2022年07月02日

月まで三キロ



SNSで友だちが紹介していたので、面白そうだと感じて買ってみました。
興味が湧いたのは、著者が理系だということ。そこをウリにするということは、小説の中に理系の要素が取り入れられているということです。どんなふうに取り入れられているのか、そこに関心があって読んでみることにしたのです。

私が買ったのは文庫本です。検索でたまたま先にヒットしたので、単行本ではなく文庫本になりました。でもお陰で、短編をいくつか読むことができ、著者の伊与原新(いよはら・しん)さんの小説の傾向が見て取れました。

この文庫本には、タイトルにある「月まで三キロ」という小説の他に、5つの小説が盛り込まれています。さらに、この文庫本用に書かれた超短編も含まれています。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介していきましょう。しかし、これは小説ですから、なるべくネタバレしないように、物語のキモを紹介したいと思います。

ある日のことだった。母の月命日だったので、仏壇に仏飯を供えていた。父がそれを手づかみにして、口に入れようとした。普段なら好きにさせただろうが、その日は朝から言うことを聞いてくれず、いらいらしていた。父の手首をつかんでやめさせようとすると、逆につかみかかってきた。それを力まかせに引きはがし、顔面をなぐりつけた。倒れ込んだ父は、失禁していた。匂いが辺りに漂った。畳に染み出す尿を見つめていると、涙があふれてきた。膝から崩れ落ち、嗚咽した。」(p.36 「月まで三キロ」)

この物語には、老人介護の問題、認知症の問題が関わってくるのです。私が今、老人介護施設で働いているだけに、ここの描写は共感するのです。

そうだ。違う。父はあんなところにいるわけじゃない。岐阜にいる。老人ホームにひとりでいる。岐阜駅まで行けば、そこから三キロもない。
 父は、もう何も答えてはくれない。でも、焦点の合わないその目を直接のぞき込むことはできる。耳もとで直接問い質(ただ)してやることはできる。
 息子のことをどう思っていたのかと。息子に本当は何を伝えたかったのかと。そして、息子のことを愛していたのかと。
」(p.52-53 「月まで三キロ」)

認知症になった親に、何をしたって意味がない。そう考えることもできます。しかし、相手が何も返してくれないとしても、こちらからアプローチし続けることはできるのです。
問われているのは、相手がどうするかではなく、自分がどうするか、それだけではないのか? そんなことを考えさせてくれるのです。


なんで別居することになったの? 離婚するつもりなの? 親権はどうなるの? 何を訊いても、「それは大人の話だから、そのうちね」。そうやって除(の)け者にされるのは、うんざりだった。もう十二歳。そこらの小学生より知識はある。幼稚な駄々をこねたりもしない。話してさえくれれば、何だってわかるのだ。」(p.131 「アンモナイトの探し方」)

こういうことって、あるんじゃないかなぁと思いました。大人は子どもを、大人のミニチュアだとか、未熟な大人だと考えがちです。でも、本当にそうでしょうか?
私も、正直に話してくれない母に対してキレたことがありました。きちんと話してくれれば、私だってわかるのに、と。

私はそのとき思い知った。わかるための鍵は常に、わからないことの中にある。その鍵を見つけるためには、まず、何がわからないかを知らなければならない。つまり、わかるとわからないを、きちんとわけるんだ」(p.143 「アンモナイトの探し方」)

登場人物のセリフですが、このセリフについては、巻末にある逢坂剛(おうさか・ごう)氏との対談の中で、逢坂氏が指摘しています。

気の利いた警句がうまいタイミングで出てきますね。」(p.360)

こういうセリフはいいですね。」(p.360)

私も、この哲学的な表現が、とても良いと感じました。「わからない」を明確にすることによって、「わかる」が輪郭を見せてくれるのです。

「やることはまだいくらでもあるからな」
「いくらでもって……」朋樹もそちらに顔を向ける。「いい場所はもう水没しちゃったんでしょ? それとも、ここは見込みがあるんですか? 何かすごい発見がありそうとか」
「そんなことは誰にもわからん。わからんからやるんだろうが」戸川は渋い顔で言った。「やるのは誰でも構わんが、何年、何十年かけてでも散々やってみて、それでもダメなら、ここはダメだということがわかる。そして、次の場所へいく。わかることではなく、わからないことを見つけていく作業の積み重ねだよ」
」(p.156 「アンモナイトの探し方」)

エジソンが電球を発明した時のエピソードを思い出します。失敗するということは、それがダメだとわかるということです。それだけ成功に近づいているのだと。
こういう考え方がなければ、地道な作業の繰り返しはできません。一足飛びに成功だけを追い求め、けっきょく何もできずに終わってしまうのです。
化石を見つけるという作業も、同じなのですね。たとえ有力な場所がダメになっても、まだ掘っていない場所はある。だったら、探してみるしかない。それが、研究者の考えなのです。


「優−−」哲おっちゃんが兄貴に顔を向ける。「さっきの最後の質問の答えは、冗談や。ミカに言うといて。人生に後悔はつきものや。でもそれでええやないか。そのために、ブルースがある。優には優の、健には健の、ミカにはミカのブルースがある。お父ちゃんは、機嫌ようお父ちゃんのブルースをやってますさかい−−ってな」」(p.212 「天王寺ハイエイタス」)

何を選択しても、選択しなかった方に未練が残ることはありますよ。だって、それを経験しなかったのですから。でも、それが人生なんですよね。


伊与原さんは、元々ミステリー小説を書かれていたそうです。科学的なことは、専門家にとっては常識でも、一般人にはよくわからないこと。だから、それをミステリーのトリックにしていたのだとか。
たしかにそういうトリックはありますね。たとえば、鋭い何かで刺殺されたのに、凶器が見つからない、実はその凶器は「つらら」だったとか。

伊与原さんは、そういうミステリー小説を書かれていましたが、ある時に限界にぶち当たって、編集者からミステリーじゃないものを書いたらどうかと言われて、「月まで三キロ」を書いたのだそうです。それによって、新ジャンルを切り開くことになったようです。

私はこの短編集を読んで、科学的なうんちくがみごとに伏線になっているなぁと思いました。小説のテーマは、別のところにあります。それは、恋愛というよりも家族愛のようなものですね。
そして、主人公が様々な出会いをしますが、状況は何も変わらないのです。正義のヒーローも現れないし、事態が急変することもありません。ただ、主人公の見方が変わるのです。それによって救われると言うか、穏やかな満足感が訪れます。

何だかホッとする小説ですね。ミステリーのようでミステリーじゃない。科学のようで、科学もどうでもいい。まさに新ジャンル。率直に、面白いと感じました。

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2022年07月09日

成功に価値は無い!



