自分で決めた時しか人は死なないと思っています。それが自殺であれ、事故であれ、病気であれ、起こることはすべて必然であり、最善であり、完璧だと思っているのです。
「「役割」が「立派」なのではなく、その「役割」をどうとらえて生きるかによって、「人生の立派さ」が変わってきます。
「役割」をいいふうにとらえて生きることができるか、できないかというのは、「自分があるか、ないか」というところに関わってきます。天から与えられた「役割」として、天に使ってもらう、という思いが大事なのですね。」(p.116)
たとえば人間で言えば、「頭」になる細胞もあれば「足の裏」になる細胞もある。どっちが優れているとか劣っているという話ではないのですね。それに、足の裏なら最初にお風呂に入り、最後まで浸かっていられますが、頭は一生お風呂に入れない。
そんな例え話をされていますが、良いか悪いかなんて見方次第なのです。
「しかし、そんな縁に会おうと思って出会えるわけではありません。
だからこそ、今、そのような「回ってくる」ご縁に出会うためには、天から与えられている役割を喜んでさせてもらうことが大事なのです。」(p.124)
何が自分の使命かなんて、頭で考えてもわかりません。だから使命探しのようなことをするよりも、与えられた環境を喜んで受け入れ、そこで最善を尽くすことが大事なのだと思います。
「大切なのは、「こんなふうに思ってはいけない」とも、思わないことです。それも頭で考えていることだからです。
難しいことですが、「『頭からっぽ、心なし』にしないと、ダメだ」とも思わないということなのです。ダメだと思うことも心がいっぱいの状態なのですね。」(p.133-134)
何かの価値観に執着して判断するなら、まだ頭がからっぽになっていないということですね。「神との対話」でも、理性を黙らせるということが書かれていました。
「たとえば今の配偶者と出会い、結婚したことも、いろんな出会いがあって、今があると思うのです。それは、表からは偶然に見えても、裏から考えればすべてが必然なのです。
今の彼との出会いが本当に良かったと思えると、あの過去の破局も含めてみんな良かったのよね、となります。」(p.143-144)
私も、フラれ続けた過去の恋愛がすべて良かったと思っています。そのお陰で今の私があると思えるからです。
「私の家内のモットーは、
「済んだことはみんないいこと。これから起きることもみんないいこと。わたしに悪いことが起ころうはずがない」
です。済んだことはみんないいことですし、これから起きることもいいこと。そういうふうに思えたら、今の人生をすべてこのままでやらせてもらうというだけになります。そうしたら、いいご縁がどんどん湧いてくるのです。
実際は、悪いこともいっぱい起こります。しかし、その時は、そのように生きていくしかないのです。どんな出来事にあっても、自分が悪いことだと思わなかったら、それでいいのですから。」(p.147-148)
私も、起こることはすべて必然であり、最善であり、完璧だと思っています。なぜなら、全知全能の私の魂(神)が導いてくれているからです。
どんなに悪いと思えるようなことが起こっても、それはそういう見方をするからであって、魂の視点からすれば良いことに違いがない。そう信じることに決めています。
だから私は、何があろうと幸せでいられるのです。引き寄せの法則を駆使して、思い通りの現実を引き寄せる必要がないのです。何としてでも思いどおりを引き寄せたい人は、その見方(価値観)に執着しているのです。
「たとえば、電車で足を一回踏まれたら、誰でも踏んだ人を責めます。二回踏まれたら、踏んだ二人目を責めますか? でも、三人目に踏まれたら、いよいよ自分で考えますね。「自分の立っている場所が悪いのだろうか」とか、「私も踏まれないように注意しなくては」と、自分のこととしてとらえるようになります。
これが常にできるようになったら、みんな少しずつ優しくなれます。」(p.153)
要はものの見方、考え方なのですね。あいつが悪い、という視点から見ている限り、優しくはなれないのです。
現実が思い通りにならない時、人はやっと内側に入っていくんですよね。でも、これが素晴らしい。だから必ず人は気づくようになり、進化成長していけるのです。
「家内は家内なりに悩んだうえで、息子が学校に行かない日を「今日子どもが学校へ行ったら交通事故に遭って死ぬ日」と、自分で決めたのです。
「学校に行きました」「交通事故に遭いました」「死体を自分の前に連れてこられました」というのと、学校に行かず、家でぐうたらして、親の言うことも聞かないし、人様から「中山先生の子なのに、いったい何なの」と言われる。どちらがあなたはいいですか? と神様に問われたらどうするか、ということを自分でかってに設定したのです。」(p.169)
他人に対して、どうして私の思いどおりにしないのだ? と文句を言いたくなることがありますが、相手には相手の理由があるのです。たとえそれが私には理解できないとしても。
そんな時は、そうなる意味を自分に都合が良いようにでっちあげろと「神との対話」でも言っています。どうせそうしているのだからと。
