2023年07月01日
おかげで、死ぬのが楽しみになった
Facebookでフォローしている比田井美恵さんの投稿を読んで、これは面白そうだと思って買った本になります。
比田井さんは上田情報ビジネス専門学校(通称ウエジョビ)の校長をされていますが、知ったきっかけは、日本講演新聞で紹介されていた夫の比田井和孝さんの本、「私が一番受けたいココロの授業」を読んだことです。
比田井さんと縁のある元我武者羅應援團総監督の武藤正幸さんが、小説家デビューしたペンネームが遠未真幸(とおみ・まさき)さんで、本書の著者になります。
比田井さんによると遠未さんは、6年半かけて本書を書き上げたのだそうです。その間に、たくさんのストーリーを考え、検討し、最適なものを求めた。そのために時間がかかり、その集大成が本書なのだそうです。
そんな紹介をされたら、もう読むしかないでしょ。と言うことで、買った本になります。
そして読んでみて、買って正解だったなぁと思いました。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
とは言え、これは小説なので、ネタバレしないようにしたいと思います。特にタイトルがなぜこうなのかは、ぜひ本書を読んで楽しんでいただきたいと思います。
まずストーリーの概略と構成を書きます。
高校の時の応援団の1人が亡くなり、その葬式に他の3人のメンバーが集まるところから物語が始まります。高校の同級生も、すでに70歳です。
そこで孫から遺言が渡されます。そこには、応援団を再結成してくれと書かれていました。何のために? 誰を応援するのか?
わからないけど、ともかく仲間の最後の望みであるならと、残ったメンバーの3人は応援団を再結成します。
そこからは、それぞれのメンバーを主人公にした物語が展開します。そして、そこに協力することになった孫の物語も。
それぞれの物語やキーワードが関連し合い、全体の物語が展開していきます。その中には、応援すること、生きるということなど、深遠なテーマに関するメッセージがちりばめられています。
「和訳すると、口もとのゆるみを愛して進め。応援団での3年間がそうだったみたいに、思わずニヤニヤしちゃう方へ進んでさえ入れば、人生はオールハッピーになる」
のほほんとした、それでいて一点の曇りもない声色だった。
「この先、世界が敵に回ったとしても、オレがオレの味方でいてやればいいってわけよ」巣立は私たちの顔を見つめ、「オレにはオレがついている。だからオレは一人じゃないんだなー」としみじみつぶやいていた。」(p.17)
亡くなった巣立の座右の銘が、「ラブ・ニヤニヤ」なのだとか。ふと口元が緩んでニヤついてしまうようなことを選択して生きる。それが人生の極意だと言うのです。
「「選手を後押ししてるつもりだったけど、こっちが力をもらってたのかもな」
板垣のつぶやきに、長年解けなかった方程式の解が降りてきたかのように、はっとした。応援は、する側からされる側への一方通行の行為ではない。
私たちは支えることで、すでに受け取っていたのだ。」(p.86)
応援される側が応援する側から一方的に恩恵を受けているわけではないのです。応援する側は応援することによって、応援される側がいてくれることによって、受け取っているものがあるのですね。
「才能もなく、試合に出られる希望もない。身の程をわきまえない努力は、惨めさを生むだけだ。
彼は構えたバットをゆっくり下ろした。顔を上げ、私の目をまっすぐに見る。
「父さんと約束したんです。『笑われても、歩いてでも、走れ』って」
「なんですか、それは?」
「口癖です。父さんの」周くんの目に力が宿る。「速く走れるかは人によって違う。でも走るかどうかは自分次第。だから、笑われても、歩いてでも、走れ」」(p.103-104)
才能もなく、バッターボックスに立たせてさえもらえない周くんは、それでもお父さんからのメッセージを忠実に守って、ひたむきに練習に打ち込みます。結果がどうかじゃない。誰かから評価されるかどうかじゃない。ただ自分が自分を諦めないかどうかだけが重要なのです。
「「自分のために貫いたことは、意外と誰かのためになったりする」
「何それ、自分勝手に生きれば良かったってこと?」
結婚生活の苦労を否定された気がして、いらっとしてしまう。
「自分勝手上等」巣立は頷き、「ただ自分のために生きるってのも、案外、楽じゃないけどなー」と独り言のようにこぼした。」(p.192)
他の誰かのために何かをするんじゃなく、他の人はどうでもいいから自分のために何かをする。それが結果的に他人のためになることがある。
要は、結果を求めない生き方だと思いました。とかく他人のためにという生き方は、他人からの評価を得たいという動機によるものです。つまり、他人のためのようで、実は自分のためなのです。
そうであれば、むしろ他人の評価など気にせず、自分の望みを追求すればいい。自分らしい生き方を追求すればいい。自分が愛であるなら、自分らしく生きることは、誰かのためになるのです。
「あの頃の私に、現在の自分が一矢報いることができるとしたら、勇気の使用量かもしれないって。だって、高校時代に比べたら、病気も怖いし、鏡に映る老いた自分を見るのも怖いし、家に一人でいるのすら怖い。もちろん、死ぬのもどんどん怖くなる。昔よりも、生きるために使う勇気の燃費は、同じ一歩でも、必要な勇気の量は桁違いだろうよ。だからこそ、何も考えずに踏み出せてしまったあの頃より、震えながらも踏み出す今の一歩の方が、よっぽど勇ましい気がしないか?」(p.320-321)
若いころは無謀なこともできますが、年を取れば取るほど冒険できなくなるものです。そうであればこそ、老人の無謀な一歩には意味があるし、大きな勇気を使ったと言えるのですね。
私もそう思って、小さなバンジーを飛び続けようと思います。そういう生き様が、誰かのお役に立てるかもしれないと思ってね。
「「そもそも、がんばっていない人に『ガンバルナ』とは言わないもん。必死で努力しているのを知っているから、限界まで踏ん張ってきたのをわかっているから、『今は自分を守るために、がんばらない道を選んでいいんだ』ってことでしょ」
