2022年08月01日

神仕組み令和の日本と世界



友人から「日月神示(ひつきしんじ)」というものがあると紹介され、本を探してみて、読みやすそうなものを買ってみました。

著者は中矢伸一(なかや・しんいち)氏。英会話講師などをされながら、神道系の歴史などを独自に研究されておられるようです。
サブタイトルに「日月神示が予言する超覚醒時代」とあるように、本書は予言とされる日月神示について書かれたものです。
私は友人に聞くまでは、まったく知りませんでした。そもそも予言はノストラダムスで懲りているので、もう十分かなという思いもありましたが、友人の勧めに従ってみることにしました。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

終戦を迎える前年の昭和19年6月、天性の画家であり神道研究科だった岡本天明(てんめい)氏が、千葉県成田市台方にある麻賀多(まかた)神社に参拝した際、突然、勝手に右手が動き出し、「自動書記」という形で書記が始まりました。この啓示は最終的に昭和36年頃まで断続的に続き、全37巻、補巻1巻という形で今日に残されました。」(p.5)

これが「日月神示」と呼ばれるものになるのですが、自動書記という点では「神との対話」と同じような感じですね。

これを素直に受け入れて実践していくことにより、個人だけでなく社会、日本だけでなく世界全体が良い方向に変わっていく。大きな難が小さな難で済む。そんな力を秘めているのが日月神示なのです。

 その日月神示によれば、やがては日本の「てんし様(天皇)」を中心とし、世界が一つにまとまる時代がやって来ます。戦前に言われた八紘一宇(はっこういちう)、四海同胞(しかいどうほう)の実現であり、本当の意味での恒久平和と繁栄の時代がもうすぐやってくるというのです。
 ただし、その時代を迎えるまでに、人類は、今まで積もり積もったメグリ(悪行)を清算しなければなりません。いわば通過儀礼としての”禊(みそ)ぎ祓(はら)い”です。それは、天変地異、戦争、経済の崩壊、病の蔓延(まんえん)といった様々な形で起こることになるでしょう。一気にそうした現象が出てしまうとほとんどの人は生き残れないから、一刻も早く「まこと心」に立ち戻り、今から準備して、行動に移すようにと警告しているのです。
」(p.6-7)

この本で書かれていることをコンパクトにまとめると、こういうことになるようです。
これについては、私としては違和感ありありなのですが、そのことは最後に書くことにしましょう。


「物、自分のものと思うは天の賊ぞ、皆てんし様のものざと、くどう申してあるのにまだわからんか」(『キの巻』第7帖)
「てんし様拝みてくれよ。てんし様は神と申して知らしてあろがな、まだわからんか」(『水の巻』(第1帖)
」(p.20)

すべてこの世は神が所有しているのであって、私たちが何かを所有できる、所有しているという概念が間違っているのですね。そしてその神が具体的なお姿として現れているのが天皇だと中矢氏は言います。したがって、天皇を神と信じて、自分を空しくすることを求めているのです。


村山先生によれば、このたびの文明交代期は、2000年から2100年の100年間かけて起きるということになりますが、1600年前の交代期が西暦400年から500年にあたるところ、実際には西暦375年のフン族の大移動に端を発していることから、今回の交代期は1975年から2075年までに起こるだろう、としています。」(p.62)

これは日月神示とは関係ないのですが、歴史を見ると800年周期、1600年周期というものがあるという説を、村山節(みさお)氏が説いているそうです。
この説によれば、文明の大転換が1600年周期で起こっていて、その発端は民族の大移動にあるのだとか。だから今また大きな大転換期に差し掛かっているが、民族の大移動による世界的な大混乱が起こると予想されているのですね。

人類の歴史は周期的な興亡をずっと繰り返してきていますが、次は日本が世界の主役になるということは、もう間違いないのです。
 それは、800年とか1600年に一度のスケールで来る波ではなく、今、シュメール文明から始まる人類6000年の歴史が、終わりを告げようとしているということです。
 これまでの6000年、あるいは6400年の歴史は、”男性”原理が主体の歴史でありました。男性原理が主体の世では、ピラミッド構造をなす支配型の社会になります。強い者と弱い者の差が顕著にあらわれ、他人を蹴落としてでも這い上がろうとする競争社会が実現します。
 そしてこれから始まる新しい波は、フラットな構造の、上も下もない、対等な関係の社会になります。そんな地球社会の中心には「丶」という核があり、丶を中心として皆がまとまるのです。この丶にあたるのが日本であり、天皇陛下(てんし様)ということです。
 これは女性原理が強く打ち出される世の中ですが、けっして女性原理が男性原理より優位に立つというものではなく、男性原理と女性原理が融合する、バランスの取れた理想的な社会になると予測します。つまり、イザナギ(男性原理)とイザナミ(女性原理)の結びです。これが「ミロクの世」と表現されるものです。
 日月神示に示されているのは、もうすぐそういう世の中に転換するから、準備するようにというアドバイスであり、警告です。
」(p.92-93)

中矢氏はこのように言いますが、特に根拠は示されていません。男性原理と女性原理の分類の根拠もないし、なぜそう転換するかもわかりません。それに、男性原理から女性原理へと転換するならまだしも、どうして統合された社会になると言えるのか。まったくもって不明です。
ひょっとしたら、日月神示にはそういう記述があるのかもしれませんが、少なくともこの本にはそういうことは書かれていませんでした。あえて書かない理由はないので、おそらく書かれていないのでしょう。

中矢氏は、日月神示には、大混乱の後に「ミロクの世」と言われる平和な社会が訪れると言います。したがって、いかにこの大混乱を乗り切るかが重要であり、そのための準備をせよと警告しているのが日月神示だと言うのです。


おそらく2020年の東京オリンピックの後には、中国経済の崩壊は顕著になってくるのではないかと思われます。
 経済の崩壊と同時に来るのは共産党一党独裁体制の終焉であり、代わって台頭してくるのが軍閥です。中国は内乱状態になり、分裂するかもしれません。これが、民族移動に拍車をかけるのではないかと思われます。
」(p.115)

フン族の大移動に匹敵するものは、中国人民の大移動だと予測しているのですね。それをきっかけに、世界は大混乱に陥るのだと。
しかし残念ながら、今現在、そういう兆候は現れていないようです。


また、日月神示は「てんし様を中心に世界が一つにまとまる」世の中を理想とするもので、それは八紘一宇(はっこういちう)とか四海同胞(しかいどうほう)という戦前の思想に通じるものではありますが、もう一つ注目しなければならないこととして、日月神示はその系譜から、「大アジア主義」の流れを汲むものであるということがあります。
 日月神示は本来、大本(教)に降りるはずでしたが、大本が当局により弾圧されてしまったため、仕組みが変わり、一時は大元信者であった岡本天明さんに伝達されたと言われています。
 その大本ですが、戦前は右翼ともつながりの深いものがありました。右翼といっても、今のような偏狭な国粋主義者の集まりではありません。当時の右翼というのは、大アジア主義を掲げ、清朝打倒を掲げる中国の革命家たちと共闘しており、日本の軍部とは対立関係にあったのです。玄洋社の頭山満(とうやまみつる)や黒龍会の内田良平は、大本教主の出口王仁三郎(でぐちおにさぶろう)とは同じ理想のもと、しっかりと結びついていました。
」(p.187-188)

現在の中国は、中華人民共和国と中華民国(台湾)の二つに分かれていますが、いずれしても、その基礎を作ったのは孫文であり、孫文のもとでは一つになれるのです。その孫文を命がけで護り、共に闘ったのは、日本の右翼たちだったということです。」(p.189)

つまり、大アジア主義というのは、神のみ心に適うものだということなのでしょうね。
しかしそれにしても、神の計画であった大本教を、人間が弾圧して潰してしまった、という発想も面白いですね。何とひ弱な神様なのでしょうか。

また、満州には「五族」に限らず、ユダヤ人を大量に入植させるという計画もありました。現在のイスラエルが建国される前の1930年代、ヨーロッパで迫害を受けていたユダヤ人を満州国に受け入れ、定住させようと画策したのです。」(p.191)

これは「フグ計画」と呼ばれ、日産コンツェルンの鮎川義介(あゆかわよしすけ)が提唱したのだとか。ユダヤ系アメリカ資本の誘致を行うことが目的のようで、満州を多民族が協和した強国にしようとする計画だったようです。
その目的には、ロシアからの防波堤としての役割を満州国に担わせることでもあったようです。


こういうことを踏まえて、次に起こるであろう中国の分裂と民族大移動に備えて、中矢氏は次のようなプランを提示します。

民族移動への対応だけでなく、新満州国を、新時代を開くモデル国家と位置付け、東アジアのみならず人類の未来を開くフラグシップとすることです。
 なお、今は戦争する時代ではありませんので、アメリカやロシアをもこの一大プロジェクトに引き込み、皆で発展していけばいいのです。
 本来こうした役割は新満州ではなく、日本が担うべきなのですが、自浄能力もないし自立することすらできない今の日本ではとても無理なので、日本以外のところに、こうした雛形を作るのです。
」(p.202)

大アジア主義を満州の地に実現することで、大混乱機を乗り切ろうとする考えのようです。
あまりに理想論に過ぎる気がしますが、いかがなものでしょうかね。まだウクライナ戦争が起こる前に書かれたものなので、仕方ないかもしれませんが。


『水の巻』第2帖には、
「ひふみ、よいむなや、こともちろらね、しきる、ゆゐつわぬ、そをたはくめか、うおえ、にさりへて、のますあせゑほれけ。一二三祝詞(ひふみのりと)であるぞ」
 と出てきますが、私はこの「ひふみ祝詞」こそが、日月神示の根幹であると思っています。
」(p.203)

これと同様のものが物部氏の史書である『先代旧事本紀』の「天神本紀」にあるそうです。「ひふみよいむなやこと」というのは、数字の「一」から「十」を読んだものです。

私はとくに意味など考えずに奏上するべきだと言っていますが、前章でも出てきた在日朝鮮人の先生によると、「ひふみ祝詞」というのは、朝鮮語で解釈すると、日本と朝鮮、そして中国東北部を含めた「アジアの連帯、あるいは和合」の意味があるというのです。」(p.205)


読み物としては面白いと思いますが、私の正直な感想は、ノストラダムスと同じだというものです。
こういうことは、大昔から言われてきています。聖書でも黙示録のように、大惨事が起こった後に神の世が出現するとありますよね。

そして、こういう人を脅すような警告の多くに共通しているのが、具体的な対策を何も示していないということです。
本書を読みながら、具体的にどうせよと言っているのかを知ろうとしました。第5章は「私たちが目指すべき未来」とあるので、ここで日月神示に書かれている対策が披露されているのかと思いました。しかし、そういうことは何も書かれていませんでした。
東アジア共同体構想としての新満州国建設は、中矢氏の妄想であり、日月神示に書かれているものではありません。それに、仮に新満州国建設が対策だとして、いったいどうやって造るのでしょう?

日月神示にあるのは、神を信じよ、「てんし様」が神だと受け入れ崇めよ、というようなことばかりです。
一部に「型」だけでよいという記述もありましたが、その「型」が何なのかもわからないし、その解説もありませんでした。
聖書でも、神を信じよとしか言っていませんよね。その結果、ユダヤ教が始まってから4000年(一説には6000年とも)とか、キリスト教が始まってから2000年になりますが、歴史はどういう答えを出しているでしょうか?

私は、「神との対話」は絶賛していますが、それは非常に論理的に示されているからです。そして、不安(恐れ)は愛の対極であることも示されています。これも理屈として納得がいくものです。
したがって、こういう不安を煽るだけのものを、私は真実だと受け入れることはできません。もちろん、他の人が何を真実と受け入れるかは、その人の自由だと思っていますよ。

仮に本当に大混乱が起こって、人類がほとんど死に絶えるとして、だからどうなのでしょう? 魂が私たちの本質であるとするなら、いったい何が問題なのでしょうか?
不安を煽るものは、魂のことを語りながら、必ずどこかで都合よく魂を無視します。そういう一貫性がないのが特徴的ですね。

と言うことで、読み物としては面白いかもしれないので、読んでみたい方はどうぞ。

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タグ:中矢伸一
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2022年08月05日

結局、すべて大丈夫。



バリ島の兄貴こと丸尾孝俊さんのご縁で知った電子書籍(Kindle版)を読みました。著者は菅沼日菜子(すがぬま・ひなこ)さん

兄貴は、たくさんの人を応援されていますが、それがすべて私も応援したくなる人とは限りません。では何故、この本を買ってみようと思ったか? それは、この本のタイトルが気に入ったからです。
私がいつも言っているのは、そのままで大丈夫だから、ということです。それととてもマッチしている気がして、買ってみることにしたのです。


ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。

どう し たら 人 は 幸せ に なる ん だろ う?
 心から やり たい こと を やっ て い たら、 幸せ を 感じる ん じゃ ない のかな?
 じゃあ、 みんな 心から やり たい こと を やっ て い ない って こと なのかな?

 …… あれ、 じゃあ 私 は どう だろ う。
」 (p.7-8)

就職した菅沼さんは、ため息をつきながら仕事をする社員たちの姿を見て疑問を感じます。そこから「幸せ」を探究する旅が始まるのです。


「今 の まま じゃ ダメ だ」 という 未来 の 自分 への 不安 感 と、 現状 の 自分 への 焦り。
「変わら なきゃ」 という『 恐れ』 を ベース に し た その 想い から、 次 の 行き先 も 決め ず に 現状 を 飛び出す 決意 を し まし た。
 大好き だっ た 会社 を 辞める という 決断 を し た の です。
」 (p.13)

現状に不満があったわけでもないのに、ただ今のままじゃダメだという思いに突き動かされて、手放すという決断をされたのですね。


誰 もが 抱える あらゆる 恐れ の 中 で、 私 が 一番 恐れ て い た こと。
 それ は、『 私 が 私 を 生き られ ない こと』 でし た。

 それ は、 死 への 恐怖 すら も 超え て、 絶対 に 嫌 だ と 強烈 に 意識 し て い た こと。
」 (p.18)

人生において、恐れる(不安になる)ことはいろいろあります。たとえば、お金がなくなるとか、病気になるとか、最愛の人と別れることになるとか。
しかし菅沼さんは、それよりも自分が自分として生きられないことが最大の恐れだと気づかれたようです。


どんな 状態 でも、 その 人 が「 幸せ だ」 と 感じ たら、 それ が「 幸せ」 です。

『幸せ の 定義 に 正解 は ない』
」(p.41-42)

なぜなら、 幸せ という のは「 現実 の 状態」 では なく、「 心 の 状態」 だ と 思う から です。」(p.42)

探究の結果、たどり着いた答えがこれだったのですね。幸せとは、外的な条件によるものではないのです。


タイ が 好き な 3つ の 理由 で、 それぞれ 深 掘り し て わかっ た こと。
 それ は、 私 は タイ に 行く こと で「 気持ちいい」「 心地 いい」「 心 が あたたかく なる」 という『 開放 感』 と『 安心感』 を 求め て い た という こと です。
」(p.46)

菅沼さんは、タイでボランティア活動に参加されたことがあったそうです。私もタイで「自由」を感じたのですが、菅沼さんも同じような感覚を得られたのかもしれません。
菅沼さんとは場所の縁があるようで、タイ、長野、広島、宮古島という、なぜか私と関連する土地のつながりがありました。


幸せ を 感じる うえ で 大切 なのは『 何 かを する こと』 では なく『 味わう こと』 なの です。」(p.47)

幸せとは、行為(Doing)や所有(Having)の結果として得られるものではなく、存在(Being)そのものなのですね。


「はたして、 自分 の 感覚 に 従っ て いっ たら、 人生 は どう 変わっ て いく ん だろ う?」

「頭 で 出し た 答え」 を 優先 する 人生 から、「 自分 の 感覚」 を 優先 する 人生 への シフト。
 それ は、 自分 の 人生 を かけ た 壮大 な「 実験」 でし た。
」(p.52)

