2023年01月01日
「働いたら負け」って決めたら”金運レベル99”になったけどなにか?
友だちの「ぱっさん」こと木場秀俊(きば・ひでとし)さんの2冊目の本が出版されると知って、予約して買いました。
ちなみに1冊目は「あきらめの「幸福論」」で、昨年の9月にすでに紹介しています。
本書は、今は宮古島で悠々自適な生活をしているぱっさんが、自分がそうなれた理由を論理的に解説しつつ、誰にでも同じことができるんだよと伝える内容になっています。
私は、ぱっさんがまだブレイクする以前から存じ上げているのですが、あれよあれよと言う間に、お金をどんどん稼ぐ人になっていきましたね。そういうことを思い出しながら、ぱっさんの秘密は何だったのかを考えながら読みました。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「おっしゃるとおり、私よりお金を持っている方はいくらでもいるでしょう。
でも、私ほど自然体に生きていて、お金を引き寄せている人はなかなかいないと思います。
魚が水を意識せず泳げるように、鳥が羽を意識せず飛べるように、私はお金を意識せず稼ぐことができます。
その理由は大きく分けて2つ、「マインド」と「方法」です。」(p.5)
お金を意識せずに稼げるようになったポイントは、マインドと方法だとぱっさんは言います。
「特に、昔の私のようにお金で困った経験を持っている人ほど、がんばりすぎてドツボにはまります。」(p.6)
マインドで重要なのは、「頑張って働かないとお金は稼げない」というマインドを変えていくことですね。
「逆にいえば、催眠の力はそれくらい強烈であり、私たちのマインドを思うままに変容させることができるのです。」(p.7)
2つ目のポイントの「方法」とは、「催眠」だとぱっさんは言います。催眠を使って自分のマインドを変えることが、意識せずにお金を稼げるようになるポイントなのですね。
「お金の問題だって、もちろん催眠で解決できます。
むしろ私の経験上、お金に関する困りごとや、「お金持ちになりたい!」という願いに関しては、催眠を使うのが一番効果的といえます。」(p.8-9)
霊視や占いだけでなくカウンセリングもしていたぱっさんは、多くの人の相談を受けて、催眠が効果的だと思われるようになったそうです。
「そして本書の最後には、本書限定の観るだけ、聞くだけで金運レベルがアップするヒーリング動画へのリンクを設けました。本書で学んだこととあわせて視聴すれば、強力な武器になるでしょう。」(p.10)
催眠と言っても、自分でそんなことができるのかと疑問に感じるかもしれませんね。自分でできるようになるための懇切丁寧な説明もありますが、ぱっさんの動画を視聴するというのが手っ取り早いのかもしれません。
「ただし、ここで残念なお知らせです。
お金が欲しいと思っているうちは、いつまでたっても大金は入ってきません。」(p.21)
「「お金というのは、自分のマインドとイコールである」
このようにとらえられるようになればいいんです。
すると、お金に対する見方が変わり、その結果、大金を手にすることができるようになります。
お金に愛されるマインドになるというわけです。」(p.21)
お金を稼ぐための具体的な方法を探しているうちは、おそらくまだお金に執着しているのでしょうね。その執着心の表れが「お金が欲しい!」という思考なのです。
「お金が欲しい!」という思考は、「お金が欲しい!」という現実を引き寄せますからね。つまり、「まだお金が足りない」という現実です。
逆に、「もう十分にお金がある」「とっても豊かだ」というマインドは、お金を引き寄せるのです。
「別の言い方をすると、「こうなれない自分を知っている」ともいえるでしょう。
ようするに、本人は意識の深い部分で、自分はそのようになれないとわかっているからこそ、「なりたい」という意識が生まれるということ。」(p.27)
「なりたい」という思いは、「なれない」という信念が生み出している思考とも言えますね。そしてその信念が現実を引き寄せます。
「心が「ある」という状態だと、「ない」を埋めるための仕事ではなくて、「ある」状態から仕事をするようになるので、お金が楽に入ってくるし、ちゃんと稼げるようにもなります。
たとえば、単価を3割増しにする交渉だってできるようになります。
「別の仕事に変えたって問題ないし、なくなってもかまわない仕事だ」
と思っていれば、単価アップの要望はためらいなく伝えられるもの。」(p.31)
「「こんなにやっているのだから、お金という名のご褒美が欲しい」
これこそ、お金のない人や、お金から愛されていない人の思考癖です。
「ご褒美はいらない」
「この仕事がなくなってもかまわない」
こんなふうに思える人のほうが、じつはお金に愛されているのです。」(p.33)
雇用手や顧客に対して、何の懸念もなく単価アップを要求できるかどうか。それによって自分の信念がどうであるかがわかりますね。
「「これだけのお金をください」
あなたは、誰に対しても、どの場面でも、このように堂々とギャラの交渉ができますか?
なんのためらいもなく交渉ができるのであれば、おそらくお金に困ることもなく、すでにお金に愛されているはずです。」(p.50)
これは、自分に対する「自信」がないとできませんよね。多くの人の場合、まず自信がないから、それを埋めたくて他人からの評価を求めています。
「ですが、そのような人は、見返りやご褒美を求めているわけではありません。
親切にしたいから、そうしているだけなんです。
なので、業務外のことをしてお金をもらえなくても、文句も言わないし、お金を求めたりもしません。」(p.56)
ぱっさんは、いろいろな国を旅行してみて、その国の人々の思考や、その背後にある信念に触れた経験があるそうです。
アメリカでは、決められたサービスしかしないというのが一般的ですが、中には日本人のようなホスピタリティのある人もいたとか。でもそういう人は、見返りを求めていたのではなく、ただそうしたいからしていたのですね。
ここが、日本人との大きな違いだと思います。日本人は、そうしなければならないという同調圧力によって、そうしていることがほとんどだと感じるからです。
「「今、君と一緒にフェスに行くことが大事! 君といて楽しいし、フェスはその日しかない。音楽を楽しみたい衝動は、明日あるかわからないんだから」
このマインドが彼らの幸せであり、けっしてお金が基準ではないように感じました。
彼らにとっては、楽しそうなことや興味があるもの、行きたい場所があることこそが人生の幸せなのです。
「まずはお金を稼いでから……」というマインドはありません。
ですので、「お金は、持っている人からもらえばいい」というマインドが自然とできあがります。」(p.61-62)
これは南米の国で、お金がないのにフェスに行きたくて、臆面もなく「お金をちょうだい」と言う人がいたことから、ぱっさんが感じたことです。
こういう文化の違いは、海外へ行くとよくわかりますね。私もタイで暮らして、そういう文化の違いに驚かされましたが、そのお陰で「こんな考え方でもOKなんだ」と気づき、より自由になれたように思います。
「たとえば、あなたがミネラルウォーターやサプリの広告を見て、
「これは健康に効果があるから、飲んだほうがいいんだろうな」
と思って、購入したとします。
それ自体、あなた以外の外側からの情報です。
そして、それに反応して購入したということは、
「健康のケアをしないといけない」
という観念が、あなたの中に根付いているということ。
ケアをしなきゃと思ったということは、自分をまだ十分には大事にできていないことの裏返しです。
すると、ここで「不足感」が生まれてしまいます。」(p.66-67)
私たちのネガティブな信念は、こうやって外部からの情報によって作られるという話ですね。
健康に効果があると言われ、それを信じて買うという行動を起こせば、内部にある「健康という状態にはまだ不十分だ(不足がある)」という信念を強化することになるのです。
「では、その不足感や承認欲求を肥大させないようにするには、どうしたらいいのでしょうか?
それは、自分の内側と向き合うこと、です。」(p.69)
お勧めしている「神との対話」でも、自分の内側に入っていくことの重要性が語られています。
ぱっさんは、自分の内側と向き合うために、スピリチュアルが助けになると言います。守護霊の言葉、自分の直観など、受け取るメッセージによって、自分の内側と向き合うきっかけになるからだと。
後半は、ここまでのマインドの説明から離れて、実際に自分のマインドを変える実践を紹介しています。
まず最初は、自分のマインドを知るためのワークです。12の質問に答えていくことで、それがわかるようになっています。
そして、よくマインドブロックと呼ばれるように、どうしても変えられない否定的なマインドと向き合う必要が出てきます。ぱっさんは、その否定的なマインドをトラウマと言っていますね。
そんな変えがたいトラウマであっても、必ず変えられるとぱっさんは言います。
「結論からいうと、環境が変わるまでは、ブロックのヒーリングを続けてください。
ようするに、きちんと成功体験を得るまで、です。」(p.128)
ブロックのヒーリングについては、詳しいことは本書をお読みくださいね。これを続けていれば、必ず成功体験をすることができると言うのですね。
ぱっさん自身、親からブロックをもらっていて、お金に困っていたと言います。けれども、じっくり時間をかけて信念・価値観を変えていくことで、マインドを変えることができたと言っています。
「たとえば、母親から「あなたは何をしても無駄よ」と言われたことが原因でいつも自信がなく、それゆえにマインドが書き換えられないとしましょう。
そのブロックを解消するには、どうすればいいのか。
母親ができなかったことをするだけでいいんです。
例を挙げるなら、母親ができなかった縄跳びを跳べるようになったり、母親が苦手だったメイクをしたり、何でもかまいません。
そうするだけで、
「私は母親と違う人間なんだ」
と納得でき、ようやく自分と向き合う準備が整うのです。」(p.166-167)
「もし自分に課題があると気づいたら、簡単にマインドを変えられることから取り組んでみましょう。」(p.167)
「課題を乗り越えるのは、筋トレと一緒です。」(p.167)
いきなり100kgのバーベルを持ち上げるのは無理でも、毎日少しずつトレーニングを重ね、徐々に重いバーベルに挑戦していけば、いつかは100kgだって持ち上げられるでしょう。
自分のマインドを変えるということへの挑戦も、同じことなのですね。私はこれを、小さなバンジーを飛び続けると言っています。
「イメージとはスピリチュアルの根幹です。
内側のエネルギーそのものです。
私はそのエネルギーが地球も、またこの宇宙そのものも動かしているのだろうなと思っています。
私に降り注ぐあきらめなかった夢こそが、この世界の神からのメッセージでありスピリチュアルそのものだと思うのです。」(p.196)
ぱっさんの動画でありましたが、「世界」というのは「内側」と「外側」の2つしかなく、「内側の世界」が「スピリチュアル」だと言われていました。なるほど、そういう言い方もあるなと思いました。
ぱっさんは、内側を整えることによって、自然と外側が整ったのだろうと思います。
しかし、動画の中でも言われていましたが、内側が癒やされたとしても、外側が変わらないということはあります。ただ、それでも本人は満足していて、何も問題視しなくなるはずです。状況が同じでも、本人が問題と感じてないのであれば、外側の世界でも癒やされている、ということになりますよね。
ワークや具体的な方法については、引用を省きました。そこはぜひ本書をお読みください。
私は、特に前半部に書かれたぱっさんのスピリチュアル的な考え方について、非常に共感するものがあります。
たとえそのアプローチは違ってはいても、同じ方向を見ているなと思うのです。それが端的に現れているのが、「脅さない」「不安を煽らない」という姿勢です。
有名なスピリチュアリストや心理カウンセラーやスピリチュアル的な本をたくさん出版している著者であっても、不安を煽っていたなら私は共感できません。賛同できません。その人のスピリチュアル的なレベルを疑います。
これが、私のスピリチュアルに関する根幹的な考え方です。だって、そうでなければ理屈に合わないのですから。
2023年01月06日
日本のこころの教育
白駒妃登美(しらこま・ひとみ)さんの動画を観ていたら、白駒さんが一番お勧めしたい本ということで本書が取り上げられていました。それで興味を覚えて買ってみました。
著者は境野勝悟(さかいの・かつのり)さんです。境野さんの本は、かつて雑誌「致知」を購読していたころ、何冊か読んだように記憶しています。ここ10年以上はまったく読んでいませんでした。
本書はその致知出版社から刊行されたものですが、花巻東高校で全校生徒700人に対して行った講演の講演録となっています。また、その生徒たちから寄せられた感想文の抜萃も、終わりに付けられています。
講演録ですから読みやすく、2時間もあれば読めてしまいます。しかしその内容は深く、多くの生徒たちが感動したように、私も感動しながら本書を読みました。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
「「日本」という字を見ればわかります。わたくしたちの命の元が太陽だと知って、太陽さんのめぐみに感謝をして、太陽さんのように丸く、明るく、元気に、豊かに生きる。これが日本人だったのです。」(p.34)
日本人とは何か? そう問われた時に答えに窮してしまう。ほとんどの人はそうでしょう。それに対して境野さんは、太陽のように生きるのが日本人だと明快に答えられます。
「主義が違っていてもいい。思想が違ってもいい。それぞれが持っている才能が違ってもいい。記憶力の優れている人、創造力の豊かな人、ものごとに積極性のある人、社会性のある人。一人でコツコツやるのが得意な人。運動能力のある人。手作業のうまい人。話し方のうまい人。料理が達者な人……。それぞれの個人の才能を尊びあって生きる。ピンセットでつまんで、この才能だけがいいとか、この個性だけがいいとかというようなことはしなかった。みんなが、それぞれの特質や個性を活かして生きる。みんなで、明るく、楽しく、おたがいの才能を認めあって、おたがいの主義や主張をよく理解しあって、この共通の太陽の生命を喜びあって仲よく生きていこう……これが、わたくしたち日本人の生き方の原型だったのですね。」(p.35-36)
競争で優劣を定め、劣った人を排除するような社会は、本来の日本人の生き方ではないのだと境野さんは言います。
「いくら太陽があっても、日本の大地・自然というものがないと、わたくしたちは生きてはいけないんです。空気も、山も水も田んぼも含め、日本の大自然がないと、いくら太陽があってもわたくしたちは生きていけない。それで、命の原因の二番目にわたくしたちの先祖は日本の自然を大事にしたんです。日本の大地・自然というものがあるから、わたくしたちは日本人としてここに生きていられるんですね。」(p.46)
日本人として生きることができる原因として、1番は太陽ということでしたが、2番は日本の自然、つまり国土だと境野さんは言います。
このことから、これが日本の国土ですよという印として国旗というものがあり、日本の国旗が日の丸に定められた経緯などが語られます。
それから話題は国歌「君が代」の話になります。
「君が代」といううたは、1228年に書き写された「和漢朗詠集(わかんろうえいしゅう)」という歌集に出ています。初代本は1013年で、藤原公任(きんとう)によって選ばれた歌だとか。
けれどもそれには元歌があって、905年に編纂された「古今和歌集」に載っているそうです。つまり、約1100年前には詠み人知らずの歌として存在していて、それが今のような歌に変わったのが800年くらい前だったということです。
「古今和歌集」の原歌(もとうた)では、「君が代」が「わがきみ」となっていることに、注目してください。「わがきみ」とは、昔は、女性が尊敬したり、愛したりした男性に対して用いたことばです。すると、このうたは「読み人知らず」でだれが詠んだかは、まったくわかりません。が、平安時代(八百年ごろつくられたと考えられています)のある女性が、敬愛する自分の男性に送った「恋のうた」であったことがわかります。」(p.82)
「わたくしたちの国歌「君が代」の原歌(もとうた)は、平安時代の女性の、愛する男性への恋のうただった。素敵なことだと、思いませんか。軍国主義のうただなんて、どこで、どう間違えてしまったのでしょうか。とても悲しくなります。」(p.83)
このことは、白駒さんの「ちよにやちよに」にも同様の解説がされていましたね。
「世界のいろいろな分野での世界一の記録集、イギリスの「ギネス・ブック」を知っていますね。そこに、日本の「君が代」が、世界でもっとも古い国歌である、(The oldest national anthem)と書いてあります。」(p.85)
ギネスに認定されているとは知りませんでした。
「かつて来日したブルーノ・タウトさんが、こんなことをいっています。
「日本人は礼儀正しく勤労意欲が盛んで勉強もよくする。しかし、あまりにも自分の国について知らなすぎる」
と。」(p.88-89)
「わたくしたちは向こうからいいものをたくさんもらった。しかし向こうの人も、日本について勉強したいことがたくさんあるんです。日本について聞きたいことがたくさんある。なのに、日本人自身が日本の文化や伝統を知らない。これじゃあ、日本人って自分の国のことを知らない。教養がないなあって、他国の人に軽蔑されるのも当然ですね。「日本人って何ですか」。こんな基本的な問いにも答えられないんですから……。教養人とは、自国の文化や芸術や伝統をよく理解し、その一つか二つをしっかりと身に付けている人のことをいうのですよ。」(p.90)
