これはTwitterで誰かが絶賛しておられたので、それで興味を持って買った本です。
たいへん読みごたえのある、素晴らしい内容でした。そして、著者の
松浦大悟(まつうら・だいご)さんの生きる姿勢、政治家としての考え方に、とても共感しました。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「
さて、この本ではLGBTを切り口に、差別とは何か? 人権とは何か? 正義とは何か? 公正とは何か? 寛容とは何か? 保守とは何か? リベラルとは何か? を考えていきたいと思います。これまでほとんど語られることのなかったLGBT論です。」(p.5)
「まえがき」でこう語られているように、哲学的な論考や多くの人の発言、あるいは表現を引用しながら、松浦さんの考えが示されています。
松浦さんは、かなり頭の良い方だと思われます。それだけに、表現がやや難解に感じられる部分が多々ありますが、示されていることは筋が通ったものだと思いました。
「
翻って、今回、杉田議員に面会を申し込んだLGBT団体はあったでしょうか? 友/敵図式でただただ攻撃しても問題の解決にはなりません。本当の意味でのLGBTの理解へとつなげていくためには対話こそ必要なのだということを、私はこのあとさまざまなメディアを通して訴えていくことになります。」(p.20)
杉田水脈議員の「生産性」問題に関してです。「新潮45」に載った記事で、LGBTは生産性がないのに行政的に支援し過ぎているというような内容でした。この表現が問題視され、激しくバッシングされましたね。
私もネットでそのことを知り、SNS上で杉田議員の発言を批判しました。ただしそれは、その発言が差別だからではなく、論理的に矛盾しているという点を指摘したものです。生産性がないから支援しないという論理だと、子どもを生まない、または産めない異性カップルは支援しない対象になってしまうからです。
私は、すぐに杉田議員が訂正されると思っていたのですが、そうはなりませんでした。結局、ただ叩いて黙らせただけで終わってしまい、本質的な議論へと進まなかったことを残念に思っていました。
「
中島氏が念頭に置いて書いているのは超国家主義や共産主義のことですが、私には近年のLGBT運動のことを言っているように感じられました。異論を許さず、自分たちこそが真理を知っているのだと急進的に現実の変革を実行しようとする彼ら。しかし、そうした企てはすべて失敗することは歴史が証明しています。保守思想家の中島氏は、政治は永遠の微調整でなければならないと言います。他者との価値の葛藤に堪えながら、一つひとつ合意形成を積み重ねていくことが重要だと。LGBTはまだまだ新しい概念です。日本の差別発言のほとんどは、情報を知らないことによる失言です。だからこそ、粘り強い対話が必要なのです。」(p.24)
私も共産主義思想に反対の立場ですが、それはいわゆる共産主義が全体主義であり、強制的な強権志向であり、反自由主義だからです。左だろうと右だろうと関係ありません。他人を強制して自分(たち)に従わせよう、そのためには暴力さえ是認する、そういう考え方に反対しているのです。
では、そうでないやり方をするとすればどうするのか? その問いへの答えが、この松浦さんの言葉にあります。粘り強い対話によって、他人が変わるのを待つことです。その間には、自分自身も影響を受けて変化することもあるでしょう。そうやって影響を与え、受けながら、少しずつ変わっていく。そのやり方以外に、平和的な変革などないと思います。
「
地方に住む多くの高齢者はLGBTという新しい概念に戸惑っています》と綴った真意を尋ねられ、私はこうこたえました。
「あまりにバッシングが激し過ぎると、人は心を閉ざしてしまい、対話のシャッターも閉じられてしまう。やっぱり分かってもらわないといけないわけだから、何とか対話の糸口を見つけていこうとすべきだ」