自分 の 直感、 感覚 を 信じる 勇気。
 それ を 行動 し て みる 勇気。
 その 勇気 さえ あれ ば、 人生 は 想像 も つか ない 方 へ、 未知 なる 世界 へ 展開 し て いき ます。
」(p.62)

理性よりも大事なのは直観。自分の感性を信じること。菅沼さんは、自分の人生において何が真実かを実証しようとされたようです。


満点 の 星空 を 見上げ た とき、 息 を 飲み、 言葉 が 出 なく なる 感覚 になり ませ ん か。

 それ は すべて「 純粋 な もの」 に 触れ た こと で、 あなた が、 あなた の 中 に ある「 純粋 さ」 を 思い出し た から です。

 だから、 安心 し て いい の です。
 私 たち の 中 に「 純粋 な こころ」 は かならず あり ます。
」(p.63)

たった 100 年 きり の 人生 を、 心から 豊か さを 感じ て 生きる ため に 必要 な もの。
 それ は、 自分 という 存在 への 絶対的 な 安心感。 そして、 湧き 上がる 好奇心 を 止める こと なく、 チャレンジ し て いく こと だ と 思っ て い ます。
」(p.68)

そうして 1 回 きり の 人生 を 全う し て いく こと を、 未来 の 自分 への メッセージ として、 ここ に 記さ せ て いただき ます。

「結局、 すべて 大丈夫。 だ と し たら あなた は、 本当は どんな ふう に 生き て いき たい です か?」
」(p.70)

自分の人生を信頼して、絶対に大丈夫だという安心感の中で生きることによって、本当の自分を生きることができる。そういうことを、菅沼さんは感じられたのだろうと思います。


とても短い本で、サクサクと読めてしまいます。ある意味では物足りなく感じるかもしれませんが、この値段の電子書籍であれば、これで十分だとも思いました。無用に長くする必要はないので。

それにしても感じたのは、若い人たちの可能性です。こういう感覚をいとも簡単に得られるのが、今の若い人たちなんですね。私はそのことに人類の希望を感じます。
 
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2022年08月09日

不便益のススメ



日本講演新聞に「不便益」という言葉に関する記事がありました。面白いなと感じたので、そこで紹介されていた本を買いました。
著者は大学教授の川上浩司(かわかみ・ひろし)氏です。効率を追求する工学の分野で研究をしていく中で疑問を感じるようになり、今は不便だけれども益があるという「不便益」を追求しておられるようです。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
なお、本書では句読点を「,(カンマ)」と「.(ピリオド)」で記してあるのですが、あまり意味があるとは思えないので、引用文ではすべて句読点に置き換えます。

スマホを忘れたことに気がついた時、反射的に「不便!」という言葉が頭をよぎり、「マズイことになったなぁ−」と思いました。そして、お腹が空いた時、評判の良い近場のお店に最短ルートで移動できないことに気づき、ガックリきました。
 でも、ちょっと待ってください。もともと散策してたはずです。最短ルートで効率的にお店に行く必要があったのでしょうか?
」(p.13)

スマホを忘れたら、誰でも不便を感じるでしょうね。しかし、最短ルートで効率的に評判のお店を探せないという不便によって、思いがけない掘り出し物のお店と出合えるかもしれないし、街のあちこちに気づけるかもしれないのです。


不便益を探していると、手間をかけるからこその益がたくさん見つかります。その時の手間は、無駄ではありません。ところが一方で、手間をかけても空回りして、手間をかけない時と何も変わらないことがあります。結果が変わらなくても過程の違いに何か意味があれば良いのですが、それすらないこともあります。それこそ、手間が無駄になっています。
 ところが私たちは普通、これらの区別を意識することはなく、手間といえばムダだと思います。手間はいつでもネガティブなもので、できるだけ避けるほうが良いと無意識に考えてしまいます。
」(p.55)

本当は、無駄な手間と無駄でない手間があるにも関わらず、私たちは「手間=無駄」と考えてしまっているという指摘です。

でも、本当にそうでしょうか?
この本を読みながら考えたのですが、何を無駄と考えるかは、その人の考え方によるのではないでしょうか。つまり、絶対的な無駄というものはないし、絶対的に無駄ではないなどということもないのです。


この事態をちょっと抽象化すると、自由度が低い(ロビーにいなければテレビが見れない)という不便も、出会い(友人となる人物と)の機会をくれて、何か試してみる(話しかけてみる)ことを後押ししてくれます。普通に考えると、自由度が低いことはチャンスを奪われることのように思えます。しかし実は、逆に別のチャンスを与えてくれるのです。」(p.74)

ロビーにしかテレビがないホテルで、どうしても観たかった番組を見るために慣れない英語を駆使してチャンネル争いをしたことがきっかけで、かけがえのない友人ができた。そういう体験をもとに、自由が少ないことが必ずしも良いわけではない、という考えを披露されています。

これを突き詰めれば、何でも良い、ということにならないでしょうか?
すべての出来事には「良い」「悪い」の両面があるだけなのです。あるいは、すべての出来事はニュートラルであり、それを「良い」「悪い」と決めているのは自分が選択した価値観だということです。

もし、チャンネル争いをして負けて、悔しくて部屋で一人で過ごすことになったらどうでしょう? それでも、ロビーにしかテレビがないという不自由(不便)が「良い」体験になったでしょうか? 「悪い」体験だったと思うかもしれませんね。

でも、そういう出来事になったとしても、「良い」と考えることもできます。一人で部屋で過ごすことで、思索を深めることができた、とか。
結局、すべては自分が選択する考え方次第だと私は思います。


「徹底的に手間を省き、頭を使わずに済ませれる先に、究極の豊かさがあるのだ」と、ここまで極論すると、みんながみんな、首をかしげます。ところが今、この極論に通じる事態を私たちは知らず知らずに受け入れてしまっているような気がしませんか?」(p.77)

「WALL・E(邦題:ウォーリー)」という映画で描かれていた近未来の話です。何もする必要がなくても生きていかれる世界。それが便利を追求した先にある。身体を動かす必要がなくなり、動かさなくなれば、身体は退化します。究極、頭と心肺機能を維持する内臓だけでよくなる。果たしてそれが幸せなのでしょうか?

・自由とは、何もしなくていいことだ
 ・自由とは、何をしてもいいことだ

さて、どちらが本当でしょうか?
 これを初めて聞いた時、私自身も迷いました。私自身は、「義務」を課せられた状態では前者、「制限」を課せられた状態では後者を、自由と呼ぶ気がします。つまり、状況に依存して自由という言葉を使い分けているのです。
」(p.79-80)

さて、不便益の立場はどうでしょうか? なんとなく想像できるかと思います。何もしなくていいことを自由と呼ぶだなんてとんでもない、という立場です。」(p.80)

たしかに、義務を課せられた時に、その義務を果たさなくて良いというのは「自由」ですよね。そして、何かをしてはならないという制限を課せられた時は、その制限を破っても良いというのが「自由」です。

私は、ここで1つの視点が忘れられているように感じます。何もしなくてもいいとなった時、人は本当に何もしないのでしょうか? 何もしなくていいけど、何かをしたがるのではないでしょうか?
そうであれば、無理に不便益によって無理やり何かをせざるを得ない状況に追い込まなくても、私は自由にさせていいのではないかとも思うのです。

つまり、義務も制約もないのが「自由」であり、「自由」であれば、そこで何をするかは、その人の「自由」なのです。


手間がかかったり頭を使わねばならなかったりする。そしてそれだからこその益がユーザーにもたらされる。そのようなモノゴトを「不便益システム」と呼んでいます。そして、そのようなシステムのデザインを「不便益デザイン」と呼びましょう。」(p.109)

あえて手間がかかるようにする。そのことによって、不便だけれども益があるということを楽しんでもらうデザインということですね。
たとえば、周囲が消えていくナビとかがあるようです。強制的に自分の頭(記憶力や推考力)を使わされる仕組みです。


しかし、携帯電話やスマホを持つという便利な状態を経験したことがないので、比べようがなく、ピンときません。便利/不便というのは、比較の問題だったようです。」(p.137)

便利や不便、益や害(不益)も、すべて相対的なことですよ。つまり、自分が選んだ価値基準によって、どちらにでもなるのです。
だから私は、不便益ということそのものも相対的だから、それを絶対視するとおかしなことになると思うのです。


あちこちにあるコンビニ・自動販売機・夜遅くまで開いているお店に違和感があり、生きづらいと感じる。その理由を二人で考えてみたところ、便利が前提になっている社会は個人が不便益を得ることを許してくれないからではないかと結論しました。」(p.159)

たしかに、安価に編み物のセーターが買える社会で暮らしていたら、わざわざ羊の毛を刈って毛糸に紡いでセーターを編もうなどとは考えないでしょう。そうする自由を奪われている社会とも言えます。
でもね、それでもあえてやるという選択もできるんじゃありませんかね? その選択をしないことを、社会環境のせいにするのもどうかと思いますよ。


ただ、装備なくしての山登りは危険です。山登りで不便の益(達成感)を得るためには、「信頼できる装備」という便利が必要です。そして価値工学は、装備の機能を高めコストを抑えるという仕事で、不便益と協働することができるのです。」(p.161)

山登りというのは不便益だと言います。たしかに、山頂に登ることだけが目的であれば、わざわざ歩いて登らなくても、ヘリコプターで運んでもらえばいいのです。
その不便益である登山を支えるためにも、安全性や快適性を高める装備が必要になってくる。つまり、不便益を安易に享受するためのテクノロジーは、必要とも言えるわけですね。

でも、これも考え方次第だと思います。たとえば、エベレストは酸素ボンベを持っていけば比較的に安易に登頂できます。だからこそ、あえて酸素ボンベを持たない登頂(無酸素登頂)に挑戦する意義があります。
この考え方でいけば、冬山でも夏の装備での登頂とかも、挑戦の対象になりますよね。つまり、機能を高めた装備すら不要になるのですよ。


最初は興味深く読み始めたのですが、途中からは、なんかどうでもいいなぁという気がしてきました。
たしかに「不便益」という考え方は面白いと思います。そう思いますが、絶対的な「不便益」という価値観があるわけではないのです。
その人が選択する価値観によって、便利で役立つ(益がある)もあれば、不便だけれども、不便だからこそ役立つ、ということもあるのです。
そうであれば、ものごとはすべてニュートラル(中立)であり、そこに益を見出すかどうかは自分次第だということになります。

不便を楽しんでもいいし、便利を楽しんでもいい。ともかく、それを楽しんだらいいんじゃありませんかね。

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タグ:川上浩司
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2022年08月15日

22世紀の民主主義



Twitterで紹介されていたことと、今、話題の方のようなので、読んでみることにしました。
著者は成田悠輔(なりた・ゆうすけ)さん。経済学者、データ科学者で、イェール大学助教授だそうです。

私は最初、Facebookで紹介されていたWEB記事で成田さんを知りました。ずいぶんと頭の良さそうな方だなぁとの印象を持ちました。
実はその記事の内容が、そのままにこの本の内容でした。なので、そのことに気づいてから、買わなくても良かったなぁと思った次第です。
まあでも、いろいろと考えさせてもらえる内容の記事だったので、その意味では、本を買うことでお礼をしても良かったかな、とも思っています。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

具体的には、若者しか投票・立候補できない選挙区を作り出すとか、若者が反乱を起こして一定以上の年齢の人から(被)選挙権を奪い取るといった革命である。あるいは、この国を諦めた若者が新しい独立国を建設する。そんな出来損ないの小説のような稲妻が炸裂しないと、日本の政治や社会を覆う雲が晴れることはない。」(p.7)

日本の政治は行き詰まっており、若者の投票率が少々上がったくらいでは変わらない、という成田さんの分析です。だから革命的な何かが起こる必要がある、ということですね。

これは冷笑ではない。もっと大事なことに目を向けようという呼びかけだ。何がもっと大事なのか? 選挙や政治、そして民主主義というゲームのルール自体をどう作り変えるか考えることだ。ルールを変えること、つまりちょっとした革命である。」(p.8)

投票するかしないかとか、政治家になるかならないかというレベルでは、ほとんど何も変わらないと成田さんは考えているようです。
だから、民主主義という制度そのものに疑いの目を向けて、そこを変えていく必要があるのだと。

では、重症の民主主義が再生するために何が必要なのだろうか? 三つの処方箋が考えられる。(1)民主主義との闘争、(2)民主主義からの逃走、そして(3)まだ見ぬ民主主義の構想だ。」(p.13)

闘争というのは、民主主義と愚直に向き合って、調整や改良をすることだそうです。たとえば、政治家のインセンティブを改造することで、国家百年の計を優先する政策に取り組んで実績を上げれば報酬が増えるようにする、というようなもの。
しかし、これは実現可能性がほとんどないと分析します。なぜなら、その決定をするのは現在の政治家だから。現在の政治家が、そういう改革に取り組むのは考えられない。そう成田さんは分析します。

逃走も、たとえば洋上国家のようなものを造って、日本から逃げ出すというもの。闘争と比べれば実現の可能性がありそうですが、果たしてどうか?
成田さんは、仮に逃走するとしても、それは民主主義の問題を解決したとは言えないと言います。そこで民主主義の再発明が必要だということになり、それが構想だとされています。

そんな構想として考えたいのが「無意識データ民主主義」だ。インターネットや監視カメラが捉える会議や街中・家の中での言葉、表情やリアクション、心拍数や安眠度合い……選挙に限らない無数のデータ源から人々の自然で本音な意見や価値観、民意が染み出している。「あの政策はいい」「うわぁ嫌いだ……」といった声や表情からなる民意データだ。個々の民意データ源は歪みを孕(はら)んでハックにさらされているが、無数の民意データ源を足し合わせることで歪みを打ち消しあえる。民意が立体的に見えてくる。」(p.17-18)

つまり投票による選挙で政治家を選ぶのではなく、また個々の政策を投票で選ぶのでもないのです。日常生活の様子から得られる無数のデータから民意を汲み取り、それを集計して政策を決定するというものです。
どのようなデータをどう解釈し、どう集計するのか? それがアルゴリズムであり、公開されたアルゴリズムにしたがって、自動的に政策が決定されるようになると言うのです。


政治がなにやら大事だと頭ではわかる。だが、心がどうにも動かされない。政治やそれを縛る選挙や民主主義を、放っておいても考えたり動いたりしたくなるようにできないだろうか? その難題に挑戦することがこの本の隠れた目的である。読者のためというより、正直自分のためである。」(p.24)

つまり、成田さんが今の政治に飽き飽きしていて、民主主義という構造そのものを変えるという思考ゲームをすることで、ワクワク感を得たかった。その思考ゲームの集大成がこの本だというわけですね。
そうであれば、闘争、逃走、構想という言葉遊びも理解できます。本来なら、いくら構想を練ったところで、闘争と同様に現在の政治家が変えようとしなければ変わらないことは明らか。その意味では、構想で民主主義が変わるということはありません。
ただ、民主主義を構造から変えたらどうなるか、という世界を示すことで、何かが動き始めるかもしれません。たとえば、ある民間シンクタンクがその手法で政策を作って見せて、それが多くの人の賛同を得るようなことがあれば・・・。


実直な資本主義的市場競争は、能力や運や資源の格差をさらなる格差に変換する。そんな世界は、つらい。そこに富める者がますます富む福利の魔力が組み合わされば、格差は時間とともに深まる一方で、ますますつらい。このつらさを忘れるために人が引っ張り出してきた鎮痛剤が、凡人に開かれた民主主義なのだろう。」(p.42-43)

資本主義は、優れた者に利益を与えるシステム。しかし民主主義は、愚かな大衆が社会をコントロールする仕組み。相矛盾すると成田さんは言います。
したがって民主主義を採用するということは、経済が低迷するなど、社会全体の発展を阻害することにもなりかねません。

経済低迷のリーダーはもちろん我が国だが、日本だけではない。欧米や南米の民主国家のほとんども実は目くそ鼻くそで、地球全体から見ると経済が停滞している。逆に、非民主陣営の急成長は驚異的である。爆伸びのリーダーは隣国だが、これも中国だけではない。中国に限らず、東南アジア・中東・アフリカなどの非民主国家の躍進も目覚ましい。」(p.48)