「『ガンバルナ』とあえて背中を引き止めることで、休むことも、あきらめることも、逃げ出すことさえ受け入れる。否定形なのに、相手の存在を丸ごと肯定する言葉。苦しみの底にいる相手にふさわしいエールじゃないか」と引間が感心したようにつぶやいた。」(p.331)
東日本大震災の時、多くの人がネットで「がんばれ」とメッセージを発信しました。それに対して被災者側から、自分たちはもう十分にがんばってるのに、さらに頑張れと言うのか!? というような反発もありましたね。これは、うつ病の人に対して「がんばれ」と言ってはいけないとされるのと、同じことだと思います。
私は、「がんばれ」じゃなく「がんばろう」と言ってきました。それは、がんばるのはあなただけじゃなく、私も一緒にがんばるよ、という意味を込めていました。一緒に頑張ろうよという誘いかけです。
言葉のニュアンスがどれほど伝わるかはわかりませんが、十分に頑張っている(と思っている)人に対しては、「がんばるな」というメッセージが伝わるのかもしれないなぁと思いました。
そもそも頑張っても頑張らなくても、どっちでもいいんだと思います。何かをするから価値があるんじゃなくて、存在そのものに価値があると思うからです。
「自信に根拠なんてねえよ。根拠がないから、自信の出番なんじゃねえか。根拠があったら、ただの確認作業だろ」(p.421)
私も「根拠のない自信」こそが本物の自信だと言ってきました。根拠のある自信は、所詮、不安の上に築き上げた楼閣に過ぎないのです。
ここでは紹介できませんが、それぞれの物語の登場人物やメッセージが、密接に絡み合っています。「そうか、ここでそうつながるのか!」と驚き、感心することが多々ありました。
読み物として純粋に楽しめます。そして、たくさんのメッセージを受け取れます。
こんな素敵な小説を、著者が6年半かけて創り上げた物語を、たった2千円弱で読めるって、本当にありがたいことだなぁって思いました。
2023年07月03日
見えないからこそ見えた光
先日紹介した「あなたに贈る21の言葉」に取り上げられていた岩本光弘(いわもと・みつひろ)さんの本になります。
岩本さんは、弱視から全盲へと移行した後、テレビでおなじみの辛坊治郎さんと一緒にヨットで太平洋横断に挑戦したことで話題になりました。けれどもその挑戦は、出港間もない悪天候の中、鯨と衝突するという不運が重なり、断念することになりました。
失敗に終わった挑戦を、世間は冷たく叩きました。そのことがトラウマになり落ち込んだ岩本さんですが、再度挑戦しようという気持ちになったのです。本書は、その再挑戦の直前に発行されたもののようです。
再挑戦の結果は、すでに知られているようにみごとに成功されました。つまり、成功が確定する前に書かれた本なのです。
私は他で言っていますが、2016年にリストラされました。その時、まだ成功していないどん底の今だからこそ情報発信する意味がある、というように考えたのです。
多くの成功者は、成功した後に、かつての不遇の時代のことを情報発信されます。それでは、成功したから言えるんだろう? と思ってしまいますよね。
どうせなら、まだ成功する前のどん底の時に情報発信して、その後を見てもらえばいいんじゃないか? 私はそう思ったのですが、岩本さんのこの本は、まさにそういう内容だなぁと思いました。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介したいと思います。
「そんな時期を過ぎ、次第に自分の障がいを受容することができるようになっていきました。そして、ようやく他人からの援助を受け入れられるようになったのです。
その頃考えたのが、私を助けてくれた人たちが、『あー、いいことをしたな』と思えるのであれば素晴らしいことではないか。見えないという私の存在意義のひとつはそこにあるのではないか、ということでした。」(p.25)
つまり、助けてもらわなければ生きていけないという自分は、助けてあげたいという他の人の役に立っている、ということなのです。
「そういった交流が、障がい者理解につながり、社会にとってもそのきっかけになります。理解できていないというのはどちらかが悪いわけではなく、それまで一緒にやるという接点がなかっただけです。そういう意味でもバリアを破った感がありました。」(p.34)
岩本さんは盲学校の時代、アマチュア無線や英会話、そしてバンド活動をするなど、様々な挑戦をされたそうです。新しいことをしようとすれば、いろいろと壁にぶつかるものです。しかし、その壁は「悪い」と決めつけて責めるものではなく、互いにとって新たなことに挑戦する経験でもあるのですね。
だから私も、障害者とかマイノリティの人々は、もっと社会に出てきてほしいと思っています。もちろん、つらい思いもするでしょうけど、そういう経験の積み重ねでしか、私たちの社会は変わっていかないと思うからです。
「私たち視覚障がい者にとって命取りになる状況は日常茶飯事です。そうやって生活していると、自分自身以外のものに助けられる、その存在に感謝をすることが常にあります。命の大切さ、今あることへの感謝というのを日々感じているのです。生きているのではなく生かされている、こう考える時に人生は豊かになると思います。」(p.53-54)
目が見えないということは、見える人以上に容易に危険に遭遇することになることは想像に難くないでしょう。健常者ならめったに落ちない駅のホームでも、障害者はちょっとしたことで落ちる危険性がある。
でも、だからこそ、何もないことが有り難いことなのだと思うこともできる。健常者にとって「当たり前」だと思い込んでいることが、必ずしもそうではなく、本当は「有り難い」ことなのだと認識すれば、ただ生きているだけで感謝したくなるんですね。
「しかし、先に進めない山手線のなかで、私が聞いたつぶやきはそのようなものではありませんでした。
「何だ、またかよ」「むっちゃ迷惑だな」「俺のアポはどうしてくれんだよ!」
自己中心的のものばかりであったことに、私は驚いたのです。
人身事故で電車が止まることが当たり前になってしまって、そこまで追い詰められた人のことを考えられなくなっているのだなと少し切なくなりました。」(p.61)
