2023年04月01日
僕はゲームのように生きることにした。
Facebookで著者の本田晃一(ほんだ・こういち)さんが新刊が出ると言われていて、タイトルを見てピンときたので予約して買った本になります。
本田さんのことをどこで知ったか忘れましたが、2015年に読んだ「ゆほびかGOLD Vol.26」に、心屋仁之助さんとの対談で登場されてますね。そのころすでに存じ上げていたかどうか定かではありません。
おそらく、ご著書を読ませていただくのは初めてのように思います。竹田和平さんのお弟子さんという位置づけで、Facebookでお名前を聞くようになったのではないかと思います。
この本を読んで、本田さんの交友関係が、私が気に入っている方々なので驚きました。竹田和平さんだけでなく、心屋仁之助さん、神田昌典さん、武田双雲さん、ひすいこたろうさん、犬飼ターボさん、高橋歩さんなど。同じようなエネルギーを感じているのかもしれませんね。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
「ゲームをはじめると、主人公は武器も防具も何もない、レベル1状態。
だけど「何も持っていない」と絶望するだろうか?
いや、買ったばかりのゲームを手にしたとき、ものすごくワクワクするはずだ。
これからどんな冒険がはじまるのだろう?
何を手に入れていくのだろう?
どんな経験ができるのだろう?」(p.4-5)
人生はゲームだと私も言っていますが、本田さんもまさにそういうことを言われています。
ゲームと言っても、それはドラクエやFF(ファイナルファンタジー)のようなRPG(ロールプレイングゲーム)ですね。私もよく遊びました。クリスマスくらいに買って、年末年始休暇中に不眠不休でやったこともありました。
ゲームは、ワクワクするんです。そう、経験に期待しているのです。レベル1だからと自己卑下することもないし、不安にもなりません。それと同じように人生を生きたらいいのだと思います。
「でも、人が行動するきっかけって、意外とこんなものだったりする。人真似だったり、しょぼい下心だったり、単なる偶然だったり。
大事なのは、その行動が何につながるか、なんだよね。
とにかくそれ以来、僕は「鳥肌が立ったらGO!」と思うことにしたんだ。」(p.23)
自分に自信が持てなかった本田さんは、自分以上にイケてないと思っていた先輩が変わったオーストラリア旅行を実行することにしたそうです。しかも、自転車でオーストラリア一周という無謀な旅です。
できるかできないかではなく、やりたいかやりたくないか。人に誇れるものを持つために、それをやりたいと思った。だからやることに決めたのです。
「すべては一歩から。
村から一歩出るだけで、世界は変わる。
村から一歩も出ずに、その村で過ごしていれば、安心で安全なのかもしれない。今のままで困っていないかもしれないけど、ゲームとして考えたら退屈じゃない?
浅くても小さくてもいいから、今の環境とは違う世界に飛び出してみよう。違う世界はいつだって刺激的で印象深い。」(p.24)
私は小さなバンジーを飛び続けることを言っていますが、不安に飛び込む勇気が大切なのだと思います。
実際、RPGをやっていて、冒険に出ない勇者はいません。面白くないから。だったらそれを、自分の人生でやってみればいいのです。
私は2年前、今の老人介護の仕事に飛び込みました。村から出たのです。しかし、そこでの仕事も時とともに慣れてきました。すると、また別の世界を覗いてみたくなりました。だから、そろそろ飛び出そうと思っているのです。
「人が自分を認めてくれている、というのがとてもうれしかった。「You are crazy!」と感嘆されるたびに、ちょっとずつ自分を好きになれるような気がした。
今思えば、自分で自分を認められない(だから当然、好きになんてなれない)のを、他人に認めてもらうことで自尊心を補おうとしていたんだと思う。」(p.45)
私もそうでしたから、この気持ちがよくわかります。
「イライラしながらエンジンオイルを継ぎ足すこともしばしばあって。するとグレースが「コウイチ、スマイル!」といって、カメラを僕に向けて写真を撮った。
僕はちょっとカチンときてしまって、「この状況、大変なのわかるよね?」と語気を強めて詰め寄ると、彼女は、「この写真、あとで見たら笑い話になるわよ!」と屈託のない笑顔で答えたんだ。
続けてグレースはいった。
「私たちはこの地球に楽しむためにやってきたのよ!」」(p.54-55)
オーストラリア一周旅行の後半は、自転車を諦めて中古の車を買って移動したそうです。その時に同乗させた女性とのエピソード。彼女は天使ですね。
「愛情表現は、必ずしも相手が望む形にはならない。
親の不器用な振る舞いを、ちゃんと「愛情だな」と翻訳できると人生が変わる。
両親と過ごした記憶を掘り返して、「あれ、もしかして愛情表現だったのかな?」と考えてみよう。」(p.73)
私も親とは何度もぶつかった経験がありますが、今は完全に和解しています。私が期待した愛情表現ではなかったけれども、親は親として愛情を注いでくれたのです。
「いいなと思ったアドバイスはマッハで実行する。そしてすぐに報告とお礼をすると、相手はさらにいいアドバイスをしてくれる。いいメンターからいい教えを乞うには、これに尽きると思う。」(p.86)
「役に立つ情報をどんどんシェアする人のところには、もっともっと貴重な情報が集まってくる。役に立つ情報を発信している人には、たくさんの人が注目してくれる。その中には、いつか自分を高いところに引き上げてくれる「雲の上の人」もいるだろう。
どんどんシェアすることが、運をよくするための方法だったんだ。」(p.88)
オーストラリアを旅行中は、多くの人々から貴重な情報をシェアしてもらったと本田さんは言います。その体験から、情報をシェアすること、シェアしてもらった情報を役立ててお礼をすることなど、生き方の極意を学ばれたそうです。
「「与えないと運がよくならないのか。じゃあ」って、ちょっと無理してでも人に与えようとする。
これはやめたほうがいい。大変だし、何より思った見返りがなかったときに不満になっちゃうから。」(p.92)
見返りを求めてのシェアは、けっきょく取り引きになってしまうのです。
「「幸せってなんだろうな」と考えたときに思い浮かんだのは、旅人時代に僕を快く迎え入れて、ごちそうしてくれたり泊めてくれたりしたオーストラリアの家族だった。どの家も、本当に夫婦仲がよくて、子どもも幸せそうだった。
意外と、奥さんを大切にするって、大事なことなのかも。僕はそう思った。」(p.100)
本田さんは、お父様がされていたゴルフ会員権販売の会社を手伝ったことで、たくさんの社長さんと出会ったそうですが、お金をたくさん稼いでいる人が必ずしも幸せそうではなかったと言います。それよりも、夫婦仲が良い人の方が幸せそうだったと。
「僕たちは成長することによって、居場所ができると思ったり、認められると思っている。
だから、果てしなく成長を目指し、ときには自分を大きく見せてしまうこともある。
そう、このころの僕は、ついつい自分を大きく見せては疲れていた。」(p.128)
「人は成長してもしなくても、愛されるんだ。そして、愛されていることを実感しながら成長するのと、愛されたいと思って成長するのは全然違うんだ。」(p.128)
不安が動機で成長しようとしても、それは疲れるばかりで幸せではありません。最初に幸せであれば、つまり愛されていると実感していれば、自ずと成長するし、成長るすることに執着しないのです。
「今の高さを失うのはこわい、と思ってしまうんだよね。でも、「また登らなきゃいけない」と思っている時点で、本当は「次の山に登りたい」と望んでいる自分もいるんだよ。
それを、見ないようにする。次だ! という自分の衝動を無視する。
だから、魂が腐っていくのさ。」(p.134)
次のステージへ進もうとする内なる声は、まさに魂の声でしょう。それを無視したり、押さえつけたりすれば、魂にとっては「なんだかなぁ」とやりきれない思いなのかもしれません。
この「魂が腐る」という感覚は、私にもわかります。だから今、私は次のステージへ進もうと考えているのです。今の職場、生活環境を変えることで。
「まずは、今いる場所から一歩冒険に出てみよう。
冒険といっても、今使っている通勤路を変えてみるとか、新しいサークルや勉強会、セミナーなど、今いる場所と違う場所に出てみるようなレベルからでもいい。」(p.136)
これまでと違う何かをやってみる。思い切って、恐れを振り切って、小さなバンジーを飛ぶ。私もそうしてきたし、これからもそうしていこうと思っています。
「すごい人と出会っても、心酔してしまうのではなくて、その人の不完全さを許しながら、学ぶべきことは学んでいく。
これって、実は親との関係にも応用できることなんじゃないか、と僕は気づいた。」(p.154)
すごい人だと思うと、その人に完ぺきを求める気持ちになりがちです。しかし、どんな人にも短所はあるし、価値観の違いがあります。
だから、他人に完璧(=自分の理想)を求めないことが大切ですね。
「たくさんの人の相談を受けていると気づくことだけれど、自分を受け入れられない人というのは、こういうまじめな優等生タイプが多い。
完璧でなければ親に受け入れられない、と思ってがんばってきた。
今の自分は完璧じゃない。
だから、そういう自分を受け入れられない。
もちろん、親の不完全さも受け入れられない。不完全な親を許せない。ついでに、メンターにも完璧を求めてしまう。これがセットになっている人が、とても多い。
裏を返せば、人の不完全さを許すことは、親との和解にもつながっているということでもある。
そしてそれは、不完全な自分を許して受け入れることでもあるんだよね。」(p.156-157)
私もこういうまじめな優等生タイプだったと思います。ダメな自分が受け入れられなかった。だから、他人から受け入れてもらうことで、自分の価値を確立させたかったのです。
「だから、親を許す前にまず、
「親を許せない自分」を許す。
これをやって欲しいんだよね。
やり方は簡単。
親にこんなことをされた、あんなことがあった、許せない!と思うたびに、そんな自分によりそってあげる。
「そうだよね。許せないよね」
「そんなこといわれたら許せないのが当たり前だよ」
「もっとこうして欲しかったよね」
「ゆるせなくて当然だよ」……
こんなふうに、相づちを打ちながら、自分に寄り添ってあげる。
これが、自分を許してあげるということ。」(p.158-159)
これってまさに私が提唱している「鏡のワーク」だなぁって思いました。
「何度もいうように、僕は基本、無料で情報をバラまいている。
そうすると、その情報が人の役に立つ。
そういう人の中には、ありがたいことに、「晃一さんに恩返ししたい」と考えてくれる人もいる。
その気持ちに応えるための受け皿が、有料のセミナーなんだ。」(p.164)
これは共感します。私も、基本的に無料ですべての情報を公開していますから。それでも時々、お金をくれる人がいる。ありがたいことです。
「するとイワノくん、「本田さん、それは簡単ですよ」という。
「街で声をかけた女の子に、「やらせてください!」って土下座するんです」
「え、マジで? ……お前、よくそんなことできるな」」(p.184)
「でも、イワノくんからは間違いなく学ぶべきところがある。
それは、自分の下心を否定していないところだ。
結局みんなそれが目的なのに、普通は下心を隠す。」(p.184)
これは納得。(笑)下心を隠して何度もデートを重ねて、たくさんご馳走したりプレゼントしたりして、セックスという目的を達成しようとする。まさに、私がやっていたことですね。
これだけのことをしたんだから、少しは見返りを求めてもいいだろう。愛の取引きだし、自分を許していないから、自分を認めていないから、先に何かを提供しなければと思ってしまうのです。
「「じゃあ、その赤ちゃんがそのままハタチになったら?」
「俺はツイてるなあ、って思う大人になるんじゃないですか」
「そう。これほど面白い投資は他にあるがね?」
そういって、和平さんは愉快そうに笑っている。
僕は驚いた。投資って、自分の利益のためにやるものだと思っていたから。他人の幸せな人生に役立つようにお金を出す。それが最高に面白い投資だという考え方にびっくりしたんだ。」(p.189)
竹田和平さんは、自分と同じ誕生日の赤ちゃんに金のメダルを贈ることをされていたそうです。他人の幸せな顔を見たいから、というだけで。
他にも和平さんは、伝統工芸を守るために高額な商品を買うこともされていたとか。自分が贅沢をしたいからではなく、喜ばせたいからです。
そういえば小林正観さんも、流行ってなさそうなお店で食事をするということを言われていましたね。よりありがたがられることをする。おそらく自分に不足するものがないと思っているから、他人に与えたいと思われるのでしょう。
「自分のことはよくわからない。他人のほうがよく見える。
それなら他人の目で自分を見てみよう。
目の前に椅子を置いて、そこに座っている自分をイメージしよう。
その向かいに座っているあなたは、いつも自分を励ましてくれる友達や家族、上司や先輩……などなどになりきってみよう。
そして、その人だったら、目の前の「自分」にどんな声をかけるかを考えてみよう。
実際に言葉を口に出してみよう。」(p.200-201)
自信を受け入れるための1つの方法だそうです。まさに、私が提唱している「鏡のワーク」と同じですね。
「本当に、思いついた瞬間にそのへんの紙に書くだけ、なんだよね。
「それで意味あるの?」と思われるかもしれない。でも、これが大事なんだ。
何かをやりたいと思ったり、何かを欲しいと思ったりする。つまり、自分の心が動く。それをすぐに書きとめる。
これって、「やりたい!」という心の声に「なになに? やりたいの?」ってちゃんとリアクションしてあげる、ってことなのさ。」(p.206-207)
やりたいことや欲しいものが心に浮かんだら、すぐに紙に書くこと。それをすぐに捨ててしまってもかまわないそうです。気に留める、意識することが大事なのですね。
「「積み上げた自信は崩れる。
積み上げていない自信は崩れない。
自分の中の底辺だという部分を素晴らしいということにする。
すると、底辺の部分が自信になる。その自信は崩れない」
これが、心屋さんにとっての自信なんだ。」(p.209-210)
心屋仁之助さんの武道館ライブに私も行きましたが、ミュージシャンでもない、数年前までは佐川急便の運転手だった人が、堂々と歌う姿には感銘を受けました。
私も、「根拠のない自信」というものを提唱しています。根拠があれば、必ず崩れるのです。
「でも、次に講演会で「遠くから深夜バスで来ました」という人に会ったとき、「テンションマックスだったでしょ?」と聞いてみると、やっぱりうれしそうに「うん、テンションマックス!」って答えてくれたんだよね。
心の中では「えっと……僕は嵐じゃないです。ただのおじさんです。ホントすみません」って冷や汗たらたらだったんだけどね。
でも、そんな経験の積み重ねが大切だな、と思う。
最初からできてなくてもいいんだ。」(p.215)
「最低な自分は、やっぱり素敵だとは思えないし、自分は嵐と同じくらい愛されているなんて思えない。それが普通だってことは、心屋さんもわかっている(はず)。
だけど、その上で、
「最低の自分が素晴らしい……ってことにする」
「自分は嵐と同じくらい愛されていい……ってことにする」
そう思えるかどうかは関係ない。そういうことにする、これが大事。」(p.218)
自分が自分を受け入れてないと、他人からの愛を受け止められないんです。だから、まずは自分が受け入れているという前提を作るんですね。
それは前提ですから、実際は違っていてもいいし、根拠も要りません。ただそう決めるだけ。そして、内心は本当は受け入れていないことがわかっていても、受け入れているフリをする。その行為によって、少しずつ変わっていくのです。
「じゃあ、なんでヒーローになりたかったのか? というと、
「すごい存在にならないと愛されない」
「特別なことをしないと愛されない」
と思いこんでしまっていたから、なんだよね。そして自分のことが好きではなかったので、すごいことをした自分なら好きになれると思っていたんだ。
赤ちゃんは何もできないけど愛されるし、犬や猫だって、芸ができなくても愛される。
当たり前のことなのに、いつのまにか忘れてしまうんだ。
「自分は愛されて当たり前だ」ということを。」(p.226)
私もそうでした。今の自分のままでは愛されないと感じていて、それで一生懸命に努力したのです。
「一緒にご飯を食べたり、彼の教室に通って書道を教えてもらったりするようになって、すぐに気がついたのは、双雲くんがやたらと「感謝、感謝」ということ。」(p.242)
武田双雲さんの「丁寧道」を読みましたが、その本で双雲さんも何にでも感謝すると言われてますね。
「魔法のランプを擦ったとしたら、
何をかなえたい? 何をしたい?