「特別なことを言っているわけではなくて、多くの人の気持ち、特に地方の高齢者の声を代弁しているんだろうな、と素直に思った。地方のおじいちゃん、おばあちゃんは世の中の動きが速すぎてついていけない。グローバル化で都会は街が変わり、外国人もどんどん増えていく。そうした中で、自分が今まで培ってきた価値観が壊されるような不安を感じていて、LGBTに関しても警戒感を持っている。」(p.26-27)
松浦さんは杉田議員の発言を、地方の高齢者の思いを代弁しただけだ、と捉えられたようです。これは、私が思いもつかなかった視点でした。
たしかに、そういう一面はあると思います。目の前の変化が、ただ不安なのです。これまでの安定した生活が突き崩されてしまうような恐れがあるのです。そこに寄り添うという視点。私にはなかったなぁと反省しました。
「
《性的少数者のことも、それに拒否感を持つ人のことも理解し、ゆっくりと世論を変えていくべきです。生活を共にして、時間をかけて対話を重ね、「相手が困っているのなら助けたい」と思えることが、心からの理解です。保守はリベラルに、リベラルは保守に、共感してもらえる言葉をどう見つけていくか。互いの言葉を翻訳できる、新しい立ち位置の人が出てくることを期待したいです》」(p.38)
朝日新聞のインタビューに、松浦さんはこう答えられています。
「
二階堂記者は「普遍的な価値」という言葉を使いますが、後期ロールズが転向を宣言したように、普遍主義はただの欧州ローカルルールにすぎません。正義は一つではなく、それぞれの陣営にそれぞれの正義があるだけ。そうしたポストモダン状況において、自分たちの価値観をぶつけ合っても意味はない。お互いが傷つけあわずに生き延びるためには、共感可能性をいかに広げていくかが重要なのです。」(p.39)
朝日新聞のインタビュー記事に関して、同じ朝日新聞の左派、二階堂友紀記者が雑誌「世界」で松浦さんを攻撃してきたそうです。それに対して松浦さんは、差別者を許さないとするなら、国外退去でもさせるのか? と問いかけます。
そんなことは不可能です。単なる「違い」を責め、粛清を繰り返してきた共産主義者と同じこと。内ゲバでどれだけ多くの人が殺されてきたか。
だから私も、松浦さんの考えに賛同します。辛抱強く対話を重ね、説得するというよりも変化を待つのです。
「
リベラルの人たちの最大の勘違いは、自分たちが信じる「正義」を理論的に説明すれば相手は納得してくれると思っているところです。しかしそれは、あまりにも牧歌的な考えです。なぜなら正義の反対は悪ではなく、もう一つの正義だからです。」(p.53)
正義は人の数だけあります。だから、自分の正義を振りかざし、相手を恫喝し、時によっては暴力を振るうという権威主義的なやり方では、真の平和はなし得ないのです。
「
無論、世の中から差別がなくなったわけではありません。私も地元の国会議員に「同性愛者のあなたは秋田の代表としてふさわしくない。選挙の候補者を降りるべきだ」との旨を真顔で言われたときには一人枕を濡らしました。それゆえに差別解消に向けて尽力したい気持ちは人並み以上です。でも、だからこそ、はき違えた正義についてはLGBT当事者自身が声を上げていかなくてはならないと思うのです。」(p.60)
何かというとすぐに「差別だ!」と叫んで他人を糾弾する。こういうやり方には、私も辟易としています。
松浦さんは、マイノリティが疎外感を感じてしまう現実があることは受け入れながらも、だからと言って相手を糾弾するやり方には反対します。それでは真の解放にはならないと思われているからです。
「
ゲイは男性的性欲に従い、レズビアンは愛するパートナーとの安定した関係を持ちたがる。ゲイ男性同士は男女のカップルよりも性交合意のハードルが低いので数が増えるのは自然なのだ、と。そして三浦氏は、これは偏見でも差別でも暴言でもないと説きます。「男の性欲は、貶めたり隠したりすべきものではなく、コントロールすべきものです。生物学的デフォルトの性差を直視しない社会は、科学をないがしろにする社会」だと諭すのです。