たしかに、東京で働いていた頃、電車に乗っていて人身事故に遭遇するような場面に私も何度か遭遇しました。「死ぬなら勝手に死んでくれよ。なんで俺たちを巻き込むんだよ。迷惑なんだよな。」というような声も聞きました。
でも私は、そういう人たちの気持ちもわかるのです。ある意味で共感できます。前提として社会が殺伐としているのです。常に効率を求められ、迫られている。だから自分のことで目いっぱいなのです。
だから私は、そういう人たちのことも責めたいとは思いません。ただ、社会全体が平和で幸せであるためには、そういう逼迫感がなくなることが一番なのだろうなぁと思うのです。
「入学してすぐの頃、心理学の先生が私に「仕事をしながらなぜわざわざ勉強に来るのか」と尋ねてきました。私が率直に「彼ら(生徒)の気持ちをわかりたいからです」と言うと、「そういった気持ちで来るのならやめなさい」と言われ、驚きました。せっかく入ったのに……と思いましたが、4年間学んでその真意がわかりました。
その真意は、相手の思いをわかろうと努力することはできるけれども、人の心をすべてわかったつもりでカウンセリングすることは間違っているということでした。だから、人の心はわかり得ないものであるという前提で、寄り添う。それは聞くことの重要性、ただ聞くことに終止するということなのだろうと思います。」(p.83)
筑波大学附属盲学校で教鞭をとっていた頃、生徒たちの心理を知りたくて、青山学院大学で心理学を学び始めたのだそうです。その時、このように言われたのですね。
人はそれぞれ違うし、どれだけ言葉で説明してもわかり合えないことがある。私は、そのように思っています。
だからこそ、聞く(わかろうとする)ことをしつつも、その大前提として「わからないことは必ずある」という思いを忘れてはいけないなぁと思うのです。
話せばわかる、ということが傲慢なのだと思います。話さなければわからないことがあるけど、いくら話してもわからないことはある。けれども、その人にはその人の価値観があり、その価値観において間違ったことはしない、つまり、その人にとってはその行動が正しいということなのです。
「行動できない人に共通していることがあります。それは、不安な心に支配されているということです。怖がることはありません。やってみてください。この行動派になることが何事も成功への第一歩なのではないでしょうか? やってみたら意外と何とかなるものです。」(p.103)
「できるかどうか」ではなく、「やるかどうか」なのです。だから私も、結果を恐れずにやりたいと思ったことをただやればいい、結果ではなく行為そのものに情熱を注ぐこと、と言っているのです。
「飛行機で行けば12時間くらいで到着してしまうところを約2ヵ月かけてセーリングする。だからこそチャレンジと言えるのでしょう。
普段の日常では温かい食事、お風呂、映画を見る、といった生活ができますが、ヨットでの生活は、生鮮食料品なし、シャワーなし、インターネットなしのないない尽くしの2ヵ月なのです。しかし、この2ヵ月間の旅は飛行機の旅では経験できない多くの楽しみがあります。」(p.137)
ヨットで太平洋横断という旅は、壮大な無駄で非効率であり、快適の対極にある行為だと言えるでしょう。でも、だからこそ挑戦であり、冒険であり、最高に楽しい娯楽だと言えるのです。
そういう意味では、人生そのものがまさにそういうことだと思っています。全知全能の神が、あえて神らしくない存在として、不自由を抱えた存在として生きてみたらどうなるか。こんな挑戦的な娯楽はないでしょう。障害者として生きることも、マイノリティとして生きることも、健常者に比べたら、より挑戦的でスリリングなゲーム(娯楽)をやっている、とも言えるのではないでしょうか。
「私がヨットにはまった理由のひとつが、通常の道路では運転できないけれども、海では操船ができることでした。サンディエゴ湾内では、行き来している船は多いし、ブイやいかだなどの障がい物もあり、操船はできますが晴眼者からのフィードバックが必要となります。
しかし、太平洋の真ん中では、ぶつかるものは何ひとつない。この太平洋の懐の大きさは、全盲の私にはありがたい限りです。操船できる自由を与えてくれているのですから。」(p.150)
ぶつかるものが(ほとんど)なければ、だいたいの方角で進めばいいだけ。それを「太平洋の懐の大きさ」と表現されていることに、どれほど「自由」と「感謝」と「幸せ」を感じておられるのだろうと思いました。同じ状況であっても、感じることは人それぞれだなぁと思ったのです。
「ダグことダグラス・スミスも、太平洋を航海するという夢を以前から持っていましたが、セーリング仲間にその夢を話しても、いい反応はもらえませんでした。そんな時私の話を聞いて、ダグは私に「私たちは同じ夢を持っている。君はヨットの操作をわかっているし、私はきちんと見ることができる。良いパートナーシップになると思わないか」と言ってくれました。」(p.184-185)
これが、以前に読んだ本で紹介されていた部分ですね。この出会いによって、太平洋横断という再挑戦が決まったのです。
「もう人は信じられなくなったんだ。と涙ながらに話した後に、自分は人を信頼するということを忘れていた、人を信頼することがいかに大切かということが今さらながらわかった、と話してくれました。
「私も目が見えなくなったときはそうだったけれども、今は人を信じて生きるしかない。お金にしても、アメリカのお札はみんな同じ大きさだろ? 日本はみな大きさが違うし、手で触るとわかるようになっているんだ、だから、このアメリカで100ドルだと言って1ドル札を出されても私はわからない。私は言われたことを信じているんだ。それでしか生きていけないんだ」と言うと、彼はさらに泣き出しました。」(p.190)
バス停でホームレスが岩本さんに、座る場所を教えたことがあったそうです。岩本さんは素直にその助言に従い、移動して座ろうとした時、そのホームレスは、自分のことを信じてくれたんだ、と話し出したのだそうです。
たしかに、その見知らぬホームレスが言うことが正しいとは限りませんからね。しかし、信頼しなければ生きていけない現実がある。けれども、それは仕方ないとは言え、強制的にでも人を信頼して生きる生き方をさせてくれているとも言えるのですね。