思い切っていってみよう。
それが意図するということなんだ。
そして、「意図したことがかなうコツ」というのがあって。
もうそこにいきたくてウズウズするくらい、ありありとイメージすることなんだ。」(p.267)
願いを叶える方法は気にしなくていいのです。ただターゲットに意識を向けてワクワクする。動き出す。それが大事ですね。
「人間は、暇に耐えられない。
だから「問題」という名前のゲームをプレイしているんじゃないだろうか。
ゲームは、だんだんと難易度が上がっていく。はじめたばかりのところで、最終ボスレベルの敵が出てきたら、強すぎて面白くなくて、ゲームをやめてしまう。かといって、終盤になっても、雑魚キャラしか出てこなかったら、退屈でやめてしまう。
段階的にだんだんと強敵が現れるのが、最高の退屈しのぎになる。
「もしかしたら、人生も同じで、だんだんと難易度が上がっていくように、問題を自ら課しているんじゃないだろうか?」と、ふと思うようになった。」(p.279)
本来なら全知全能でボーリングをやったら常にパーフェクトの神が、退屈しのぎに不自由で能力のない人間という存在になって、この人生というゲームを楽しんでいる。私は、お勧めしている「神との対話」から、そのように考えています。
「そのあたりを歩いていても、「このタンポポ、きれい!」と感動するし、暇さえあれば……というか暇を感じないくらい感謝と感動しているんだ。
その彼の姿を見ていて、雷に打たれたように答えを発見したんだよね。
そっか! 人類は退屈しのぎに「問題」というゲームをするんじゃなくて、「感謝」というゲームをすればいいんだ! これ、もしかしたら戦争がなくなるレベルかも! って。」(p.280-281)
「人間って意外と、今に意識がなくて、未来か過去にいってしまう。未来に意識がいくと不安になったり、過去に意識がいくと不満になったり。
だからまずは、今に意識を注いで、今ある物に気づいていくんだ。すると、あの海ってあんなにキレイなんだ、あの看板を作った人は優しいなって、だんだんと感謝レベルまで感じられるようになる。」(p.281)
お勧めしている「神との対話」でも、願いを叶えたいなら感謝することだと言っています。ここでは武田双雲さんの感謝する方法について、前後際断して今を見ることが書かれていますが、「丁寧道」に詳しく書かれていました。
そして、いきなり感謝することは難しいとしても、まずは気づくことが大事だと本田さんは言います。気づくようになれば、だんだんと感謝できるようになっていくから。
「人は、不安と感謝を同時に感じることはできない。
不安でビビって先に進めなくなるのは、いつだって感謝を忘れたときだ。」(p.290)
人の脳は2つのことを同時に考えられません。だから感謝していれば、不満も不安も感じないのです。
「新しいことにチャレンジしている人たちは、僕らが思うよりもずっと長生きしているのかもしれない。
実際に若々しい人を思い浮かべると、間違いなく新しいことにチャレンジをしている人だ。
寿命が長くなるなんて、それは神様からのボーナスポイントと呼べるような気がしない?
だからこれからも、僕はどんどん新しいゲームをやるだろう。」(p.302)
今までやってきたことに満足して、新しい挑戦をしないことはもったいないことです。たいていは、それまで築いてきたことが崩れるのではないかという不安から、新たな挑戦をやめてしまいます。元凶は心の不安にあるのです。
だから、何があろうと大丈夫だという安心のもと、挑戦することを楽しむことが大事なのだと思います。
だから、人生はゲームなのだと思います。ゲームをやるかのように生きる。それって、楽しいことだと思いませんか?
かつては不安の塊のようだった私も、今はこう思えるようになりました。ゲームのように人生を楽しんで生きよう。常に新しいことに挑戦しよう。
この本を読んで、改めてその意を強くしました。たとえすごいことができなくても、今あるがままですごい。そういう前提で、生きていこうと思っています。
2023年04月05日
酵素で腸が若くなる
これもYoutube動画で紹介されていた本です。
以前にも「善玉酵素で腸内革命」という酵素に関する本を読んでいますが、そちらの本は酵素を食べることを勧めているものではなく、善玉菌や体内の酵素を働かせるようにする方法について書かれたものでした。
本書は、著者の鶴見隆史(つるみ・たかし)医師が、ご自分のクリニックで患者さんに対して実践している酵素を活用した健康法になります。
積極的に酵素を摂取することを勧めている点で、上記の本とは違いがあります。1つの考え方として、参考になるかと思いました。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
「また、最近では、腸でつくられる「短鎖脂肪酸」が、免疫力とも深くかかわっていることがわかってきました。
こうした腸にいい食生活のキーワードとなる栄養素が、本書の主人公であり、私が長年治療に活用してきた「酵素」です。
酵素とは、生物のあらゆる生命活動にかかわる、とても重要なものです。この酵素が体内に豊富にあるかないかで、あなたの健康は左右されます。」(p.4)
腸活で短鎖脂肪酸が健康に役立つことは、他の本でも語られていることですね。本書では、酵素の保有量が健康に関係しているという視点が述べられていおり、そこが特徴的だと思いました。
「あとで詳しく説明しますが、酵素とは生命活動に不可欠な物質です。微生物を含む全ての生物の体内に酵素が存在し、あらゆる化学反応を媒介しています。人間の体内には2万種類以上の酵素が存在しています。
その酵素に今、健康長寿という観点から注目したいのは、酵素に寿命を支配している側面があるからです。」(p.16-17)
「年をとると、若いときより酵素産生能力が低下していくため、徐々に減少していくのです。
限られた産生能力の中で、毎日のように酵素を酷使していくと、老化とともに酵素が次第に減少し、その限界に達すれば「死」に至るというのが酵素寿命説です。」(p.20-21)
人の寿命を決める要因として、「酸化ストレス説」「テロメア説」「老化遺伝子説」などがあるそうです。しかし鶴見医師は、それらよりも「酵素寿命説」の方が大きな要因だと考えておられるようです。
体内の酵素量は老化とともに減少していきますが、約半分くらいにまで減った時、寿命を迎えると鶴見医師は言われます。だから、酵素の消費を減らすことや、補うことが寿命を延ばすことにつながるという理屈ですね。
「食物繊維の摂取量と相関する大便の量は、やや多いほうが間違いなく健康的なのです。
第二に重要なことは、食物繊維の豊富な生の野菜や果物が「酵素」の宝庫であるということです。しかも同時に、ファイトケミカル、ビタミン、ミネラルといった抗酸化栄養素の供給源です。」(p.25)
最近の日本では、大腸癌が急増しているそうです。その原因の1つが、食物繊維不足だと言います。
食物繊維の摂取が多いアフリカの田舎の人たちは、1日に400〜600gもの排便をしますが、肉食の欧米人だと40〜100gほどでしかないのだとか。それだけ食物繊維の摂取が少ないということです。
「ネコの糞便はとても臭いですが、これはインドール、スカトールが多量に含まれているからなのです。肉を食べすぎる食生活を続けていると、人間の糞便もネコ以上に臭くなってしまうというわけです。」(p.50)
おならの成分のほとんどは窒素で、他に水素や炭酸ガス、メタンが主成分だそうです。これらは無臭のガスで、臭わないそうですね。
臭いニオイを発するのはインドール、スカトール、アミンなどで、タンパク質を分解する時に生じるガスだそうです。したがって、臭いおならが出る時は、肉などタンパク質の食べ過ぎで、消化不良による腐敗が起こっているのだと鶴見医師は言うのです。
「小腸には無数の絨毛部があり、ここから私たちは消化のプロセスを経て分解された栄養素を吸収し、体内に取り込んでいます。ところがこの絨毛部が炎症を起こし、普通なら絶対に吸収しないはずの大きな分子を、血液中に取り込んでしまうことがあります。
すると、本来それは血液中に存在しないものなので、私たちの体は防御のためにアレルギー反応を起こします。これが引き金になって、ぜんそく、花粉症、アトピーといったアレルギー症状や、膠原病、クローン病、潰瘍性大腸炎、さらに多くの神経疾患が起こるというのです。
それがリーキーガット症候群です。」(p.56-57)
リーキーガットという言葉も、最近はよく聞くようになりました。
「この2つの経験が幼少時から継続している人は、リーキーガット症候群になりやすくなるのです。
リーキーガット症候群にならなくても、「薬」と「ショ糖(白砂糖)からつくられた甘いもの」は、人間の体にとって、毒以外の何ものでもありません。」(p.58)
子どもの頃によく風邪をひいて薬を飲んでいたという経験と、甘いお菓子をよく食べていたという2つの経験が、リーキーガット症候群を引き起こす原因になると鶴見医師は言います。西洋医学の薬には否定的なお考えのようです。
私も、薬は毒だと思っていますし、砂糖は健康に悪いと考えています。そういう点では同感ですが、リーキーガットに関係するかどうかはよくわかりません。本書でも詳しくは説明されていませんでした。
「酵素生活の一番のポイントは、生野菜・果物中心の食事にあります。しかし、それ以外の生活習慣も重要です。
例えば、体内での代謝(無毒化)に多くの酵素を必要とするアルコールや、西洋医学で処方される薬はできるだけ遠ざける、タバコは吸わない、といった節制も必要です。
そして、酵素を活性化させるために毎日積極的に歩く(ウォーキング)、たまには消化器官を休めて酵素を温存するために数日のファスティングをするといったことをおすすめしています。」(p.72)
「私たちは、なぜ毎日たっぷりと寝る必要があるのでしょうか?
その理由は、夜眠っているあいだに酵素をつくっているからです。」(p.73)
酵素を補って無駄遣いをせず、酵素を活性化させるようなライフスタイルを「酵素生活」と呼んでいるそうですが、単に酵素を多く含む生の野菜や果物を摂取するだけでなく、毒物を摂取しないことで酵素を無駄遣いしないことや、運動や睡眠も重要だということです。
「確かに肉類に含まれるタンパク質は、私たちの体にとって大切な栄養素のひとつです。しかし、現代人は総じて動物性タンパク質をとりすぎており、今さら補給する必要などありません。むしろ動物性タンパク質の過剰摂取は、不足以上に体に悪い影響を与えます。」(p.75)
タンパク質の消化には時間がかかる、つまり多くのエネルギーを必要とすることが、健康に悪影響を及ぼすと鶴見医師は言います。消化酵素が大量に必要になることで、酵素の無駄遣いになるというわけですね。
私はこれまでに、タンパク質が重要だとする本も読んでいます。1日約60gのタンパク質を摂取することが推奨されていて、その基準からすると、毎日肉や魚を食べなければなりません。
けれども、「THE BLUE ZONES 2ND EDITION」に書かれていたように、長寿地域の人たちの食生活では、肉や魚をそれほど多く食べていないという事実があります。
人間に近いとされるゴリラは、果物など生の植物を食べています。それであの筋肉を作っているという事実からすると、それほどタンパク質を意識して摂取しなくてもいいのかなぁとも思えてきます。
「そこで解熱鎮痛剤は、この酵素の働きを邪魔(阻害)することで発熱を抑えるのです。」(p.97)
解熱鎮痛剤は、プロスタグランジンという物質の産生を抑えるのだそうです。このプロスタグランジンというのは、発熱を司令する脳の中枢に対して、免疫システムが外敵と戦闘中だから発熱させてという情報を伝える物質で、シクロオキシゲナーゼという酵素が働いて作られるのだそうです。その酵素の働きを阻害するのが解熱鎮痛剤なのですね。
解熱鎮痛剤に限らず、多くの対症療法の薬は、体内の酵素の働きを阻害することによって、症状を緩和させるものだそうです。つまり、せっかくの自然治癒力の働きを弱めているとも言えるわけですね。
「しかし、日本では一般に酵素への理解が浅く、いまだに「酵素をとっても消化されてしまうので意味がない」とか「酵素を外からとると体の酵素産生能力が低下する」などという人がいます。
これらは多くの誤解に基づいていますが、ひとつ反論するなら、外からとって体の産生力が減るのは「ホルモン」です。一方、酵素は外からとればとるほど体によいのです。」(p.111)
最初に紹介した以前に読んだ本では、酵素を摂取しても意味がないと書いてありました。なぜなら、酵素とはタンパク質の一種でもあり、消化されてアミノ酸に分解されなければ体内に吸収されないからです。
ここでそのことに触れられていたので期待しながらこの部分を読んだのですが、まったく反論になっていませんね。どう誤解なのかもわからないし、1つ示された反論が反論になっていません。
「私たちの体に必要な栄養素は、炭水化物、タンパク質、脂質、ビタミン、ミネラルの五大栄養素に加え、食物繊維、水、ファイトケミカル、そして酵素の9種類です。
この栄養素を腸で吸収できるようなサイズに分解する作業のことを「消化」といいます。ただし、ビタミン、ミネラル、酵素はとても小さなものなので、分解作業をしなくても体内に吸収することができます。」(p.113)
酵素は小さいからそのまま吸収されると鶴見医師は言います。でもそうすると、タンパク質は大きいからそのままでは吸収されないという説に矛盾します。どういうことなのでしょう? 同じ「タンパク質」であっても、種類が違うのでしょうか?