私は小川氏との対談で、このような刹那的な生き方にふたをするための同性婚の必要性を訴えたのでした。制度があることによって人は自らを律していく。結婚制度に同性愛者を組み入れることで、ゲイは「新しい生活様式」を見いだすことができるし、国家はさらなる安定性を担保することができる。コロナ危機の国難において、保守派にとっての重要な視座だと私は思います。」(p.64-65)
ゲイの性交渉人数の平均が500人だとする米国心理学者の推定があるそうですが、欲望のままにフリーセックスをしている現実があるということですね。それをコントロールするために結婚制度を利用すべきだというのが、松浦さんの主張のようです。
これについては私は同意しません。むしろ、結婚制度そのものが、もっと緩やかなものになっていくべきだと思っているし、最終的にはなくなってもよいと思っていますから。
松浦さんは、結婚制度によって自らを律することになると言われますが、そうでしょうか? むしろ結婚制度によって他人の目を気にする、つまり他者からの価値観の押しつけを増進するだけのように思います。自律とは、自分の意思で自らを律することです。結婚制度があろうとなかろうと、自らによって律することができないなら、それは自律とは言えないでしょう。
ただ現実にはまだ結婚制度があります。それが異性間にだけ認められているものだから、それを押し広げて、同性間に認めてもよいのではないか。私はそう思っています。
「
私が見たハッテン場は福祉の現場でもありました。歌舞伎町にはシングルマザーのための託児所つきのキャバクラがあります。本来なら国や自治体がやらなければならない福祉の役割を風俗業が担っているのです。それと同じようにハッテン場は、社会からはじき出された若者や親族のいない孤独なゲイ老人の受け皿になっている可能性がある。」(p.68)
「ハッテン場」というのは、ゲイの出会いの場であり、フリーセックスの場でもあるようです。そして、お金がなくてもそこへ行けば、自分の身体を提供することで寝泊まりすることもできる。たしかに、そういう福祉的な一面もあるのでしょうね。
けれども、そういう人たちが必ずしも弱者ではないと松浦さんは言います。耳が不自由な、つまり障害を持った人でも若くて性的魅力が高ければ、性愛市場では強者になるからです。
「
貧困だから弱者、障害者だから弱者、歳をとっているから弱者というのは一面的な見方に過ぎません。人はある場面では弱者であっても、他の場面では強者だということがあり得るのです。権力は複雑に交差しているということをハッテン場は教えてくれます。」(p.68-69)
一方的な見方で弱者だと決めつけ、弱者だから助けなければと考えていると、思わぬ落とし穴にハマることもあるのです。
「
LGBT運動は自分たちを「一級市民」として認めてほしいと訴えてきたけれども、権利が向上すれば社会の成員としての義務も生じます。それは、これまで性的マイノリティゆえに「お目こぼし」されてきたゲイ・カルチャーが「法の外」として通用しなくなることを意味します。
たとえば衆人環視の中で男女が偶然を装って性的な行為に及ぶハプニングバーは、しばしば「公然わいせつほう助」として摘発されていますが、ほぼ同じ理由でハッテン場の経営者が捕まるケースも出てきています。」(p.69)
現在の風営法では異性間の性風俗店しか登録できないため、ハッテン場は風俗店登録ができません。風俗店でもないのにわいせつな行為をおこなわせているから、取り締まられることになっている。法の矛盾があるようです。
「
性的マイノリティを表明する国会議員がやるべきことはLGBT活動家と一緒になって聞こえのよいスローガンをお題目として叫ぶことではないはずです。不人気になることを覚悟のうえで現行制度とどう折り合いをつけていくかを考えるべきです。なぜなら、社会のチューニング(微調整)こそが国政の役割だからです。」(p.70)
マイノリティということで顧みられず、法の矛盾があるままに捨て置かれている。そこを解決するのが、政治家の役割だと言われるのですね。
たとえば献血の規定も、ゲイはHIV感染リスクが高いということで、6か月以内に男性同士の性的接触があると献血できないそうです。しかし、現在の検査技術は、性交渉後2ヶ月経過すればHIV抗体の検出が可能とのこと。実際アメリカは、この禁止期間を3ヶ月に緩和したそうです。