これはよく指摘されることですね。諸外国の人と対等に話し合うには、まずは自分のアイデンティティを確立することであり、祖国のことをよく知って、愛する想いがなければならないのです。
「今日になって国民みんなががんばって、やっと朝昼晩三食、栄養のあるおいしい食事がとれるようになった。やっと着るものも自由に着られるようになった。やっと個人の家が建てられるようになった。こんなにも、恵みの多い国、こんなにも平和で美しい国土・自然に対して、もし、きみたちが感謝できないとしたら、不幸なのは諸君ですよ。
感謝するのは、他人の問題じゃないんだね。ああ、ありがたかった、ああ、自分でよかったと、自分が自分自身でそう思ったときに初めて、それじゃ自分は何をしたらいいか、どういう夢を持ったらいいかがわかるんだよ。自分自身の在り方に感動し、感謝するということは、何のことはない、きみたち自身の人生にとってすばらしいことなんだ。」(p.92-93)
頑張って来られた祖先の方々がおられたから、今の日本がある。そう考えれば、感謝の想いしか湧いてきません。
つまり感謝するとは、そう考えるかどうかということなのです。そして感謝することによって、それが自分の原動力となり、自分を輝かせることになるのですね。
「幸福とは何ですか。何のことはない、感謝して生きることができる人間が幸福だったんです。いくら金があったって、いくら物があったって、いくら地位があったって、ちっとも感謝できない人は、幸福になることはできない。逆に物質的にいくら不自由をしても、ありがとうという感謝の気持ちがあれば、けっこう幸福になるものなんですよ、楽しくなるものなんですよ。そういう気持ちもすごく大事だと思うんだな。感謝したところで、太陽さんは別に喜びやしませんよ。感謝して得するのは、実は君ひとりであるということを、どうか忘れないでほしいんです。」(p.94-95)
太陽の恩恵を感謝しても、太陽から見返りがあるわけじゃありません。感謝することによって、感謝した人自身が幸せになれるんです。
「自分の人生を充実させていくのは、親でもないし、先生でもないし、環境でもないように思います。きみたち自身が感謝する心を持てるかどうかだと思うのです。感謝する大自然を持つためには、自分で考えて発見しなきゃだめ。それは、人が教えてくれるものではない。自分でありがたいと思うものを、大自然の中に発見していくことなんです。
このみんなの共通の生命、みんなの共通の恵みに対して、感謝の心を育てることが、実はわたくしたちの民族の「心の教育」だったんです。」(p.96-97)
太陽だけでなく、国土の自然の様々なものに対して感謝を捧げた。それが日本人です。その思いが、八百万の神々を生み出しました。「疫病神」や「貧乏神」など、一見すると悪いと思えることにも神を見いだした。その神様を大切にしたのが日本人なのですね。
「いくら太陽があっても、いくら自然があっても、わたくしたちは生きられないのです。わたくしたちの生命の原因の三番目は、父母なんです。この「父母」とは、お父さん、お母さんだけを意味するのではありません。そのお父さんのお母さん、そのまた先のお父さんのお母さん、ずーっと……。つまり民族ですね。わたくしたち日本の民族、長い間の父母です。そういう人たちがいたから、わたくしたちはいま生きている。それで三番目に、「父母の恩」と言って父母の恵みを大切にしたんです。」(p.98-99)
この後、なぜ母を「おかあさん」と呼び、父を「おとうさん」と呼ぶかという語源の話があります。
よく知られていることとは思いますが、「か」や「かっ」「かあ」は太陽を表すから、「お・かあ・さん」とは「太陽さん」ということですね。うちの「かみさん」とも言いますが、「かみ」とは「日身」であり、太陽の化身、つまり「神」なのです。
ついでに「おとうさん」も「お・とう・さん」であり、「とう」とは「尊い」ということです。つまり、「尊い方」という意味で「おとうさん」なのです。
また、小林多喜二氏のお母さんのエピソードも載っていましたが、これには泣けて仕方ありませんでした。
「蟹工船」を書いたことで逮捕留置された多喜二氏は、獄中で身体が弱っていきます。面会など許されない時代でしたが、北海道の小樽で暮らすお母さんの元に、5分でよければ3日後に面会させるから来い、という通知が届きます。お母さんはお金を借りて集め、列車に乗りますが、雪で立ち往生することがありました。それで1つ先の駅に列車が停まっているなら、それに乗り換えようと歩いて行く。必死で約束の日時に間に合わせようとしたのです。
やっと面会が叶っても、顔を見ては伏せて泣き崩れる。会話になりません。看守に促されてやっと言ったのは、「おまえの書いたものは一つも間違っておらんぞーッ。」(p.117)という絞り出したような言葉でした。
面会はそれで終わり。お母さんはまた雪の小樽に戻っていくのです。
多喜二氏は、一度は釈放されるものの、すぐにまた逮捕され、死刑を待たずに獄中で死んだそうです。その最後の言葉を、境野さんは語っています。
「遺憾ながら私は地獄へは落ちません。なぜならば、母が、おまえの書いた小説は一つも間違っていないと、私を信じてくれた。むかしから母親に信じてもらった人間は必ず天国へ行くという言い伝えがあります。母は私の太陽です。その母が、この私を信じてくれました。だから、私は、必ず、天国へ行きます」
ときどき息を絶えながら、最後の力をふりしぼり、そう言い切って、彼は、にっこり笑って、この世を去ったというのです。
多喜二のお母さんは、漢字が一つも読めないんですよ。片仮名がほんの少ししか書けなかった。だから、息子の書いた難しい小説は一行も読んでいないのです。にもかかわらず、「おまえの書いたものは間違っていない。お母さんはおまえを信じておる」と声を張り上げて言ったそうです。」(p.118-119)
野口嘉則(のぐち・よしのり)さんの本に、「僕を支えた母の言葉」というのがあります。これにも、息子のことを信頼する母の姿が描かれていました。
母親は、子どものことをただ「それでいい」「あなたでいい」と受け止める、信頼する。それが何よりも大切なことなんだなぁと思います。
そしてそれは母親だけの役割ではなく、私たち人としての生き方、在り方につながるのではないでしょうか。私はそう思うのです。
そして、私たちが日常的に使って挨拶言葉についてです。「こんにちは」「さようなら」と言いますが、その意味は何でしょう?
多くの人が、その意味を知らずに使っています。ある意味で「どうも」も同じですね。関西の「おおきに」もそうです。それだけでは意味をなさない言葉ですが、それに続く言葉が隠されており、それを含んだ意味を持っているのです。
「昔は、どの地方でも太陽のことを「今日様」と呼んだのですから、
「今日は」
という挨拶は、
「やあ、太陽さん」
という呼びかけであったのです。
「元気ですか」の元気とは、元(もと)の気(エネルギー)という意味ですから、太陽の気(エネルギー)をさすことになります。つまり、「今日は、元気ですか」とは、あなたは太陽のエネルギーが原因で生きている身体だということをよく知って、太陽さんと一緒にあかるく生きていますか、という確認の挨拶だったのです。」(p.122)
「「さようなら(ば)、ご機嫌よう」
となります。
「機嫌」とは、「気分」とか、「気持ち」という意味です。したがって、
「さようなら、ごきげんよう」の意味は、
「太陽さんと一緒に生活しているならば、ご気分がよろしいでしょう」
となります。」(p.123)
日本語の挨拶にも、太陽の存在が表れています。日本人は、常に太陽とともに生きてきたのですね。
この講演を聞いた700人の生徒から、感想文が届いたそうです。境野さんはそれをすべて読んで感動し、本書の刊行が持ち上がった時、その感想文を含めたいと思われたそうです。
以下は、その感想文からの引用になります。
「外国の人が自分の国を自慢しているのをよくテレビで見かけますが、日本人は日本の国をけなしてばかりで、日本の国に自信を持っている人を見たことがありません。境野勝悟さんが言った日本の心の話で、日本人として自分に自信が持てるようになりました。」(p.139)
「日本といえば、すぐ、ここが悪い、ここがいけない、などの悪い意見しか今まで耳にしなかったが、なぜ大人たちは、この美しい思想を持った日本人の良い面を提示しないのだろうかと感じた。」(p.142)
自虐史観という言葉がありますが、戦後の日本はGHQの日本精神骨抜き戦略によって、精神的にズタボロにされた感があります。今の私たちにできることは、そういう自虐的な見方を排して、日本の素晴らしさを再発見し、その情報を共有していくことではないかと思います。
「極端に否定的な目で日本をみながら教育していると、日本の子どもたちの将来に、光が射してこない。」(p.171)
境野さんもこのように言っています。
私もそうですが、私たちは日本のこと、日本人のことを、もっともっと学ばなければいけないなぁと思います。
もちろんその中では、悪かったと感じることはあるでしょう。しかし、だからと言って罪悪感を感じて前に進めなくなってはダメなのだと思います。
反省すべきことは反省して、前を向くことが大事です。そのためにも、虚心坦懐に多くの人の考えを聞いて、日本についての知見を深めていくことが大切だと思います。
そのための第一歩として、この本は役立つのではないでしょうか。高校生へ向けた講演であり、難しい話はひとつもありません。この本の内容に触発されて、日本人としての自信を深めるなら、何よりだと思うのです。
2023年01月09日
うまく老いる習慣
これもYoutubeの本の要約を紹介する動画を観て、良さそうだと感じたので買った本です。
著者は「心が元気になる」をテーマとした著述活動をされている植西聰(うえにし・あきら)さんです。資生堂の勤務後に独立され、人生論の研究をされ、独自の「成心学」理論を確立されたのだとか。ひと言で言えば、ずいぶんと変わった方のようです。まあ、私も他人のことは言えませんがね。(笑)
本書は、9章の大きなテーマ別に、見開き2ページにまとまった考え方や方法を紹介するという体裁になっています。そのため、たいへん読みやすく、どこから読み始めても楽しめるようになっています。
また、多くの先人の生き様や言葉が紹介されていて、それを知るだけでも教養が深まりますね。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
「もし60歳で仕事に一区切りつけて100歳まで生きるとすれば、「シニア人生」は40年もある計算になります。
言い換えれば、この「シニア人生」をいかにポジティブに生きていくかということが、その人の人生全体にとって大きな意味を持つのです。」(p.3-4)
冒頭で植西さんはこう言って、シニア人生を有意義に過ごすことの重要性を述べます。
「人それぞれに、その人なりの「シニア人生」があるのです。
とはいえ、どのような生き方を選択するにせよ、「シニア人生」を幸せなものにするためには、いくつかの共通点もあるように思います。
それは、たとえば、「夢や、生きがいになるものを持つ」ということです。
また、「小さなことでクヨクヨしない」ということも大切でしょう。
言い換えれば、「心をプラスの状態に保つ」ということが、とても重要になってきます。
心がプラスの状態であってこそ、前向きな、ポジティブな生き方ができるようになるからです。」(p.4-5)
何よりも重要なのは、心の状態をポジティブに保つこと。その思考習慣を身につけることだと私も思います。
第1章の「夢・生きがいを持つ」の中から引用します。
「そのように、旅の準備をすることは、その人にとって楽しい生きがいにもなっていきます。
したがって、そういう意味では、年齢にかかわらず好奇心を持って、いろいろな場所に旅していくのが若返りの秘訣だと思います。」(p.29)
私も長期の旅、特に一人旅を勧めていますが、旅を計画するだけで好奇心がかき立てられますね。
「60歳から65歳という年齢は、「これから第二の人生が始まるんだ。この第二の人生を、どのように生きていこうか」と考える、いい機会になると思います。」(p.37)
退職後のシニア人生を「余生」と考えるのではなく、「第二の人生」と考えるようにしようという主張です。
これから新しい人生が始まるのだと思うと、それだけでワクワクしてきます。私も今61歳ですから、自分のこれからの人生を、ワクワクしながら夢見たいと思います。
次は第2章の「年齢を意識しない」からです。
「体力が落ちたり、記憶力が悪くなると、つい人は自分の年齢を意識してしまいがちです。しかし、そこで、できるだけ自分の年齢を意識しないことが、若々しさを保っていくコツになるのです。」(p.45)
「もう若くないから」みたいな口ぐせをやめることですね。そういう口ぐせによって、自分で自分を洗脳しているんですよ。だったらむしろ、「まだまだ老け込む年齢じゃないから」とか、「今、第二の青春のまっただ中だ」みたいな言葉を口ぐせにしたいですね。
「ある人は、朝、洗面台の鏡に映る自分の顔を見ながら、「自分は今日も若い。若々しい顔をしている」と、自分に言い聞かせているそうです。
そういう習慣を持つことで、「気持ちが若々しくなるように感じられ、それとともに、いろいろなことにポジティブにチャレンジしていける」というのです。」(p.63)
これはまさに私が提唱している「鏡のワーク」のようなものです。自己洗脳の効果的な方法です。
そういうことと共に、やはり筋トレなど運動をして、一定以上の体力を維持することも重要だと思います。やはり気力も、体力があってこそ湧いてきやすくなりますからね。
次は第3章の「行動力を高める」からです。
「「学ぶ」ということは、もちろん、脳にとってもいいことなので、認知症予防にもなります。
しかし、そればかりではなく、より行動的に生きていこうという意欲も湧いてきます。
そして、積極的に学び、意欲的に行動していく人は、いつまでも若々しいのです。」(p.81)
83歳で亡くなったヘンリー・フォードが80歳になっても学び続けたことを例に、何歳になっても学び続けることが大切だと植西さんは言います。
たしかに、何かを学ぶということは、好奇心を持ち続けていることでもあるので、精神的に若いと言えるでしょう。
次は第4章の「楽天的に考える」からです。
「この先、どうなるかはわからなくても、「人生は結局、なるようにしかならない」と、いい意味で開き直って、「今日という日を幸せに過ごせるならば、この幸せを満喫しよう」と考えるほうが賢明です。」(p.92-93)
年老いてできることが減っていくと、段々と心細くなり、心配が増えるというのも事実でしょう。しかし、そうであっても、どうにもならないものはしょうがないと開き直れば、サバサバとしていられるものです。
そのことが理解できれば、あえて心配することに頭をつかうのではなく、あえて楽天的に考えるようにする。その心がけが大事だと思います。
「この「手にみてり」とは、すなわち、「こだわっているものを手放せば、もっと豊かなものを手にすることができる」ということです。
では、その「豊かなもの」とは何かと言えば、それは、たとえば「精神的な気楽さ」です。
あるいは、「シンプルな生活」です。」(p.104-105)
禅の言葉にある「放てば手にみてリ」から、植西さんはこのように言います。
お勧めしている「神との対話」シリーズでも、1つの扉が閉まればまた別の扉が開く、とありました。何かを手放せば、別の何かをつかむことができるのです。それが何かはわかりませんが、そこでまずは勇気を出して手放すことが大事なのですね。
「楽天的な人は、一般的に、健康的に長生きでき、また、心血管死のリスクが低い、という研究結果があります。
では、その「楽天的な人」とは、どのような人なのでしょう。
それは、たとえば、次のような性格を指すのです。
*これからの人生で、自分に何が起こるか楽しみにしている
*将来に向けて、たくさんの計画を持っている
*日々の生活を「ゆっくり楽しんでいこう」と思っている
まずは、年令を重ねても、「将来を楽しみにする」ということが大切です。」(p.108)
心配性が病気の原因になると言われますが、その逆もまた真なりで、楽天的な性格は病気を遠ざけるものです。
次は第5章の「クヨクヨしない」からです。
「この坂村真民は、「年をとることはいいことだ。とってみなければわからない世界が開けていく」と述べました。
確かに、年齢を経なければ、わからないということがあると思います。
たとえば、「生きていることの、すばらしさ」です。
若い頃は、「生きている」ということは当たり前すぎて、何の感動も覚えないかもしれません。
しかし、年令を重ねると「今生きている」ということ自体が、とても貴重なこと、ありがたいこと、すばらしいことに思えてくるものです。」(p.126-127)
歳を取って老い先が短いからこそ、平凡な日常の中に感謝のタネを見出すこともできます。
何となく頭でわかっていたことであっても、いざ自分がその状況に置かれることで、切実に感じることができる。だから、なにごとも経験することが大切なのですね。
若い頃には若い頃の経験があり、歳を取れば歳を取った後の経験がある。そう思えば、未知の経験を楽しむことができるでしょう。
次は第6章の「楽しいことをする」からです。
「すると、75パーセントを超える人たちが、「読書が好きだ」と答えたといいます。
さらに、「読書が好きだ」と答えた人の80パーセント近くが、「月に2冊以上の本を読む」と答えたといいます。」(p.142)
にわかには信じがたいのですが、60歳以上のシニア層へのアンケート調査結果だそうです。これだけ読書が好きで、学ぶことが好きで、好奇心が旺盛なら、老後の生活が楽しいでしょうねぇ。
でも、本当でしょうか? 少なくとも私が勤める老人介護施設で、そんなに読書をしている姿は見ません。見ていないところで読んでいるのでしょうか?
