2023年03月03日
スパイ
NHK党の立花党首がYoutube動画で、欲しい人に差し上げると言っておられたので応募して入手した本になります。
著者の坂東忠信(ばんどう・ただのぶ)氏のことを誤解して批判したお詫びとして、立花党首が10冊くらいまとめ買いしたものだそうで、ありがたく頂戴しました。
坂東氏は、北京語が話せる警視庁の刑事として、中国人関連の犯罪捜査などを手掛けてこられたそうです。今はジャーナリストとして活躍しておられ、国策に関する提言もされているようです。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「ところが日本にはまずスパイ行為を取り締まる法律がありません。そのため、公安も「防」諜活動とはいいながら「観」諜がいいところで、スパイは野放し、技術は取られ放題で、取られた技術がスパイを代行し、あなたの背後霊のごとくあなたを見守り続けていても、ポケットの中にスパイが入っていても、あなたは気づかないのです。」(p.6)
「はじめに」でこのように今の日本の問題点を指摘されています。
私も、日本の防諜に関する法整備などの立ち遅れは、中国に好きなようにされる原因になっていると思っています。また、北朝鮮による拉致問題のように、甚大な人権侵害を引き起こしているのも、他国の工作活動を阻止できない日本の現状に問題があると思っています。
「中国性端末の場合、既に北斗衛星の電波を受信できる北斗衛星対応チップが入ってますし、最初から位置測定のプログラムを仕込んだアプリが端末内に常駐している可能性が高い。だからあなたがどこにいようとも、グルメ店やショップで検索すれば、現在地付近であなたが探したいものが表示されるのです。つまり爆安価格に浮かれて中華端末を使っている日本のユーザーの位置情報は既に常に把握され、必要に応じて中国側監視組織に抽出される状態になる可能性が極めて高いのです。」(p.22-23)
たしかにこういうことはあると思います。ですが、私は中国製のスマホを使っています。私の情報を取ったところで、何の役にも立たないと思うからです。私は日本国を動かすほどの地位や技能もないし、そういう人との付き合いもありませんから。
そして、中国が情報を抜き取れるのであれば、Googleなどのグローバル企業やアメリカだって同じことができるわけです。そもそもGPSはアメリカ軍のものですが、中国が北斗によって追随しているだけです。もちろん、日本も含めて欧州も、独自の位置測定機能を持つ衛星を打ち上げています。
なので、それなりの地位にある人、技能を持っている人、そういう人の関係者であれば、いろいろ考えてスマホや使用するアプリなどを選定する必要があろうかと思います。
「この「特定秘密保護法」をスパイ防止法と勘違いしている人がいますが、これは残念ながら別物です。特定秘密保護法は指定された秘密、これに接することのできる人の審査基準、特定秘密情報に接することを許可された人の保秘義務を課し、これに罰則を付しています。その対象は主に公務員などで、これら秘密の事項に関連する組織や人員も保護法適用の対象になるというものです。」(p.77)
「つまり、例えばスパイがその団体に属する人に不正な方法で情報を引き出させ、その情報を得た場合、引き出した本人は処罰されても、それを受け取ったスパイ自体は対象になっていないため、その情報を盗むなどの違法性がない限り罰せられません。そういう意味で特定秘密保護法はスパイ防止法をカバーしてはいないのです。」(p.77)
これもあまりよく知られていないことかと思いました。日本には、外国人によるスパイ活動を禁止する法律、処罰する法律がないのです。つまり、日本はスパイ天国だということですね。
「だからこそ日本以外のG7を始めとする先進諸国は、スパイ行為を行う者に対しては、死刑を含む厳罰で臨んでいるのですが、どうも日本の内閣も政党も、外国機関のスパイを検挙したくない模様。したくないというより、明確に「スパイの検挙反対!」とかいい出しそうな、まるで政界工作を実施中ではないか? と誰の目にも明らかな政党がありますよね。」(p.79)
だから日本はアメリカからも信用されず、機密情報の共有がなされないのです。
「政治の世界は国のために働くものばかりで構成されているのではなく、スキがあれば自分の業界や自分の商売のために他人を利用し国家を動かそうとする人材も混在しています。肩書を使って商売を国策に乗せれば莫大な金儲けにつながりますし、政治家も金がなければ立候補もできず、党内で発言力を持つこともできない。しかしそこに他国が工作で付け入るスキを見つけ、影響力の根を伸長しようとする。
これが日本の国会の現実です。」(p.91-92)
坂東氏はいくつかの事例を示すことで、日本が他国に好きなようにされていると主張されています。たしかに、こういうことがあるんだろうなぁと思います。
「中国は今、通信網からファーウェイ等の特定された通信関連企業を排除して情報を共有しようとするファイブアイズ(イギリス・アメリカ・オーストラリア・ニュージーランド・カナダ)と戦い、世界シェアを確保して通信網を押さえようとしています。またその他の分野においても、世界への影響力を保持するため、世論工作に力を入れているのです。日本側もそんな彼らと積極果敢に戦っていかないと、各界の多方面に権力を持つ会長や社長など、各企業トップにある老人情弱者の一存で、中国企業の傘下に入ることになりかねません。」(p.126)
「正しい知識と客観的分析により、しっかりと主観を主張できる自分を持つことが、世論戦に打ち勝つ秘訣と言えるでしょう。「みんなが言ってる」「新聞が伝えている」という多数に流されることなく、多角的に情報を捉え、徹底的に精査しながら、あなたがあなたであるために、あなたの意見を大切にしてください。これが世論戦に勝つための秘訣だと私は思います。」(p.127)
「つまり、中国の国安の日本国内での暗躍を許し続ければ、彼らに脅され中共に実家を人質に取られた留学生を含む一部の中国人は、組織的な破壊活動さえ実施する可能性があるのです。中国としては当然それ単体でやるはずがなく、その動きを正当化するための、あるいはその反発を緩和するため、マスコミやネット世論工作員集団「五毛党」を連動させて世論を誘導し形成して、中国に対する制裁や在日中国人への「弾圧」を阻止するでしょう。」(p.128)
中国は今、国家総動員で情報戦を仕掛けています。そういう中で、危機意識がまったくないのが日本の多くの国民だと私も感じています。
けっきょく、国民のレベル以上の政府にはならないのです。この国民にしてこの政府(政治家)あり。逆に言えば坂東氏が言うように、国民がレベルアップしなければ、日本を守ることすらできないのでしょう。
「G7などの主要国でスパイ防止法も処罰規定もないのは日本だけ。多くの国では多数の国民の生命や健康、財産を失う可能性のあるスパイ行為に対しては、死刑を含む厳罰をもって、その外国人工作員や自国民の協力者を処罰することを定めています。一方日本では死刑か無罪かの両極端しかない外患誘致にかかわる法条文程度しかないため、その運用には前例がありません。その組織的行為にかかわるようになった経緯や結果などから、情状酌量を含め段階的にこれを評価しつつ処罰可能な規定が必要なのです。」(p.193-194)
坂東氏はこのように、スパイ防止法制定の必要性を訴えています。
たしかに国家転覆が目的として明確な違法行為であれば、死刑もやむなしと言えるかもしれませんが、ちょっとした情報の流出に関しては、協力者を処罰することしかできないのが現状ですからね。
考え方はいろいろあるかと思いますが、日本の現実を客観的に知るということは、何よりも大事なことではないかと思います。
スパイ防止法に限らず、処罰を伴う何らかの規定を作ることは、権力を増強させることにもなります。そういう意味で私は、規則はできるだけ少ない方が良いと考えています。
しかし現状、日本という国、日本国民の健康で安心できる暮らしを守る上で、様々な機密があることも事実かと思います。そうであれば、それを守るために必要な策を講じることも、また求められることではないかと思うのです。
ぜひ、こういう本を読んで、考えてみられてはどうかと思います。
2023年03月14日
LIFE SPAN(ライフスパン) 老いなき世界
これもYoutubeの本の要約動画を観て、興味を持って買った本になります。
それにしても500ページもある分厚い本だとは思いませんでした。そしてこの本もけっこう冗長な書き方になっていると感じました。
前に読んだブルー・ゾーンは小説的な書き方で冗長だったのですが、この本はそこまでではないにしても、結論にはどうでもいい記述が多すぎます。もっと圧縮して書けば、半分くらいのページ数で書ける内容ではないかと思いました。
そんな冗長な書き方ではありますが、書かれている内容は、ものすごく考えさせられるものでした。
著者は2人いて、デビッド・A・シンクレア氏とマシュー・D・ラプラント氏。しかし、シンクレア氏の方が大きく太く書かれていて、ラプラント氏の方は小さい扱いです。どうやら研究者としての著者はシンクレア氏ですが、ラプラント氏は物書きのようで、シンクレア氏の語る内容を読者受けするように書き改めることをされたのではないかと思われます。日本だったら編集者とかゴーストライターがするような作業ですね。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
「ヴェラは「運転っていうのはこうやるのよ」といって、車線を全部またいで車をジグザグに走らせたり、カーラジオから流れる音楽に合わせて車にダンスを踊らせたりしてみせた。若さを楽しみなさい、若いという感覚を味わい尽くしなさい。それが祖母の口癖である。大人って奴らは、決まって物事を台無しにする。大きくなるんじゃないよ。絶対に大人になるんじゃない。
六十代を過ぎて70歳をゆうに超えても、ヴェラはいわゆる「気持ちの若い」女性だった。」(p.21)
シンクレア氏のお祖母様の話です。このように若々しかったお祖母様も、80代半ばには抜け殻のようになっており、最後の10年間は見るのもつらい状態だったそうです。
私も今、老人介護施設でそういうお年寄りの世話をしていますが、ただただ死を待つばかりの抜け殻のような人生に、いったい何の意味があるのだろうと思わざるを得ません。
「しかし、平均寿命が上昇を続ける一方で、最大寿命のほうはそうなっていない。記録をひもとけば、100歳に達した人はいるし、それより何年か長く生きた人もいた。だが、110歳に届く人はごくわずかしかおらず、115歳を迎える人となると限りなくゼロに近い。」(p.34)
「もう1つ考えないといけないのが、寿命を向上させることと、元気でいられる期間を長くすることは違うという点だ。私たちはその両方の実現を目指すべきである。痛みや病や、虚弱や体の不自由に苦しむことがすでに生活のすべてになっているのに、ただ死なさずにおくだけのために人生をさらに何十年も長引かせるのは、道義的にいって許されることではない。」(p.35)