たしかに、子どもが登校しない理由が理解できないからと、「ズルをしているんだ、怠け者なんだ」というように意味づけするなら、それは勝手なでっちあげですよね。だって本当は理解できていないのですから。どうせでっちあげるなら、自分が幸せになるようでっちあげた方がいいと思います。
「どんな人も本性は、愛に満ちています。でもそこに欲とか心の難しさとか、前生(ぜんしょう)からもってきている難しさみたいなものがあって、愛そのものでは生きられない。
だからこそ、出来事を通して自分の中にある欲や心に気づくことができれば、本性どおり生きられる自分に変われるのです。
いろいろなことを、それぞれの役の人が代表で私たちに見せてくれています。テレビも新聞もみんなそうで、事件もみんなそうですよ。その人が代わってやってくれたことです。
聞くも因縁、見るも因縁です。何か痛ましい事件があった時は、事件を起こした人と同じ一面が自分の中にあることを感じて、お詫びして通ればいいのです。「ごめんなさい。私にもありました」と。」(p.174)
様々な出来事は、私たちに気づきを与えてくれる贈りものなのです。愛ではないものがあると気づくことで、本来の愛に戻っていけるのですね。
「この高円寺さんの五歳の娘さんが突然交通事故に遭い、亡くなってしまったのです。
その時、事故を起こした人が警察にいるということを聞いて、このご夫婦はその人に会いに行かれました。そして、どうされたかというと、このご夫婦はその事故を起こした方に向かって、土下座をして、お詫びをされたのです。
「こういう縁にあわせてしまってごめんなさい。こういう縁にあう子どもを育てたのは私の因縁です。どうぞあなたは安心して、このことを忘れて、世のため人のためになってください。本当にごめんなさい」
このように謝られたのです。」(p.177-178)
なかなか言えることではありませんが、普段からこういう思いで生きてこられたのでしょうね。
「どんなことにも、必ず賛成・反対ができます。消費税も賛成・反対ができるし、さまざまな問題に賛成・反対ができる。立場が違えば意見が違う。どうしてこんなに心を二分するようなことばかり起きるのかと思いますね。
しかし、こういうことが起こっている今、二つに分かれることで、お互いにもっと深く知り合いなさいと、天が言っているように思うのです。
「知ることの深さは愛することへの道」だからです。」(p.212)
この二極の世界では、対立することがたくさん起こります。しかし、対立すればするほど、いつかは相手を深く知ろうという思いになります。なぜなら、何をやっても解決しないからです。
そして知ることによって、知ろうとして深く思うことによって、和解への道、愛の道が始まるのですね。
ここからは、奥様の緑氏と入江氏の対談になります。
「主人の言葉にあるように、「済んだことはみんないいこと。これから起こることもみんないいこと。自分に悪いことが起こるはずがない」のです。どんな出来事だって、そこからの気づきもありますし、これから未来に起きることもそんな思いでいたら、悪いことに出会うわけがないのです。もし、ケガをするのなら、ケガをしなければならない理由があったということです。」(p.243)
このように、起こることはすべて必然であり、最善であり、完璧なのだという考え方を生きておられるのですね。
「ある方が「近所で火事があって、隣の家まで炎が燃え移り、隣の家は燃えてしまったのだけれど、自分の家までは燃えずに助かった」というような報告をおやかた様にされたことがあったそうなんです。そうしたら、おやかた様が、「あなたは、自分の家が燃えても喜べましたか?」とお答えになったそうです。これは何が言いたいかというと、喜びとは、「お参りや祈り、信仰があることで免れた」「信仰があるから幸せになれた」という「おかげ信仰」によるものではないということです。要するに、「どんな悪いことがあっても、あなたはそれを喜べますか?」ということなのです。家が燃えたら燃えた、人が死んだら死んだ、ということに意味があるのですから。」(p.254)
まさにこういうことですね。信仰を深めたから「良い」ことが起こるというのは、引き寄せの法則を駆使するのと同じことです。それでは本当の意味で神を信頼していないことになります。自分のわがままを押し通そうとしているようなものです。
神が導いてくださっているのだから、起こることはすべて最善のことだと言いきってこそ、本当の意味で信仰を持っている、神を信頼している、神を愛していると言えるのです。
「基本的に、お詫びは「ごめんなさい!」ということではあるのですが、「◯◯について、私は思い違いをしていました。ごめんなさい」というお詫びは、自分でその間違いを認識していないと言えませんね。
一方で、ありがとうは、そこがわかっていなくても「ありがとう!」ってそのまま簡単に言えます。だから先生は、「お詫びのない感謝は泥付きだ」とおっしゃっていました。」(p.270)
中山氏は、お詫びと感謝が大切だと言われています。この対談でも取り上げていますが、これはまさにホ・オポノポノのクリーニングですね。