これについては、すでに伸び切って豊かになった民主国家と、これから豊かになろうとする非民主国家の比較ではないかという視点もあります。成田さんもそこを見越して、そうではないという実例を示します。
しかし、それだけで民主主義が原因とは言い切れません。成田さんも、相関と因果は別だと言われます。しかし、他の分析からも、これは因果関係だと見るのです。

しかし、どうも都合の良いデータだけを並べているような気もしますね。なぜなら、民主国家の我が国が爆伸びした時期もあったからです。成田さんもそのことを取り上げ、まだ十分に正しい理論とは言えないかもしれない、ということは認めておられます。


だが、ほとんどの政治家は知名度も権力も資産も中途半端なただの人で、人から気に入られつづけなければ立場を保てない。その残念な現実がシルバー民主主義を生んでいる。一人ひとりの政治家のビビリこそが、シルバー民主主義の実態なのだろう。」(p.94)

つまり、選挙で勝つためには大多数を占めるお年寄りの顔色をうかがわなくてはならなくなる、ということですね。
でも、大多数のお年寄りの意向を汲んで今の政治があるとするなら、大多数の人の民意をデータとして集めて自動的に政策を作り出しても、同じことになるんじゃありませんかね? このことへの的確な答えは、本書からは見つけられませんでした。


だが、今は環境が違う。政策ごとに有権者が意思表明することもできるし、その人にとって「重要じゃない」「よくわからない」と思われる政策に無駄な影響力を発揮しないように辞退したり、信頼できる人に票を委ねたりする仕組みも可能だろう。「ある政治家・政党に、すべてを任せる」という昭和な固定観念を考え直す必要がある。」(p.117)

現在の民主主義は、個々の政策への賛否とは関係なしに政治家や政党を選ばなければならない仕組みで、民意が正しく反映されているとは言えないと成田さんは言います。
特にマイノリティの民意は無視されがちだと。当人にとっては重要な課題でも、他の大多数の人にとってはどうでもいい課題。そのどうでもいいと思っている人が、マイノリティの課題を決めてしまっているのです。

意思決定アルゴリズムは不眠不休で働け、多数の論点・イシューを同時並行的に処理できる。人間が個々の論点について意識的に考えたり決めたりする必要が薄れる。「無意識」民主主義たるゆえんだ。人間の主な役割は、もはや選択したり責任を負ったりすることではない。機械・アルゴリズムによる価値判断や推薦・選択にだいたい身を委ねつつ、何かおかしい場合にそれに異議を唱え拒否する門番が人間の役割になる。政治家はソフトウェアとネコに取って代わられる。」(p.162-163)

意識的に何かを選択するということは、限られた一部のことなら可能ですが、無数にある選択肢に対して適用することは無理だというわけですね。だから、その部分はコンピュータが担当するのだと。
コンピュータがはじき出した政策が、何かおかしいとするなら、それはアルゴリズムがおかしいということです。だから、アルゴリズムを見直すということになります。
そういう社会になれば、もはや政治家は不要であり、イメージキャラとしてのネコがいればいいだけです。

まあかなり極論だと思いますけどね。その門番を誰がやるのかと考えると、やはり選挙で政治家を選ばなくてはならなくなるのではないか、とも思えるので。


民主主義とはデータの変換である。そんなひどく乱暴な断言からはじめたい。民主主義とはつまるところ、みんなの民意を表す何らかのデータを入力し、何らかの社会的意思決定を出力する何らかのルール・装置であるという視点だ。民主主義のデザインとは、したがって、(1)入力される民意データ、(2)出力される社会的意思決定、(3)データから意思決定を計算するルール・アルゴリズム(計算手続き)をデザインすることに行き着く(図13(A))。」(p.164)

私も元SEなので、こういうコンピュータ的な考え方は好きです。IPO(I:インプット、P:プロセス、O:アウトプット)に分割して物事を考えます。

どこかに本当にまっさらで透明な「民意」や「一般意思」があるという幻想を捨てる必要がある。私たちにできるのは、単一の完全無欠で歪みのない民意抽出チャンネル・センサーを見つけることではない。ましてや、選挙はそのようなチャンネルではない。私たちにできるのは、むしろ選挙やTwitterや監視カメラのような個々のチャンネル・センサーへの過度の依存を避け、無数のチャンネルにちょっとずつ依存することで、特定の方向に歪みすぎるのを避けることだけだ。」(p.178-179)

ある政策に対して賛否を問うようなやり方は、真に民意を反映するものではない、ということですね。自分にとって有力な人、あるいは無関係な大多数の人の意向に影響を受けたりする。また、質問そのものに影響を受けることもある。
だから、世論調査のようなものだけを民意とすると、歪んだ民意になってしまうのです。現に、マスコミによる民意誘導(洗脳)には辟易するものがあります。

無意識民主主義アルゴリズムの学習・推定と自動実行のプロセスは公開されている必要がある。選挙のルールが公開されているのと同様だ。」(p.186)

政策を選択する過程が透明化されるべきだということです。ここを隠されてしまえば、アルゴリズムをつくる人の専制になってしまいますから、これは当然のことです。

アルゴリズムと偶然による自動化された民主主義も、無謬主義と責任追及で閉塞した社会に逃げ道をもたらしてくれるかもしれない。そして時にランダムな選択は、どんな選択がより良い成果をもたらすのかを教えてくれる社会実験となり、未来の無意識民主主義に貢献するデータを作り出してくれる。」(p.199)

たしかに、どんなに偉い人が考えても、すべて思い通りの結果を得ることになるとは限りません。そして、それで失敗したら責任追及されるという今の政治体制では、冒険(失敗)することができず、けっきょく無難な選択(何もしないという選択)しかしなくなるのです。
そうであれば、ともかく適当にでも何かをやってみて、上手く行ったかどうかの判断をして、ダメなら変えるという試行錯誤を繰り返すのも、悪いことではないという指摘ですね。

そんな現状と対比した無意識データ民主主義は、民意を読みながら政策パッケージをまとめ上げる前の段階をもっとはっきり可視化し、明示化し、ルール化する試みだとも言える。そして、ソフトウェアやアルゴリズムに体を委ねることで、パッケージ化しすぎずに無数の争点にそのまま対峙する試みとも言える。その副産物として、政党や政治家といった20世紀臭い中間団体を削減できる。」(p.202)

それぞれの政党が多くの政策をマニフェストとして掲げていますが、どこも似たりよったりで、ますます選択しづらくなっている。そういう現実と対比すると、こういうメリットがあると成田さんは言います。

確かに、ウェブ直接民主主義が技術的・物理的に可能か不可能かと言われれば、可能になりつつある。だが、たとえ実現可能でも、ウェブ直接民主主義には二つの大きな壁がある。

 第一に、選挙民主主義が抱えるのと同じ同調やハック、分断といった弱さを持つ。第二に、一定以上の数のイシュー・論点を扱うことが無理である。
」(p.203)

これは先ほど取り上げたように、1つの政策に対する賛否を直接問うやり方で、真に民意を表さないし、現実的にすべての政策について実行することが不可能だ、ということですね。


新しい民主主義の構想としては、面白いものがありました。
つまり、多くの人々が幸せを感じ、満足するという結果を追求するアルゴリズムを造って、それが政策を決定するということだろうと思いました。

ある政策に賛成か反対かという直接的な民意を集めるのではないのですね。
たとえば平和を求めるという民意があった時、だから軍拡しないのか、それともだからこそ軍拡するのか、政策はまったく違います。その政策への賛否だけを集計しても意味がないのです。重要なのは平和という結果であり、そのためにどうするかは、直接的な民意ではわからないからです。
そこで失敗してもいいからランダムにでも何かを決める。その結果、大衆がどういう反応をするのかというデータを集める。平和に近づいたと考えて満足感を得ているのか、それとも不満足で不幸になっているのか。そのデータを集めて、また政策を決定する。
そういうやり方で、真に民意を反映する制作を行っていく仕組みです。

実際問題、そんなことができるのかという疑問はあります。
また、すぐに成果が現れる課題もあれば、何十年経たないと現れないものもあります。それを、現在の人々の満足感だけで決めていいのか、という思いもありますからね。

なので、成田さんの構想に、諸手を挙げて賛成という気持ちにはなれませんでした。しかし、民主主義の構造そのものを問いただすという試みは、面白いものがありました。

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タグ:成田悠輔
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2022年08月17日

高齢者風俗嬢



ひょんなことでTwitterで知った著者の中山美里(なかやま・みさと)さん。お勧めのご著書を尋ねたところ、この本だとおっしゃるので、さっそく買ってみました。
風俗については私も関心がある方ですが、70歳代でも風俗嬢として働いているし、そういう風俗嬢を望む男性客がそれなりにいるということが驚きでした。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

結婚に失敗したりダンナが早死にしたら、風俗で一生懸命働けば子ども3人を育てていける。ダンナが浮気して私を振り向いてくれなくなってもきっと彼氏ができる……という人生の選択肢があることは、大きな救いとなった。
 不安も迷いも恐れも、全部自分の思い込みが作り出しているだけだった。
 それを教えてくれたのが、”超熟”と呼ばれるジャンルで活躍する風俗嬢やAV女優たちだった。
」(p.5)

著者自身が未婚のシングルマザーとして生きてきただけに、人生に対する不安がつきまとっていたようです。その不安をふっとばしてくれたのが超高齢の風俗嬢たちなのですね。


ソープランドやAV、ピンサロのようなグレーの職種、ストリップのような公然わいせつ罪が適用される危険がある職種でも、被害者がいるわけではない。世間に迷惑をかけている仕事ではなく、彼女がいなくて寂しい思いをしている人、奥さんとセックスレスで満たされていない人、奥さんに先立たれてしまった人、障害のある人……さまざまな男性がサービスを利用することで対価を払い、心身を満たしてくれる接客業であり、エンターテインメント産業である。」(p.10)

私も、性産業の中に非合法なものがあるとしても、「誰にも迷惑をかけていない」という視点は大事だと思っています。むしろ、それが喜ばれて役立つ、つまり需要があるからこそ、成り立っているのです。

そもそも私のスタンスとして、風俗の仕事は、学歴のない女性、結婚などによって職歴が途切れてしまっている女性、就職に失敗した女性、一家の大黒柱として稼がなければならないシングルマザーなど、まとまった収入を普通の職業や仕事で得ることが難しい女性にとっては、救済的な側面がある職業だと思っている。」(p.21)

社会の現状は、残念ながら女性に対して不利なものです。そういう中にあって、たとえ学歴やキャリアがなくても普通以上に稼ぐことができる仕事。風俗にはそういう一面があることも確かです。


中山さんが取材した中に、70歳代のAV女優のKさんがいます。彼女は還暦を過ぎてから性に対してもタガが外れて、付き合っていた彼氏の勧めもあってAVに出演したのだとか。

AVが発売されると、彼氏とラブホテルに行き、その作品を一緒に観た。もちろん彼氏は嫉妬に燃え上がる。そして、「負けないぞ」といつも以上に頑張るのだそうだ。そんな彼氏とセックスをするのが楽しいのだとKさんは話していた。」(p.49)

性的な興奮もあるのでしょうけど、私にはKさんが、「自由」を得て幸せを感じているように思えます。


風俗は、若さと美しさをウリにしていると思われているが、それだけでは客は同じ女性に何度も金−−しかも安くはない−−を落とさない。
 もてなしのきめ細やかさ、客を思いやる心、熟練したテクニックなど、さまざまな技術や経験によって、癒されたり、楽しい時間を過ごせたり、恋愛に近い気持ちを味わえる−−だからこそ、客は財布を開く。
 風俗嬢とは、私に言わせれば、れっきとした専門職、技術職だ。
」(p.111)

風俗業界では、見た目のいい派手な女性よりも、地味でパッとしない女性が本指名を返す真のトップランカーであることが多いとよく言われている。
 男性が、決して安くはないプレイ料金を支払う対価として求めているのは、見た目のいい女性にヌイてもらうことではなく、優しく癒してくれるエッチな女性とどんな時間を過ごせるか−−なのだ。
」(p.127-128)

たしかに若さや美しさにはアドバンテージがあるけれど、それだけで上手くいくものでもありません。そして、そういうアドバンテージがないならないで、工夫次第で何とかなるもの。
風俗に限らず、仕事はすべてそういうものだし、仕事だけでなく人生すべてが、そういうものではないでしょうかね。


風俗には、障害者にサービスを提供するところがあります。(「セックス・ヘルパーの尋常ならざる情熱」でも紹介しています。)障害者を専門にしているところもあれば、風俗嬢によって障害者もOKとなるところもあるようです。

働く女性たちは、「社会の役に立ちたい」「普通の風俗では働く気はない。障がい者風俗だからやりたいと思った」など、高い志や優しさをもった女性が大半だが、ちょっと変わったところでは障がい者フェチの女性もいるという。」(p.135)

動機も好みも人それぞれだということですね。


超熟女を求める客は、意外にも若い男性が多いと言います。そして、その多くはプレイ中にマグロなのだとか。つまり、何もせずに寝転がっているだけ。

−−責めたりするのが、面倒なんですかね?
「そうみたいですよ。プライベートでは若い女性と付き合っているんじゃないかと思うんですが、そこでは愛撫してあげたり、気持ちいいかどうか気をつかったりしているんだと思うんですよ。でも、若い女の子ってわがままだし、気も強いじゃない? そういうのが疲れて熟女風俗に来るんじゃないかなって気がしています」
」(p.139)

あと、男の人には失敗しちゃいけないってプレッシャーがあるでしょう? ここぞというところで勃起して、女のコをイカせてからじゃないと発射しちゃいけないみたいな。そのプレッシャーを感じなくていいのが、熟女風俗なのかなと思うんですよね」(p.139-141)

そういう鎧を脱ぎ捨て、素をさらけ出し、わがままを受け入れてくれる懐の深い女性に甘えることができる。
 それが、超熟女風俗の魅力なのかもしれない……。
」(p.141)

男性には男性の不安(恐れ)があり、それがプレッシャーとなっている、ということはあると思います。私自身も、そういうプレッシャーは感じましたから。
そういう不安(恐れ)があるからこそ、安心して甘えられる性風俗が求められるのかもしれませんね。


とにかくすぐ離婚しなければ……という状態で子どもを連れて家を出たとき、風俗という職業はとても優しく女性を迎え入れてくれる。
 寮があったり、提携の託児所があったりするほか、待機室に子どもを連れてきてもいい(教育的にどうかという意見もあるかと思うが)という店もある。
 さらには、新人期間だと優先的にフリーの客を回してもらえて、しっかり稼がせてくれる。新人期間が過ぎた後は本人の努力次第だが、入店して3ヵ月はある程度収入の目処が立つ。毎日8時間ほど待機していれば、安い店でも流行っていれば、1日3万円程度は稼げる。
 はたして、行政がここまでしてくれるだろうか。民間の支援団体がここまでしてくれるだろうか……と思うのだ。
」(p.149)

実際問題、シングルマザーとか貧困にあえぐ女性に救済の手を伸べてきたのは風俗産業だろうと思います。批判する人たちは、いったい何をしてあげたのでしょう? 彼女たちを本当に助けたのは風俗産業であり、その客の男性だったのです。その現実から目を逸らしているから、言っていることが観念的で、現実に役立つ考えにならないのです。


また、社会では性欲だけがなぜか蔑んでみられている。でも性欲は、食欲や睡眠欲と同じ人間の根本的な欲求だ。風俗は、レストランや居酒屋といった業種と同じジャンルに属していると私は考えている。
 食欲を満たしたいだけなら、定食屋や立ち食いそばでも充分だ。しかし、家でも味わえないような食事をしたい。友達と楽しくしゃべりながら食事をしたいということで、レストランや居酒屋を利用する。そのため、単なるサービス業というよりは、アミューズメント産業として扱われている店舗もある。
 風俗も同じだ。単純に性欲を解消するだけなら、ちょんの間やピンサロで充分かもしれない。けれども、昨今は、イチャイチャと恋人同士のように過ごす素人系のサービスや、本格的なオイルマッサージとともに性感マッサージも受けられ最後にヘルスプレイを楽しめるようなタイプの風俗が人気である。一昔前は、風俗に行かなければ味わえないマットプレイやイメクラプレイが人気だった。このように、風俗は単純に性欲を満たすだけでなく、プロのテクニックでしか味わえない快楽を得るほか、寂しい心を癒すといった役割まで担っているのである。
」(p.154)