私も共感するところですが、世間にはそう思わない人も大勢います。だから、寝たきりで意識があるかどうかもわからない人を、胃ろうなどで生きながらえさせている。それを望む家族もいるのです。
「そもそも寿命の上限とは何だろうか。そんなものがあるとは思わない。私と同じ分野にいる研究者も多くが同じ意見である。老化は避けて通れないと定めた生物学の法則など存在しないのだ。」(p.36)
生きていれば老化し、いつかは亡くなるのが当たり前。疑いもせずそう信じていましたが、シンクレア氏は、科学的にはその見方は正しくないと言うのです。
「20世紀の前半までは、生物は老いて死ぬのが「種のため」だとする見方が一般的だった。この考え方はアリストテレスにまで遡る(それより古くはないにせよ)。一見すると正しいように思えるし、人が集まってこの話題になればそういう説明をよく聞く。だがこれは完全な間違いだ。私たちが命を終えるのは、次の世代に道を譲るためなどではない。」(p.51)
「限りがあるために、生物が進化していくと、まったく異なる2種類の生活様式のあいだのどこか中間に落ち着く。2種類とは、速いペースで子をつくって早く死ぬか、遅いペースで子をつくって丈夫で健康な体を長く維持するか、だ。その両方ともを成し遂げるには、単純にエネルギーが足りない。」(p.52)
「利己的な遺伝子を伝えていくうえで現状の体の基本設計に不都合がなければ、自然選択の力は不死を選ぶ方向には働かない。だから個々の生物が永遠に生きることがないのである。そのうえ、すべての生物にとって資源は限られているため、もてるエネルギーを生殖と長寿のどちらかにだけ振り向けるようにしんかしてきた。」(p.53-54)
多くの生物は、比較的に早い段階で成熟し、生殖をして子孫を残そうとします。ただそうするとエネルギーを使い果たし、早く死ぬことになる。そういう理論があるようです。
「老化細胞は、分裂能力を失ったにも関わらず死滅するのを拒んでいる。そのうえ、パニックシグナルを吐き散らして、周囲の細胞に炎症を引き起こす。この老化細胞を取り除くか、そもそも蓄積させないようにできれば、体の組織はもっと長いあいだ健全な状態を保てるはずだ。
テロメアの短縮や、タンパク質恒常性の低下や、ほかの典型的特徴についてもすべて同じことがいえる。一度に少しずつでいいからこれらを1つ1つ食い止められれば、人間の健康寿命を長くできる見込みが大きい。」(p.62)
老化細胞が慢性炎症を引き起こし、身体全体を老化させているということです。その結果、人は老い、死に至るのだとシンクレア氏は言います。
「クローン技術が見事に証明している通り、私たちの細胞は若い頃のデジタル情報を高齢になっても保持している。若返るためには、傷を取り除く研磨剤を見つけさえすればいい。」(p.70)
つまり私たちの細胞の本来の姿はDNAによってデジタルなデータとして保持されており、その読み取りにおいて、CDに傷がついた時と同じように齟齬が生じていて、それによって老化という現象が生じているということなのです。
「たとえば、ヒトの遺伝子の70%ほどは出芽酵母と同じだ。また、その遺伝子を使って酵母がしていることも、私たちと大きく変わるわけではない。人間も少なからずそうであるように、酵母細胞はたいてい2つのことのうちどちらかをしようとしている。食べようとしているか、生殖しようとしているかだ。いってみれば、つねに腹をすかせているか欲情しているかのどちらかというわけである。年をとると酵母は動きが鈍くなり、丸く太って、生殖能力も衰える。これもたいていの人間と一緒だ。ただし、人間がこの一連のプロセスを経るには何十年もかかるのに対し、酵母細胞は同じことを1週間で終える。だからこそ、老化の謎の解明に乗り出すうえで格好の出発点になってくれるのだ。」(p.82)
老化というのは、生物全般を通じて同じことが言えるとシンクレア氏は言います。だから、それをより短期間で見せてくれる酵母細胞を材料として実験することで、老化現象を解明できると言うのですね。
「これを実感するには、片方はタバコを吸うが片方は吸わない一卵性双生児の写真を並べてみればいい。互いのDNAは依然としてほぼ同じでありながら、喫煙者のほうは目の下や下あごのたるみが大きく、目や口の周りのしわも多い。年齢は変わらなくても、明らかに早く老化している。一卵性双生児の研究からは、長寿に対する遺伝子の影響が10〜25%であることがわかっている。どう考えても、驚くほど低い数字というほかない。
DNAが私たちの運命を決めているわけではないのだ。」(p.93-94)
DNAによって老化や寿命が決まっているわけではない、というのが科学的な結論のようです。
「こうした初期の成果に加え、その後10年かけて哺乳類の細胞を対象に実験と考察を重ねた結果、老化に関するまったく新しい理解が生まれた。それが「老化の情報理論」である。この理論で説明すると、一見ばらばらに思える老化の要因が矛盾なく並び立ち、1個の普遍的な生死のモデルへと統合される。それを大まかに表すと次のようになる。
若さ→DNAの損傷→ゲノムの不安定化→DNAの巻きつきと遺伝子調節(つまりエピゲノム)の混乱→細胞のアイデンティティの喪失→細胞の老化→病気→死」(p.99)
つまり、老化も死も必然的なものではなく、DNAの損傷を上手く修復することができないことから生じる現象だということです。
別の言い方をするなら、DNAの損傷を上手く修復できるようにしたなら、人(生物)は老化することもなく、死ぬこともない、ということなのです。
「生物の老化について明らかになった数々のことはすべて、たった1つの重大な結論を指し示している。それは、老化は避けて通れないものなどではなく、「幅広い病理学的帰結を伴う疾患のプロセス」だということだ、と。こういう風に捉えると、がんも心臓病もアルツハイマー病も、一般に加齢と関連づけられるほかの色々な状態も、それら自体が病気なのではなく、もっと大きい何物かの個々の症状にすぎないことになる。
平たくいえば、そしてより一層思い切った言い方をするならこうなる−−老化そのものが1個の疾患なのだ。」(p.138)
これはかなり踏み込んだ主張だと感じました。つまり、老化という病気が進行しているのであると。
しかし、これはあり得ると思っています。お勧めしている「神との対話」でも、人体は永遠に生きるように創られているとありました。まさかと思いましたが、本書を読むと、その可能性が十分にあるなぁと思えるのです。
「一度倒れてしまったら、仮にそのときは立ち上がれても、再び転倒する確率はいや増すばかりだ。ハードルを1つ取り除いたところで、行く手の危うさが減るわけではない。だからこそ、個々の病気を治療するという現行の対処法ではうまく行かないのである。高額な医療費がかかるうえに、健康寿命を大幅に伸ばすうえではまったく役に立たない。私たちに必要なのは、ハードルをすべて取り払ってくれるような医療だ。」(p.155)
「老化は1個の病気である。私はそう確信している。その病気は治療可能であり、私たちが生きているあいだに治せるようになると信じている。そうなれば、人間の健康に対する私たちの見方は根底からくつがえるだろう。」(p.160)
加齢によって、次々と押し寄せてくる様々な病気に対して、個々に対処していても切りがないのです。いずれ限界を迎えます。抜本的な解決策が必要です。それが、老化を防止するということなのですね。
「私は約25年にわたって老化を研究し、何千本という科学論文を読んできた。そんな私にできるアドバイスが1つあるとすれば、「食事の量や回数を減らせ」である。長く健康を保ち、寿命を最大限に延ばしたいなら、それが今すぐ実行できて、しかも確実な方法だ。」(p.171)
少食が寿命を延ばすということは、これまで多くの実験でも明らかになっているし、ヒポクラテスに始まる多くの人々、日本では水野南北なども、同じことを言っています。
「1978年には、100歳以上の住民が多いことで知られる沖縄で、生体エネルギーを研究する香田靖雄が1つの発見をした。沖縄の児童の摂取する総カロリー量が、本土の児童の3分の2に満たなかったのである。当時の沖縄では成人の総カロリー量も少なく、本土の成人より約20%も低かった。沖縄の人々は長生きするだけでなく、健康寿命もまた長いことに香田は気づく。しかも脳血管系疾患、悪性腫瘍、心臓病が非常に少なかった。」(p.175)
前に紹介した「THE BLUE ZONES 2ND EDITION」でも沖縄の人々の食事のことが紹介されていました。たしかにそういうことがあったのかもしれません。
でも、そうであれば、飢えていた人々が暮らす地域ではみな長寿だったでしょうか? そういうこともふまえて結論を出さなければ、公正ではないと私は考えています。もちろん、1つの考え方としては尊重しますがね。
「こうした地域を調査したり、自分の生活に断食を取り入れようと思って色々な研究結果を調べたりすると、1つ気づくことがある。継続的にカロリーを制限する方法はいくつもあり、その多くはいわゆる「間欠的断食」のかたちをとるということだ。つまり、絶えず空腹でいるわけではなく、一定の時間だけ体を飢えさせる。それによって、サバイバル回路を始動させるのである。」(p.184)
16時間断食や12時間断食、週末1日断食や半日断食など、間欠的断食法はたくさんありますね。胃腸を休ませる効果とか、空腹によってオートファジーを活性化させる効果があるとされています。
そうすると長寿のために重要なのは継続的な「飢え」ではなく、一時的な「飢え」が継続することになるかと。一言で言うなら「少食」ですね。それが難しいから「間欠的断食」になるのではないでしょうか。
「アミノ酸を摂取しないと、私たちはかなり短期間で死ぬ。アミノ酸は有機化合物で、人体のあらゆるタンパク質を組み立てる材料だ。アミノ酸(とくに体内でつくり出せない9つの必須アミノ酸)がなければ、細胞は酵素を生成することができない。そしてこの酵素こそが生命に欠かせないものであり、生命活動の源となっている。」(p.185)
このようにタンパク質を摂取することの重要性を強調されていますが、一方で動物性タンパク質(肉類)の摂取には否定的です。
「動物性タンパク質にマイナス面のあることは、ほとんど議論の余地がない。動物性に片寄った食生活を送っていると、心血管系疾患による死亡率とがんの発症率が共に高まることが数々の研究で報告されている。加工した赤身肉はとくにいけない。」(p.186)
このように言われるのですが、私にはまだ疑問があります。消化されてアミノ酸に分解された時、それが植物性由来なのか動物性由来なのかを識別できるのでしょうか? もし識別できないのだとすれば、どうして動物性タンパク質は身体に悪く、植物性なら良いという結果になるのでしょうか?