クリーニングの言葉として、「ありがとう」「愛しています」「ごめんなさい」「許してください」の4つがあります。まさにお詫びと感謝ですね。
これについて私は以前、なぜお詫びをするのかわからないと思っていました。しかしある時、お詫びの意味がわかった気がして、「ホ・オポノポノでは、なぜ詫びるのか」という記事を書いています。
つまり、先の事例の交通事故の加害者に対して詫びた夫婦の考えですね。もし私が完全な愛、完全な神であれば、もはや気づきは不要であり、気づきのための悲しくつらい出来事も起きなかったという前提なのです。それなのに、私がまだまだこのレベルだから、こういうことが起こってしまう。
もちろん、そういう気づきがあるから愛に戻っていけるのですから、それはありがたいことなのです。また、そういう愛のない状態を体験することも、愛を体験するために必要なことなのです。けれども、そこで悲しむ人、苦しむ人が出てくる。だから詫びるのです。
以前に読んだ時の紹介記事も読み返してみました。今回も以前と同じ部分を引用したりしていますが、違う部分もありました。
きっと、読んでみて深く感じた部分に少し変化があったのでしょう。それはきっと、私が少なからず成長したということではないかと思っています。
2023年08月05日
錯覚する脳
もう随分と前になりますが、「人生を変える幸せの腰痛学校」の著者、伊藤かよこさんがお勧めしておられたので買った本になります。やっと読むことができました。
サブタイトルに「「おいしい」も「痛い」も幻想だった」とあるように、私たちが何気なく事実だと思って感じているものが、実は脳が創り出した幻想に過ぎない、というような内容です。伊藤さんは腰痛に関していろいろと思われるところがあり、腰痛は何らかの原因があって生じているだけではない、ということをおっしゃられていました。だから、無理に原因を何とかしようとするより、別のアプローチの方が効果的だということですね。
著者は前野隆司(まえの・たかし)教授。研究分野は広そうですが、脳がどう機能しているのか、という観点で研究されているようです。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
「自分で言うのも厚かましいが、衝撃的な本だ。死んだ皮膚の表面に痛みを感じるという衝撃、音が音源のところから聞こえるという衝撃、色という、この物理世界にはないものを人は感じてしまうという衝撃、ねたみや恨みや畏れや優越感や幸福感という、世界のどこにもないものを人は感じてしまうという衝撃。あたりまえに世界に存在すると私たちが思い込んでいる様々なものごとが、簡単で誰もが知っている科学からの演繹によって、実は、幻想、イリュージョンとでも呼ばなければ説明のできない事柄なのだとわかった時の衝撃。そんな、かつて私も感じた衝撃を、読者の皆さんにも共有して頂けたならうれしく思う。」(p.11-12)
「心は幻想で錯覚でイリュージョンというところからスタートすれば、「心の哲学」など不要で、心への疑問は、すーっと腑に落ちる納得感とともに解消されるはずだ。それに気づかずに問題を難問だと言い続ける「心の哲学」は不毛であるばかりか、人類を無駄に悩ませ続けているのではないか。心は所詮、幻想で錯覚でイリュージョンだということを、現代の人々にもっと分かり易く伝えるべきではないのか。
このようなモチベーションが、本書の原動力となっている。」(p.13)
文庫版のまえがきに、前野教授はこのように書いています。つまり、私たちの心(意識)というものは脳の派生物であり、イリュージョンだという主張です。そうすれば、心の問題は難しい問題ではなく、単にイリュージョンなんだからと軽く考えられるということのようです。
「できれば、いろいろな方が、読み終えた後で、確かに心ははかない幻想だなあ、でも、それって単にむなしいだけの絶望感とは違い、すばらしく幸せな考え方なんだなあ、と実感してくださるならば幸いである。」(p.19-20)
プロローグにはこう書かれています。つまり、心はイリュージョンであるからこそ、幸せになれるという考え方を、本書で示そうとされているのです。
「私は、幼いころから、できることならばこの私というもの(霊魂としての私)が不滅の存在であってほしいと思っていた。しかし、残念ながら最近はどうしてもそうは思えない。
今の私は、私たち人間は虫けらと同じ単なる生物に過ぎないと思う。この豊かな感受性と豊かな心の質感を持つ私たちの心というものさえも、虫けらの脳にちょっと付け加えられた機能に過ぎないと思っている。」(p.23)
「一方、目的論的機能主義からみると、物質の振舞いとは独立な現象的意識が進化的に生じるとは極めて考えにくい。私は、そうではなく、心身一元論に立脚し、脳のニューラルネットワークによって、意識の現象的な側面が(あくまでイリュージョンとして)作られていると考える。