食欲や睡眠欲が高尚で、性欲が下賤なんてことはないはずです。それぞれ身体の欲求であり、そこに精神的な欲求が絡んできて、様々なサービスが提供されているのがこの社会です。そうであれば、性欲絡みだけが否定されるべきではないと思います。


すると、「老後が不安だから」という答えが返ってきた。年金をもらえるかどうかわからないし、世の中では60歳で定年を迎える時点で、持ち家があった場合に夫婦ふたりで3千万円の貯金が必要だとも言われている。けれども、3000万円もの金額を貯められるとは思えない。その3000万円という大きな金額を用意しなければならないという強迫観念をもち、まだまだ先のことなのに老後が不安になってしまうのだという。
 そして、お金を貯めたところで、使う目的もないそうなのだ。
」(p.164)

でも、アダルト業界で働く超熟女たちを取材し始めてから、私の不安は少しずつ小さくなっていった。
 いくつになっても、元気で働ければなんらかの形で稼ぐことができ、ニコニコしながら柔軟に生きていけば求めてくれる人がいる。本当に最低限必要なのは、健康な心と身体だけなのだなと実感できるようになったからだ。
」(p.161)

風俗の仕事は、求める男性さえいれば、何歳になっても仕事がある。そして、男性の数だけ性癖があり、好みがある。それは風俗で働く女性にとって、とても救いになることではないだろうか。
 こんな自分でも必要としてくれる人がいるという実感は、そのまま「生きていてもいいんだ」という喜びにつながる。
」(p.168)

最近の若い女性は、漠然と老後に不安を抱いているのだそうです。そもそも持ち家があって、貯金が3千万円ってほとんどの人が無理でしょ。それが安心のために必要な資産なのだと言われれば、不安が煽られても仕方ありませんね。
それに対して中山さんは、性風俗が女性のセーフティーネットになると考えておられるようです。「蓼食う虫も好き好き」と言いますが、性に関する好みはそれぞれであり、だからこそすべての人に性風俗で働けるチャンスがある。そこが、安心の元になるんですね。


以前、婦人科の医師から「セックスをし続けている女性は、閉経した後も女性ホルモンが出続けている」と聞いたことがある。実はこれには続きがあって、「年をとって恋愛をすると再び出る」というのだ。そして閉経後に女性ホルモンが分泌されている人のほとんどは、配偶者以外の男性と関係をもっているのだとその医師は話していた。
 人間にとって、セックスとは心と身体にいい影響を与えるものなのだ。
」(p.169)

年をとっても恋をして、配偶者以外とも性的な関係を持つことが、女性の身体にとって良い結果をもたらしている。その事実を受け入れるべきではないでしょうか。


現場でよく聞くのが”40歳を過ぎてから開発された”というケースですね。それまでは旦那さんだけだったけれど、男の人ってどうしても年齢とともに落ち気味になるじゃないですか。仕事も忙しくなる時期だし。でも、女性は熟女になってから”性の感度が上がる”といいますよね。そこでミスマッチが起こるのか、初めて彼氏をつくる……つまり不倫をするわけです。ここで開花しちゃう人が多いように思います。残念ながら旦那さんの影響で開花するって人はあんまり聞かないかもしれません。」(p.177-178)

AVの制作スタッフの男性は、このように言います。私自身、性的に「落ち気味」を実感しているので、さもありなんと思いますよ。(笑)

介護施設なら、個室で一人ひとりお風呂に入るんじゃなく、混浴で大浴場に入ったほうがいいんじゃないですか。Hが好きな人はとにかく健康で明るいですね。よく笑うし、しゃべるし。僕も歳とって、こんなふうになれたらいいなと思います。枯れていく感じじゃなく、咲いていく感じですよね。衰えることあるのかな?」(p.178-179)

同じAV制作スタッフの言葉ですが、今、私が介護施設で働いているだけに、こういう考えもあるなぁと思いました。


人生もゴールが近い時期に、さまざまな男性から女として求められつつ、パートよりもちょっよいい金額を稼ぎ、健康な身体で毎日を過ごしている……私は、その生き方を、人間としての尊厳や自由があるものとして、「いい生き方だな」と思っている。」(p.183-184)

若くしてこの業界に入った女性は、案外その後も逞しくやっている。
 セックスワークは”堕ちる”場所ではない。
 チャンスをつかむ場所なのだ。
」(p.189)

たしかに、そういう一面があるなぁと私も思います。


そもそも、なぜ不特定多数の人とセックスしてはいけないのか? 誰にも答えられません。神が決めたから? クリスチャンなどには説得力がありますが、そうでない人、たとえば日本人には本来、説得力がありません。
古事記には天岩戸伝説があり、岩戸にお隠れになった天照大神を引き出すために、神々がストリップショーのような宴会を堪能しています。それが日本人の神話なのです。

そうであれば、まずは思い込みを捨ててみるところから始めてはどうかと思います。そういう意味でも、超熟女と呼ばれる高齢者風俗嬢が活躍する現実があることを知るのも、悪いことではないと思うのです。

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2022年08月20日

刑務所しか居場所がない人たち



何で知った本だったか忘れてしまいましたが、読み始めてすぐに、これは良い本を買ったなぁと思いました。
子ども向けに書かれた本のようで、漢字にはほとんどふりがなが振られており、文章も非常にわかりやすいです。読みやすく、あっという間に読めてしまいました。

著者の山本譲司(やまもと・じょうじ)さんは、元衆議院議員ですが、2000年に秘書給与詐取事件を起こして服役されています。そのことによって刑務所の中の知的障害者問題に気づき、出所後は障害のある受刑者の社会復帰支援に取り組まれているようです。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

それまで抱いていた刑務所のイメージは180度変わった。悪いやつらを閉じこめて、罪を償わせる場だと思っていたのに、まるで福祉施設みたいな世界が広がっているんだから。
 刑務所の周囲にそびえるあの塀を、僕は誤解していた。あの塀が守っているのは僕たちの安全じゃない。本来は助けが必要なのに、冷たい社会の中で生きづらさをかかえた人、そんな人たちを受け入れて、守ってやっていたんだ。
」(p.9-10)

山本さんが衆議院議員だった2000年9月、秘書給与流用事件で有罪判決を受け、栃木県の黒羽刑務所で服役したそうです。そこで見たものは、悪党だらけの世界ではなく、認知症のお年寄りや障害を抱えた人たちが多く暮らす世界だったそうです。
トイレや風呂ばかりか食事にさえ介助が必要な人たち。そこはまるで福祉施設のようだったと言います。

だれだって、罪を犯したいわけじゃない。
 知的障害のある人が犯行に走った理由は「生活苦」がいちばん多い。障害があるとなかなか仕事に就くことができないから、生活が困窮しがちだ。身近に頼れる人も、行く場所もなくて、ホームレスのような生活を続けたすえ、空腹に耐えかねて万引きをしたり、食い逃げをしたりするのが典型的なパターンだ。
 あるいは、やけに親しげに声をかけてくる人がいて、「友だちになった!」と思っていたら、じつは相手がヤクザで、いいように使われることだってある。
」(p.19)

知的障害のある人の犯罪は、いわゆる軽犯罪が多いのです。ともかく自分が生きていくためのことをしようとして、それでついつい犯してしまうような犯罪です。

実際、犯罪そのものが昔と比べて減っているし、殺人などの凶悪事件は激減していると言います。なので、刑務所に入っている殺人犯は、実に少ないそうです。

答えは……1%。
 2016年、新しく刑務所に入ってきた受刑者約2万500人のうち、殺人犯は218人だった。刑務所の中でも、殺人犯と会うことはめったにない。
」(p.21)

少年犯罪の検挙者数も、2016年は3万1516人で、10年前の1/4に過ぎないのだとか。少年鑑別所はガラガラ状態だそうです。

犯罪が減っているのに、治安が悪いような気がすることを「体感治安の悪化」なんて言うけれど、マスコミの報道がそうさせている面もあると思う。たぶん、視聴率や発行部数を稼げるからだろう。」(p.22)

さもありなん、ですね。

一方で、あまり減っていないのが知的障害のある人の犯罪だ。ほとんどが窃盗や無銭飲食、無賃乗車とかの軽い罪。スーパーで売り物のアジフライを一口かじっただけで、実刑判決を受けた人もいる。
 僕が思うに、もしかしたら裁判官は、「彼らのため」と思って実刑判決を出している面もあるのかもしれない。執行猶予がついて社会の中に戻ると、きっとまたいじめられたり、ホームレス状態になったりする。だから、緊急避難の意味あいで、実刑にするのかもしれない。
」(p.23)

そういう穿った見方をしたくなるほど、知的障害者の軽微な犯罪での実刑判決が多いのでしょうね。


たとえば、自閉スペクトラム症という発達障害のある人は、人とのコミュニケーションが苦手だったり、かたくなにルールを守ろうとしたりする。周囲からは「空気が読めない」と言われ、いじめの対象になることも多い。子どものころからずっとしいたげられてきて、いやな思い出ばかりかかえているんだ。そのつらさが、なんらかの刺激によって表に出て、犯罪に結びついてしまうことがある。」(p.30)

想像してみてほしい。どんな受刑者でも、生まれたときはかわいい赤ちゃんで、一生けんめいに成長してきた。それが、大人になってだれも支えてくれない日々をすごし、さらに年をとって生活に困る。やむをえず、万引きや無銭飲食に手を出して刑務所に入れられ、そこで死んでしまう。
 だれだって、こういう死にかたを望んだわけじゃない。家族や仲間に囲まれて、惜しまれながら息を引き取りたいと願っていたに違いない。だけど、それを許してくれないのがいまの社会なんだ。
」(p.38)

刑務所には、無縁仏となった遺骨がたくさん眠っているそうです。死んでも遺骨の引き取り手がない。社会の誰からも受け入れてもらえず、見捨てられた人たちが大勢いるのです。


気合を入れて、ぞうきんとバケツを持ってきてそうじをした。マスクや手袋なんかは支給されないから、もちろん素手だ。爪のあいだにうんちが入りこむ。最初は「自分の子どものうんちみたいなもの……」と思うようにしていたけれど、気がついたら慣れていたな。」(p.42-43)

山本さんは刑務所で、他の受刑者の部屋の掃除をさせられることがあったそうです。ゴミだらけ、糞尿だらけの部屋だとか。
本来なら、介護が必要な受刑者なのでしょうね。山本さんは、自然と介護士のようなことをされたようです。


寮内工場を担当する刑務官のほとんどが、受刑者たちを罰しているというよりは、保護している感覚で接していた。「弱肉強食のシャバの中で大変だっただろう。ここでは食事も寝床も与えるし、満期までは自分たちが守ってやる」。そんな気持ちでいることが、はた目から見てもよくわかる。
 夜中、独房で泣く受刑者に、刑務官が優しく子守唄を歌うすがたを見たこともある。
」(p.46)

若い刑務官には、しゃくし定規に受刑者をどなったりする人もいるけれど、それは受刑者がまだ怖いから。寮内工場にいるのは、暴力をふるいそうもない受刑者なんだけど、「受刑者=極悪人」というイメージが抜けないみたい。」(p.47)

日本の場合は服役とは懲役刑なので、何らかの刑務作業をさせられます。家具を作ったりする仕事ですね。しかし、そういう作業ができない人たちもいるわけで、そういう人たちが集められるのが「寮内工場」だとか。呼び名は、刑務所によっていろいろあるようです。
そこは、刑務所と言うより福祉施設のようなところだとか。ただ、ただでさえ安い刑務作業の報酬よりももっと安いようで、刑期を終えても蓄えがほとんど作れない。それもまたシャバに戻ってからの生活に困る原因にもなっているようです。

家族もいなくて家もない、お金もない。そんな、ないないづくしの状態は長く続けられない。満期出所者の半数近くは、5年以内に再犯をして刑務所に戻ってきている。だって、そうするしか身の安全を確保できないんだもの。
 再犯せずにいる人たちだって、まともな暮らしをしているとはかぎらない。やむをえず路上生活を続けたり、ヤクザの世界に足を踏み入れたり、最悪の場合は自殺しちゃう人もいる。
」(p.55)

刑期を終えても、問題が解決するわけではないのです。


また、知的障害者の軽微な犯罪に関する裁判の問題もあると山本さんは指摘します。

残念なことだけど、裁判官の知的障害に関する理解は決して十分とはいえない。真顔で「その障害って、薬で治らないの?」「いつから知的障害になったの?」なんて、とんでもない質問をしてくる裁判官もいる。」(p.60)

この程度の理解しかないから供述調書に対しても、知的障害があればこう理路整然とは説明できないだろうという想像が働かない。これも裁判の問題になっていると山本さんは言います。

前にも言ったように、知的障害者の犯罪は、罪名と実際にしたことのギャップが大きい傾向がある。車にあった30円を盗んだ「窃盗罪」とか、知りあいとケンカして、つい手に持った刃物が相手の首にちょっとふれて「殺人未遂罪」とか、罪名を聞いて想像するより被害が小さいことが多い。
 日本の司法制度には、被告人の知的障害を配慮するしくみがないことが、関係しているんじゃないかな。
」(p.61-62)

母親が賽銭箱に1000円を入れて、「いつか助けてもらえることがある」という話をしたことを覚えていて、困窮した時にその賽銭箱から300円を盗んだ知的障害者もいたそうです。裁判では、「まだ700円預けてある」と言うので、反省していないと受け止められたのだとか。

アメリカには、知的障害のある被告人のための特別な制度がある。IQ(知能指数)が50以下の被告人は「アンフィット」といって、ふつうの裁判を受けられる状態ではない人と判断される。知的障害についてよく理解した裁判官、検察官、弁護士のもと、裁判を受けることになる。要は、被告人の障害特性を考慮して刑を決めるんだ。イギリスやオーストラリアでも、同じような制度があるよ。」(p.62)

本来、刑罰を与える対象ではないのです。福祉によって守るべき対象。そういう認識が、日本にはまだないようです。

重大な事件なら、裁判の途中で弁護士が「本鑑定をすべき」と主張して、しっかり鑑定を受けることもあるけど、非常にまれなケースだ。知的障害者の被告人によくある、カップ酒を1本盗んだような軽い罪は、弁護士もそこまでやらない。」(p.66)

知的障害の有無は、せいぜい1〜2時間ほどの簡易鑑定によって判断されます。しかも、検察官お抱えの鑑定医が、ざっと資料を読んで、わずか数問の質問をするだけで。最初から責任能力ありという見方なのです。

そもそも、知的障害のある被告人は身元引受人がいないことが多くて、執行猶予つきの判決はほぼ無理だ。仮に、責任能力の有無を裁判であらそおうとすれば、弁護士が自腹を切って精神鑑定を依頼することになるだろう。裁判官は、軽い罪に、税金で精神鑑定をかけることを認めないからね。」(p.69)

検察は国の組織だから、やろうと思えばいつでも税金で捜査や精神鑑定ができるけれど、弁護士はそうじゃない。自分で弁護士事務所を経営するか、そういう事務所に雇われている弁護士がふつうだ。つまり、中小企業の社長か従業員みたいなものだから、経営のことを考えると、報酬の安い仕事はできないのかもしれない。」(p.71)

窃盗や無銭飲食をしてしまうくらいですから、被告側にはお金がなく、どうしても国選弁護人を選ぶことになります。そうなればなおのこと、不利な裁判になってしまうのですね。


知的障害者の問題については、裁判(司法)にも問題がありますが、それを受け入れてこなかった福祉関係にもあると山本さんは指摘します。
福祉関係者の多くが、知的障害者の犯罪に対して冷淡な態度を取るのだとか。知的障害者であっても、罪を犯したなら司法が担当すべきだと。