日本講演新聞でよく紹介されている執行草舟(しぎょう・そうしゅう)氏の新しい本です。新刊という意味もありますが、これまでとは違って、わかりやすく書かれた本になっています。
これまでの本(「「憧れ」の思想」)は、やたら小難しくてとっつきにくい、けれどもいいことを書いている、という印象でした。その本意がわかってくると、スムーズに読めるのですが、それまでは「何を言いたいんだろう?」という思いがあって、頭に入ってこなかったという印象があります。

今回は、比較的に若い層(20〜40歳)に向けた内容で、1テーマごとの完結で、わかりやすく書かれているようです。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

どうして成功したいと思ったこともない私が、こんなことになっているのか。
 その理由があるとすれば、思い当たることは一つしかありません。小学生の頃に出会った武士道の書『葉隠』です。
」(p.4)

執行氏は、小学校1年で「葉隠」と出合い、その哲学に心酔し、極めて来られたようです。その後、事業を始められてそれが上手くいくなど、世間的には成功者だと思われています。その理由は、成功を求めることではなく、「葉隠」の生き方を実践してきたことにあると思われているのですね。

『葉隠』で語られていることを簡単に言えば、体当たりの精神です。この世を生き抜く者としての「生命の燃焼」を教えてくれているのが『葉隠』の真髄です。
 さらに分かりやすく説明すると、ボロボロになるまで体当たりを繰り返して、燃え尽きて死ぬ。そういった価値観が『葉隠』で言われていることです。良い子になるための「道徳」とは別物だということを、分かってもらいたい。
」(p.17)

人間関係の改善に役立つかどうかも、関係ありません。生まれたら、命が尽きるその日まで、ものごとに体当たりし、実践し続ける。これが武士道です。損も得もなければ、良いも悪いもありません。」(p.18)

何が言いたいかというと、武士だけの生き方論が「武士道」ではなく、日本人としての本当の生き方を示しているのが「武士道」だということです。
 『葉隠』では、自分の生命が求めるものに体当たりを繰り返し、何の功名を求めることもなく死んでいくことが「本当の人生」だと説いています。
」(p.19)

ここでもうすでに結論が語られており、以下はその繰り返しとも言えます。
つまり、結果を求めることをしないという生き方です。結果はどうでもよく、ただそうすることが自分らしいからそうする。それが正しいかどうかさえ、どうでもいいのです。あくまでも自分の魂の声にしたがって、命も惜しまずに全力を出し切ること。それが武士道であり、『葉隠』に示された生き方であり、日本人みんなが踏み行うべき道だと執行氏は言われるのです。


会社を辞めるのは、一向にかまわないと思います。でも、それは自分のわがままから出たことだということを、分かっていないといけません。会社が悪い、上司が悪いといって他人の責任にするのは、武士道ではありません。
 上司がどうあれ、会社がどうあれ、すべては自分の責任だと考える。そうすることで、さらに鍛錬を積み重ね、一人の人間として成長することにつながります。上司や会社に恨みを残すこともないでしょう。
」(p.24)

昔は「お家」というものを絶対的な存在とし、そこに忠誠を誓う生き方が武士道とされてきました。現代ではすでに「お家」というものがないので、それに近いのが「会社」ではないかと執行氏は言います。
しかし、その「お家」と同等の「会社」でさえ、辞めることそのものを否定はしないと言うのですね。どう決断したにせよ、その責任はすべて自分にある。その生き方の方が優先されるからです。

なお、理不尽な目に合うことは、生きていればいくらでもあることで、それによって鍛えられるという話もされています。会社に限らず、家族も同じだということも言われていますね。
すべてにおいて、自分の思い通りの結果を目指すのではなく、自分らしく生き抜くことが優先される。結果はどうでもよく、勝手に後からついてくる。そういうことではないかと思います。


バカにされたからといって、私はその人を憎んだりはしません。言いたいことを言えば嫌われることなんて、分かりきっているからです。
 バカにされようが、嫌われようが、信念を語る生き方をする。それを武士道は教えてくれます。
」(p.29)

執行氏は、出会った人の99%から嫌われ、バカにされていると言います。それでも、そういうことを気にせず、自分を貫き通しておられるのだと。


私が言いたいのは、お金があるから、本を読んでいるからできるんだ、という話ではないということです。人を助ける人は、お金があるかないかにかかわらず助けます。自分が食い物に困ってでも相手を助ける。これが本当です。「お金持ちになったら人を助ける」なんて言う人がいますが、それは嘘です。
 金持ちだから、成功したから、健康だから、自信があるから、これらは自分の生き方と何の関係もありません。本人が決意した生き方が、その人の生き方です。
」(p.31)

何らかの条件を付けている限り、それは言い訳になります。やらないことの言い訳です。
本当にそれがやりたいなら、無条件に始めるはずです。今、できることをやるはずです。

そこには、「自信がなくてできない」という言い訳も含まれると言います。何かができるから、何かがあるから、という理由で自信が持てるなら、その自信は偽物です。根拠のある自信は、簡単に崩れ去ります。だから私は、「根拠のない自信」を持つよう勧めています。「根拠のない自信」とは、自分が「やる」と決めるだけのことですから。


自分の生まれやルーツのことを「宿命」と言います。「宿命」とは、終わってしまった運命のことです。出身地、家、卒業した小学校、これらはすべて「宿命」です。これから先にある運命ではなく、自分の過去にあった運命のことです。
 「宿命」は変えることができません。例えば、日本人であること。ひとたび日本人として生まれてきたからには、どう転んでもフランス人という人種にはなれません。親もそうでしょう。自分の両親から生まれてきたという事実は、絶対に動かせないのです。
」(p.48)

宿命と運命の違いについては、いろいろな説明があります。すでに起こった運命を宿命と呼び、未だ起こっていないものが運命だという説明は、なるほどと思いました。


私は、商売や事業は「志」を実現するためにやるものだと思っています。「志」がなかったり、ダメになったりしては、事業を行う意味はありません。」(p.58)

執行氏にとっての事業は、自分の志を表現するものであり、単に生活のためとか、儲けるためではないと言うのですね。
したがってその志のための適正な規模を保つように心がけておられるそうです。


現在の日本には、家制度がほとんど残っていません。ですから、家制度と聞いてもピンと来ない人が大勢いると思います。しかし、昔の家制度に最も近いのが、先にも触れましたが、いまの会社組織だと言えば、イメージしやすいのではないでしょうか。
 武士は、「家」を大事に考え、それを守るために戦いました。相手を攻め負かすというより、自分にとって大切な「家」のために、槍や刀をとったのです。
 つまり、先述したように「武士道」は、”戦いの哲学”ではなく、”守りの哲学”だということを思い出して下さい。
」(p.77)

先に書いたように、武士道の本質は「お家」のために命を投げ出すことです。現代であれば「会社」だと執行氏は言います。そしてそれは、他を打ち負かすためではなく、守るために命を投げ出すのだと言うのですね。


武士道で重要なのは、成功や失敗ではありません。いったん自分が選んだのなら、そこに自分の人生と命を捧げる。大事なのはそこです。
 選んで命を捧げた結果、失敗したのだとしたら、それは運命です。『葉隠』でいう犬死にになるかもしれませんが、それはそれでいい。『葉隠』の武士道では、犬死にOKです。
」(p.146)

そもそも結果に執着していないのですから、成功か失敗かなど、どうでもいいことなのですね。自分が選んだ(決めた)という一点によって、そうする意義が生まれる。
私も、妻のことを愛するのは、私が愛すると決めたからだ、と考えています。妻がどうこうとか関係なく、私がそう決めたから、それに従うだけなのです。


よく「会社のここがダメだからうまくいかないんだ」とか、「こういうところがイヤなんだ」という人がいます。そういう人に限って、きれいごとばかり言っています。
 人間に欠点があるように、どの会社にも欠点はあります。すべてが美しいなんてことはありません。汚れた部分はあるし、表面からは見えない裏の部分もあります。
」(p.156)

こうしたダメな部分を拒絶するのではなく、受け入れ、許したとき、会社の中で自分が何を成すべきかという使命が分かります。分かったら、そこに全精力を傾ける「やる気」がわいてきます。」(p.158)