このへんのことはまったく書かれていないので、何とも言えません。そうかもしれないし、そうでないのかもしれない。私としては、こういうところをきちんと書いてほしいなぁと思います。
本書では、なぜ老化とともに酵素が減っていくのかも説明されていません。酵素の量をどうやって測っているのかもわかりません。また、酵素の使用を減らして温存すれば、寿命が伸びるという研究論文があるのかどうかもわかりません。
鶴見医師は、ご自身が提唱される酵素生活が健康長寿に役立つと主張されていますが、そういうことは実感としてあるのでしょう。けれどもそれが、勧めておられるファスティングや運動による効果なのか、果物や野菜を多く食べる効果なのか、生野菜による効果なのか、何とも言えません。酵素サプリも推奨されていますが、それがどれほど効果があるのかもわかりません。すべて、鶴見医師の主観にすぎないように思います。
ただ、主観だから間違っているとも言い切れません。科学的には証明されていなくても、正しいということはあるのです。
なので、こういう考えをされてる医師がおられるということを知って、自分で判断するしかないと思うのです。
私は、毎日、生野菜を食べていますが、肉や魚、卵などの動物性タンパク質もよく摂取しています。しかし、これだけタンパク質を食べてきたのに筋肉量が増加していなかったことがわかったので、今度はタンパク質の摂取を減らしてみようかとも考えています。
自分の体で、いろいろ試してみることが重要だと思うのです。それで自分の体が心地よいかどうか、健康になるかどうか、身体の声をよく聞くことですね。
2023年04月14日
あなたの体は9割が細菌
これもYoutubeの本の紹介動画を観て、ピンときて買った本になります。
私たちの健康に腸内細菌が大きく関係しているということは知っていましたが、主体は人体そのものだろうと思っていました。しかし、この本を読むことによって、実は主体は寄生している細菌群であって、人体はその生息場所を提供しているだけにすぎないのかもしれない、という思いも湧いてきました。
もちろん、そんな極端なことはないとは思いますが、なかなか興味深い内容の本でした。
著者はサイエンス・ライターのアランナ・コリンさん。マレーシアでダニに噛まれたことがきっかけで、大量に抗生物質を投与して何とか生き延びたという経験から、このテーマの探究を続け、本書を書かれたそうです。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
「あなたの体のうち、ヒトの部分は一〇%しかない。
あなたが「自分の体」と呼んでいる容器を構成している細胞一個につき、そこに乗っかっているヒッチハイカーの細胞は九個ある。あなたという存在には、血と肉と筋肉と骨、脳と皮膚だけでなく、細菌と菌類が含まれている。あなたの体はあなたのものである以上に、微生物のものでもあるのだ。」(p.15)
「私たちは人体に微生物がたくさん棲んでいることを知ったとき、とくに害がないならいいではないかと黙認した。しかし、サンゴ礁や熱帯雨林を保護しなければと考えるのと同じように、人体に棲む微生物も保護しようとは思わなかった。ましてや、大切に世話する必要性など気づきもしなかった。」(p.16)
たしかに細胞の数で言えば、人体を構成する細胞よりも寄生している微生物の細胞の方が圧倒的に多い。そして、その微生物の存在が、私たちの健康に大きな影響を与えているのですが、私たちはその重要性をほとんど知りませんでした。
「しかし、この二万一〇〇〇個の遺伝子だけがあなたの体を動かしているのではない。あなたはひとりで生きているわけではない。人体は、共存共栄しながらあなたの体を維持している生物種の「集合体」である。」(p.22)
「人体に棲みついている菌類は大半が酵母菌で、細菌よりは複雑な構造をしているが、やはり一つの細胞でできている微生物である。古細菌は、見た目は細菌に似ているが、進化系統が細菌とも動植物とも異なるグループの微生物だ。人体に棲むこれらの微生物を合わせると、遺伝子の総数は四四〇万個になる。これがマイクロバイオータのゲノム集合体、つまりマイクロバイオームである。微生物の四四〇万個の遺伝子は、二万一〇〇〇個のヒト遺伝子と協力しながら私たちの体を動かしている。」(p.23-24)
ヒトゲノムが解読され驚いたのは、ヒトの遺伝子数が植物の稲の半分しかなく、3万以上もあるミジンコにも及ばないのですね。それでどうして最も進化した種となれたのか? その秘密が、ヒトを生物種の集合体と見るとわかってくるのです。
「平均すると長さ八センチ、直径一センチの管状のこの器官は、消化管を通過する食べ物の流れにじゃまされない位置にある。だが、しなびた見た目とは裏腹に、内側には特殊化した免疫細胞と分子がぎっしり詰まっている。虫垂は役に立たないどころか免疫系に必須の部位で、微生物共同体を守り、育て、情報を伝達し合っている。虫垂の中で微生物はバイオフィルムを形成している。バイオフィルムとは、互いに支え合い、有害な細菌を侵入させないよう守る層のことである。どうやら虫垂は、人体が微生物のために用意している隠れ家のようなのだ。」(p.31)
盲腸(虫垂)は無用の長物だと思われていて、「開腹することがあればついでに取っておきましょう」などと医師から言われた時代もありました。
けれども、腸内細菌の重要性がわかってくると、盲腸に重要な役割があることが見えてきたのですね。
「なお、現代の先進国でも、少なくとも成人になるまで虫垂は保有していたほうがいいことがわかっている。再発性の消化管感染症や免疫機能障害、血液の癌、一部の自己免疫疾患、さらには心臓発作まで予防してくれるからだ。虫垂が微生物の隠れ家であることが何らかの形で役に立っているのだろう。
虫垂は無駄な器官ではなかったという発見は、もっと重要なことを教えてくれる。私たちの体にとって微生物はなくてはならない存在だという事実だ。微生物は単にヒッチハイクをしているのではない。微生物はヒトの腸のために尽くし、ヒトの腸は微生物のために尽くす、というように互いに進化してきた。」(p.33)
人体がわざわざ盲腸という微生物の隠れ家を用意しているのは、それが人体にとって重要であることの証明なのですね。
「こうして考えていくと、二つの共通項が浮かび上がった。まずは、アレルギーと自己免疫疾患に関係している免疫系だ。どうやら、免疫系が過剰反応を起こしているらしい。もう一つは、症状が社会的に容認されているせいでつい見過ごされがちな、消化器障害だ。過敏性腸症候群や炎症性腸疾患の症状はずばり、腸の機能不全だし、ほかの現代病も腸とは一見関連していないように見えてじつは関連している。自閉症の患者は慢性的な下痢に悩まされているし、うつ病と過敏性腸症候群は連動して起こる。肥満も腸内を通過する食べ物が起源だ。」(p.71-72)
二一世紀病と呼ばれる現代病は、肥満やアレルギー、うつ病などの精神疾患までありますが、それらが免疫系の異常と腸の機能不全にあると推測できるということですね。
「いわゆる「欧米病」が増加しているのは欧米諸国にかぎらない。どこであろうと豊かになった国や地域で増える。経済的に追いついた新興国ではかならず文明病が流行する。欧米特有だったはずの問題が、いまや地球全体をのみこもうとしている。肥満の流行はその典型で、新興国から途上国にまで広がっている。」(p.74)
現代の欧米で急速に増えたアレルギーや自己免疫疾患、1型糖尿病、2型糖尿病、心臓病などを、欧米病と呼んでいるそうです。
私はタイで約20年間暮らしていましたが、最初の頃はタイ人はスタイルのいい人が多いと感じていましたが、段々と肥満の人が増えていき、すぐに子どもの肥満が問題視されるようになり、糖尿病も増えていきました。
「いずれにせよ、こうした現代病に女性のほうがなりやすいという事実は、病気の進展に免疫系が関与している可能性を示している。二一世紀病は高齢者の病気ではない。遺伝的な病気でもない。若くて、経済的に恵まれていて、強靭な免疫性をもつ者(特に女性)の病気だ。」(p.80)
アレルギーや自己免疫疾患などは、まさに強すぎる免疫力による病気と言えるでしょう。
「ここまででわかったことをまとめてみよう。まず、二一世紀病は腸で起こることが多く、免疫系と関係している。つぎに、二一世紀病は子どもや一〇代、二〇代など若い世代が狙い撃ちされ、男性より女性のほうがなりやすい。そして、これらの病気は欧米ではじまり、新興国や途上国でも近代化にともなって増えている。そもそものはじまりは、欧米における一九四〇年代にある。」(p.82)
1940年代以降の何かが、私たちの健康に悪影響を与えており、それは腸の機能に大きく関係しているということです。
「食べた量が多くて運動量が少ないと余ったエネルギーが蓄えられて体重が増えるのは、当然のことのように思える。だが、ニワムシクイは摂取したカロリー以上の脂肪をすばやく蓄えることができ、燃焼させるカロリー以上の脂肪を落とす。体重調節に別の要素がかかっていることは一目瞭然だ。」(p.86)
イギリスとアフリカの間を移動する渡り鳥のニワムシクイは、渡る前に急激に脂肪を蓄えて体重を増やすのだそうです。ところが、カゴの中で飼われていても、その季節になれば体重を増やし、渡りを終える季節には体重を落とすのだとか。
摂取するカロリーと運動量の差によって太ったり痩せたりすると思われがちですが、何か他に要因がありそうですね。
「痩せた人と太った人の腸内で存在量の違いが見られる微生物に、アッカーマンシア・ムシニフィラという細菌がいる。痩せた人にはこの細菌が多くいて、この最近が少ない人ほどBMI値が高い。」(p.118)
腸壁を覆う厚い粘膜層の表面に棲んでいるアッカーマンシアは、腸壁の粘膜層を強固にし、リポ多糖などが腸から血液に入るのを防いでいるそうです。この血中のリポ多糖が脂肪細胞の機能不全を起こさせることで、肥満が進むと考えられています。
「ウイルスと細菌を含めた微生物は、過食と運動不足だけで肥満になるわけではないことを教えてくれている。食事からエネルギーをどう引き出すか、そのエネルギーをどう使ってどう貯蔵するかは、各人が抱える腸内の微生物集団と複雑に関係している。」(p.122)
体重が増えるとか減るとかいうことも、人体だけの機能ではなく、腸内細菌の働きを含めた全体の機能として考えなければならないのですね。
「もし腸内微生物が、幼い脳が発達する重要な時期に影響するのなら、アンドルーの自閉症は腸内感染症が原因だというエレン・ボルトの仮説を裏づけることになるかもしれない。遅発性自閉症は正常に成長したあと一〜三歳になって発症する。これは脳の大半が発達する時期と重なる。この時期は、大人とほぼ同じ安定した腸内マイクロバイオータが確立する時期でもある。アンドルーが幼いころ耳の感染症を疑われて受けた抗生物質の治療は、まだ安定していないマイクロバイオータを乱し、神経毒素を産生する破傷風菌の増殖を許したのかもしれない。」(p.138)
「さて、腸内細菌の組成が違うだけで、ほんとうに子どものふるまいが変わるのだろうか。自閉症児のように平手打ちをくり返し、体を前後にゆすり、何時間も叫び声を上げるようになってしまうのだろうか。どうやらその可能性は高い。」(p.141)
「不思議なことに、トキソプラズマに感染すると男と女では性格が逆向きに変わる。感染した男性は陰気になり、社会ルールや道徳を無視するようになる。そして疑り深く、嫉妬深く、不安になりがちだ。一方、感染した女性は明るくおおらかになり、心が広く決断力のある自信家になる。この変化は、不特定多数との性行為を許す環境になると考えれば納得がいく。女性がガードをゆるめ、男性が他人へのリスペクトやモラルをなくせば、ヒトの男女もラットと同じように大胆になるということだ。」(p.141-142)
腸内微生物の組成によって、性格や行動が変わる。その可能性があるようです。
たとえば狂犬病にかかった犬は凶暴になり、他の犬などに噛みつくことで、感染を広めようとします。感染が広まって得をするのは病原菌です。つまり、その病原菌によって宿主である犬の性格が変えられているとも言えるのです。
「腸内微生物を抱えているだけで社交的になるようだ。社交性だけではない。あなたのマイクロバイオータはどうやら、あなたがどんな人物に引かれるかまで決めている。」(p.146)
「男子学生が一晩身につけて寝たTシャツの匂いを女子学生にかがせて、どの匂いを好ましく思うかアンケートをとった。その結果、女性は自分と免疫型が似ていない男性の匂いを好むことがわかった。これは、女性は子孫にできるだけ多様な免疫を受け継がせるために、自分と遺伝子が似ていない相手を選ぼうとして、それを匂いで直感的に判断しているのだと考えられている。」(p.148)
「関係を深めるために唾液とその中にいいる微生物を交換するというのは、けっこう危険な行為だ。とりわけ、どんな病気をもっているかわからない他人と舌をからめるディープキスは危うい。しかし、そこが重要なのかもしれない。自分の子の父親となるかもしれない相手がどんな細菌を有しているのか、確かめるための手段になるからだ。」(p.149)
無意識に相手の遺伝子や細菌を確認して、子孫にとって最適な相手を選ぼうとしている。そんなことがあるとすれば、本当に驚きです。
「まず、免疫系が自己を排除しなければ、私たちの手足の指は五本に分かれない。妊娠九週目のころ、ヒトの胎児はようやくヒトらしく見えてくるが、まだブドウの一粒ほどのサイズしかない。この時期に、指のあいだの細胞が「自殺」する。指を五本に分けるためにプログラム化された細胞死が起こるのだ。死骸を掃除する作業を担当する食細胞は免疫細胞の一種で、指と指のあいだの不要な細胞をまるごとのみこんで分解する。」(p.181)
へぇ〜、指が形成されるという事象の中に、こういうことが起こっているのですね。
「免疫細胞ならすべての細胞が敵の破壊と脅威の検知にしのぎを削っていると思われがちだが、人体のあらゆる仕組みがそうであるように、免疫系においても、炎症反応を促進する指示と、炎症を抑制する指示の釣り合いを保たなければならない。このとき炎症抑制の役目を担っているのが、最近知られるようになった制御性T細胞だ。略してTレグ細胞とも呼ばれる制御性T細胞は、軍隊でいうと准将のような位置づけで、興奮して息巻いている兵士を鎮めて落ち着かせる。この細胞が多ければ免疫系はあまり反応せず、少なければ過剰に反応する。」(p.198)
「制御性T細胞を使って命令を流しているのはマイクロバイオータだ。微生物は抑制系の免疫細胞の数を操作することにより、微生物自身の存在を確実なものにする。微生物にとっては、ヒトの免疫系は穏やかで寛容なほうがありがたい。攻撃されたり追い出されたりする心配がなくなるからだ。」(p.199)
コロナ感染症のお陰で、サイトカインストームと呼ばれる自己免疫疾患が引き起こされることがよく知られるようになりました。必要以上にサイトカインが放出され、それによって免疫が自分自身を攻撃する。それを防ぐにはT レグ細胞が必要であり、それを増やす機能が腸内細菌にあることがわかってきました。
腸内細菌とヒトは、持ちつ持たれつの関係を維持しながら進化してきたようです。
それにしても不思議なのは、免疫系が腸内細菌を異物とみなさないことです。厳密に言えば「体外」だからとも言えますが、まだ解明しきれていないみごとなまでの共生関係が作られているようです。
「既存の科学会や医学界はリーキーガットのコンセプトに懐疑的な姿勢をとっている。疲労や疼痛(とうつう)、腹部トラブル、頭痛などがなかなか治らず、だれからも答えをもらえずにいる患者に、代替医療はいかにもそれらしい説明を差し出す。博識で善良そうな治療師や、流行に乗って儲けを狙うニセ医者は、患者にいとも簡単にリーキーガット症候群という診断名を告げ、ごく常識的な生活改善法ワンセットを「治療法」として提示する。」(p.205)