だけど、ほんとうにそうなのかな? くりかえすけれど、罪を犯した知的障害者は加害者になる前に、長いあいだ被害者として生きてきた人が多い。身寄りがなく、お金もなく、だれの助けもないなかで、やむにやまれず無銭飲食や無賃乗車などをしてしまった。罪を犯さざるをえないほど困っている人たちなんだから、本質的には福祉の問題だと僕は思う。」(p.83)


福祉の問題で言うと、知的障害者の障害認定の問題があると山本さんは言います。
知的障害者がもらう「療育手帳」ですが、自治体によってその名称も異なるし、判定基準もバラバラなのだとか。それでは、他の自治体へ転居しても、これまでの手帳が意味をなしません。そういう実態があったとは、知らなかっただけに驚きました。

また、判定基準は、財政に余裕のある自治体ほど、基準が緩やかだという傾向があるそうです。つまり、予算をどれだけ使うかが判定基準になっているのですね。

だから、日本は障害者の人数が異様に少ないことになっている。
 国は、「障害者手帳の発行数=障害者の人数」としてカウントしている。厚生労働省の発表(2018年)によれば、身体障害者・知的障害者・精神障害者を合わせて、日本の全人口の7.4%だ。
 それに対し、WHO(世界保健機関)と世界銀行が発表した『障がいについての世界報告書』(2010年)では、世界人口の15%がなんらかの障害があるとしている。この地球上の6〜7人に1人は障害者なんだ。
 日本だけが障害者が少ない? そんなはずはないよね。6〜7人に1人っていったら、もはやマイノリティ(少数派)ともいえない。この人たちが不自由なく暮らせるようにするのは、国の責任だ。そんな根本的なことができていないから、福祉につながらず、刑務所に来てしまう障害者があとをたたないんだよ。
」(p.85-86)

たしかに、こうして比較してみると日本の異常さが目立ちます。


ただ、療育手帳をもらえればそれで解決かと言うと、そうではないと山本さんは指摘します。
療育手帳をもらえたことで知的障害者という偏見で見られるようになり、いじめられることにもつながるからです。そういう社会的な疎外によって、反社会的な方向へ流れてしまうこともあります。

ヤクザは、知的障害者のコンプレックスにつけこんで犯罪行為へと引きずりこむ。福祉関係者には「ヤクザから彼らをとり戻す!」ってくらい言ってほしいところだけど、たいていは現実から目をそらしている。」(p.91)

僕が言いたいのは、知的障害者全員に療育手帳を発行しろということじゃない。手帳を持っているか持っていないかではなく、「いま現在、何かに困っているかどうか」で福祉サービスを提供してほしいということだ。
 障害以外にも難病とか貧困とか、困っている人はおおぜいいるよね。そうした人たちが困った状態じゃなくなるように、一人ひとりに応じた支援をするのが本来の福祉だと思うんだ。
」(p.91)

福祉のあり方について、考えさせられます。


日本の障害者福祉予算は年間約1兆円。GDP(国内総生産)に占める障害者福祉予算の割合でいえば、スウェーデンの約9分の1、ドイツの約5分の1、イギリスやフランスの約4分の1、そして、社会保障制度が不十分だといわれているアメリカと比べても、2分の1以下になっている。先進国の中で、障害者福祉にこんなにお金を使っていない国はないよ。国として障害者福祉を軽視しているといわざるをえない。」(p.95-96)

これは私も驚きでした。こうやって数字で示されると、いかに日本の障害者福祉が貧しいものかがわかります。

「福祉に行ったら無期懲役だ」
 こんなふうに言う人が、ものすごく多い。
 そこまで福祉は信用されていないのか、と最初はショックだったよ。でも、彼らの言いぶんには納得できるところもある。福祉施設に入所すると、起きる時間も寝る時間も、お風呂も食事も、ぜんぶルールが決まっている。ちょっとコンビニに行きたくたって、自由に外出できない。何度かルールを破ると”むずかしい人”と決めつけられ、つらく当たられる。
」(p.103)

たしかに、こういうことはありますね。老人介護施設で働いている私ですが、このことはよくわかります。なので私も、老人介護施設には入りたくないと思っていますから。


善意は、ときとしてだれかを排除する力をもっている。
 自治体のメール配信も、親どうしの不審者情報の交換も、みんな「よかれ」と思っての行動だよね。自分たちを守ろうとしているだけだ。でもその陰で、本来は福祉につながるべき人たちが、刑務所に入れられている場合があることを、君に覚えておいてほしい。
」(p.111)

変な人、よくわからない人を排除することで自分たちの安全を図ろうとすると、その行為によって不審者とされた知的障害者が犯罪者になってしまうことがある。警戒され、排除されれば、誰でも抵抗したくなるものですから。


精神や知的に障害がある人が出所する時は、自治体に通知するようになっているそうです。それは、医療や福祉につないでもらうためです。
しかし、それに対して自治体が適切に対応しないという問題があるそうです。

ちなみに2016年は、刑務所全体として、全出所者2万2947人のうち3675人について自治体への通知をおこなっている。でも、自治体がきちんと対応してくれたのは、たったの66人にすぎない。」(p.114-115)

ここにも変な人は排除したいという不安や怖れに支えられた行動があるのですね。

だから僕は、反対運動をしている人たちも含め、周辺の住民を集めてもらって、直接話しをすることにした。そのときのようすは、地域のケーブルテレビでも流され、10回以上にわたって放送されることになった。
 そしたら、わかってくれたよ。反対していた住民のひとりがこう言った。
「要するに、累犯障害者は、地域の中で孤立し、排除されて刑務所に行っていたんですね。まさに、わたしたちのような人が累犯障害者を生み出していたんですね。もう反対はしません」
 障害のある人のことを何も知らなければ、身がまえてしまうかもしれない。だけど、どんな人たちなのかを理解すれば、彼らと共生することへの抵抗感は少なくなる。それを象徴しているようなできごとだった。
」(p.116)

知的障害者のためのグループホームを建てようとした自治体で、反対運動が起こった時の話だそうです。
人は、わからないものに対して警戒し、不安や怖れから抵抗してしまうものです。だから、対話を重ねることで理解を進め、信頼してもらうことが大切なのですね。


なにか事件が起きたとき、マスメディアは犯人が逮捕されるところや、裁判であらそうところまではこぞって報道するから、検察や警察、裁判所は華やかに見える。だけど、裁判が終わればパッタリ報道されなくなって、そのあとの刑務所のことは忘れられがちだ。
 罪を犯した本人にとってみれば、”生き直し”をスタートさせる刑務所こそ重要なところ。出所して、社会に戻るときに支援する更生保護は、刑事司法の総仕上げだ。これらにもう少し予算をかければ、再犯を大幅に減らせるんじゃないかって僕は考えている。
」(p.120)

本来ならば福祉が支援すべき対象でも、いまの社会はそれをせず、”臭いものにふた”のように刑務所に入れてしまう。そのために使われる税金が、一人あたり年間500万円と考えると、たしかに高いよ。
「犯罪者にお金をかけるのはもったいない」って言えば言うほど、再犯は減らないし、刑務所にかかるお金だって増えていく。
」(p.121)

今の司法のあり方も、メディアの取り上げ方も、悪いやつを捕まえて排除すれば終わり、ということになっている。だから問題が解決しないと私も思います。


犯罪をした人も、電車の中でわめき声をあげる人も、ゴミ屋敷を作る人もそう、僕らと同じ人間だ。困ったときにとる行動が、ちょっと違うだけだ。いつの時代も、生まれながらにそういう人が一定の割合でいる。
 障害者ってどんな人? そう疑問に感じたら、自分と違うところじゃなくて、同じところを探してみよう。おのずと答えが見えてくるから。
」(p.130)

日本で障害者の地域移行が始まったのは、ほんの10年くらい前のことだ。障害のある人はずっと施設に隔離されていて、最近になって少しずつ地域に戻ってきた。だから、大人たちも、どう接したらいいのかわからない。
 大人が身がまえると子どもも身がまえる。すると、障害のある人だって身がまえて、心を閉ざしてしまう。
」(p.133-134)

障害のある人を理解するっていうのは、腫れもののようにあつかうことでも、むやみに親切にすることでもない。自分と同じ目線で接し、彼らの立場になって考えてみることだ。
 周囲の人と気持ちが共有できた経験は、障害のある人にとって、たいせつな成功体験になる。そうやって、障害のある人に優しい社会、つまり、君も含めてみんなを優しく包みこむ社会が築かれていくんじゃないかな。
」(p.136)

私たちは、それぞれに違いがあるのが当然です。けれども、同じ人間です。雪の結晶がそれぞれ違いながら、全体としては同じ雪であるように。
そうであれば、最初から敵視し、分離分断を進めるべきではなく、安心し、信頼し、受け入れていく方がいいのではないでしょうか。
そのためにも、まずは自分の中から不安や怖れを取り除くことですね。


本人の世界を否定するんじゃなくて、そっと寄りそう。それができれば、障害があっても公の福祉に頼ることなく、暮らし続けられる。」(p.150-151)

出口支援は整いつつあるけれど、同時に、障害のある出所者に対する社会の意識も変わらなくちゃ、せっかくの支援策も生きてこない。管理や隔離をするのではなく、ふつうに暮らせる社会をめざさなくちゃ。」(p.161)

幻覚によるものを現実だと主張する人がいたら、その思いを汲み取って否定しないこと。その人にはそれが見えているんだから、否定しても無意味なんです。老人介護の現場でも、そういうことはありますね。
前にも引用したように、重要なのは知的障害者を出所後に施設に入所させることではありません。集団で暮せば、どうしても管理して自由を奪わなければならない面が出てきますから。
それよりも、地域において誰もが、障害者を対等な人間として見られるようになることが大事ですね。


ほんとうだったら、刑法そのものが変わる必要があると僕は思っている。刑法で定められた刑罰には、死刑、懲役、禁錮、罰金などといくつかあるけれど、累犯障害者が受けるのは、ほとんど懲役刑だ。もっと、罪を犯した人の背景に応じた償いかたがあってもいいんじゃないだろうか。たとえば、社会にいて、必要な支援を受けながら奉仕活動をするとかね。
 たいせつなのは、罪を償って二度と再犯しないことであって、刑務所に入れることではないんだから。
」(p.155)

たしかアメリカでは、軽微な犯罪に対してボランティア活動などをすることで出所できる制度があったように思います。日本にも、そういう制度と、それを支える団体や仕組みができるといいですね。


さて、だれもが安心して暮らせる社会って、どんな社会だろうか。
 キーワードは「ソーシャルインクルージョン(社会的包摂)」だ。包摂っていうのは、何かを包みこむという意味。ソーシャルインクルージョンは、社会から排除されているすべての人を、ふたたび社会に受け入れ、彼らが人間らしい暮らしができるようにしよう、という考えかただ。
 罪を犯した障害者は、それまでの人生のほとんどを被害者として生きてきた。結果として、前科というものを背負ったがために、「障害者」「前科者」と二重の差別を受けて、いちばん排除されやすい存在になっている。
 いちばん排除されやすい人たちを包みこめば、だれも排除されない社会になるよね。
」(p.164)

もっとも受け入れがたい人を受け入れる、排除しやすい人を排除しない。そうすることは、日本全体を良くすることにつながる。
だから、今、障害者の犯罪について、深く考えて見る必要がある。私もそう感じました。


この本は、私の目を開かせてくれたように思います。
知ってるようで知らなかったことがたくさんありました。そして、ここに日本の、つまり私たちの重要な問題があると気づいたからです。

私たちは、不安や怖れから、分離分断や排除という行動に走りがちです。しかし、いくらそうやっても問題は解決しません。もういい加減に、そのことに気づく時がきたのではないかと思います。
不安や怖れを排して、安心と信頼を心に抱くこと。つまり、愛を動機とすること。私たち一人ひとりが、それを始めなければならないと思いました。

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タグ:山本譲司
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2022年08月31日

ただしさに殺されないために



Twitterで紹介されていて、面白そうだと感じたので買ってみました。
「正しい」を根拠に他人を叩く人が多いのが今の世の中です。私は「正しさ」は人それぞれだと考えていますが、この本はどういう観点でこの問題に斬り込んでいるのか。そこが興味のある点でした。

著者は御田寺圭(みたでら・けい)さん。おそらく本名は違うと思います。ネットの世界では、白饅頭という名前も使用しているとか。Wikipediaによれば、会社員の傍ら執筆活動などをしている方のようです。

読み始めて思ったのは、文章が魅力的だということ。おしゃれな文を書かれる方のようです。
私のように、単刀直入に無骨な論理をぶつけるタイプとは、まったく違いますね。でも、こういう文章を書ける能力が素晴らしいと思いました。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

最初の本書の構成を説明しておくと、5つの章があって、各章には6つの話題があります。つまり合計で30の話題を提供しています。
それぞれつながりがないものもありますが、全体として1つのテーマを追っている。そのことが、読んでいる間にも何となくわかりますが、最後まで読むと、それがはっきりとわかるようになっています。


●まずは序章で、「私はごく普通の白人男性で、現在28歳だ」から引用します。2019年3月にニュージーランドのモスクで起きた100人近くが死傷する銃撃事件を取り上げた話題です。
少し長くなりますが、この話題は本全体を貫いているテーマでもあるので引用しました。

彼が生まれてからいままで慣れ親しんできた西洋文明は、イスラム文明とあまりにも文化的な差異がありすぎた。西洋文明は信仰の自由を擁護するがゆえに、イスラム教を信仰する移民に対して「文化的同化」を一定の強制力をもって呼びかけることが事実上不可能になっていること、そしてなによりムスリムの人びとが概して多産であることによって、意図的かどうかは別として、少子化傾向にある白人社会の秩序体型や文化・文明を相対的に破壊する侵略者となってしまうことが、彼の問題意識として列挙されていた。白人や西洋文明をこれらの問題から積極的に防衛せねばならないという信念こそが、今回の襲撃に至った動機であると述べられていた。」(p.20)

統計的にはこのままのbirth-rate(出生率)をたどっていけば、数世代後には、白人の国の多くで白人はむしろ少数派になり、中東にルーツを持つムスリム系の人びとがマジョリティとなることは必至なのである。西洋社会でいま宗教と民族の人口バランスが崩れようとしているが、この問題を議論しようとする者には「差別主義者」のレッテルが貼られてしまう。それを恐れるあまり、だれも口を開こうとしながった。」(p.21)

今回の銃撃犯のような人間が、この世界に「分断」の種をばら撒いたのだろうか?