完璧を求めるということは、他人に責任を負わせるということなのですね。不完全であってもそれを受け入れ、自分の責任で何とかしようとする。そういう生き方こそが、「志」のある生き方だろうと思います。


学校もそうでした。昔は先生がムチを持っていて、子どもが嫌がる暗記や筆記をさせていました。やらないと、問答無用に容赦なくムチが飛んでくる。まさしく「不合理」です。
 しかし、この「不合理」があったからこそ、子どもたちは人生を考え勉強ができるようになり、社会に出て働ける人間になれました。自分の能力を伸ばすこともできた。
 私は、「思い通りにならない」「イヤなことをせざるを得ない」といった、文明の毒素ともいえる「不合理」が、最も人を育ててくれると思っています。
 だから、本当に成長したいと思ったら、「不合理」から逃げてはいけません。「不合理」という毒を食らい、消化し、自己化するのです。
」(p.179)

困難があるから成長できる。私もそう思います。しかし、だからと言って暴力が正しいとは思いませんがね。


信念を貫き、自分として一生懸命やれば、出世できなかろうが、儲からなかろうが、そんなことはどっちでもいいのです。出世や儲けを考えること自体がダメなのです。
 平社員で一生を終える運命であるなら、その運命を一生懸命に遂行すればよい。「損な生き方だ」と思うかもしれませんが、葉隠流に言えば、その考え方がもう上方風の格好つけ武士道なのです。
」(p.207)

ここでも、結果を放り出して、やるべきことに邁進する姿勢、つまり生き方こそが大切なのだということを言っています。
結果が出ないからダメなのではない、ということを言われているのでしょう。私もそう思います。


結果にとらわれずに行為に情熱を燃やすという生き方は、私も「神との対話」によって知っていて、実践しています。できているかどうかは別として、そう生きようと思っています。

ただ、執行氏が言うことの多くに賛同するものの、一部には納得できない部分もあります。
たとえば原発批判です。特にその理由を言われず、さも当然かのようにあるべきではないと決めつけられています。執行氏がどう考えるかは自由なのですが、それがさも絶対的に正しいかのように言われるのには、私は違和感を感じます。なぜなら、ここに引用したような執行氏の考え方と矛盾すると思うからです。

何が正しいかなど一概には言えないはずです。その人にはその人の正しさがあり、その思いに従って命を燃焼させているなら、それでいいというのが武士道ではないのでしょうか? そうであれば、原発の研究や推進にだって、それぞれの思いがありますよ。そんなことがわからないのでしょうか?

そういう思いもあって、ややもやもやする部分はあります。
しかし、全般的に観れば、結果を気にせずに自分らしく生きよ、というメッセージだと思うし、そういう点では共感しています。

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タグ:執行草舟
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2022年07月15日

民族と文明で読み解く大アジア史



私の友人でもある宇山卓栄(うやま・たくえい)さんの本です。
宇山さんの本は、以前に「世界史で学べ! 間違いだらけの民主主義」や「経済で読み解く世界史」を紹介しています。いずれも、歴史に関する深い知識をベースに、論理的な思考によって真実をあぶり出そうとするもので、素晴らしい内容だなぁと思っています。

今回の本は、アジアの有史以降の歴史を解明しようとする試みです。民族的にどうなのか、語族(言語)的にどうなのか、遺伝子的にどうなのかと、実に多角的に解明しようとされています。
これまでの権威的な思い込みの歴史解釈を排して、事実を基にして解明しようとされてる姿勢には共感します。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介します。

文明は民族の思考と行動の累積であり、民族の持つ世界観を表します。日本や中国、朝鮮半島などの東アジアはもちろんのこと、東南アジアやインド、中東や中央アジア、トルコに至るまで、アジア民族の足跡を幅広く辿ります。
 同じアジア民族でも何が異なり、何が同じなのか。アジア各民族の思考のパターンや習性とは。こうした問題意識とともに、アジア人やアジア文明を、つまり「我々とは何か」を、読者の皆様と考えていきます。
」(p.4)

これが本書に書かれていることであり、その目的でもあります。


中国の統一王朝で、漢字を使う漢民族が作った王朝は秦、漢、晋、明の4つしかありません。中国の主要統一王朝は「秦→漢→晋→隋→唐→宋→元→明→清」と9つ続きますが、そのうちの5つが異民族の作った王朝です(本来、北方遊牧民を「異民族」と表現すること自体が適切ではありません。遊牧民からすれば、漢民族が異民族であるからです)。秦、漢、晋、明の4つのうち、秦と晋は短命政権で、わずか漢と明の2つだけが実質的な漢民族の統一政権でした(秦の建国者のルーツはチベット系の羌(きょう)族であるとする見解もあり)。」(p.16-17)

のっけから目からうろこでした。中国の統一王朝については歴史で習いましたが、漢民族の王朝かどうかという視点すらありませんでした。
それでも、元はモンゴル族であり、清は満州族だということくらいは、何となくわかっていました。しかし、実は漢民族の王朝がわずかにしかなかったのですね。


遊牧民の共通の文化的特徴として挙げられる最大の点が実力主義です。定住生活をしない彼らは敵対部族との接触も頻繁であり、さまざまな状況に流動的に対処しなければならず、能力のある者が指導的な地位に選出されました。能力があれば、異民族でも受け入れて厚遇したのです。」(p.20)

漢民族と違って遊牧民(北方の異民族)は、実力主義という特徴があったのですね。たしかに元もそれによって国家統治をしたということを歴史の授業で習いましたよ。


日本でも、この中国式の「四大文明」が教科書のトップに記され、梁啓超の言説に依拠しただけのものに基づいて間違った歴史教育が公然となされています。
 しかし中国では、黄河文明とともに長江文明も栄えており、稲作が盛んであったことを示す遺跡が1970年代以降、浙江省余姚市の河姆渡遺跡などをはじめ、多く見つかっています。日本の稲作も長江流域から直接伝わりました。
 長江文明は黄河文明に匹敵するような豊かで巨大な文明であったにもかかわらず、教科書や一般の概説書では、ほとんど扱われていません。なぜでしょうか。
 第一に、黄河文明を擁した漢民族こそが中国唯一の文明の発現者であるとする定型的な中華思想の歴史理解の中で、長江文明の存在を教科書などで意図的に扱わなかった。あるいは扱いたくなかったということが背景としてあるでしょう。
」(p.27)

教科書や一般の概説書では、中国文明は黄河流域から発祥し、文化や人口が南方にも広がっていったと解釈されます。中心たる黄河流域に対し、長江流域は周辺であったと位置付けられていますが、この捉え方がそもそも間違っています。黄河流域と長江流域には、それぞれ独自の文明があったのです。
 紀元前2200年頃、良渚文化が洪水で衰退して、黄河流域の勢力に征服されて以降、黄河文明が優位的となりますが、それ以前は2つの文明が併存していました。
」(p.31)

日本人はさまざまな方面からの民族の雑多な混合形であるものの、文明や民族の血ということにおいて、その多くを長江人に負っていると言えます。両者の遺伝子が近似していることからも明らかです。一方、日本は畑作牧畜の黄河文明からはほとんど影響を受けていません。したがって、この時期に中国の北方から朝鮮半島を経由して渡来人が多くやって来て日本に文明をもたらしたという、教科書や概説書にいまだに書かれている従来の説は、見直されるべきでしょう。」(p.33-34)