以前、あるテレビ番組で健康寿命が長い地域の特徴として、図書館の利用が多いというのがありました。知的な好奇心があり、読書の習慣があることが、健康で長生きすることにつながっているのかもしれません。
次は第7章の「よく笑う」からです。
「確かに、いい年齢のとり方をしたおばあちゃんや、おじいちゃんの笑顔は、とてもほがらかで、かわいらしいものです。
そんな「笑顔がかわいいシニア」になることを目指すのがいいと思います。
「笑顔がかわいいシニア」イコール「幸せなシニア」ともいえるのではないでしょうか。そして、「笑顔がかわいいシニア」イコール「心が澄んでいるシニア」と言うこともできると思います。」(p.179)
好々爺(こうこうや)という言葉がありますが、いつもニコニコしていて憤ることがなく、何でも受け入れてくれるような優しい人という印象があります。私も、そういうシニアになりたいものです。
本書は、同じような内容が繰り返されているという面もあるように思いますが、見開き2ページで話題が完結しているので、読みやすいとも言えます。
より良い老後のために、何をどう考え、行動すればよいかというヒントを得たいのであれば、こういう本はお勧めですね。パラパラとめくってみて、気になったページだけを読むという読み方もあると思います。
古今東西の先人たちの言葉や生き様の紹介もあるので、知的な好奇心も満たせるでしょう。気になった人の書物などを読むきっかけにするのも良いかと思います。
2023年01月17日
免疫力が上がるアルカリ性体質になる食べ方
これも本の要約をしているYoutube動画で知った本ですが、著者の小峰一雄(こみね・かずお)さんのことは、以前に「名医は虫歯を削らない」という本を読んでいたので知っていました。
本書のタイトルからして、よく言われているようにアルカリ性食品を食べることでアルカリ性体質になることが、健康のために重要だという内容だとわかります。それにしても、なぜ歯科医の小峰さんが? そこが疑問でした。
しかし、本書を読むことで、小峰さんがなぜアルカリ性体質に注目されたのか、そしてそのアルカリ性か酸性かでどういう違いが現れるのかが、よくわかりました。
実に興味深いと感じました。そして、歯と身体とは切っても切れない関係があるのだと、改めて思いました。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「そしてそのアンケート結果を分析したところ、その食事内容にある明確な違いを見出しました。そこからさらに研究を重ね、小峰式虫歯予防プログラムを確立した他、虫歯は食事療法で自然治癒できるという結論を得ることができたのです。」(p.6)
「すでにヨーロッパでは、唾液PHが酸性に傾いている人は虫歯や歯周病のリスクが高いとされていたため、筆者のクリニックでも初診の患者さんにおいては唾液PHを測っていましたが、PH値が低い人、すなわち酸性体質の人は虫歯が多いだけでなく、何らかの病気を持っている可能性が高い場合が多いことがわかりました。」(p.7-8)
「そしてわかったのが、体内のPHがアルカリ性に傾いている人は虫歯がなく病気にかかるリスクが低いということ。それは新型コロナウイルス感染症に対しても同様で、すなわちアルカリ性体質になることは、ワクチンに勝る予防策であるということができるのです。」(p.8)
このように冒頭で、歯の病気である虫歯などと、身体の病気との関連が、唾液PHを計測した結果からわかってきたことが語られています。
「この一件依頼、筆者はインプラントを装着している患者さんが来院するたび、電磁波メーターで状態を測定していますが、やはりその多くの患者さんの口の中で電磁波が発生していることがわかりました。」(p.16)
小峰さんが口腔内のPHに興味を持つきっかけになったのが、歯の詰め物や被せ物に金属を使った場合の悪影響に関する研究を知ったことだそうです。
酸性の液体に触れた金属はイオン化し、溶け出すことで、その液体が電解質となり、電流が流れます。電流が流れば磁場が発生し、電磁波が起こります。また脳や神経は電気信号をやり取りしているので、そこに悪影響が起こると考えられるのです。
「唾液PHが酸性に傾いている人ほどガルバニック電流の電圧が高いことが確認できました。また金属の種類やメーカーによって異なるものの、唾液が酸性に傾いている人ほど、歯の詰め物等に使われた金属部分が黒く変色しており、中には炭のように真っ黒になっている人もいました。」(p.18)
「ガルバニック電流」というのは、先ほどの金属が酸性液に触れて発生する電流のことです。
このガルバニック電流の大きさの違いがなぜ起こるのかを調べたところ、金属の種類などより、唾液の酸性度の違いによる影響が大きいことがわかったのだそうです。
「有害ミネラルは魚介類や、農薬を使った米や野菜、加工食品などに多く含まれている他、気をつけたいのが調理で使うことが多いアルミ鍋やアルミ箔です。」(p.22)
「二つめの経路は、空気中に含まれる有害ミネラルを肺から吸い込むことです。特に中国から飛来するPM2.5には、鉛やカドミウム、ヒ素などが多く含まれているので、PM2.5が多い日は外出を控えるなど、何らかの対策が必要です。またタバコにはアルミニウムやカドミウムが含まれているため、喫煙や受動喫煙も有害ミネラル中毒の一員となります。」(p.22)
「そして三つめの経路が、皮膚と有害ミネラルが接触kし続けることです。中でも口腔内の粘膜は、体表に比べて48倍吸収率が高い他、唾液が酸性に傾いていると有害ミネラルが溶け出しやすくなるため、より有害ミネラルを吸収しやすくなります。」(p.24)
口腔内にガルバニック電流が起こることで、脳障害や味覚障害、そして有害ミネラル中毒も起こると小峰さんは指摘しています。
有害ミネラル中毒そのものは、体内に有害ミネラルが取り込まれることで起こります。ただその経路の1つに、口腔内があるのですね。
以前はアマルガムを詰め物に使用していましたが、悪影響が明らかになったことで、今では使用されていません。
「特に唾液PHが酸性に傾いている人は、より有害ミネラルが体内に溜まりやすいと考えられます。というのも、体に有害な老廃物や有害ミネラルは、有害でないミネラルによって体外に排出されますが、酸性体質の人は、その酸を中和させるためにそれらをより多く使ってしまうため、常にミネラル不足の状態になっているからです。」(p.24)
有害ミネラルを吸収しにくくするためにも、口腔内をアルカリ性にしておく方が良い。そう、小峰さんは言われます。
「一方、小唾液腺は口腔粘膜やのどの粘膜に無数にあり、食事のタイミングとは関係なく、常に唾液を分泌して口の中を潤しています。つまり小唾液腺から分泌される唾液は、間質液(体液)に成分が近いと考えられ、この唾液PHがすなわち、体全体の状態を表していると考えられるのです。」(p.25)
唾液腺の中でも大唾液腺から出される唾液は、消化酵素を多く含んでいるそうです。食事の助けになるものです。
小峰さんが注目したのは小唾液腺から出る唾液で、これは体液とほぼ同等のものだと考えられたのですね。つまり、口腔内をアルカリ性にしておきたいのであれば、体液をアルカリ性にする必要があるということです。
「前述したようにこの乳酸を含む酸はミネラルによって中和されますが、これは酸性体質だと常にミネラルが不足した状態になるため、慢性的に疲労感を感じるようになってしまうのです。」(p.28)
酸性体質によって身体にどういうことが起こるかについて、小峰さんは、免疫力低下、慢性的な疲労感、栄養素の吸収不全、皮膚炎や口内炎、骨粗鬆症、生活習慣病などを上げています。
その中の疲労感については、疲労物質の乳酸が中和されずに残ることが原因だとしています。その他も、必要なミネラルが不足してしまうことなどが原因で起こると考えておられるようです。
「また酸性体質は、がんの発生とも大きく関係しています。1931年にはドイツの生理学者・Warburg博士が、がんが無酸素や酸性条件下で発症あるいは増殖することを発見し、ノーベル生理学・医学賞を受賞しています。実際、筆者のクリニックで行っている唾液PH検査でも、PH7.0以上(アルカリ性体質)の方は健康な方が多い一方、7.0未満の低PH、つまり酸性体質の患者さんは有病率が高い傾向にあります。」(p.31)
小峰さんは、体液が酸性かアルカリ性かで、がんになりやすいかどうかも決まってくると言われています。
「これは筆者の個人的な見解ですが、新型コロナウイルス感染者がアメリカで爆発的に増えたのは、現地で普段よく食べられているピザやフライドポテト、ハンバーガーなどのジャンクフードの90%近くが酸性食品であることが一因だと思っています。また基礎疾患のある人が重症化しやすいのも、病気の人や薬を飲んでいる人のPHは酸性に傾いている場合が多いこととも一致しています。」(p.33)
「スイス、チューリッヒのジェイソン・メルツァ先生の論文によると、ウイルスの一部は直接細胞内に侵入できるものの、ある特殊な環境が必要になる、としています。例えばデング熱ウイルス、C型肝炎ウイルス、アデノウイルス、手足口病ウイルス、インフルエンザウイルス、ヘルペスウイルス、HIVウイルス、ヒトパピロマウイルス、コロナウイルスなどは、酸性環境でないと細胞内に入れない、としています。つまり、ほとんどのウイルスは、アルカリ性環境下では生存できないのです。」(p.33-34)
このように、ウイルスなどによる感染症を防ぐには、体液をアルカリ性にすることが重要だと小峰さんは言います。
「その結果わかったのは、酸性体質の患者さんとアルカリ性体質の患者さんでは、食事内容が全く異なるということ。一言でいうと、「アルカリ性食品を摂取している人ほど、アルカリ性体質である」ということです。」(p.38)
体液をアルカリ性にするには、アルカリ性食品を接種することが重要だと小峰さんは言います。この因果関係は科学的にはまだよくわかりませんが、小峰さんの実感なのでしょう。
では、アルカリ性食品とは、どういう食品でしょうか?
よく言われるように、梅干しは、そのままで測れば酸性です。しかし、体内ではアルカリ性になる。ここがアルカリ性食品をわかりにくくさせています。
「食品の体内におけるPH値を計測したい場合は、その食品を完全に燃焼させ、灰にした状態で酸性ミネラル量とアルカリ性ミネラル量を計測します。灰にすることで体内で変化した状態に近いPHが得られるのです。例えば梅干しの場合、加熱前はPH4の酸性でしたが、加熱後はPH10のアルカリ性になります。」(p.42)
う〜ん、これは理屈としてはやや疑問です。まず、体内で燃焼は起こっていません。また燃焼したらミネラルが変化するというのも、ちょっと説明不足ではないでしょうか? たとえばでいいので、化学式を示してほしかったところです。
「今回、筆者が本書を執筆した最大の目的は、世の中には酸性食品とアルカリ性食品があることを知っていただき、健康のためにはアルカリ性体質になる食生活を心がけていただきたいという思いからです。」(p.42-43)
たしかに、わかりにくいから浸透していないという一面もありますね。
「その違いとは一言でいうと、酸性体質の人は炭水化物や動物性たんぱく質の摂取量が多く、アルカリ性体質の人は、生野菜や果物の摂取量が多いということです。」(p.43)
つまり、アルカリ性食品とは、主に生野菜や果物ということのようです。
このあとに一覧表がありますが、たとえば「生ほうれん草」はPHチャートの10(もっともアルカリ性が強い)にランクされていますが、「調理したほうれん草」は6にランクされています。
どうしてこういう違いが生じるのか、それはよくわかりません。実際に計測した結果と言われてしまえばそれまでですが。
他には、海藻、レモン、オリーブオイル、発芽穀物、果物、大豆、アーモンドなどが、8までにランクされていました。煮豆やビールなどはランクが5で、5以下は酸性食品になるのだそうです。
「ただし、何が何でも酸性食品をゼロにする必要はありません。ヨーロッパでは酸性食品20%、アルカリ性食品80%の摂取が理想とされていますが、最低でも酸性食品が全体の食事の割合の50%を超えることがないよう心がけることが重要です。」(p.46)
酸性に傾くかアルカリ性に傾くかは、摂取したもの全体のバランスによるのですからね。
ここからあと、小峰さん自身のメニューが載っています。朝食は食べないか、りんごなど果物と紅茶など。またサラダもアルカリ還元水に晒すなどしておられるようです。生野菜は、1日に1kgも食べられるとか。ふつうの人の食生活とは、大きく違うようです。
「酸性体質をつくる要因の一つめは、それはストレスです。
ストレスが酸性体質をつくるのか、酸性体質がストレスを生み出すのかは定かではありませんが、関連性が高いことは筆者のクリニックで行っている検査からも明らかです。」(p.60)
体液(唾液)が酸性になるのは、食事の影響だけではないということですね。因果関係はわかりませんが、ストレスとの相関関係は、十分に考えられることかと思います。
「この場合、誤診はもっての他ですが、腹立たしいのは、歯科医師が「治療をしないと命にかかわる」と患者を脅したことです。本来なら、担当医が病気の原因と対処法を伝えて、最後に「きっと治りますので頑張ってください」と励ますべきです。しかし日本は、薬剤処方、手術、検査等で利益を得る医療システムになっているため、精神的に勇気づけることは一切利益にならないとでも考えているのでしょうか。むしろ不安を煽ることで薬剤処方や手術に導いているように感じられます。」(p.64-65)
ストレスが病気を生み出すことはよく知られてますが、医療現場では、患者の不安を煽ってストレスを与えることが日常茶飯に行われています。
この例では、歯根治療をしないと膿が脳に回って命の危険があると患者を脅した歯科医の発言を問題視しておられます。これに限らず、似たようなことは普通にあります。
昨年、TVでは統一教会関連で話題が尽きなかったのですが、マインドコントロールしてお金を出させるって、医者がやってることと同じではないかと思いますよ。
私が勤める老人介護施設の利用者さんも、多剤併用の方が多数おられます。なぜそんなに薬をたくさん処方するのか? 患者は素人だから、医師に質問することすらできません。それを良いことに、これしか方法はないかのように決めつけ、それをしなければ大変なことになると脅す。
本当に、病気を生み出しているのは医療関係者ではないかとすら思えてきます。
「水素は、酸化された身体をアルカリ性に中和するため、水素吸入することで体内に溜まった活性酸素が中和されると考えられます。人はストレスを感じたり、急性疾患を患うとPHが低下することがわかっていますが、一方で水素が症状を改善したり、PHを上昇させることも確認しています。」(p.88)
酸性体質からアルカリ性体質に改善するための方法がいくつか書かれていますが、その中で水素吸入というのもあるそうです。
水素水という得体の知れないモノが流行ったりもしましたね。今もまだ売れているのでしょうか。私自身は、こういう不自然なものに頼るのはいかがなものか、と思っています。不自然なことをしないと健康が保てないとすれば、それは人間(動物)の欠陥だと感じるからです。
「もっとも身体を酸性にするもの、それは薬剤の服用です。特に日本の社会では当たり前のごとく大勢の患者さんに大量の薬剤が処方されております。ご存知ない方も多いと思いますが、世界中には「薬剤処方は一人の患者に対して最大4剤までとする」「60歳以上の患者に対しては最大2剤までとする」というルールがあります。それは薬剤服用者ほど病気になりやすいことや、長期服用者の致死率が高いことが証明されたからです。」(p.98-99)
先ほど言った多剤併用の害について、小峰さんも指摘されています。ただ、薬剤がなぜ酸性体質の原因になるかについては、何も言及されていません。おそらくこれも、小峰さんの実感ということなのでしょう。
「砂糖を摂ると虫歯になりやすい、というのは日本理論にも共通しています。しかしその理由は、「酸が発生して歯を溶かすから」というものではありません。アメリカ理論では、砂糖を摂ると血糖値が上昇し、今まで内側から外側に向かって流れていた間質液が逆流するため、口の中の細菌が歯の内部に吸引され、虫歯になるというものです。確かにこの理論ならば、日本理論では説明のつかなかった「虫歯が歯の内側から進行する」理由を説明できます。」(p.112)
なぜ虫歯ができるかということに関して、確立された理論があるわけではないようです。
日本理論はよく知られているように、食物を餌にした細菌が酸を出して歯を溶かすとされています。しかし、アメリカ理論やヨーロッパ理論は、違う原因を提示しています。
「さらにロマリンダ大学は、ストレスでも虫歯が発症することを実証しています。つまり人は何らかのストレスを受けると間質液の流れが停滞し、自浄作用が弱まるため虫歯になりやすいということです。」(p.112)
歯というのは死んだ無機物ではなく、生きている体内組織の一部なのですね。だから間質液が循環している。それによって健康を保っているのです。
だからその間質液の循環が乱れるようなことをすると、健康を害することになる。これがアメリカ理論です。
「このPHに関する文献の中で、最も興味深く感じたのは、「PH7.5の人には虫歯は一本も確認できなかった」ことと、「PH6.5以下で虫歯がない人はいなかった」ということです。」(p.118)
ヨーロッパではすでに、唾液PH検査をすることが一般的になっているそうです。つまり、虫歯のできやすさは唾液PHによって決まるということです。
「ヨーロッパ理論でも、アメリカ・ロマリンダ大学が発見した、歯のリンパ液(間質液)が流れているという理論をベースにしていますが、ただし虫歯が発生するのは、リンパ液(間質液)が酸性に傾いているときとしています。間質液は、酸性化すると歯のミネラル分が溶け出し、中和しようとする緩衝作用が働きます。そのミネラルが溶け出したところに空洞が生まれ、そこに細菌が入り込むことで虫歯を発症するというものです。」(p.119)
歯の平らな表面とか先端に虫歯が発生する理由も、このヨーロッパ理論なら説明できると小峰さんは言います。