 いや、そもそも世界は、お互いが見えないくらいの距離にはじめから引き離されていたのではないだろうか。

 かつてのように別々の国で分断されて暮らしていればそれで大きな軋轢は生じえなかった人びと−−換言すれば人種だけでなく宗教も文化も価値観も規範も秩序も異なるがゆえにけっして交われず相容れない人びと−−の分断を解消し、無理やりに隣人としてしまったことで、「憎悪と殺意」が喚起されてしまったのではないだろうか。
」(p.22)

この事件のような最悪の結末を、西洋各国のリーダーや有識者たちは「多様性への無理解が引き起こした事件」であると口々に指摘するが、はたして本当にそうだろうか。「多様性がもたらす軋(きし)みへの無理解が引き起こした事件」と称するのがより適切であるだろう。今日における西洋文明を共有する白人社会の、ありとあらゆる場所で生じている「小さな軋み」の堆積が、最悪の形で噴出した事例のひとつにすぎないのではないだろうか。」(p.27)

価値観や倫理観の違う人びとが、自分たちの規範においてとても大切に心を寄せている人やものを踏みつけにしているのを見たとき、私たちはどのような思いを抱くだろうか。機関銃(アサルトライフル)を手にして暴力的な解決策に訴え出ようとすることはきわめて稀かもしれないが、しかし少なくとも「郷に入っては郷に従え」をスローガンにする政党、あるいは「さもなくばこの国から出ていけ」と訴える候補者をひそかに支持したくなったとしても不思議ではない。」(p.31)

西洋諸国で起こっている移民問題と政治の右傾化をとらえて、御田寺さんはこのように分析しています。
銃撃犯が行ったことは犯罪として処罰されるべきですが、それが起こった原因に対処しなければ、同じことが繰り返されるだけでしょう。
個人の特異性に原因を限定してしまうと、本質的な解決にはならないのです。


●第1章は「ただしい世界」です。第1話は「文明の衝突」で、2020年10月にフランスで起こった事件が話題です。
ある歴史教師がイスラム教の開祖、預言者ムハンマドの風刺画を授業で見せたことがSNSで拡散され、それを見た無関係のイスラム原理主義者によって殺されたというもの。

自分の個人的な人生の幸福を大切にでき、多様なライフスタイルのあり方が許容され肯定されるがゆえに進む少子化によってゆるやかな自死を選ぶ西欧文明を尻目に、ムスリム系の人びとは、次世代を安定的に維持するための人口再生産性を、西欧文明が築いた安全で快適な街の中でせっせと確保してゆけばよい。ただそれだけで、「文明の衝突」における最終的な勝利が約束されている。」(p.39)

西欧人たちは、かれらに恭順や同化を強くは求めず、自らの理想を示すことに酔い、寛大に住む場所を与えてきた。結果として、西欧人だけが人権思想の存在ゆえに、人権思想を支持しない人びとまでも扶養しなければならないという、高貴で片務的な倫理的責務を課せられた。

 この片務性に対する現地の西欧人たちの負担感と、高貴な責務を果たしたところで相手は自分たちの価値体系に恭順しないという徒労感が、西欧人たちの怒りや不満を蓄積させている。
」(p.41)

これも西洋文明で起こっている移民問題に関連する話題ですね。前提となる文化が違う人たちが隣人となった時、どういう対応が取れるのでしょうか?
日本は、移民を増やさない方針ですが、逆にそれが批判されたりもしています。しかし、移民を増やすとなった場合は、こういう問題が増えてくることも考えておかなければならないと思います。


次は第2話「アルティメット・フェアネス」で、コロナ感染の話題です。

周知の事実となっているが、新型コロナウイルス感染症は高齢者ほど重症化・死亡リスクが高い。若者だからといってリスクが一切ないわけではないが、しかし高齢者層のそれと比較すれば軽微であることは事実である。若者にとってみれば、不安定な雇用、回復の兆しの見えない景気低迷、悪化の一途をたどる気候変動、脆弱化に歯止めがかからない社会保障の先細りなどの方が、未知のウイルスによるパンデミックよりもはるかに人生に暗い影を落としている。
 パンデミックが浮き彫りにした「若者VS.高齢者」という対立構造は、さらにそのスケールを拡大させて「資本主義ルールの敗者VS.資本主義ルールの勝者」という構造にまで波及していく可能性を内包していた。
」(p.48)

ワクチンの完成をだれよりも望んでいたのは、比較的年長の者がその席のほとんどを占める「富める者たち」であった。かれらは、富を持ったまま死ぬことができないゆえに、いま死ぬことに大きな未練を抱えている。自分の命は、その辺の人びとよりずっと重要なのだと確信している。」(p.49)

オーストリア出身の歴史学者であるウォルター・シャイデルは、著書『暴力と不平等の人類史』の中で、疫病の流行によって富裕層や特権階級は(自らの優位性を担保してくれている既存社会を安定的に維持・更新するため)再分配に協力的になると述べた。今回の事態は、この法則が現代においても有効である可能性を示唆しているように見えた。」(p.51)

パンデミックによって露見してしまったのは、「すべての人命を守る戦い」の建前のもとで、これまでひた隠しにされてきた「格差」が、とうとう既存の社会を破壊しようと牙を剥き、それをエスタブリッシュメントが必死に抑え込もうとしている構図だった。」(p.52)

このコロナ禍で、世界の富裕層が富を増やしたことが知られています。極端な富の格差があることは知られていますが、格差が広がれば、全体としての不安定要因となります。


次は第3話「人権のミサイル」で、2021年11月にベラルーシが、自国の難民を他国へ送り込むという戦略を打ち出したという話題です。

ようするに人間(難民)そのものを、西欧各国が共有する道徳律である「人権」によってコーティングして他国に向けて打ち込む、いうなれば人間ミサイル兵器として活用する方法を考案し、実際にやってみせたのである。」(p.55)

アメリカのトランプ前大統領が当時の安倍首相に、メキシコ人2500万人を日本に送れば政権を転覆させられると言ったとか。これはジョークでしたが、実際にやれば大変な驚異となるでしょう。

2010年代までの世界を顧みれば、主に欧米(西欧)先進国は世界に覇権を拡大するための口実として「人権」を振りかざしてきた。国民に対して基本的人権を尊重しない国や指導者を、人道にもとる「悪」として、かれらに経済的な制裁を科すばかりか、ときにミサイルを打ち込むことをさえ正当化してきた。」(p.57)

これまでの時代においては、絶対的な正義や自明の真実とされてきた事柄が、猛烈な勢いで相対化され、その玉座から引きずり降ろされていく。
「人類にとって普遍的な基本的道徳律」としての栄冠に長らく輝き、欧米各国の覇道を支えてきた人権思想は、非人権国家の独裁者たちによって地上をゆっくりと歩いて国境を渡るミサイルとして転用され、国のリソースを削り社会不安を増大させる兵器となった。共産主義や社会主義を打倒し、世界を統治し支配してきた人権思想にはいま−−あまりに皮肉なことだが−−さらなる高潔さを目指して先鋭化してきた人権思想自身によって大きな綻(ほころ)びと動揺が生じている。
」(p.59-60)

人権を重視することは絶対的に正しいと思われがちです。それだけに反論できず、西欧に屈服するしかなかった。けれども、その人権を逆手に取って西欧を屈服させられる方法があったのですね。
これも難民問題が抱えているものと言ってよいでしょう。人権を重視するなら、移民を拒否できない。そこに西欧の弱点があるのです。


次は第4話「両面性テストの時代」で、イスラエルのコロナ対策が秀逸だったことが話題です。

これらは端的に人権侵害である。だがこうした人権侵害的な側面を多分に含む「新型コロナ感染対策」は、少なくともパンデミックの初期における被害状況を踏まえれば効果的であったと認めなければならないだろう。逆に、パンデミックの中心地となり、人命にも社会経済にも深刻な打撃を受けたのは主として、イスラエルとは対象的に民主主義的で、自由主義的で、人権主義的な手続きや社会制度を尊重し、これをどうにか維持しようと努める西欧文明圏の国々であったことはけっして偶然ではない。」(p.63)

パンデミックの端緒とされていた中国が早々に「コロナ禍」の最悪の状況を抜け出したのもイスラエルと同様の理由だった。かれらはいざというときには人民の私的権利の制限になんの躊躇(ちゅうちょ)もない。というより、普段からしていることを、今回の災禍においても行った−−ただそれだけである。かれらは西欧各国よりもずっと人権侵害に慣れている。なぜなら人権への重みづけが西欧各国よりはるかに軽いからだ。だからこそ、中国やイスラエルは「危機管理」において、他の先進各国を凌駕した。」(p.64)

ロックダウンのような強制は、人権を無視しなければできない側面がありますからね。

ハンガリーの首相であるヴィクトル・オルパンは、少子化の解決に向けて社会的リソースを猛烈な勢いで注入している。」GDPの4.7%に相当する巨額の社会投資を行い、正真正銘「本気」の少子化対策を行っている。」(p.66)

OECD加盟国の平均はGDPの2.55%で、日本は約0.8%だとか。ハンガリーは人口減に歯止めがかかってきたそうですが、日本はさらに加速しているようです。

オルパンがこうした政治的意思決定を断行できるのは、彼が民主主義的な手続きを簡略化または省略し、国民の権利を制限することに対してためらうところがないからであり、また移民を追い出したいという、多様性や寛容性のかけらもない国家主義的な野望を持ち合わせているからだ。」(p.48)

極端な政策を断行できるのも、他人の意見を考慮する必要性を感じない専制主義だからとも言えますね。

これまで絶対的に善であり素晴らしいものだと信じてきた価値基準には、陰の表情があることを突き付けられた。一方で、論ずるまでもなく悪であると軽蔑されてやまなかった価値基準にも、前者よりすぐれていると評価するべき側面があることを知らされた。」(p.70)

絶対的な「善悪」「正邪」というものはなく、すべては相対的です。


次は第5話「共鳴するラディカリズム」で、反原発とか反差別のような過激な思想や運動には共鳴性があるという話題です。

こうした思想に傾倒している人のふるまいや言動を見つめていると、ある種の共通点が見えてくる。すなわち、共鳴するラディカリズムに深入りしていく人のほとんどは、「生きづらさ」「被害者意識」「抑圧経験」を強く抱えているという点だ。心身共に弱っている人ほど、自分がこれまで抱えてきたそれらの機序と責任の所在をわかりやすく説明してくれるような物語に対して脆弱となる。
 生きていく中で、社会からさまざまな「被害」を受けて弱っている人は、人間社会で顕在化するありとあらゆる事象が普遍的に備えている「複雑性」を細かく解きほぐして消化していくような、根気を要する作業に耐えうる認知的リソースがない。
」(p.72)

その人にとって主観的な経験として耐えがたい苦しみが存在していることは否定しえない事実であるだろう。一方でその主観的事実の存在によって世界のすべてが説明されるわけではない。ある女性にとっての苦しみがあることは、世界がその女性を苦しめるものとして存在していることを断じるものではない。」(p.73-74)

傷つき弱った人に刺さった棘−−そうなったのはあなた自身の努力不足、または性格や人格などの問題によって生じた結果だという声−−をやさしく抜きながら、「あなたを傷つけたのはあいつだ。一緒に戦おう」と寄り添ってくれる思想体系が、多くの人を魅了するのは当然だ。」(p.74)

被害者意識があるから加害者を責めたくなるのです。敵を作り出し、それを打倒すれば自分は救われる、幸せになれると思い込む。
しかし、そこに本当の幸せはないのですけどね。

今日、世界の各所で台頭するラディカルな思想運動は、その党派性にかかわらず、複数の「ただしさ」を提示することで社会的統合を目指す「多様性」の反動として生まれたものだ。」(p.79)

つまり、主観的な苦しみが癒やされない人にとって、「多様性」という考え方は役に立たないのです。むしろ、それによって移民が増えるなどして苦しみが増している。そう考えるから、「多様性」を否定し、自分の「正しさ」を絶対的なものと決めつけることで救われようとするのです。


次は第6話「リベラリズムの奇形的進化」で、自他の自由を尊重し、差別や不平等を許さないリベラリズムが、異様な姿に変貌を遂げようとしているという話題です。

今日「リベラル」を標榜する人びとは往々にして、原理原則的な自由の重要性を謳いながら、その実、自分にとって都合のよくない類の自由に対してはきわめて否定的もしくは抑圧的である。」(p.79-80)

自分が共感できる対象にだけ偏重して強く共感する人びとは、逆に自分の感受性に響かない対象には著しく攻撃的で排他的にふるまう。自分にとって共感できるかできないかが、そのまま社会的善悪の判断に直結する。共感できるものはただしく、共感できないものは間違っていると。」(p.82)

「共感性」の高い人びとは、現代のリベラルな社会的風潮の躍進の立役者であることは間違いない。しかしながら、持ち前の共感性の高さゆえに、リベラリズムの基本的な理念である「普遍性」「平等性」に耐えることができない。これはパラドックスを構成している。」(p.82)

前のラディカルな思想と関連しますが、自分の正義を押し付けながら、自分をリベラルだと信じているのですね。
シー・シェパードの活動も、まさにそうでした。自分たちが正しいと思えば、他人を傷つけ苦しめても、その正しさを遂行しようとする。


●次は第2章「差別と生きる私たち」です。第1話は「キャンセル・カルチャー」で、人種差別発言をした人をネット上で糾弾するなどして、その人を社会的に抹消しようとする風潮が話題です。

リベラル・メディアが旗振り役になり、ある人が過去に行ったルール違反を見つけ出しては記事を書き、「ここに悪人がいる」と焚きつける。するとSNSでそれらの記事は一気にシェアされ、怒りの声が集まる。ラディカルな意見が共鳴していく。サイバー空間で大きく盛り上がった抗議の声明を、さらにメディアが記事化してSNSに還元する。再び火の手は強まる。「キャンセル・カルチャー」の渦の中心にいる人物は窮地に立たされる。これまで築き上げてきた名誉や信頼、現在の仕事や人間関係、そして将来のキャリア、ひいては人生そのものを一瞬にして失うことになる。」(p.95)

ある表現や言論について、もし現代的な人権感覚に整合的でなかったとしても、それを規制したり禁止したりすることは、本来的にはリベラリズムの価値観や精神性とは相容れないものだ。人権感覚の遅れを感じさせる、当世においては不穏当または不適切なものであれ、それを言明すること自体は「表現の自由」によって保障されており、なんらかの介入を行うこと自体が基本的人権と整合的でないからだ。ましてや超法規的な手続きによって制約を科すなどありえない。

 これはある種のパラドックスを構成する。リベラリストでありながら、なんらかの表現の規制を望む者は「人権感覚のコードに違反している表現は制限されるべきだ」とはいわない。「人権感覚のコードに違反したものはそもそも表現や言論にはあたらないので、これを制限したり成約したりするのは、表現の自由と矛盾しない」というロジックを採用する。もっとも、そのようなレトリックの内部的な整合性を担保したからといって、外形的には人権概念を自分に都合よく恣意的に運用、あるいは制限していることには変わりないのだが。
」(p.96-97)

人権に反する言動をみんなで寄ってたかって罰するという風潮は、まったく衰えるところがありません。法の裁きを待たずに、自分が「悪い」と思い込んだという理由で、超法規的に処罰することが「正しい」と信じて疑わない人が多いからでしょう。
これは中世の魔女狩りと同じで、集団イジメです。本書では、東京オリンピック前に起こった出来事を例として取り上げていますが、今、行われている統一教会に対するバッシングもまた、同じものだと思います。


次は第2話「NIMBY」で、これは「Not In My BackYard(私の裏庭にはつくらないで)」の略語だそうですが、要はごみ焼却場など必要性は認めるものの、それを自分の近くに作られると困るという考え方が話題です。

育ちのわるい人間に来てほしくないとか、障害者が暮らすコミュニティは自分の街にできてほしくないといった考えは、まぎれもなく差別である。差別であるが、そうした言動をためらいなく表出させ、ときに正当化するのは「(社会に必要だからという建前によって)私たちの安全・安心な暮らしが蔑ろにされている」というある種の被害者意識である。私たちは、差別や排除に積極的に手を染めているわけではない。そうではなく、国や自治体が、私たちが安心して暮らす権利を守ってくれないから、やむをえず自力救済しているのだ−−という良心がそこには少なからず含まれている。」(p.106)

「多様性」「人権」「寛容性」「包摂」−−といった、現代社会における先進的な規範意識とのコンフリクトを慎重に回避しながら、自分の近くに現れたハイリスクな人間を拒絶するためのロジックが必要となる。それこそが「私は被害者」である。」(p.107)

港区に子ども家庭支援センターを作ろうとした時、ハイソな地域に貧しい子の支援センターは必要ないとか、それによってハイソでない人が出入りするようになって地価が下がるなどと言って、反対運動が起こりました。
それに限らず、障害者支援施設を作る時も、どこでも反対運動が起こります。原発も、ゴミ処理場も、火葬場も同じです。すべて、自分が被害者になるという恐れ(不安)から、排除することに正当性があると主張しているのです。


第3話は「排除アート」で、公共空間にアートを造ることで、浮浪者が居着くことを防ぐという、排除という顔を見せずに実は排除しているという話題です。

自分たちには悪意などなく、差別心もなければ不寛容でもないことを丁寧に保証してもらいながら、行政には適切に対応してもらいたいのだ。図々しく厚かましいわがままに応じるために考案されたのが「排除アート」である。あくまで善意によって街を美しく整えた結果、どういうわけだかわからないが、ついでにホームレスも一緒にいなくなった。一挙両得。めでたしめでたし−−という、もっともらしい物語を、そのゴツゴツとしたオブジェは提供してくれる。」(p.116)

