2022年04月04日
「平穏死」のすすめ
私が買ったのは単行本ですが、もうすでに文庫本になっているのですね。これもたしか上野千鶴子さんの「在宅ひとり死のススメ」で紹介されていた本です。著者は石飛幸三(いしとび・こうぞう)医師。「平穏死」という言葉に聞き覚えがあるなぁと思ったのですが、実は10年前にすでにブログで紹介していました。それが「「平穏死」という選択」と「「平穏死」10の条件」という本でした。いわば「平穏死」三部作の3冊目になったようです。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「人間はこうまでして生きていなければならないのか。これまで幾多の苦難に耐え、それを乗り越えてきた人生、その果てにまたこのような試練に耐えなければならないとは、なんとも言えない理不尽な思いを感じたというのが、その時の正直な私の気持ちでした。」(p.14)
「しかし、ほとんどの方は喋れません。寝たきりで寝返りも打てません。今この人たちは何を考えておられるのだろう。どんな思いでおられるのだろう。鼻から管を入れられて、一日三回宇宙食のような液体を滴下され、定時的にしもの処理をされて、人によっては何年も生き続けるのです。この方々に、生きる楽しみがあるのでしょうか。」(p.14−15)
「寝ていますから胃の内容が逆流して慢性の誤嚥性肺炎を起こします。膀胱機能が衰えていますから、たびたび尿路感染を起こして高熱を出します。これは治療なのか、何のための栄養補給か。ご家族にしても、正直に言って始めてしまったものだから、いまさら後に引けない、一体これでよかったのかとの思いが起こるのではないでしょうか。医療技術の進歩と延命主義による自縄自縛の悲劇をそこに見た思いでした。」(p.15)
石飛医師は、特養(特別養護老人ホーム)、芦花ホームの常勤配置医としてやってきて、最初にこう思われたそうです。胃瘻(ろう)や経鼻胃管によって栄養を与えられ、生かされているだけのお年寄りたち。これで良いのかという疑問が湧いてきたのでしょう。
私も、まだ若いころに伯父のこういう姿を見ています。そこは老人ホームのような施設で、そのフロアには糞尿臭が漂っていました。その一室のベッドに横たわっていた伯父は、まったく意識がないように思えました。反応することもなく、ただ胃に栄養を流し込まれ、シモの世話をされるだけの人生。
これは嫌だな。こうなりたくはないな。正直、そう思いました。
そして今、私が働く老人介護施設にも、こういう方がおられます。何のために生きているのだろう? 何が嬉しくて、何が楽しくて生きているのだろう? もう肩の荷を下ろしてもいいんじゃないだろうか。そう、思わざるを得ないのです。
石飛医師が赴任したころ、ホームのお年寄りに肺炎が多かったそうです。
「原因はすぐに判りました。大部分が誤嚥性肺炎でした。
高齢者にとっては食べることは最大の楽しみです。しかも認知症の場合は過食や早食いの方が少なくありません。その上介護職の方には食べさせないといけないという義務感があります。食べさせられないのは自分たちの技術が劣っているからではないかという自責感があります。おまけに食べる量が少ないと家族からクレームが来ることがあります。つい無理をしてしまうのです。
しかし認知症の場合は中枢の機能が低下していますから、食べる際に気管の入り口にある蓋(喉頭蓋(こうとうがい))がうまく閉まらず、食べ物が気管に入ってしまいます。生きていくためには食べなければならないのに、食べることが命取りになるという逆説が生じます。
介護士の大切な仕事の一つは食事介助ですが、そこにはこのような矛盾した作業をする面があるのです。」(p.20−21)
「しかし、ゆっくり時間をかけて食事介助をしている暇はありません。一人あたりに費やす摂食介助は、平均二十分以内に済ませないと次の業務に差し支えると言われています。隣では、別の入所者がトイレに行きたいと言い出します。介護士の数は足りていません。まだ前の食べ物が口の中にあるのに、次の食べ物を口の中に入れるようなことが起こります。誤嚥性肺炎を作ることになります。」(p.21)
まさに、私の職場でも起こっていることですね。
「認知症の人は胃瘻なんてやめてくれと意思表示をすることができません。家族は見殺しにできないと思い胃瘻を付けることを承諾します。
我が国では、老衰の終末期においても病院で亡くなる方が八〇%に及びます。同時に胃瘻を付けてホームに帰って来て寝たきりになる人が増えます。この状態は世界でも際立って多く、我が国の医療費高騰の原因の一つになっています。」(p.23)
こういうことがあって、今ではホームでの看取りが推奨されるようになりました。しかし、人々の意識はすぐには変わらないので、相変わらず終末期に救急搬送されることが多い。私の職場でも、1ヶ月に2〜3回は救急車がやってきます。
「そもそも九十歳前後の超高齢の方の基礎代謝は正確には判っていません。必要なカロリーはいくらかも判っていません。老衰した体にとっては、必要なカロリーという考え方自体が適切でないのかもしれません。体はもう生存することをやめようとしているのです。歳を取ると自然に量も質も変化します。一日二食の人が結構います。八十歳を超したら腹八分どころか腹五分でも結構なのです。
入れ過ぎると簡単に嘔吐します。吸い込むと肺炎になります。老人は脱水になりやすいと言います。確かにそうですが、脱水になるからといって量を増やすと今度は心臓や肺がその負担についていけないのです。調節できる幅が大変に狭いのです。熱が出るのは脱水のためだと言って、入れる水分量を増やせば今度は溺れさせる危険があります。」(p.26)
うちの施設でも、脱水を警戒して、無理に飲ませるようなことがあります。無理に飲ませる、無理に食べさせることはもちろん、飲み過ぎ食べ過ぎの弊害も考えてみる必要があるように思います。