まだまだ解明されていないことが多々あるように感じます。
「エネルギーの観点からいえば、嬉しいことに植物性タンパク質からでもすべてのアミノ酸を摂取できる。ただし、同じ重さで比べた場合、植物からでは概して摂り込める量が限られるのが玉にきずだ。
ところが、健康で長生きするという観点からすれば、それがかえって幸いする。というのも、体内でアミノ酸全般が欠乏していたり、どれか1つのアミノ酸が一時的に不足していたりする状態は、サバイバル回路を作動させるのにちょうどいいストレスになるからだ。」(p.186-187)
「どれも生きるうえで欠くことのできないアミノ酸だとはいえ、たいていの人は少ない量でも間違いなく耐えられる。その量を抑えるには、一般に「良質の動物性タンパク質」とされる鶏肉や魚や卵を減らせばいい(ただし、身体がストレスを受けているときや怪我からの回復期を避けて行うのが得策だ)。」(p.188)
つまり、植物性たんぱく質だと何らかの不足が発生することがあるため、それが身体にとっては適度なストレスとなるわけですね。間欠的断食と同じ理屈です。
「様々な運動習慣をもつ数千人の成人を対象に血液細胞のテロメアを調べた結果、1つの際立った相関関係が認められた。頻繁に運動する人ほど、テロメアが長かったのである。」(p.190)
「長寿遺伝子がどのようにして働くかを考えればすべて合点が行く。つまり、原初のサバイバル回路を始動させることが肝心なのだ。サバイバルモードに入れと細胞に命じさせるには、なにも食物の摂取量を減らしたり、アミノ酸を摂りすぎないようにしたりするだけがすべてではない。そもそも運動とは、体にストレスを与えることにほかならない。運動をするとNADの濃度が上昇し、それが今度はサバイバルネットワークを作動させる。そのおかげでエネルギーの産生量が上がり、筋肉は酸素を運ぶ毛細血管をさらに増やすようになる。AMPK、mTOR、サーチュインといった長寿関連の物質は、カロリー摂取量にかかわらず運動によって正しい方向に調節される。そして新しい血管をつくらせ、心臓や肺を健康にし、体を丈夫にし、くだんのテロメアを長くするのだ。」(p.191)
「すると、プラスの健康効果をもつ運動形態はいくつもあったが、健康を増進する遺伝子を一番多く活性化したのは「高強度インターバルトレーニング(HIIT)」だった。これを行うと、心拍数や呼吸数が著しく上昇する。高齢の被験者ほど、HIITによる活性化効果が多かった。」(p.192)
長寿の人々の特徴として、食事量が少なめで、肉類はあまり食べず、豆類や野菜類を多く食べるという食事の他、日常生活の中に適度な運動が取り入れられていることがあるそうです。
現代人はデスクワークが多く、日常生活の中で運動することが少ないのですが、何かしらの運動を習慣化することが重要だと言えそうです。
私も、毎朝、HIITを行っています。4分間ではなく、わずか2分間ですが。立ち仕事をしているので、それほど運動をしなくても、1日の運動量はけっこうあると思っています。
「さらにいえば、少しばかり寒さを味わうことで、褐色脂肪のミトコンドリアを活性化させるのもいい。じつに単純なことだ。冬にTシャツ1枚で、ボストンのような街を早足で歩けばいい。褐色脂肪組織をつくるペースを上げるには、寒いなかで運動するととりわけ効果が高いようである。夜通し窓を1枚だけあけておいたり、眠るときに暑い毛布を使わなかったりするのも1つの手かもしれない。」(p.201)
身体に適度なストレスを与える方法としては、寒さに身を置くことがあるそうです。日本で暮らしていれば、たいてい経験できそうですね。
「生命に終わりが訪れなければならないような法則は、生物学的、化学的、あるいは物理学的に調べても見当たらないのである。確かに、エピゲノムの情報が失われて無秩序へと至るわけだから、老化はエントロピーの増大といえなくもない。しかし、エントロピーが増大するのは、外部の環境と切り離された「閉じた系」の場合だ。生物は閉じた系ではない。必要不可欠な生体情報を保存でき、宇宙のどこかからエネルギーを摂り込める限り、生命は永遠に存続する可能性を秘めている。」(p.214)
最初の方でも書かれていましたが、論理的には死は必然ではないということですね。ただ、そういうことが現実になるには、まだまだいろいろなことの解明や、老化を防止する方法の開発など、いくつもの段階があるということのようです。
「その後も何百件という研究結果が発表され、レスベラトロールが数十種類の病気(種々のがん、心臓病、脳卒中、心臓発作、神経変性、炎症性疾患、創傷治療など)に対して予防効果を発揮するほか、マウスの健康と回復力を全般的に高めることが報告されていった。私たちとデ・カーボとの共同研究では、レスベラトロールを間欠的断食と組み合わせると、断食のみでは達成できない長さまで平均寿命と最大寿命を共に延ばせることを発見した。」(p.233-234)
レスベラトロールという物質を摂取するとサーチュインを活性化させて寿命を延ばすことができるのだそうです。
「NADはナイアシン(ビタミンB3)から生成される。これがひどく欠乏すると、皮膚炎、下痢、認知症、皮膚のただれなどが生じ、放置すれば死に至る。しかも、NADは体内で500種あまりの酵素に利用されているため、NADがなければ私たちは30秒と生きていられない。」(p.236)
「十分な量のNADが存在しなければ、サーチュインはうまく仕事ができない。ヒストンからアセチル基も外せなければ、遺伝子も抑制できず、寿命も長くできない。レスベラトロールがサーチュインを活性化させて寿命を延ばせるのも、そのことに私たちが気づけたのも、NADがあればこそだったのである。」(p.236-237)
「NAD増強分子は、マウスの様々な病気を治す効果をもつとともに、老年期に与えてもマウスの寿命を延ばすことができる。また最新の研究からは、NAD増強分子が人間に対しても似たような健康効果を(マウスとまったく同じでないにせよ)もたらすことができると強く示唆されている。」(p.241)
「NRかNMNを入れた飲み物を動物に与えると、体内のNAD濃度はそれから2〜3時間で約25%上昇する。」(p.238-239)
このあたりの専門的な解説は、私には少し難しかったです。NAD(ニコチンアミドアデニンジヌクレオチド)は、長寿遺伝子のサーチュインを活性化する化合物の1つだそうです。
NR(ニコチンアミドリボシド)やNMN(ニコチンアミドモノヌクレオチド)は、NADの前駆体だそうで、これらを摂取すればNADが増えて、サーチュインを活性化させられるという理屈のようです。
「老化の典型的特徴の1つが「老化細胞の蓄積」だったのを思い出してほしい。老化細胞とは、増殖するのを永久にやめてしまった細胞のことだ。
若いヒト細胞を培養すると、40〜60回ほど分裂したところでテロメアが致命的な短さになる。」(p.257-258)
「テロメラーゼという酵素があればテロメアを伸ばすことができるのだが(この発見によってエリザベス・ブラックバーン、キャロル・グライダー、ジャック・ショスタクの3人が2009年のノーベル賞を受賞した)、細胞ががん化するのを防ぐために、幹細胞以外ではこの酵素のスイッチが切られている。」(p.258)
「老化細胞はたとえ数が少なくても、広い範囲にダメージを及ぼしかねない。分裂をやめているとはいえ、サイトカインという小さなタンパク質を放出し続けて炎症を起こし、免疫細胞のマクロファージを引き寄せて組織を攻撃させるのだ。慢性的な炎症は体に良くない。多発性硬化症や炎症性腸疾患、あるいは乾癬にかかっている人に訊いてみたらわかるはずだ。こうした病気は、すべてサイトカインが多すぎるために引き起こされる。炎症はまた、心臓病、糖尿病、認知症の引き金にもなる。」(p.260)
「キャンピージは、老化は三十代や四十代でがんにならないための巧妙な予防策として進化したのではないか、と主張している。老化細胞とは、要するに分裂しない細胞だ。つまり、遺伝子が変異を起こしても、細胞が増殖して腫瘍を形成することがない。」(p.261)
つまり、より長い時間を生きるには、老化するとしても若いうちにがん化しない方が有利だ、ということですね。
「そう、老化を克服する解決策には「細胞のリプログラミング」というやり方もあるのだ。いわば細胞のプログラムを初期化して、ウォディントンの「地形」を最初の状態に戻すことである。たとえば、一部のクラゲは体を切り刻まれてもそこからポリプを再生し、そのポリプが新たに何匹もクラゲを産む。それと同じようなものだ。」(p.272)
「ドリーが誕生すると、クローニングは危険だとして世間で議論が過熱した。この議論のせいで、一番肝心な点がかすんでしまった。何かというと、老いたDNAであっても、再び若くなるための情報を保持しているということである。」(p.275)
「山中が突き止めたものは、ガードンの実験でオタマジャクシを生むことができたリセットのスイッチだ。つまり、生物の世界における「訂正装置」だと私は考えている。
この種のリセット・スイッチを用いれば、人の細胞を培養皿で初期化できるだけでなく、全身のエピゲノムの「地形」を初期状態に戻すことができるはずだ。」(p.279)
クローンによって新たな生命を誕生させられる。それが羊のドリーでした。
また山中伸弥教授は、成熟細胞をiPS細胞(人工多能性幹細胞)に変える方法を発見しました。これによって老いた細胞からであっても、クローン技術によって若い生命を生み出すことができる、という可能性が見えてきたのです。
「どう控えめにいっても未来は面白くなりそうである。最も治しにくいものを治し、最も再生困難な体細胞を再生できるのなら、再生できる細胞の種類に限りはないのかもしれない。そう、損傷したばかりの脊髄を修復できるのはもちろん、老化によってダメージの加わった体組織なら何でも元に戻せることになる。肝臓、腎臓、心臓から脳に至るまで、対象から外れるものは1つもない。」(p.291)
自分の体の一部の細胞を培養し、若い臓器を作り、その臓器を移植するなら、内臓はいつまでも若々しくいられる。そんな未来が来るのでしょうか?