そういうことに注目し、制度を変えていく。それが政治家の役割です。そうすることによって、社会貢献の機会を増やし、ゲイであっても社会に役立てるようになるのですから。
「
私は同性婚には賛成です。ただし、立憲民主党や一部の憲法学者が主張しているような解釈改憲での導入には反対です。真の立憲主義の観点から正々堂々と憲法を改正し、日本社会に住む私たち自らが同性婚を選択したのだという「国民の記憶」を残すことが大切だと考えるからです。」(p.73)
憲法解釈によって同性婚を認めれば、政権が変わればひっくり返される可能性もあります。
憲法とは時の政権を縛るもの。だから、国民の総意として同性婚を憲法に盛り込む必要があると松浦さんは言います。
「
濱野氏はインタビューで「動物性愛は、医学的には精神疾患として分類されていますが、最近ではLGBTのような『性的指向』の一つだとする生化学者の意見もあります」と話しています。これは同性愛者がたどってきた歴史を彷彿とさせます。WHOが同性愛者を精神疾患の分類から外したのは1970年のこと。性同一性障害を外すのは2022年からです。そう考えると、誰にも迷惑をかけない「純粋な愛」であるズーフィリアも、いずれ精神疾患から分離される日が来てもおかしくありません。」(p.84)
人間同士の異性愛しか認めない考えを、LGBTは崩そうとしています。しかし、それが崩れるということは、それ以外の性愛形態も、なし崩し的に認めざるを得なくなってくる可能性はあるのです。
性愛対象が動物(ペット)だったり、二次元(アニメ)だったりする。さらには複数だったりもする。それも「性的指向」として、社会が受け入れられるのかという問題は、いずれ出てくるのです。
「
哲学者の菅野稔人氏は、アメリカでは同性婚合憲化以降、重婚も認めてほしいとの要求が出てきたことを報告しています(『リベラリズムの終わり − その限界と未来』)。アメリカにはモルモン原理主義者を中心に一夫多妻生活を実践している人たちが約3万〜4万人おり、その中から真剣に結婚の自由を訴える世代が登場し始めているのです。菅野氏は「他人に危害が及ばない限り社会は各人の自由に干渉してはならない」というリベラリズムの原理を突き詰めれば、同性婚だけ認めて本人の自由意志のもとでなされる一夫多妻婚や一妻多夫婚、近親婚を容認しないことはできないと断言します。」(p.85-86)
そういうことになりますね。松浦さんは、近親婚が先天異常の子どもが生まれることを理由に禁止され得るなら、高齢出産も禁止されなければ辻褄が合わないと言います。まさにそうですね。
私は、ここに書かれているように、自由であるべきだと思いますよ。そして、そこまで自由を突き詰めるなら、結婚制度そのものが廃止されるべきだとも思います。どういう相手とパートナーシップを結ぼうと、その人の自由であり、他人や社会が規制する必要がないと思うからです。
ただし、急激にそうなるべきとは思いません。それこそ松浦さんが言うように、対話を重ねながら少しずつ人々の考えが変わっていくのに任せるべきだと思うのです。
「
LGBT活動家は自分たちを被害者の側に固定化し、「社会が悪い」「制度が悪い」と拳を上げてきました。けれど同性婚が法制化されれば家族や周りの人たちが同性同士の結婚を認めるようになるかというと、そんな簡単な問題じゃない。制度が幸せをもたらすわけではないからです。「同性婚制度がないので相方の葬式に出席させてもらえなかった」「同性婚制度がないのでICUに入れてもらえなかった」という声がよく聞かれます。しかし、そうなる前にどうして家族とコミュニケーションをとってこなかったのかという問題については、いつも不問に付されるのです。」(p.94)
権利を主張すれば、何でも思い通りになるわけではありません。いくら異性結婚をしていても、相手の両親が認めてなければ、同様のことは起こり得るでしょう。そこで「パートナーだから」と権利を振りかざして強行突破しても、後にしこりが残るだけだと思います。