紀元前9000年頃、稲作が行われていた痕跡を明確に示す遺跡は長江流域以外に世界中どこにもないことから、稲作のはじまりは長江流域にあると考えられます。長江の稲作文化が世界最古で、その後、中国南西部の雲南省、東南アジア、インドのアッサム地方に拡大していったと見直されています。」(p.36)

これも目からうろこの話ですね。黄河文明しか知りませんでしたが、実は同じくらい豊かな文明が長江流域にあって、稲作文化はそこから伝わってきた。これが、合理的に考えられるというのです。


かつて、弥生人の人骨が面長で、縄文人の人骨が丸顔であるとする発掘調査が報告されたことがありましたが、これも実は、部分的なサンプルだけを意図的に抽出した結果に過ぎません。全体の人骨を俯瞰すれば、弥生が面長で、縄文が丸顔などという定型的な区分ができないことは明らかであり、特定の時期に民族が入れ替わったことはないとわかります。
 文明的にも、縄文時代後期の紀元前1000年頃に稲作文化が漸次的に普及していき、弥生時代にそれが確立したのであり、その社会的変化と移行は長期に及ぶ緩やかで静的なものでした。
」(p.62)

縄文から弥生への時代の変化も、これまで歴史の授業で習ったことが、必ずしも正しくなかったと目を見開かされました。


扶南人とチャム人はヒンドゥー教などのインド文明の受容により、武力侵略的な中華文明に対抗しました。多神教のヒンドゥー教は多元的な価値を包容する文化的な寛容性を有していたのに対し、中華文明は儒教に代表されるような身分秩序を厳格に強制しながら、官僚的な社会統制を敷きました。中華文明は言わば「力の文明」であったのです。素朴で牧歌的な原初生活を営んでいた東南アジア人にとって、中華文明は受け入れがたいものでした。」(p.198-199)

中国は周辺国への侵略を繰り返していますが、一方のインドには、そういう歴史がありません。にも関わらず、ヒンドゥー教などインドの文化が周辺国にも広まっている。その理由を、このように説明しています。


トルコ人やモンゴル人は中華文明を拒絶しましたが、イスラムについては、これを受け入れたのです。周辺異民族を蛮族とみなす中華思想には、何の包容力もありませんでしたが、「アラーの前の平等」を唱えるイスラム教には、文化文明の相違を超えて多民族を同化する力があったのです。」(p.233)

イスラム教がキリスト教よりも他人種・多民族に強い訴求力を持って広がっていたのは、徹底した平等理念を掲げ、階層主義や組織主義を排したことが大きかったのです。」(p.234)

力ずくで自分たちの文明を押し付けようとしても、それはなかなか上手く行きません。それを受け入れるメリットが感じられなければ、やはり受け入れてはもらえないのですね。


この広いアジアの歴史を、それぞれの民族や国家の成り立ちから紐解くことは、実に大変なことだと思います。それをこうやって1冊の本で知ることができる。とても貴重な本だと思いました。

もちろん、宇山さんの解釈が絶対的に正しいとは思いません。けれども、事実に即して論理的に考えるというスタンスがあれば、より真実へと近づいていけると思います。
今後も、歴史の真実に迫る情報を提供してくださることを期待しています。

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タグ:宇山卓栄
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2022年07月20日

定年後ヒーロー



日本講演新聞で紹介されていた本です。団塊の世代が老齢期に入り、高齢化が加速度的に進んでいます。ある意味で「やっかいもの」扱いされがちな定年後の団塊の世代に、勇気と希望を与える内容のようです。

著者は萩原孝一(はぎわら・こういち)さん。JICAやUNIDOで働いておられた方ですが、2012年に定年退職されて、今は桜美林大学の非常勤講師をされているようです。47歳の時に声が聞こえてスピリチュアルに目覚めたとか。
そこで肩書を「スピリチュアル系元国連職員&在日宇宙人」とされています。世界平和の実現のために、ナショナリズムを喚起するのではなく、私たちは同じ宇宙人であり、ただ日本で暮らしているだけだという立場の表明のようです。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

定年後ヒーローって何? 私の肩書き「在日宇宙人」は気持ち悪すぎる!
 ごもっともです。でも意味不明なタイトルに訝しさを感じながら、この本を手にしたアナタは間違いなく「変人」です。もしかすると「変態」。失礼! でもこれ私の最大級の褒め言葉です。
 お待ちしていたのです。ア・ナ・タを。何故って、変態、つまりアナタが地球を救うからです。
」(p.4)

日本の「熟年者」が「在日宇宙人」のリーダーとして活躍し、人類存亡の危機を救うというシナリオに賭けてみませんか。」(p.13)

冒頭でこのように呼びかけています。「変態」と言えば、たまちゃん先生の話を思い出します。やはり世の中を変える人というのは、どこかおかしいのです。
もちろん私も、そのおかしい人間の一人だろうと自覚していますよ。(笑)

本書では、定年後の団塊世代の人たちに向けて、自分の人生を輝かせることで、世界を救う方法を示そうとしています。


人はなぜ死ぬのでしょうか? 答えは「生まれてしまったから」です。人はなぜ生きるのでしょうか? その答えも同じです。
 生まれることは死ぬこと。
 死ぬことは生まれること。

 本当の「命」とはそういうものです。
 死に対する考え方が変われば、もう怖いものなしです。その日が近い年長者もとても気楽に愉しく生きられるのではないでしょうか。

 愉しく生きる!

 それこそが老後を元気に生きる鍵であり、認知症撃退の最高のサプリメントです。日本の熟年者の経験、知恵、技術、財力が「年寄り」というだけで葬り去られようとするならば、それはとても野蛮なことです。
」(p.30-31)

スピリチュアル的な観点ですが、私もこういう考え方に賛同します。死の恐れがなくなれば、人は自由になれるし、幸せに生きられるし、人生を楽しめるのです。


人間の場合も、60〜65年は幼虫時代、それ以後の約25年を成虫時代と認識してみたらどうでしょうか。25年間、気が確かであれば大概のことはできます。樋口一葉、滝廉太郎、石川啄木、沖田総司などの偉人たちはみな25歳前後で没しています。
 定年までどのような仕事をしていたかに関わりなくすべて人生のリハーサルみたいなものです。本番前の少し長めのウォーミングアップと呼んでもいいでしょう。
」(p.44)

これはおもしろい観点ですね。


日本が本当の独立国を目指すためには条件があります。
 日本人がなすべくことは、「前述の神の啓示を一人ひとりが真剣に受け止め、霊性を思い出し、真我に従い、日本人の「矜持」を取り戻すことです。
」(p.116-117)

日本には役割があります。もしかするとそれは「神様との約束」かもしれません。」(p.117)

世界の中で日本は特別な存在だと言います。それは、世界で唯一、原爆の洗礼を受けたことにも表れていると。世界を戦争から救う、つまり人類から人類を救う使命が日本人にはある、というわけです。


日本には勇気を持ってオリンピック・パラリンピックを返上し、かかる経費を今後のコロナ対策に充てるという選択肢があるはずです。」(p.118)

残念ながらこれは実現しませんでしたね。本書は2020年8月発行なので、私が読んだ現時点での状況は見えていなかったのでしょう。今はむしろ逆に、勇気を持ってオリンピック・パラリンピックを実行したことが評価されています。
それに、コロナ対策は無用に恐れを煽っているだけであり、私は無意味なことだと考えています。こういう点で、この本にあることすべてに私が賛同しているわけではありません。