信頼することに何の補償もありません。信じれば益があるという保証がないからこそ、本当の意味での信頼だと私は思っています。
「信頼する」とは、「愛すること」です。愛は無条件ですから、無条件で、つまり何の見返りもなく信頼するのです。
「クジラがぶつかって、最初は、
『何で俺の夢を邪魔するんだ』
『どうして俺なんだ』
と目が見えなくなった時と同じように思いました。ですが、今では、天なのか神なのかそれは人それぞれ違うと思いますが、そういった力が働いたのではないか。都合が良いかもしれませんが、より強いインスピレーションをもっと多くの人に私が与えられるようにするために、クジラが私たちのヨットにぶつかるよう作用したのではないか、と思っています。広い太平洋でエオラスとぶつかったクジラに文句を言っても何の解決にもならない。むしろ、そのことは必然だったのではないかとさえ思うのです。」(p.194-195)
辛坊治郎さんと挑戦したエオラス号での太平洋横断は、悪天化で突然、クジラに衝突されて浸水するという事故により、失敗に終わりました。よりにもよって、あのただっぴろい太平洋での衝突事故。それを偶然と見るのか、必然と見るのか。その見方は自由に選べますが、その選択によって、自分の生き方が影響されるのです。
「相手に対して不満を持っているあなたの顔は引きつってはいませんか?
どうぞ、そんな時だからこそ、自分を誉め、自分を愛して、鏡の前で笑ってみた後に、相手のことを考えてみましょう。そうすることで何か人間関係を良くする糸口が見えてくるかもしれません。」(p.203)
これは私が「鏡のワーク」でお勧めしているのと同じことですね。
ありのままの自分を受け入れ、認め、誉めること。そうすれば、その安心感の中にあれば、他人を責めずに受け入れることができるようになります。
岩本さんは、ヨットの冒険家として知られていますが、指鍼(ゆびばり)術セラピストやコーチングによって生活の糧を得ておられるようです。そのため、幸せになるための考え方が散りばめられた本になっていました。
この本が出版された後、岩本さんは太平洋横断に成功されています。2019年4月のことです。(致知出版社の記事より)もし、その挑戦が失敗に終わっていたとしたら、この本の評価はどうだったでしょうか?
私はそれでも、この本は価値あるものだったと思っています。それは挑戦者の記録であり、挑戦とは結果ではなく過程(行為)そのものだと思うからです。そしてその行為、つまり経験こそが何よりも大切なものだと思うのです。
2023年07月24日
パワーか、フォースか
もう1年前になりますが、友人から紹介されて購入した本になります。それから1年、ずっと積読状態でした。やっと読んでみようかという気持ちになり、読んでみました。
著者はスピリチュアル的なことを研究しておられるデヴィッド・R・ホーキンズ氏。翻訳はエハン・デラヴィ氏と妻の愛知ソニア氏です。
はっきり言って、けっこう難しいです。一応読み終えましたが、詳細部分はよくわからないので、常に本質は何かという視点でのみ読み勧めました。
要は、キネシオロジー(Oリングなどで知られる)を使うことによって、知覚できない真実を知ることができ、それによれば、この世はこうなっているよというような話かと思います。
ただ、私の知識に照らしても、ここで語られていることは深い真理だなぁと思いました。なので、安易にはお勧めしませんが、良い本だと感じました。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
「『各々の人間の心は、巨大なデータベースに永遠に接続されているコンピュータ端末のようなものである。そのデータベースは人間の意識そのものであり、そこで起きる我々自身の認識は、単なる個別の表現にすぎない。しかし、そのルーツには、全人類が共有する意識の源がある。このデータベースこそ「天才」の領域に属していて、人間であるということがこのデータベースに参加していることである。よって、生まれながらにして人間は「天才」にアクセスできる能力を持ち合わせているということである。そのデータベースには無限の情報が含まれており、誰もが、いつ、どこでも容易にアクセスできるものである。これは実に驚くべき発見であり、個人レベルであれ、集団レベルであれ、アクセスできる情報であり、今までまったく予期できなかった、人生を変えるだけのパワーを生み出すものである』」(p.26-27)
改定前の本書の序文からです。ホーキンズ氏は、本書の重要なメッセージはこれだとして、事前に綴っておられます。
簡単に言えば、人であるというだけで全知全能の神にアクセスできるということです。
「この本の目的は、あなたが読み終わった最後に「私は常にそれを知っていた!」とうなづけることです。そうであればこの本は成功したといえるでしょう。ここに含まれている内容は、あなたがすでに知っていることを反映しているだけなのですが、あなたはそれを自分が知っているとは知りません。そこで私がやりたいと思ったのは、今まで隠れていた絵のパズルのピースが点々と現れて、互いを結びつけることでした。」(p.28)
全知にアクセスできる人間ですから、すべてのことを知っているはずなのです。けれども私たちは、私たちがそういう存在だということを忘れています。本書は、それを思い出させるものだと言っているのですね。
「『パワーか、フォースか』は、人間の精神的進化のもっとも低い表現(恥)からもっとも高い(悟り)レベルにいたるすべての層を、論理的に説得力のある意識の分析として示したものです。本書は、目に見えるものと目に見えないもの、人間、非人間なども含めた存在するすべてのエネルギー的な本質を明らかにすることによって、すべての創造物の一体性を浮き彫りにしています。」(p.39)
本書では、人の意識レベルを数値で表しています。それを論理的に説得力のある分析を行っていると、新しいまえがきでは語っています。
「人間は自分がコントロールできるフォースによって生きていると思っていますが、実際には隠されている源からの制御不能なパワーに左右されています。」(p.60)
タイトルにあるパワーとフォースですが、日本語に訳せばどちらも力になります。では何が違うのか?