「リーキーガットがすべての病気の原因であるはずはないし、ましてや、一部の人が主張するような諸悪の根源でもない。そうは言っても、このコンセプトについては、ただ単にうさんくさいものとして退けるのではなくきちんと向き合って検証し直すことが必要だ。」(p.210)
リーキーガットが起こるから、普段なら血管に入ってこない大きな分子が入ってくるため、健康が阻害されている。これがリーキーガット症候群と呼ばれるものです。
けれども、必ずしもそうは言えない一面もあると言います。リーキーガットによって血液から大量の水を腸内に流し込み、下痢を起こさせるという機能もあります。下痢が人体にとって有益であるなら、リーキーガットはその有益な仕組みでもあるのです。
「私は第1章で、肥満やアレルギー、自己免疫疾患、心の病気などの二一世紀病に、一見関係なさそうだが共通する要素は何かと問うた。その答えは、すべての二一世紀病の表面下で生じている炎症だった。私たちの免疫系は、感染症の脅威が消えたおかげでちょっと一休みできるどころか、かつてないほど忙しくなっている。免疫系が果てしなき戦いを続けているのは敵の数が増えたからではない。一方で警備をゆるめて味方になりうる微生物に門戸を開きながら、もう一方で、そうして招き入れた微生物を訓練する平和維持軍を失ったからだ。」(p.216)
つまり、腸内細菌の乱れによって諸々の問題が起こっているということですね。
「過体重と肥満が伝染病のように広まるのは一九八〇年代以降だが、その兆しは一九五〇年代にすでにあった。ニコルソンは、肥満件数が上昇しはじめる数年前の一九四四年に抗生物質の公共利用が導入されたことを、単なる偶然の一致ではないと考えた。年代的に一致するというだけではない。食肉用の家畜を太らせるために農家が抗生物質をずっと使ってきたことを、ニコルソンは知っていた。」(p.217)
「抗生物質によるニワトリへの成長促進効果はまさに天からの贈り物で、農家はウシやブタ、ヒツジ、七面鳥の飼料に毎日少量の薬を混ぜるだけで食肉家畜がどんどん大きくなるのを見て上機嫌だった。」(p.218)
抗生物質を与えた牛や豚は、与えないものより格段に肉付きが良くなるのだそうです。これは知りませんでした。
「肥満を一種の病気だと私たちが理解するようになったことと歩調を合わせるように、一つの疑念が浮上した。私は第2章で、肥満は「カロリーイン、カロリーアウト」の不均衡で生じるのではなく、多くの原因が関わる複雑な病気だとするニキル・ドゥランダハルの説を紹介した。彼の考えが正しいなら、抗生物質がこの流行病の重要因子の一つだと考えることができる。」(p.220)
食事の欧米化が肥満の原因だと思っていましたが、必ずしもそうとは言えないようです。
「もし抗生物質が私たちを太らせているのだとしたら、ほかにも悪い影響を与えているかもしれない。腸内のディスバイオシスが原因で、アレルギーや自己免疫疾患、いくつかの心の病気が生じているように見えることはすでに述べた。抗生物質がマイクロバイオータを乱すのなら、理論的にはこれらの病気も治療のために投与された抗生物質が引き起こしている可能性がある。」(p.242-243)
抗生物質は、私たちを感染症から守るために役立つものですが、それによって腸内細菌が撹乱されることで、様々な影響が出る可能性があるのですね。
抗生物質を安易に使用することは、耐性菌を生み出す危険性があると指摘されています。けれども、それ以上に直接的に私たちの健康に害を与えている可能性があるのです。
「これは確かな話ではなく憶測にすぎないが、そうした日和見病原体はいったん手や腸に強固な地盤を確保すると、その領土を守るため、報酬予測を学習している大脳基底核にもっと手を洗うよう宿主に命じ続けているのかもしれない。」(p.256)
私たちが何となくとりたくなってしまう行動には、微生物からの指令があるのかもしれません。
「皮肉なことに、私たちが匂いを抑えるためによかれと思ってしていることが悪循環を引き起こす。石鹸と脱臭剤はアンモニア酸化細菌を殺す。アンモニア酸化細菌がいなくなると皮膚のマイクロバイオータが乱れる。マイクロバイオータの組成比が変わると汗がいやな匂いを発するようになる。私たちはその匂いを消そうと、また石鹸で洗い、脱臭剤を使う。」(p.260)
石鹸を使う文化のない未開の人たちは、ほとんど体臭がしないのだそうです。
私も、もう何年も石鹸をほとんど使いません。頭も湯シャンです。(髪の毛を剃っているので、正確には身体と同様にお湯をかけて洗ってるだけですが。)タオルで擦ることさえあまりしないので、汗をかいたときなどに皮膚を擦ると垢が出てくることはありますが、体臭がひどくなることはありませんね。
「腸の細胞を結合させている蛋白質の鎖は、人体のあらゆる作用を担っている蛋白質がそうであるように、遺伝子の指示でつくられる。だが、ヒトはそうした遺伝子のコントロール権の一部を微生物に譲渡してしまった。腸壁の蛋白質の鎖をつくる遺伝子の発現量を決めているのは微生物だ。酪酸はそのメッセージを伝える。微生物が酪酸を多く出せば出すほど、ヒトの遺伝子は多くの蛋白質の鎖をつくり、腸壁は堅固になる。腸壁を堅固にするのに必要な条件は二つある。まずは正しい微生物だ(特定の食物繊維を小さな分子に分解するビフィドバクテリウムや、その小さな分子を酪酸に変換するフィーカリバクテリウム・プラウスニッツィ、ロセブリア・インテスチナリス、エウバクテリウム・レクタレなど)。そしてもう一つは、そうした微生物の餌となる食物繊維をあなたが多く食べることだ。そうすれば、あとは勝手にやってくれる。」(p.287)
酪酸を作る酪酸菌が健康のために重要だという話は、他の本でも知っていました。私たちが食事をするとき、どの栄養素が身体にいいのかを考えますが、それ以前に、腸内細菌にとって何を食べるのが良いのかという視点も重要なのかもしれませんね。
「アメリカのフードライター、マイケル・ポーランの有名な文章に「本物の食べ物を食べよう、ただし食べ過ぎず、野菜中心で」というのがある。彼は、マイクロバイオータの重要性がまだ知られていなかった時代にこの文章を書いたのだが、今からふり返ると、まさに真理を言い当てていたとわかる。」(p.295)
「食物繊維好きの微生物のホームグラウンドである大腸と、その微生物の待機所である虫垂を備えたヒトの消化器系の構造は、私たちが肉食動物ではないこと、食物を主食としてきたことを教えてくれる。私たちが見落としている栄養成分は食物繊維だ。」(p.296)
たしかに、食物繊維を餌とする腸内細菌によって私たちの健康が保たれる仕組みがあるのだとすれば、私たちは肉食ではなく、菜食がメインだと考えざるを得ません。
「鳥類や魚類、爬虫類などでも卵の段階で、または卵が孵ってからマイクロバイオータが母から子に受け継がれることが知られている。
種によって方法は違っても、生きていくのに最良の微生物一式を母から子に与えるのはほぼ普遍的なことのようだ。これだけ普遍的なのは、生き物が微生物と共生することに進化的なメリットがあるからだ。ある生物が卵に糞を塗りつけたり細菌を飲み込んだりすることを恒常的におこなっているなら、それはその種がそうふるまうように進化したからだ。そうすることで生存と生殖のチャンスが高まったのに違いない。」(p.299)
コアラは、糞便に似た離乳食を食べるようになってやっと、ユーカリの葉を分解する微生物を腸に棲まわせるようになるそうです。また、カメムシは産卵後の卵に糞を塗りつけておいて、生まれた子はその糞を食べるのだそうです。いずれも、腸内細菌を効率よく得る仕組みですね。
「赤ん坊は産道を通るとき、微生物のシャワーを浴びる。ほぼ無菌状態だった赤ん坊を、膣の微生物が覆っていく。」(p.300)
「子宮収縮ホルモンの作用と降りてくる胎児の圧力を受けて、陣痛中や出産時にほとんどの女性は排便する。赤ん坊は顔を母親のお尻の側に向けて頭から先に出てくる。そして母親がつぎの陣痛に備えて体を休めているあいだ、赤ん坊の頭と口はうってつけの位置に来る。あなたは本能的に顔をしかめるかもしれないが、これは幸先のいいスタートだ。母から子への最初の贈り物、糞便と膣の微生物が無事に届けられることになるのだから。」(p.300)
「妊娠中、膣のマイクロバイオータは多様性を狭める方向に移行する。新生児に「苗」を植えつける準備として、重要な微生物に的を絞ろうとしうことなのかもしれない。」(p.303)
人間も他の動物と同じように、母から子へ微生物の受け渡しがなされる仕組みを持っているのですね。
「以前はさして害のない代替手段と思われていた帝王切開だが、母子ともに健康リスクがあることが徐々に明らかになってきた。早くにわかったこととして、帝王切開で生まれた赤ん坊は感染症になりやすいというのがある。」(p.308)
他にもアレルギーを発症しやすいとか、自閉症になる確率も高いそうです。帝王切開では、母から子への微生物の受け渡しがなされませんからね。
「消毒の精度を極限まで上げた搾乳技術とDNA解析技術を使って調べたところ、献乳の際に見つかる細菌は、もとから母乳にいた細菌だった。赤ん坊の口や母親の乳首から乗り移って混入したのではなく、乳房組織の中に入りこんでいた。いったいどこから? 乳房組織にいる細菌の多くは皮膚によくいる細菌とは違った。つまり、乳房の皮膚から乳汁に侵入したわけではない。乳房組織にいる細菌は、通常は膣や腸にいいる乳酸菌だった。」(p.317)
「血液を調べて移動ルートがわかった。樹状細胞と呼ばれる免疫細胞の中に入って移動していたのだ。樹状細胞は細菌の密入国を手助けすることで知られている。」(p.317)
「不思議なことに、出産方式によって母乳に含まれる微生物が変わる。陣痛が始まる前に計画的な帝王切開で出産した女性の初乳に含まれる微生物は、経膣出産した女性のそれとかなり違う。その違いは少なくとも六か月は続く。しかし、陣痛が来たあと緊急の帝王切開を受けた女性では、経膣出産した女性と初乳の微生物が似ている。陣痛中の何かが警報を発して、これから赤ん坊を外に出すことを免疫系に知らせ、胎盤ではなく母乳に栄養が行くよう指示しているようだ。」(p.318-319)
母乳にまで腸内細菌が含まれているとは知りませんでした。それにしても、子孫を残すための人体の仕組みは素晴らしいですね。
「この方法は糞便移植、あるいは細菌製剤療法と呼ばれている。ユーモアをこめてトランスプージョンと呼ばれることもある。その名のとおり、ある人の糞便(プー)を採取して別の人の大腸にい入れるという治療法である。」(p.360)
食便をする動物は多数います。ただそこに、腸内細菌を整えることを目的としているという視点はありませんでした。けれども、今、人間がそれをやり始めたのですね。
「とはいえ、菌種が何であれ、その結果がどうであれ、プロバイオティクスは「軟膏」でしかない。いわば、一時的な慰めだ。プロバイオティクスは腸管を通るが、そこに長くとどまるわけではない。そして利益を得るには摂取し続ける必要がある。それに、プロバイオティクスを毎日摂取したとしても、それだけでは歩兵に武器をもたせないまま戦場に送りこむようなものだ。
持続的な効果を得るには、外から補充しなくても細菌が自力で増殖する環境を用意してやらなければならない。そこで登場するのがプレバイオティクスだ。プレバイオティクスは生きた細菌ではなく、有益な細菌の全個体数を増やすよう促す「細菌の餌」だ。フラクトオリゴ糖、イヌリン、ガラクトオリゴ糖といった名前は、まるでできあい食品のパッケージの裏に書かれている合成添加物のように思えるかもしれない。」(p.377-378)
プロバイオティクスというのは、有用な生きた微生物(納豆菌や乳酸菌、ビフィズス菌など)を摂取する方法です。「ロ」と「レ」の違いですが、プレバイオティクスというのは、今いる有用な腸内細菌の餌を摂取する方法ですね。
プレバイオティクスとして知られるのが食物繊維であり、特に酪酸菌の餌になるとされているのがフラクトオリゴ糖やイヌリンです。私も今、フラクトオリゴ糖を毎日摂取しています。
「つきつめれば、プロバイオティクスと糞便移植にそれほど大きな違いはない。どちらも有益な微生物を腸内に届けるという考え方だ。一方は上から、もう一方は下から。一方はラボで培養され、もう一方は他人の腸内という理想的な環境で培養される。この二つの方法が合流するのは時間の問題でしかない。」(p.379)
「糞便移植が普及するのは避けられず、そうなると消費者の側の私たちはドナーへの要求を高めていくはずだ。現状のドナーに対しても、腸内細菌関連の病気(心の病気の一分も含め)などのスクリーニング検査はおこなわれている。だが、レシピエント(患者)がドナーを選んだり、レシピエントとドナーの組み合わせを考えたりするところまではいっていない。」(p.382)
たしかに、糞便移植が効果的だとわかれば、どういう人の糞便を移植したいのか、そこに欲求の水準が上がってくることは避けられないでしょう。誰の糞便でも良いというわけにはいきませんからね。
「微生物生態系を修復するという試みはまだ新しい分野で、先行きは不透明だ。プロバイオティクス、プレバイオティクス、糞便移植、微生物生態系治療のどれをとっても、「予防は治療にまさる」という古くからのことわざ以上に有効なものはない。」(p.386)
地球の生態系の多様化が失われているという懸念がありますが、人体内でも細菌の多様化が失われていると言われます。病気を予防するためにも、また、子孫に素晴らしい環境を残すためにも、腸内細菌の多様化と正常化を守っていく必要があるようです。
「私たちに足りないのは感染ではなく、旧友だ。かつて、ヒトの進化における無意味な名残と広く信じられていた虫垂は、じつは微生物の隠れ家で、人体免疫系の育成を担っていることをいまの私たちは知っている。虫垂炎は、人生につきものの不可避の事故のようなものではなく、本来なら虫垂に侵入してきた病原体を撃退するはずの旧友たちがいなくなったことで発生してしまう病気だ。人体の最古の友人と友情を温め直すチャンスは、まだ手の届くところにある。」(p.388-389)
「こうした変化は一九四〇年代を中心に起こった。抗生物質が手軽に使えるようになり、第二次世界大戦の終結とともに食生活が変容し、帝王切開と粉ミルク育児が急増した時代である。最近まで私たちに見えていなかったのは、こうした変化が微生物に与えた影響の大きさだ。そうとは知らず、微生物と数千世代にわたって結んできた共進化と共同生活の約束を一方的に破棄してしまった。」(p.389)
私たちが共生している微生物たちは、私たちの旧友なのです。
「二〇〇五年、人口の半分の命を奪っている死因の上位三位は心臓病、癌、脳卒中で、平均寿命は七八歳である。私たちはこれらの病気を高齢者の病気とみなし、人生を長く生きた代償だと考えがちだ。しかし、西洋化されていない地域の人が−−感染症、事故、暴力に何度もさらされながら生き延びて高齢になった人を含め−−心臓病や癌や脳卒中で死ぬことはあまりない。私たちが現在理解しつつあるのは、単に高齢になるだけで心臓が固くなったり、細胞が無秩序に増えたり、血管が破裂したりするわけではないということだ。医学研究者たちのあいだでは、心臓病、癌、脳卒中は高齢者の病気というより炎症ではないかという見方が浮上している。高齢になって発症するのは、ダメージが長年にわたって蓄積された結果かもしれない。」(p.391)
慢性炎症が老化を促進すると言われますが、腸内細菌の乱れによって炎症が進み、継続することによって、私たちは病気を引き起こしているのかもしれませんね。
「ということで、不必要な抗生物質の使用を減らす第一歩は、感染の原因を数分または数時間で特定できる迅速診断キットの開発だ。」(p.393-394)