大切なことは、天に召されるその日まで愉しく暮らせること、そして順繰りに仲間を送るシステムを作ることです。そこでは孤独な老人を絶対につくってはいけません。昔ながらの日本の一番イイ「おせっかい文化」が大復活することが肝要です。
 日本は世界中が羨むような手本となるイイ国になれる可能性を秘めています。国造りの中心が「お金」ではなく「心」という人類の近代史において画期的なシフトを起こせるのは、日本以外にはないだろうと思うのです。
 争いのない、穏やかで、健やかで、国中が笑顔に溢れる国。もう一度生まれてきたいと思う国。坂本龍馬がかつてつくろうとした国です。日本人の大多数がそれを望んでいるはずですから、できないわけはないのです。
」(p.126-127)

昔のようなコミュニティーを復活させることが大事だと言います。その中心に、定年後ヒーローたちがなるべきなのだと。
それはお金をかけなくてもできること。ただおせっかいをやく。他人を気遣う。そういう「想い」があれば、やれることはいくらでもあるのだと。


私の提案は、日本がこの国に存在する最後の銃弾一発を放棄して完全丸腰となることです。人類史上最大のギャンブルと言っていいほど無謀な賭けです。
 失敗すれば日本国の存亡に関わります。でも日本がこの星からなくなれば人類は遠からず全滅します。座してその時を待つのも悪くはありませんが、もっと愉しいのは「七人の侍」のように誰かのために討ち死にすることです。
」(p.155)

これまでと同じことをしていたのでは、いずれ戦争によって人類は滅亡する。その観点からすれば、無謀ではあっても丸腰になることで、新たな方向性を示すことが役立つと言うのですね。
日本に与えられた使命は、そういうことなのかもしれません。けれどもそれには、多大な勇気が必要です。あるいは、私たちの本質は魂であるという実感を共有することか。

お勧めしている「神との対話」では、高度に進化した種族は、もし襲われたなら肉体を脱ぎ捨てて去るだけだとありました。つまり、殺そうとする者があるなら、好きなようにさせるということです。なぜそれができるのか? 肉体は自分が創造したものだから、また創造できる、つまり何も失うものがないとわかっているから。
いずれはそこまで進化するとしても、今の段階でそれを実行に移すのは、本当に勇気がいることだと思います。でも、もしその勇気を持てたら・・・。気持ちいいでしょうね。だって、完全に自由なのですから。


結論を先に申し上げると、新たな国連組織を日本の手でつくるということです。その役割は国連を穏やかな場に復活させることです。したがって、活動の中心は喧嘩の仲裁です。そのために腕力は絶対に使いません。あくまでも冷静に穏やかに話し合いで解決します。
 組織の名前はUNSO(United Nations Spiritual Organization 国際連合スピリチュアル機構)スピリチュアル=心の世界、心と心、魂と魂で語り合うことができれば、どのような争いも穏やかに鎮めることができるという極めてナイーブな発想です。
」(p.162)

以前、敵対する相手とも酒を酌み交わして語り合えばわかり合える、と主張した若者たちがいましたね。だったら北朝鮮や中国へ行って日本に敵対しないように説得して来いよ! などと批判されました。
理想はそうかもしれませんが、現実的には難しいということなのでしょう。萩原さんは、現地の祭りを活用して、一緒にお祭りをすることで休戦し、心を通わせることができると言います。理想はそうでも現実的には・・・という感はあります。

萩原さんは、この国連組織を作るのに1兆円必要だと試算します。そしてその費用を、世界のお金持ちに出させるのだと。そういう計画のもとに、活動されているようです。


結局、定年後ヒーローも在日宇宙人も徒党を組んだり、定期的な集まりがあるわけでもありません。会則のようなものもなしです。それぞれがそれぞれの場でそれぞれの裁量を遺憾なく発揮していただき、内なる平安、家庭の平安、職場の平安、地域の平安、国の平安、地球の平安、宇宙の平安を目指そうというわけです。
 もし定年後、やることがなくなってしまって、悶々とした日々を送っているのであれば、世の中の「平安」のために少しの汗をかくって悪くないです。
」(p.175)

大きなことを目指さなくてもいいんですね。まずは身の回りのこと。その小さなことの積み重ねが、積もり積もって大きなことへつながっていく。大学という書物にある「修身斉家治国平天下」の考えですね。
地域のごみ拾いをする。それでもいいのです。できれば、仲間を誘ってみたりする。そうやってコミュニティーを作っていくことですね。


読者の中には、定年後ヒーローや在日宇宙人が何か奇想天外な方法で宇宙平安を目指すものと期待していたかもしれませんね。ご期待に添えず申し訳ありません。でもこれ以上の方法は実はないのです。地球丸ごと静かな革命を起こすきっかけづくりは、定年後ヒーローと在日宇宙人にまずはお任せしましょう。」(p.179)

メシア(キリスト)やウルトラマンが、地球を救ってくれるのではないのです。私たち一人ひとりの小さな変革が、地球を救うのですね。
私がやっているYoutube動画配信など「幸せ実践塾」の活動も、ある意味で同じことだなぁと思いました。こんなことに何の意味があるのか? そう思われるような小さなことですが、気づきを誘発することを目的として、細々と活動を続けています。


たしかに、ある意味では期待外れの本です。理想は素晴らしいし、日本が特殊なのだということもわかります。けれども、現実的に世界平和を実現する方法論としては、説得力が乏しいように感じます。
しかし、最後に書かれていたように、そういうものかもしれませんね。もし本当に絶対に上手くいくすごい方法があるなら、とっくに誰かがやっていることでしょう。だってみんな、平和な世界を求めているはずですから。

それでも世界がいまだにこうなのは、やはり一人ひとりの中に原因があると考えざるを得ません。そこに気づいていないだけで。
それはもちろん私自身もそうです。まだまだ気づくべきことがある。その思いを忘れてしまったら、傲慢になって、進化成長が停滞するでしょう。
だからこそ、お互いに気づきを与え合うことが重要なのだと思います。その方法には、いろいろあると思いますが、要は関わり合うことです。関わり合わなければ、つまり出会わなければ、気付きという贈り物を与えることも受け取ることもできないのですから。
改めて、そんなことを考えさせてもらった本でした。

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タグ:萩原孝一
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2022年07月26日

脱藩



これはTwitterか何かの投稿を見て、興味を覚えて買った本です。
幕末の歴史には興味があったし、坂本龍馬という人物への関心もありました。その龍馬が、なぜ脱藩という決断をしたのか。そのことを、龍馬の足跡を追いながら、小説として表現した本になっています。

藩の中に留まっていたら、自由に行動できない。だから脱藩した。だいたいそのように説明されますが、しかし脱藩するということは、家族親族にも大きな影響がある重罪です。どのことを考えてみると、そう簡単に決断できることではないとわかります。
龍馬がどういう影響を誰から受けて、あるいは何から受けて、脱藩しようと決断するに至ったのか。脱藩からわずか5年で暗殺された龍馬ですが、その間に大政奉還という大きな事を成し遂げたとも言えます。脱藩したからこそできたこと。本当にそうなのか?