これは、本書を読んでいかないとわかりづらいのですが、要はエゴ(顕在意識、理性)によって「◯◯しよう」としてすること、その行為とかエネルギーがフォースであり、そういうものによらずに勝手に起こってくることがパワーと言えるのではないかと思います。
意識のマップ(p.101)というのがあり、「恥」(20)のレベルから「悟り」(700〜1000)のレベルまで、意識のレベルを表しています。このレベルがパワーのレベルとも言えるのでしょう。
「自分自身の知覚によって生じた結果に対して責任を取るにつれ、「自分を打ち負かすものは、外の世界には何もない」という理解が生まれ、他者に責任をなすりつける精神を超越できます。人生で起こる出来事に対して、自分がどう反応し、どういう態度をとるかによって、それらの出来事が人生にポジティブな影響を及ぼすか、それともネガティブな影響を与えるのかを決定します。その経験は、チャンスにもなれば、ストレスにもなるのです。」(p.104-105)
現実の状況や出来事の責任がすべて自分にあると考えれば、現実の犠牲者にはなり得ません。そうであれば、何かをするための前提条件、つまりチャンスでしかないのです。
「歴史全体を見ると、法的措置、戦争、相場操作、法律、規制などの社会問題は、いずれもフォースの力によって、改善しようと試みてきたということに気づきます。しかし、これらの問題をいくら処理しても、同じことがしつこく繰り返されるだけです。個人にしても政府にしても、フォースに基づいた近視眼的な方法では、これらの問題は解決できません。」(p.106)
なぜそういう問題が現実に起こってくるのかということについて、本質的な原因を見極めない限り、対処療法では本質的には解決しないのです。
「測定が示す数字は十進算ではなく、対数を表しているということをよく覚えておいてください。よってレベル300は、150の2倍の範囲を意味するのではなく、10の300乗(10300)のパワーを示しています。ですから、ほんの数ポイント上がるだけでも、パワーは大きな増加を表しています。」(p.108)
「怒り」のレベルは150ですが、そのパワーを倍にしても300にはならないのです。それくらいこの意識のマップに示されたパワーのレベルは、数値が少し上がるだけで大きな違いがあるということですね。
「私たちの社会で、人を操ったり罰したりするためによく使われるのが、「罪悪感」です。」(p.111)
「罪悪感にとらわれてしまうと、結果として「罪」の意識に支配されてしまいます。それは誰に対しても「許さない」という態度をもたらします。また、この感情は、宗教扇動者によって、強制や支配に利用されることがあります。」(p.111)
お勧めしている「神との対話」では、不安と罪悪感は人類の敵だと言っています。他人をコントロールする手段であり、愛の真逆のものなのです。
「200レベルにおいて、初めて「フォース」から「パワー」に切り替わります。
200以下のエネルギーレベルに陥っている被験者をテストすると、すべての反応が弱くなるのが簡単に確かめられます。ところが200以上の生命を支えるフィールドでは、誰もが強く反応します。
これは生きることに対してポジティブか、それともネガティブな影響を与えるのかを識別できる臨界点です。」(p.120)
その人がどのくらいのエネルギーレベルかも、キネシオロジーで知ることができるようです。そしてエネルギーレベルが200というのは、「勇気」という言葉で表されるものだそうです。
「「中立」のレベルでは、「さて、この仕事が得られないのなら、また別の仕事でも探そうかな」と言うことができます。これは、内なる自信の始まりを意味します。自分のパワーが感じられると、人は簡単におじけづいたりしませんし、他人に認めてもらう必要もありません。」(p.122)
エネルギーレベル250が「中立」です。他人からどう思われようと、自分を信じ、人生を信頼できるのですね。
「それはここでいう「愛」ではなく、むしろ依存的で感傷的な類のものといえます。そのような関係性には本当の愛はおそらく存在せず、プライドによる憎しみから生じているのでしょう。
500レベルは、無条件かつ不変で永久的な愛の発展によって特徴づけられます。その源泉は外部の要因に依存していないので、決して揺らぎません。
愛することとは、心の在り方です。世界に対して許し、養う、サポート的な在り方です。」(p.128-129)
「愛」のエネルギーレベルは500だそうです。そしてその「愛」とは、多くの人が勘違いしているものとはまったく違うものなのです。
「各々の意識の到達レベルが高ければ高いほど、その人の人生をすべてを変えてしまうほど、もたらすパワーは大きくなります。非常に意識の高い状態を一瞬経験するだけで、目標や価値観も同様に、人生の方向性を完全に変えることができます。今までと同じ人間ではなくなり、その経験と共に新たな人間が誕生すると言えるでしょう。困難な道ではありますが、これこそがスピリチュアルな進化のメカニズムです。」(p.147)
先に示した意識のマップのエネルギーレベルを上げていくこと。それがスピリチュアルな進化なのです。
「テクニックが即座に偽りと真実を区別するので、たとえば加害者は誰かとか、行方不明の人の居場所なども、実際に解決につなげることができます。大きなニュースの出来事に隠されている真実を明らかにすることも可能です。」(p.162)
これは驚くべきことなのですが、キネシオロジーが全知にアクセスするものだという前提なら、まさにそういうことになります。
つまり、人が本当のことを言っているのか、それとも嘘を言っているのか、簡単に見抜けます。また、目撃者が誰もいなくても、そこで何があったのか知ることもできるのです。
「死の恐怖をいったん超越できれば、人生観が変わるほどの経験となります。その理由は、死という特定の恐怖は、他のあらゆる恐怖の基盤となっているからです。」(p.171)
私たちは恐れ(不安)があるから、本来の私たちではない選択を余儀なくされています。その恐れ(不安)の最たるものが死だと思います。