ベンチに間仕切りのように設えられた肘掛けも、実はそこで寝転がることを防ぐためなのだそうです。たしかに、寝転がりたかった時、不便だなぁと感じました。
それにしても、この「自分は悪いことはしてないよ」という顔をしながら他人を排除するという考えが、なんだかとってもいやらしく感じます。


次は第4話「植松聖の置き土産」で、障害者施設で19人を殺害した死刑囚に関する話題です。

「生産性のない者は、生かしていても社会の役に立たない。この社会には『無駄飯』を食わせる余裕などないのだから、犠牲となる者の家族や親族には申し訳ないが、生かすのではなく、死なせるのが、世の中全体のためである」−−とする植松の主張は、インターネットでは俗に「植松理論」と呼ばれている。」(p.118-119)

植松は、障害者の世話をしながら、社会に役立たない人間の世話をするという無益なことをやっている自分もまた、社会に役立たない人間だと考えたそうです。だから、そういう役立たない人間を死なせることは、逆に社会に役立つことになる。つまり、殺害することで社会の役に立つ人間、存在意義のある人間になりたかったのです。

しかし、現代社会を生きるわれわれは、建前の上では「生産性が人権に優越するわけではなく、人権の多寡に影響するわけでもなく、人としての存在意義を問うものではない」としながらも、現実的あるいは実務的なレベルにおいては−−植松のような常軌を逸した手段に訴え出ることはありえないにしても−−「植松理論」がいまこの社会に一片たりとも存在せず、また今後も決して存在する余地などないと、力強く断言することはできない。なぜなら「植松理論」に激しく憤り、この理論を断固として否定した人びとであっても、いざ自分の目の前に無能な健常者が現れてしまえば、その言動は植松よりはるかに穏当なものであったとしても、同じ延長線上の論理を振りかざしてしまうからだ。」(p.122)

常日頃は他人を「役立つかどうか」の軸で明らかに「選別」しておきながら−−結果的にその選別によって社会的に追放され、あるいは生活が立ち行かなくなり、死に追いやられた人すらいるにもかかわらず−−いざ植松が障害者に対して刃を向け、社会が構築している「選別」をよりラディカルに、そしてグロテスクな方法によって代替的に実践したときにだけ、そのような思想は自分たちの社会にはまったく相容れないもので、事実として一片たりとも存在していないし、今後も許容される余地は微塵もないと「殊勝」な態度を示す人々の姿は、社会の実情に対してあまりに鈍感か、あるいは欺瞞的にさえ映る。」(p.123)

たとえば仕事をするとき、無能と断じた部下や同僚を怒鳴りつけたり、バカにしたりして、排除しようとしてないだろうか? 「死ね」とまでは言わなくても、「私の目の前からいなくなってくれたらいいのに」と思ってないだろうか? 少なくとも私は、そういう人を多々見かけます。

植松が刑の執行を待つ身となったいま、どうしてもこのことに触れなければならない。すなわち「植松が死刑に処されることによって、植松の主張は完結する」と。

「生きる価値のない人間は殺してしまえばよい」という植松の主張を否定しながら、しかしこの社会は植松に対して「お前は生きるに値しない人間である」と断じている。植松の思想や行為を強く否定しながら、同時に植松の思想や行為と同じ帰結によって彼を裁いている。どんな人間でも、たとえ生産的でなくても、生きる価値がある。生きてもよい。社会は植松の凶行に対してそう応じた。だが植松はその連帯の「例外」となった。生きる価値がなく、死ぬべき存在として。
」(p.125)

これはもう最大の皮肉ですね。植松を弾劾して死刑にすべきだと言った人が鏡に自分の姿を映せば、そこに植松の姿を見るのです。


●第5話6話は飛ばして、次は第3章「自由と道徳の神話」です。第3話の「健やかで不自由な世界」では、アメリカで人気のレシピサイトが、牛肉を「世界最悪の気候犯罪者」だと断定して、今後は牛肉を用いたレシピを掲載しないと決めたことが話題です。

食肉文化も喫煙習慣も、それは単に個人的な好みや楽しみの問題として見逃されなくなる。いずれも「それは社会の健全性や道徳性の観点から認められるべきか」というまなざしを避けられない。この流れは牛肉やタバコだけにとどまるはずがない。社会的には必ずしも益はない、むしろ健康や経済などの観点からすれば有害ですらある一方で、しかし個人的な幸福をもたらすものとして愛好されてきたものは、そのすべてがターゲットになりうる。アルコール、カフェイン、糖質、脂質、なんでもそうだ。

 2020年代は、個人的な営為があくまで「個人的なもの」のままで完結するような余白がさらに失われていくことになる。「健康で健全な個人が集まる社会」を目指すことをだれも拒否できなくなる。
」(p.174-175)

不健康であることは、個人の自由ではなく、社会的に損害を与える行為とみなされるのですね。実際、タバコによる健康被害で、医療費が増大したなんていう話も聞きます。
そして、そういう社会に害悪を与える個人には、自由を与えない、自由を取り上げてもかまわないのだ、という風潮が出てきているのです。


次は第4話「自由のない国」で、2020年に成立した「香港国家安全維持法」に関わる話題です。

いやしくもリベラルを標榜する人びとが「よい多様性でないものは多様性ではない」「そんなものは自由に含まれるべきではない」−−などといいながら、本心では市民社会に抑圧的にふるまいたい政治権力・政治当局の代理人を自ら進んで引き受けている光景は笑い話にもならない。
 市民社会が権力からの介入を受けることのない本来的な自由を守るには、個人としては不快で、ともすれば反吐が出るような表現を目にしてしまう場面にしばしば遭遇するとしても、これを必要経費として引き受けていく覚悟が必要だ。
 社会的に望ましく、だれもが不快にならない存在や事象にだけ限定的に自由が付与されるべきだとする論調を好んで用いる人びとは近年ますます多くなっている。だがそれは自由ではない。中国政府がいまやろうとしていることとなんら違いはない。
」(p.180-181)

民主的な合意形成によって民主主義的な手続きを省略することが可能になるという−−文章にすると形容矛盾のあまり読解に難渋しそうになる−−あらゆる意味で倒錯した光景が、2020年代の先進各国の日常風景となっていく。これまで、民主主義的プロセスの省略には、ファシストや独裁者などといった汚名を含んだ、厳しい非難や批判がつきものだった。しかしながら、自分にとって許しがたい類の自由や権利を認めたくないという素朴な感情にいま全社会的に共感が集まっていることで、その潮目は大きく変化している。」(p.184)

強いリーダーシップを発揮するリーダーを求め、民主的な手続きによって独裁を可能にする。こういう風潮は、「私の自由は当然、認められるべきだが、あいつの自由は認めない」という考え方から生じているのです。


次は第5話「置き去り死」で、生後3ヶ月の女児が母親に置き去りにされて、マンションの一室で亡くなっていたという事件が話題です。

自分の望んだように自由にふるまえること、それは他者からの望まない関わりや強制を拒絶できる権利を有することと同義である。だれもが愛してやまない自由という名の権利は、この社会で自分の存在そのものを確立する大前提として肯定されてきた。
 他者からの関わりは、自分が気に入らなければ拒絶できる−−そのような自由は、とりわけ子育て世代の人びとから強く求められてきた。自分がいま育てている小さな子どもに、不審な他者からの不要な接触を受けるリスクを最小限にするためだ。
」(p.188)

迷惑な他人に煩わされない自由で快適な社会は、大勢の人びとに快適な暮らしをもたらし、ストレスフリーな人間関係を実現していった。だが、だれもが歓迎して謳歌する、自由で個人的で快適な社会で、その代償を支払ったのは、アパートの一室のトイレで産まれ落ち、そして見棄てられた子どもだった。
 置き去りにされて死んだ子どものニュースに悲嘆にくれ、私が親ならこんなひどいことは絶対にしないのに−−と涙を浮かべながらニュース映像を眺める人びとは、善人であることになんの疑いもない。しかしながら、まさか自分たちが毎日なにげなく行使しているその自由こそが、間接的に彼女たちをこのような結末に向かわせているとは想像できない。
」(p.192)

「ニュース」の中で伝えられた来歴を見るかぎり、加害者の女性には「迷惑な他人」として扱われる要素が散見されてしまう。これでは、たとえ本人が勇気をふり絞って、見知らぬ他者に窮状を訴えようと戸口を叩いても、招かざる客として追い払われてしまうのが関の山だ。
 彼女は、我が子を死なせてしまうという凄惨な結末を迎えてようやく、社会的不公正の被害者として世間の人びとからの認知を得た。だが、そのような結末を迎える前まで、彼女とその娘は社会によって意図的に不可視化された透明人間だった。透明人間になる前は「迷惑な他人」だった。
」(p.195)

自由を求めること、自由であることによって、他人を疎外することがある。たしかに、そういう一面がありますね。


次は第6話「死神のルーレット」で、日本の治安は年々良くなって世界的に見てもトップクラスだが、そんな日本の大阪市北区で起こった25人が犠牲になる放火殺人事件に関する話題です。

犯罪者がみるみる姿を消す平和で安全な社会であっても、しかし「疎外者」は生まれ続けた。だれからも包摂されることなく、存在を肯定されることもなく、世間から疎(うと)まれ、社会から遠ざけられる者が。」(p.196)

カネも身寄りもなければ、気難しく人当たりも悪い、外見的にも不潔そうで、さらにはなんらかの疾患を持っているかもしれない、粗暴な言動をとる年老いた男性が私たちのもとに助けを求めてやってきたとして、本当に彼を歓迎することができるだろうか。自分の手の届く範囲に置き、まめに面倒を見てあげて、彼と温かい縁を結び、終生の隣人として歓迎するだろうか。」(p.200)

往々にして私たちはかれらに同情せず、あるいは包摂もしない。なるべく速やかに、なおかつ穏便に、自分の近くから立ち去って貰える方法を選ぶ。

 私たちが暗黙の合意としてかれらを遠ざけることを選んだ以上、包摂されなかった疎外者の中から、ごくわずかにだが「復讐者」が現れてしまうことは、回避できない必要経費として受け入れていくほかない。
 私たちのうちのだれかが包摂すれば「復讐者」は生まれなかったかもしれない。だがそうしなかったのだ。
」(p.201)

この社会の全員が示し合わせて弱者を包摂せずに遠ざけて疎外したからといって、代償として自分が「復讐者」のターゲットになる確率はきわめて低い。統計的にはますます平和で安全になっている世の中において、かれらを包摂しないことによって支払わなければならない対価は安い。だれかを疎外するとき、そのたびに、1億2000万人をターゲットにしたルーレットが回されるとしても、自分のもとに死神がやってくる確率はどれくらいだろうか。」(p.202)

今回の事件では、あろうことか、ルーレットを回した大勢の人は難を逃れ、ルーレットを回さずに温かく迎え入れ、懸命に支えようと努めた人が殺された。

 事件の現場となり、犯人も通院していたという精神科クリニックの院長は、心身を挫(くじ)いた人とともに、けっして諦めず、親身になって少しずつ歩もうとする人格者として知られていた。院長を直接に殺(あや)めたのは犯人の男だが、その男の背後には、大勢の人が回したルーレットが連なっている。
」(p.203-204)

前話とも関係しますが、私たちが自由を求め、他者を排除することで疎外者が生まれ、その一部は復讐者となって社会を標的にするということです。
その時、犠牲になるのは、その人を疎外した張本人とは限りません。誰が標的にされるかはわかりませんが、間違いなく社会全体の犠牲で償うことになるのです。


●次は第4章「平等なき社会」です。第1話「親ガチャ」は、流行語大賞にもノミネートされた有名な言葉ですね。
子どもにとっては親を選べないから、親の当たり外れによって自分の運命が決まる。その考え方を端的に表した言葉です。

心理学者の安藤寿康は、これまで後天的な努力によって個人的に培われると世間的に信じられてきた数学や音楽などの能力が、実際にはきわめて大きな遺伝的影響を受けていることを突き止め、それを世に発表して大きな衝撃を与えた。
 安藤の研究は、体格やIQはもちろん、性格特性から才能から発達障害や反社会性まで、人間にまつわるありとあらゆる側面が、遺伝という本人の努力ではどうすることもできない「初期設定」によって、とても無視できないほど大きな影響を受けていることを示してしまった。
」(p.211-212)

「遺伝」と「代々にわたって再生産され継承されてきた豊かな社会的・経済的環境」は、個人的な努力や情熱とは比較にならないほど、その人の社会的地位や経済的成功の可能性を大きく支配する。この身も蓋もない事実が、確度の高いエビデンスとともに、それこそ暴力的ともいえるくらいはっきりと白日の下にさらされている状況が、2020年代という時代の前提となっている。

 若者たちにとっては「努力すれば報われる」という、ひと昔前までであれば多くの人から素朴に信じられ肯定されてきたような美しい物語を、真っ向から否定し叩き壊す「不都合な真実(ネタバレ)」があまりにも数多く提供されすぎてしまったのである。
」(p.212-213)

「親ガチャ」という言葉の突然のブームは、「あなたの人生は、あなたの努力で動かせる部分はとても少ない」−−という不都合な真実がひたすら堆積してきた時代のひとつの結果でしかない。」(p.215)

「親ガチャ」というワードの流行は「努力=能力」という神話によって構築されてきた欺瞞的な社会構造に対するシニカルな異議申し立てでもある。」(p.216)

そんなに遺伝的影響が大きいのかと思ったので、この安藤氏の著書「生まれが9割の世界をどう生きるか 遺伝と環境による不平等な現実を生き抜く処方箋」を買って、読んでみることにしました。
ただ、仮にそうだとしても、それは宿命であるという見方もできます。私がこの時代、日本という国に生まれたのも宿命です。ある人がポルポト政権下のカンボジアに生まれたとしたなら、それもまた宿命です。自分(の精神)では如何ともし難い。
つまりそれは人生の前提条件であり、この相対的な世界では必ず何らかの前提条件が与えられているに過ぎないのです。その前提条件の上で、今生をどう生きるかは、私たち自身に託されているとも言えるわけです。


第2話は「子育てをめぐる分断」で、前の話題と同様に、地域の人びとが子育てに参画しなくなってきたことに関する話題です。

子どもたちには、ともに暮らす家族や親族のほか、近隣に暮らす他者からの温かい視線が向けられていた。子どもはその家族にとってだけでなく、地域共同体にとっても宝のように大切にされてきた。

 しかしながら今日においては、子どもはその共同体の未来をつなぐ象徴ではなく、個人的優位性の象徴となりつつある。子どもを持つためには、経済的にも、社会的にも、人間関係的にも優位であることが前提条件となってきているからだ。子どものいないカップルの多くは、自分たちが子どもを持たない理由に経済力の乏しさを挙げる。子どもは、生活に余裕がある人びとにだけ与えられるぜいたく品へとその位置づけが変わろうとしている。
」(p.217)

「子どもたちのために」という建前は、政治的不公平感を納得させるための方便として、さまざまな場面で用いられてきた。今回の新型コロナウイルスでの経済支援でも、やはり「子どもたちのために」という文言は説得力を持っているかのように思えた。

 しかしながら、世の中の声を観察してみると、必ずしもそうではないことが見えてくる。というのも、子どもがいる世帯への支援それ自体が「逆差別的ではないのか」という声も、無視できないほど大きなボリュームで聞こえていたからだ。
」(p.219)

いまこの時代は、女性との縁がない、いわゆるモテない独身男性からの抗議の声を、世間が真に受けず、まともな批判として検討することもなく、ただの妬(ねた)み僻(ひが)みとして一蹴してしまえる最後の時期となるだろう。なぜなら、「恋愛や結婚ができる人」が多数派ではなくなり、「結婚どころか恋愛経験すらない人びと」が現役世代の多数派になる時代が近い将来やってきてしまうからだ。」(p.221−222)

子どもがいる、結婚している、恋人がいる、ということが贅沢なことと位置づけられ、少数派になってくるのですね。
自由恋愛が進んだことで、社会の人口の再生産能力が低下し、社会の維持が懸念され始めた昨今、個人の自由とはいったい何かということが、改めて問われるのかもしれません。