もちろん、法的にパートナーシップを認められることで、容易にできることは多々あります。どちらも大切だということですね。
「
同性婚が成立してもその利用者がどれくらいいるかは未知数です。同性婚の法制化を求めるのはあくまでも「法の下の平等」とか「公正」といった観点からであって、いざ蓋を開けてみれば使い勝手のいい同性パートナーシップ制度のほうがよかったという結果になるかもしれません。」(p.98)
前にも言ったように、私は法的な結婚制度を廃止した方が良いと考えています。それよりも、もっと緩やかなパートナーシップ制度だけにすれば良いと。
そうすれば、どんな相手とパートナーシップを結ぼうとその人の自由です。家族に養育の義務を押しつけるのはやめるべきだし、遺産相続もパートナーシップと親子間にすればいいし、あるいはもっと簡便な遺言制度にして、遺言がなければ没収でもいいかと。
できるだけ本人の自由意志が認められるべきだし、認知症などで自由意志を表明できなくなった時の処置について、法的保護がなされれば良いと思います。
「
いまフィクトセクシュアルといわれるアニメのキャラクターしか愛せない若者が増えています。彼らの性的指向は生身の人間ではなく二次元キャラに向いているのです。」(p.101)
かつてLGBTも「性的嗜好」とされ、わざわざ好んでそうしていると思われていました。だから、制限されても当然とみなされていたのです。しかし、性同一性障害が認められることで、LGBTも性的嗜好から性的指向へと見方が変わったという歴史があります。
それにも関わらず、フィクトセクシュアルは性的嗜好だと、LGBT団体が蔑んでいる実態があるそうです。
「
もし、リバタリアンたちが推奨する結婚民営化が実現すれば、フィクトセクシュアルの人たちはさっさとLGBTを見限り、自分たちで承認組織を作ればいい。LGBTは差別される存在であると同時に、差別をする存在でもある。これもメディアが伝えないファクトです。」(p.102)
リバタリアンの提案は、結婚の認定を政府が行わずに、民間の公的機関が行えばよいというものです。政府は、それらの民間機関が認定したことを受けて、パートナーシップを認定すればいいのだと。
そうであれば、アニメキャラを愛するのも、ペット(動物)を愛するのも、複数人を愛するのも、同じように扱えますね。
なおリバタリアンとは、個人的な自由と経済的な自由を最も重視する政治思想を持つ人々のことだそうです。私と親和性がありそうですね。
次も、リバタリアンのアイデアだそうです。
「
憲法24条そのものを削除せよという提案です。批評家の東浩紀氏はゲンロン憲法委員会を作り、2012年に「新日本国憲法ゲンロン草案」を発表しました。その中には婚姻および両性の平等を規定している条文は入っていません。その理由は、婚姻という極めて私的な関係を、国民から国家へ与える制約である憲法に記述することは適切でないと考えたからだそうです。」(p.102)
私もそう思います。憲法は、国民が国家権力を制限するためのものですから。国民が規制されるようなことは、憲法に書く必要がないのです。
台湾は、アジアでいち早く同性婚を実現した国です。トランスジェンダーの閣僚、オードリー・タン氏は、民法改正によらず特別法として成立させた同性婚に胸を張ります。
「
しかし、その後、私たちは知恵を出し合って、問題の解決を実現しました。たとえば、同性婚を望むカップルがいた場合、婚姻の平等を保障するために個人同士の結婚は認めることにする一方、家族同士に姻戚関係は生じないことにする方法が生み出されました。これであれば、社会にとっても受け入れやすいのではないかと考えたのです。」(p.103-104)
「
古き良き伝統を尊重しながら、穏やかに社会を変えていく強かさ。これぞアジア型同性婚と呼ぶに相応しいものだと思います。」(p.104)
伝統を重視する保守的な考え方にも一理あるのです。それを無視して対立構造を深めるなら、どちらかが傷つくことになるでしょう。