心身一元論に立脚するか、二元論に立脚するかは、先ほども述べたように、一種の信念だ。神を信じるか否か、あるいは自由主義と共産主義はいずれが本質的と考えるか、と問うのと似て、個人個人の過去の深く長い経験から帰納して、どちらが直感的に妥当だと考えるかを選択するしか、残念ながら形而上の議論にピリオドを打つ方法はない。」(p.48-49)
このように前野教授は、自分の直感からして脳がイリュージョンとして心を生み出しているだけであり、脳(身体)とは別に意識(心、魂)が存在するという二元論には賛同できないと言われています。
「つまり、物理的にさすることも重要だが、人が触ると思うことによる精神的な安心感が重要らしい。
したがって、大人も子供も、「痛いの痛いの……」とおまじないをいって、さすったり他のことに注意を向けさせたりすれば、痛みを和らげることができるのだ。」(p.96-97)
痛みを緩和させる具体的な方法として、さすればいいと前野教授は言います。これは、他の刺激によって痛みの刺激を忘れさせる(分散させる)という効果と、他の人に何かをしてもらったという精神的な作用があると考えられるのだそうです。
私も、レイキは痛みに強い(効果がある)と実感しているのですが、そういうことがあるのかもしれませんね。
「私たちは普通にものを見ていると思っているが、そうではない。色や明るさは目と脳が作り出したものであり、本来世界には存在しない。だから、目の前にこんなに鮮やかで巨大な空間が存在しているように見えているということは、ものすごいイリュージョンなのだとしか言いようがないのだ。」(p.137)
「見える」というのは、目に飛び込んでくる様々な電磁波の中から光と呼ばれる特定範囲の電磁波を、その周波数や強度や方向に応じて脳内にマッピングして描きあげたイリュージョンなのだと言います。たしかにそうですね。
たとえば犬は色がわからず白黒の世界を見ていると言われますが、要は周波数を区別していないということなのでしょう。人間は、周波数を「色」という概念で置き換えてイメージしている、ということですね。
「物とエネルギーだけは存在するといったが、五感なしには、物とエネルギーの概念を定義することも理解することもできない。したがって、物とかエネルギーという名前を付けることもできない、物とかエネルギーとは呼べない、なんでもない何かしか存在しないということになる。
感覚がなければ、宇宙など、ないも同然だ。もちろん、名前の付けようもない「それ」は存在しているのだが、もはや存在しないのと大差ない。」(p.148)
この部分を読んで、実に「神との対話」で言われていることと似ているなぁと思いました。神は絶対的な存在であり、したがって神が何かという定義ができないのです。「あってあるもの」「存在のすべて」と便宜上は言ってみるもものの、「それ」でもかまわないのです。
なぜ定義できるようになるかと言えば、この相対的な世界においてだけなのです。相対的だから「これ」と「あれ」を区別することができ、それに名前を付けることが可能になります。したがって、相対的な世界と、それを感じられる私たちの感覚(五感)というものは、密接不可分のものだと思います。
「天国があったとして、その世界にいる人は、身体がない。感覚器官もない。だから、感覚はないはずだ。逆に、死後も視覚などの感覚があるのだとしたら、生きている人の視神経や脳が視覚情報を作る必要はないことになる。なぜなら、死後の感覚というような便利なものがあるのなら、わざわざ脳というハードウエアでそれを実現する必要がないというものだ。死後に感覚があるのだったら、この現実に存在している感覚器官は何のためにあるのか、ということになってしまう。」(p.150)
つまり、五感を持った身体があるということが、死後も生前と同様にいろいろ感じられる心や魂が存在しないことの強力な証拠になっているということですね。
もちろんこれでは完全な証明ではないのですが、一理あります。けれども私は、「神との対話」の立場からすると、魂はエネルギーを直接的に感じ取る、五感とはまた別の感覚器官によって、身体を持つ私たちが感じるのと似たような何かを感じているのではないかと思っています。
そもそもすべてがエネルギーによって創られているのだとすれば、わざわざ視覚、聴覚、触覚、味覚のように別々の感覚器官を使わなくても、直接そのエネルギーを感じ取ればいいだけです。それができるのであれば。
しかし相対的な世界で神ではないものとして生きるという経験をしたかった私たちは、そういう便利な機能を封印し、わざわざ不便な別々の感覚器官を使うようにしている。そう考えることもできると思っています。
「話がそれたが、「価値」はイリュージョンだ。絶対に。私はそう思う。
もちろん、基本的な価値といわれる「真善美」だって、イリュージョンだ。
絶対的な「真」なんてない。たとえば、物的一元論と心的一元論はどちらが正しいか、という問いには答えは出せない。
絶対的な「善」だってない。ある立場における善が、他の立場ではそうでないことは、よくあることだ。たとえば、戦争中に敵を殺す事は、その国においては善だ。
絶対的な「美」もない。文化が異なると、美の解釈も異なる。西洋的な顔が美人というのは最近の事であって、鎖国時代の美人は浮世絵の顔だったのだ。