本書は、龍馬の脱藩に至る思いを知りたくて、その足跡を訪ねながら大城戸圭一(おおきど・けいいち)氏が書き起こした「幡龍飛騰(ばんりゅうひとう)」を原作に、山田徹(やまだ・てつ)氏が読みやすく小説化したものになります。


ではさっそく一部を引用しながら、内容を紹介しましょう。と言ってもこれは小説ですから、あまりネタバレにならないように、控えめに引用します。

この物語は大城戸圭一(愛媛龍馬の会前会長)が二〇一二年に愛媛新聞サービスセンター刊で上梓した「幡龍飛騰(ばんりゅうひとう)」を原作とし、新たに加筆したものである。大城戸圭一の龍馬への深い尊崇の念と綿密な調査に基づき登場人物は実名であり、可能な限りの史実を辿るが、そこに刻まれない空白の溝を仮説・創作で埋めたものである。」(p.3)

すでに紹介したように、冒頭にこのように書かれています。


市に向かう人々や荷車を押した商人、それに百姓らが道筋を往来して忙しい。この街路市には百姓らも店を開くことが許され、古くから続く南国の生活の風景が龍馬の心を癒す。
「こういう平穏な日々こそが大事ながや」
」(p.20)

藩からの密命と、勤王党党首の武市半平太から密書を預かった龍馬は、萩の久坂玄瑞に会うために土佐を旅立ちます。その時、龍馬はこうつぶやいた。作者の山田氏は、この思いこそが龍馬の根底にあると考えたのでしょうね。


日本中の藩の多くで論が割れていた。この伊予の各藩でも藩論を一致させるために奔走している者たちと話し合った。長い幕藩体制の疲弊を感じつつも、徳川への忠誠の思いも篤い。いや、それはそうでもあるべきなのだ。しかし時代はそうもいかぬ。そうもいかぬが「人の和にしかず」は龍馬に与えられた命題でもある。」(p.152-153)

何か事を起こすには、天の時、地の利、人の和が大事だと言われます、中でも人の和が大事だと、龍馬はそう感じていたのかもしれません。
西欧諸国がこぞってアジアを植民地化していた時代。もし日本国内でまとまることができなければ、容易に植民地化されてしまう。その危機感が龍馬にはあったのではないか。だから、徹底して争いを避けようとしたのだと。


「坂本よ。お前はどうしたいのじゃ」
「わしは、この国の形を変えるなどは考えちょりません。いや変えるのはえいでしょうけんど、それだけでも藩論が割れ、妙な結社ばあ出来て、それが喧嘩の原因になっちょります。結局が血で血を洗うような抗争が起きちょります。それよりもずっと未来を見んと、政治が変わったち民の苦しさはなんちゃあ変わりませんき」
「ほう、それで」
「はい。それでとにかく船を買うて、造船技術を磨いて世界に売り込めるばあの船を作れるようにします。ほんで世界を相手に商売をしますき。いまは競ってよその国の物を買うて、日本のそう多うない富を西洋に取られちよります。なんぼ殖産興業をしたち、それを売りに行く船が無いと話にならんがです。ほんで人も運んで金を取るがです。海運、海事。日本は世界に誇る海洋国家ですき。そうすれば海軍も強う出来ます。海軍は武士のような者らでは出来ません。海軍は商売をします。それを貿易と言いますき」
「では、国はどうする」
「この国は、優秀な者らがどっさりおります。いまはあちこちで喧嘩ばあしゆうけんど、わしはこれらを仲良うさせて一つになってくれいうて頼みます。ほんで彼らに任せていたらえいでしょう」
「お前はその時どうしたいのじゃ」
「船に乗りますき。船で世界中を回って来ます。世界はまだ見んものがどっさりありますろ。それをこの国に持ち帰って女や子供たちにも見せちゃりたいと思うちょります」
」(p.179-180)

実際にあったかどうかはわかりませんが、宇和島藩の伊達宗城(だて・むねなり)と龍馬との会話です。大政奉還を成し終えた後、龍馬は政権に入ろうとはせず、世界の海援隊になると言った話は知られています。そのことからして、こういう会話があったのかもしれませんね。


お前ら三人に頼みがある。よう聞け。龍馬と児島と土居じゃ」
 児島と土居は、膝を直した。
「はい。なんなりとお申し付けください」
 児島が明瞭な声で答えた。
「ええか、お前ら三人は藩を出ろ」
「と言いますと」
 児島が低い声で訊き返した。
「脱藩せよ」
 宗城は冗談で言っているのではなかった。
」(p.192-193)

開明的な伊達宗城は、自藩の有能な下級武士の2人に対して、藩命で脱藩をさせたのではないか。そこに龍馬も連なっていたのではないか。
あくまでも仮説ですが、その後の動きを見ると、そう考えることもできるということですね。


それは結社に入ること、つまり藩の形式論と結社の思想は、合致する時は良いが、ひとたび論が割れると凄まじいことが起きる。自由が無く、その組織の論理の前に身動きが取れなくなる。
 脱藩をすれば、勤王党にも距離が置ける。いやなにも距離を置きたいという事でもないのだが、組織には組織の掟と、異論を許さないほどの激しい思想がある。誰かの思想や組織の理論に立ちすくむならば、少しも目的へは向かえまい。
」(p.216)

土佐勤王党に入った龍馬は、勤王党という結社に束縛されることを嫌ったとも考えられます。尊皇攘夷に反するなら誅殺される。そういう不自由さが、龍馬には受け入れられなかったのかもしれません。


安政六年十月、安政の大獄によって松陰は刑死した。龍馬は知る限り松陰の最後について考えた。松陰に斬首刑を言い渡した井伊直弼が敗れたのではなかったか。辞世は

 身はたとひ武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし大和魂

 これだ。これを発するため流刑ではなく斬首になるべく、いわずもがなの間部(まなべ)要撃策を自白した。それは老中首座間部詮房(まなべあきふさ)に条約破棄と攘夷を迫り、拒まれれば討ち取る、という策であり実行には至っていなかったものだ。
」(p.263-264)

吉田松陰は、その思いを残る志士たちに伝え、奮起させるために、あえて刑死の道を選んだのではないか。たしかに、そうかもしれませんね。


龍馬は、この岡本三右衛門との日々で、遂に最後の決心をした。
「これは間違いなく、藩を出て取り組むのだ。この岡本さんの考えはこれまでの誰よりも正鵠を射ておって面白い。わしは、どうあっても脱藩する。いや脱藩せにゃあいかん」
」(p.296)

瀬戸内海の海運によって富を築いた岡本は、日本を改革する若者を支援することで、自分の人生を有意義なものにしたいと思っていたのでしょうね。龍馬はその支援を受けて、脱藩を決意した。つまり、自分の人生のすべてを、将来の日本のために捧げる決意をしたのです。


実際にそうだったのか。それはわかりません。これからまた新たな事実が出てきたら、歴史は書き換えられるかもしれませんから。

しかし、幕末において倒幕でなければならないという考え方と、公武合体による佐幕と、どれほどの違いがあったのか疑問に思うことがあります。そこは、西洋列強の脅威を、どれほど感じていたかの違いなのかもしれませんね。

私は、考え方が違う相手であっても受け入れて、仲間にして、みんなで日本を豊かにしていこうという龍馬の考え方が好きです。
でも、そうでない考え方の多くの人たちも、この国を何とかしようとして立ち上がったのだと思います。だから、そういう「思い」そのものには、リスペクトしています。

今、ウクライナ戦争が起こり、コロナ騒動があり、世界はまた未曾有の激変の時代になったとも言えます。過去の歴史を振り返りながら、今、自分はどう生きるのか? 改めて考え直したいなぁと思います。
それにしても、今、平和で豊かな生活環境が与えられている日本は、龍馬のような先人たちが活躍してくれたお陰だなぁと思います。本当に、ありがたいことです。

