2022年05月02日

日本語が世界を平和にするこれだけの理由



何の縁でこの本を知ったのか忘れましたが、面白そうだったので買ってみました。著者は長年カナダで日本語教師をしておられた金谷武洋(かなや・たかひろ)さんです。

どうやら日本語の成り立ちが英語とはまったく違うという指摘だけでなく、そのことが世界平和に大きな影響を与えるという主張のようです。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

ところが本当は何から何まで正反対だということに私は気づいたのです。
 それを知ることで、大きなメリットが二つあります。
 一つ目は、「普段あまり気づかれていない日本語の秘密」を知っていただけたら、日本語本来の美しさを生かしたコミュニケーションができるようになることです。「日本語に秘められた大きな力」に気づき、役立てていただければ、これほどうれしいことはありません。
」(p.5-6)

もう一つのメリットは、私たちの母語である日本語が英語とどう違うのかをはっきり理解すれば、英語の習得におおいにプラスになることです。」(p.7)

このように本書を読むメリットを最初に語られています。述語が最初(主語の次)に来る英語に対して、最後に来る日本語、ということは知っていますが、それ以外にも違いが多々あるようです。
そして、このことを通じて、日本人が日本語のことを実はよくわかっていない、という指摘もされるそうです。


ひとことで言えば、日本語は共感の言葉、英語は自己主張と対立の言葉だというのが私の結論です。
 日本人は話し手と聞き手の共通点に注目し、英語を母語にする話者は両者の違いに注目すると言ってもいいでしょう。
」(p.24)

これが世界平和につながってくるポイントになります。それは、本書の最後で出てきます。
ここからは英語などの言語と日本語の違いを紐解いていくのですが、この結論を知った上で読むと、よりわかりやすいでしょう。


さて、お互いを見合うのではなく、心を通わせるために二人が同じ方向を見ようとすると、不思議なことが起きます。
 相手と並ぶことで相手が視界から消えてしまい、見えなくなるのです。
 もちろん、話し手は初めから自分だって見えません。日常表現を比べて気がついた「英語の文には人間が出てくるのに、日本語の文にはいない」ことの理由の一つはそのためと言っていいでしょう。
」(p.30)

たとえば日本語の「ありがとう」と英語の「Thank you」を比べると、日本語には人が出てこないのに英語には人(you)が出てきます。このことが示すように、日本語は相手と一緒に同じ方向を見ているので、視界に人が入らないから言葉にも人が出てこないのだと言うのですね。
これは面白い視点だなぁと思いました。たしかに、「ありがとう」は「有り難いことです」という状況を述べる言葉です。「Thank you.(あなたに感謝します)」とは意味合いが違いますね。


第一章では、あいさつなど日常表現を比べて「英語の文には人間が出てくるのに、日本語の文にはいない」という結論を出しました。そして第二章の人名と地名の比較からも、これとそっくりの結論になりました。つまり、言葉を話す場を、劇の舞台にたとえるなら、英語はそれを演じる役者、「人間に注目」するのに、日本人は人間よりもその周りの舞台や背景、つまり「場所に注目」するということです。もしそうなら、全く同じ状況を日本と英語では全く違った角度からとらえていると言えそうですね。」(p.54-55)

様々な状況証拠を積み重ねながら、人に注目する英語と、場所に注目する日本語という違いをあぶり出そうとしています。


つまり、日本語という言葉そのものの中に「自己主張にブレーキがかかるような仕組み」が潜んでいるのではないか、と私は予想しました。」(p.73)

アメリカ人などが自己主張が激しく、自分の意見をはっきりと言うのに対し、日本人はあまりはっきり言わずに言葉を濁したりします。こういう民族的な違いも、実は言語の違いから来ているのではないか、と推測されるのです。


ですから英仏語と比べて日本語で少ないのを「人間」とするのは言い過ぎでした。そうではなく、初めて、つまり新しい情報として人間を出すときには「花子さん」や「太郎君」を使ってもいいけれど、「一度登場した人についてもう一度何か言うときにはわざわざ「彼」や「彼女」と言う必要は日本語にはない、ということなんだと修正したのです。」(p.83)

たしかに私も中学生くらいのころ、「彼(he)」「彼女(she)」という言葉に違和感を感じたことがありました。それは恋人のことを表す言葉だったからです。
日本語の場合、省略することが多いです。むしろ省略する(本当は話さない)方が日本語らしい言い方なのです。どうしても言う時は、「あのこ」「あの人」みたいな表現はあります。しかし、それとわかる場面で「あの人の家」とか「あのこの声」みたいな所有格での表現は、滅多に使われませんね。


日本の大学でフランス語を学び始めたとき、私が一番驚いたのは「動詞活用」でした。逆に言えば、動詞活用があるために、「食べます」などという簡単な日本文が何とそのままでは仏訳できないのです。誰が食べるのかが、つまり主語が決まらない限り、動詞の形(これを活用と呼びます)が決まらず、文が作れないからです。主語が文に「必ずある」のはそのためです。」(p.89-90)

英語は、せいぜい「三単現のS」くらいですが、それでも活用があります。フランス語はもっと細かくあるようです。
重要なのは、主語に対する動詞の活用があるかどうか、という点です。動詞の活用がある限り、文に主語が必要になってしまうのです。
たしかにこれは面倒くさいですね。実際、フランス人でも間違えてしまうのだとか。もう笑い話ですね。

ちなみに私が知っているタイ語では、動詞活用はありません。それどころか、まったく活用(変化)がありません。なので、覚えてしまえばすぐに話せる。発音が難しいという点はあるものの、文法的には非常に簡単だと思います。


日本語の文にはほとんど「わたし」が表れないのも、やはりその理由は話し手の「視点」、あるいは「立ち位置」です。
 上空からではなくて地上の、自分に見えている状況の中に「わたし」はいます。すると、「わたし」は話し手に見えなくなります。写真にカメラマンの姿が写らないのと同じことですね。
 そう考えたら、文の中から「わたし」が姿を消すのはむしろ当然と言わねばなりません。道に迷った日本人が「私はどこにいるの?」ではなくて「ここはどこですか?」と言うのも、自分(=わたし)が見えないから、という説明が一番いいのではないでしょうか。
」(p.122-123)

英語の話者は、全体を俯瞰した上空から見ているのに対し、日本語の話者は、話者の視点から見ているということです。それが文に「わたし」が出てくるかこないかという違いになって現れている、ということです。

この着眼点は面白いなぁと思いました。たしかに英語では「Where am I?(私はどこにいるの?)」と言います。日本語では「ここは、どこ?」です。でも日本語でも、集合写真を見ながらなら「私はどこにいるの?」と尋ねたりします。
つまり、視点が違うのです。写真を見ている自分の視点から、写真に写っている「私」を探せば、「(写真に写っている)私はどこ?」と言えるのですね。

ここでは、川端康成の「雪国」の冒頭の文を英訳した例も書かれていました。日本人なら乗客の視点でイメージするのに、英語話者は上空からの視点で、列車がトンネルから出てきた様子をイメージするのだとか。なるほどそういう違いがあるのかと納得しました。


「主語がいらない」ことと並んで、学校で教えてくれないもう一つの大きな日本語の特徴が「主題」です。学校文法の情けないところは、日本語にとって非常に大切な「主題」の本当の役割を教えてくれないことです。これは近い将来とか来年とか言わずに、今年から直してほしいと思います。特に文科省の大臣を始め、お役人の皆さんにお願いします。この問題と真剣に取り組んで一日でも早く解決することを、私は「国策上の大事」と考えています。」(156)

日本語には主語が要らないと言われますが、主題があると金谷さんは言われます。この主題を正しく認識していないこと、日本語文法教育で正しく教えないことが、間違った日本語を普及させることにつながり、ひいてはそれが世界平和に貢献できない日本語話者にしてしまうという論理のようです。

三上文法のすばらしさは、主題が句読点(つまり「、」や「。」です)を越えることを発見したことにも表れています。つまり、一度話者が「りんごは、」と日の丸を立てると、その後に盆栽がいくつ並んでもいいということです。
 英語やフランス語にはこんな便利なものはありません。助詞の「は」は、日本語の「スーパーてにをは」なのです。
」(p.162)

ここで言う「盆栽」は「文」のことです。戦後の日本語文法では、「〜は、」の「は」は、主語を示すと教えていますが、主語ではなく主題だと言っているのですね。主題とは、「これから○○について話しますよ」という複数の文のテーマを示しているということです。
なので、「私は、」というのは、「私」が主語ではなく、「私」について語ろうとする主題なのだということです。たとえば、「私は、英語が話せます。」という文の「私」は主語ではなく、主題なのです。文としては、「話せます」だけで成り立っていて、主語を入れる必要がないのです。