「細胞のリプログラミングは社会に大きな影響を及ぼすおそれがあるため、この技術を巡る倫理問題については早いうちに議論を始めたほうがいい。実用化されてからでは遅すぎる。」(p.292)
選ばれた者だけが永遠の命を持つことは良いことか、悪いことか? そもそも、人が人工的に永遠に生きることは倫理的にどうなのか? 様々な問題がありそうです。
「「自分の遺伝子を知る」ことで、のちにどんな病気にかかりやすいかが明らかになり、長生きするためにどんな予防策を講じればいいかもわかる。新しい千年紀が幕をあけてからというもの、私たちはそうした話をよく耳にしてきた。確かにその通りである。だがこれは、現在進行中のDNA解析革命のほんの一部にすぎない。」(p.302-303)
「バイオテクノロジーが1つ前進するたびに、こうした未来が急速に近づく。自分の体をリアルタイムでモニターするなど、前の世代には想像もつかなかったことだ。しかし、いずれは生きるうえで欠かせないものになっていくだろう。」(p.316)
シンクレア氏は、DNAの詳細な解析やリアルタイムのバイオモニターなどによって、私たちの身体は常に健康な状態が保たれるようになると言います。
「将来的には、私たちの体の一部を必要としたとき、自分自身の幹細胞を使って印刷するようになる可能性が高い。幹細胞は、そうした場合に備えて予め採取し、保存しておく。もしくは、血液や口腔粘膜から採った細胞をリプログラミングして、それを用いることも考えられる。」(p.341)
自分の細胞で自分の臓器を育て、いざという時にそれを移植する方法なら、臓器移植待ちなどという問題もなくなるわけですね。
「DNAをモニターすることで、医師は病気が顕在化するずっと前に気づけるようになる。がんについても、何年も早い段階から見つけて闘うことができる。感染症にかかったら、その正体はものの数分で突き止められる。心拍に乱れがあれば、車の座席が知らせてくれる。呼気を分析すれば、免疫疾患を発症しつつあることがわかる。キーボードの打ち方からは、パーキンソン病や多発性硬化症が早期に発見できる。」(p.346)
あらゆるモニタリングが動員されて、その情報が医師に届けば、ただちに的確な診断ができ、未病のうちに対処できるようになる。そんな未来が来るとシンクレア氏は予想しています。
「答えは113歳である。こういった変革を拒む人が大多数を占めたりしない限り、それが控えめに見積もった未来の平均寿命だ。「平均」というからには、人口の半分はその数字を上回ることを意味する。」(p.348)
あと20〜30年後には、私たちの平均寿命は113歳になる。シンクレア氏はそう予言します。
「今現在、地球に暮らしている人のほとんどは、100歳まで届くのを十分に期待していい。120歳は今のところ寿命の上限とされているが、開発中のテクノロジーが実を結べば、多くの人がその年齢まで、しかも健康な状態で到達する可能性がある。さらには、エピゲノムのリプログラミングが真価を発揮するか、細胞に若いままでいてもらう別の方法を誰かが思いつくかすれば、今一緒に生きている仲間のなかから150歳に達する者が現れてもおかしくはない。最終的には、生物学的な上限の存在しない段階に入る。特定の年齢で死なねばならないと定めた法則など存在しないのだ。」(p.392)
100歳まで生きられるような気はしていますが、それが120歳となり、150歳となるには、それなりの時間が必要でしょう。けれども、すべての記録が破られていくように、長寿の記録も必ず破られていくと思います。
「健康寿命が増加すれば、七十代や八十代の大勢の高齢者が再び働き始め、ずっとやりたかった仕事についたり、若いとき以上に稼いだりするようになる。あるいは私の父のように、地域社会に役立つ仕事をしながら孫の子育てを手伝うのもいいだろう。」(p.409)
「健康寿命が延びたときに社会がどんな恩恵を受けるかを考えるとき、この側面が注目されることはほとんどないかもしれない。しかし、これこそが最も大きなメリットとなる可能性を秘めている。時間が刻々と過ぎていくのがそれほど怖くなくなれば、ことによると私たちは急ぐのをやめ、深呼吸するようになるのではないか。私たちは目先のことに動じないサマリア人になれるのではないか。」(p.412)
健康寿命が伸びれば、もっとゆったりとおおらかに、自由に生きられるようになる。不安や怖れに突き動かされて何かをするのではなく、安心して愛ある生き方ができるようになる。
このチャンスを逃しても、まだこれからたくさんチャンスがあると思えば、通りすがりの人を助けようとする。善きサマリア人のように。それこそが、高齢社会の大きなメリットだとシンクレア氏は言いますが、私も同感です。
「老化は病気だ。しかも、ただの病気ではない。あらゆる病気の母であり、私たちの誰もがその魔手から逃れられない。」(p.423)
このフレーズがシンプルでわかりやすいですね。
「私が思うに、健康な状態なしに生だけを引き延ばそうとするのは、断じて許しがたい罪である。」(p.443)
私も同感です。ただ生かされているだけの人を老人介護施設で働きながら見ていますが、私には家族のエゴとしか思えません。
「遺伝子組み換え作物は「不自然な」植物だとして、世間の風当たりが強い。そう批判する人の多くは気づいていないようだが、私たちが「自然」だとする食物の大部分は、じつはすでにかなりの遺伝子操作を施されている。」(p.447)
「2016年、アメリカの科学アカデミー(NAS)は遺伝子組み換え作物に関する包括的な報告書を発表した。そのなかで指摘したのは、地球温暖化によって伝統的な農作物が育ちにくくなれば、人の手で遺伝子改変を施した植物がない限り、増え続ける地球の人口に食料を供給することができないということである。そして、遺伝子組み換え作物は、人が食べても環境にとっても安全だというNASの立場を改めて強調した。」(p.447)
「WHOも、アメリカ科学振興協会も、アメリカ医師会も同様の見解だ。WHOの言葉を借りるなら、「一般大衆がその種の食料を摂取しても、人の健康に何ら影響のないことが示されている」のである。」(p.448)
「ユニセフ(国連児童基金)によると、ビタミンA含有量の多い安全な作物を貧しい家庭で食べられるようになれば、年間最大200万人の命を救うことができる。ビタミンAの補給プログラムは今も実施されてはいるが、必要とされるほどの効果をあげていない。」(p.448)
「2016年、ノーベル賞受賞者100人あまりが公開書簡に署名し、遺伝子組み換え作物を承認するよう各国政府に要求した。「世界中で貧しい人々がどれだけ命を落とせば、これを『人道に対する罪』とみなしてくれるのですか」。書簡はそう訴えていた。」(p.448)
遺伝子組換えについて、様々な意見があります。私はまだ、どちらとも決めかねています。絶対に安全かと言われれば、そうとも言い切れない。
でも、これまで長い時間をかけて遺伝子組換えした植物などが、私たちの食卓にはのぼってきます。それを平然と「自然のもの」だと勘違いして食べていることもまた事実です。
ただ、WHOでも安全性が認められているということからすると、これが壮大な人体実験になるとしても、受け入れていかなければならないのではないか、とも思うのです。それによって貧しい人たちの命が救われるのであれば、必ずしも悪いことではないのではないかと。
「私の妻は数日おきに老人ホームを訪れている。あなたも同じように1日そこで過ごしてみるといい。物を噛めない人に食事をさせ、お尻を拭き、スポンジで体を洗ってやる。自分がどこにいるのか、自分が何者なのか、なかなか思い出せない人たちをじっと見守る。1日を終えたら、きっとあなたもこう感じてくれるはずだ−−自分がああやって衰えていくのを避けるためなら、できることは何でもしようと考えるのが当然だ。そうしないのは怠惰であり、残酷であるとしかいいようがない、と。」(p.472)
シンクレア氏はこう言って、たとえ倫理的に問題があると思われるような手法(遺伝子組み換えなど)を使ってでも老化を防ごうとする気持ちを正当化します。
私自身、老人介護施設で働いていることもあり、ああはなりたくないなと思うこともあります。けれども、死を避けたいという執着心はほとんどありません。
なので、シンクレア氏の気持ちに全面的に賛同するわけではありません。けれども、多くの人に死への不安がある限り、健康長寿のための科学技術はどんどん進歩していくことでしょう。
いつかSF映画であるような、死なない人々、細胞の1つからでも再生される人々が出てくるのかもしれない。
それは怖いようでもあり、また見てみたいと興味が湧いてくることでもある。そんな気持ちになっています。
2023年03月19日
102歳 一人暮らし。
趣味の新聞折りをしていたら、新聞の広告に載っていて、思わず買っちゃった本です。私に縁のある広島の100寿者の本だったのでね。
著者というか主人公は石井哲代(いしい・てつよ)さん102歳です。その日常を綴った中国新聞の連載記事をまとめたのが本書になります。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「ああ、気持ちいい。いま昼寝から覚めたところです。朝から畑に出てしっかり体を動かして、お昼をいただいてからくーっと一眠りしました。一人暮らしですけえな。誰にも気兼ねせず、のんきなものです。夜、眠れますかとよう聞かれますが、心配には及びません。床に就けばストン、グーなんでございます。」(p.2)
冒頭で哲代おばあちゃんはこのように言っています。老後を幸せに生きるには、こういうストレスフリーの生活が重要だなぁと思います。
哲代おばあちゃんの健康で長生きの秘訣は何か? 哲代おばあちゃんは次の8つの習慣を大切にしてきたと言っています。
「一、朝起きたら布団の上げ下ろし」(p.8)
畳に布団を敷いて、それを畳んで押し入れに入れる。日本では普通に行われていたこの習慣を、哲代おばあちゃんは大切にしているそうです。
ただ、だんだんと大変になってきたので、押し入れに上げるのをやめたり、介護用ベッドに変えたりしてきているそうですが、それでも掛布団だけは廊下の押し入れまで運んで収めているとか。