だから、この死の恐れ(不安)を乗り越えることが何よりも重要だと私も考えています。
「世の中の有害なものはすべて、暴露されることによって無害になります。そうであれば、何も隠されたままでいる必要はありません。あらゆる思考や行動、決断、感情は絶えず動き続ける生命のエネルギーフィールドの中で、互いに組み合わさりながら調和をとり、渦を巻き起こしながら永遠の記録として残ります。このことに私たちが気づけば、そのような発見に初めはおじけづいても、その気づきは進化を早めるための飛び込み台となるでしょう。」(p.176)
お勧めしている「神との対話」でも、すべてを見える化する、透明化することを勧めています。
「パワーは生命そのものを常に支えることに関係しています。それは、人間の気高さという性質を訴えています。「気高さ」とは、私たちが「俗っぽい」と呼ぶフォースの領域と相対しているものです。
パワーは私たちを高揚させ、威厳を与え気高くしてくれるものです。フォースは常に正当化されなければなりませんが、パワーは正当化される必要はまったくありません。フォースは部分的なものに関係しますが、パワーは全体に関係しています。」(p.180)
パワーとフォースの違いを対比した文ですが、パワーは存在する「ひとつのもの」に仕えるものだと思います。
この後も対比が続くのですが、フォースは移動しパワーはじっとしている、フォースは対立しパワーは敵対しない、のような記述があります。これは「神との対話」の不安(恐れ)と愛の対比によく似ていると感じました。
「「「フォース」は常に真実の置き換えです。「銃と警棒」は弱さの証です。ちょうど虚栄心が自尊心の不足から生じているように、他人をコントロールする必要性は「パワー」の不足から生じています。罰は暴力の一つの現われであり、「パワー」に代わる効果のない置き換えです。」(p.223)
つまりフォースは恐れ(不安)から他人をコントロールしよう、思い通りにしようと働くのに対し、パワーは愛から他人も自分もありのままで自由にさせるのです。
「どんな宗教でも、原理(根本)主義派は常に一番低く測定され、犯罪の意識と同じ水準で活動していることがわかります。その象徴は、自己中心的な極端主義と非合理性です。しかし人類の85パーセントは、200の臨界点となるレベル以下で測定されるために、間違いは容易に広まると同時に、世界中で受け入れられることになります。」(p.347)
宗教の原理主義というのは、経典に書かれている規律を何が何でも押し付けなければ気がすまないという考え方です。そういう意識レベルは、パワーではなくフォースに傾いているってことですね。
そして宗教そのものが、教祖が表れた時から比べると時代とともにエネルギーレベルが落ちていることが書かれています。こういうのは面白いですね。
「意識のレベルをもっと向上させることは、どんな人でも世界に対して与えることのできる最高の贈りものです。その上、波及効果によって、その贈りものは源に還元されます。何世紀もの間、全体としての人類の意識のレベルは危うくも190に留まり、1980年代半ばに突然204という、希望が持てるレベルまで飛躍しました。今日となって、人類は歴史上初めて上に向かって進み続ける安全な地点に到達しました。」(p.360)
これをアセンションと言うのでしょうか。人類全体のレベルとして200の臨界点を1980年代に超えたと言っています。
「一般的な知恵として、人は天を崇拝するか、地獄を崇拝するかによって、やがてはどちらかに仕える者となります。地獄とは神によって課された状態ではなく、むしろ自分自身が選択したことの必然的な結果です。絶えずネガティブを選択する最終的な結末であり、したがって愛から自分自身を遠ざけることなのです。」(p.366)
お勧めしている「神との対話」でも同様のことを言っています。神が人を地獄に落とす必要がないのだから、そういう意味での地獄は存在しません。けれども人は、その想像力によって地獄を創り出し、地獄を体験するのです。
かなり難解な内容でしたが、スピリチュアル的にはお勧めしている「神との対話」の内容とほぼ一致しているのではないかと思いました。
実際にキネシオロジーによってすべてのことが正確に測定できるのかどうか、私にはわかりません。また本書にも、それが正確だという科学的な根拠は示されていません。
なので、どう感じるかは人それぞれにお任せするしかないなぁと思いました。
かなり難解なので、安易にすべての人にお勧めしたいとは思いません。しかし、真理を探求したいと思われる人は、挑戦してみてもいいのではないかと思いました。
タグ:デヴィッド・R・ホーキンズ 本
2023年07月30日
女性たちで子を産み育てるということ
何を見て買おうと思ったか忘れましたが、同性婚が話題になっている昨今、興味深いテーマだと思いました。サブタイトルに「精子提供による家族づくり」とあるように、いわゆるレズビアンカップルが子どもを産み育てるということの現状と問題点を探ったものになっています。
著者はいずれも研究者の牟田和恵(むた・かずえ)氏、岡野八代(おかの・やよ)氏、丸山里美(まるやま・さとみ)氏の3人です。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
「子どもの家族を見ていると、たいていの場合、あれこれと子の世話を焼くのは母親で、父親は知らん顔ではないまでもちょっと離れて母子を見ている、という構図がよくありますが、母親二人の家族ではそうではありません。二人ともが子を気遣い協力し合ってかいがいしく世話をしているようすからは、子どもへの深く篤い愛情が溢れんばかりに感じられます。」(p.14)
「そして、自分は一人ではなく、妊娠出産と子育てをともに担おうとする信頼できるパートナーがそばにいて、「妊活」をサポートしてくれるし、周囲の仲間たちも励ましてくれる。