「
母国で合法的に性別変更している彼らをペニスがついているという理由だけで女湯から排除すれば、日本は差別大国だと告発され国際問題なることは間違いありません。今から対処しておくべき課題だと思いますが、このような問題群について敏感にアンテナを働かせている国会議員は見当たりません(診断書なしで自己申告だけで性別変更できる国はノルウェー、デンマーク、マルタ、コロンビア、アルゼンチン、スウェーデン、ポルトガル、アイルランドなど)。」(p.118−119)
本人の性自認だけで、公式に性を変えられる国が多数ある。このことが非常に驚きでした。
パスポートに「女」となっているのにペニスがある。こういう人を日本は、「女」として受け入れるのでしょうか? 大きな問題ですが、たしかに議論すらされていませんね。
「
ブラジル最高裁は2019年1月、LGBT差別は犯罪であるとみなす判断を下しましたが、国民の憎悪はいっこうに治まらないのです。だから彼らを保護するための激しい権利獲得運動が必要となっている。けれども日本はそうではありません。女性たちはトランスジェンダーを嫌悪しているわけではない。洋服などの自己表現は自由にやってもらって構わない。ただし、女湯や女子スポーツへの参入だけはちょっと考えていただけませんかという要求なのです。そのことをどうかわかってほしい。お互いがお互いを思いやり、この場面ではトランスジェンダーが譲り、あの場面では生得的女性が譲るという「お互い様」の気持ちが必要なのだと私は思います。」(p.128−129)
性自認だけのトランス女性が、女湯に入る問題もありますが、女子競技に参加して好成績を残すというのも、大きな問題ですね。
また、障害者が器具を使うことで好記録を残すという問題もありました。そうするのが正しいのかは一概に言えませんが、そこに問題があると認識すること、その上で、双方が歩み寄る努力が必要なのだろうと思います。
「
LGBT活動家による「アウティング反対!」の大合唱のもと、暴露した学生のほうが悪者だと一方的にラベリング(レッテル貼り)されてしまいましたが、それはあまりにも短絡的な人間理解だと私は思います。遺族との裁判では和解が成立しており、口外禁止条項が設けられているため、これ以上の情報がオープンにされることはありません。だが、この事件からは多くの学びを得ることができます。
アウティング禁止条例はLGBTへのまなざしを決定的に変える恐れがあります。LGBTから告白されたら誰にも相談してはならないとすれば、そんなリスクのある人にいったい誰が近寄るというのでしょう。「頼むから私にはカミングアウトしないでくれ」と思うのが自然ではないでしょうか。」(p.139)
自分がLGBTであることを告白する「カミングアウト」や、他人がそうだとバラす「アウティング」についても、様々な問題がありますね。「アウティング」を犯罪にしてしまうと、たしかにそういう関係を望まない人からすれば、負担を背負わせないでくれと言いたくなるでしょう。
「
はるな愛さんは、トランスジェンダー=”女になりたい人”と見られることが生きづらさにつながっていると述べました。もしそうだとしたら、無理に戸籍の書き換えを目指さなくてもトランスジェンダーがトランスジェンダーのままで生き生きと暮らせる社会の在り方を我々は模索すべきではないでしょうか。もちろんこれは、性同一性障害のように身体に何とも言えない違和を抱えている人たちの適合手術を阻むものではありません。ホルモン療法の保険適用の実現に水を差すものでもありません。これまで「差別だ!」と封じられてきた議論の中にも見るべきものがあるのではないかという提案なのです。」(p.174)
LGBTとひとくくりにはできないのです。それぞれにそれぞれの感性があるのです。
そうであれば、男女のどちらかであるべきだというのがおかしいとするなら、そうでなければLGBTであるべきというのもおかしい。それぞれ違っていてそれでいい。そうなっていくべきではないかと思います。