もちろん、絶対的な真善美などないと言ったら、近代哲学者カントは納得しないのだろうが、その後、構造主義からポストモダンへと発展する現代哲学は、明らかにニヒリズムへと向かう。したがって、すべてがイリュージョンだという考え方は、現代哲学の主流から見ると、むしろ当然といってもいいのかも知れない。
愛だってイリュージョンだ。
愛は、かけがえのないものであるように感じられるけれども、マズローの欲求の段階説の中では下の方に位置する。「生理的欲求」「安全欲求」の次が、「所属・愛情欲求」だ。また、愛する事の生物的な役割は子孫繁栄だから、「生理的欲求」に関与するといってもいい。」(p.226-227)
価値観が相対的であり、絶対的でないというのは、その通りだと思います。それぞれがどう考えるか、その見方次第です。だから、それをイリュージョンと呼ぶのもわかります。
しかし最後の「愛」に関しては、ちょっと考察が足りないようにも思います。「愛」が「生理的欲求」であり、子孫繁栄の潜在的な欲求だとすれば、同性愛はどうなのでしょう? 子どもを必要としない異性愛、閉経後の老齢者の恋愛はどうなのでしょう? それに「愛」は、パートナーに対するものだけでなく、親子関係はもちろんのこと、友だち関係もあれば、広く普遍的な博愛もありますよ。
「幸福感のクオリアなんて、気の持ちかたに依存して、勝手に湧きあがってくるイリュージョンに過ぎない。だから、金持ちになったってしょうがないし、貧しさを悲観する事もないのだ。
むしろ、生きている事が「儲けもの」だと思えば、それだけで幸せだと感じられないだろうか。」(p.223)
まさにおっしゃる通り! 私たちがどういう思考(考え方、見方)をするかによって、幸せにもなれれば不幸にもなれるのです。
そして重要なのは、その「気の持ち方」を私たちは自由に選択できる、ということです。たまたま選んだ「気の持ち方」でも感情が湧いてきますが、自分が意図して選んだ「気の持ち方」でも同様です。つまり、幸せは自分の意思で選べるということだと思います。
そうであれば、幸せがイリュージョンだとしても、それを私たちは意図的に創り出せるということです。イリュージョンだと知って創り出せるのが脳の機能だとすると、脳はなぜそんな機能を持っているのでしょうね? 虫や動物のように、本能で生きているだけで十分なはずなのに、なぜ人は、そんな機能を脳に持つようになったのでしょう?
エントロピーの法則からしても、勝手にそう進化したというのは科学的に矛盾します。そう進化することが生存において優位であるからという理由でもなければ、進化の正当性を説明できないと思うのです。
「心のクオリアが確固として存在すると考えようとするから、死ぬのはいや、という気持ちになるのだ。そうではなく、もともと何もないのだし、たまたま、意識というイリュージョンを堪能できる、人間という生物の意識として生まれでてきたことに感謝しようではないか。イリュージョンを感じられるうちに大いに楽しもう。所詮はかないイリュージョンなのだから、脳が停止したらイリュージョンも停止するのは仕方がない。また、何もない状態に戻るだけだ。眠るのと大差ない。「永眠」とはよくいったものだ。」(p.238)
「どうせ無に帰すのだからむなしい、と感じられる方もおられるかもしれないが、もともと無だったところに新たなデザインをしてみるささやかな楽しみだ、と思えばクリエイティブだ。
はかない人生なのだから、やりたいようにやるしかない。
といっても、自暴自棄はいけない。
人生のデザインは、数十年間陳腐化せずに持続するものであるべきだろう。ささやかとはいえ、死ぬまで数十年というそれなりの期間、ハッピーでいるに越したことはないので、現在と未来をハッピーにするようなデザインであったほうがいい。」(p.238-239)
前野教授は、人間として生まれて幸せを感じることができる脳を持ったのだから、せっかくだからそれを楽しんで生きたらいいと言います。無神論で生きることの意義を考えると、こうなるのでしょうかね。
ただ、どうしてもニヒリズム感が漂います。どうせ無ならと自暴自棄になるのはもったいないと言うことでしょうか。しかし、自分の考え方をどうしても変えられないと感じている人からすると、どうせ無ならと自暴自棄になることも大したことではないじゃないか、と言われそうです。そう言われたら、反論ができませんね。せいぜい、幸せに生きた方がいいじゃないか、と言えるだけで。
それに、精神を失うから死を恐れるとしたら、無神論の方が恐れるのではないでしょうか。有神論なら、死後も精神が残ると考えることもできるので、そうであればむしろ、死を恐れない可能性が高くなります。
無神論で死を恐れないのは、どうせそもそも価値がないものだから、ということに帰結します。そして、そもそも価値がないのであれば、自死も他殺も、どうでもいいじゃないかとも言え、それこそ自暴自棄になりやすいことになります。
前野教授も、そのことを無意識に怖れて、こういうことを書かれたのではないかと思います。