第3話は「能力主義」で、あらゆる差別に反対するとしている大学が、平気で能力で差別していることを取り上げた話題です。

「すべての人に開かれた組織であること」と「知的能力や学力に劣っている人を受け入れないこと」とは、はたして両立する論理なのだろうか。

「これは差別ではなく区別」「組織側にも選ぶ自由がある」といった建前があることは事実だ。しかしながら、建前がどのようなものであれ、能力で人を選別することは差別には当たらないのだろうか。
」(p.226)

無能への差別を完全になくしてしまえば、この社会を運営するためになくてはならない「だれもやりたがらないが、しかしだれかにやってもらわなければならない役割・仕事」をだれにも割り当てられなくなってしまうからだ。だれかがその役割を引き受けなければ社会の維持が困難になってしまうそれらの仕事を、独裁国家のように強制動員によってまかなうのではなく、ごく自然な選択の結果として演出しながら個人に引き受けさせるには「能力による序列化」が不可欠だ。」(p.228)

「容姿への差別は許さないが、学力による差別は公平である」は、いま多くの称賛を浴びる公平の定義であるが、あらゆる人にとって公平であるとは言い難い。学力試験が得意な人間にとってあまりにも有利に定義された「公平」であることは明白だ。」(p.231)

高い学歴や知的能力を持つジェンダー論者や社会学者が唱える「ミスコン廃止論」は、容姿によって女性を評価するコンテストが、女性から主体性を奪い、男性に奉仕する道具として見せるものだと批判する。この論旨はたしかに理にかなった側面を有している。だが、学力の高い自分たちにとって有利なルールを、あたかも万人にとって「公平」であるかのように主張するのはいささか誠実性に欠けている。」(p.233)

体力や腕力に自信のある人が相手を殴りつければいうまでもなく犯罪だ。しかし知的能力に自信のある人びとが知識社会でますます優位性を発揮し、知的能力に劣った人を暴力的に追いつめてしまっても−−それで間接的に死に追いやってしまっても−−明確な詐欺行為などがないかぎりは合法であり、罪に問われることはない。」(p.237)

私は「違い」は単に「違い」だと思うので、ミスコンも否定しません。それを否定するなら、100m競争だって否定しなきゃおかしいからです。
それぞれに得意とするものがあるだろうし、不得手なものもある。そういう「違い」を前提にしてみんなが仲間だという考えがあれば、「違う」から差別することにはならないからです。


第4話は「低賃金カルテル」で、社会にとって必要だけれども誰でもできるような仕事には、低賃金しか支払われないという問題についての話題です。

世間の人びとは、このパンデミックに際して「介護士はプロ、保育士は専門職、スーパーのレジ係は市民社会のインフラ、ゴミ収集に従事する皆さん、いつもありがとう」などと讃える。しかし「プロフェッショナル」にふさわしい対価を支払う役になった途端、急に共感的な声は鳴りやむ。だれもかれらに「プロ」としてふさわしい対価を支払おうとはしない。かれらを「プロ」であると同時に専門的な技術や技能や経験を持つ存在ではなく、やろうと思えばだれでもやれる仕事に就いている人びとと考えているからだ。」(p.244-245)

エッセンシャル・ワーカーはやろうと思えばだれでもできる仕事であり、なおかつだれもがあえてやりたがらない仕事だと見なされている。ここにエッセンシャル・ワーカーの多くが低賃金のままに置かれる理由がある。」(p.245)

対比的に藤井五冠のことが取り上げられています。いなくなっても誰も困らないようなことをやっていながら、大金を稼いでいるという存在ですから。これはプロ野球選手も同様でしょう。
でもこのことは、対価と役割のアンバランスとして、多くの仕事にあります。教師や聖職者の報酬は低く抑えられ、一方で風俗嬢は高い収入を得る。これは、お勧めしている「神との対話」で指摘されていることです。

私は、第1に政府が事業をしているために、報酬が低く抑えられていると思っています。要は、より安い価格で庶民にサービスを提供しなければならないという政府の考え方が、この賃金に反映されているのです。
もし、自由競争に任せるなら、需要と供給の関係で適切なところでバランスが取られるでしょう。やる人が少なければ給料は上がるし、増えれば下がるのです。


第5話は「キラキラと輝く私の人生のために」で、卵子凍結による代理母出産で、キャリアを捨てないで子どもを持つという女性の選択に関する話題です。

街中の公共空間に進出する性的なイラストや広告などに「女性を性的オブジェクトとして消費する搾取である」と激しく批判を向ける一方で、グローバル経済や能力主義のヒエラルキーにおいて下位に位置する女性を安価な労働力として市場に供給させ、エリート女性たちのトレードオフの解消のために利用する。別の女性の機会獲得のためにポートフォリオとして消費される立場にある女性が、グローバルな経済格差を背景にしていまだ多く存在することについて、その責任を負うどころか、「女性はいまも男性とくらべて所得格差がある。差別を受けいてる」などと、自説に都合よく援用すらしてしまう。」(p.254-255)

エリート女性がキャリアのために、卵子凍結で代理母出産をする時、彼女の代わりに「産む」という仕事をすることになる代理母は、たいてい低賃金の国の女性だという一面があります。タイは、法律によって代理出産を禁じましたが、今度はそれをウクライナが引き受けていたのだとか。

人権思想がカバーする権利や自由が拡大し充実するほど、「人権が行き届いた社会」を維持するために必要なリソースが膨大になる。結果として、一部の人びとには自身の権利や自由を返上してもらう必要が生じる。この矛盾を−−社会的な不公平や差別ではないと丁寧に印象付けながら−−解消するためにこそ、能力主義が求められた。」(p.255-256)

あらゆる差別を撤廃するべく日々邁進する先進社会でも、最後まで「能力による差別」は肯定される。なぜなら、能力による差別こそが、維持コストが膨大にかさむ人権思想を持続させるための心臓そのものだからである。能力主義はあらゆる差別が駆逐されてもなお生き残る、いわば差別の王である。」(p.256-257)

能力が高い人は、それだけ自由の恩恵を受けられ、その自由のために、能力の低い人の自由が妨げられることは当然だ、という価値観ですね。


次は第6話「平等の克服」で、戦争や革命、疫病による社会秩序の混乱や瓦解が、その後の世界に富の平等をもたらすという話題です。

これまで、大規模な破壊や秩序崩壊の後に訪れていた富裕層課税への社会的合意は、富裕層自身が大衆社会に対して抱く恐怖心が大なり小なりその原動力となっていた側面がある。」(p.264)

社会が安定していればこそ、富裕層は富裕層として安全と豊かさを享受できた。だからこそ、その安定が脅かされる事態になった時、不安定要因の貧困層を慰撫する目的での再配分を行うことで、安定を守ろうとする動きが生じるわけですね。

富裕層や知的労働者たちが地理的にも物理的にも大衆とは隔絶された安全な場所に生活の拠点を移し、大衆社会の怒りや不満のエネルギーに直接あてられる恐怖を感じることもなく、モニタースクリーン越しに表示されるグローバル市場のチャートを眺めながら、政治的・経済的情勢を冷静に見極め、このパンデミックを危機ではなくチャンスとして活用する。」(p.265-266)

しかし現代のネット社会、グローバル社会においては、富裕層はいくらでも簡単に現実社会から逃げ出すことができるし、姿を見せずに操作することが可能です。

人間社会の高度化によって、平等すらも克服してしまえば、今度こそ「富の再分配」は懐かしい過去の遺物となる。」(p.266)

つまり、格差はますます開いていくと嘆息されるのですね。
私は、また別の見方をしています。ここで詳しくは書きませんが、人は少しずつ変わっていくものだと思っていますので。


●次は第5章「不可視化された献身」です。第1話は「子どもおじさん」で、立派な大人が親と同居し、子ども部屋を与えられて生活しているような、子どものような大人のことが話題です。
「子どもおじさん」は、「こどおじ」と略されることもあるとか。もちろん「こどおば(子どもおばさん)」も存在するそうです。

しかしながら、「こどおじ」の流行は、当人の主観的認識はどうあれ、「ちゃんとした暮らしができない男性には、他者(とくに女性)との人間関係を得る資格などない」とする風潮を全社会的に肯定し、経済的・社会的に弱い立場にある男性たちを人間関係から排除してきた結果として生じたものである。
 世の多くの人が、経済的・社会的・コミュニケーション能力的に劣った男性の排除に大なり小なり加担しておきながら、かれらが「自分は自発的に『まっとうな大人』の輪の中から退場した」と都合よく認識してくれていることによって、責任の所在をうやむやにすることができている。そればかりか、かれらのことを「こどおじ」などと呼び、小ばかにすることさえできた。
」(p.272)

急増している「こどおじ」は、少子高齢化や、孤独死と同じく無縁社会に連なる社会問題の文脈で語られる。
 これを社会問題として捉え、実際に解決しようと望むのであれば、この社会のメンバー全員が、自分たちの視界の外側に「こどおじ」を生み出すことによって得てきた人間関係の快適性を部分的に返還する必要がある。しかしながら、社会は本当にその条件を受け入れるのだろうか。
」(p.276)

つまり、社会不適合者が自発的に社会から隠れているのではなく、他の人びとが無言の圧力で社会から追い出しているのではないか、という指摘です。


第2話は「暗い祈り」で、コロナ禍による経済的な影響が顕在化しつつある問題についての話題です。

「時代の犠牲者」はいついかなるときも生まれてしまう。しかしいつの時代も、世間の人びとは犠牲となったかれらに感謝や謝罪の意を表さない。それどころか「本人の努力が足りないからそうなったまで」「自己責任だ」などといった冷酷な言葉によってかれらの苦しみを都合よく要約し、あっさりと総括してしまう。」(p.285)

努力が足りないから、やる気がないから。そうやって本人だけの責任にすることで、彼らに寄り添おうとしない多くの人々の対応に、御田寺さんは反感を覚えているようですね。


第3話は「きれいなつながり」で、東日本大震災での人びとの絆が話題です。
大変な状況下で人びとはつながりを求め、絆を結ぶことを選びました。しかし、コロナ禍では、つながることがリスクとされるようになりました。そこで、相手を選んでつながるようになったと言うのです。

これまでの世界であれば、なんでもないごく普通の隣人として、ゆるやかにつながり合えたかもしれない人びとが、これからの世界では、物理的にも心理的にもずっと距離の遠い他人のままになる。
 他者から「きれいである」「有益である」「無害である」「快適である」と認められる人でなければ、「つながり」や「絆」を結んでもらえなくなっていく。
 人間社会において、「つながり」や「絆」は希少財になっていく。
」(p.291)

市民社会の名もなき人びとが「あいつが感染者だ」「いやこいつだ」「感染者はどこだ」と自警団を結成して街の浄化に勤(いそ)しんでいるさなかに、良質なつながりを持つ人びとは、すでに次の有事を切り抜ける段取りを整えている。非公開コミュニティやメッセージグループで緊密な情報交換を行い、それぞれが持てる−−金融・政治・経済・社会・ビジネス・資産運用・キャリアなど−−ありとあらゆる知識を総動員して、不落の要塞を形成しようとしている。」(p.296)

つまり世界は一部のグローバリストによってコントロールされており、彼らはどんな状況下でもつながりあって富を増やす形を整えているということですね。今、流行の陰謀論とも関係してきそうです。
まあこれが真実かどうかは何とも言えませんが、こういう主張をする人は多いようです。


次は第4話を飛ばして第5話の「共同体のジレンマ」で、オンライン・サロンに関する話題です。

とりわけ人間関係における自由は絶対的な規範として肯定されてきた。人びとは自由に付き合う人を選ぶことができる。ある人が人生においてだれと関わりを持とうが自由であるし、逆にだれとの関わりを拒絶しようが、それもまた自由でもある。
 一見すれば、他者から煩わされることの少ない、快適な社会を実現しているようにも思える。しかしこのような快適性は、裏を返せば自分もまた他者からあっさりと−−個人的な快適性を高めるために−−拒絶される場面を感受しなければならないことも含意する。自分の快適性のために他人をためらいなく自由に切り捨てられる社会は、自分もいずれは同じ論理を他者から向けられる可能性を拒否しえない。にもかかわらず、人はいつも自分が選ぶ側、切り捨てる側に立てるものだと無邪気に信じている。
」(p.310)

個人の自由を追求するなら、他人を排除するということは、自分も排除されるということです。そして排除されて、社会から見棄てられた人の問題、それが御田寺さんの心にはずっとあったのでしょうね。
本書の最後の方に来て、やっとそのことが見えてきました。


第6話は「疎外者たちの行方」で、北九州の暴力団「工藤会」第五代総裁の野村悟に福岡地裁で死刑判決が下されたことが話題です。

たしかに、ヤクザ−−あるいは近年では「半グレ」−−とされる者たちが、一般企業向けの就職活動のように「ぜひともヤクザになりたいのですが、採用していますか!?」などとその組織の門戸を叩くわけではもちろんない。大抵の場合、ほとんど選択の余地のない強制スクロールの一本道をひたすら歩いた果てに、そのような世界が結果として待ち受けていただけだ。」(p.319)

だれかがほんの少しでも手を差し伸べていたら、違った未来があったかもしれない。だがそうしなかった。現代社会を生きる人びとの多くが、かれらに手を差し伸べるどころか、どこに暮らしていて、なにをして糧を得ていたのかを、そもそもまったく知らないのではないだろうか。へたをすれば、かれらの姿を肉眼で捉えたことがない人もそれなりにいるのではないか。」(p.320-321)

市井の人びとは、自分たちがまったく自覚することなくかれらを疎外し透明化してきたことに気づいていない。そしてその果てに彼らが「反社会勢力」になった途端、自分たちが100%被害者であるような顔をして−−近代社会の法や秩序は実際にそのように規定しているので、被害者であることはまぎれもない真実なのだが−−そして「ヤクザはいらない」と声を挙げる。」(p.321)

現代社会に生きる私たちは、自分たちの快適な暮らしを守るために、なにやら「厄介ごと」を抱えていそうな人やその子どもをほとんど無意識的に不可視化・透明化して遠ざける。
 遠ざけられたかれらは文字どおりの「疎外者」になる。その「疎外者」たちの中から−−全員ではなく、割合としてはごくわずかな例外であるといえるとしても−−社会に牙をむく者、刃を向ける者が生まれる。だとすれば、私たちがその責任の一端を担う者として、かれらと向き合わなければならない。
「ヤクザ」がひとつの」結果であるならば、当局がそのトップを捕まえて「世に仇なす極悪人」として断罪し、首尾よく絞首台に送れたところで、期待したようなハッピーエンドは訪れないだろう。
」(p.324)

「かれら」の姿を見つけること−−すべてはそこからはじめないといけない。」(p.324)

今の私たちの社会がこうなのは、今の私たちがこうだから。だからこそ、まず自分がその責任の一端を引き受けなければ変えることができない。
御田寺さんの主張は、そういうところにあるのではないでしょうか。


●終章は「物語の否定」です。
私たちは真実を見ているのではなく、その物語を見ているのだと御田寺さんは言います。物語とは、自分が都合よく組み立てた見方と言えるでしょう。

それでも、美しい物語からはじき出されたものたちを、世の多くの人が見える場所まで喚(よ)びもどすことによって、私たちがいま見ているのは「物語」であると、だれかが告げなければならなかった。この時代においてその仕事を引き受けたのが、たまたま私だった。」(p.331)

あえて真実を見ないことによって、つまり事実を自分の目から覆い隠すことによって、自分に都合よく解釈する。その都合の良い解釈によって、無視され疎外された人が苦しんでいようと、そこに気づこうともしない。
そういう現実があることを指摘することが、この本の目的だということなのでしょう。


オムニバスのように30以上の話題が繰り広げられていますが、それはそれぞれに関連性があり、最終的には1つのテーマによって貫かれていることがわかりました。
分厚い読み応えのある本ですが、惹かれながら最後まで読み終えてしまいました。そして、いろいろと考えさせられました。

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タグ:御田寺圭
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 16:01 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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