「二、いりこの味噌汁を飲む」(p.9)
私の田舎でも、出汁はいりこでとるのが一般的でした。ただ、ふやけたいりこが好きじゃなくて、私はいりこ出汁を好まなくなりましたけどね。
まあ出汁は何にせよ、毎日味噌汁を飲むという習慣は良さそうですね。
「三、何でもおいしくいただく」(p.10)
一日三食、好き嫌いなく何でも食べるそうです。特に野菜炒めが多いとか。
「四、お天気の日にはせっせと草取り」(p.11)
草取りという作業は、案外くたびれます。そんな地道な作業をコツコツやり続けること。これも健康に役立ちそうです。
他には生ゴミを堆肥にするとか、新聞の脳トレをやるとか、20年前に先立たれたご主人と会話をするとか、柔軟体操をするという習慣を持たれているそうです。
「生まれて初めてインフルエンザの予防注射をしました。かかったりせんと思うけど、今年から週1回、デイサービスに行き始めたから注射せんといけんそうです。注射はあんまり好きじゃありません。」(p.30-31)
つまり、予防注射など射たなくても、健康で元気に暮らしてこられたのです。それを介護サービスを受けるために仕方なく受けることになった。
私が勤める施設でもそうですが、半ば強制なんですよね。効果があるかどうかなど二の次。不安や恐れから、他人の自由を奪っています。
哲代おばあちゃんの、本当は射ちたくないんだという気持ちが伝わってきます。
「正月には早いけど干していた黒豆を炊きました。黒豆は「苦労豆」。苦労しますようにと願って黒豆をいただくんです。苦労することで見えたり感じたりすることもあるでしょう。どう乗り越えようかって考えますもんね。
苦労のない人生はつまらんです。」(p.41-42)
苦労が自分を鍛えてくれる。だから好んで苦労を買って出る。そういう人生哲学が見えてきます。
私も子どもの頃、母から山陰の麒麟児こと山中鹿介の話をよく聞かされました。「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったという逸話です。「若い頃の苦労は買ってでもせよ」という話も聞いて育ちました。
「一、物事は表裏一体。良いほうに考える
物事には必ず表と裏があります。ほら、おばあさんの手を見てごらんなさい。手の甲はしわしわですが、ひっくり返せばつるつるです。一方向から見るだけでは分かりません。例えば受験に失敗して本命じゃない学校に行ったとしても、そこで生涯の友に出会えるかもしれんでしょう。失敗もひっくり返して、良いほうに考えるんです。失敗にとらわれてばかりじゃ劣等感に包まれて人生が曲がってしまう。人間がこもう(小さく)なってしまいます。」(p.52-53)
生き方上手になる5つの心得ということで、哲代おばあちゃんの考え方が紹介されています。
これなども本当にそうだなぁと思います。起こった出来事は変えられませんが、見方はいくらでも変えられますからね。
この他の生き方上手になる心得は、喜びはオーバーアクションでということ、人をよく見て知ろうとすること、マイナス感情は笑いに変換すること、手本になる先輩を見つけることが書かれていました。どれも大切な生き方だと思いましたが、引用は割愛させていただきます。ぜひ、本を読んでくださいね。
「同じ一生なら機嫌よう生きていかんと損じゃと自分に言い聞かせとります。不機嫌になることは捉え方を変えて受け流す。特にこの10年ほどは穏やかに人の話を聞けるようになりました。」(p.68)
自分の機嫌は自分で取ること。そのために見方を変える習慣を身につけることですね。
「情けないことも、しんどい思いも全部自分の心です。引きずるのも打ち切るのもやっぱり自分次第ですけんね。自分の心は自分で育てるしかない。いくつになっても切磋琢磨ですな。
101歳じゃのうて、1歳の誕生日を迎えたと思うとります。人生の再出発です。まだまだいけると思うとります。自分で限界を決めたらいけません。何をするのも本気で取り組みますよ。」(p.70)
100歳を超えても、まだまだ成長しようという意気込みが見て取れますね。
「「笑」という字にしようかしら。一昨年、昨年と春に数週間入院しましたから、元気な一年にしたいですね。みんなと仲良く笑って過ごしたい。それだけを願っています。」(p.102)
2022年の抱負を漢字一文字で表現するとすれば、という問いへの答えです。久しぶりに毛筆で書かれたという文字は、「笑う」でした。漢字一文字やないやんけ〜!(笑)
「感情が波立っているうちに言い返してはいけません。その時はすっきりするかもしれんんが、のちに必ず後悔するけんね。私の母はよく「つばを3回飲み込みなさい」と言うとりました。そう、ちょっと間をつくることです。そうするうちに心が落ち着きます。相手のことを「悪い人ではないんじゃがななあ、この年になってはもう直らんなあ」なんて、冷静に考えることができます。」(p.119)
腹が立った時の対処法を問われて答えたものです。言い返したくなる気持ちをぐっと堪えて時間をおけば、冷静に客観的に考えられるようになる。アンガーマネジメントとしてよく知られた手法ですが、哲代おばあちゃんはお母様の教えとして身につけておられるのですね。
「80歳を過ぎたあたりからかなあ、考えても仕方のないことを受け流すのがうまくなった。降参するのが早くなったんでございます。悪口言われても、この人は気の毒な人じゃなと思うし、自慢話ばかりする人も容認してあげるん。自分の「うらやましい、うらやましい」の心にふたをして人を褒めるんです。人は人、自分は自分。違っていて当たり前。私は元気で生きとるだけで上等と思えるようになりました。
気張らず飾らず、あるがままを受け入れる。自分を大きく見せんことです。煩悩やねたみといった、しんどいことは手放すに限ります。その代わり、うれしいこと、楽しいことは存分に味わうの。感情の足し算、引き算をうまいことやっていくしかありません。元気でいるためには、まずは「心」ですから。」(p.134-136)
年を取って人間が丸くなるというのは、こういうことかなぁと思いました。
「【哲代おばあちゃん流 私らしくいるための五カ条】
一、自分を丸ごと好きになる
二、自分のテンポを守る
三、ひとり時間も大切
四、口癖は「上等、上等」
五、何気ないことをいとおしむ」(p.138-139)
いつもへらへら笑っている哲代おばあちゃんですが、若いころはいろいろぶつかることも多く、苦労することがあったようです。
特に子どもができなかったことが辛かったと言います。昔は、嫁の仕事の第一は跡取りを残すことでしたからね。
「でもね、私には教員の仕事があったからずいぶん救われたんです。嫁という立場だけならこの家にはようおらなんだ。学校では子どもたちを存分にかわいがって、自分らしくいられました。子どもたちの親とも親しゅうなってね。自分が生きる場所がちゃんとあったから家でも頑張れたんかもしれません。」(p.140)
ご主人は毎晩のように人を呼んで大酒を飲む。そこにお金を使うので、生活費を稼ぐためにも働かざるを得なかったと哲代おばあちゃんは言います。でも、そのことが幸いしたのですね。
どこにでもいるような普通のおばあちゃんのように見えますが、100歳を超えてにこにこ笑いながら生きておられるというのは、やはりいろいろ気づいて、学んで、成長された証なのだなぁと思いました。
私も、こういう百寿者になってみたいですね。実際に何歳で死ぬかはわかりませんが、いつもにこにこ笑っている人を目指したいと思いました。
2023年03月21日
92歳総務課長の教え
日本講演新聞の社説(2023年2月13日,2964号「92歳、現役総務課長の教えに学ぶ」)で紹介されていた92歳現役の総務課長さんのお話に興味を持って、本書を買って読みました。
著者は玉置泰子(たまき・やすこ)さん。1930年(昭和5年)生まれの92歳。今年の5月で93歳になられます。
元気なおばあちゃんが頑張って仕事をされてるのかなと甘く見ていましたが違いました。読んでみると、40歳代50歳代の働き盛りの方が情熱を燃やして仕事をされている、という感じさえしてきました。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「今年で勤続66年。会社からは「100歳まで現役でがんばってください」といわれていますし、私もそのつもりです。
2020年11月には、「世界最高齢の総務部員」としてギネス世界記録に認定されました。」(p.10)
ギネスに登録された正真正銘の世界一総務課長さんです。
「会社は社員とその家族のものであり、会社が繁栄できるのは、お客様と取引先があってこそ。だから、創業者は社員と家族、お客様と取引先を大切にして、感謝していました。その姿勢に間近で触れていた私も、「感謝」と「報恩」が人生の指針となりました。
私が元気で働けているのは、家族を含めたまわりの人たちのおかげ。その恩に感謝しつつ、なんらかの形でお返しして、誰かのお役に立つために働いているつもりです。
創業者の信念を受け継ぐ社員は、「その仕事、誰かの役に立っているか?」と問いかけながら仕事をしています。」(p.14-15)
「私が働くうえで指針をもう一つ挙げるなら、「いつまでも好奇心を失わない」ことでしょうか。」(p.15)
90歳でよぼよぼになったおばあさんが何とか仕事を続けているのではなく、バリバリの現役として、ビジネスウーマンとして、尊敬されるような働き方をされているのだなぁと感じました。
「こうした、仕事を通じた「自己変革」は、私にとって楽しくてたまらないことでもあります。」(p.16)
仕事を単に義務ではなく、自分を成長させるものとしてとらえ、成長する自分を心から楽しんでおられる。だから一層、仕事に励めるのですね。
「私は92歳のいまも働いていますが、それは一日一日の積み重ねの結果でしかありません。はじめから、90歳をすぎても働き続けようと思っていたわけではありません。
ただし、私には長年のモットーがあります。それは「今日頑張れたら、明日も頑張れる」というもの。」(p.19)
先のことを考えたら押しつぶされそうになったり、限界を感じることもあるでしょう。けれども玉置さんは今日だけ頑張ろうと生きてこられたそうです。いわば「前後際断」して、今に集中することですね。その継続なのです。