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posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 12:21 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年07月27日

自分を好きになれない君へ



私の大学(広島大学)の後輩でもある野口嘉則(のぐち・よしのり)さんが、また新しい本を出版されたと言うので、予約して買いました。野口さんの本なら間違いありませんからね。
まあ、野口さんの方がはるかに活躍されているので、私の方が先輩なんだぁというところでしか優越感を満たせないので、そう言ってみただけです。実際は、キャンパスで出会ったこともありません。出会っておけば良かったなぁ〜とは思うんですがね。(笑)


それはさておき、この本は、精神的に苦しんでいる若者向けに、野口さんのメソッドをピンポイントでわかりやすく解説したものになっています。
なぜそうなのかという理屈もわかりやすいし、どうすれば良いのかという実践の手引きもわかりやすく書かれています。9月1日は学生や生徒の自殺が多いということを踏まえて、それまでに1人でも多くの必要とする人に届けばいいなぁと思っています。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

お悩みはさまざま多岐にわたりますが、その内容を丁寧に解きほぐしていくと、一つの根本的な原因に突き当たるケースが多いことに気づきます。
 その根本的な原因とは、「自分を好きになれない」ということです。
 多くの人が抱えている悩みや問題の多くが、自分を好きになれないことから生じているのです。逆に言えば、自分を好きになっていくことによって、多くの人の悩みや問題は解決に向かっていきます。
」(p.3)

カウンセラーとして多くの人の悩みを聞く中で、要は「自分を好きになれない」ことから派生している悩みがほとんどだと気づかれたのだそうです。


野口さん自身、対人恐怖症として過ごした高校から大学1年までの4年間があったそうです。その中でもがき苦しんだ中で、書物から哲学や心理学などを学び、実践することで克服してきた。この経験が今の野口さんを支えています。

私は、頑張っているときの自分も頑張れないときの自分も、結果を出したときの自分も結果を出せないときの自分も、どんな自分をも受け入れて愛せるようになっていきました。そして自分に自信を持てるようになり、人間関係も心から楽しめるようになったのです。」(p.6-7)

そんな野口さんが、若者向けにわかりやすく、かつ実践しやすく解説したのが本書になります。


なぜ、自分との関係が最も重要なのかというと、主な理由は2つあります。
 1つは、最も長い時間を一緒に過ごす相手が自分自身だからです。
」(p.15)

続いて、自分との関係がもっとも重要である理由の2つめは、自分との関係が他のすべての人間関係のひな型になるからです。」(p.16)

このように野口さんは言って、まず自分との関係を良くしましょう、それが大前提ですと言うのです。
自分との関係を良くするとは、すなわち自分を好きになることですよね。

実は私、自己卑下することはあっても、自己嫌悪に陥ったことがありません。内向的で自信もなかったし、目上の人に違う意見を述べようとすればチック症状が出たりもしましたが、なぜか自己嫌悪だけはしなかったのです。
この辺のことは野口さんの本には書かれていませんが、おそらく対人恐怖症になるようなレベルではなかったということなのだろうと思っています。


自己受容ができると、人は自己肯定感が高まります。
 自己肯定感とは、どのような自分にも価値があるという、無条件に自分を受け入れる感覚です。
 調子の良いときの自分、周囲に認められている自分だけではありません。落ち込んでいるときの自分、不安を感じているときの自分、結果を出せないときの自分、どんな状態であっても自分には価値があるのだと感じられる。自分が自分であることの確かな感覚です。

 自己肯定感は自己受容によって育ちます。自己受容のポイントは、自分が感じていることを自分で受容することです。
」(p.32-33)

まず重要なのは、「自己受容」することですね。その結果として「自己肯定感」が生じるのだ、ということです。
この順番も重要だし、この違いも重要なのです。「できる」自分だけを肯定するのではなく、「できない」自分も受け入れる。それが自己受容なのです。

ちょっと紛らわしいのですが、自己肯定感は、自己肯定ではなく自己受容によって育まれます。
 自分の良いところを一生懸命に見つけて「だから自分は素晴らしい」と肯定しようとするのが自己肯定です。
 それに対して、自己受容は、自分には良い悪いの判断をくださず、どんなときの自分をも「これが自分なんだ」と受け入れることです。そしてこの自己受容によって自己肯定感が育つのです。
」(p.38)

ダメな自分をダメなままに、「それでいいよ」と受け入れる。それが自己受容であり、もっとも重要なことです。

私はこれまで、「根拠のある自信」はもろく崩れやすいが、「根拠のない自信」なら崩れないから、「根拠のない自信」を持つべきだと言ってきました。「根拠のある自信」とは、野口さんの言うところの、自己肯定によって得られる自信ですね。一方の「根拠のない自信」とは、自己受容によって得られる自信だと思います。


自己受容できるようになると、どんなことが起こるのでしょうか。

 まず、他人に対して優しさを持てるようになります。
 自分を受け入れることができる人ほど、他人を受け入れることもできるからです。
 つまり自己受容と他者受容は正比例するのです。
」(p.41)

まず自分を愛せよ! と言うことですね。自分すら愛せないなら、他人を愛することはできないのです。


doingやhavingを肯定することは、「条件付きの肯定」だからです。
 努力しているから、自分は素晴らしい。美人で才能に恵まれているから、素晴らしい。こんなふうに条件付きで自分を肯定している限り、条件を満たさない場面では、自分を受け入れることができなくなってしまいます。その結果、条件を満たすことに駆り立てられる人生になってしまうのです。
 それに対してbeingを肯定することは、ありのままを受け入れることです。
 持っているものをすべてなくしてしまったとしても、これまで取り組んできたことに挫折してしまったとしても、自分の価値に何ら変わりはありません。
」(p.48-49)

よく使われる「Doing(行為)」「Having(所有)」「Being(存在)」という3つのワードでの説明ですが、愛が無条件であるなら、行為や所有に限定されることはありません。だって無条件ですから。ただ存在していると言うだけで、最高の価値があると認めている。それが「愛」なのです。


子どもは自分がネガティブな感情を感じたり、失敗したり、傷つくことを受け入れられなくなってしまいます。
 親を安心させられる自分でなければ価値がない。
 失敗や挫折をするような自分では価値がない。
 無意識のうちに、そう思い込んでしまって、ありのままの自分を受け入れられない。自己受容することができず、自己肯定感が低くなってしまうのです。
」(p.62)

わが子が失敗する姿、痛い目に遭う姿、傷つく姿も見守ってあげる。受け入れてあげる。そのことによって、子どもの自己肯定感は育ちます。」(p.62)

過保護や過干渉というのは、「失敗してはいけない」というメッセージになるのですね。本当は、失敗や挫折を通じて成長するのですが、それを許さないのですから、成長を阻害することになってしまう。そのことに気づいていない親が多いのです。
落ち込んだなら、「落ち込んでいるんだね」と受容してあげること。今はそれでいいと受け入れること。それが本当の親のあり方だと思います。

子どもに対して過保護・過干渉になってしまう親は、子ども時代、自分自身が過保護・過干渉な親に育てられていることが多いのです。」(p.63)

ある意味で「遺伝」のような現象ですが、心理学的にはこういうことがあります。DV被害を受けた親は、子にDVをしてしまいがちです。過食や拒食も、子に伝わることがよくあります。心理的な遺伝なのです。