私は、どれか1つが正しいのではなく、それぞれが正しいのではないかと思いました。間質液の循環の不良、間質液の酸性化、そして口腔内の細菌が作り出す酸の影響など、すべてが相互に関連しあっているのではないかと。
小峰式の虫歯予防には、砂糖の摂取制限、ストレス解消、運動不足解消、微小栄養素不足改善、薬の服用中止というものがあるそうです。
「逆に考えると、虫歯ができやすい人は血糖値が上昇しやすい可能性があり、将来的に血管の病気(心筋梗塞・脳梗塞・その他)を起こしやすいと考えられます。」(p.124)
血糖値の上昇度合いには個人差があり、だから糖質を摂っても虫歯にならない人がいると小峰さんは言います。
つまり、虫歯になりやすいかどうかは、血糖値が上昇しやすいかどうかと関連しているということですね。したがって、必ずしも糖質制限するのが良いわけではなく、自分の体質と相談しながら、低GI食を増やしていくことが重要だということです。
「微小栄養素(ビタミン・ミネラル)不足を解消するためには、生野菜をたっぷり食べるのが効果的です。生野菜を食べると体が冷える、と思っている人も多いようですが、筆者が試した限り、一時的に体温が下がることもありますが、すぐに平熱に戻りますし、むしろ高くなることもあります。実際、筆者は1日1kgの生野菜を毎日食べていますが、平均体温は最近では37℃をキープしています。」(p.128)
生野菜は体を冷やすし、そもそも大量に食べられないと言われますが、小峰さんはそれでも生野菜を大量に食べて、効果を実感されているようです。
「長期間、薬を飲んでいる人の多くは、生活習慣病の方だと思いますので、そういう方はまずは日常生活や食生活を見直すといいでしょう。患者さんの中には、薬を飲み続ければいつか治ると信じている方もいるようですが、何度も書いているように、薬は対処療法であって原因療法ではありません。食習慣や生活習慣を改めない限り、一生薬を飲み続けることになるのです。」(p.130)
生活習慣病の対策として薬を飲み続けることは、害はあっても益がない。私もそう思います。
「ハーバード大学のバン・ダイク教授は2012年に発行されたアメリカ歯周病学会の会報誌に「歯周病は感染症にあらず、これまでの感染症対応治療は誤りであった。歯周組織の細胞環境に問題あり」と発表しました。そして歯周病の原因として、糖質の摂取とマグネシウム不足、カルシウムの過剰摂取、オメガ3脂肪酸不足、ビタミンC不足等を挙げています。」(p.136)
アメリカ理論による歯周病の原因は、細胞環境であり、それを決めているのは食べたものということのようです。
「そのメカニズムは、歯肉から染み出る組織液「歯肉溝滲出液(しにくこうしんしゅつえき)」のPHが酸性になると、歯周ポケット(歯と歯茎の境の溝)内に細菌やカビ菌、ウイルスが生息しやすくなる、というものです。逆にアルカリ性になると生息できなくなるため、歯周病が改善するとしています。」(p.136-137)
ヨーロッパ理論の歯周病の原因は、やはり体液の酸性化にあると言うことですね。唾液が酸性化しているから、歯周ポケットに細菌が増え、さらに酸を排出して歯茎を痛めてしまう。
アメリカとヨーロッパの歯周病発生理論は、このように少し違いがあるようです。ちなみに日本は、口腔内の細菌が増えることが原因で、歯垢や歯石が最近の巣窟になっているとしています。
「筆者は10年以上、日常的な歯磨きはしれおらず、炭水化物を食べすぎたときだけ磨くようにしています。また乳製品を摂らないので、歯石が付いたこともありません。」(p.139)
私も、歯磨きは寝る前だけです。それでいて最近は、虫歯になることがありません。以前はしょっちゅう歯科医のお世話になっていたのですがね。
もともと虫歯菌がいない人がいて、そういう人は歯磨きをしなくても虫歯にならないと言われていますよね。でも、本当にそうなのでしょうか? 私にはまだ納得できない部分があります。おそらく、科学的にもまだ解明しきれていないのでしょう。
「夕食は、仕事から帰って遅い時間に食べる人も多いと思いますが、夜8時以降に食べると血糖値が上がりやすくなります。するとメラトニンという睡眠のホルモンの分泌不全に陥り、睡眠障害を引き起こすだけでなく、様々な生活習慣病の重大な原因になります。」(p.154)
「さらに朝食についても思うことがあります。それは、世界には朝食を摂らないほうがいいという多くの研究論文がある中、なぜ日本だけは「朝食は摂らなければならない」という論調が主流になっているのか、ということです。」(p.155)
小峰さんは食生活の改善を提唱されていますが、本書では、徹底した酸・アルカリの区別、栄養は全体のバランスで考える、食事内容を吟味する重要性、食品添加物の排除、食生活パターンの改善、というテーマで語られています。
上記は食生活パターンの改善からの引用ですが、考えさせられますね。ちなみに私は、朝食抜きもやっていましたし、たんぱく質をメインで食べるというのもやっています。自分の身体を使って、いろいろ試してみることも重要だと思います。
「3歳までは薬剤系の摂取は控えなければなりません。幼少時に薬剤系を摂取すると脳障害を起こす危険性があるのです。脳には「血液脳幹門」という関所のようなものがあり、これが完成するのは3歳です。したがって、3歳前に薬剤系を摂取すると薬剤が脳に届いてしまい、脳の損傷を起こす可能性があります。」(p.172)
これはまったく知らない情報でした。1歳まではハチミツを飲ませてはいけないとか、いろいろあるようですね。
なお、「血液脳幹門」と本書にはありましたが、正しくは「血液脳関門」のようです。誤植でしょうね。意味からしても「関門」ですから。
「日常生活で減菌・消毒をやり過ぎると、免疫力が低下してしまいます。もともと免疫力の低い人は感染に注意しなければいけませんが、減菌・消毒をやり過ぎると、いつまでたっても免疫力が上昇しないのです。」(p.173)
健康のためには微生物との共存が重要です。耐性を高めるためにも、ある程度のストレスにさらす必要があるのですね。
しかし、その匙加減が難しい。過ぎたるは及ばざるが如しですから、清潔好きもほどほどに、ということでしょうか。
いわゆるアルカリ性食品を食べてアルカリ性体質にすれば健康になる、という類の本かと思っていましたが、まったく違っていました。
歯科医の観点から、酸性やアルカリ性体質が虫歯や歯周病に関連していることを理論的に説明され、歯と身体はつながっているという観点からその体質が体全体の健康に関係してくるという内容でした。
ある意味で、虫歯は健康のバロメーターでもあるなと思いました。身体が健康的であれば、虫歯も歯周病も起こらない。
そうであれば、日本のこれまでの口腔ケアを中心とした虫歯予防法が、大きく変わる可能性があります。老人介護施設で利用者様の口腔ケアもやっていますが、時々、これにどれほどの意味があるのだろうと思っていました。
すぐに結論が出せることではありませんが、新たな視点を与えられたようで、楽しい気分になりました。
本書で書かれていることが、必ずしも正しいわけではないと感じています。けれども、新しい視点を与えられるということは、それだけで楽しくなるものです。
2023年01月21日
あなたはあなたが使っている言葉でできている
これも本の要約をしているYoutube動画を観て、興味を持って買った本だと思います。
著者はゲイリー・ジョン・ビショップ氏。コーチングをされている方のようです。
言霊と言われるように、普段どういう言葉を使っているかで、その人が創られる。そういうことはあると思います。
本書もそういう言葉の使い方に関する内容かと思ったのですが、意外にもそうではありませんでした。ただ、やはり状況を悲観的に捉えるのではなく、ポジティブな考え方によって人生を切り開くことを推奨しています。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「この本は
あなたを励ますために書いたものだ。
あなたが内に秘めた
本当の能力に目覚め、
自分を責めるのをやめて、
輝かしい人生に歩みだすのを
手伝うために、私はこの本を書いた。」(p.11)
冒頭にこのように大書されていました。
「そんなふうに、心の中の自滅的な声が止まらない人のためにこの本はある。寄せては返す不安の波は、日々の生活をむしばんでいく。この本はあなたを励ますために書いたものだ。」(p.12)
「自分はなんてダメなんだ」「大変なことだ。どうなってしまうんだろう」というようなネガティブな声が心の中で繰り返される。そんな経験が多くの人にあるかと思います。私もそうでした。
ビショップ氏は、そういう人たちを励まし、本当は大丈夫なんだよということを示したくて、本書を書かれたと言います。
「この本は正しい言葉を使って人生を上向かせる方法を解説したものだが、私は今すぐポジティブな思考を持てとか、自分を愛そうとか言うつもりはない。」(p.16)
ただ単にポジティブ・シンキングを勧めるものではない、ということですね。
「人間の感情の大部分が思考から生み出されているのなら、感情をコントロールするには思考をコントロールすればいい。もっと言うなら、心の中で思い描く文章、つまり自分との会話に使う言葉を変えればいい。そもそも感情はそこから生まれているのだから。
−−アルバート・エリス(アメリカの心理学者)」(p.17)
「エリスは、体験の印象はとらえ方や話し方によって変わるということを発見した。つまり思考と感情は切っても切れない間柄にあるということだ。」(p.17)
思考によって、ある状況をどう捉えるかが決まり、それによって感情が湧いてくる。同じ状況でも「大変なことだ、どうしよう」と思えば不安感に襲われて萎縮し、ネガティブになるでしょう。でも「よし、私の出番だ」と思えばやる気が出てポジティブになる。
つまり、感情を決めているのは状況ではなく、思考だということです。
そして、その思考を変えるには、その思考に基づいて表現される言葉を先に変えてしまうのが容易だということですね。
これは、お勧めしている「神との対話」でも言われていることです。人は「思考」「言葉」「行為」の3段階で創造をしますが、元になる「思考」を変えるには、その順番を逆転させて、こう考えたいと思う「思考」に続く「言葉」や「行為」を、「思考」が変わる前に表現するようにすることなのです。
「「人生は不公平だ」と不平を言いながら生きている人は、その見方に沿った行動を取るようになり、やがては被害妄想を抱く。ある研究によれば、そんな不平をよく言う人は仕事がおざなりになるという。「がんばったって意味がない」と最初から決めつけているからだ。」(p.20)
私たちは、こうやって自分が発する「言葉」によって、思い通りの現実を創造しているのです。
「一番簡単なのは、意識的ではっきりとしたセルフトークを行うこと。自分との力強い会話は、道を切り開き、人生をコントロールする力をもたらす。」(p.24-25)
「最初の一歩は、自分のためにならないしゃべり方はやめて、ためになるしゃべり方を意識することだ。正しい言葉を使い、問題を別の角度からとらえ直すことで、ものの見方、世界との関わり方は劇的に変わる。」(p.25)
無意識にネガティブな言葉を使っていることに気づいて、それを意識的にやめて、ポジティブな言葉を使うよう心がけることが重要ですね。
これは斎藤一人さんが言うところの「地獄言葉」をやめて「天国言葉」を使うことや、小林正観さんが言うところの「五戒」をやめて「祝福神」を使うことと同じだと思います。
第2章は「私には意志がある」ということで、自分に意志があることを再認識し、それを意識することの重要性が語られています。
「愛する人の死や失業といった一見どうしようもない出来事に出くわしたとしても、そのあとどんな人生を送るかは自分でいくらでも決められる。
状況を変えるために行動する気がないなら、別の言い方をすれば、状況を変える意志がないのなら、どんなにイヤでもそれはあなたが選んだ人生だ。」(p.34)
状況や運、他人など外的要因によって人生が翻弄されると考えたいなら、それは自分ではどうにもならない人生を自分で選んだことになるのです。
「「やる意志はあるけど、でも……」と言いたくなる気持ちはわかる。しかし最後に「でも」をつけるたび、自分は被害者という意識が強まっていく。」(p.37)
今、使っている「でも……」という言葉は、「私は被害者だ」という言外の言葉であり、その言葉を使い続ける限り、被害者だという現実を創造し続けることになるのです。
第3章は「私は勝つに決まっている」ということで、自分が決めた(選んだ)ように人生は変わっていくことが語られています。
「ありもしない問題に敏感になったのはあなただ。ほんの小さな問題を取り上げてイライラしたり、感情を爆発させたりしたのはあなただ。そうやってあなたは、恋は悲しい終わりを迎えるのが道理なんだという自分の考えを証明した。「勝ちっぱなし」と言ったのはこういう戦いを指している。」(p.60)
いつも恋が短い期間で終わってしまうのは、自分が恋とはそういうものだと信じているからであり、その思い通りの現実を創っているだけなのですね。
「そんなわけで、この章のアサーティブな言葉はこうだ。「私は勝つに決まっている」
あなたは常に勝っている。頭がそうさせている。問題は、無意識的な本当の望みと表向きの望みとのあいだにずれがある点、ときにはまったく異なっている点にある。」(p.61)
本当は永遠の恋を願っているにも関わらず、信念はその反対だということです。そして現実は、表向きの望みではなく、信じていることによって創られる。そういう意味で、すべては私たちの望みどおりになっているのです。
「愛される価値がない。怠け者だ。いつも太っている。いつも貧乏だ。そうしたことを証明しようとしている自分の心を征服することはできない。
しかし少し見方を変えれば、そうした難攻不落ぶりを活用し、ポジティブな目標や夢に向かって行動できる。
人にはみな勝ち癖が備わっている。必要なのは、それを正しい対象へ向けることだけだ。そうすれば、意識的に選んだなわばりで、あなたは勝利を収められる。」(p.70)
まずは、現実は常に私たちの信じたとおりになっていることを認めることですね。そして次に、自分が信じていることを、意識的に変えていくことです。
第4章の「私にはできる」は飛ばして、第5章の「先がわからないからおもしろい」から引用します。
「本当に大きなことを成し遂げないなら、頭がおかしいとか、バカとか、わがままといった評判を、ある程度は覚悟しないといけない。」(p.109)
他人の評判を気にし、常識に縛られていたら、自分らしく生きることはできません。基準を他人軸から自分軸へと移す勇気が必要です。
もしそうすれば、他人からは批判されるでしょう。バカにされるでしょう。それでもいいと決めることが重要なのです。
「確実なものを求め、すべてをはっきりさせようとするのをやめれば、ストレスの大半は消えて失くなる。わかることなんて一つもない。少し考えれば、自分の一番の不安の種が、思いどおりにならないことを拒否し未来を予測したいという願望だと気づくはずだ。
人生は冒険だ。そこには無数のチャンスが転がっている。その壮大で、恐ろしくて、同時にわくわくするような不確実さをフルに、100パーセント楽しめるかどうかはあなた次第だ。」(p.112)
お勧めしている「神との対話」でも、人生に確実で安心を求めるなら、それは台本通りのリハーサルであって、人生を望んでいないことになるとありました。人生は不確実なものであり、何が起こるかわからないからこそ面白いのです。
「「先がわからないからおもしろい」。このシンプルな言葉を口にすることで、あなたの生き方は一変する。人生は一瞬ごとに変わっていく。唯一確実なのは、この先どうなるかなんてわからないということだけ。わかるのは、わからないということだけだ。」(p.113)
だから、ケ・セラ・セラなのです。「神との対話」でも、変化するということだけが変化しない(確実だ)とあります。そうであるなら、もう確実を求めて石橋を叩くのはやめましょう。
第6章は「自分は思考ではなくて行動だ」とあって、思考よりも行動を重視すべきだと語っています。
ここで、「言葉」よりも「行動」ということを言っていて、タイトルの範囲を超えているかなと思いました。
ただ、前にも書いたように、「神との対話」では思考を変えるために、言葉や行動を変えることが提唱されています。言葉も行動も、思考から切り離して変えられるのです。
「心がやる気になるのを待っていてはいけない。自分を駆り立てる魔法のような感覚をいつまでも探していてはいけない。
ただ動こう。思考は脇に置いて進もう。
心の準備ができていないときもあるだろう。常に正しい行動を取れるわけでもないだろう。それでも動こう。やろう。」(p.129)
不安(恐れ)に支配された心は、どうしてもブレーキを踏みがちです。ですから、思考が判断するのを待っていてはいけないのです。直観にしたがって、自分がやるべきと感じたことをさっさとやる。やってから考えればいいのです。
第7章は「私はがむしゃらになる」です。第6章では思いついたらすぐ行動を勧めていましたが、それを持続的に行うことが語られています。
「望みをかなえたいなら、とにかく粘り強く前へ進み、自分の権利を主張し、必死でがんばることだ。人生には、無理やりにでもやらなくちゃならないときがある。」(p.143)
すぐに達成できないこともあるでしょう。その目標が大きければ大きいほど、ハードルが高ければ高いほど、挫折することも多々あります。
それでもがむしゃらにやるかどうか。そこは意志の問題になります。
「結局は、できないという見方を認めるか、認めないかだ。意見はあなたがそれを受け入れ、自分の可能性を追求するのをやめて、はじめて真実になる。」(p.145)
たしかに、非常に困難なことはあるでしょう。けれども、諦めない限りは可能性がゼロにはならないのです。
「がむしゃらになるコツは、目の前の問題に集中すること。全神経を注ぐことだ。」(p.148)
登山と同じですね。常に山頂を見て歩いていると気が遠くなり、諦めてしまいがちです。コツは、足元を見て歩き続けること。目標は、時々眺めれば良いのです。
第8章は「私は何も期待せず、すべてを受け入れる」というものです。期待を手放すことの重要性が語られています。
「問題が人生をおかしくするのではない。隠れた期待がおかしくするのだ!