たしかに、抗生物質を闇雲に使わないで済むには、抗生物質を使うべき感染症なのか、使うとすればどういう抗生物質が効果的なのかを、短時間で判断できる検査キットが必要ですね。抗生物質そのものは、感染症の治療上、有効であることは明らかですから。
「幸い先進国では、自分の健康のかなりの部分を自分で決めることができる。親からもらった遺伝子や環境因子を変えることはできなくても、自分のマイクロバイオータを整え、育て、世話をすることはできる。何を食べるか、どんな薬を飲むかであなたの微生物群は変化する。あなたが微生物を大切に扱えば、微生物もあなたにお返しをしてくれる。これから子どもを産もうと思っているなら、親(とくに母親)がその子のマイクロバイオータを決めるのだという自覚をもとう。
私は自分で選択することが好きだ。選択は自由だからできることであり、また、選択するからこそ自由が手に入る。選択は文明社会の証だ。選択は自分で自分の暮らしを向上させる原動力でもある。だが、無知なまま選択しても意味がない。過去一五年ほどのマイクロバイオータ研究は、人体の複雑な相互作用の一部を明らかにしてくれた。私たちの体は共生微生物込みの共同体として機能するようプログラムされている。その情報をもとにどんな選択をするかはあなたしだい。私に言えるのは、なんとなくではなくきちんと考えて選択してもらいたいということだけである。」(p.401)
微生物と人体との共生関係は、完全に解明されたわけではありません。しかし、少なくとも言えるのは、私たちは人体だけの存在ではなく、微生物と共生することで成り立っている存在だということです。
私も、人は自由だと思っているし、それは自由に選択できることだと思っています。だから、前提となる知識が完全でないとしても、今わかっている範囲の知識を前提として、最善を選択していこうと思っています。
腸内細菌が健康に大きな影響があることは知っていましたが、それをさらに掘り下げて教えてくれる内容でした。
私のために尽くしてくれている腸内細菌たちを含めて「わたし」であることを自覚し、食物繊維をもっと食べようと思いました。
2023年04月18日
鎌田式「にもかかわらず」という生き方
随分前に買った本ですが、やっと読むことができました。積読(つんどく=積んでおく)状態の本が多数あり、後回しになっていました。
この本を買ったのは、長野県で介護の仕事をすることになったのがきっかけです。働くようになってしばらくしてから、近くの諏訪中央病院が、以前から存じ上げていて鎌田實(かまた・みのる)さんが働いておられる病院だとわかったのです。
読み終えた本を勤務している施設に寄贈していたので、それなら縁のある鎌田さんの本を残してあげようと思い、選んで買った本になります。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
「父となってくれた岩次郎さん、母となってくれたふみさん、二人の暮らしはとても大変なものだった。小学校しか出ていない二人は、ずっと貧乏の中で生き、死んでいった。ふみさんは、重い心臓病を患っていた。岩次郎はその入院費を稼ぐために必死で働いていた。
貧困と重病の妻という二つの困難を抱えていたにもかかわらず、岩次郎は行き場のない僕を拾ってくれた。「余裕があるから困っている子どもを助けてあげよう」という考えからの行動ではないところに、彼のすごさがあるように思う。どんな困難な状況に陥っても、「にもかかわらず」という生き方があることを、僕は物心つく前から教えられていた。」(p.4-5)
鎌田さんの実の両親は離婚し、父親に引き取られたものの、父親の再婚によって鎌田さんは居場所がなくなってしまったのだそうです。そんな時、親戚でもない養父母に引き取られたそうですが、その経緯は調べてみてもわからないのだとか。
しかし、その養父母の生き様によって、この「『にもかかわらず』という生き方」を教えられたのですね。
「累積赤字4億円の病院に赴任したときにも、波だと思った。今は下向きでも、いずれいい波が来て、みんなが生き生きと働けて、地域から評価される病院になるはずだと。
これが鎌田の波理論である。」(p.18)
昔から「禍福は糾える縄の如し」と言いますが、人生には順風もあれば逆風もあるのですね。
「以前は朝が来ても、体育館の薄っぺらいマットから起き上がれなかった。その時は心も体もどんどん下降線。でも今は、目が覚めたら、とにかく余計なことは考えずに、起き上がって体操してる。まだ元気が出ない人たちに声をかけて歩くようにしたんだよ。
そんなことをしていたら元気になってきたんだ。人間って、不思議ですね(笑)」
坂口安吾が『堕落論』の中で、人は落ちても落ちても、それほど落ちられるものではないと言っている。
すべてを失くしたように見えても、自分の気がついていない可能性がいっぱいある。それは、70歳になっても80歳になっても変わらない。すべてうまくいっていないにもかかわらず、人は人のために何かをしているうちに、もう一度、生きるエネルギーを蓄えることができるのだ。」(p.23)
東日本大震災で被災し、家も家族も船も失った年老いた漁師の方の話です。意気消沈して絶望していた彼が、しばらく経って再会した時は元気そうだったとか。
どうして元気になれたのか? 周りからいくら優しくされても元気になれなかった彼は、自ら動くことにしたのだそうです。自分は悲惨な目にあったが、もっと悲惨な目にあった人もいる。その視点を持った時、彼は動こうと思ったのですね。
「野菜を日本一食べるから、よく運動するから、そんな要因が見つかるかと思っていたら、統計的に最も有意なのは、高齢者の就業率が日本一高いことだと分析された。
小さな農業に従事する高齢者が多く、マイペースで働き続けられることが寿命を延ばしていた。」(p.27)
かつては脳卒中の死亡率が全国2位という不健康県だった長野県が、今や平均寿命日本一の県になっています。その要因の1番が、高齢になっても働き続けるということなのですね。
私もリタイヤという考えを捨てて、生涯現役で生きると決めています。そのためには、余裕資産を持ちすぎないことが重要だと思っています。働かざるをえない環境に身を置くことですね。
ただし、ストレスが大きすぎてはかえって不健康になります。適度なストレスが大事です。なので、ある程度の年金をもらいながら、不足する分くらいを働いて稼ぐ。そういう生活スタイルがいいのではないかと思っています。
「僕たちの中には、冒険する心があって、それが僕たちの存在理由かもしれない。生きている限り冒険し続けるのが、人間なのだ。」(p.35)
人類は「出アフリカ」によって進化発展してきました。リスクを取って挑戦する。怖いけど、不安だけれどもやってみる。安心安定を守ろうとしていたら、進化発展もないのです。
「数カ月後に再び仮設住宅を尋ねると、彼は自宅に戻っているという。行ってみて、驚いた。なんと自宅を新築しているのだ。81歳のおじいさんが、大工の手伝いをしていた。「すごいな、よく決断できたね」と言うと、「直せる人間がやらんといかん。歳じゃない。あと何年住めるとか、余計なことを考えたらいかん」という。直せる人間が直せばいい。とても簡単な答えだ。「歳じゃない」という言葉をいいなと思った。
81歳にもかかわらず、家が潰れても、新築できるならすればいい。余計なことは考えない。自分が死んだら、きっと親戚の誰かが喜んで新しい家を使ってくれる。かっこいい。何歳からでもかっこいい生き方はできる。」(p.37)
熊本の震災で被災した老人の話です。目先の損得にとらわれずに、自分がやるべきことをリスクを取ってやる。結果はどうでもいい。やるかやらないか、それだけが重要なのです。
「100歳を超えて、生き生きとし、健康で誰の世話にもならずに生きているお年寄りには、共通する特徴がある。
「よく動く」
「よく食べる」
「好奇心を持って生きる」
「自分流」
−−この4つ。」(p.42-43)
他人の視線を気にすることなく、自分がこうしたいと思ったらすぐに行動する。いろいろなことに関心を持って頭を働かせ、ポジティブに考えて人生を楽しんでいる。こういう老人になりたいものです。
「単刀直入にナンバーワンになったコツを聞くと、
「騙されても、意地悪されても、私、人に優しいの」
という答えが返ってきた。外見も大事だけど、「優しい」というのが生きる武器になるのだ。」(p.56)
ある生命保険会社でトップクラスの契約を獲得している凄腕セールスレディーの3人は、何と母親とその娘姉妹だったそうです。鎌田さんは、女性としての美貌を武器にしているのではと思ったそうですが、母親は丸っこい顔の肝っ玉母さんだったとか。
けっきょく、問われているのは人間性であり、愛情の深さなんだろうなと思います。以前に紹介した「いま、目の前にいる人が大切な人」という本の著者、北の菩薩と呼ばれる坪崎美佐緒さんも、いきなりいじめられるような職場においても、そのいじめる先輩を否定せず尽くしておられました。
「椅子に座り、足の裏を床につけた状態で両手の親指同士、人差し指同士で輪っかを作り、ふくらはぎの最も太い箇所を囲んでみる。輪っかに隙間ができる人は、サルコペニアの可能性がある。1センチくらい指が届かずに輪っかがつくれない状態が理想的。筋肉が十分にあると言える。」(p.115)
サルコペニア(加齢性筋肉減少症)の簡易チェック方法です。実は私は、この方法だと隙間ができるのでサルコペニアになります。本当かなぁ? ふくらはぎの太さは、個人差があると思うのですがね。ちょっと気になったもので。
「ちょっと貯筋をしたい人は、1日60グラムから70グラムのタンパク質が必要だから、肉を食べ、さらにヨーグルトやチーズ、そして納豆か豆腐を食べ、卵も1個か2個食べる必要がある。かなりしっかり食べないと「タン活」はできないのだ。」(p.126)
以前に紹介した「筋肉ががんを防ぐ。」でも、健康な老後のためには「貯金」よりも「貯筋」だとありました。そして十分な筋肉を保つには、タンパク質の摂取が必要であり、1日60g以上を食べるようにとのことでした。
ただ一方で、長寿地域の共通点を探した「THE BLUE ZONES 2ND EDITION」では、長寿者の食事は野菜や穀物が中心で肉や魚はたまに少量しか食べない、ということでした。タンパク質の摂り過ぎは腸内細菌の構成を乱すので良くないという説もありますね。
どっちが正しいのかわかりませんが、私自身は「朝納豆卵生活」と称して、毎朝、納豆と卵を食べており、毎日、肉か魚を食べていました。その上で少し運動もしたし、立ち仕事の介護職もしているのですが、1年後の筋肉量は増えませんでした。なので、今度は肉を食べるのを極力減らして、野菜を多めにしてみようと思っています。
何ごとも鵜呑みにせずに、自分で試してみることが大事だと思っています。
「末期の食道がんになった80代のAさんは、僕が回診にいくといつも読書をしていた。」(p.182)
「Aさんは高校生のお孫さんの手を取りながら、「人生は大変だけど面白いのよ。面白いことがわかるようになるためには、少しだけ努力しないとね」と、しっかりと伝えた。子どもたちには、「自分の人生だから好きなように生きなさい」と励ましと感謝を伝えた。
人生の総仕上げをきちんとできたのも、Aさんがしっかりと自分の死と向き合って、最後の過ごし方を自己決定していたからだ。」(p.182-183)
死と向き合い、死に方を自己決定する。その覚悟を持つことが大切だし、そのために、読書の習慣は役立つなぁと思います。
「しかし、墓じまいは結構大変なのだ。
墓じまいや墓の移転、散骨などは専門業者がいて、プロがさまざまな手配をしてくれるとはいえ、まず金がかかる。」(p.190)
「墓じまい」という言葉は知りませんでした。私の実家も、今は父が一人暮らしをしていますが、子どもたちは誰もそこに戻らないので、父は更地にして市に返納することを考えているようです。墓は永代供養とする案もありましたが、墓じまいという方法もあるのですね。
「それほど苦労せずに、自由に死後を選び、自己決定できる世の中になっていったらとてもいいことだと思う。簡単ではない。でも誰かが少し道を開くと、その後の道は、少しの勇気で選択できるようになる。何代かに渡って、自由の道を切り開いていくことが、多分、大切なのだろう。」(p.197)
以前に紹介した「0(ゼロ)葬 −−あっさり死ぬ」に、葬式に関することがいろいろ書かれていました。葬式なんてやらなくていい。そんな死に方を自己決定することで、後の人たちの選択肢が増えるのです。
「ここで逆転の発想が大事なのだ。せめて死ぬ時に、延命治療を受けるかどうかとか、葬式はどうするのかとか、暗い話を一つでも決めてしまえば、そこから死ぬまでどうやって生きようかと考えることができるのではないか。亡くなる前日まで行きたいところに行き、食べたいものを食べ、ピンピンして暮らすためにはどうすればいいのか、考えるようになる。」(p.215)
PPKと呼ばれるピンピンコロリではなく、ピンピンひらりという言葉で、最期まで自己決定して自分らしく生きる生き方を説かれる鎌田さんは、死に方を決めることが重要だと言います。
全編が「にもかかわらず」という生き方に関するものとは言えずに散文的ではありますが、鎌田さんの死生観がわかる本になっていました。
こういう本を読んで鵜呑みにするのではなく、これをきっかけに、自分の人生を考えてみることが大事だと思います。私も改めて、自分の老後のこと、死に方のことなど、考えてみました。そういうチャンス(機会)を与えてくれた鎌田さんとの出会いに、そしてその縁である長野県の諏訪地方という土地に、感謝したいと思います。
2023年04月21日
死を受けとめる練習
これも私が長野県の諏訪地区に移住したことで、諏訪中央病院に縁のある鎌田實(かまた・みのる)さんの本を施設に残そうと思って買った本になります。
週刊ポストに2010年から連載されていた「ジタバタしない」からの抜粋とのことで、2015年に発行された文庫本になります。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
「死は謎に満ちている。
死んでいく人が、その直前に死の世界に入っていく状況を記録したりルポしたりできないからだ。分からないから、なんだか怖いのである。
死ぬときは、どんな気持ちで、苦しみがあるのかないのか。
死んだ後はどこへ行くのか、誰も分からない。分からないけれど、必ず人は死ぬ。怖いから死から目をそらしたりしたくなる。」(p.12)
冒頭で鎌田さんは、「死」についてこう語ります。
私も10歳くらいの子どもの頃、死が怖くて泣きながら眠った夜がありました。夢を見ることなく永遠に眠り続けるようなものなのか。そう考えると、わけもわからず怖かったし、悲しかったのです。
「だから同じように、人間が死ぬときも、ほんのわずかでもいいから、体と心と魂を支えてくれる温かな環境があると、死は怖くなくなると思う。
助産師のようなプロが存在していると、死は怖くなくなる。」(p.20)
動物は、誰の助けも借りずに子を産みます。しかし人間は、助産師という介助役を当たり前のように受け入れています。それによって母と子を守りやすくなるからです。
そうであるなら、「生」だけでなく「死」においても、同じような役割の人がいればいいのではないか。鎌田さんは、そう考えるようです。
「死ぬときは、こんなふうに死にたいと、一回家族と話し合ってみたらどうだろう。話し合うだけでも一歩前進。家族の中で死が身近になり、ウォーミングアップになる。死は必ずやってくるのだから、死から逃げないことが大事。
自分で死をデザインすればいいのだ。」(p.21)
死ぬことを考えないようにすれば、その瞬間は死の恐怖を感じずに済むでしょう。しかし、実際に死を目前にした時、その恐怖に押しつぶされかねません。
ですから鎌田さんは、ウォーミングアップが重要だと言います。怖れずに立ち向かうこと。考え、言葉にし、身近な人と語り合うこと。そして、どう死ぬかを自分で決めることです。