つまり、本書で注目してきた「わたし」と「あなた」の共存が、ここでは「敵」と「味方」の共存という形をとっているということに思いついたのです。そう考えれば、敵はいつまでも敵ではなくなります。
 国境を越えて、広く地球という一つの星の上に共存する人類というところまで連帯の和を広げてゆくなら、戦争という異常な状況に敵もまた当事者、そして被害者として巻き込まれていたと考えられるからです。確かに戦争では、ほんのひと握りの人たちを除いて、敵も味方もほぼ全員が犠牲者と言えるのです。「正しい戦争」などというものはありません。
」(p.207)

広島の原爆の慰霊牌に「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませんから」とあるのですが、この主語は誰なのかという論争がありましたね。過ちを犯したのは、日本なのか、日本の政府なのか、はたまたアメリカなのか、ということです。そこをあいまいにしているのが日本語であり、それが世界平和につながるのではないか、という指摘ですね。

私も同じように沖縄の墓参に来ていたアメリが人たちの姿を見て、私は、広島と沖縄の慰霊碑には共通する思想があることに気がつきました。それは、国や言葉はちがっても、結局我々は繋がっている、という「共存、共視の思想」であって、その「共視」の思想は日本語そのものに根っこがあるのだ、ということです。それがこの本でお伝えしたかった日本語の「共視」の思想です。」(p.209-210)

沖縄の慰霊碑には、亡くなられた日本人の名前だけでなく、戦って命を落としたアメリカ兵の名前も彫られているそうです。敵と味方を厳然と分けるのではなく、一緒に悲惨な体験をしたよね、という見方。それが日本語的な考え方なのですね。

今度の敵はイスラム原理主義です。テロを是とするイスラム過激派を容認はできませんが、私にはアメリカの「正義病」も同様に恐ろしいのです。その両者が不毛な殺し合いを続けています。実に愚かなことだと言わざるをえません。
 その意味では、今こそ、日本の出番なのです。日本的な共存、共生の思想は大袈裟でなく、地球を救える力を持っているのですから。その力の源泉が日本語であることこそ、本書が明らかにしようとしてきたことなのです。
」(p.212)

911後のテロとの戦いも、どっちが「正義」かという争いをやっています。アメリカにはアメリカの正義がありますが、相手には相手の正義があるのです。そこに気づかなければ、世界平和は実現しないのではないでしょうか。私はそう思います。


私は、ヨーコが、たとえ長年アメリカに住んではいても、日本語を話す日本人だったことがその大きな力の源泉だったように思えるのです。それは「日本語力」と言っていいものではないでしょうか。」(p.216)

ビートルズのジョン・レノンが、平和という考え方にシフトしたのは、オノ・ヨーコと結婚したことがきっかけになっているという見方ですね。そして、その核心的な要因は、日本語にあったと見られているようです。

その上で言いますが、日本語ほど、話者と聞き手を分離せず、進んで同じ地平に立って、できれば同じ袋に入ろうとする言葉は他にありません。その意味では、少なくとも私が学習して知っている10を越える言葉の中で、日本語は最も平和志向の、ロマンチックで幸せな、美しい言葉だと自信を持って言うことができます。」(p.223−224)

英語に代表される他動詞のSVO構文を基本とする言語の根本的な問題は、その構文が発想として「SとOの分離による二元論」、そして「S(主語)のO(目的語)に対する支配」へと繋がるということにあります。
 さらに、Sには「力」とともに「正義」がしばしば与えられてしまうのが一番危険なのです。英語を始め西洋の言語の話者が何か失敗をしてもあまり謝らないのはそのためでしょう。自分は力と正義が与えられるSの位置を常に保っていたいと思うからです。
」(p.224-225)

主語を明記しないと文法的に成り立たない言語は、「わたし」の正当性を主張しがちなのですね。そういう言葉を使っているから、そういう考え方が自然と身についてしまう。そういうことがあるのかもしれませんね。


日本語ブームと言われますが、世界でどれほど日本語が広まっているのか、私にはよくわかりません。金谷さんは、日本語を学んだ外国人が、ますます日本を好きになっているという事実から、これからも日本語が広まっていくと予想されています。
そこには、日本語は難しい言語ではなく、むしろ易しい言語なのだという見方があります。たしかに読み書きに関しては難しいのですが、会話は易しいという見方ですね。これは、私もそうかもしれないと認識を新たにしました。

さて、日本語が広まることが、本当に世界平和につながるでしょうか?
何とも言えませんが、可能性はあるなと、この本を読んで思うようになりました。

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タグ:金谷武洋
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2022年05月10日

ユダヤに学ぶ「変容の法則」



これも日本講演新聞に講演録が載っていたことで、興味を持って買った本だと思います。著者は赤塚高仁(あかつか・こうじ)さん。ヤマト・ユダヤ友好協会の会長をされています。

ユダヤと言うと、何となく陰謀論とかマネーパワーなどを連想してしまうのですが、赤塚さんは別の視点を持っておられました。
そしてそのきっかけが、師と仰ぐ糸川英夫博士との出会いにあったと言います。私も子どもの頃に憧れたロケット開発の分野で、ペンシルロケットの実験に成功された糸川博士。変わり者とされた博士が、晩年、生涯をかけて取り組まれたのが日本とユダヤ、つまりイスラエルとの関係を深めることだったのだそうです。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

世はバブル真っ盛りの頃でした。
 先生は私にこう言いました。

「土地も株も大会社も崩壊するでしょう。今日本は国が滅亡するかもしれない危機を迎えています。
 欧米に学び追従する時期はとうに過ぎました。イスラエル国こそ、今の日本民族にとってもっとも大切なメッセージを伝える国です。でも、誰もそんな声を聞こうとはしない。だから私は、たった一人でも日本のためにイスラエルとの橋渡しをしようと思っています。
 いつの日にか日本とイスラエルが手をつなぎ、大きな影響力を及ぼして世界を平安に導くことを確信しています」。
」(p.34)

世界平和を願う糸川博士は、その鍵が日本とイスラエルが手を取り合うことだと感じておられたようです。


キブツでの生活は、一般社会のように個人や家族が生活の単位ではなく、キブツメンバー全員が大家族として暮らしており、所有も生産も消費も、そして生活の一部も共同化されています。
 共同化されているというのは、衣食住を中心とした、生きていくのに必要なものには一切お金はかからないということです。病気をしても医療費は無料、子どもにかかる保育費や教育費もすべて無料なのです。
」(p.52)

実は「キブツ」とは人類の歴史上、唯一成功した社会主義の組織とも言えます。」(p.53)

社会主義の国々は信仰のない「神なき世界」です。
 一方のイスラエルはユダヤ教の国家です。
 信仰をもつ人々による平等の世界は、私たちの未来に一つの可能性を示すものなのかもしれません。
」(p.53)

そういえば「キブツ」という生活共同体があるということを、随分前に聞いたことがありました。これをモデルにしたのかどうかわかりませんが、そういうお金のかからない生活共同体のことを描いた小説もありましたね。
お勧めしている「神との対話」にもコミュニティの重要性が書かれていて、愛によってまとまったコミュニティなら、対価を支払わなくても生活のための物やサービスが得られるだろうなぁと思います。


ユダヤ人にとって、教育とは「神が与えてくれた、それぞれの役割を見出すこと」です。
 人と同じなら生まれてくる必要も意味もない。誰とも違うからこそ生まれ、そして、その役割を果たしてゆくことこそが「生きること」なのだと子どもたちに教えるのです。
」(p.56)

違うことが当たり前だという考えが、ユダヤ人の中には根付いているようですね。だから教育現場でも、生徒が他と違うことを言っても、教師はそれを否定しないのだそうです。
違っていていいし、違っているから存在意義がある。こういう考えは、とても素晴らしいと思います。

わからない授業を無理やり聞かせたり、関心のないことを無理に教え込んでも身につくことなどありません。
 それよりも、興味のあること、好奇心が湧くことに集中させて能力を伸ばしていけば、いつの間にかほかの分野での成長も促されるとユダヤ人たちは考えているようです。
」(p.58-59)

授業に関心がなく、勝手なことをしている生徒がいたら、日本だと教師が注意したり、叱責したり、罰を与えたりして矯正するのが普通です。けれどもイスラエルでは、その子の興味のあることを探して、それをさせるのだそうです。
そして、そういう特別扱いをされる子どもがいても、他の生徒たちは不満に思わないのだとか。それは、そもそも違っていて当然だという考えが、子どもたちの中にも根付いているからのようです。


日本が敗戦を迎えた6年後の1951年、「サンフランシスコ講和条約」によって日本は主権を回復しました。そして、その条約が発効した1952年、日本と最初に国交を樹立した国はなんとイスラエルだったのです。
 1952年7月1日、ベングリオンは当時の日本国民に向けて「ベングリオン書簡/友情のメッセージ」という談話を発表しています。
」(p.77)