「期待」は百害あって一利なしだ。あなたを苦しめているのは、実は状況そのものではなく、期待のほうだ。何がいけないって、期待が問題を実際よりも大きく見せ、問題に対して効果的に、力強く取り組むパワーを奪い取ることだ。」(p.163-164)
「そこで提案だ。期待を切り捨てよう! 期待を手放すのだ! 今すぐに!
不必要で非生産的な期待にしがみついて泥沼にはまるより、人生は予測がつかないという事実を受け入れ、実際の状況と向き合うほうがずっとパワフルだ。」(p.164)
「神との対話」でも、期待を捨てることが語られています。結果がどうなるかはどうでもいい。すべての結果を受け入れることです。
情熱は、その行為そのものに対して燃やすこと。結果はあとから勝手についてくる。そう思って、目の前のことに取り組むことが重要なのです。
「何も期待しないとき、あなたは今という瞬間を生きられる。未来への不安も、過去の拒絶もなく、シンプルに訪れた状況を歓迎できる。
そしてすべてを受け入れるとは、仕方なく妥協するという意味じゃない。引き受けて責任を取るという意味だ。覚えておいてほしい。自分が権利と責任を持っているものは、いつでも変えられる。問題を解決する唯一最大の効果的な方法になることもある。だから引き受けよう。」(p.168)
責任を引き受けなければ変えられない。これも「神との対話」で言われています。だから他者のせいにしている限り、変えられないのです。
第9章は「次はどこへ?」ということで、まとめ的な章になっています。
「今とは違う人生を送りたいなら、変化を起こさなくちゃならない。そして、どれだけ思索にふけり、瞑想し、計画を立て、抗不安薬を飲んだところで、外へ出て行動を始め、変化を起こす意志がなければ何も始まらない。」(p.178-179)
「はっきり言おう。死の床のあなたが後悔しているのは、何も成し遂げられなかったとか、目的のものが手に入らなかったとかいったことじゃない。挑戦しなかったことだ。がんばらなかったことだ。つらくなったときにあきらめてしまったことだ。」(p.182-183)
失敗したことの後悔よりも、失敗を恐れて挑戦しなかったことの後悔の方が大きいのです。やってみてダメだったら、諦めもつくというものですね。
「必要なのは今すぐ選ぶことだ。今やっていることをやめない限り、人生は変えられない。」(p.189)
まずは、不要なことをやめることです。何かが入る余地を作ることです。そして、やめた時間やそこに注いでいたエネルギーを、他のやるべきことに使うことですね。
物で言うなら、まずは捨てることです。あっても困らないけど、使っていないなら不要なもの。お片付けの極意ですね。そうやって片付ければ、空いた空間を埋める何かが手に入ります。
内容としては、すでによく知っていることです。しかし、非常にシンプルに、かつわかりやすく、書かれていると感じました。
うじうじグズグズして動き出せないでいるなら、この本を読んで、その通りにやってみるのも良いかと思います。また、読むだけでも一歩を踏み出そうとする勇気が湧いてくると思います。
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2023年01月25日
Humankind 希望の歴史 上
私の友人がFacebookでお勧めしていたので、興味を持って買ってみました。
上下巻に分かれており、上巻だけで250ページある本です。読み終えるのにいったいどれほどかかるのかと心配しましたが、意外にもさくさく読めました。
それはこの本が、まるで小説のような体裁で書かれているからだと思います。逆に言えば、それだけ冗長だとも言えますが、つい引き込まれてしまう書き方は、まるで長編小説のようでした。
とりあえず上巻のみを買って読んだので、今回は上巻のみの紹介となります。
上巻が素晴らしかったので、読み終える前に下巻を注文しました。いずれ下巻の紹介もしたいと思います。
著者はルトガー・ブレグマン氏。オランダ出身の歴史家であり、ジャーナリストだということです。書物や論文を丹念に読み、さらにその裏取りをして、真相を明らかにしていく。そういう事実と論理を重視する姿勢は、とても好感が持てます。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「明らかにヒトラーは重要なことを忘れていたようだ。それは、少々のことでは動じないという、英国人気質である。空襲で破壊されたデパートが、「営業中。本日から入り口を拡張しました」とユーモアあふれるポスターを掲示したのは有名な話だ。また、あるパブの経営者は、空襲の日々にこんな広告を出した。「窓はなくなりましたが、当店のスピリッツ(アルコール。精神の意味もある)は一流です。中に入ってお試しください」
英国人は、列車の遅れを我慢するように、ドイツによる空襲も我慢した。確かに腹は立ったが、全体としては許容範囲だった。大空襲の間も列車はいつも通り運行し、ヒトラーの策略は英国の国内経済にほとんど影響しなかった。」(p.15)
第二次世界大戦でドイツは、ロンドンを空爆しました。その目的は、市民を震え上がらせ、パニックを起こさせ、戦意を喪失させるというものでした。
しかし、結果はこの通り。人々はパニックに陥らなかったというのです。
「この間を通じて、工場や橋などの戦略的目標を攻撃したのは、連合国空軍のごく一部だけだった。最後の数か月間、チャーチルは、戦争に勝つ最も確実な方法は、一般市民に爆弾を落として国民の戦意をくじくことだと主張し続けた。一九四四年一月、英国空軍の内部文書はこの主張を全面的に支持し、「爆弾を落とせば落とすほど、効果は確実になる」としている。」(p.18)
連合国側も、同じ考え方だったようですね。実態に学ばなかったようです。
事実、アメリカは東京大空襲によって一般市民を標的とした大殺戮を行いました。広島と長崎の原爆投下も同じです。目的は市民の殺傷であり、市民の戦意喪失でした。
これはある意味で正しい方法です。国民のほとんどが戦意を喪失したなら、その国は容易に降伏するでしょうし、相手国を降伏させることが戦争の目的なのですから。
しかし、現実的には、叩けば叩くほど、戦意は高揚したのです。意図と反する結果になったのですね。
「この残念な物語に関して、最も興味を惹かれるのは、主要なメンバーが揃って同じ罠にはまったことだ。ヒトラー、チャーチル、ルーズベルト、リンデマン。この全員が、人間の文明的な暮らしぶりは表面的なものにすぎないというギュスターヴ・ル・ボンの主張を信じた。彼らは、空襲によってこの脆い覆い(カバー)を吹き飛ばすことができると確信した。しかし、爆撃すればするほど、カバーは頑丈になった。それは薄い膜などではなく、カルス[訳注:植物の傷を癒す組織]のようなものだった
残念ながら、軍事専門家はその後も長くこのことに気づかなかった。二五年後、米軍は第二次世界大戦で投下した爆弾の三倍にあたる爆弾をベトナムに落とし、さらに壮大な規模の失敗を招いた。わたしたちは、証拠が明白でも、どうにかしてそれを否定しようとする。今でも多くの英国人は、ロンドン大空襲時に英国人が示した耐久力(レジリエンス)は、英国人の特質によるものだと信じている。
しかし、それは英国人だけのものではない。人間の特質なのだ。」(p.20)
冒頭でこのように、人々は容易にパニックに陥ると信じられていることに、疑義を呈しています。そういう事例があっても、それはたまたまだったとか、その民族性だとか決めつけている。
しかし、本当は「人」というものがそういう存在なのだとブレグマン氏は言います。人を侮ってはいけないのだと。
「人間は本質的に利己的で攻撃的で、すぐパニックを起こす、という根強い神話がある。オランダ生まれの生物学者フランス・ドゥ・ヴァールはこの神話を「ベニヤ説」と呼んで批判している。「人間の道徳性は、薄いベニヤ板のようなものであり、少々の衝撃で容易に破れる」という考え方だ。真実は、逆である。災難が降りかかった時、つまり爆弾が落ちてきたり、船が沈みそうになったりした時こそ、人は最高の自分になるのだ。」(p.24)
2005年8月のハリケーン・カトリーナの被害を受けたニューオリンズで、人々が商店から略奪する姿がTVで放映されました。そういう非常事態に、人々は利己的になる。人とはそういうものだ。私も、そう思いました。
しかし、ブレグマン氏は、それは事実ではないと言います。多くの場合、警察の指導の元に、生活に必要な物資を得ようとした行為だったのだと。
「人間が災害にどのように反応するかについて、科学が発見していたことを裏づけた。デラウェア大学の災害研究センターは一九六三年以降、七〇〇件近くのフィールドワークを行い、映画でよく描かれるのとは逆に、災害時に大規模な混乱は起きないことを明らかにした。自分勝手な行動は起きない。総じて、殺人や強盗やレイプなどの犯罪は減る。人はショック状態に陥ることなく、落ち着いて、とるべき行動をとる。」(p.26)
東日本大震災の時、日本の被災地での整然とした様子が世界で称賛されたと報道されました。私はそれを、日本人の民族性によるものと単純に信じたのですが、どうやらそれは疑ってみなければならないことのようです。
「ほとんどの人間は信用できない、とあなたが思うのであれば、互いに対してそのような態度を取り、誰もに不利益をもたらすだろう。他者をどう見るかは、何よりも強力にこの世界を形作っていく。なぜなら、結局、人は予想した通りの結果を得るからだ。地球温暖化から、互いへの不信感の高まりまで、現代が抱える難問に立ち向かおうとするのであれば、人間の本性についての考え方を見直すところから始めるべきだろう。」(p.30-31)
自分が「人間とはこういうものだ」と信じていることが、現実社会を創っているという指摘です。
もしそれがネガティブなものであれば、その恐れによって、社会は不利益を被ることになる。たしかに、そう言えると思います。
「人間はなぜ、ニュースが伝える破滅や憂鬱さに影響されやすいのだろう。それには二つの理由がある。一つは、心理学者が「ネガティビティ・バイアス」と呼ぶものだ。わたしたちは良いことよりも悪いことのほうに敏感だ。狩猟採集の時代に戻れば、クモやヘビを一〇〇回怖がったほうが、一回しか怖がらないより身のためになった。人は、怖がりすぎても死なないが、恐れ知らずだと死ぬ可能性が高くなる。
二つ目の理由は、アベイラビリティ・バイアス、つまり、手に入りやすい(アベイラブル)情報だけをもとに意思決定する傾向である。何らかの情報を思い出しやすいと、それはよく起きることだと、わたしたちは思い込む。」(p.37)
それでも私たちがネガティブな情報を信じやすいのは、恐れることが生存に役立つということと、滅多に起こらないネガティブなことをメディアが繰り返し報道するため、そういうことがよく起こっていると誤認してしまうからだと言います。
たしかに、そういう傾向はありますね。だから人は、不安を煽られると容易に信じてしまうし、何度も繰り返して言われると、簡単に洗脳されてしまうのです。
「ホッブズが自らそうして出した答えは、実に希望のないものだった。
彼はこう書いた。−−遠い昔、わたしたちは自由だった。好きなことは何でもできたが、その結果は恐ろしいものだった。自然状態における人間の生活は、「孤独で、哀れで、おぞましく、野蛮で、短い」ものだった。彼は理由を説明する。−−なぜなら、人間は恐怖によって動かされるからだ。他者への恐怖、死への恐怖、人間は安全を切望し、「永続的で止むことのない、力での欲求に翻弄される。その欲求は死ぬまで続く」。
その結果は? ホッブズによれば、「万人の万人に対する闘争」、ラテン語で言えば、Bellume omnium in omnes である。
だが、心配しなくていい、とホッブズは直ちに保証する。混乱を抑制し、平和な社会を築くことは可能だ。わたしたち全員が、自由を放棄すればよいのだ。すなわち、体と心を、ただ一人の君主に委ねるのである。ホッブズはこの独裁者を、聖書に登場する海の怪獣にちなんで「リヴァイアサン」と名づけた。」(p.71)
何度か聞いたことがあるホッブズの理論ですが、すっかり忘れていました。こうやってまとめられると、大変わかりやすいですね。
ホッブズは性悪説なのだとブレグマン氏は言います。放っておけばろくなことにはならない。だから、たがをはめる君主(規制)が必要だということですね。
「ルソーの考えは、ある主張に哲学的論拠を提供した。その主張は、後世の無政府主義者、政治運動家、自由人、煽動家が、数千回、いや、数百万回も繰り返すことになる。
「わたしたちに自由を与えよ。さもなければ、すべてを失うことになる」と。」(p.73)
ホッブズの性悪説に対して、ルソーは性善説を唱えたのだとブレグマン氏は言います。
ルソーは売れない音楽家だったようですが、リヴァイアサンから100年後、懸賞論文に応募したことがきっかけとなり、哲学者として名を馳せた人のようです。
土地に囲いをして、「これは俺のものだ」と主張すれば、人々はそれを信じるようになった。それが私有財産の始まりであり、そういう価値観の文明社会によって、幸せな「自然状態」が破壊され、人々は不幸になったのだとルソーは言っています。
「野生のキツネは生後約八週間でかなり攻撃的になるが、トルートが選択交配したキツネは、いつまでたっても子どもっぽく、一日中、遊ぶことしか考えていないように見えた。「飼いならされたキツネは、成長せよという命令に抵抗しているように見えた」と、後にトルートは書いている。」(p.91-92)
他の本で知っていましたが、これは野生のキツネの家畜化の実験です。私たちの祖先が狼を家畜化して犬を創り出したように、キツネを家畜化したのです。方法は、人懐っこい個体同士をかけ合わせていくという単純なもの。
この結果、人に懐こうともしない野生のキツネは、まるで子犬のように見た目が可愛らしくなり、人間に対してしっぽを振り、名前を呼ばれると応えるようになったのだとか。
「「キツネに起きた変化はすべて、ホルモンに関係があると、わたしは考えています」と彼は言った。「ひと懐っこいキツネほど、ストレス・ホルモンの分泌が少なく、セロトニン(幸せホルモン)とオキシトシン(愛情ホルモン)の分泌が多いのです」
そしてこう言って締めくくった。「これは、キツネだけに言えることではありません。もちろん、人間にもあてはまります」」(p.93)
「突き詰めれば、ドミトリー・ベリャーエフは、人間は飼いならされた類人猿だと言っているのだ。数万年の間、良い人ほど、多くの子どもを残した。人間の進化は、「フレンドリーな人ほど生き残りやすい」というルールの上に成り立っていた、というのが彼の主張だ。」(p.93)
なぜガタイが良くて脳も大きいネアンデルタール人が滅び、華奢で脳も小さいホモサピエンスが生き残ったのか? その問の答えを、人間の家畜化にあるとブレグマン氏は考えています。
キツネと同じように、私たちの祖先ははフレンドリーになることによって、個体としては優れた能力を持ったネアンデルタール人でさえ生き残れなかった環境を生き抜いた。だから人間は本来、フレンドリーであり、他者を気遣うDNAを持った種なのであると。
「結局のところ人間は超社会的な学習機械であり、学び、結びつき、遊ぶように生まれついているのだ。だとすれば、赤面するのが人間特有の反応なのは、それほど奇妙なことでもないだろう。顔を赤らめるのは、本質的に社会的な感情表現だ。他人の考えを気にかけていることを示し、信頼を育み、協力を可能にする。
わたしたちが互いの目を見る時にも、似たようなことが起きる。それは人間の目には白い部分があるからだ。これも人間だけに見られる特徴であり、おかげで、他者の視線の動きを追うことができる。」(p.99)
人間が社会的な種であり、常に他者の動向を気にしているから、赤面するとか、白目があるという特徴が生まれたとブレグマン氏は言います。
たしかに、社会的でなければ赤面するのは意味不明ですし、視線が把握されるということは、襲撃者に利することですから。
「はるか昔から、それは真実だった。遠い祖先たちは集団で暮らすことの重要性を知っていて、個人をむやみに崇拝することはほとんどなかった。かつては、極寒のツンドラから酷暑の砂漠まで世界のどこでも狩猟採集民は、全てはつながっていると考えていた。彼らは自分のことを何か大きなものの一部であり、他のすべての動物と植物、さらには母なる地球とつながっていると考えていた。おそらく彼らは、人間の状態を、現在のわたしたちよりもよく理解していたのだろう。」(p.104)
ネイティブ・アメリカンに伝わった教えなどを知ると、本当にそうだなぁと思います。
「しかし、その後、別の重大なニュースが届いた。二〇一〇年にアムステルダム大学の研究者たちが、オキシトシンの影響はグループ内に限られるらしいことを発見したのである。このホルモンは友人に対する愛情を高めるだけでなく、見知らぬ人に対する嫌悪を強める。つまりオキシトシンは、普遍的な友情の燃料ではなく、身内びいきの源だったのだ。」(p.106)
フレンドリーであることが人類の特徴ですが、しかし現実的には、想像を絶する残酷なこともやってしまうのが人類です。それは歴史が示しています。
その理由として、ホルモンのオキシトシンの働きを提示します。仲間にはフレンドリーですが、見知らぬ他人には逆に非情になるのだと。
「わたしは、マーシャル大佐による分析と後続の研究を読めば読むほど、人間は本質的に戦争好きだという見方に疑いを抱くようになった。何と言っても、もしホッブズが正しかったのなら、わたしたちは皆、人を殺すことに喜びを感じるはずだ。それはセックスほどには好まれないとしても、嫌悪感を抱かせたりしないはずなのだ。
逆に、もしもルソーが正しければ、狩猟採集生活を送っていた祖先たちは、大半が平和を好んだだろう。その場合、わたしたちホモ・パピーは、世界に広がっていった数万年の間に、流血に対する嫌悪感を進化させたと思われる。」(p.119)
人間は残酷な種だという研究もあれば、そうではないとするものもある。ブレグマン氏は、そういう研究の裏側を紐解きながら、人間は残酷な種ではないことを明らかにしていくのです。