「旅行は3月11日から2泊3日。松本空港から福岡までは飛行機。原先生の友人に車で迎えに来てもらって由布院に向かう段取りだ。2月に入ると、点滴も酸素ボンベも持っていけるよう、原先生は綿密な計画を立てた。男が言った。
「万が一、旅行中に亡くなることがあったら、病院は非難されるかもしれない。同行する原先生も困るし、院長だって困るはず。それなのにどこからもブレーキがかからない。この病院はすごいなあ。」
これは諏訪中央病院に脈々と続く文化だ。
効率や経営よりも大事なものがある。患者さんのために何かしようとしているときに、横槍を入れない文化を僕たちは作ってきた。」(p.24-25)
鎌田さんが作ってきた諏訪中央病院には、こういう文化があるのだそうです。
残念ながら私は、それほどたくさんの接点がなかったこともあり、諏訪中央病院のこういう文化は感じ取れませんでしたが。ぜひこの文化を、今後も守ってほしいし、それを病院内だけでなく、他の病院や介護施設にも広めていってほしいものです。
「いまは延命治療を拒否しても、何かの拍子に、どうしても死にたくないと思うときがあるかもしれない。そのときは、尊厳死カードを破棄し、できるだけ最高の医療を受けたいと書いておけばいいのだ。
何が正しいかなんて関係ない。自分で自分の命の在り方を決めればいいのだ。」(p.44)
死について鎌田さんは、自己決定することが何よりも重要であり、過去の自己決定にさえ縛られる必要はないと言われます。
私も同感です。人は自由ですから、いつでも今の自分が決めることが重要だと思います。
「「先生、助からない病気だと教えてくれてたら、野良仕事なんかせずに、じいちゃんの布団に一緒に入って昔話をしてあげたのに……。残念だったよ」
ジーンときた。
死ぬかもしれないことを隠す必要なんかなかったのだ。
ばあちゃんを布団に入れてあげたかった。このとき本当の話を伝えることがどんなに大事かを学んだ。
まだまだがんの告知を行っていなかった時代だ。できるだけ本当のことを伝えようと決めた。」(p.97)
以前に紹介した鎌田さんの「がんばらない」でも紹介されていたたぬきばあちゃんの逸話です。
私も「神との対話」シリーズを読んで、正直であることが何よりも大切だなぁと感じています。まずは自分に対して正直であること。そして他人に対しても正直であること。嘘をつくのは、何かを隠したいから。隠すことによって、自分が意図する結果を引き寄せたいからです。その結果に執着しているからです。しかし、思い通りの結果になるとは限りません。ウソが意に反して相手を傷つけることもあるのです。
「地域で死を支えているから、その死はより自然な形になる。誰も死だからといって、笑ってはいけないなんて思わない。
おかしければ笑えばいいのだ。笑った後に、大切な人がこの世を去ったことに思いをはせて大泣きする。それでいい。」(p.102)
これはヤマネのばあのエピソード。心不全で臨終の間際、「カマタ先生にビールをやっておくれ」と言ったのだとか。自分が今にも死にそうな時に、鎌田さんのことを思い出してビールをと言う。え、なんで? それを今、言う? みたいな空気が漂い、みんなが大笑いしたそうです。
以前に紹介した「なんとめでたいご臨終」でも、そんな笑いのある死が描かれていました。かくあらねばという制限が取り払われて自由になった時、死に際しても人は幸せでいられるのかもしれませんね。
「20世紀を代表する精神医学者、フロイトは、困難の中で生き抜くためには、二つのことが必要だと言っている。ひとつは、働く場所があること、もうひとつは愛する人がいること。
今回の東日本大震災では、この両方を失ってしまった人が多い。「がんばれ!」と肩をたたくだけでは、なかなか問題は解決しないのだ。」(p.116)
「愛する者を失った悲しみは、なかなか癒やされるものではないが、職場を失った人には、手を差し伸べることができるはず。」(p.116)
たしかに、そう言えるかもしれませんね。
「そうやって呼びかけたら、250人の車椅子の人や末期がんの人、うつ病の人たちが集まってくれた。参加者全員が東北を応援したいのだ。誰かのために、生きたいのだ。
参加者たちは「今回の旅がいちばん良かった。おれたち、来ただけでこんなに喜んでもらえた。おれたちも役に立つなあ」と口々にうれしそうに話していた。」(p.119)
何の役にも立たない存在だと思うほど、つらいことはありませんからね。仕事というのは他者貢献でもありますから。
「多様な悩みに適応するワンストップ型の電話相談や相談会が大事なんだと思う。
自殺念慮のある人の悩みは、大概ひとつではなく、複数だという。病気があって、失業し、とても寂しい想いをしている……。
こんな複雑な問題を抱えている人に、失業手当の受け方を教え、ときには住まいの確保に協力し、精神科の病院を紹介するなどの多様な対応をしなければ、なかなか問題の解決には至らない。」(p.121-122)
自殺したいと思うほど絶望している人は、複数の課題を乗り越えなければならないと感じると、身動きできなくなってしまうのかもしれませんね。
「「患者会にも行ったのですが、明るく楽しくしていればがんが克服できるというムードが嫌でやめました。そんなのキレイごとです。死を受け入れた上で、いまは楽しくという考えでなくてはダメです。死を覚悟したときから、いろんなことが美しく見えるようになりました。平井くんに死ぬ覚悟をしろとお見舞いのときに言ったのは、そういうことなんです」
「死」の哲学のある人は強い。」(p.141-142)
「死を受けとめられるようになると、生きることがとっても楽になる。何が起きてもおもしろく、「ま、いいか」ととらえられるようになるのだ。
それまでの合理的な選択とは違って、行く手が二股に分かれていたら、むしろ難しい方の道を選んでしまったりするようになるのかもしれない。ちょっと過激でもおもしろい方がいいじゃないか、と。」(p.142-143)
悪性リンパ腫になった山田さんが、大腸がんの平井さんにお見舞いをした時のエピソードです。60年代安保の世代だそうで、福島の原発事故後、放射能汚染された地域の除染作業を買って出たのだそうです。若者や専門家が活躍できるようにするために、誰でもできるような除染作業は、老い先短い自分たちがやるべきだと思われて。
こういう生き方、私はかっこいいなぁと感じます。それもこれも、死を覚悟し、受け入れているからこそできることですね。
「ロバートはどうも認知症のようだ。ロバートを愛するがゆえの優しい嘘が、二重三重にしこまれていることが次第に分かってくる。
この映画を観ていると、「忘れる」ことは怖くて哀しい。でも忘れたって生きていける。好きとか嫌いとか、うれしいとか悲しいとかは分かるのだ。
いま日本には認知症の患者が300万人。認知症はこれからますます大きな社会問題になっていくだろう。
2000年に介護保険ができ、体のサポートはしてくれるようになった。が、病気をしながら長生きしていく心の寂しさを解決してはくれない。
人間が安心してい生きていくためには、優れたシステムと同時に、人と人の絆が大事だと、この映画は教えてくれる。」(p.179)
「やさしい嘘と贈り物」という映画を観て、鎌田さんはこう思われたそうです。
私も、これからは認知症が大問題になると考えています。死んだ方がどれほどマシか、と言いたくなる現実があるのです。
「死を受け入れる前にしなければいけないことがある。
年をとることを受容することだ。
死は必ずやってくる。それは生き物の大原則である。」(p.180)
「死ぬときも、自分流にこだわりたい。自分流の選択をしたいのだ。
最近では、僕と同じように自分の死に方は自分で選択したいと考えている人が多くなってきた。
しかし、そのために、ある心配が生まれつつある。
認知症、である。」(p.181)
「だが、僕は認知症になったらなったでいい、と思っている。そのとき、僕は、限りなく純粋な僕になっていくと考えるようにしている。
いろんなしがらみの中で生きてきた僕が、認知症になったおかげで、すべてのしがらみから解放される。僕は、僕の中に残ったマダラ状のいいところを上手に働かせながら、僕は僕らしく最後まで生き切ればいいのだ。
なんとかなると思うようにしている。
家族や周囲の人には、迷惑をかけるだろう。
たくさんの失敗もしでかす。それでも、僕はまったく知らない他人の誰かになるわけではない。
そう思うと、認知症だけを特別に恐れる必要はないのだ。
何がどんなふうになっても、けっしてジタバタしない。
ささいなことをおもしろがり、小さなことに感動して生きていこうと思っている。」(p.186)
認知症になることの問題を見据えながら、鎌田さんは不安や恐れを乗り越えようとされているようです。
私自身、まだ答えはありません。ただ、なるようにしかならないという思いはありません。鎌田さんと違って、認知症になったらジタバタしてしまうかもしれないという可能性を見ています。だって、理性的な判断ができなくなるかもしれないのですから。
けれども、どうにもならないことを心配してもしょうがない、という思いは鎌田さんと同じです。
「障害と排泄の問題は大きい。
僕も全身麻酔で手術した直後、ベッド上で安静を命じられた。体位を変えるのもままならなかった。もちろん寝ていても尿意を催す。若い看護師さんにオチンチンを押さえてもらって尿瓶(しびん)で排泄した。
恥ずかしかった。しかも、尿意を催しているのに、なかなか出ない。長い間、ずっとその状態だった。
寝たまま排泄するのは、難しいことだと初めて知った。」(p.222-223)
私も老人介護の仕事をして、排泄が一番の問題だなぁと感じました。正常な判断ができるのに体が思う通りに動かなくて、排泄介助をしてもらわなければならないというのは、本当につらいことです。
排尿だけならまだマシです。最悪、おむつの中にすればいいのですから。これは私も体験してみました。尿とりパッドが、すぐに吸い取ってくれます。生温かい嫌な感じも、すぐに慣れます。けれども、排便はどうでしょう? これはまだ体験していません。どうしてもできないのです。
「貼りだされた記念写真を見て、たくさんの人が写真を買い求めた。その様子に「今日は祭りみたいにうれしいです」と写真屋さんが笑う。
みな一様に、明るい表情で「復興支援、復興支援」と念仏のように口にして、買い物に向かっていた。旅をしている側もうれしいのである。
「自分たちはいままで、障害があるので、人様に迷惑をかけて申し訳ないと思って旅をしてきた。しかし今回は、来るだけで地元の方に喜んでもらい、感謝してもらいました」と笑顔で話す。だから財布の紐もぐんと緩んだのである。」(p.239)
2012年の秋、観光客が激減した松島へ、鎌田さんたちは旅行されたそうです。旅行をすることが復興支援になる、という思いで。
おそらく、先(p.119)に引用した部分に書かれていたのと同じ旅行の話だと思います。
私も同じ思いでした。2011年4月、福島へ旅行する予定でしたが、妻も一緒ですから、さすがに危険な目には合わせられないし、復興のじゃまになってもいけないと思い、断腸の思いで中止にしました。その時、来年は絶対に行こうと決めたのです。
そして翌年の4月、妻とその友だちを連れて、キャンセルした会津のペンションへ行きました。閑古鳥が鳴いていました。潰れたホテルもありました。風評被害によるものです。悲しかったです。
「正直な果樹園だった。当時は果物は、500ベクレル以下は市場に出してもいい、食べてもいいというのがルールだった。1回検査をした証明書が付いていれば、もう検査をしなくていいのだが、それを敢えて2回目の検査を実施していた。
その結果、1種類だけ40ベクレルのブドウがあったが、他は全部検出限界以下だった。
見えない放射能に対して、できるだけ”見える化”するためには、100ベクレル以下ならOKとするのではなく、100ベクレル以下の数値がいくつなのかが分かることが大切なのだ。
40ベクレルと分かって、それなら食べてもいいと思うのか、それならば食べないと思うのか、どちらの人がいてもいいのだ。」(p.240-241)
たしかに、何を選ぶかはそれぞれの自由。そういう意味では「見える化」が重要だと私も思います。
しかし、そうであるからこそ、科学的な事実を伝えることが専門家の務めるのであり、やたら不安や恐れを煽るべきではないと思うのです。
「基本的には、たとえ1ベクレルであっても体にいいわけはない。特に子どもは注意した方がいいに決まっている。」(p.241)
こういうことを言うから、不安になるんですよ。だったらラドン温泉には入らないんですか? 子どもを入れないんですか? 飛行機には乗せないのですか? レントゲンは受けないのですか? そんなわけないでしょう。
毒物も少量なら毒にならないばかりか、むしろ身体のためになることがあります。だから基準値というのものがあって、それ以上でなければOKになっているんですよ。
それなのに、医師という肩書でこういうことを言う人が後を絶たないから、知識のない人が不安を煽られるのです。もちろん、鎌田さんにその意図がないことは、十分にわかっているつもりですがね。
「僕自身が66歳になり、店じまいのための準備をいろいろ始めるようになったこととも関係しているかもしれない。
店じまいと言えば、現在、わが国には独居老人は約600万人いると言われている。一人で生き、一人で死んでいく。そんなに難儀なことではない。ほんの少し、物事を、やわらかく考えられるようになれば、孤独死なんて怖くないのだ。
この本が、発想を転換するキッカケになってくれたらうれしい。」(p.270)
この本を書かれた時の鎌田さんは、今の私より5歳年上ですね。私も私なりに、自分の老後のこと、死のことを考えています。この本も、その考えを深める一助になりました。
「スイス・チューリッヒでは、自殺ほう助団体「エグジット」(EXIT=出口という意味)を訪ねた。ここは、終末期の苦痛を持つ人々の自殺をアシストする非営利団体である。医師とのインフォームドコンセントを経たうえで、自らの最期における思いを事前指示書に記した人々が会員となる。会員たちは、耐えがたい苦痛を伴う最期を迎えた場合、あるいは尊厳を失うような事態に陥った時、自らいのちを絶つための手助けをしてほしいという強い意志を持っている。」(p.278−279)
「施設内には家族に見守られながら致死薬を自ら飲み、わずか数分で静かに眠るように死線を越えることができる部屋があった。もし最期に強烈な痛みが襲ってきた時、この選択ができることはかなり魅力的だ。」(p.279)
世界には、安楽死を認める国がいくつかありますね。
私は、人には自殺する自由もあると思っています。賛同しない人は多いと思いますけどね。けれども、現に自殺したい多くの人が、毎年のように自殺しているのです。そうであるなら、むしろ自殺を合法化して、本当に自殺したいのか、他に方法がないのか、みんなで話し合い、考え合う機会を作った方が、よほど有益ではないかと思うのです。どうせ自殺されてしまうのであれば。
「多くの死を視ることにより死への訓練を重ねたはずのぼくらでさえも、自分の死がどのように訪れるかは皆目わからない。そしてどう対処したらいいのかもわからない。ぼくはオロオロし「死にたくない」と絶叫しながら死んでいくかもしれない。あるいはスイスに移住して、エグジットのお世話になるかもしれない。鎌田さんは死に際に「Thank You, Good Bye」という一言を予定しているらしいが、そううまくいくはずはない。
じつは練習などしなくても人間は確実に死んでいく。だが、死を受けとめようという意欲があるかないかで、死へのプロセスは格段に違ってくる。いままで、できるだけ遠ざけていた死が、かかわりたくなかった死が、確実に自分の前に現れる。死線を越えねばならない日が訪れる。しかもそれは苦の中にある、ということをこの書は認識させてくれる。」(p.283-284)