まあそれはさておき、無神論(魂が存在しない)という立場で考えてみても、有神論と似てくる部分があるなぁと感じました。結局この世は相対的だという認識においては、一致していると思うからです。
では、そこに生まれてくることに何か意味や意義があるのか、という点で、無神論は何もないとしか言いようがなく、有神論はそこに神の意図があったと言える。その違いかなと感じました。
脳が心を創り出しているという考察は面白いものがありましたが、脳が心(精神)の受信機だという説を否定するものではないと感じました。
ただ、その脳によって、本来の現実とは違うものを私たちは五感で感じ、脳の中に幻想を創り出しているという考えは、たしかにそうだなぁと思いました。
2023年08月06日
バスが来ましたよ
何を見て買おうと思ったのかすっかり忘れてしまいました。届くまで気が付かなかったのですが、これは絵本だったのですね。
「第15回MOE絵本やさん大賞第10位」と帯にあり、話題になった絵本のようです。
著者は、文が由美村嬉々(ゆみむら・きき)さん、絵が松本春野(まつもと・はるの)さんです。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を・・・と思ったのですが、これは実話を元にした物語であり、また絵本という特性から文が少ないのです。なので引用はやめて、ストーリを紹介しながら、感じたことを書いてみようと思います。
主人公は、市役所に勤める男性。目の病気になり、10年後にはまったく見えなくなったのですが、それでも仕事を続けようと思い、通勤する訓練を重ねてきました。そして不安ながらもやっと、何とか1人で通勤できるまでになったのです。
そんな時、1人の少女からバス停で声をかけられます。「バスが来ましたよ」と。
その時から、通勤時の少女との交流が始まります。
私はふと、実家で一人暮らしの父のことを思いました。
父は数年前、加齢性黄斑変性症によって、ほぼ失明という状態になりました。明暗はわかるし、視点の下側に何かがあることはわかる程度の視力はあります。しかし、読むことはおろか、何があるのか視覚ではっきりと捉えることができません。
そんな父のことを心配し、妹などは一時パニック状態になっていましたが、父は「何とかなる」という思いでいたようです。
さすがに1人で外出することはできませんが、介護保険を使いつつ、近所の人の助けも借りて、日常生活ができるようになっています。
食材は買ってきてもらい、一部はお弁当という形で届けてもらっています。火を扱うのは危ないので、父が自分でする調理はレンチンだけですが、私もそうなので、それで十分だろうと思っています。
通院時には、ヘルパーさんが付き添ってくれるようです。掃除もしてもらえるし、家の中の移動は手探りで何とかなるので、入浴も排泄も1人でこなせているようです。
とは言え、見えないということは、心細くなることもあるんじゃないかと思っています。
この絵本の主人公も、1人で通勤はできるものの、バスが来たことを教えてもらったり、乗口の場所まで案内してもらうだけで、随分と助かっているようでした。
この初老の男性と少女の縁は、さらに広がっていきます。そして、いつしか男性も定年を迎え、この関係は終わるのです。
関係は終わっても、心に残るものはあります。その温かさ、豊かさが、この男性だけでなく、助けた方の少女の方にもある。そういう気がしました。
誰かを助けるという行為は、一方通行的なものではなく、双方行的なものだと思います。
与えているようで、実は与えられている。そんな風に思うのです。
こういう絵本を子どもに読んであげることで、いろいろと考えるきっかけになるといいですね。
ほっこりする物語を、ありがたく思いました。
「繊細さん」の本
これも何を見て興味を覚えて買ったのか忘れましたが、おそらく1年以上前に買った本になります。やっと読むことができました。
著者は武田友紀(たけだ・ゆき)さんで、HSP専門カウンセラーをされています。HSPというのは「Highly Sensitive Person」の略で、この本で言うところの「繊細さん」です。敏感で、他人の気持ちがビシバシ伝わってきてしまうような人。こういう人が5人に1人いるのだそうです。
そういう繊細さんが楽になって、楽しく生きられるようアドバイスをされているのが武田さんです。本書は、その武田さんの解決手法がたくさん書かれていました。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
「背の高い人が身長を縮めることができないように、繊細な人が「鈍感になる」「気づかずにいる」ことはできません。生まれつき繊細な人が鈍感になろうとすることは、自分自身を否定することであり、かえって自信や生きる力を失ってしまいます。
本書でお伝えする「繊細なままで生きるアプローチ」は、「鈍感になる」「心を鍛える」といった方向性とは全く逆。
繊細な人は、むしろ自分の繊細な感性をとことん大切にすることでラクになり、元気に生きていけるのです。」(p.4)