「また、狩猟採集民の間で等しくタブーになっていたのは、備蓄と貯蔵である。歴史の大半を通じて、わたしたちが収集したのは、物ではなく友情だった。」(p.131)
大航海時代に先進地域のヨーロッパの人たちが未開の地を訪れると、彼らは総じてフレンドリーで、要求すれば何でも分け与えてくれたそうです。
「しかし、やがて氷期は終わり、西のナイル川と東のチグリス川にはさまれた地域は豊穣の地となった。そこでは、団結して厳しい自然に立ち向かう必要はなかった。食物が豊富にあったので、移動するよりとどまったほうが得策だった。家や神殿が建てられ、村や町が形成され、人口が増えた。
さらに重要なこととして、人々の所有物が増えていった。」(p.136)
狩猟採集から農耕へと文明が進化することで、私たちに所有の概念が生じたのですね。まさにルソーが言った通りです。
「彼女らは嫁ぎ先では、よそ者として扱われたが、男の子を産むと、ようやく家族として受け入れられた。もっとも、それは嫡出子を産んだ場合だ。この頃から女性の純血が異常なほど重視されるようなったのは、決して偶然ではなかった。狩猟採集の時代の女性は自由に行動できたが、この頃になると家に繋がれ、すっかり覆い隠された。家父長制度が誕生したのだ。」(p.140)
狩猟採集民の生活は意外にも安楽で、1週間の労働時間は30〜40時間ほどだったそうです。のんびりしていて、大いにセックスを楽しむことができ、一夫一婦という結婚制度もなかったようです。生まれた子どもは集団全体の子どもとして、大切に育てられたとか。
一方の農耕民は、穀物を育て、蓄え、調理しなければならず、日々の労働は比較すると多かったようです。そのため、女性は労働力や、労働力である子どもを産む機械のように考えられるようになったのでしょう。
「性病感染症も同様である。狩猟採集の時代にはほとんど存在しなかったが、牧畜をするようになると流行し始めた。なぜだろう? その理由はかなり恥ずかしいものだ。家畜の飼育を始めた時、人間は獣姦を思いついた。つまり、動物とのセックスだ。」(p.141)
女性が商品として扱われるようになれば、安易に手を出すことができなくなる。そうすると欲望が強くても対象がいない男は、身近な家畜を相手にセックスをして、ストレスを発散させる。それが性病の蔓延につながったということのようです。
「しかし大規模な集落が出現するようになると、信仰に劇的な変化が起きた。人間は突然降りかかる大惨事を説明するために、執念深い全能の神の存在を信じるようになった。わたしたちが何か間違ったことをすると激怒する神である。」(p.142-143)
こうして人間の罪という概念が発達したとブレグマン氏は言います。私たちが何か間違ったことをしたから神が怒っている。その神の怒りを鎮めるために、私たちは何かを犠牲にしなければならない。生贄というおぞましい慣習が生じたのは、こういう背景があると言うのですね。
「では、なぜ人間は、かつての自由気ままな生活に戻ろうとしなかったのだろう。一言でいうと、遅すぎたからだ。食べさせなければならない家族が増えすぎただけでなく、この頃になると人間は、狩猟採集のコツを忘れてしまっていた。また、荷物をまとめて、より緑豊かな草原に引っ越すこともできなかった。なぜなら、周囲の土地にもすでに人間が定住していて、侵入者は歓迎されなかったからだ。要するに、祖先たちは罠にはまったのである。」(p.145)
農耕によって定住し、所有物が増え、人口も増える。それは一見すると良いことのように見えますが、私たちの自由を失うことでもあったのです。
そして私たちは、二度と過去に戻れなくなってしまった。戻ろうとすれば、あまりに失うものが大きいように思えるから。
「植民地の開拓者が続々と未開地に逃げ込むのに対して、反対のことはほとんど起きなかった。だが、誰が彼らを責められるだろう? 先住民の中で暮らす間、彼らは植民地の農民や納税者より多くの自由を謳歌した。女性にとってその魅力はいっそう強かった。「わたしたちは好きなようにのんびり働くことができました」と、自分を「救う」ために送られてきた同国人から身を隠した女性は語った。「ここに支配者はいません」と、別の女性はフランス人の外交官に告げた。「望めば結婚できるし、離婚もしたい時にできます。あなたの街に、わたしほど自立した女性がいますか?」」(p.147-148)
私たちは文明を発展させることによって、自由を失っていったと言えるのですね。だから未開の社会に入って、その自由を再び得た時、それを失いたくないほどの大事なものと感じたのでしょう。
私たちは狩猟採集から農耕へと移行し、文明を発展させてきました。しかしその過程で自由を失い、信頼する気持ちを失っていったのかもしれません。
日本でも、縄文時代には戦争など大規模な闘争はほとんどなかったと言われてますね。弥生時代になって、農耕社会になってから、戦争が起こるようになったのです。
「あまりにも多くの環境活動家が、人間の回復力を過小評価している。彼らの暗い考えが自己成就的予言になることをわたしは恐れている。つまり、それがノセボ効果となり、わたしたちを無気力にし、温暖化をいっそう加速させるのではないかと懸念しているのだ。気候変動にも新しい現実主義が必要だ。」(p.177)
イースター島では、無人島だった島に先住民がネズミを持ち込んでしまったがために森がなくなったのですが、先住民はその環境下で最適な農業を編み出して、生産性を増やしていったそうです。
それなのに、人間はこんなダメな種なんだという思い込みを持てば、本来の可能性を見失うことになるということです。その悲観論を受け入れてしまうと、それがやる気を失わせ、その悲観的な現実を引き寄せることになる。だから、正しく現実を知ることが重要になってくるのです。
「実験を終えた被験者にミルグラムが、あなたの貢献は科学に役立つだろう、と伝えると、その多くは安堵の表情を浮かべた。」(p.216)
「そして、ここが肝心なのだが、悪事を行わせるには、それを善行であるかのように偽装しなければならない。地獄への道は、偽りの善意で舗装されているのだ。」(p.216-217)
人はどこまで残酷なことができるかという実験がなされたそうです。しかし被験者は、それは実験であり、実験に参加することが社会(他人)のために役立つ、つまり善行だと信じていたのです。
義賊と言われるように、悪事ではあっても、それは他人のために行う善いことなのだという信念があれば、人は容易に悪事を行えるものです。また、必要悪という言葉もあります。人は、本質的に善いことをしたいのでしょう。
「なぜわたしたちは、これほど熱心に自らの堕落を信じたがるのだろう。なぜベニヤ説はこうして何度も復活するのだろう。それは、その方が都合がいいからだ。奇妙なことに、自らの本質は罪深いと信じると、人は心が休まる。そう信じれば、一種の赦しが得られる。なぜなら、ほとんどの人が本質的に悪人であるなら、約束も抵抗も無駄だからだ。
また、その考え方は悪の存在をうまく説明する。憎しみや身勝手さに直面しても、「仕方がない、それが人間の本性だから」と自分に言い聞かすことができる。逆に、人間は本質的に善だと信じるのであれば、なぜ悪が存在するのかと問わなければならない。また、約束や抵抗は価値あるものとなり、そうする義務が生じてくる。」(p.222-223)
私たちは善でありたいと願いながら、なかなかそうできない自分がいることに気づくものです。それを「人間の罪(原罪)」だとすれば、安心することができます。個人の責任ではないからです。
「このメタ分析から二つの洞察がもたらされた。一つ、傍観者効果は確かに存在する。わたしたちは、時には、他の誰かにまかせた方が筋が通っていると思って、介入しない。また時には、間違った介入をして非難されることを恐れて、何もしようとしない。また時には、誰も行動を起こしていないのを見て、まずいことは起きていないと思い込む。
では、二つ目の洞察は? もしも緊急事態が(誰かが溺れているとか、襲撃されているといった)命にかかわるものであり、傍観者が互いと話せる状況にあれば(つまり、別々の部屋で孤立しているのでなければ)、逆の傍観者効果が起きる。「傍観者の数が増えると、救助の可能性は減るのではなく、増える」と論文の著者は記している。」(p.238-239)
誰かの緊急事態に、それを目にした人はどう行動するのか? 助けようとするのか? それとも、ただ傍観しているだけなのか? そして、それを分けている要因は何なのかという研究がなされているのですね。
こういう研究を通じて見えてきたことは、ほとんどの場合、人は人を助けようとする、ということだったそうです。一方でマスコミは、救助しようとしなかった面に注目し、そこばかりを強調して報じる傾向があるようですね。そして時には、それを強調したいがために、事実を報道しないことによって虚偽の事実を浮かび上がらせる。
本書は、人間とは善なるものである、という性善説の考え方を、研究論文を紐解くことで示そうとしています。
この本は上巻ですが、読んでみて興味深かったので、下巻も読んでみようと思いました。
2023年01月30日
Humankind 希望の歴史 下
前回の上巻に続き、下巻を読んでみました。著者はルトガー・ブレグマン氏です。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「その本の中でわたしは、フィリップ・ジンバルドによるスタンフォード監獄「実験」を、何の非難もせず、善人が自発的に怪物(モンスター)に変わる証拠として取り上げた。明らかに、あの実験の何かがわたしの心を捉えたのだ。」(p.12)
「こうして、トマス・ホッブズが三〇〇年前に主張したように、悪はすべての人間のすぐ内側でくすぶっていると考えられてきた。
しかし今、殺人事件と実験の書庫(アーカイブ)が開かれ、ベニヤ説が完全な間違いだったことがわかった。ジンバルドの監獄の看守は? 彼らは俳優のように演技をしていた。」(p.12)
「これらの人々のほとんどは、人助けしたかっただけのように見える。人助けできなかった人間がいるとすれば、それは科学者や編集長や、知事や刑務所長といった責任者だ。彼らは嘘をつき、操作した、怪物(レヴィアタン)だった。これらの権力者は自らのよこしまな願望から人々を守るどころか、全力を尽くして、人々を互いと敵対させたのだ。」(p.13)
ブレグマン氏は、かつての著書で、有名なスタンフォード監獄実験を肯定的に取り上げていたようです。この実験では、看守役は囚人役をサディスティックに扱い、苦しめ、それを楽しんだとされています。
しかしブレグマン氏は、この実験が操作されたものであり、自発的な行動の結果ではなかったと指摘します。つまり人の本性は、やはり誰かを助けたいというものだったと。つまり実験に参加した学生たちは、その実験を成功させるために協力したのです。
「戦争の考古学的証拠が、およそ一万年前にいきなり出現し、それが私有財産と農耕の始まりと同じ時期なのは、偶然のはずがない。もしかしたらこの時点で、人間は心と体にそぐわない生活へと進み始めたのではないだろうか。
進化心理学者はこれをミスマッチと呼ぶ。人間の身体と精神は、現代的な生活を送るための準備ができていない、という意味だ。最もよく知られる例は肥満である。狩猟採集民だった頃の人間は、贅肉がなく健康だったが、今日の世界では、飢えた人より肥満の人の方がよほど多い。わたしたちはいつも糖や脂質や塩を堪能し、体が必要とするよりはるかに多くのカロリーを摂取している。」(p.14)
日本でも、縄文時代は平和だったが、弥生時代になって農耕定住生活が始まると戦争が頻発しています。
また、血糖値を下げるホルモンは1種類(インスリン)だけなのに、血糖値を上げるホルモンは3種類(アドレナリンなど)あると言われます。空腹には強く、満腹には弱いのです。
これは身体がいまだ狩猟採集民としてのものだからだと言われています。長い人類の歴史の中で、農耕定住生活はごく最近のこと。身体や精神がまだ対応していないのです。
「戦争が始まった頃から、多くの心理学者は、軍隊の戦闘能力を決める上で、ある要素が他の要素より際立っていると固く信じていた。それはイデオロギーだ。たとえば愛国心や、自分が選んだ政党への忠誠心である。歴史を振り返っても、「自分たちは正しい側にいて、自分たちの世界観は正当だ」と確信する兵士たちは、最もよく戦った。」(p.17)
ドイツ兵が異常なほどに執念深く、諦めずによく戦い、脱走する者がほとんどいなかったのは、イデオロギーによって洗脳されていたからだと思われたのですね。
「それはナチのイデオロギーではなかった。また彼らは、ドイツは勝てるという幻想を抱いていなかった。洗脳されてもいなかった。ドイツ軍の人間ばなれした戦闘を可能にしたのは、もっと単純なものだった。
Kameradschaft
友情である。
モーリスが面談した何百人ものドイツ人、かつてはパン屋や肉屋、教師や仕立て屋で、軍に入ってからは連合軍の前進を懸命に阻んだ彼らが、武器を捨てようとしなかったのは、互いのためだった。つまり彼らが戦い続けたのは、ナチスの基本思想である「千年帝国」や「血と土」のためではなく、戦友を救うためだったのだ。」(p.19)
しかし、実態を調査してみると、ドイツ兵はごくふつうの人たちで、洗脳されてもいなかったようです。つまり、友だちを助けるために覚悟を決めたから、死にものぐるいの戦いに身を投じたのです。
言われてみると、そうだろうなぁという気がします。日本の特攻隊の最後の手紙などを読んでも、やはり愛する誰かのために、それを守るために、死ぬ決意をしたふつうの人たちなのです。
「心理学者ロイ・バウマイスターは、敵は悪意に満ちたサディストだという誤った思い込みを「純粋悪という神話」と呼ぶ。実のところ、敵はわたしたちと何も変わらないのである。
これは、テロリストにさえ当てはまる。
彼らもわたしたちと同じだと専門家は強調する。もちろん、自爆テロ犯は極悪人に違いないと、わたしたちは思いたくなる。彼らは心理的にも生理学的にも神経学的にも崩壊しきっている。彼らは精神病質者(サイコパス)にちがいない。学校に行ったことがないか、絶望的な貧困の中で育ったか、平均的な人間とは大いに異なる何らかの理由があるはずだ、と。
そうではない、と社会学者たちは言う。これらの勤勉なデータ科学者たちは、何マイル分ものエクセルシートを、自爆した人々の性格特徴で埋めたが、結局、「平均的なテロリスト」などいない、と結論せざるを得なかった。」(p.23)
テロリストといえども、ふつうの人なのです。テロリストになりやすい特徴などなかったということですね。
「「ほぼすべての乳児が、親切な人形に手を伸ばした」。乳児が世界をどう見ているかについては、何世紀にもわたって考察されてきたが、ここに人間は生まれながらに道徳性を備えており、ホモ・パピーは白紙状態(タブラ・ラサ)ではないことを示唆する堅牢な証拠が見つかったのだ。わたしたちは生まれながら善を好む。それがわたしたちの本質なのだ。」(p.26)
「驚くほどのことではないが、大多数は、自分と同じ嗜好を持つ人形を選んだ。しかし、驚くべきは、この好みが、親切な人形か意地悪な人形かの好みより優先されたことだ。ハムリンの同僚は次のように述べた。「何度も目の当たりにしたのは、乳児は、親切だが自分と好みが違う人形より、意地悪でも自分と同じ好みの人形を選ぶということです」」(p.26-27)
乳児の選択基準を研究した結果です。人は生来、善を好むものですが、それよりも仲間を好むということですね。
「おとなが全員を平等に扱い、肌の色や外見や貧富の差がないかのように振る舞っても、子どもは違いを感じとる。わたしたちは生まれつき脳内に同族意識の芽を備えているらしい。」(p.30)
「彼によると、共感は、世界を照らす情け深い太陽ではない。それはスポットライトだ。サーチライトなのだ。共感は、あなたの人生に関わりのある特定の人や集団だけに光をあてる。そして、あなたは、その光に照らされた人や集団の感情を吸いとるのに忙しくなり、世界の他の部分が見えなくなる。」(p.32)
よく心臓病の子どもの手術のために、アメリカへの渡航費などを含めて多額の支援金を集める話がありますが、まさにこのことですね。
その子の物語を知って共感し、助けたくなるのです。しかし、同様の子どもは他にも多数いるし、その子が心臓の手術を受けられるということは、そのために受けられなくなる子どもが1人生まれることにもなります。同様の他の子どもに対しては、共感の光は届かないのです。
「ブルームの本を読むと、共感は何よりもニュースに似ていることに気づく。第1章では、ニュースがスポットライトのように機能することを述べた。共感が、特別な人か何かにズームインしてわたしたちを騙すように、ニュースは例外的な何かにズームインして、わたしたちを欺く。
一つ確かなことがある。それは、より良い世界は、より多くの共感から始まるわけではないということだ。むしろ、共感はわたしたちの寛大さを損なう。なぜなら、犠牲者に共感するほど、敵をひとまとめに「敵」と見なすようになるからだ。選ばれた少数に明るいスポットライトをあてることで、わたしたちは敵の観点に立つことができなくなる。少数を注視すると、その他大勢は視野に入らなくなる。」(p.34)
仲間に対する共感が強ければ強いほど、敵を憎むようになります。敵もまた同じ人間だと思えなくなるのです。
「その問題とは、人間は根本的に暴力を嫌悪することだ。相手の目を見ながら、その人を殺すことは、事実上不可能だ。わたしたちの大半は、牛肉を食べるには自分で牛を殺さなければならないとしたら、即座に菜食主義になるだろう。同様に、多くの兵士は、敵に近づきすぎると、良心的兵役拒否者になる。」(p.37)
戦闘による死者の多くは、地雷や爆弾など、離れた場所の敵兵を殺したものだそうです。銃で撃ち抜くとか、まして銃剣で刺し殺すような、TVや映画でよくある戦闘による殺傷シーンは、滅多になかったということです。
「権力を握る人々にも、同じ傾向が見られる。彼らは脳を損傷した人のような行動をとる。普通の人より衝動的で自己中心的で落ち着きがなく、横柄で無礼。浮気する可能性が高く、他人にもその気持ちにもあまり関心がない。加えて彼らは厚かましく、人間を霊長類の中で特別な存在にしている。顔の現象を往々にして喪失している。