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たとえば日本で同性婚の法律ができたとしても、恋愛格差の解消にはつながりません。自己肯定感を持つことのできないLGBTの若者はさらに増えるかもしれません。そこに承認の問題が絡んでいる場合はなおさらです。どうすれば若者の自己肯定感を上げていくことができるのか。そのためには子育てや教育の問題なども含めた幅広い対策が必要だと感じました。」(p.191)
自己肯定感が低いと、自分を安売りしてしまう。それはLGBTに限らず、ノーマル(異性愛者)であっても同じことです。
ただそれがゲイだと、HIV感染のリスクを高めるという問題として表面化しやすいのです。けれどもそれは、単に1つのリスクに過ぎず、自己肯定感が乏しいことによって生じる様々な問題をあからさまにしているだけのように思います。
「
そこには共同体の特別な思いの反映があるのだ、と。同性婚を導入することで連綿と紡がれてきた共同体の核の部分が壊されてしまうのではないか? こうした保守派の不安を払拭する議論は、残念ながらリベラル側からは出てきません。私は改憲によって同性婚を導入すべきという立場ですが、保守派の心配を無視していいとは考えません。もう一方の当事者からはそれは暴力のように見えていることもリベラル派には想像してほしいのです。保守派が納得できる言葉を紡いでいかなければ分断は加速するだけです。」(p.220)
これは選択的夫婦別姓制度の導入にも言えることだと思いました。反対論者の論理は「伝統だ」とか「家族関係が壊れる」など、まったく的を射ていないものばかり。でも、そういう理屈にならない理屈を持ち出してまで反対するのは、これまでの社会が変わってしまうことへの漠然とした不安(恐れ)があるからでしょう。
私は、「隣に別姓夫婦がいても困ることはない」「実際、別姓夫婦は存在している」と主張して、その不安が杞憂であることを説明しています。しかし、それでも不安は容易には捨て去ることができないようです。根拠のない不安ですから、時間がかかるのだろうと思います。
「
異性愛者が真実を知りたいと思う気持ちは差別なのでしょうか。否。情報をオープンにし、腹を割って国民全体でとことん考えることが必要なのではないか。トランスジェンダーの問題を当事者だけで囲い込むのではなく、どうしたらいいか皆で知恵を出し合うこと。内へ内へと閉じるのではなく、外へ外へと開かれていくことが大切だと思うのです。ゲイで映画評論家のおすぎとピーコさんは先鋭化が著しい最近のLGBT運動に対し、「LGBTは認めさせるものではない」と苦言を呈します。マジョリティは性的マイノリティを思いやり、性的マイノリティはマジョリティを思いやる気持ちが大事であり、落としどころを探っていかなくてはならない。お互いが少しずつ譲り合いながら暮らしていける社会をつくっていくことが必要です。」(p.233-234)
等身大の真実の姿を見せず、きれいな部分だけを見せて、権利を獲得しようとする戦略に対する批判です。多くの国民はLGBTのことをよく知らない。知らないから不安なのです。不安だから否定してしまうのですね。
それを攻撃(差別)と捉えて、声高に「差別だ!」と主張しても、それは対立を先鋭化させるだけ。すべてをさらけ出して、「これが私たちなんです」と見せて、その上で全体としてどうやって共存できるかを模索する。そういう対話が必要だと松浦さんは言います。
「
「相手を問わず性欲を抱く男性的性欲」を唾棄すべきものとし、「どれだけセクシーでも好きじゃない相手には興奮しないという女性的性欲」こそ素晴らしいという女性性欲絶対主義・純愛主義を映画の善悪判断に持ち込むなというのです。LGBT活動家はフェミニズムに影響を受けている人も多い。女性的性欲を善とし男性的性欲を悪とするのはその弊害でしょう。けれどもゲイにとって男性的性欲は否定されてしかるべきものなのでしょうか。私はそうは思いません。ゲイも男性ですから異性愛者の男性と同じくらい性欲はありますし、性的な視線を異性愛者の男性に向けることもあります。もちろん法に触れるようなことをすれば犯罪ですが、ゲイの性欲そのものは悪ではない。ゲイのセックスを自虐的に蔑む若いLGBT活動家が増えていることに危惧を覚えています。それは生まれてきた自分を否定することと同じであり、自由・解放とは真逆のベクトルだからです。」(p.241)