これは初めて知ったことです。イスラエルから先に手を差し伸べてきていたのですね。
イスラエルはアジアの西端にあり、日本は東端にあります。アジアの両端の国が手を取り合って、アジアを世界平和の礎にしていく。そんな未来が、すでに見えていたのかもしれません。


また、「開拓の父」と呼ばれるヨセフ・トゥルンベルドールという人も日本と深い関係がありました。彼はロシア軍の一員として日露戦争に従軍し、日本軍の捕虜として大阪に収容されました。

1年間この収容所に暮らすうちに、トゥルンベルドールは、なぜ日本のような小さな島国があの強大なロシアに勝ったのか、その答えを見つけました。日本人は規律正しく勤勉で、互いに私欲を捨てて公のために協力する、愛国心の高い民族であったのです。」(p.81)

これがトゥルンベルドールのイスラエル復興運動、シオニズムの目覚めであり、彼は大阪の収容所から世界へと発信するようになってゆきます。そして、驚くべきことに、収容されていたユダヤ人がシオニズム運動の活動をすることを、日本人は許しているのです。
 トゥルンベルドールが日本人を尊敬したように、日本人もトゥルンベルドールを尊敬していたからでしょう。
」(p.82)

私の故郷、島根県でも、日露戦争で被害を受け、漂着したロシア兵を住民が温かく迎えたという歴史があります。敵兵であっても、助けを求める者には救いの手を差し伸べる。その人情味は日本人の根本にあるのです。

また、トゥルンベルドール記念館に保管されている彼の遺品の中には「新しく生まれるユダヤ国家は日本的な国家となるべきである」という言葉が記されています。
 トゥルンベルドールの開拓魂に日本人の精神が影響していることは、二つの民族を結ぶ尊い絆といえましょう。
」(p.83)

イスラエル建国の精神的支柱の1つに、日本人の心があった。日本とイスラエルは、最初から深い絆で結ばれていたのですね。


糸川博士は、次のようなことを言われたそうです。

地球上には人間が60億以上いるといわれますが、私は、人類は60億で一つの生き物だと考えています。
 一人ひとりが、人類という生き物の細胞の一つとして、大きな繋がりの中で生かされていることに気づくときに、人は命の意味を知るのでしょう。
 すなわち命とは、自分のために使うのではなく、人のために使うときにこそすべてがうまくゆくようです
」(p.89)

ワンネスの考え方つながるものを、糸川博士も感じておられたのでしょう。
たしかに私たちの細胞は、一つひとつが個々別々の存在のようでありながら、全体として1人の人間として存在しています。赤血球や白血球など見れば明らかですが、1つの細胞として独立しています。けれども、そこには人体の一部としての役割があるのです。
いくら赤血球が心臓の細胞になりたいと思っても、そうはいきません。そして、心臓の細胞より赤血球が劣るということもないのです。

このことを考える時、私はNHKの大河ドラマ「篤姫」の初回に、篤姫(幼名は於一)の母親が言ったセリフを思い出します。
「この世のものには全て役割があるのです。それは人とて同じこと。侍も、百姓も、人の命の重さに変わりはありませぬ。されど役割はおのずと変わります。田畑を耕し、国を支えるのが百姓なら、その百姓たちを命投げ打ってでも守るのが武家の役割。於一、武家のおなごはいざというときのために覚悟を決めておかねばなりませぬ。」

個々別々の存在と見える私たちが、全体としての生命を支えているのだと気づけば、違っていてもうらやまず、卑下することなく、自分として命を全うしようと思うのではないでしょうか。


本書ではここから、聖書を紐解いていきます。
旧約聖書はユダヤ教の経典であるので当然ですが、新約聖書にもユダヤ教が顧みなかった一面があると赤塚さんは考えます。つまり、ユダヤ人イエスという見方をするのです。
よく描かれるひょろっと痩せた白人の姿ではなく、大工として働いて鍛えられた筋骨隆々のアジア人としてのイエスです。

そして、赤塚さんの聖書解釈を読んで、私は昔の記憶が蘇りました。赤塚さんが実際に話を聞いたかどうかは別として、ここで書かれている内容は、統一教会の教えに類似しています。なので、かつてそこに入信していた私にとっては理解しやすいものでした。


イエスが伝えたことは、「あなたはあなたのままで大丈夫」というシンプルな真理でした。その愛は「信じれば救われる」という条件付きの宗教の世界には収まりません。
 信じる前に信じられていたという喜びは、宗教の遠く外側にありました。
」(p.249)

赤塚さんはイスラエルで、ペテロやイエスの霊と遭遇しているようです。それが事実かどうかはわかりませんが、そういう体験をされたということは確かなのでしょう。
そこで感じられたのが無条件の愛ということです。キリスト教では愛を説きますが、やっていることを見れば、それを忘れているように感じます。無条件の愛と言いながら、これをすれば救われ、しなければ救われないなどと、条件を付けているのですから。そして、宗教戦争で見せた残虐な行為の数々。とても愛を説く人々の姿勢とは思えません。


赤塚さんは、こういう体験を経て変わっていったと言います。

争うことはもともと好きではありませんでしたが、地位や名誉、名声を得るために競うことに関心がなくなりました。
 「目標」や「夢」を設定して、それを追いかける考えが消えてゆきました。
 聖者や悟り人に対する憧れがなくなり、「良い人」でいるふりもしなくてよくなりました。格好をつけなくても、そのままの自分で良いと思え、弱さや欠点をさらすことに抵抗がなくなりました。
 美しい物語に興味がなくなりました。
 不思議を詮索せず見えない世界の虜にならず、出来事や現象が「在る」ことを素直に認めると、良し悪しの判断が不要になりました。

 善悪のパターンが消えると、正義感も薄れて勧善懲悪が馬鹿らしくなりました。
 善人・悪人という決めつけより、それぞれの抱えている闇の深さが意識されるようになりました。
 「正しい・間違い」などはなく、どちらにも学べる智慧があると知りました。
 他者との比較や嫉妬心がなくなるのは本当に素晴らしいことで、とても楽になり、心が晴れます。
 すると、人をコントロールしようとする気持ちがなくなり、説得することもなくなりました。

 世界を変えようという気持ちもなくなりました。
 変えるべきは世界でなく、自分の心だけなのですから。
 他者や社会が自分をどう見るかが気にならなくなりました。
 自分は自分でいいのです。
」(p.249-251)

ちょっと長いのですが、とても重要な部分だと思うので引用しました。
まさにこういうことですね。ありのままでいいと思えるようになると、こういうことになるかと思います。


第3次世界対戦かと思えるほどの未曾有の時局にあって、誰か特別なリーダーが現れて人々を導くのではないのです。一人ひとりが、変容を促されています。
 その変容とは、「願う」ことから「願われている」ことを生きるというものです。
 では、「願われている」こととは何か。
 聖書には、その答えまでもが記されています。

 兄弟たちよ。あなたがたにお勧めする。

 怠惰なものを戒め、小心なものを励まし、弱いものを助け、
 すべての人に対して寛容でありなさい。

 いつも喜んでいなさい。
 絶えず祈りなさい。
 すべての事について、感謝しなさい。

 これが、キリスト・イエスにあって、
 神があなたがたに求めておられることである。
             (テサロニケ人への第一の手紙5-14)
」(p.265-266)

すべてがありのままで良いなら、誰に対しても寛容でいられるでしょう。すべてが良いのなら、いつも感謝していられるし、喜んでいられるでしょう。
このことからも、すべてがありのままで良いのだということを、神が示しているのではないかと思うのです。そして、そこに気づくようにと。その気づきこそが、求められている「変容」なのですね。


本のタイトルには「ユダヤに学ぶ」とありますが、必ずしもすべてを学ぶということではなさそうです。学ぶべき部分もあれば、頑なな彼らに気づかせてあげられる部分もある。そうであればこそ、互いが手を取り合うことに意義があるのかもしれませんね。

ユダヤと日本との関係を考えると、古くは同じ民族だったというような説もあります。その真偽はわかりませんが、現代だけを考えてみても深い関係があるなぁということを、この本は気づかせてくれました。

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タグ:赤塚高仁
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2022年05月20日

LGBTの不都合な真実



これはTwitterで誰かが絶賛しておられたので、それで興味を持って買った本です。
たいへん読みごたえのある、素晴らしい内容でした。そして、著者の松浦大悟(まつうら・だいご)さんの生きる姿勢、政治家としての考え方に、とても共感しました。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

さて、この本ではLGBTを切り口に、差別とは何か? 人権とは何か? 正義とは何か? 公正とは何か? 寛容とは何か? 保守とは何か? リベラルとは何か? を考えていきたいと思います。これまでほとんど語られることのなかったLGBT論です。」(p.5)