冒頭でこのように武田さんは言われています。自分を変えることなく繊細なままで楽に生きられるというのですね。
「自分にとって「いいもの」を感じるのも「痛い・つらいもの」を感じるのも、同じ繊細な感覚です。
寒さ、暑さの一方だけを感じることができないように、繊細さんの感覚もいいものだけを抜き出して感じることはできません。」(p.25)
繊細さんが敏感なのは、ネガティブなことだけではなく、ポジティブなことも同様なのだそうです。
「繊細さんに必要なのは、痛みやストレスに耐えられるよう自分を作り変えることではありません。平気なフリをすることでもありません。
繊細な感覚をコンパスに自分にとっていいもの・悪いものを見分け、自分に合う人間関係や職場環境に身をおく。
「私はこれが好き」「こうしたい」という自分の本音をどれだけ大切にできるかが勝負どころなのです。」(p.27)
ネガティブな影響に対して強くなることではなく、ポジティブになれる方へ自分を持っていくことが重要なのですね。
「意識しなくても同僚の感情や場の雰囲気を感じてしまうというNさん。人とじっくり1対1で話すのは好きな一方、職場の飲み会など大勢で盛り上がる場は苦手です。」(p.32)
そう言えば私もそうだなぁと思いました。大勢とか初対面が嫌いです。仲間内の飲み会でも、それが楽しくても、二次会まで行く気がしません。疲れてしまうのです。
「同僚が食器を並べるのを見ていて、ハラハラするんです。そんなところにお水を置いちゃうとお客様の肘が当たって落ちるんじゃないかとか、後のことを考えて、そのお皿はもう少し右側に置いたほうがいいのに、って。なんでみんながあんなに雑に仕事ができるのか、わからないんです」(p.35-36)
ある繊細さんの言葉なのですが、私の心を読まれたのかと思いましたよ。(笑)
私も、前の老人介護施設での仕事で食事の準備をする時、このように感じていました。
「繊細さんが、まわりの人よりもささいなことに取り組む傾向にあるのは確かですが、それは完璧にこなそうと思っているわけではなく、ただ「気がついたから対応しているだけ」「リスクを防ごうとしているだけ」。完璧主義とは別物なのです。」(p.37)
私自身、自分のことを完璧主義者だと以前は思っていました。でも、こう言われてみると確かに、完璧を目指したと言うより、気づいたからしょうがなく対処しようとしたとも言えますね。
繊細さんは、気づくからあれこれ考えてしまって、やることがたくさんになってパニックになることがあるそうです。では、そんな繊細さんはどうすればいいのでしょうか?
「「あれやってからこれやるのがいいんだけど、あれは今できない……とりあえずこれからやっておこう」
最初のうちは「本当はああするほうがいいのに!」と落ち着かないかもしれません。でも、何度かやるうちに「ベストじゃなくても、物事が進む」ことを実感できます。」(p.41)
私もパニックになりそうな時は、「1つずつ、1つずつ」と自分に言い聞かせ、目の前のことに集中するようにしていました。
「あれもこれもと頼まれて焦る。仕事が山積みだ。
そんなときの合言葉は「一つひとつやっていこう!」です。」(p.163)
どうせ一度に全部をやれないのなら、まずは目の前の1つに集中すること。それが終わったら、次をやること。それだけですね。
「それは、相手の感情であれ仕事の改善点であれ、「気づいたことに半自動的に対応し、振り回されている」ということです。
逆に言えば、繊細さんが元気に生きるためには、この自動応答を切ることが必要です。気づいたときにわずかでも踏みとどまって「私はどうしたいんだっけ?」と自分に問いかけ、対応するかどうか、また対応するならその方法を、自分で「選ぶ」ことが必要なのです。」(p.52-53)
気づいてしまうから何とかしなければと感じ、何とかしようとしてしまう。それが繊細さんの癖。だから苦しくなってしまうのですね。
気づいてしまうことは繊細さんの特質ですから、これを変えようとするのではなく、次の段階のどう対処するのかを考えることが大事だと武田さんは言います。
「一時的に対処しなければならないときも、感覚を閉ざすのではなく、ストレスのもとになるさまざまな刺激を「まずはモノで防ぐ」こと。そして、最終的には感覚を閉ざさずすむよう、ストレスの大きな場所や相手とは距離をおくことが必要です。」(p.62)
次に重要なのが、物理的に刺激の量をコントロールすることですね。先ほどの飲み会の例で言えば、なるべく人数の多い飲み会には参加しない。そして私のように、一次会には参加しても二次会は参加しない。そのように、自分で刺激を減らす工夫が必要なのです。
「繊細さんと非・繊細さんの感覚の違いは、繊細さんの想像をはるかに超えています。
どんな人にもどこかしら繊細なところはありますし、非・繊細さんが繊細な感覚を全く持たないというわけではありません。ただ、繊細さんはとりわけ感じる力が強いため、「相手も自分と同じように感じているはず」と思って非・繊細さんに接すると、思わぬすれ違いが生じ、誰も悪くないのに傷ついてしまうことがあるのです。」(p.92)
そう言えば私も若い頃は、ナイーブで傷つきやすい性格でしたね。(笑)