これは、シングルで子どもをもとうとする女性にはなかなか得難い環境でしょう。ただし、後で詳しく述べるように、ここで決め手なのは、「レズビアン」であるという性的指向ではなく、信頼しあい生活をともにするコンパニオンシップ、すなわち、ともに子育てをしていこうという意欲のほうのように思えます。」(p.16-17)
母子家庭というのは、母親が仕事と子育ての両方を行わなければならず、大変だなぁというイメージはあります。では、異成婚のカップルだとどうかと言うと、最近でこそイクメンなどと言われて父親が子育てに関与することが増えていますが、やはり主体は母親だと言えるでしょう。
これがもし女性同士のカップルだと、2人して同等に子育てに関与することが多く、異成婚カップルとはまた違った感じになるようです。
「しかし、この治療が受けられるのは「婚姻関係にある夫婦間のみ」です(日本産科婦人科学会のガイドラインによる)。シングルの女性、女性がパートナーである女性は、日本ではこの医療による「恩恵」はうけられません。」(p.18)
AID(非配偶者人工授精)に関してです。つまり夫に問題があって妊娠しない場合、他者の精子をもらって妻が妊娠するように、医療的な行為が行えるのです。
他の国では、異性夫婦以外でもこの医療が受けられる場合もあるとか。こういうところにも、日本はまだ異性カップル以外は認めない、シングルマザーは許されない、という価値観がはびこっていることが見られますね。
「そこで日本では女性カップルたちは、なんとか「自力」調達を行います。
よくとられている方法は、まず、ゲイの友人からの提供。」(p.20)
LGBT仲間という人間関係もあり、ゲイ友だちから精子を提供してもらい、注射器の針のない形のシリンジなどを使って精子を膣内に注入するというやり方で妊娠するそうです。精子の確保方法は他に、インターネットでドナーから精子を提供してもらう方法もあるのだとか。
「母子世帯向けの制度以外にも、保育園や学童保育の利用料などは、世帯所得に応じて異なるため、女性カップルの場合には、同一世帯としては認められないnbmの所得がカウントされず、bmの所得のみが算定されます。その結果、婚姻カップルや事実婚カップルと比べて利用料が安くなることもあります。
こうしたことについて、「ずるい」とか「不正だ」という向きもあるでしょう。しかし女性カップルは、男女の婚姻カップルや、男女の事実婚カップルがあたりまえのように利用できる制度を利用できないために、より多くの不利益も受けています。」(p.31-32)
「現在、パートナーシップ制度を導入している自治体が増えてきています。これを利用すれば、医療機関で家族として対応されたり、市営住宅に家族として入居できる、住民票の続柄をたんに「同居人」ではなく「縁故者」と記載できる、企業によっては賃貸住宅を借りる際や保険に入る際、携帯電話の「家族割」などにそれを考慮するなどの内容を含む注目すべき取り組みで、全国に広がっていってほしいものですが、残念ながら法的効力はなにもありません。パートナーシップ制度は結婚制度とはまったく異なるもので、婚姻カップルや、一部は事実婚カップルに求められている社会保険や税金、遺産相続上の利点はなにもないのです。」(p.32)
本書では、子のある女性カップルの子を産んだ側をbm、産んでいない側をnbmと略して区別しています。
同じ子のある家族でありながら、異性カップルと同性カップルでは扱いが違うという問題があります。この差別状態を緩和するために、自治体によってはパートナーシップ制度を設けているところもありますが、十分ではないようです。
私は、いっそのこと法律で結婚と同等の権利と義務を認めるパートナーシップ制度を作れば良いと考えています。そうすれば、現行の結婚制度や戸籍制度を変更することなく、もちろん憲法も改正せずに、実質的に同性婚を認めることができるからです。ついでに、夫婦別姓制度の実現にもなりますね。
「そうではなく、実際の理由の第一は、ご近所づきあい自体がそもそもほとんど皆無なこと。
日本で話をきかせていただいた女性たちの多くは、住宅密集地域のマンションに住んでいたのですが、マンションのお隣をはじめ、近所との付き合いはほとんどなし。」(p.37)
レズビアンカップルということで白い目で見られたりすることは、日本ではあまりないようです。それは日本人が精神的に優れていて、差別意識がないからと言うより、単にご近所さんに関心を持たない生活スタイルが定着しているからでした。田舎だと、また事情が違ってきそうですね。
「自分たちでもそうなのですから、日本社会では、女性が二人、手をつないだり、寒い時であれば相手のポケットに手を入れたり、とても親しげにしていても、公然とキスでもしない限り、「女性カップル」、「レズビアン」とみられることはそれほどありません。ただの「友達」か姉妹、カップルの年齢差によっては「母娘」。
これは、一面では、欧米社会のように「カップル」が社会の単位とはみなされておらず、女性同士の関係がいちいち性的に見れることないという点で「自由」ではあるのですが、同時に、女性たちの関係、レズビアン関係が社会的に無きものとされていることの裏返しでもあるでしょう。」(p.39)
日本ではまだレズビアン関係が社会的に認知されておらず、仮にそういう人たちが目の前にいても、まずは親しい友人、姉妹、母娘のような、自分がそう見たい関係として見られてしまうのですね。
「「父」と考えるならばその人物はどのような人かと「出自」を知りたくもなるでしょうが、あくまで「タネ」「精子提供者」として子どもの頃から理解していれば、「その人物」は誰だろうとまで考えるでしょうか。「子どもは出自を知る権利がある」というのは、「子どもは実の父と母から生まれる」という考え方があまりに自明なところからの発想かもしれません。」(p.80)
「養子の場合「実の親」を捜そうとする傾向があるのは、産みの親が自分を「捨てた」理由が気になるためか、何かが欠落しているという気持ちが起こりやすいのに対し、レズビアンの子の場合は、望まれて家族のもとに産まれてきているので、自分の何かが欠落しているという気持ちにならないのでは、とリルは語っていました。」(p.96)