「まえがき」でこう語られているように、哲学的な論考や多くの人の発言、あるいは表現を引用しながら、松浦さんの考えが示されています。
松浦さんは、かなり頭の良い方だと思われます。それだけに、表現がやや難解に感じられる部分が多々ありますが、示されていることは筋が通ったものだと思いました。


翻って、今回、杉田議員に面会を申し込んだLGBT団体はあったでしょうか? 友/敵図式でただただ攻撃しても問題の解決にはなりません。本当の意味でのLGBTの理解へとつなげていくためには対話こそ必要なのだということを、私はこのあとさまざまなメディアを通して訴えていくことになります。」(p.20)

杉田水脈議員の「生産性」問題に関してです。「新潮45」に載った記事で、LGBTは生産性がないのに行政的に支援し過ぎているというような内容でした。この表現が問題視され、激しくバッシングされましたね。

私もネットでそのことを知り、SNS上で杉田議員の発言を批判しました。ただしそれは、その発言が差別だからではなく、論理的に矛盾しているという点を指摘したものです。生産性がないから支援しないという論理だと、子どもを生まない、または産めない異性カップルは支援しない対象になってしまうからです。
私は、すぐに杉田議員が訂正されると思っていたのですが、そうはなりませんでした。結局、ただ叩いて黙らせただけで終わってしまい、本質的な議論へと進まなかったことを残念に思っていました。


中島氏が念頭に置いて書いているのは超国家主義や共産主義のことですが、私には近年のLGBT運動のことを言っているように感じられました。異論を許さず、自分たちこそが真理を知っているのだと急進的に現実の変革を実行しようとする彼ら。しかし、そうした企てはすべて失敗することは歴史が証明しています。保守思想家の中島氏は、政治は永遠の微調整でなければならないと言います。他者との価値の葛藤に堪えながら、一つひとつ合意形成を積み重ねていくことが重要だと。LGBTはまだまだ新しい概念です。日本の差別発言のほとんどは、情報を知らないことによる失言です。だからこそ、粘り強い対話が必要なのです。」(p.24)

私も共産主義思想に反対の立場ですが、それはいわゆる共産主義が全体主義であり、強制的な強権志向であり、反自由主義だからです。左だろうと右だろうと関係ありません。他人を強制して自分(たち)に従わせよう、そのためには暴力さえ是認する、そういう考え方に反対しているのです。
では、そうでないやり方をするとすればどうするのか? その問いへの答えが、この松浦さんの言葉にあります。粘り強い対話によって、他人が変わるのを待つことです。その間には、自分自身も影響を受けて変化することもあるでしょう。そうやって影響を与え、受けながら、少しずつ変わっていく。そのやり方以外に、平和的な変革などないと思います。


地方に住む多くの高齢者はLGBTという新しい概念に戸惑っています》と綴った真意を尋ねられ、私はこうこたえました。
「あまりにバッシングが激し過ぎると、人は心を閉ざしてしまい、対話のシャッターも閉じられてしまう。やっぱり分かってもらわないといけないわけだから、何とか対話の糸口を見つけていこうとすべきだ」
「特別なことを言っているわけではなくて、多くの人の気持ち、特に地方の高齢者の声を代弁しているんだろうな、と素直に思った。地方のおじいちゃん、おばあちゃんは世の中の動きが速すぎてついていけない。グローバル化で都会は街が変わり、外国人もどんどん増えていく。そうした中で、自分が今まで培ってきた価値観が壊されるような不安を感じていて、LGBTに関しても警戒感を持っている。
」(p.26-27)

松浦さんは杉田議員の発言を、地方の高齢者の思いを代弁しただけだ、と捉えられたようです。これは、私が思いもつかなかった視点でした。
たしかに、そういう一面はあると思います。目の前の変化が、ただ不安なのです。これまでの安定した生活が突き崩されてしまうような恐れがあるのです。そこに寄り添うという視点。私にはなかったなぁと反省しました。

《性的少数者のことも、それに拒否感を持つ人のことも理解し、ゆっくりと世論を変えていくべきです。生活を共にして、時間をかけて対話を重ね、「相手が困っているのなら助けたい」と思えることが、心からの理解です。保守はリベラルに、リベラルは保守に、共感してもらえる言葉をどう見つけていくか。互いの言葉を翻訳できる、新しい立ち位置の人が出てくることを期待したいです》」(p.38)

朝日新聞のインタビューに、松浦さんはこう答えられています。

二階堂記者は「普遍的な価値」という言葉を使いますが、後期ロールズが転向を宣言したように、普遍主義はただの欧州ローカルルールにすぎません。正義は一つではなく、それぞれの陣営にそれぞれの正義があるだけ。そうしたポストモダン状況において、自分たちの価値観をぶつけ合っても意味はない。お互いが傷つけあわずに生き延びるためには、共感可能性をいかに広げていくかが重要なのです。」(p.39)

朝日新聞のインタビュー記事に関して、同じ朝日新聞の左派、二階堂友紀記者が雑誌「世界」で松浦さんを攻撃してきたそうです。それに対して松浦さんは、差別者を許さないとするなら、国外退去でもさせるのか? と問いかけます。
そんなことは不可能です。単なる「違い」を責め、粛清を繰り返してきた共産主義者と同じこと。内ゲバでどれだけ多くの人が殺されてきたか。
だから私も、松浦さんの考えに賛同します。辛抱強く対話を重ね、説得するというよりも変化を待つのです。

リベラルの人たちの最大の勘違いは、自分たちが信じる「正義」を理論的に説明すれば相手は納得してくれると思っているところです。しかしそれは、あまりにも牧歌的な考えです。なぜなら正義の反対は悪ではなく、もう一つの正義だからです。」(p.53)

正義は人の数だけあります。だから、自分の正義を振りかざし、相手を恫喝し、時によっては暴力を振るうという権威主義的なやり方では、真の平和はなし得ないのです。


無論、世の中から差別がなくなったわけではありません。私も地元の国会議員に「同性愛者のあなたは秋田の代表としてふさわしくない。選挙の候補者を降りるべきだ」との旨を真顔で言われたときには一人枕を濡らしました。それゆえに差別解消に向けて尽力したい気持ちは人並み以上です。でも、だからこそ、はき違えた正義についてはLGBT当事者自身が声を上げていかなくてはならないと思うのです。」(p.60)

何かというとすぐに「差別だ!」と叫んで他人を糾弾する。こういうやり方には、私も辟易としています。
松浦さんは、マイノリティが疎外感を感じてしまう現実があることは受け入れながらも、だからと言って相手を糾弾するやり方には反対します。それでは真の解放にはならないと思われているからです。


ゲイは男性的性欲に従い、レズビアンは愛するパートナーとの安定した関係を持ちたがる。ゲイ男性同士は男女のカップルよりも性交合意のハードルが低いので数が増えるのは自然なのだ、と。そして三浦氏は、これは偏見でも差別でも暴言でもないと説きます。「男の性欲は、貶めたり隠したりすべきものではなく、コントロールすべきものです。生物学的デフォルトの性差を直視しない社会は、科学をないがしろにする社会」だと諭すのです。
 私は小川氏との対談で、このような刹那的な生き方にふたをするための同性婚の必要性を訴えたのでした。制度があることによって人は自らを律していく。結婚制度に同性愛者を組み入れることで、ゲイは「新しい生活様式」を見いだすことができるし、国家はさらなる安定性を担保することができる。コロナ危機の国難において、保守派にとっての重要な視座だと私は思います。
」(p.64-65)

ゲイの性交渉人数の平均が500人だとする米国心理学者の推定があるそうですが、欲望のままにフリーセックスをしている現実があるということですね。それをコントロールするために結婚制度を利用すべきだというのが、松浦さんの主張のようです。

これについては私は同意しません。むしろ、結婚制度そのものが、もっと緩やかなものになっていくべきだと思っているし、最終的にはなくなってもよいと思っていますから。
松浦さんは、結婚制度によって自らを律することになると言われますが、そうでしょうか? むしろ結婚制度によって他人の目を気にする、つまり他者からの価値観の押しつけを増進するだけのように思います。自律とは、自分の意思で自らを律することです。結婚制度があろうとなかろうと、自らによって律することができないなら、それは自律とは言えないでしょう。
ただ現実にはまだ結婚制度があります。それが異性間にだけ認められているものだから、それを押し広げて、同性間に認めてもよいのではないか。私はそう思っています。


私が見たハッテン場は福祉の現場でもありました。歌舞伎町にはシングルマザーのための託児所つきのキャバクラがあります。本来なら国や自治体がやらなければならない福祉の役割を風俗業が担っているのです。それと同じようにハッテン場は、社会からはじき出された若者や親族のいない孤独なゲイ老人の受け皿になっている可能性がある。」(p.68)