このように、もっとも重要なのは「自己受容」だと野口さんは言います。
では、その「自己受容」をするにはどうすればいいのか? そのアプローチに3つあると言います。それが「マインドフルネス」「禁止令を解く」「安全基地を作る」になります。

ここから、それぞれについて詳細に説明されています。どうすればそれができるのかも、本書で語られています。


まずは「マインドフルネス」からです。

私たちは、感情や思考などの内面にあるものは、自分の力でコントロールできると考えがちです。でも実際は、意識すればするほど、コントロールできず、余計に混乱してしまうということになりがちです。
 自分の中に沸き起こってくる感情や思考に良い悪いの判断をくだして「これは悪い思考だ」「考えてはいけない」と思うほど、その思考に囚われてしまい、そのことばかり考えてしまう。かえって思考や感情の存在感を高めてしまう。
」(p.86)

たとえば、「カレーライスのことを考えないでください」と言われると、ついついカレーライスのことを考えてしまう。これが人間の脳の特徴です。
ですから、「これは嫌だ」ということに気持ちを集中してしまうと、それを考えてしまうことになるのです。

ではどうすればいいのか? その答えが「マインドフルネス」だと言います。つまり、心に浮かんだことを浮かんだままに観察することです。
方法はいろいろあります。瞑想の中のヴィパッサナー瞑想というのも1つの方法ですね。本書にも、いくつかの方法があります。


次に「禁止令を解く」ことです。禁止令と言うのは、してはならないという自分への命令です。特に、感情を感じてはならないという命令が、大きな影響があると野口さんは言います。

相手が自分の思いどおりにならないとき、こちらの期待に反する行動をしたときも同じです。
 そんなとき、私たちの心の中に最初に湧いてくる感情は「がっかり」「残念」「不安」といった感情だと思います。
 けれども十分に自己受容できていない段階では、そうした感情は自分自身が受け入れることができません。そこで怒りという攻撃的な第二感情にすり替えて表に出すのです。
」(p.110)

心理学的には「怒り」は「第二感情」であり、「第一感情」を感じようとせずに抑圧するために生じる感情だと言われています。
そのことがわかれば、怒りっぽい人は「禁止令が強い」人だとわかります。何らかの「第一感情」を抑圧しているために、「怒り」が噴出してしまうのです。


禁止令は他にもあります。「子どもであるな」「重要であるな」「生存するな」などなど。
こういう禁止令は、多くの場合、親から否定されることによって生じます。親が「もうお兄ちゃんなんだから」と言ってありのままを否定すると、ありのままの「子ども」であることが許されないと感じ、「子どもであるな」という禁止令として心の底に植えつけられることがあるのです。

そのままの自分で否定されるくらいなら、自分で禁止してしまえば、人から傷つけられなくて済みます。受容されなかったために、自分自身がつくり出したルールが禁止令なのです。」(p.118)

禁止令を解くには、許可証を出すのがいいとされています。
 心理学では、禁止令のことをストッパー、許可証のことをアロワーといいます。禁止令に縛られていた自分に対して、許可を与えるメッセージをたくさん出してあげるといいのです。
」(p.119)

無意識に「○○するな」という禁止令を出していたのですから、今度は意識的に「○○してもいいよ」という許可証を出すのですね。
アファメーションとも言えますが、自己洗脳とも言えるかと思います。無意識の自己をコントロールすることは難しいのですが、意識的なアプローチが、少しずつ無意識の自己に浸透していくことはあると思います。


最後、3つ目は「安全基地を作る」ということです。これは、自分を侵害してくる他者との境界をしっかりと作り、それ以上は侵害させないように抵抗することで、ここから内側は安全なのだという確固たる認識に至るということです。

人生、思いどおりにならないこともあるけれども、基本的に何とかなるものだ。世界は基本的に安全なところだから、何があっても大丈夫。そんな感覚を基本的安心感といいます。」(p.133)

では、基本的安心感というのは何によってできているのでしょうか。
 それは自分の心の中の安全基地がどのくらいしっかりと丈夫にできているかどうかによって決まります。
」(p.134)

心の中にしっかりした安全基地が確立されていると、基本的な安心感を持って行きていくことができます。そして、基本的な安心感が育つほど、私たちは、失敗を怖れすぎることなく、何かに果敢にチャレンジしたり、好奇心を持ってさまざまなことにトライしてみたり、他人の目を気にしすぎることなく、自分の気持ちや考えを表現したりすることができるようになります。」(p.134-135)

強固な安全基地があれば、失敗を怖れないし、他人の目を気にせず、自分らしく生きられるのですね。


心の安全基地を強化するためには、まず他者との間にしっかりした境界線を持つことです。」(p.136)

自分がいやだと思うことに対して率直に「ノー」と言うことで、自分にとって受け入れられるもの、受け入れられないものの間に境界線を引くことができます。それは自分と他者との間に境界線を引くことでもあります。」(p.137)

自我というのは、他者との区別によって明確になります。そもそも人はそれぞれ違うし、違っていていいのです。それを受け入れて、違いを認めること。それが境界線になるのですね。


成長するにつれて、自分と自分を取り囲む世界の間に境界線を引くことによって、世界を客観的に見られるようになります。親との間にも境界線を引いて、親は親、自分は自分という健全な距離を持つようになります。
 けれども、たとえば幼いころに親の機嫌をとらなければならなかったり、親の期待に応えるために頑張ってきた人は、自分と親との間に明確な境界線を引くことがうまくできていません。
」(p.138)

これは多かれ少なかれ、ほとんどの人に当てはまるでしょう。私もそうでした。
親離れ、子離れという言葉があるように、それはしっかりとした境界線を引くことなのです。


境界線が弱い人は、自分の外に正解を求めてしまいがちです。けれども世の中には、絶対的な正解があるわけではありません。人の数だけ正解があるのです。
 自分にとって何が正解か、それは自分で決めればいい。
 みんな違うのがあたり前なのです。
」(p.151)

絶対的な正しさがあると信じて、自分の正しさで他人を裁く人は大勢いますね。そういう人もまた、境界線が弱いのでしょう。

実際、日本には「ノー」を言いづらい文化があると思います。日本文化は察する文化、ともいわれます。多くの人が相手の気持を察するべきであるという思い込みを共有しているのです。「忖度」「空気を読む」という言葉が使われるのも、この表れでしょう。はっきりと言わなくても、相手に察してもらって、自分の望むとおりに動いてほしいと考える人が多い。
 これは、まさに境界線の弱い人に特有の、甘えの心理です。
」(p.154-155)

悪く言えば「甘え」であり、精神的に「幼い」のです。


あなたは存在しているだけで、周囲の人にたくさんの幸せを与えてきたのです。
 そして、あなたがいま生きているということがこの世界への最大の贈り物です。あなたの存在そのものがかけがえのない贈り物です。そのことを思い出していただきたいと思います。
」(p.187)

今、悩んでいる若者に対する野口さんのメッセージです。


私も、別のアプローチではありますが、野口さんと同じようなことを言い続けてきました。
人はそれぞれ違うのだから、それを受け入れよう。そうすれば、自分らしく生きることができる。何かをやらなくても、何かを持たなくても、ただいるだけで最高の価値がある。なぜなら、人はそれぞれ違うのだから。自分でなければ経験できない人生がある。その経験のために生まれてきたのであり、だから生まれてきたというだけで価値があるのだと。

野口さんのメッセージが、一人でも多くの悩める若者に届いて、幸せになってもらえるといいなぁと思います。

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タグ:野口嘉則
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