「自分の本心を抑えて相手を優先していると、「優先してもらうのが好き」な人がまわりに集まります。「相手を優先するあなた」がよしとされるので、自分の意見や感じ方に自信がなくなり、ますます自分を出せなくなってしまう。
自分を出さないようにして「殻」をかぶっていると、その「殻」に合う人が集まってきてしまうのです。」(p.97)
ネクラな自分を否定して、無理して明るくなろうとしていると、明るいことが良いことだというエネルギーを持った人が集まるため、ますます苦しくなってしまうのです。
「でも、わかるのは、怒っているな、イライラしているな、という相手の感情(機嫌)まで。「相手がなぜ今、その感情になっているのか?」という「感情の理由」を正確に当てることはできません。感情の理由は、あくまで頭で推測したものだからです。
人は自分に負い目があるとき、負い目に注目しがちです。
たとえば「自分は仕事が遅い」と思っていると、上司がイライラしているときに「自分の仕事が遅いからだ」と思ってしまう。」(p.113)
たしかにそうですね。繊細さんは、相手の感情には敏感ですが、その理由まで正確に理解しているわけではないのです。
実際、こういう面倒くさい人もいましたね。自分は嫌われると思っている人が、他人のちょっとした行動を曲解して、自分が嫌われたと思っていじけてしまう。(笑)
「非・繊細さんと上手にコミュニケーションするためには、自分の感覚をわかってもらおうとするのではなく、やってほしいことを言葉ではっきり頼む必要があります。」(p.145)
これは何も非・繊細さんに対してだけではなく、相手が繊細さんでも同じだと思います。所詮他人はわからないのです。だから、何も言わずにわかってくれという方が無理なのです。
「繊細さんどうしなら以心伝心、なんでもうまくいくのか? というと、そうではありません。
ふたりとも繊細だというご夫婦は、「察してよ、と思っていたときはうまくいかなかった。でも、言葉で伝えるようになって、どんどん仲良くなっていった」といいます。」(p.153)
感性も考え方も、人それぞれなのですよ。
「介護施設で働くKさん。夜勤もこなす彼女は、職場で休めないという悩みを抱えていました。夜勤で一緒になる同僚は「聞こえてないのかなと思うぐらい」コールに出てくれないため、いつも自分が対応しているといいます。」(p.175)
「そんな彼女に、私から「率先して動くのをやめて、職場でぼーっとしてみよう」と宿題を出しました(もちろん介護施設の利用者さんに危険のない範囲で、です)。
すると、どうなったでしょう。コールが鳴ると同時に手を伸ばしそうになるのを一瞬だけこらえることで、同僚がコールをとるようになったそうです。」(p.175-176)
この同僚は、やりたくなくて怠けていたわけではなく、自分がやろうとするタイミングよりも早くKさんがコールを取るので出番がなかっただけなのでした。
私も老人介護施設で働いていて、似たようなことがありました。わざと何もせずに放っておいて、同僚がやるよう仕向けたこともありました。
でもね、そうするのは私らしくないと感じたんですよね。だから、損か得かじゃなく、私らしく生きようと思って、同僚がどうするかに関係なく、私が私のタイミングでやったらいいじゃんと思ったのです。
もちろん、時々は怠けましたけどね。(笑)
「誰かの機嫌が悪いと気づいたら、「機嫌悪いんだなー」と思うにとどめ、あとは放っておいてください。
とはいえ、不機嫌な人のそばにいると落ち着かないもの。お手洗いに立つ、他の場所で作業するなど、できるだけ相手から離れましょう。」(p.184)
これは斎藤一人さんも言われていることですね。機嫌は自分で取るものです。他人の機嫌を取ってあげる必要はなく、取ってあげてはいけないのです。他人には、機嫌が悪くなる自由があるのですから、他人の自由に任せることですよ。
そして、前にも出てきたように、できるだけネガティブな刺激から物理的に離れることです。
「繊細さんが、自分のままで元気に生きる鍵。それは、自分の本音−−「こうしたい」という思いを、何よりも大切にすることです。」(p.221)
「こうすべき」というのは他人の思いです。そうではなく、自分が楽しくなるような「こうしたい」という思いに従うこと。
もちろん、「他の職場で働きたい」というような大きなことはすぐにはできなくても、「不機嫌な人から離れて1人になりたい」と思うなら、今すぐそうすることです。
この本を読んで、私も実は繊細さん(HSP)だったんじゃないかなぁと思いました。たしかに若い頃はナイーブで傷つきやすかったし、他人に対して過剰に期待していました。
歳を重ねることで、徐々に自分の思いで生きられるようになってきて、今は幸せに生きられています。でも、繊細な感性というのは変わっていないなぁとも思います。
もし今、自分の繊細な感性によって苦しんでいる人がいるなら、こういう本を読んでみるのもいいかなぁと思いました。
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