「当たり前のことを中途半端にやっても意味がありません。当たり前のことを徹底的にやるからこそ、意味があるのです。」(p.21)
「当たり前のことを徹底的にやる。これを「凡事徹底」といいます。
挨拶をする、決められた時間を守る、身だしなみを整える……。凡時徹底するべきことは、考えてみれば山ほど見つかります。
なかでも、大事にしたいのは、掃除です。」(p.21)
イエローハット創業者の鍵山三郎さんは、「凡事徹底」という本を書かれていましたが、素手でトイレ掃除をするということを私は鍵山さんに学びました。当たり前のことを徹底的にやること。大事ですね。
「先ほど触れたトイレの洗面台の水はねをキレイにしていた新人社員は、次に使う人が気分よく洗面台を使えるようにと思いながら、水はねを拭きとったはずです。
このように多くの人が共同で利用する職場の清掃は、自分はもちろん、ほかの人が何をどういう気持ちで利用するのかを想像しながら行うもの。
それは、相手の立場になって考えるということなのです。」(p.26-27)
掃除をするのでも、ただキレイにしなければという義務感ではないのです。なぜキレイにするのか? どうキレイにすればいいのか? そういうことを考えること、想像力を働かせることが大事なのですね。
「少々哲学めいてしまいますが、生きている限り、「いまを生きる」ということが、あなたが最低限やりたいことです。そして明日になれば、また「いまを生きる」と思う。そのくり返しでもいいのです。
なぜなら、生きているということは、それだけでも十分素晴らしいことだからです。私は、戦中戦後を生き抜いて92歳になり、つくづくそう思います。
生きていることは素晴らしいと気づいたら、「いまを生きる」に、「楽しく」という言葉を加えてみてください。「いまを楽しく生きる」とおもったら、「何をしたら、自分は楽しくなれるのだろうか」と発想が切り替わります。」(p.41)
先ほど引用したように、前後際断して今を生きることが大事ですが、その今を楽しく生きることがさらに重要だと玉置さんは言います。
「そして、打ち合わせなどが終わって別れるときには、つねに笑顔を心がけます。「エンディングはつねに笑顔」というのも、私が大事にしているモットーです。」(p.70)
話し合いが上手くいっても、もの別れになっても、最後は必ず笑顔を相手に贈る。それは相手への敬意であり、自分が費やした時間を輝かせるためでもある。
前に紹介した「102歳 一人暮らし。」でも、笑って生きることの大切さが語られていましたね。
「私は、物事のよい側面に考えが向くプラス思考を心がけており、そのために小さな失敗を恐れることなく、仕事にもポジティブに眺めていると思っています。
問題は、マイナス思考をどうやってプラス思考に変えるか? いちばん簡単な方法は、「すみません」を「ありがとう」にかえることです。」(p.94)
これもよく言われることですね。私も「すみません」が口癖になっていたので、「ありがとう」に変えるよう努力しています。
「もっとも手軽な生涯学習の手段は、読書です。
私は子どもの頃から本が大好きで、いまでも毎月数冊の本を読んでおり、妹と二人暮らしの部屋には蔵書が300冊以上あります。」(p.112)
「私の暮らしは、倹約を旨としていますが、読書には出費を惜しみません。」(p.113)
私も読書が好きで、これほど安価で効果的な自己投資はないなぁと思っています。
このブログで700冊以上の読んだ本を紹介していますが、最近は毎月1万円くらいを投じて本を買っています。
私の場合は、今はもう本を所有することはやめたので、読み終えた本は寄贈することにしています。なので図書館などで借りて読んでもいいのですが、著者や出版に関わる方々に敬意を評して、中古ではなく新品を買うようにしています。
「「湯飲みが汚れたままだと、明日の朝、みんなが出社してから困るだろうな」と思った私は、一つひとつ磨き粉をかけて磨き上げました。
その最中にふと気がついたのです。課長としてやるべきなのは、指示を出す前に、一人ひとりが活躍できるように個々を磨き上げることではないかと。」(p.156)
玉置さんが課長になった頃の失敗談ですが、課長が指示をすれば課員は黙って従うと思っておられたのですね。急に残業を指示したら、みんなが反旗を翻して急いで退社してしまったそうです。
課員と言っても同じ人間です。肩書で命令しても、素直に従いたいとは思わないもの。玉置さんは翌日、急に残業を指示したことを侘び、一緒にやっていきたいと素直な思いを告げたそうです。
「部下なら上司のいうことを聞くのが当たり前、上司はすべての責任をとって当然といった上下関係を超えて、上司と部下が尊重し合うチームこそ最強であり、目標にすべきだと思うのです。」(p.161)
上司が偉いわけでもないし、それは単に役割に過ぎません。それぞれの役割を果たしながら、チーム全体として一致団結することが重要ですね。
「100歳で退職したら、私にはやりたいことがあります。
エッセイを書いてみたいのです。」(p.180)
100歳までは今の会社で働きたいという目標がある玉置さんですが、それで終わりではありません。その後の目標も持っておられて、その人生を楽しみにされています。
こういう考え方が、いつまでも老けない自分を創っていくのかもしれませんね。
私も生涯現役を決めて、何らかの形で働き続ける人生を送ろうと思っています。自分で自分の限界を決めたりせず、常に「今」を楽しみながら、将来にも希望を持ち続ける。そんな玉置さんの生き方を、私も参考にしたいと思いました。
2023年03月23日
あこのありが豆腐
何を見て興味を持ったのか忘れましたが、若い女性が引き売りをしていることに興味を覚えて買った本です。
表紙に「「何のために生きているんだろう」と思う人へ届けたい」とあります。引き売りという仕事をする中で豆腐屋あこさんこと菅谷晃子(すがや・あきこ)さんが気づいたことが書かれています。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「何をやってもなんにも続かなかった。
自分には生きている価値がないと思ってた。
いつしか自分を責めるのがあたりまえのようになって、まわりを責めるのもクセになっていた。
そんな私が、リヤカーを引いてラッパを吹きながら人に喜んでもらえる仕事に出会い、少しずつ自分を認め、笑顔を取り戻し、お客様の命から大切なことを泣き笑いしながら学んできた人生のストーリー。
すべての出逢いに感謝を込めて。
この本を通して私が受け取った愛をあなたへお届けします。
今、辛かったり不安だったりしてもきっと大丈夫。
ひとりじゃないよ。
あなたはあなたのままで素晴らしい存在なんだ。」(p.3-4)
ちょっと長いのですが、まえがきを全文引用させていただきました。まさに、この本の内容をぎゅっと圧縮したようなまえがきですね。
そして、このことがあこさんのメッセージです。自己肯定感が乏しく、他人を恨んでいたあこさんが、引き売りによって変わっていった。今あるがままの自分でいいのだと全肯定できるようになった。そのメッセージは、同じように自己肯定できずに苦しんでいる人にとって救いになりますね。
「小学校5年生のころ、引っ越しにより転校することになりました。
新しい場所、新しい出会い……。
私はこれから始まる新しい生活に、期待で胸をふくらませていました。
ところが、新たな環境で待っていたのはそれまで経験したことのなかった壮絶な”いじめ”だったのです。その時から先の見えない、長く暗いトンネルにいるような地獄の日々が続くようになりました。」(p.27)
あこさんが自己肯定できなくなったのは、長く続いたいじめ体験にあったようです。
「当時、両親もきっと私への声のかけ方を悩んでいたのだと思います。
それでも朝になると、学校には行きなさい! と怒鳴られる。
お母さん、私頑張っているのにどうしてそんなに怒鳴るの? 行きたくないよ……。」(p.32)
「何年も続く、いじめの日々……そんな状況のなかでも、不思議と死のうという気持ちだけは起こりませんでした。
「私は私らしく生きたい!」という思いは、どこかで捨てきれませんでした。」(p.32-33)
「「私、お父さんと血がつながっていないの?」と、ふと母に尋ねたことがありました。
母も疲れていたのでしょう。
この問いに、「そうよ」と答えてしまったのです。
これまで私を育ててくれた父は本当の父親ではありませんでした。
私はショックのあまり血の気が引き、『私のこと、ずっと騙してたの!?』と、両親に強い嫌悪感をいだきました。」(p.33)
学校だけでなく、家にも居場所がないと感じたあこさんは、17歳で家出をしたそうです。
いじめは、小学校5年生の時から高校生まで、ずっと続いていたそうです。そういう闇が、あこさんの気付きのためには必要だったのかもしれませんね。
「小学校5年生からいじめにあい、人と話をすることがどんどん苦手になっていきました。だからこそ人の話をよく聞こうとか、辛かった思いがあった分だけ今の自分があると思えるのです。
弱さや傷ついた経験は、決して恥ずかしいことじゃない。あなたの強みであって、魅力なんだ。」(p.35)
悲しい経験や辛い経験があるからこそ、他人に対して優しくなれます。だからどんな経験もムダではないのですね。
「毎週、同じ曜日に同じルートを通るので、1人、また1人と、川澄おじいちゃんのように私を待ってくれる方が増えていきました。
気づけば私は、いっぱい買ってもらいたいという気持ちから、どうしたらみんなに喜んでもらえるだろう、みんなが喜ぶことってなんだろう、と他者を幸せにしたいと願うようになっていました。
すると……
「かわいそうだから買ってやるよ」という言葉から
「あきちゃん、ありがとうね」「本当に助かるわ」
ありがとう、ありがとう。
1日中、ありがとうという言葉をかけてもらえるようになったのです。」(p.52)
自分で自分を哀れんで頑張っているうちは同情されるだけだったのが、他人に関心を持つようになったら感謝されるようになった。自分が変われば、他人もまた変わるのですね。