「ハッテン場」というのは、ゲイの出会いの場であり、フリーセックスの場でもあるようです。そして、お金がなくてもそこへ行けば、自分の身体を提供することで寝泊まりすることもできる。たしかに、そういう福祉的な一面もあるのでしょうね。
けれども、そういう人たちが必ずしも弱者ではないと松浦さんは言います。耳が不自由な、つまり障害を持った人でも若くて性的魅力が高ければ、性愛市場では強者になるからです。

貧困だから弱者、障害者だから弱者、歳をとっているから弱者というのは一面的な見方に過ぎません。人はある場面では弱者であっても、他の場面では強者だということがあり得るのです。権力は複雑に交差しているということをハッテン場は教えてくれます。」(p.68-69)

一方的な見方で弱者だと決めつけ、弱者だから助けなければと考えていると、思わぬ落とし穴にハマることもあるのです。


LGBT運動は自分たちを「一級市民」として認めてほしいと訴えてきたけれども、権利が向上すれば社会の成員としての義務も生じます。それは、これまで性的マイノリティゆえに「お目こぼし」されてきたゲイ・カルチャーが「法の外」として通用しなくなることを意味します。
 たとえば衆人環視の中で男女が偶然を装って性的な行為に及ぶハプニングバーは、しばしば「公然わいせつほう助」として摘発されていますが、ほぼ同じ理由でハッテン場の経営者が捕まるケースも出てきています。
」(p.69)

現在の風営法では異性間の性風俗店しか登録できないため、ハッテン場は風俗店登録ができません。風俗店でもないのにわいせつな行為をおこなわせているから、取り締まられることになっている。法の矛盾があるようです。

性的マイノリティを表明する国会議員がやるべきことはLGBT活動家と一緒になって聞こえのよいスローガンをお題目として叫ぶことではないはずです。不人気になることを覚悟のうえで現行制度とどう折り合いをつけていくかを考えるべきです。なぜなら、社会のチューニング(微調整)こそが国政の役割だからです。」(p.70)

マイノリティということで顧みられず、法の矛盾があるままに捨て置かれている。そこを解決するのが、政治家の役割だと言われるのですね。

たとえば献血の規定も、ゲイはHIV感染リスクが高いということで、6か月以内に男性同士の性的接触があると献血できないそうです。しかし、現在の検査技術は、性交渉後2ヶ月経過すればHIV抗体の検出が可能とのこと。実際アメリカは、この禁止期間を3ヶ月に緩和したそうです。
そういうことに注目し、制度を変えていく。それが政治家の役割です。そうすることによって、社会貢献の機会を増やし、ゲイであっても社会に役立てるようになるのですから。


私は同性婚には賛成です。ただし、立憲民主党や一部の憲法学者が主張しているような解釈改憲での導入には反対です。真の立憲主義の観点から正々堂々と憲法を改正し、日本社会に住む私たち自らが同性婚を選択したのだという「国民の記憶」を残すことが大切だと考えるからです。」(p.73)

憲法解釈によって同性婚を認めれば、政権が変わればひっくり返される可能性もあります。
憲法とは時の政権を縛るもの。だから、国民の総意として同性婚を憲法に盛り込む必要があると松浦さんは言います。


濱野氏はインタビューで「動物性愛は、医学的には精神疾患として分類されていますが、最近ではLGBTのような『性的指向』の一つだとする生化学者の意見もあります」と話しています。これは同性愛者がたどってきた歴史を彷彿とさせます。WHOが同性愛者を精神疾患の分類から外したのは1970年のこと。性同一性障害を外すのは2022年からです。そう考えると、誰にも迷惑をかけない「純粋な愛」であるズーフィリアも、いずれ精神疾患から分離される日が来てもおかしくありません。」(p.84)

人間同士の異性愛しか認めない考えを、LGBTは崩そうとしています。しかし、それが崩れるということは、それ以外の性愛形態も、なし崩し的に認めざるを得なくなってくる可能性はあるのです。
性愛対象が動物(ペット)だったり、二次元(アニメ)だったりする。さらには複数だったりもする。それも「性的指向」として、社会が受け入れられるのかという問題は、いずれ出てくるのです。

哲学者の菅野稔人氏は、アメリカでは同性婚合憲化以降、重婚も認めてほしいとの要求が出てきたことを報告しています(『リベラリズムの終わり − その限界と未来』)。アメリカにはモルモン原理主義者を中心に一夫多妻生活を実践している人たちが約3万〜4万人おり、その中から真剣に結婚の自由を訴える世代が登場し始めているのです。菅野氏は「他人に危害が及ばない限り社会は各人の自由に干渉してはならない」というリベラリズムの原理を突き詰めれば、同性婚だけ認めて本人の自由意志のもとでなされる一夫多妻婚や一妻多夫婚、近親婚を容認しないことはできないと断言します。」(p.85-86)

そういうことになりますね。松浦さんは、近親婚が先天異常の子どもが生まれることを理由に禁止され得るなら、高齢出産も禁止されなければ辻褄が合わないと言います。まさにそうですね。

私は、ここに書かれているように、自由であるべきだと思いますよ。そして、そこまで自由を突き詰めるなら、結婚制度そのものが廃止されるべきだとも思います。どういう相手とパートナーシップを結ぼうと、その人の自由であり、他人や社会が規制する必要がないと思うからです。
ただし、急激にそうなるべきとは思いません。それこそ松浦さんが言うように、対話を重ねながら少しずつ人々の考えが変わっていくのに任せるべきだと思うのです。


LGBT活動家は自分たちを被害者の側に固定化し、「社会が悪い」「制度が悪い」と拳を上げてきました。けれど同性婚が法制化されれば家族や周りの人たちが同性同士の結婚を認めるようになるかというと、そんな簡単な問題じゃない。制度が幸せをもたらすわけではないからです。「同性婚制度がないので相方の葬式に出席させてもらえなかった」「同性婚制度がないのでICUに入れてもらえなかった」という声がよく聞かれます。しかし、そうなる前にどうして家族とコミュニケーションをとってこなかったのかという問題については、いつも不問に付されるのです。」(p.94)

権利を主張すれば、何でも思い通りになるわけではありません。いくら異性結婚をしていても、相手の両親が認めてなければ、同様のことは起こり得るでしょう。そこで「パートナーだから」と権利を振りかざして強行突破しても、後にしこりが残るだけだと思います。
もちろん、法的にパートナーシップを認められることで、容易にできることは多々あります。どちらも大切だということですね。


同性婚が成立してもその利用者がどれくらいいるかは未知数です。同性婚の法制化を求めるのはあくまでも「法の下の平等」とか「公正」といった観点からであって、いざ蓋を開けてみれば使い勝手のいい同性パートナーシップ制度のほうがよかったという結果になるかもしれません。」(p.98)

前にも言ったように、私は法的な結婚制度を廃止した方が良いと考えています。それよりも、もっと緩やかなパートナーシップ制度だけにすれば良いと。
そうすれば、どんな相手とパートナーシップを結ぼうとその人の自由です。家族に養育の義務を押しつけるのはやめるべきだし、遺産相続もパートナーシップと親子間にすればいいし、あるいはもっと簡便な遺言制度にして、遺言がなければ没収でもいいかと。
できるだけ本人の自由意志が認められるべきだし、認知症などで自由意志を表明できなくなった時の処置について、法的保護がなされれば良いと思います。

いまフィクトセクシュアルといわれるアニメのキャラクターしか愛せない若者が増えています。彼らの性的指向は生身の人間ではなく二次元キャラに向いているのです。」(p.101)

かつてLGBTも「性的嗜好」とされ、わざわざ好んでそうしていると思われていました。だから、制限されても当然とみなされていたのです。しかし、性同一性障害が認められることで、LGBTも性的嗜好から性的指向へと見方が変わったという歴史があります。
それにも関わらず、フィクトセクシュアルは性的嗜好だと、LGBT団体が蔑んでいる実態があるそうです。

もし、リバタリアンたちが推奨する結婚民営化が実現すれば、フィクトセクシュアルの人たちはさっさとLGBTを見限り、自分たちで承認組織を作ればいい。LGBTは差別される存在であると同時に、差別をする存在でもある。これもメディアが伝えないファクトです。」(p.102)

リバタリアンの提案は、結婚の認定を政府が行わずに、民間の公的機関が行えばよいというものです。政府は、それらの民間機関が認定したことを受けて、パートナーシップを認定すればいいのだと。
そうであれば、アニメキャラを愛するのも、ペット(動物)を愛するのも、複数人を愛するのも、同じように扱えますね。

なおリバタリアンとは、個人的な自由と経済的な自由を最も重視する政治思想を持つ人々のことだそうです。私と親和性がありそうですね。
次も、リバタリアンのアイデアだそうです。