LGBTとひとくくりにされますが、ゲイとレズでは性欲の質も量も大きく異なります。それは単に「違い」であって、善悪という価値観で決めつけるべきものではないと私も思います。
「
「モデルのように痩せている女性は魅力的、シンメトリーな顔の女性は美しいというのはステレオタイプ。男性目線で順位づけすることは差別である。画一的な美はコマーシャリズムによって刷り込まれたものだと気づこう。これからのミスコンは内面も含めた多様性を重視すべき」との批判は、相対化のためには必要だったのかもしれません。しかしだからといって、男性にモテるための美容やファッションに人生をかけている女性を全否定することはおかしい。アイドルなど美醜のジャッジがあるからこそ成り立つ職業はたくさんあります。強制されたものでない限り、女性たちの自己決定権は尊重されるべきなのです。既存のミスコンが気に入らないのであれば、自分たちで別の大会を開く方法だってあります。」(p.243)
私も、美醜を比較すること、判断することそのものを否定するような、ミスコン禁止という考え方には反対です。やりたい人はやればいいし、やりたくない人はやらなければいい。それぞれの自由だと思いますから。
こういうところにも、「絶対的な正しさ」があるとして、画一化均質化を渇望する自由に反するものを感じます。
「
野党の国会議員やLGBT活動家は問題を矮小化し、「同性婚が施行されてもあなたの生活には一切影響ない」といいますが、そんなことはありません。同性婚はここまでの広がりを持つ政治課題であり、天皇家の在り方を雛形とした全国各地の文化やお祭り・伝統にも影響を与えることは想像に難くない。だからこそ私は、国民みんなで決める憲法改正での同性婚を訴えているのです。」(p.272)
同性婚が認められると、天皇家だけ別というわけにはいかないだろうと松浦さんは言います。そしてそれは皇位継承にも影響するし、女性天皇や女系天皇をどうするかという議論にも影響します。
そうであればこそ、国民全体にまで議論の輪が広がる必要がある。そう松浦さんは考えているのですね。
「
日本においてLGBT政策の不備はたくさんあると思いますが、一番の問題は国家による承認がいまだなされていないことだと思います。当事者の中には、小学校や中学校でいじめられて育ち、自己肯定感を持てない人もいる。だからこそ、国が自らの生き方を認めてくれたという安心感が欲しいのです。子どもは敏感ですから、違いを嗅ぎ取ります。そのような環境で毎日の学校生活を送ることは、大変なストレスを生じさせます。私自身も過去に経験があるのでわかりますが、いじめを気にして生きてきた抑うつ感は、大人になってからも消えることはありません。国家が「LGBTは国民の一員であり、我々の仲間だ」と宣言し、その存在を丸ごと承認すれば、格段に生きやすい社会になるはずです。」(p.281)
現に存在しているのに、あたかも存在していないかのように扱われる。そのことによる自己肯定感の低さが、LGBTの人たちを苦しめているというのですね。
「違い」は単に「違い」です。「違い」があって当然だし、違っていても同じ仲間だ。そうみんなが思えたら、良い社会になるでしょうね。
本書ではLGBTの問題に関して、急進的な左翼活動家のLGBT解放運動のやり方に疑問を呈しつつ、様々な問題に言及しています。その一つひとつに新たな視点を提供してくれていて、私もいろいろと考えさせられました。
そして、このことから私は、これはLGBTだけの問題ではなく、障害者など様々なマイノリティの問題でもあるし、もっと言えば一人ひとりの「違い」に関する問題でもあると思いました。
読み応えのある質の高い内容です。松浦さんのような方には、ぜひ政治家として日本のために汗をかいて欲しいと思いました。