自分がどう思われるかと自分への評価を期待していると変わることができません。どう評価されてもかまわない、どう評価されても気にしない。自分の評価への期待を捨てることで、心から他人に関心を寄せられるようになります。
「私は自分が好きでなかった。自分のダメなところばかり見つけては、自分を責め続けていた。
それからは、もやもやした気持ちの日でも、毎晩寝る前に「今日もよく頑張った!」「偉いね」(身体をさすりながら)「今日も1日ありがとう」「大好きだよ」「愛しているよ」と自分を励ましてあげるようにしました。そうすると、また次の日からもむくむくと頑張ることができ、嫌なことがあっても不思議と元気が出てくるのです。」(p.67-68)
自分褒めは大事ですね。私も意識して、自分を褒めてあげるようにしています。
「これは以前、モーニングセミナーで学んだことなのですが、もともと人間には「3つのたい」があると言われています。それは、
「認められたい」
「役に立ちたい」
「愛されたい」
という気持ち。
引き売りを始めたことで、私にはこれまで経験したことのなかっためざましい変化がありました。まさにこの「3つのたい」を満たしたのかもしれません。
誰かに認められ、役に立ち、愛される。
このことが自己肯定感を生み、ありのままの自分を愛することができる最大のキーワードなのかもしれません。」(p.69-70)
自己肯定感が高まると、他人からも肯定されるようになる。それによってさらに自己肯定感が高まる。好循環ですね。
「被災地にボランティアに行くことって、とても素敵なことだと思います。でも、すぐ近くにいる人にできる大切なことを、私たちは忘れてはいないでしょうか。それは決して難しいことではありません。
皆さんの”笑顔”と”真心の一言”。それだけで、目の前の人を幸せな気持ちにすることができるのです。」(p.90)
私たちはつい特別なことをして他者に貢献しようとしてしまいがちですが、他者貢献はすぐ身近なところでも十分にできるのです。
「目の前に大好きな人がいてくれるって当たり前なんかじゃないんだ。
今を大事にしよう、今を喜ぼう、そして、おじいちゃんとの思い出を大切に生きていこう、と心の底から思いました。」(p.97)
毎週のように出会うお年寄りのお客様が、突然、亡くなられるという経験もあったそうです。人はいつか亡くなるし、他の理由でも、いつ別れが来るかわかりません。だから「一期一会」なのですね。
「リヤカーを16年間毎日引いていると、こんなふうに大好きなお客さまが天国に召されていくことがたくさんありました。みんな最後に何を求めていたかというと、それはお金でも、何かすごいものでもありませんでした。思い返してみれば、みんな心のより所を求めていたんじゃないかと思います。」(p.108)
人生の終りを迎える時、お金とか高価な物というのは必要ではないと気づきます。本当にほしいのは人とのつながりだったり、愛情だったり。それをあこさんは「心のより所」と言われています。
「闇は光だよ。
みんなの傷ついた経験が、誰かの勇気や希望の力になることもあるんだよ。」(p.125)
「あなたは、あなたのままで素晴らしい。何者にもなろうとしなくていいんです。今のコンプレックスを変えようなんて思わなくていい。そのままで十分素晴らしい存在なんだよ。」(p.125-126)
これがあこさんからのメッセージですね。
闇があるから光がある。光に至れば、闇も含めて光だったのだとわかります。闇は幻想です。光を光として認識するためのもの。だから、闇もまた、愛すべきものなのです。
130ページに満たない本で、簡単に読めてしまいます。けれどもこの本には、あこさんの人生がぎゅっと詰まっています。
その人生を通じたメッセージは、非常に重いものがあるなぁと感じました。
2023年03月26日
丁寧道
おそらくTwitterで情報を見かけて、興味を覚えて買った本です。
著者の武田双雲(たけだ・そううん)さんのことは、日本講演新聞の記事で知っていました。書道家ですが、実にしっかりした考え方をされる方と認識しています。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
「じゃあ、なぜ僕はいつも幸せなんだろうか−−。
それはたぶん僕が「感謝オタク」だからです。
人はいつの間にか、自分に「ないもの」に意識が向きがちになってしまいます。
だから、常に心が満たされない状態になってしまう。
でもそこで、自分に「あるもの」に気づいて、感謝をすることができたら……日常の景色の見え方が変わってきて、自分自身の状態も変化してくるのです。」(p.3)
「それでは、僕自身はどうやって自然と感謝できているのか−−というと、その鍵が本書のテーマ「丁寧」です。」(p.4)
「僕はそれを「丁寧道(ていねいどう)」と呼んでいるのですが、「丁寧」の本質をつかんでから毎日を過ごしていただけると、どうしたって不幸な気持ちになれないのです。
それどころか、内側から無尽蔵に湧き上がるワクワクとした感覚で、毎日が楽しい気持ちで溢(あふ)れるようになります。
そして、なぜだか「丁寧道」を実践していたら、嫌なことが起きない、成果も出ちゃう、なんだかモテちゃう、お金も入ってきちゃう……そんなふうにいいことばっかり引き寄せるようになります。」(p.4-5)
双雲さんの幸せのコツはいつも感謝することであり、双雲さんが提唱する「丁寧道」を実践することで自然に感謝できるようになると言います。
さらに、現実的に良いことばかり引き寄せると言います。このことに関しては、私はこれまでの経験からそうではないと思っています。引き寄せやすくはなると思いますが、良いことばかり引き寄せるわけではないと。
ただ、これまでなら悪いと思うことを引き寄せても、そこに感謝の種を見つけるなら、それもまた良いことになりますけどね。
「要は、対象は何であってもいいので、あなたの気の向いた瞬間に、「対象を丁寧に感じ尽くす」(=「丁寧道」)ということをしてみてほしいのです。」(p.21)
いつもだったら意識さえしないこと、ぞんざいに扱うことを、あえて丁寧に扱い、丁寧に感じ尽くす。それが「丁寧道」なのですね。
「いま実践してみていただいた「丁寧道」。
実はやっていることは、茶道を大成した、かの千利休と同じです。」(p.24)
これはわかりやすい例えですね。無意識にただ単にお茶を飲むことはできますが、これでは茶道にはなりません。
同じお茶を飲むにも細部にこだわり、意識を届かせてお茶を点て、飲む側も心を尽くして飲む。これが茶道です。
これと同じように、あらゆることにおいて丁寧の極致のように扱い、味わい尽くすこと。それが「丁寧道」なのです。
「「丁寧道」をするときのポイントは、一つひとつを味わうことです。
普段、流れ作業で済ませていることを「視覚」「聴覚」「触覚」「味覚」「嗅覚」をフル稼働させて、「うわぁー!」と”楽しそう”に(※ここ重要です。冷めた気持ちではなく)感じ尽くしてみてください。」(p.26)
あらゆる感覚を総動員して、今、行っていることを感じ尽くす。さらに、その感覚を新鮮な驚きとともに喜ぶことですね。
「最初にずばり言ってしまうと、「丁寧道」を実践しているときには、あなたはマインドフルネス状態にあります。言い換えれば、とてもリラックスしながら雑念のないゾーン状態と言ってもいいでしょう。」(p.30)
ここまでの「丁寧道」の説明を読んだ時、私は、これはマインドフルネスと呼ばれる瞑想と同じだなと思いました。まさにそのようですね。
「要は、先に自分の機嫌のマインドセットができていれば、外部要因からネガティブな影響を受けない自分でいることができるはずなのです。
そして、それを自動的につくってしまおうというのが、僕の言うところの「丁寧道」の目的でもあります。」(p.34)
私たちは外的な刺激によって、自分の機嫌を左右させることが当たり前になっています。たとえば、雨が降ったら憂鬱になるような感じです。
けれどもそれは本当ではありません。雨が降ったら楽しくなる人だっているのです。子どもは、雨が降るとわざわざ外に出て濡れて楽しもうとするじゃありませんか。
斎藤一人さんは、自分の機嫌は自分で取ることが重要だと言われています。双雲さんも同じ考えで、そのために「丁寧道」を実践することだと言われるのです。
「「丁寧」の逆は「雑」です。つまり、違いは「丁寧にするか、雑にするか」であって、「速いか、遅いか」ではない。スピードは関係ないのです。」(p.43)
丁寧にすることは、時間をかけてゆっくりすることではないのですね。速い時間の中でも細心に気を使って丁寧に行うことは可能です。
事実、双雲さんも例に上げているように、プロ野球選手の投球やバッティングも、瞬時の中で丁寧に行っている動作があるのです。
「先程、あなたの発したエネルギーの波が、あなた自身の現実に反映されるということをお伝えしました。
つまり、あなたが焦っているエネルギーを発すれば焦らされる現実が、イライラするエネルギーを発すればイライラさせられる現実が、上機嫌なエネルギーを発すれば上機嫌になるような現実が、それぞれやってくるということなのです。」(p.54)
まさに、それが「引き寄せの法則」ですからね。
「僕はいま、書道家以外にも、現代アートを描いてみたり、オーガニックのお店を開いてみたりしているんですけど、結果的に成果も出ちゃうし、興味のある分野からオファーがきてモテちゃうし、お金も入ってきてしまう(笑)。
それに、問題も起きません。
よく仕事では「問題解決能力」の高い人が重宝されますが、本当は「問題引き寄せない能力」があるほうがよくないでしょうか?」(p.58)
医療でも治療より予防と言われますが、仕事でも同じことが言えるかもしれませんね。
「ということは、やはり慣れるまでの最初のうちは「ゆっくり」やってみて、体になじませていくことが、「丁寧道」においてもうまくいきやすいアプローチなのです。」(p.66)
「だから、お風呂で体を洗うとき、歯を磨くとき、着替えるとき、靴を履くとき……「あ、これを丁寧にやってみよう」と思えたことについて、どんなピンポイントなことでもかまわないので「普段の2倍の時間」をかけてやってみてください。」(p.66)
先ほど、丁寧にするとはゆっくりすることではない、と言ったばかりですが、慣れるまではゆっくりやった方がいいようです。