憲法24条そのものを削除せよという提案です。批評家の東浩紀氏はゲンロン憲法委員会を作り、2012年に「新日本国憲法ゲンロン草案」を発表しました。その中には婚姻および両性の平等を規定している条文は入っていません。その理由は、婚姻という極めて私的な関係を、国民から国家へ与える制約である憲法に記述することは適切でないと考えたからだそうです。」(p.102)

私もそう思います。憲法は、国民が国家権力を制限するためのものですから。国民が規制されるようなことは、憲法に書く必要がないのです。


台湾は、アジアでいち早く同性婚を実現した国です。トランスジェンダーの閣僚、オードリー・タン氏は、民法改正によらず特別法として成立させた同性婚に胸を張ります。

しかし、その後、私たちは知恵を出し合って、問題の解決を実現しました。たとえば、同性婚を望むカップルがいた場合、婚姻の平等を保障するために個人同士の結婚は認めることにする一方、家族同士に姻戚関係は生じないことにする方法が生み出されました。これであれば、社会にとっても受け入れやすいのではないかと考えたのです。」(p.103-104)

古き良き伝統を尊重しながら、穏やかに社会を変えていく強かさ。これぞアジア型同性婚と呼ぶに相応しいものだと思います。」(p.104)

伝統を重視する保守的な考え方にも一理あるのです。それを無視して対立構造を深めるなら、どちらかが傷つくことになるでしょう。


母国で合法的に性別変更している彼らをペニスがついているという理由だけで女湯から排除すれば、日本は差別大国だと告発され国際問題なることは間違いありません。今から対処しておくべき課題だと思いますが、このような問題群について敏感にアンテナを働かせている国会議員は見当たりません(診断書なしで自己申告だけで性別変更できる国はノルウェー、デンマーク、マルタ、コロンビア、アルゼンチン、スウェーデン、ポルトガル、アイルランドなど)。」(p.118−119)

本人の性自認だけで、公式に性を変えられる国が多数ある。このことが非常に驚きでした。
パスポートに「女」となっているのにペニスがある。こういう人を日本は、「女」として受け入れるのでしょうか? 大きな問題ですが、たしかに議論すらされていませんね。

ブラジル最高裁は2019年1月、LGBT差別は犯罪であるとみなす判断を下しましたが、国民の憎悪はいっこうに治まらないのです。だから彼らを保護するための激しい権利獲得運動が必要となっている。けれども日本はそうではありません。女性たちはトランスジェンダーを嫌悪しているわけではない。洋服などの自己表現は自由にやってもらって構わない。ただし、女湯や女子スポーツへの参入だけはちょっと考えていただけませんかという要求なのです。そのことをどうかわかってほしい。お互いがお互いを思いやり、この場面ではトランスジェンダーが譲り、あの場面では生得的女性が譲るという「お互い様」の気持ちが必要なのだと私は思います。」(p.128−129)

性自認だけのトランス女性が、女湯に入る問題もありますが、女子競技に参加して好成績を残すというのも、大きな問題ですね。
また、障害者が器具を使うことで好記録を残すという問題もありました。そうするのが正しいのかは一概に言えませんが、そこに問題があると認識すること、その上で、双方が歩み寄る努力が必要なのだろうと思います。


LGBT活動家による「アウティング反対!」の大合唱のもと、暴露した学生のほうが悪者だと一方的にラベリング(レッテル貼り)されてしまいましたが、それはあまりにも短絡的な人間理解だと私は思います。遺族との裁判では和解が成立しており、口外禁止条項が設けられているため、これ以上の情報がオープンにされることはありません。だが、この事件からは多くの学びを得ることができます。
 アウティング禁止条例はLGBTへのまなざしを決定的に変える恐れがあります。LGBTから告白されたら誰にも相談してはならないとすれば、そんなリスクのある人にいったい誰が近寄るというのでしょう。「頼むから私にはカミングアウトしないでくれ」と思うのが自然ではないでしょうか。
」(p.139)

自分がLGBTであることを告白する「カミングアウト」や、他人がそうだとバラす「アウティング」についても、様々な問題がありますね。「アウティング」を犯罪にしてしまうと、たしかにそういう関係を望まない人からすれば、負担を背負わせないでくれと言いたくなるでしょう。


はるな愛さんは、トランスジェンダー=”女になりたい人”と見られることが生きづらさにつながっていると述べました。もしそうだとしたら、無理に戸籍の書き換えを目指さなくてもトランスジェンダーがトランスジェンダーのままで生き生きと暮らせる社会の在り方を我々は模索すべきではないでしょうか。もちろんこれは、性同一性障害のように身体に何とも言えない違和を抱えている人たちの適合手術を阻むものではありません。ホルモン療法の保険適用の実現に水を差すものでもありません。これまで「差別だ!」と封じられてきた議論の中にも見るべきものがあるのではないかという提案なのです。」(p.174)

LGBTとひとくくりにはできないのです。それぞれにそれぞれの感性があるのです。
そうであれば、男女のどちらかであるべきだというのがおかしいとするなら、そうでなければLGBTであるべきというのもおかしい。それぞれ違っていてそれでいい。そうなっていくべきではないかと思います。


たとえば日本で同性婚の法律ができたとしても、恋愛格差の解消にはつながりません。自己肯定感を持つことのできないLGBTの若者はさらに増えるかもしれません。そこに承認の問題が絡んでいる場合はなおさらです。どうすれば若者の自己肯定感を上げていくことができるのか。そのためには子育てや教育の問題なども含めた幅広い対策が必要だと感じました。」(p.191)

自己肯定感が低いと、自分を安売りしてしまう。それはLGBTに限らず、ノーマル(異性愛者)であっても同じことです。
ただそれがゲイだと、HIV感染のリスクを高めるという問題として表面化しやすいのです。けれどもそれは、単に1つのリスクに過ぎず、自己肯定感が乏しいことによって生じる様々な問題をあからさまにしているだけのように思います。


そこには共同体の特別な思いの反映があるのだ、と。同性婚を導入することで連綿と紡がれてきた共同体の核の部分が壊されてしまうのではないか? こうした保守派の不安を払拭する議論は、残念ながらリベラル側からは出てきません。私は改憲によって同性婚を導入すべきという立場ですが、保守派の心配を無視していいとは考えません。もう一方の当事者からはそれは暴力のように見えていることもリベラル派には想像してほしいのです。保守派が納得できる言葉を紡いでいかなければ分断は加速するだけです。」(p.220)

これは選択的夫婦別姓制度の導入にも言えることだと思いました。反対論者の論理は「伝統だ」とか「家族関係が壊れる」など、まったく的を射ていないものばかり。でも、そういう理屈にならない理屈を持ち出してまで反対するのは、これまでの社会が変わってしまうことへの漠然とした不安(恐れ)があるからでしょう。
私は、「隣に別姓夫婦がいても困ることはない」「実際、別姓夫婦は存在している」と主張して、その不安が杞憂であることを説明しています。しかし、それでも不安は容易には捨て去ることができないようです。根拠のない不安ですから、時間がかかるのだろうと思います。


異性愛者が真実を知りたいと思う気持ちは差別なのでしょうか。否。情報をオープンにし、腹を割って国民全体でとことん考えることが必要なのではないか。トランスジェンダーの問題を当事者だけで囲い込むのではなく、どうしたらいいか皆で知恵を出し合うこと。内へ内へと閉じるのではなく、外へ外へと開かれていくことが大切だと思うのです。ゲイで映画評論家のおすぎとピーコさんは先鋭化が著しい最近のLGBT運動に対し、「LGBTは認めさせるものではない」と苦言を呈します。マジョリティは性的マイノリティを思いやり、性的マイノリティはマジョリティを思いやる気持ちが大事であり、落としどころを探っていかなくてはならない。お互いが少しずつ譲り合いながら暮らしていける社会をつくっていくことが必要です。」(p.233-234)

等身大の真実の姿を見せず、きれいな部分だけを見せて、権利を獲得しようとする戦略に対する批判です。多くの国民はLGBTのことをよく知らない。知らないから不安なのです。不安だから否定してしまうのですね。
それを攻撃(差別)と捉えて、声高に「差別だ!」と主張しても、それは対立を先鋭化させるだけ。すべてをさらけ出して、「これが私たちなんです」と見せて、その上で全体としてどうやって共存できるかを模索する。そういう対話が必要だと松浦さんは言います。