つまり彼らは赤面しないのだ。」(p.44)
「ケルトナーはこれを「権力のパラドクス」と呼ぶ。数十の研究によると、わたしたちは、最も控えめで優しい人をリーダーに選ぶ。しかし頂点に立って権力を手にすると、その人はのぼせあがって、結局、リーダーの座を追われることになるのだ。」(p.46)
権力者というのは、恥知らずなのだということですね。ただ、これは誰にでもある傾向で、成り上がりという言葉があるように、人は分不相応の権力や財力を手にすると、こういう一面が出てくるようです。
「狩猟採集民の世界では、リーダーは一時的な存在にすぎず、重要なことは皆で話し合って決める。後にマキュアヴェリが述べたような愚かな行動をとる人は、命を危険にさらすことになる。利己的な人間や強欲な人間は部族から追い出され、飢餓に直面する。結局のところ、食料を独り占めしようとする人とは、誰も食料を分かち合いたいとは思わないのだ。」(p.49)
少人数の部族であれば、つけあがったリーダーは追い出されたのですね。部族にとって役立たないからです。
「すなわち、仲間意識に駆り立てられ、冷血なリーダーに洗脳されて、人間は互いに対して残忍極まりないことをするのだ。
これが数千年にわたる人間の苦境である。文明の歴史は、史上最大の過ちに抗する壮大な闘争と見なすこともできる。」(p.64)
「人間には、そうした欠点を補って余りある天与の才があり、それが他の動物との大きな違いだ、と彼らは主張した。わたしたちが一縷の望みを託せるのは、この天与の才だ。
すなわち、理性である。
共感でも、感情でも、信念でもなく、理性。啓蒙主義の思想家が唯一信頼したのは、冷静、つまり、合理的な思考だった。人間は自らの生来の利己性を考慮に入れた知的な制度を設計できると、彼らは信じた。人間は自らの暗い本能を啓蒙的な層で覆うことができる、より正確に言えば、自らの悪い性質を利用して、公益に奉仕することができる、と彼らは信じたのである。」(p.65)
たしかに人類の歴史は闘争の歴史とも言えます。しかし、多くの人は戦争に嫌気が差しています。むやみに戦争をする時代は過去のものとなろうとしている。そういう見方もできますね。
ただこれは、性悪説に立った見方にもなります。人間の本性は邪悪だから、理性の力で封じ込めなければならないのだと。私も昔はそう考えていました。理性に従えない自分を弱いと感じていました。
でも今、「神との対話」を読んで、考え方が変わりました。人は本来「愛」そのものです。それを、「不安(恐れ)」が覆い隠して、本来の自分として生きることを邪魔してしまうのです。
「ある声明は特にわたしの心に残っている。一九五九年、BBCはラッセルに、将来の世代のためのアドバイスを求めた。彼はこう答えた。
「哲学について学んだり考えたりする時には、何が事実で、その事実が裏づける真実は何であるかだけを自分に問いなさい。自分が信じたいと思うもの、あるいはそれを信じたら社会に良い影響があると思えるものに惹かれることなく、事実だけを見なさい」
この言葉にわたしは大いに影響された。」(p.74)
「とはいえ、再びラッセルの言葉を引用すれば、「わたしたちの信念はいずれも完全な真実ではない。どれにも曖昧さや、いくらかの誤りがある」。したがって、できる限り真実に近づきたいのであれば、断定を避け、一歩進むごとに自問しなければならない。「疑う意思(The Will to Doubt)」、ラッセルはこのアプローチをそう呼んだ。」(p.75)
人は、自分が信じたいと思うものを信じようとして、その証拠だけを集めたがるものです。「結論ありき」の考え方ですね。世の中には、そういう言論が溢れています。
私もブレグマン氏のように、ラッセル氏のこういう考えを常に頭の隅に置いておきたいと思っています。
「人は、心の中ではこれらの行為を非難しながら、孤立することを恐れて、大勢に従おうとする。結局のところ、「ホモ・パピー」に苦手なことが一つあるとしたら、それは集団に抵抗することだ。わたしたちは、どれほど惨めな思いをしてでも、恥をかくことや、社会で居心地の悪い思いをすることを避けようとする。
これを知ってわたしはこう考えた。人間の本性についてのネガティブな見方は、多元的無知の一形態ではないのだろうか。ほとんどの人は利己的で強欲だという考え方は、他の人はそう考えているはずだという仮定から生まれたのではないだろうか。もしそうだとしたら、わたしたちは冷笑的な考え方を採用しながらも、心の奥底では、より優しく連帯感のある生活を求めているのではないだろうか。」(p.83)
私たちは他人に同調しがちです。他人と同じであることに安心感を抱きます。しかしそれは、自分の本心を裏切ることでもあるのです。
その葛藤の中で私たちは、同調的な他人も、無理をして合わせているだけに違いないと思うのですね。親切そうに見えて、実は利己的なのだと。
「資本主義者も共産主義者も、人を行動させるには二つの方法しかない、それはニンジンと棍棒だ、と語る。資本主義者がニンジン(つまり、金)に頼る一方、共産主義者は主に棍棒(つまり、罰)に頼った。両者はあらゆる点で異なったが、同意できる一つの基本的前提があった。人は放っておくと、やる気にならない、というものだ。」(p.88)
いわゆる「アメとムチ」ですね。人は怠けるものとという前提で作業効率を高めさせるには、アメとムチが有効なのだという考えはあります。
「従業員を責任感の強い信頼できる人として扱えば、彼らはそうなるのだ。彼はそれについて著書まで出したが、その副題はL'entreprise qui croit que l'homme est bon' 翻訳すると「人を信じる企業は上手くいく」である。」(p.101)
非常にうまく行っているヘルスケアを経営するデ・ブローク氏は、ほぼすべてを従業員に任せることが成功の秘訣だと言っているそうです。
こういう話は、他にも多くあります。私も何冊か本を読みました。ただ、ものごとはそう簡単ではなく、信頼して任せたらぐちゃぐちゃになるということもあるのです。
ここが難しいところで、私もまだ明確な答えがありません。
「確かに、一〇〇年前に比べると、わたしたちは子どもにかなり甘い。学校は一九世紀には刑務所のようだったが、今は違う。行儀の悪い子どもは叩かれるのではなく、薬を飲まされる。学校は価値観を叩き込むようなことはしなくなった。もっとも、教師はかつてないほど多様なカリキュラムを組み、子どもたちが将来、「知識経済」において高給の仕事を見つけられるよう、できる限り多くの知識を伝えている。
教育は耐えるものになった。成果主義社会のルールを内在化している新しい世代が生まれつつある。彼らは出世競争を走ることを学んでおり、勝敗の主な基準になるのは、履歴書と給与だ。彼らは、あえて既成概念を破ろうとはせず、夢を見たり、冒険したり、大胆な行動をとったりもしない。要するに、遊び方を忘れた世代なのだ。」(p.110)
たしかにこういう一面はありますね。何でも買い与えられるから、自分で工夫して遊ぶということをしなくなりました。三無主義とか指示待ち族なんて言葉もありました。
今はさらに変化してきたようです。時代とともに、教育に対する考え方が変わり、子どもたちも変わってきているのでしょう。
「このような遊び場に対して、大人は必ず二つの異議を唱える。一つは、「見苦しい」というものだ。正直なところ、目障りではある。しかし、大人には乱雑に見えても、子どもはそこに可能性を見つける。大人は不潔さに耐えられないが、子どもは退屈に耐えられないのだ。
二つ目の意義は、廃品で作った遊び場は危険だ、というものだ。過保護な親は、エムドロプ式の公園では、骨折や脳挫傷が多く起きるのではないかと恐れた。しかし、一年間で最悪のけがに必要とされたのは、ばんそうこうだけだった。」(p.112)
子どもは本性的に、ガラクタを好むものなのですね。その子どもの本性を封じているのは、大人の考え方です。
「アゴラの生徒たちの目的意識の強さには驚いたが、連帯感の強さにはもっと驚いた。
わたしが話をした生徒のうち何人かは、わたしが通った学校にいたらおそらくいじめられていただろう。しかし、アゴラでは、いじめられている生徒は皆無で、わたしと話した誰もがそう言っていた。「わたしたちは互いをありのままに受け入れています」と、一四歳のミルウは言った。」(p.116)
アゴラというのは、オランダにある学校で、学習計画は生徒自身が立てているそうです。つまり、生徒自身が学びたいものを学べるように、教師(コーチ)がそれぞれの学習方法を手伝っているのです。
当然、教師が知らないことを学んでいる生徒も多いとのこと。中には天才的なプログラマーもいるそうです。
こういう学校のことは、時々耳にします。日本にも、こういう学校が増えてほしいなぁと思うのですけどね。
「市民参加型の予算編成を始めた時、ポルト・アレグレは信頼の砦ではなかった。実のところ、ブラジルほど国民が互いを信頼しない国はまれだ。したがって、ほとんどの専門家は、ポルト・アレグレの民主化の試みは十中八九失敗に終わると見ていた。それを成功させるには、まず市民が団結し、差別などの問題解決に取り組まなければならない。そうやって初めて、民主主義が根づくための地固めができる、と彼らは考えた。
ポルト・アレグレは、この方程式を逆転させた。行政が参加型予算を立ち上げた後に、人々の間に信頼が育ち始めた。」(p.128)
ブラジルのポルト・アレグレ市で、予算の1/4を市民に決めさせるという施策を実行に移したのだそうです。予算決定に関わりたい市民は誰でも会議に参加して、自分の意見を表明できる。
でも、どうやってその意見をまとめるのでしょう? 実際にやっているのでしょうから、上手く行っている事例だとは思いますが、いざやろうとすれば、いろいろな懸念が出てきます。
「長年にわたってポルト・アレグレを調査してきたブラジル人の社会学者によれば、市民参加型方式は、賄賂を贈るという昔ながらの文化を徐々に衰えさせた。人々が市の財政を詳しく知るようになったせいで、政治家は、賄賂をもらって仕事を与えるのが難しくなったのだ。」(p.131)
たしかに参加型の仕組みによって、市政に関心を持つ市民が増えたことは間違いないでしょう。そういう厳しい視線があれば、恣意的な支出も浪費もできなくなる。そういう面はあるでしょうね。
「では、わたしたちはなぜ、これほどまでに、自分の内なる共産主義に気づかないのだろう。それはおそらく、人と共有しているものを、大したものではないと考えているからだ。わたしたちはそれらを共有することを当たり前だと思っている。セントラルパークでの散歩が気持ちいいことは、印刷して配らなくても誰もが知っている。きれいな空気は、それを吸いなさいと指示する必要はない。そしてあなたは、空気やリラックスできる砂浜や、あなたが物語るおとぎ話が、誰かのものだとは思わない。
それらが誰かのものになるのは、誰かがその空気を貸し出すことにしたり、その砂浜を専有したり、おとぎ話の著作権を主張したりする時だけだ。そうなると、あなたは思う。ちょっと待って、これは皆のものではなかったのか、と。」(p.137-138)
かつては私有財産というものはほとんどなかった。少なくとも狩猟採集生活の間は。それが農耕定住生活になることにより、土地は誰かの所有物となり、分け合っていた食料も私有財産となっていったのです。
こうして所有という概念が当たり前となり、共有するという概念が希薄になっていったのですね。しかし、私たちは本質的に、共有する概念を持ち続けているのです。
「そういうわけで、デ・モーアは、自らが「制度敵多様性」と呼ぶものを提唱する。それは、市場という形式や国家による管理が最善となる場合もあるが、それらすべてを支えるのは、協力的な市民による共同体的な強い基盤だ、という考えだ。」(p.144)
資本主義の台頭によって、かつてないほど経済的に繁栄したことは間違いありません。けれども、それぞれの共同体ごとの助け合い精神に基づいたつながりが、その繁栄の基盤にあったとブレグマン氏は言います。
「しかし、別の選択肢があった。それは、アラスカ州の全住民の銀行口座に、毎年、配当金を振り込むというもので、一九八二年から始まり、多い年には一人当たり三〇〇〇ドルにもなった。」(p.146)
巨大油脈の利権で得られるお金を、アラスカ州は全住民に配る(永久基金配当金:PFD)ことにしたのですね。共同体の共有物だという認識です。
これはベーシック・インカムのようなものだと私は思いました。
「当然ながら中には、アラスカ人は配当金をアルコールやドラッグに浪費するだろうと冷笑的(シニカル)な見方をする人もいた。しかし、現実を見る限り、そんなことは起きていない。
ほとんどのアラスカ人は配当金を教育や子育てに使った。二人のアメリカ人経済学者が行った綿密な分析により、PFDは雇用に有害な影響を及ぼさず、貧困を大幅に解消したことが明らかになった。」(p.166)
ベーシックインカムに対しても、怠け者が増えるだけだとの懸念が聞かれます。しかし、人はそんな怠惰な存在ではない。私もそう思います。
「わたしが先に述べたように、たいていの場合、わたしたちは互いを映し出す鏡になる。誰かがあなたを褒めてくれたら、あなたはお返しにすぐその人を褒めるだろう。誰かに不愉快なことを言われたら、仕返しに嫌味の一つも言ってやりたくなる。」(p.151-152)
「優しくしてくれる人に優しくするのは簡単だ。だが、それだけでは不十分だ。再びイエスの言葉を引用すると、「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあるだろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあるだろうか」。
問題は、さらに一歩進めるか、ということだ。自分の子ども、同僚、近隣の人だけでなく、敵に対しても最善を尽くしたらどうなるだろう? そうするのはかなり難しく、直感に反するように思える。」(p.152)
たしかに、優しくしてくれる人に対して、優しくしたくなりますね。それを、優しくしてくれない人に対しても優しくするのは、なかなか難しいものです。
けれども、どちらかが先に優しくすれば、優しさの輪が広がる可能性は高まるのです。
しっぽを振って近寄ってくる犬を蹴飛ばす人もいるでしょう。けれども、「窮鳥懐に入れば猟師も殺さず」と言うように、信頼するなら、信頼で応えてくれることが多いのです。
「ノルウェーでは、刑務所は悪い行動を防ぐところではなく、悪意を防ぐところなのだ。看守は、受刑者が正常な生活を送れるよう、最善を尽くすのが自分たちの義務だと考えている。この「正常の原理」によると、壁の中の生活は、外の生活とできるだけ近いものであるべきなのだ。」(p.155)
ノルウェーの刑務所では、受刑者に個室が与えられ、包丁もあって自分で料理することもできるそうです。その施設から出られないだけで、かなりの自由が与えられ、文化的な生活を享受できる。
なぜ、受刑者にそんなにお金をかけるのか? そうすることで、トータル的な社会コストが低下するからです。実際、この取組みは成功しているようです。
「彼らは再犯率に着目した。チームの計算によると、ハルデンとバストイのような刑務所の受刑者の再犯率は、地域社会への奉仕や罰金を言い渡された犯罪者より約五〇パーセント低かった。」(p.156-157)
日本では、懲役受刑者の再犯率が高いことが知られています。軍隊のように規則を押し付けられ、自由を奪われ、いじめがはびこる刑務所では、受刑者は真に更生はしないのです。
「ウィルソンはこう考えた−−たいていの人は、犯罪は割にあうかどうかという単純な損得勘定をしている。もし警察が寛容で、刑務所が過度に快適なら、より多くの人が犯罪者の道を選ぶだろう。犯罪率が上昇しているのなら、その解決策は同様に単純だ。より高い罰金、より長い刑期、より厳しい執行といった外発的動機づけによって正せばよいのだ。犯罪の「コスト」は上がり、その需要はすぐ減るだろう−−。」(p.164-165)
「奇跡的に、この新たな戦略はうまくいっているように見えた。犯罪率は急落した。殺人率は? 一九九〇年から二〇〇〇年までの間に六三パーセント減少した。強盗は? 六四パーセント減少。車泥棒は? 七一パーセント減少。割れ窓理論は、かつてはジャーナリストに嘲笑されたが、天才的な名案だったのだ。」(p.166)
軽犯罪を徹底的に取り締まれば重犯罪が減ることになる。これが「割れ窓理論」です。これをニューヨークで実施した結果だそうです。
「たとえば、ブラットンとその熱烈な支持者による「革新的」な取り締まりは、ニューヨーク市の犯罪率の低下の原因ではなかった。その低下は、取り締まりのはるか以前から始まっていて、他の都市でも同様だった。」(p.167)
実は、割れ窓理論による軽犯罪の徹底的な取り締まりによって、重犯罪が減ったのではなかったようです。
「数字だけ見れば、目覚ましい成果があがっていた。犯罪の数は激減し、逮捕者は激増した。ブラットン本部長はニューヨークのヒーローだった。しかし、現実には、数千人もの無実の人々が容疑者にされる反面、犯罪者は自由に歩き回っていた。」(p.169)
軽犯罪取り締まりのノルマを達成するために、警察官はちょっとしたことですぐに逮捕したのです。そこに力を注ぐのですから、重犯罪への対応がおろそかになります。中には、重犯罪が発生したことをもみ消す事例もあったとか。
私自身、「割れ窓理論」を知って、すごいなぁと感心したことがあったので、これが虚構だったと言われて驚いています。
「左の頬を向けるという原則を、さらに推し進めることはできるだろうか? とんでもない問いのように聞こえるかもしれないが、わたしはこう思わずにいられない。非相補的戦略はテロとの戦争でも機能するだろうか、と。」(p.172)
イエスは、目には目をではなく、右の頬を打たれた左の頬を差し出せと言いました。相手を信頼して優しくするなら、相手もそれに応えてくれる。その方法は、本当に機能するのでしょうか?