これも考えてみれば当然で、慣れていないうちは、いちいち頭で考えながらやらなければならないからです。それが無意識にできるようになるからスピードアップします。「丁寧道」を行う上でも、同じことが言えるのですね。
「だから、「一気に成功」という近道を求めるのではなく、あらかじめ腰を据えて「長〜くやる」という精神を持って臨むほうが、「時間をかけてやるものだから」と思えるので迷いや不安にも対処でき、結果的に無理なくハッピーに上向いていくわけです。」(p.70)
焦って結果を出そうとするのではなく、じっくりやり続ける。やっぱり継続は力ですね。
「ただし、いくら「ギブ、ギブ、ギブ……」とやり続けていても、「いっぱいギブしたからテイクをあとでくれよ」というような、見返りのテイクをすごい気にしている「有償のギブ」だと、そういったエネルギーの波が発信されます。
すると、自分にも「なくなることが織り込み済みのギブ」が戻ってくるようになるわけです。
では、どうすることが理想的なギブになるのか−−。
それは「子どもみたいにはしゃぐこと」なのです。」(p.75)
「きっと、何かをしてものすごく楽しんでいたら、ギブしているかどうかもわからないうちに、何だかすごいギブをしていて、「いつもありがとうね〜」なんて言われて友達のお母さんにお菓子をもらったりする。
「え、ほんとに? ○○くんにもあげよ〜」みたいな感じで、そのお菓子をまた誰かにおすそわけしたら、それがさらに大きくなっていく。
そんな感じの「遊んでいたら豊かになっていく」スタイルが、「丁寧道」においても理想なんです。」(p.76)
ギブ&テイクを、ギブするからテイクしてくれよ、というような見返りを求める考えであるなら、それは結果にこだわる考え方なんですね。
子どもみたいにはしゃぐというのは、結果を気にしていないのです。結果を求めるのではなく、その行為自体を楽しむことが重要ですね。結果は勝手についてくるのです。
「こんなふうに「丁寧道」をしていると、いろんなものに感動したり、感謝したりすることが増えるので、ギブ&テイクなんて考えていないのに、うっかりギブしていることが結果的に増えていきます。
僕としては、ギブしようと思ってしているんじゃなくて、むしろ自分が楽しいというエゴのもとに、感動したことや面白いと思ったことを無邪気にはしゃいで伝えているだけなので、そこにしんどさや仕事してる感もありません。」(p.78)
「このあたりの心持ちが、「丁寧道」がうまく軌道に乗る人と、なんだかうまくいかない人の差が生まれる原因かもしれません。」(p.79)
結果を追わずに、「丁寧道」をやることそのものを楽しむことですね。
「僕は「ただ、見る」ということを結構オススメしているんですが、その「ただ、見る」というのも「感じる」「味わう」に等しいんです。
たとえば、忙しくせかせかしてしまう自分に対して、「なんで私は!」とジャッジをして怒ってしまうと、そこからは怒りや不安のエネルギーが発信されてしまいます。
でも、そこで「あっ、私はいつもこういう状況だと、せかせかイライラするんだな」と、客観的に「ただ、見る」ことができるようになると、自分自身へのパターンが認識できるようになります。
そして、パターン認識さえできてしまえば、また同じ状況になっても、「またこのパターンがきたな」と心が荒れることなく、対処できるようなります。」(p.92)
上手くできない自分を責めている間は、ジャッジしているのですね。ジャッジせずに観察する。そしてその現象を面白がる。そうしていると、自然と対処できるようになるのですね。
「「丁寧道」もそれと一緒で、習慣づくまでの反復に最初は時間がかかるものなのです。」(p.94)
習慣化するには繰り返すしかなく、どうしても繰り返す時間が必要なのです。
「そう考えると、「しなくちゃいけないと思い込んでいたけど、本当はしなくたっていいのかもしれない」と、手放せる「義務感」があることに気づいた人もいるのではないでしょうか。
また、「義務感」のように思い込んで苦しくなっていたけど、やっぱり「本当にしたいことなんだな」と気づく場合もあるのではないでしょうか。
特に後者に気づけると、「義務感」を純粋な「意欲」へと転換できる可能性も出てきます。」(p.111)
自分が感じている義務感を書き出してリスト化し、可視化することで、いろいろ気づけるようになると双雲さんは言います。
義務だと思っていたけど本当か? そうやって自分の無意識の思考を疑い、考え直してみることは大切ですね。
「「受動」から「能動」へと意識を変えてみることだけで、義務からくる「しなくちゃ」が、欲求からくる「したい」に変わります。
「したい」ではなく、「させていただきます」「え、いいんですか? させてもらっちゃって! あざす!」というくらい積極的に向き合えるようになります。」(p.118)
どうせやらなければならないことなら、それを義務だから仕方なくイヤイヤにやるのではなく、前向きな姿勢で取り組むことが重要ですね。
「ある明確な目的のために行動する。とても前向きで建設的だと思います。
そうは思うのですが、その反面、「〜のために」というのは、目的達成ばかりに焦点が当たっている気がしてなりません。
「いま、このとき」の自分が、大事にされていないのです。」(p.120)
「「やったー!」という達成感は一瞬のもので、その直後にはまた別のさらなる目的を達成する未来のために、「義務感」で頑張り出す日々が始まります。」(p.120)
目的意識から行動するということは、結果に対する執着心につながります。そこからは不安や恐れが出てくるでしょう。
「言い換えれば「いま、このとき」を味わって生きるということ。
つまり、未来にばかり向きがちな自分の目を、少しでも「いま、このとき」に向けるということが、「丁寧道」の真髄でもあるのです。」(p.121)
結果に対して執着するのではなく、行為そのものに情熱を燃やすこと。行為そのものを楽しむこと。前後際断して今に生きる。それが重要ですね。
「つまり「髪の毛が乾いている未来」が早く欲しい反面、まだ髪の毛が乾いていない現在の価値は相対的に低くなっているということ。本書でこれまでに登場した言葉だと「いま、このとき」にいない状態、といえるでしょう。
だから、髪を乾かしている間はそれが無意味な時間に思えて、なんだかめんどくさかったり、イライラしたりしがちになるわけです。」(p.144)
この「ドライヤー理論」のたとえはわかりやすかったです。早く髪を乾かそうとしきりにドライヤーを振って動かす。その時の心理に注目してみることですね。
「それに対する僕の答えは、「忙しい」の前提にある「やらなきゃいけない」も幻、ということです。」(p.146)
忙しいと感じるのは、何かをやらなければならないという義務感を感じているから。そのどちらも幻想にすぎないと双雲さんは言われます。
「そして、この「認知」の設定がうまくいったとき、気持ちだけでなく、目の前の世界そのものが変わっているのです。」(p.148)
あることを行う時、どういう認知の設定をしているかが重要だと双雲さんは言います。他にもやることがあって忙しいという認知なのか、今はこのことを楽しもうという認知なのかということです。
「ドライヤー理論」のたとえで言うなら、髪が乾いた未来に意識を置くから、まだそうなっていない今が許せなくなります。
「これが「時間の分離」です。
人間のイラつきや落ち込みは、こんなふうに「いま」と「未来」、「現実」と「何か到達したい地点」が矛盾を起こしていることが原因になっています。」(p.149)
だから仏教では前後際断せよと言うのです。未来のことも過去のことも断ち切って今に意識を向けることですね。
「では、「認知」の観点から述べるとどうなるかというと、「『丁寧道』は「認知」をクリーンにしてくれるメソッド」だといえます。」(p.150)
先ほどの「時間の分離」の問題を解決するのに、丁寧道が役立つということです。
「それは、「ゆとりがあるから丁寧にできる」のではなく、「丁寧にやるからゆとりが生まれる」ということです。」(p.152)
「つまり、「条件が整う」という感覚も「認知」の問題なのです。
そして、自分にあるものよりも、自分にないものに視野が向きがちな僕たち人間にとって「条件が完璧に整った」と疑いなく思える瞬間はほぼこないのです。」(p.153)
たとえば、お金が貯まったら旅行をしようと考えます。条件が整ったなら、やりたいことをやろうという考え方です。ゆとりができたら丁寧にできるというのも同じです。
しかし、こうやって前提条件を作っている(認知している)間は、その前提条件が整うことがなく、フラストレーションを溜めることになるのです。
だから、前提条件を作らずに、条件が整う前に、さっさとやりたいことをやり始めることですね。条件は、後から整ってくるのです。
「行為としては、祈るだけ、お経を唱えるだけ、書を書くだけ、茶を飲むだけ、歌を詠むだけ……だったものが、ひたすら型を繰り返すうちに自我から解放され、不思議と、祈る神聖さ、唱える心の静寂さ、書く喜び、茶を嗜(たしな)む喜び、歌を詠む喜びとなったように、「丁寧道」も邪念を捨ててただただ行ってみると、そこには「なんだか気持ちいい喜び」が芽生えます。」(p.157-158)
茶道、書道、柔道など、日本人は何でも道(どう)にしてしまいますが、これは老子の思想から来ていると双雲さんは言います。作為を捨ててあるがままに従う「無為自然」が道(どう)の本質です。
丁寧にやるということも、道(どう)としてただひたすらそれをやることによって、無為自然の境地に至るのかもしれません。
お勧めしている「神との対話」シリーズでは、結果に執着するのではなく、結果を捨てて行為そのものに情熱を注ぐようにと言っています。つまり、前後際断して今に生きるということです。
双雲さんが示された「丁寧道」は、そういう生き方をするためのツールということですが、とても効果がありそうです。そして何よりも手軽にできます。私も、気がついたらやってみるという感じで、丁寧道をやってみようと思いました。
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