「相手を問わず性欲を抱く男性的性欲」を唾棄すべきものとし、「どれだけセクシーでも好きじゃない相手には興奮しないという女性的性欲」こそ素晴らしいという女性性欲絶対主義・純愛主義を映画の善悪判断に持ち込むなというのです。LGBT活動家はフェミニズムに影響を受けている人も多い。女性的性欲を善とし男性的性欲を悪とするのはその弊害でしょう。けれどもゲイにとって男性的性欲は否定されてしかるべきものなのでしょうか。私はそうは思いません。ゲイも男性ですから異性愛者の男性と同じくらい性欲はありますし、性的な視線を異性愛者の男性に向けることもあります。もちろん法に触れるようなことをすれば犯罪ですが、ゲイの性欲そのものは悪ではない。ゲイのセックスを自虐的に蔑む若いLGBT活動家が増えていることに危惧を覚えています。それは生まれてきた自分を否定することと同じであり、自由・解放とは真逆のベクトルだからです。」(p.241)

LGBTとひとくくりにされますが、ゲイとレズでは性欲の質も量も大きく異なります。それは単に「違い」であって、善悪という価値観で決めつけるべきものではないと私も思います。


「モデルのように痩せている女性は魅力的、シンメトリーな顔の女性は美しいというのはステレオタイプ。男性目線で順位づけすることは差別である。画一的な美はコマーシャリズムによって刷り込まれたものだと気づこう。これからのミスコンは内面も含めた多様性を重視すべき」との批判は、相対化のためには必要だったのかもしれません。しかしだからといって、男性にモテるための美容やファッションに人生をかけている女性を全否定することはおかしい。アイドルなど美醜のジャッジがあるからこそ成り立つ職業はたくさんあります。強制されたものでない限り、女性たちの自己決定権は尊重されるべきなのです。既存のミスコンが気に入らないのであれば、自分たちで別の大会を開く方法だってあります。」(p.243)

私も、美醜を比較すること、判断することそのものを否定するような、ミスコン禁止という考え方には反対です。やりたい人はやればいいし、やりたくない人はやらなければいい。それぞれの自由だと思いますから。
こういうところにも、「絶対的な正しさ」があるとして、画一化均質化を渇望する自由に反するものを感じます。


野党の国会議員やLGBT活動家は問題を矮小化し、「同性婚が施行されてもあなたの生活には一切影響ない」といいますが、そんなことはありません。同性婚はここまでの広がりを持つ政治課題であり、天皇家の在り方を雛形とした全国各地の文化やお祭り・伝統にも影響を与えることは想像に難くない。だからこそ私は、国民みんなで決める憲法改正での同性婚を訴えているのです。」(p.272)

同性婚が認められると、天皇家だけ別というわけにはいかないだろうと松浦さんは言います。そしてそれは皇位継承にも影響するし、女性天皇や女系天皇をどうするかという議論にも影響します。
そうであればこそ、国民全体にまで議論の輪が広がる必要がある。そう松浦さんは考えているのですね。


日本においてLGBT政策の不備はたくさんあると思いますが、一番の問題は国家による承認がいまだなされていないことだと思います。当事者の中には、小学校や中学校でいじめられて育ち、自己肯定感を持てない人もいる。だからこそ、国が自らの生き方を認めてくれたという安心感が欲しいのです。子どもは敏感ですから、違いを嗅ぎ取ります。そのような環境で毎日の学校生活を送ることは、大変なストレスを生じさせます。私自身も過去に経験があるのでわかりますが、いじめを気にして生きてきた抑うつ感は、大人になってからも消えることはありません。国家が「LGBTは国民の一員であり、我々の仲間だ」と宣言し、その存在を丸ごと承認すれば、格段に生きやすい社会になるはずです。」(p.281)

現に存在しているのに、あたかも存在していないかのように扱われる。そのことによる自己肯定感の低さが、LGBTの人たちを苦しめているというのですね。
「違い」は単に「違い」です。「違い」があって当然だし、違っていても同じ仲間だ。そうみんなが思えたら、良い社会になるでしょうね。


本書ではLGBTの問題に関して、急進的な左翼活動家のLGBT解放運動のやり方に疑問を呈しつつ、様々な問題に言及しています。その一つひとつに新たな視点を提供してくれていて、私もいろいろと考えさせられました。

そして、このことから私は、これはLGBTだけの問題ではなく、障害者など様々なマイノリティの問題でもあるし、もっと言えば一人ひとりの「違い」に関する問題でもあると思いました。
読み応えのある質の高い内容です。松浦さんのような方には、ぜひ政治家として日本のために汗をかいて欲しいと思いました。

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タグ:松浦大悟
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 07:49 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年05月31日

不倫と正義



Twitterで国際政治学者の三浦瑠麗(みうら・るり)さんをフォローしていたのですが、本を出版されるとのことで興味を持って買いました。中野信子(なかの・のぶこ)さんのことは存じ上げなかったのですが、脳科学者だそうです。
専門分野では大きく違うお二人ですが、女性であることと、割りと自由な考え方をされるように感じました。そういうこともあり、お二人がどういう対談をされるのか興味がありました。

最初に結論を言うと、少しもやもやした感じが残りました。対談というスタイルからして、そうならざるを得ない部分もあるかと思います。
また、お二人とも結婚されているのですが、夫が不倫した場合にどうするのか、という点に関して、心穏やかではいられないというようなことを言われているのに、それ以上の深掘りがない点です。
つまり、「不倫=悪」という観点を是認したまま、そこまでバッシングする必要がないじゃないか、ということになるかと思うのですが、そのスタンスが明確に感じられなかったのです。

ただそれでも、不倫とか結婚という制度についてとか、いろいろな話を聞くことができました。
そういう点では、有益な内容だったかと思います。


ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。

もちろん、別々の人間であれば誰であろうと、「どの意見も完全に一致する」ということは論理的にあり得ない。あるとしたらどちらかが妥協して、あるいは心的負担というコストをかけて、関係性を優先することを主たる目的に、自分の意見をゆがめている可能性がある。けれど、そんなことをしなくても、互いに違う意見を持っているからこその面白さ、刺激、また内省につながる発見を得られるという喜びを味わえる能力自体が、知性というものだろう。三浦さんは、違う意見を持っていることを豊かさと捉え、是とできる人であると思う。」(p.3-4)

中野さんの三浦さん評です。私も、そういう雰囲気を三浦さんには感じます。
そして、こういう評価ができる中野さんも、ただ者じゃないなと思いました。この本を読み始めるにあたって、面白そうだなと感じた部分です。


前提としてまず申し上げておきたいのは、一夫一妻型の種って哺乳類では3〜5%とされているんですね。そもそも圧倒的に少数派なんです。その上、多くの人が誤解していると思いますが、人間は生物としては一夫一妻型ではないんです。一定の発情期もないから、いつでもパートナーを探すことができる。そして、同時に複数のパートナーを持つことが可能な脳を持っている。一夫一妻型の種ではそれができません。」(p.20)

中野さんの発言ですが、科学的に見ればそういうことなのでしょう。

ある遺伝子を持っているタイプの人では、未婚率、離婚率、不倫率が高くなる。この遺伝子の持ち主は、身内にはやや冷たい行動を取りがちになるためではないかと考えられています。一方で、外づらはいい。そのため、社会経済的地位も上がりやすくなる。で、「よく稼ぐ」です。1人にこだわる気持ちが薄いからか、人脈を形成するのも得意で、その場限りの雰囲気を作るのも上手です。」(p.21)

アルギニンバソプレシン(AVP)という幸せホルモンと呼ばれる脳内物質に似た物質があるそうですが、その受容体タイプによって性行動に違いが出るのだそうです。パートナーを1人に固定した方が心地良いのか、複数だったり次々とだったりの方が心地良いのか、という違いです。
そして、いわゆる「稼ぐ人」は、パートナーを1人に固定できない傾向があるのだそうです。何となくわかる気もします。

だから、片方のタイプの脳の人がもう片方のタイプの脳の人を「そんなの人間としておかしい」とかあれこれ言ってみてもあまり意味がない。それぞれの機構で「自分の感覚が普通だ」と脳が処理しているから。それなのに「生まれたからにはいろんな人と付き合いたい」だとか「1人の人と添い遂げるのが本当の幸せ」などと言い合っても話がかみ合わないわけです。あなたの茶色い目はおかしい、いやあなたの青い目こそいかがなものか、と言い合っているようなものです。」(p.29)

脳の機構によるものであれば、一方的な価値観である「倫理観」を押し付けようとしても無理がある。そう中野さんは言います。


要は、そのケースでは1人の女性にパートナーが2人いるんですね。ご本人は、私はポリアモリーという性的志向を持っているので、フェアに責任を持ってこの2人のパートナーと関係を維持しているんです、と言われるんです。でも、いやいや、それはパートナーの相当な犠牲のもとに成り立っているんじゃないですか? と思いましたね。身分制社会で別の目的を婚姻に求めるならともかく、好きになった人に他の男がいても、彼女はポリアモリーだったんだと思えば傷つかない、なんてことがあるわけないでしょう。だからって、そんなのは駄目だ! とか言いませんけどね。」(p.58)