「ノルウェーでも同様の取り組みがなされた。ノルウェーの人々は自国史上最悪の攻撃を受けた後も、冷静さを保とうとした。二〇一一年のことだ。右翼過激派アンネシュ・ブレイビクの襲撃によって七七人が犠牲になった。しかし同国首相はこう宣言した。「わたしたちは、より民主的に、よりオープンに、より人道的に対処しよう」」(p.174-175)
恫喝や恐怖によって悪意をくじこうとするのではなく、温かさで包むことによって善意を引き出そうとする。「北風と太陽」の寓話を思い出します。
「交流である。それ以上でも、それ以下でもない。オールポートは、偏見、憎しみ、人種差別は、交流の欠如から生まれる、と考えた。わたしたちが見知らぬ人をぞんざいに扱うのは、その人のことをよく知らないからだ。したがって、治療法は明らかだ。より多く交流することだ。」(p.183)
「結局のところ、わたしたちが愛せるのは、自分が知っている人だけなのだ。
これがいわゆる「接触仮説」だ。」(p.184)
私たちは、相手のことをよく知らないから、悪いやつだと決めつけたりしてひどい仕打ちができるのです。逆に言えば、よく知っているなら、仲間なら、友だちなら、善い隣人であろうとするのです。
実際、障害者やLGBTQの人たちに対する偏見や差別も、よく知らない(目にしない)から起こるのだと思います。私自身、そういう偏見があったのですが、タイで暮らして、そういう人たちを日常的によく見るようになって、徐々に偏見がなくなっていきました。
「交流はより多くの信頼、連帯、思いやりを生み出す。交流は、あなたが他者の目を通して世界を見ることを助ける。さらに、交流はあなたの人間性を変える。なぜなら、多様な友人を持つと、知らない人に対して、より寛容になれるからだ。」(p.192)
「当初、このことはペティグルーと同僚を悩ませた。嫌な経験の方が、記憶に深く刻まれるのだとしたら、なぜ交流によって他者により近づくことができるのだろう。やがてわかった答えは単純だった。交流を通じて不快な経験をすることもあるが、良い経験の方が、圧倒的に多いからなのだ。
悪は強い印象を残すが、善は、数の上ではるかに悪を上回る。」(p.192)
他人と交流をすれば、その違いから傷つくこともあるでしょう。悪い印象を受けることもあります。けれども、良い印象を受ける出来事の方が圧倒的に多いのだとブレグマン氏は言います。
実際、外国へ旅行へ行くとわかります。日本人だとバカにする人もいるし、騙そうとする人もいる。嫌がらせをされることもある。でも、それ以上に、親切にされたり、優しくされることが多い。だから交流が深まれば深まるほど、そこの人たちを憎めなくなるのです。
「マンデラの特別な力は、別のところにある。彼を世界史上最も偉大な指導者の一人にしたのは、ジャーナリストのジョン・カーリンによれば、「百人のうち九九人が、救いようがないと見なす人間にも、善性を見いだそうとする」ことだ。」(p.194)
アパルトヘイトの南アフリカで、黒人の人間としての権利を取り戻すために、破壊活動まで行ったマンデラ氏は、投獄されている間に心を入れ替え、看守でさえ心酔するほどの人格者になられたそうです。
その特性は、どんな人であっても相手を信頼すること。信頼することによって、敵を味方にしたのです。それがあったから、内戦を回避することができたのですね。
「あなたが隣人とめったに話さない場合、多様性は逆に偏見を強める可能性がある。移民が急増したコミュニティでは、イギリスではEU離脱賛成派、アメリカではトランプ支持者の割合が高いことが示唆されている。
こうした結果から、交流の研究者たちは、人がお互いに慣れるには時間が必要だということを強調する。交流は有効だが、すぐ効くわけではない。」(p.196)
「しかしこの言葉は、自分を変えなければならないという意味ではない。その逆だ。交流についての研究から明らかになった、最も注目すべき事の一つは、自らのアイデンティティを保持できて初めて、偏見を排除できるということだ。誰もが違っていても何の問題もないことを、わたしたちは理解しなければならない。しっかりした基盤があれば、自らのアイデンティティのための頑丈な家を建てることができる。
そうすれば、そのドアを開け放つことができる。」(p.196-197)
欧米では、急増する移民問題が起こっています。文化や価値観が違う人々がコミュニティに入ってくることで違和感を覚え、自分たちの利益が損なわれていると不安になるのです。
そして、そういう移民を排斥しようとする人々は、移民と交流しない人たちなのですね。交流しないけれども身近にいるから、ひしひしと脅威を感じているのです。
そこで重要なのは、相手に合わせる必要はないということです。むやみに相手に合わせるのではなく、違いを受け入れるのです。相手は相手のままでいいし、自分は自分のままでいい。自分を大切にできるから、同様に違う相手を相手自身が大切にすることを許容できるのです。
「ここにもまた、明らかなパターンが見られる。前線からの距離が遠くなればなるほど、憎しみは増大した。母国の行政機関、ニュース室、居間、パブでは、敵に対する憎しみはきわめて強かった。しかし塹壕では、兵士たちは相互に理解を深めた。あるイギリス兵は故郷への手紙にこう記している。「彼らと話をした後、多くの新聞記事は恐ろしく誇張されているに違いないと思いました」」(p.203-204)
1914年のクリスマスに、自然発生的に起こった休戦では、第一次大戦のヨーロッパ戦線で対立する両国の兵士たちが手を取り合ったのです。
もし、この時の兵士たちに決める権限があったなら、第一次大戦はそこで集結したであろうとブレグマン氏は言います。
「兵士たちの手紙を読むと、わたしの心に一つの疑問が浮かんできた。すでに一〇〇万もの人命を奪った恐ろしい戦争にはまり込んでいた彼らが、塹壕から出ることができたのに、なぜ、わたしたちは同じことができないのだろうか。
わたしたちもまた、他者への憎悪をあおる活動家や政治家によって、互いと戦うよう仕向けられている。」(p.204-205)
対立する相手との距離が近ければ、私たちは親しくすることができます。仲間になれるのです。
しかし、距離が遠ければ、容易に残酷な仕打ちができる。そして対立を煽る指導者たちは、距離が遠いところにいるのです。
「これらの作戦がすべて成功した秘訣は何だろう。ゲリラ兵は化け物のように見えるが、普通の人間だ。「わたしたちが探しているのは犯罪者ではなく子ども、ジャングルで道に迷っている子どもなのです」とファンは説明する。」(p.209)
コロンビア政府からゲリラ対策を求められた広告会社マレンロウの社員は、クリスマスツリーをジャングルに立てて、母親のもとに帰ろうというメッセージをゲリラに対して送り、功を奏したそうです。
「マレンロウの作戦は、二〇一一年に始まったFARCとの和平交渉を強力に後押しした。同社に話を持ってきた防衛大臣ファン・マヌエル・サントスは大統領になり、二〇一六年にはノーベル平和賞を受賞した。半世紀以上に及んだゲリラとの戦争はついに終わった。」(p.210)
相手を敵とみなし、殲滅しようとしている間は、互いに犠牲を増やし、対立を深めるだけだったのです。
相手を同じ人間で仲間だとみなすことで、自分たちの対応が変わり、それが相手にも伝わって、相手の対応が変わっていったのですね。
「わたしを含め、誰もが覚えておくべきは、他の人々も自分たちと変わらないということだ。テレビで怒りを爆発させている有権者も、統計上の難民も、顔写真で見る犯罪者も、すべて血の通った人間であり、もし人生の軌道が違っていたら、わたしたちの友人、家族、恋人であったかもしれない。あるイギリス兵はそれに気づいてこう言った。「彼らも、家には愛する家族がいる」
自分の塹壕に立てこもると、現実が見えなくなる。他者への憎悪を駆り立てる少数の人が、すべての人間を代表しているように思えてくる。ツイッターやフェイスブックにまかれる毒もそれと同じで、大半はほんの一握りのインターネット荒らしによるものだが、大多数の声のように思える。しかし、強い毒をまき散らすインターネット荒らしでさえ、ふだんは思慮深い友人や、愛情深い介助者かもしれないのだ。」(p.213)
すべての人が善い親であり、善い子ども、善いパートナー、善い友人なのです。そういう一面が、必ずあるのです。
「先の数章では、人間の本性についての見方を変えるだけで訪れる新しい世界を示そうとした。わたしは表面をなぞったにすぎないが、実際のところわたしたちが、大半の人は親切で寛大だと考えるようになれば、全てが変わるはずだ。そうなれば、学校、刑務所、ビジネス、民主主義の構造を全面的に考え直すことができる。そして、人生をどう生きるか、ということも。」(p.215)
他人を疑うのではなく、信頼するように自分が変われば、自分だけでなく社会を変える力にもなるのです。
「では、誰かの意図が疑わしく思えたら、どうすればいいだろう。
最も現実的なのは、善意を仮定することだ。つまり、「疑わしきは罰せず」である。たいていの場合それでうまくいく。なぜなら、ほとんどの人は善意によって動いているからだ。そして、誰かがあなたを欺こうとしている数少ないケースでは、あなたの非相補的行動が相手を変える可能性が高い。(強盗を企てた少年に夕食をごちそうしたフリオ・ディアのように)。
しかし、それでも騙された場合は、どう考えればよいのだろう。心理学者のマリア・コンニコワはプロの詐欺師に関する魅力的な著書でこの件について語っている。「常に警戒しなさい」というのがコンニコワのアドバイスだと、あなたは思うかもしれない。そうではない。彼女は詐欺やペテンの研究の第一人者だが、出した結論はそれとは大違いだ。時々は騙されるという事実を受け入れたほうがはるかに良い、と彼女は言う。なぜならそれは、他人を信じるという人生の贅沢を味わうための、小さな代償だからだ。」(p.217-218)
バリ島の兄貴こと丸尾孝俊さんは、まさにそういう人です。貸したお金を返しに来ると言った少年の言葉を信じて待ち続ける。いつまでたっても少年が戻らず、騙されたことが明らかになっても、兄貴は少年を責めませんでした。
実は私にも似たようなエピソードがあります。お金を貸してくれというタイ人に貸したことがありました。約3万円ほどですが。その人は、それっきり連絡をよこさなくなりました。
私は、「バカだなぁ」と思いました。返しておけば、いつでも助けてくれる友だちになれたのに。私は、「I hate you(あなたを憎む)」というメッセージを送りました。返事はありませんでしたが、それでもう縁を切って決着をつけたかったのです。私は兄貴ほど、まだ人間ができていなかったようです。
「黄金律のこのバージョンは、「白金律(プラチナルール)」と呼ばれるが、ジョージ・バーナード・ショーがその本質をうまく言い当てている。「自分がしてもらいたいと思うことを他人にしてはいけない。その人の好みが自分と同じとは限らないからだ」」(p.221)
黄金律(ゴールデンルール)は、世界中にあります。それは、孔子が残した「己の欲せざる所は人に施す勿れ」という言葉のように、自分の嫌がることを他人に対してするな、という消極的なものと、聖書にあるように「自分がそうされたいと思うように他人に対してしなさい」という積極的なものがあります。
それに対して、白金律というのもあるのですね。たしかに、人の好みは違うので、自分がしてほしいことと他人がしてほしいことは違うでしょう。ただ、そもそも黄金律は、それを前提としたものだと私は思っています。
つまり、自分してほしいと思うことというのは、たとえば宿題を手伝ってほしいという具体的なことではなく、自分の助けをしてほしいということだと思うのです。何が助けになるかは、人それぞれ違いますからね。そこはその人に尋ねてみるべきなのです。
「距離は人に、インターネット上の見知らぬ人への暴言を吐かせる。距離は兵士に、暴力に対する嫌悪感を回避させる。そして距離は、奴隷制からホロコーストまで、歴史上の最も恐ろしい犯罪を可能にしてきた。
しかし、思いやりの道を選べば、自分と見知らぬ人との距離が、ごくわずかであることに気づくだろう。思いやりはあなたに境界を超えさせ、ついには、近しい人や親しい人と、世界の他の人々が、等しく重要に思えるようになる。」(p.227-228)
距離が離れている、分離しているという思いが、私たちを本性から遠ざけてしまうのです。私たちの本性とは、私は「愛」そのものだと思っています。分離しているという誤解が、自分を愛らしくない思いへと駆り立てるのです。
「わたしたちは、本当は惑星Aに住んでいて、そこにいる人々は、互いに対して善良でありたいと心の底から思っているのだ。
だから、現実主義になろう。勇気を持とう。自分の本性に忠実になり、他者を信頼しよう。白日のもとで良いことをし、自らの寛大さを恥じないようにしよう。最初のうちあなたは、騙されやすい非常識な人、と見なされるかもしれない。だが、覚えておこう。今日の非常識は明日の常識になり得るのだ。
さあ、新しい現実主義を始めよう。今こそ、人間について新しい見方をする時だ。」(p.236)
人間の本性に目覚め、そのように生きるには、ちょっとした勇気が必要なのです。大丈夫、何があろうと何とかなりますから。
最後に、翻訳された野中香方子さんのあとがきから引用します。
「そもそも、なぜ、ブレグマンは、人間の本質の探究を思い立ったのか。前作『隷属なき道』でブレグマンは、ベーシックインカムで格差社会を救うというアイデアを提示した。しかし、刊行当時、ブックツアーで彼がそれについて語ると必ず、「お金をばらまいても、人はろくな使い方をしない。なぜなら人間は本来、怠け者で、自分勝手で、不道徳な生き物だからだ。どうせ、酒や麻薬に使ってしまう」と反論された。」(p.241)
冷笑的な人間観が社会に染み付いており、その理由を知りたくなったのですね。その探究の結果が本書のようです。
それにしても、やはりブレグマン氏はベーシック・インカムを考えておられたのですね。この前作を、ぜひ読んでみたいと思いました。
「けれども、人間は有効的な一方で、監獄やガス室を作る唯一の種にもなった。なぜなのか。この問いに対してブレグマンは、人間を最も親切な種にしているメカニズムと、地球上で最も残酷な種にしているメカニズムの根っこは一つだ、と語る。それは「共感する能力」だ。「共感はわたしたちの寛大さを損なう。(中略)少数を注視すると、その他大勢は視野に入らなくなる。(中略)悲しい現実は、共感と外国人恐怖症が密接につながっていることだ。その二つはコインの表と裏なのである」」(p.244)
共感する力は、太陽光のようにすべてに降り注ぐのではなく、スポットライトのように狭いのです。その光から外れた他人は、得体の知れない怪物のようさえ感じる。だから、敵視することができるのですね。
愛の対極は不安(恐れ)です。そしてその不安(恐れ)は、愛の光が当たらない部分なのです。つまり、不安(恐れ)も愛が生み出したものと言えるのです。私はこのことを、「神との対話」によって知りました。
こういう人間の本質に切り込む内容は、とても有効なだと思いました。人がなぜそう感じるかがわかれば、つまり理解が進めば、より信頼できるようになるからです。
敵のように見えても、騙したり裏切ったりする信用できない人のように見えても、私たちは信頼することができます。ほんのちょっと勇気があれば。そしてその信頼によって、私たちは素晴らしい社会を創っていける。私は、そんな思いを強くしました。
・上下巻を並べてみました。
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