AIDに関する問題の1つとして、子どもが自分の遺伝的な父親を知りたいという権利をどう扱うかという問題があります。しかしこれは、自分が愛されて生まれたのかどうかを知りたいというだけで、必ずしも精子提供者を特定したいわけではないと言えるかもしれませんね。
「ドッティたちが言うには、両家の家族は今は自分たちのことを完全に受け入れ、尊重してくれている。でも敬虔なカトリック信者なのでメンタリティとしては受け入れるのが難しいのだ、と。そんな風に完全に理解受容してくれないことをどう思うか、とキャシーに質問すると、それは彼らの考え方だから尊重する。彼らは私たちの考えを尊重してくれているのだからそれでいい、という答え。愛し合いながらも互いの価値観を尊重するということなのでしょう。」(p.82)
「ラファエラとラディカは、子ども二人に洗礼していませんし、教会にも行っていません。ラファエラは子ども時代に両親に連れられて毎週教会に行っていましたが、一〇代後半で行くのをやめました。彼女たちは、教会のことはまったく気にしていないから教会に変わってほしいとも思わない、とはっきりと言っていたのは印象的でした。保守的なカトリックの規範の裏で、社会は変化しているのだ、と。」(p.92)
同性の性的な関係に否定的なカトリック信者の場合、信仰とぶつかるだけに大変なところがあるようです。
しかしこのことによって、自分の信念や価値観を疑ってみることができるし、信念や価値観は人それぞれだと受け入れられるようになるとするなら、悪いことではないとも言えますね。
「ネガティブな反応を怖れてサビネはシモンに対して、友達に言わなくてもいいよ、と言っていたそうなのですが、アメリカのTVドラマ Modern Family(養子をとって子どもを育てているゲイカップルなど、多様な家族が登場する)の人気などもあり、子どもが友人たちから家族のことでいじめられることはないようです。」(p.93)
親がLGBTということでは、子どもはいじめに合うことより、むしろクールだと思われることが多いのだとか。TVの影響は絶大ですね。
「さらに補足しておけば、札幌地裁判決でも触れられているように、当時は異性婚のみが想定されていて、同性婚は想定されておらず、したがって、想定すらされていないものを禁止していると考えることはできない。
以上のように二一世紀に入っても、憲法を誤読・曲解してまで強固に異性婚にこだわり、選択的夫婦別姓すら認められず、強かんでさえ婚姻間では犯罪と認められてはこなかった現状は、日本社会の根幹にあるジェンダー問題を象徴しているといえよう。」(p.161-162)
憲法にある両性による合意で結婚できるという規定は、当時の親が無理やり結婚させるという風習を改めさせるものであり、同性婚の禁止規定ではないことは明らかです。ただ、現在の価値観とは食い違いが生じてきているのも事実で、憲法改正をさっさとやったらいいのにと思います。
「合衆国−−そして、日本も−−の現状は、依存関係に必要な財や労力を配分するどころか、家族はこうあるべきだと命じる家族イデオロギーと、それに付随する、ときに懲罰的な制度と優遇政策を巧みに利用している。そこでは、ひとが物質的・感情的ニーズを満たそうとするさいには、家族へと退却し、妻・夫や子・親といった関係にあるひとだけで育み・支え・成長の基盤を与え合うべきだと強調され、それに従う者たちは、税制や社会福祉政策を通じて特権を与えられている。こうした制度が問題なのは、非規範的家族を逸脱家族として社会的に貶めるからだけではない。依存を必要とする者は家族内で支えられるべきだという規範に忠実な人びとは、じっさいには家族内で支えきれない者たちがいかに社会に溢れていようとも、その現実から目を逸らすことも許されてしまうからだ。」(p.174)
政府が考える規範的な家族観を国民に押し付けているのです。違う価値観を持つことを許さず、そういう人を社会から抹殺してしまうことを容認する仕組みなのですね。
こういう家族観の押しつけによる弊害は、老人介護の問題でもありました。嫁に全責任が押し付けられてきたのです。しかし、それではどうにもならなくなって、介護保険制度を作り、老人介護を家族の問題から社会の問題へと切り離したのです。
子育ても同様ではありませんかね。異次元の少子化対策と言うのであれば、家族の問題から切り離し、社会の問題とするよう制度改正をすべきだと思います。
「夫婦間のAIDによる生殖補助医療は何十年も前から行われていますが、これはあくまで、「不妊の男性」から「不妊の負い目」を取り除き後継ぎを得るための、男性への補助医療。施術は女性に行われ女性が妊娠出産しますから、見過ごされやすいのですが、男性の生殖の補助であり、それに大学病院も産科婦人科医たちも挙げて協力してきたのです。
それに対して、シングルマザー、とくに未婚シングルマザーへの差別的視線も一例ですが、女性が、自分たちのために、子をほしいという気持ちに、社会も医師たちもなんと冷淡なことか。これはやはり、女性に生殖の決定権や選択権を渡すわけにはいかない、という意思の表れなのではないでしょうか。」(p.191-192)
たしかに、結婚はしたくないけど子どもはほしいという女性はいますよね。異次元の少子化対策を言うのであれば、少なくともAIDを希望する女性に対して認めてはどうでしょうね。
本書は、子を持つレズビアンカップルに的を絞って聞き取り調査した内容から考察したものとなっていますが、現在の社会や制度のいろいろなことが見えてくるように思いました。子を産むとはどういうことなのか、結婚とは何か、親子とはどういうことなのか、などなど。
ぜひ、こういう本を読んで、これまでの価値観が本当に良いと思うのかどうか、考えてみるのもいいのではないかと思います。様々な価値観を持つ私たちが、そして私たちの子孫が幸せに暮らすには、社会がどうあるのがよいのか。ぜひ、考えてみてください。
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