こういうところに、三浦さんの限界を感じました。傷つかない人がいてもいいんじゃありませんかね。たとえば、パートナーもポリアモリーだったとしたら。
岡本かの子さんは、ご主人と若いパートナーと3人の生活をしていたそうです。ご主人が傷ついたかどうかは知りませんが、そういうかの子さんを丸ごと受け入れて、愛したのではないかと思いますよ。

そもそも、愛する相手を思い通りにしたいと考えるなら、それは愛ではないのです。違っているのが当然で、違うから面白いし魅力的だ、とも言えるわけです。
最初に引用した中野さんの三浦さん評からすると、この三浦さんの発言はちょっと残念ですね。

執着をしない恋愛というのはないでしょ。」(p.59)

中野さんもそう言って、三浦さんに同調します。
しかし、本当にそうでしょうか? 少なくとも私は、妻に執着しているとは思っていません。もちろん、それは恋愛ではないと言われればそれまでですが。
けれども、この時点でお二人の対談に、あまり魅力を感じなくなったのは事実です。


でも、要するにあの壁ドンの様子って、「支配されている」「身動きとれなくされている」わけですよね。そのことを、ああ、自分は要求されているんだと感じて喜ぶわけです。そういう回路があるんだなということですよね。」(p.92)

支配されることを必要とされていると感じ、そこに喜びを感じる。愛に飢えている時、執着している時、ありがちなことですね。


次は、男性の攻撃性についての話題です。男性が自分をリスペクトしろと迫り、そうしなければ暴力を振るうようなところがあるのに対して、女性にはそういうところがあまりない。その話題に関して三浦さんは、そういった男性がいても自分がアクティブになれたのは自分なりの防御の術を学んだからだと言います。

一つは「透明シールド」なんですよ。外部からの性的な、あるいは敵意のある視線や態度に対して、私にしか見えない「透明シールド」で自分の心を守るというのがあるんです。
 もう一つは、基本、みんなのことを好きになるように、いい面を引き出そうとする心がけですよ。私は誰に対しても割と悪意に取らないよう、善意に取るようにすることによって、世の中が恐怖ばかりではないという世界観を持っているというか、つくり出したんでしょうね。
」(107-108)

こういうところが三浦さんの魅力でもあるのでしょう。


社会全体の発想という点でいうと、結婚を尊べ、すなわち妻子を放り出すなというのは、「村」の社会保障で面倒を見るんじゃなくて、「家」単位の社会保障を機能させてほしいからだと思うんですね。人に迷惑をかけるな、という。その気持ちが強すぎて、公的な社会福祉が存在する現代でも、有名人が離婚すると、シングルマザーでやっていけるのか、などという余計なお世話に近いような記事が出回りますよね。」(p.138)

離婚や、それにつながる不倫は、「家」で保障すべき責任を果たさないことに対する怒り、つまり「家」に属さない他の「村」人に迷惑がかかるという発想なのでしょうか? そこは何とも言えませんが、三浦さんはそう考えるようです。


1人の男の人がたくさんの女の人に子供を産ませたけど、その陰には全く遺伝子を残せなかった男の人が大量にいたということですよね。そういう時代は実は意外と人類の時代を追っていくと長くて、今みたいに一夫一妻が保障されているなんて、男の人はパラダイスだよって思いますよ。結婚生活のおかげでいい思いしているのに、それに異を唱えるとは何事かって。でも、不倫報道でコメントしなきゃいけないときに、「でも一夫多妻制のほうが人間にとっては普通です」ということを私が言うと、えっ、男の味方ですか、みたいなことを嬉々として言う男の人が必ず現れる。いや違うよって(笑)。なんでみんなオレは一夫多妻側だと思っているのかすごい不思議です。」(p.154)

動物界を見ると、まさにそうですね。有能なオスは子孫を残せますが、残せない多数のオスに支えられているとも言えるわけです。
たくさんある精子の中の1つだけが受精できて、子孫を残せるというのも、ある意味で同じことですね。


国は不貞行為というものを民法上の不法行為として位置づけることによって、不貞行為は結婚という制度を裏切るものだって勝手に決めちゃったわけです。」(p.160)

中野 決め事をしていない夫婦のほうが長続きするという調査があるんですよね。」(p.161)

婚前契約書も、関係を安定させなくするものとして結果的に機能してしまうという面がある。大事なのは、ちょっと困ったねということがあったときに話し合える間柄、そういう信頼関係のはずなのに、外部装置の存在が、関係を安定させるどころか、かえって弱くしちゃうということを今いみじくも指摘してもらったような感じがします。」(p.161)

制度によって永遠の愛を保障しようとすると、かえって壊しやすくなってしまうという指摘です。不倫を違法なものにすることで、かえって許せないことになってしまい、関係が破綻しやすくなっている面があるのではないか。愛が自由なら、まさにそうなるでしょうね。


この話を素直に受け止めて考えると、日本は世界各国の中では最も世俗主義的な部類なわけですよ、本来は。宗教の要素もどちらかというと低いしね。最も価値相対主義的であってもおかしくない。」(p.208)

なのに、なぜか不倫に対しては強いバッシングが起きている。すると宗教的な倫理でバッシングしているというよりも、社会を機能させなくなってしまう不安みたいなものの方が根強いんじゃないかとも感じますよね。」(p.208-209)

日本人の場合は、唯一神の代行者が「世間」なんだと思うよ。「民衆」というと一見、主権在民的なことを言っているようで美しく感じられるんだけど、微細に網の目の張られたパノブティコン(中央の監視塔からすべてが一望できる監獄のこと)と考えるとかなり怖い社会。私たちの「世間」はアブラハムの宗教のような形を取らないけれど、人々の行動様式を制限したりある方向に誘導したりという機能だけで考えたら、宗教のような機能を持っているともいえる。それは、日本に独特なものかもしれない。これを同調圧力と呼ぶ人もいるだろうね。」(p.210)

不倫を倫理に反するという意味で考えた時、倫理を支える宗教がなく、何となくこれまでの社会が壊れてしまうような漠然とした不安が、それを否定する原動力になっているという見方ですね。
そして、その原動力である不安を正当化しているのが「世間」という目に見えないもの。何となく、「みんな」がそうなのだから、それに合わせるべきだという同調圧力ですね。


三浦 そこら中に性産業やラブホテルが林立している国で、そんな「倫」もへったくれもないだろうと思うはずなのですが、そうじゃないんですよね。「建前としての倫理」だろうと思うんですよ、これは。
中野 エクスキューズだよね。きれいで、自分が正しい側に立つための化粧みたいなもの。身だしなみとしての「倫」であって、本当に行動規範として植えつけられているかというと、そうではない気がしますね、「正しいラベル」みたいな感じ。
三浦 だから、何だろうな、みんなの見ているところで悪いことをしちゃだめだよと。
中野 見えないところならいいよっていう。
」(p.215-216)

他人に知られるようにやることは他人に影響を与えるから悪いということですね。知られないなら適当にやっておけと。たしかに、そういう面が日本人の思考にあるかもしれません。


三浦 女性が化粧をする姿を見て不快になるということ自体、すごい現代的なことですよね。だけど、ものすごい不快ってねぇ……わざわざこっちの様子を見て憤慨するというのはなんなんだと。
中野 女の舞台裏を見たくない、みたいな人いますよね。あるいは、してはならないとされていることをしている女に対するむかつきみたいなものもあるかもしれない。
」(p.218-219)

不倫バッシングと電車内での化粧バッシングには、共通点があるようにも思います。そのものはけっして「悪い」とは言い切れませんが、本来は隠しておくべきものであり、他人の目に触れることが「悪い」のだと。
私は同様に、公衆の面前で抱き合ったりキスしたりする愛情表現を嫌悪する気持ちも、同じではないかと思います。他人が見ている前でやるなよ、というもの。


「おわりに」の中で三浦さんは、本音と建前の中にバッシングの欲求が生じるのではないかということを考察されています。
つまり、本音では美しくありたい、正しくありたいと思っていても、自分の弱さからそうなれないでいる。でも、その弱さを開き直って認めてしまうと、本当は求めている美しさや正しさを放棄したことになる。それは嫌なので、建前としては美しく正しい自分であることを見せるが、実は他人に知られないそうではない部分を持っていることもわかっていて、そういう矛盾した自分を受け入れざるを得なくなっている。その本音が表に出されることが嫌なのです。
不倫が世間に知れ渡るということは、隠しておくべき本音を開き直って見せたようなもの。それが許せなくて、バッシングするのではないかということですね。

たしかに、そういう面があるのかもしれませんね。
結論としてはよくわからないということになるのですが、ああでもないこうでもないと、思考をめぐらしてみるのは楽しいことです。

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posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 16:07 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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