鎌田さんと仲のいい神宮寺住職の高橋卓志(たかはし・たくし)さんの解説から引用しました。
死を見ないようにするのではなく、しっかりと見つめることが重要だと、私も思います。
死は、必ずやってきます。ですから、そのことを考えておいた方が良いと思います。なぜなら、死を考えることで、よく生きることができるからです。
私は、妻への最後の言葉は「ありがとう」にしたいと考えています。だから日々、死を考えます。それは私の死かもしれないし、妻の死かもしれません。いつが最後になるかわからないから、いつでも最後は「ありがとう」で締めくくろう。そう思って、そうしてきました。
なので、本書に書かれていることは、いちいち腑に落ちます。改めて、これからも死を見つめて生きようと思いました。
2023年04月25日
縛らない看護
もう1年以上前になりますが、私が老人介護施設で働く中で「拘束」という問題がありました。つまり、利用者様の自由を奪い、抑制することです。単に「縛る」と言った方がわかりやすいでしょうか。
私は自由を愛する考え方なので、できれば拘束せずに介護したいと思っていました。それで、そういうことに関する本を買ったというわけです。
読まずに積読(つんどく)だけで1年が過ぎてしまいましたが、やっと読むことができました。
ただ、この本を読み終えた今、これによってすべてが解決したとは思えません。当たり前と言えば当たり前なのですが、考え方は人それぞれです。ある人にとっては、これで上手くいくと思えることが、他の人にはそう思えないということもあるのです。
ただ、その考え方の違いに、どういう視点があるかということは見えてきました。そういう意味で、ためになる本だったと思っています。
著者は、上川病院で理事長になられた吉岡充(よしおか・みつる)医師とそこで婦長を勤められた田中とも江(たなか・ともえ)看護師です。当時は看護婦と呼んでいた時代でしょうか。1999年発行の本ですが、本書では看護婦という言葉が使われています。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。なお、本書では本来は句点(、)となるところがカンマ(,)になっています。横書きのため、そうなっているのかもしれません。引用では句点に置き換えます。
「多くのスタッフが、
「縛らないと患者さんが危ないから、抑制は患者さんのためだ」
「縛らないと仕事が大変になるといわれたから」
「こんな少ないスタッフ数じゃあ患者さんを縛らなければとてもやってられない」
頭ではそんなふうに考えている。しかし、実際に縛るときは、
「かわいそうだと思うこともあった。仕事だからしかたがないという気持ち」
自分のときは他の人にくらべて少しゆるめに縛っていた」
「患者さんを縛るのはつらかった。子どもが大きくなるまで辛抱して勤めて、そこの職場からサヨナラしようと考えていた」
こんなぐあいに大部分のスタッフが、程度の差はあれ、”かわいそう”とか、”自分はいけないことをしている”という、うしろめたい気持ちを感じた経験があった。抑制に慣れることができずに、違和感をずっと感じつづけながら縛っていたというスタッフも多かった。」(p.3)
「抑制は患者さんのこころと身体を著しく傷つける。苦痛であるだけではなくて、食欲の低下や褥瘡(じょくそう)、関節の拘縮(こうしゅく)、心肺機能の低下、感染症への抵抗力の低下、痴呆の進行など、さまざまな不利益を確実に患者さんにもたらす。それは患者さんに無惨な死をもたらすことにもつながる危険な行為である。この弊害に比して患者さんにもたらされる利益は皆無に等しい。」(p.4)
田中看護師は、冒頭でこう語ります。つまり、「抑制」という行為はデメリットばかりでメリットはないのだと言い切っておられるのです。
それなのに、多くの医療関係者が疑うことなく抑制をしている。あたかもそれにメリットがあると信じて。
私は、2年間ほど老人介護の仕事をしてきましたが、田中看護師の考えには賛同できませんでした。抑制にメリットもあると感じているからです。
なお、ここで「痴呆」という言葉が使われていますが、現在では「認知症」という言葉が使われます。おそらく当時は「痴呆」が使われていたのでしょう。
「ベッドから落ちてしまう患者さんであれば、ベッドの枠を外して、床にマットレスを敷いてやすんでもらえばいい。病院だからといってベッドである必要はないのだ。」(p.12)
このように、やり方次第で抑制しなくても済む方法があると田中看護師は言います。しかし、それは1つの例にすぎないと思います。
ベッドから落ちて怪我を防ぐことだけが目的なら、この方法で対処できます。実際、私が勤める老人介護施設でもそうしています。しかし、立って歩いてしまう患者ならどうでしょうか? マットレスがないところで転倒するかもしれません。転倒した際、打ち所が悪ければ骨折とか脳挫傷とか、重症を負う危険性もあると思います。
「老人医療と、かつて私がたずさわった精神科医療は、患者さんが差別を受け、見捨てられやすいという点で似ている。抑制の問題も、かつての精神科医療の乱脈な歴史を背景に生じていると思う。そしてそのなかでの看護婦の扱われ方も患者さんたちと同様、利用され、差別され、見捨てられてきた。私にはそんなふうに感じられるのである。」(p.16)
田中看護師は、看護師は誰でもできる仕事だと低く見られて、差別されていた時代を経験されています。その自分たちが差別されてきたことへの反発が、同じように差別されていると感じる精神病患者や老人患者にシンパシーを感じる理由になっているようです。
実際、精神病患者に対する非人道的な扱いは、目を覆いたくなるものがありました。ひょっとしたら今もなおあるかもしれません。
本人の主張はまったく受け入れられず、抵抗すれば叩かれ、縛られ、薬によっておとなしくさせられる。そんな時代があったのは事実です。
それと、老人に対する医療も同じ面があると田中看護師は見ています。たしかに、そういう一面があるなぁと私も思います。
「老人病院では多くの場合、患者が点滴や経管栄養の管を抜く、ベッドから落ちる、オムツをはずす、などの理由で老人を縛っている。しかしそれが「治療」に名をかりた医療者の「手抜き」となり、漫然とした抑制となっていることが多い。痴呆があり体力の弱った老人を縛れば、ますます痴呆がすすみ体力が衰え、自立から遠のくことは自明のことだ。医療者は抑制という”技術”によって、みずから「手のかかる」老人をつくりだしているという悪循環を断ち切らなければならない。」(p.20)
これは骨折による入院で、身体的にも精神的にもレベル低下してしまうのと同じことですね。動かせないようにすれば、あっと言う間にレベル低下してしまう。それが高齢者なのです。
「また、転倒防止のためと称して抑制することも多くみかける。しかしその転倒しやすい状況こそ、病院で患者さんを寝かせきりにしたケアをおこない、足腰を弱らせ、歩行を不安定にした結果生じたことである。それを転倒防止というのはおこがましい。本末転倒というべきであろう。」(p.6)
たしかに、安静にさせるから体力が落ちて歩けなくなってしまうことはあります。けれども、ほとんどの病院が、骨折の治療は行っても、元の体力に戻るまでのリハビリはしてくれませんよ。同じことではないでしょうか。
さらに言えば、安静にさせることだけが足腰が弱る原因ではありません。動き回っているお年寄りでも、足腰が弱ってくることがあるのです。そんなお年寄りに、もっと動け! とばかりにさらに運動させることが、足腰を弱らせないことになるのでしょうか? 私にはそうは思えません。
「抑制はなぜいけないのか。動きたい患者さんを止めるからだけではない。たんに法律に書いてあることに違反するからではない。患者さんを縛りつづけることで、患者さんの関節は拘縮し、褥瘡ができ、感染症が頻発し、衰弱をもたらす。場合によっては抑制したことが決定的に患者さんの死期を早める。つまりそれは患者さんを殺したと言うに等しいことである。」(p.27-28)
「ある病院では廊下を徘徊する患者さんを全員抑制する。看護補助者はおむつをしてまわり、看護婦は褥瘡処置をして歩く。それで「忙しくて大変だ、人手が足りない」などという。しかし、その褥瘡の原因である寝かせきりのケアや抑制をやめれば褥瘡が減るということは考えない。」(p.28)
たしかにそういう面はあるかと思います。過剰な抑制によって、かえって患者のレベル低下を招き、看護者の仕事が増える。
けれども、現実的には抑制によって看護者(介護者)の仕事が減るということもあります。それは、私が実際に仕事をしているのでわかるのです。
田中看護師は一方的に抑制を悪だと決めつけ、攻撃的な物言いをされていますが、どうも客観性がないように感じます。
「一般にいわれている”問題”とされる”行動”には、必ずその人なりの意味や理由がある。
第一にまず「不快だから」という理由、第二に「その人なりの世界のなかで必然性がある」という理由である。前者にたいしてはその不快なことを取り除くことがケアの要諦になるし、後者にたいしては、行動自体が問題になることは少ないので、その行動によっておこりうる危険や問題のほうに対応する。」(p.30)
どんな人であっても、その人の世界観に照らして間違ったことはしない。それが、お勧めしている「神との対話」で言われていることです。行動には必ず、その人なりのまっとうな理由があります。
だからその行動そのものを制限(抑制)するのではなく、その理由にアプローチしたり、行動の結果をサポートすればよい。この点は、まさに言われるとおりだと思います。
ただ、それが実際にできるかどうかは、また別の問題だと思います。オムツはずしや弄便(ろうべん)が、その患者さんの不快感が動機だとして、何ができるでしょう? オムツを着けなければいいのでしょうか? オムツを頻繁に交換すればいいのでしょうか?
そうしたら、失禁したり、トイレ以外の場所で排便したりするかもしれません。頻繁にトイレに案内したり、オムツの様子を見て交換したりするなら、それは作業の増加を意味しますよね。
「そういった面ではスタッフはそれほどストレスと考えず、その患者さん特有のかかわり、個別的看護ができる場だと理解してケアにあたることがよい。
「また脱いでる」「またどうせ脱ぐから着せなくてもいいや」と考えず、「風邪をひきますよ」「みんなみていて恥ずかしいですよ」などと話しながら、すなわちコミュニケーションの場だととらえなおして対処してはどうだろうか。」(p.50)
私が勤める老人介護施設でも、脱衣行為をする利用者様が何人かおられます。その都度着させるのですが、いい加減にしてくれと言いたくなります。
その人にはその人なりの理由があり、脱ぐことを恥ずかしいことだとは思っていないのです。したがって、風邪をひくとか恥ずかしいとか、そんなことを言っても無意味なのです。そういう声かけではコミュニケーションが成り立ちません。まともに理解できない方たちなのですから。
その人が脱ぎたいのであれば、脱がせてあげればいいではないか。そういう考えも一理あると思うのです。抑制しないとは、そういうことではありませんか。
一方で抑制するなといいながら、もう一方では自分の価値観を押し付けて抑制しよう(=服を着せよう)とする。これは矛盾だと感じるのです。
社会で暮らす以上、いくら自分がそうしたいということがあっても、許されないことはあります。許されないことをしようとすれば、罰を受けたり、拘束されて自由を奪われたりします。その狭間で、できるだけそれぞれの自由を尊重したいと思う。思うけれども認められないこともある。
そうであれば、介護や看護の現場においても、抑制が必ずしも悪とは言えないとも思えるのです。
「そもそも理解力が低下している痴呆性老人が、入院の目的や治療の必要性をどこまで理解できるであろうか。そのような混乱状態に身体抑制が加えられれば、さらなる混乱状態に陥り幻覚や妄想が出現しやすくなるのは当然のことだ。
抑制され、制限された生活のなかで活動性は低下し、廃用性症候群は進行していく。この「つくられた廃用性症候群」はさらなる転倒しやすい状況をつくりだし、抑制がなかなか外せなくなる。身体・精神機能は着実に低下し、いずれ「転倒もできない」状態となる。つまり、不可逆的な寝たきり状態となっていくのである(図4)。」(p.77)
たしかにそういうことが言えると思います。
ただそのことと、ではどこまで自由にさせるのかということは、また別の問題があると思います。何でもかんでも自由にさせられないことは明らかです。
私も、自由の過剰な制限には反対です。意識がしっかりしているなら、そういう制限は受けたくありません。たとえ寿命を縮めるとしても、自分の自由にさせてほしいと思います。
けれども、意識がしっかりしていない人に対して、関わる人はどうすればいいでしょうか? 相手の自由を、どこまで奪っていいのでしょうか? 抑制の問題の本質は、そこにあると思うのです。
「しっかりと排泄をすませた痴呆性老人が、トイレへ行こうとするであろうか。不快な刺激を除去し全身状態をしっかり管理していれば、車いすベルトを使用しなくても、寝かせきりにせず、座位をとらせることはできる。」(p.93)
ある程度は管理できることには同意しますが、完全に管理することは不可能だと思います。
実際、自分自身でも、1日に何回、いつ排便するのか、その時にならなければわからないからです。一度済ませたから、その日はもう二度としない、なんてことはありませんよ。それに、毎朝決まった時間にしか排便しないなんてこともありません。
また、急に立ち上がって、不安定だから転倒するという人もいます。誰かがずっと付き添っているなら、立ち上がった時にフォローすることもできるでしょう。でもそれは、介護者や看護者の手間が増えることになりますよね。
「そこには「働いてやっている」という意識があったように思う。看護婦不足の時代には、「自分の資格でこの病院は成り立っている」という意識ばかりがあって、その病院で働いていることの幸福感、ハッピーさがない。」(p.102)
「「年寄りとはそういうものだ」「老人は日々、病院で時間をつぶしているだけだ」と考えるようになるのである。
廃用性症候群をつくる悪循環に目が行かないかぎりは、「ぐあいが悪くなって治療している結果おきたのだから、それはその人の寿命である」と患者さんを投げやりにみるようになってしまう。それは、「治療した結果こうなったのだから自分のせいではない」、ひいては「患者さんが悪い」という論理に容易にすりかわってしまう。」(p.103)
私には、ハッピーさがないのは田中看護師ではないかと感じます。看護師としての自分が差別されてきたことへの恨みがあるように思うのです。
同じように差別されていると感じた患者さんたちに寄り添うことで、自分自身を救おうとしている。そんな気がします。
たしかに、廃用性症候群を作ってしまうことがあるかもしれません。けれども、どうするのが正解かなど、一概には言えないと思うのです。
たとえば抑制しなかったことによって転倒して骨折し、廃用性症候群になって亡くなってしまったなら、それは死期を早めたことにならないのでしょうか? 抑制しなかったことによって死期を早める。そういうこともあり得ると思うのです。
「総婦長として私は「抑制をするな」といったが、スタッフは「はい、わかりました」と素直に返答しながら、隠れて抑制していた。「抑制しないでケアなどできるはずがない」「夜勤をするのは自分たちで、総婦長は理想論をいっているだけだ」などと陰で批判した。
これらの抵抗にたいして、吉岡充副院長(当時)が、「抑制したらかならずカルテに『縛った』と記録せよ」という命令をだした。」(p.107)
看護師たちも抑制には罪悪感を感じています。だって、他の人の自由を奪うことですから。その思いを利用して脅して実行したということですね。
「抑制帯の廃棄と管理者命令といった強硬手段によって抑制を「できなくする」一方で、昼間のケアを徹底することで、夜間に抑制を「しなくてすむ」よう努力もした。夜によく眠れるように昼間に起こす、夜に点滴をしないですむように昼間にご飯を食べさせる、というように、生活行為の多くを昼間に集中してある程度疲れさせるようにしたのである。すると、夜間の徘徊などが減ってきた。」(p.107)
こういう工夫によって、患者さんたちを管理した。その管理によって、抑制を減らしていけた。でもこれって、患者さんたちの自由を奪っていることと同じではないのでしょうか? それまで、昼間に食べたくなかったから食べなかったのでしょう。それに対して、無理やり食べさせるんですよね。
これに加えて、眠剤などで患者さんたちの精神性まで管理して、夜間の徘徊などを防ぐことがされています。それは、患者さんたちが望んでいることでしょうか? 薬によって自由を制限するなら、それもまた抑制ではないかと思うのです。
「私は病院に泊まり込んだ。これが、抑制しないと決めた私なりの責任のとり方だった。紐をなくしたことで患者さんに事故をおこしてはいけない。いや、抑制をしてもしなくても事故というものはおこるときにはおこるのだが、「抑制帯があればこういう事故にならなかったのに」といういいわけをさせたくなかったのである。同時に、「いままで抑制をせずに看護をした経験のない人に自分のやり方をみせる必要がある」とも思っていた。」(p.108)
「しかし、それでも心の底からは安心できないものである。そこで、私が病院にいないときは、「いつ電話をかけても、いつ呼び出してよい」ということにしておいた。」(p.109)
リーダーとして、自分の信念を部下に押し付けようとするなら、これくらいの率先垂範と自己犠牲が必要だということなのでしょう。
私は、田中看護師の方針が間違っているとは思いません。1つの方法だと思います。ただ、そうは思わないという人もいるわけで、そういう人たちを従わせようとするなら、こういう強権発動とフォロー(つまりリーダーシップ)は必要なのだろうなと思います。
しかし、患者の事故を防ぐためではなく、抑制しないから事故が起こるという言い訳(反論)をさせたくないから、という理由が何とも。田中看護師の思いの背景を物語っている気がしました。
「縛らない看護を実践するためのもっとも重要な条件は、強い信念をもったリーダーシップである。これは組織変革において不可欠だ。次に、スタッフの質である。必要ならスタッフの入れ替えもおこなわなければいけない。」(p.112-113)
リーダーシップが必要なのは言うまでもありませんが、従わない部下を切ることも必要だと言われるのですね。たしかに、そういう面もあるのかなぁと思います。
「また、看護職には患者の転倒にたいする恐怖感があるが、安全を配慮したら事故をおこすことはない。たとえば、転倒して事故になりやすい場所の環境を整えていく。滑りやすい廊下などは滑りにくい材質のものにする。転びやすい場所から障害物を取り除き、必要なら手すりを取り付けるなどである。転倒しやすいからといって抑制したのでは、患者のADLは低下し、ますます転倒しやすくなる。」(p.114)
たしかに転びにくくするとか、転んだ時に大怪我しないように環境を整えるとかは大切です。しかし、それで100%転ばないわけではないし、大怪我しなくなるわけでもありません。
たとえば、滑りにくくすれば、返って引っかかって転ぶかもしれません。手すりをつければ、それにつかまろうとして手を骨折したり、手すりに頭をぶつけて大怪我をすることもあります。絶対の安全などないのです。
それに、ぶつかって怪我をするようなものをすべて排除できないでしょう。椅子も机も取り除いて、壁と床だけの空間にするのですか? 不可能でしょう。
「一所懸命かかわっていることが家族の方にわかっていただけると、自分の親だけではなく他の患者さんや環境にまで目を向けるようになる。すると、「もしうちの母もこのようにしてもらえたら、たぶん転ばないだろう」とか、「これでうちの母が転んでも、治療と生活の場でこれだけの世話を受けているのだからしょうがない」というように、お互いが納得しあえる。どちらに責任があるかということではなく、お互いが納得できるかどうかが重要だ。開き直るのではない。それがほんとうの誠意だと私は思う。」(p.115)
もちろんこれも必須です。家族に納得してもらえる対応は欠かせません。
では、家族がそれで納得しなければどうしますか? 必ずわかり合えるとは言えません。それぞれ価値観が違うのですから。
他の患者のナースコールに応えている間に転倒し、それが元で状態が悪化して亡くなった患者の遺族が訴えて、病院側が敗訴した裁判がありました。ひどい裁判だと思いましたが、そういう現実はあるのです。
また、説明した一部の家族が納得したとしても、説明を受けてなかった他の家族が批判するということもあります。すべての人を納得させる方法などないのです。
「医師−看護婦それぞれの行為が越権行為ととらえられたり、お互いの不信感の増大につながるのを防ぐ方法は、やはり一緒に患者さんを中心に考えてみた結果をもちよりディスカッションしてみるしかない。そのためには医師も権威や体面を、人によっては男尊女卑の観念をすててテーブルについてほしい。」(p.142-143)
田中看護師は、看護婦だからと低く見られ、差別されてきたことが相当に堪えているようです。
私も、医師の尊大ぶった態度に辟易としたことがあります。何様のつもりだ!? と言いたくなりました。そんな医師の顔色をうかがうばかりで、患者の方を見ようともしない看護師の態度にも腹が立ちました。
やはり、みんなが対等なのだという価値観を共有することが、チームとして何かを成し遂げることにつながると思います。そのためにいちばん重要なのは、やはり権威がもっとも強い人(つまり医師)が、自ら態度を変えていくことだと思います。
「老人の患者の多くは病気であると同時に老化という自然現象であり、より長期的な視点が必要である。その病状は基本的には悪くなることはあってもなかなかよくはならない。その場合、安静やら治療的な管理よりも優先されるべき日常ケアが存在してもよいのではないか。たとえばこの患者さんは現在でも療養中であるが、もし理学療法士の意見どおりにしているといままでずっと1年以上も入浴せずに清拭くらいで過ごしてきたことになる。
悪い結果がでていたらどうするかという意見もあろう。たしかにそうであり、経験や勘やあるいは情緒だけにもとづく看護は避けるべきである。ただ、その疾患を抱えながら昨日まで入浴していたのが、診察の結果、明日から死ぬまで一生入浴できないというのも理不尽に思える。」(p.146)
「対象者の状況にあった「常識的な判断」をしてほしいということだ。その常識の判断の要素として老人の医療には、患者や家族の希望とともに、もっと看護やケアからのフィードバックが必要なのではないか。あまりにも看護婦はこれまで何もいわず、結果として老人の療養において患者の尊厳が、場合によっては人権が失われてきたのではないか。」(p.147)
これは私も同感です。医療を優先するために、治るとも思えないお年寄りの人権を損ねている気がします。
薬漬けにしてもそうです。ただ、医者などが脅すから、お年寄り自身も進んで薬漬けになり、自ら身体を傷つけていると見受けられる面もあります。
入浴に関しても、私はそのお年寄りの自由にさせていいと思います。入るなという強制も、逆の入れという強制も、本来はしてはならないことだと思うのです。
「この”だれでも”という共通点が、ほんとうの医療の出発点となる。ひらたくいえば、提供者側である私たちが”お互いさま”の気持ちをもって行動するということである。もっと煎じ詰めれば、「患者さんがもしあなたであるなら、そのとき、どういうふうにしてほしいと思うか、どうされたくないか」ということを念頭におくということである。この視点からでなければ、他人である患者さんに関心と思いやりとをもつことも、対等な関係、かかわりあいをもつこともできない。」(p.150)
吉岡医師のこの意識は、大変に素晴らしいと感じました。これはまさに黄金律です。
何ごとも自分がしてほしいように他人に対してしなさい。自分が望まないことは他人に対してもしないようにしなさい。これが、古くから世界中に伝わる黄金律、ゴールデンルールであり、大事なことだと思うのです。
「参考までに、Phillipsら(1993)の研究では、抑制された患者のほうが観察の時間などがふえて、人手がかかり、看護時間がふえて、ケアの費用も多くかかるとされている。であるから、スタッフが足りないから抑制するというのは、逆に人員不足に拍車をかけるということになる。」(p.185)
私の実感は真逆です。抑制することによってスタッフの労力が大幅に減ると感じています。
なぜなら、抑制すれば見守る必要がないからです。なのでここにある「観察の時間などがふえて」という意味がわかりません。見守る時間を減らすために抑制するのですから。
そうではないと言うのであれば、ずっとスタッフがつきっきりで見守ったらいいのです。それができるものなら、やってみたらいい。不可能でしょう。
こういうできもしないことを、まるで可能であるかのように言うから納得できないのです。
もちろん、工夫することによって、見守りの効率を上げることは可能です。しかし、だからと言って完全にはできません。誰かを介助していれば、他の人に対してはおろそかになります。その間に事故が起こることはあるのです。
その可能性があるなら、その間だけでも抑制するという選択肢を、最初から排除すべきではないと思うのです。
「看護職はなぜか医師モデルで行動している場合が多く見受けられる。すなわち、医師の価値観で考えて、その視点で患者をとらえる。患者を抑制してまでおこなわなければいけないのかどうか、患者の立場で考えられるのは看護職である。看護職が患者を守らずして、だれが守るのか。疾病が治療され、生命が維持される。しかし人間の命というのは長らえればいいというものではない。」(p.200)
これには私も同感です。医師の方ばかり見ている看護師が多いのは事実だと思います。
私が経験した例ですが、末期がんの患者に対して、医師が毎日の体重測定を命じたことがありました。座っているのも、動くのさえも苦しそうにされている。私は、こんなに苦しんでいるのだから、それをさらに苦しめる体重測定に何の意味があるのかと看護師に尋ねました。するとその答えは、医師に聞いてくださいとのこと。患者が苦しんでいることなど、どうでもいいのでしょうね。
正解というのはありませんが、私も、ただ生きることには意味がないと考えています。自分らしく生きられないのであれば、それはもう死んでいるのと同じこと。私はそう考えるのです。
「奥川−看護側からみると怒りがでてくるでしょう。「こんなになっても、なぜ家族や本人は”もういい”とはいわないんだ」と腹が立つでしょう。看護側がいまの老人の医療をもう少し洞察しなければいけないですよね。それは看護婦さんにできるのですか。それとも医者の責任ですか。
吉岡−たぶん医者の責任でしょう。
奥川−看護婦も医者も、私も含めてだけれども「こんな状態になってまで生きていたくない」とみんないうわけです。存在を否定しているわけです。そうまでして生きている存在とは一体何なのか。でもお仕事だからだれもそんなことは問いかけないでやっている。」(p.213)
ソーシャルワーカーの奥川幸子氏と田中医師との対談から引用しました。
どんな状態であっても生きていることが重要なのか、それとも状態によっては死を選ぶ方が重要なのか。難しい問題ではありますが、この問を常に自分の中に持ち続けなければならないと思います。
「僕にとっては信念ではなくて習慣だろうと思う。当たり前だから、そこらへんが説明しにくいし説明できない。
うちの病院でも付き添いが夜などに縛っていたことがあったわけで、それを一掃しようと動き出し、外に向かって発言し、他の病院も「縛るな」といいはじめた。外に向かって発言をしたときに、習慣ではなくて信念になった人もいる。」(p.226)
なぜ縛らないのかという問いに対しての吉岡医師の答えです。
つまり、信念からそうしたわけではなく、習慣からだと言うのですね。そうしていたからそうしただけだと。そして、そうしているうちに信念が芽生える。理由は後付けなのです。
ここが私がひかかる部分なのです。なぜ結論ありきなのか。結論ありきで自分の考えを他者に押し付けようとすれば、当然、反発されるでしょう。考え方は人それぞれですから。
しかも、その自分の結論を他人に押し付けるのに、後付けで理由を考えて提示する。だから矛盾が生じるのです。
正直に、理由はないが私は抑制したくないから縛るな、と言えばすっきりするのです。そして、権威者として集団の方向性を決めるのだから、それに従えと言えばいいのです。
「吉岡−転倒は48床で年に2例ぐらいですか。
奥川−少ないですね。
吉岡−いや、骨折までいったような大きなものだけです。」(p.227)
漫才ですか? と、吹き出しそうになりました。
やはり転倒しているのです。転倒事故を防げていないのです。あれだけ大口を叩きながら、年に2例も骨折するような大怪我をする患者を出している。
そうであれば、やはり事故は防げますみたいなことはウソであり、言うべきではないと思うのです。
「田中−「縛らない看護」というのは、自尊心をケアすることといいかえられると思います。お年寄りの尊厳を守るケアといってもいいでしょう。その人らしさを保障し、安心できる状況をつくり、ご本人もご家族も満足のいく最期を迎えられる、そのためのケアを保障するということですね。それは看護師の誇りにもつながることです。」(p.232)
「治療を優先するあまり患者さんの「思い」が無視されたり、医療者側の都合で業務が組みたてられるのは、私はがまんがなりません。」(p.234)
「宮下−思いがわかると、患者さんのことを知りたくなる。私ね、患者さんのことがせつなくなるぐらいわかれば、なんとかしたくなって、はじめて知識をつかいたくなるって思うんです。それで貢献できて喜びが生まれる。
そこで思うのは、ほんとうに患者さんのことを知りたければ、聞く相手は患者さん本人と家族しかいないわけです。」(p.240)
これは田中看護師と、聖マリアンナ医科大学横浜市西部病院救命救急センター婦長の宮下多美子氏との対談からの引用です。
吉岡医師とは違い、田中看護師は信念から縛らないことを実践されたようです。
私は、この考え方には賛同します。病気が治らないとか怪我をするとかよりも、自分らしく生きることが優先されるべきと思うからです。
しかし、ここでも問題が残ります。自分の考えを表現できない患者さんはどうしますか? 患者さん自身とその家族で、考え方が違っていたらどうしますか?
また他にも難しい問題があります。それは、他の患者(利用者)との関係です。共同生活になりますから、そこではいくら自分がやりたいと言っても、やってはならないことも出てくるからです。
自宅であれば、好き勝手にどこにでも放尿排便すればいいでしょう。誰も困らないのですから。けれども共同生活の場であれば、そうはいきません。言ってもわからない人に対して、どうすればいいのでしょうか?
「縛らない」ということは、理念的には理想だと思います。けれども、現実的には様々な問題があると思っています。
その絶対的な答えがあるのかと思って本書を読んでみたのですが、私には疑問が残っただけでした。
もちろん最初から、そうではないかと思っていたのですけどね。それだけ難しい問題であり、本質的な問題であり、これからも考え続けなければならない問題だと思います。
そういう中で、1つの考えとして、実践例として、現に実行されてる方の意見は、傾聴に値すると思いました。
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