いくら本人が食べられても、多くを与えないという判断ですね。しかし、これは難しい。一介護士にできることではありません。医師の意識向上を待つより他ないかと。
「しかし老衰は故障ではありません。もう機械に寿命が来たのです。高齢者は老衰で死ぬことも多いのですが、老衰という病態が認識されていないという奇妙な現実があります。特に多くの医者は老衰という病態に戸惑うことが多く、死因として何らかの病名をつける必要を感じてしまうのです。」(p.66)
老衰とは、全体が弱っていって、どう治療しようと元には戻らない状態です。怪我による傷そのものや骨折などは治るかもしれません。病気も治るかもしれません。しかし、それが治ったからと言って、元の若々しい元気さを取り戻すわけではないのです。
そうなった時、治療が必要なのかということを、考えてみる必要があるように思います。治療をせずに、楽に楽しく過ごさせる。前回紹介した緩和ケアの本「なんとめでたいご臨終」にもあるように、そういう最期の時を過ごすことを優先する考え方があってよいと思うのです。
「しかし、本人の命は本人が決めることです。高齢者医療においてはなおさらのことです。十年前は患者さんに「それは歳のせいですよ」とは相手に悪いようで言えませんでした。しかし最近は割合抵抗なく言えます。かえってそれが病気ではないという本人の安心感を生み、受け入れを促している場合があります。人々の意識が変わってきたと思います。人生は自分のもの、幕の引き方は本人の選択によるものという意識が高まって、家族もそれに沿う判断をすることが多いように思います。」(p.68)
私自身はもちろん、うちの家族もそういう考えを受け入れているように感じます。
それでも、母を亡くした時の父の無念さはありました。揺れ動く心が、まだ残っていたのでしょう。
「認知症の方と接する上で最も注意しなければならない点は、いくらつじつまの合わないことを言う人でも、感情はしっかり残っているということです。人間には自尊心があります。ですから褒めること、これが一番認知症の方を喜ばせるようです。無視されること、見下されること、これは認知症の方の心を最も傷つけます。」(p.73)
認知症なのだとわかっていても、言うことを理解してくれない、指示に従ってくれないことに嫌気が差して、つい邪険にしてしまうことがあります。ここはしっかりと自分に取り入れたいなぁと思います。
「ホームで看取るということが、何もしてあげられなかったという負の気持ちに、家族ばかりかホームの職員までもを追い込んでしまうのです。病院で亡くなれば、最後まで手を尽くそうとしたと言うことができます。しかし本当にそうなのでしょうか。」(p.80)
「これは病気ではないのです。天寿なのです。ここで最期の時を決めるのは医療ではありません。人間が決めてはいけません。正に時の流れに身を任せるべきなのです。
こう言うと、「寿命が来たと誰に決められるのか」「助けられないと誰が判定できるのか」と反論が必ず来ます。しかしこのような終末期の状態に至るまでの過程は、昨日今日始まったことではありません。」(p.81)
たしかに私もそう思います。しかし、石飛医師も明快に答えられないように、これが寿命なのだと明確に判断できる方法はないようにも思います。
石飛医師は人が決めてはいけないと言いますが、私は逆に人が決めるしかないと思うのです。どっちが正しいかではなく、どちらも正しいという前提を置いて。
その上で、身体機能が弱まって、その改善が見込めないのであれば、それが肺炎だろうと心臓病であろうと、あるいは嘔吐による窒息であろうと、治療する必要はないし、治療せずに死なせてあげる方が良いと思うのです。
「食べられなくなった。熱が出た。脱水だ。さあ、点滴だ。多くの人は点滴をすると元気になるとばかり思いこんでいます。もちろん点滴一本で状況が好転する場合もありますが、心臓が弱っている高齢者では点滴量が多いと心臓が負担に追いつけず、心不全を引き起こすことが少なくありません。
本当のところ、超高齢者の補液量の管理は容易ではありません。」(p.118)
うちの施設の利用者様も、足などがむくんでいる方が大勢いらっしゃいます。そして心不全を患っておられる方も。
おそらく、多量の血液を心臓が処理できなくなってきているのでしょうね。だから余分な水分を血液から排除する。その身体の生きるための働きが、むくみとして現れているのかと。
もしそうであれば、脱水を心配して水分を摂ることは、かえって心臓の負担を増やすことになる。せっかく身体が生きるための最善策を取っているのに、それに反することをしていることになるのです。
こういう点でも私は、身体を信頼して、自然治癒力に任せることが大切ではないかと思うのです。
「介護士を見ていると、この時代いろいろな職業がある中で、よくこんな地味な、きつい仕事を選んだものだと感心します。しかしこのような人たちが居なかったらこの高齢化社会どうなるのだろうかと思います。付き合ってみると気持ちが明るく、優しく、その上、信念のある人たちです。高齢化社会はこのような人たちによって支えられているのだなとつくづく思います。もっと伸び伸び仕事をさせてあげたい、私は彼らを見ていて心からそう思いました。」(p.127)
私も介護職なので、この部分には共感します。常に入居者様やそのご家族からのクレームに晒されます。それを受けた経営者や上司から叱責されます。じゃあいったいどうすればいいの!? そう言いたくなることもあります。
でも、そうやってぶつかることによって、より良い社会的な仕組みや働き方などに変化していくのだろうとも思います。ネガティブに捉えず、前向きでありたいと思うのです。
芦花ホームでは、そこで最期を迎えた方のご家族様からいただいたご寄付を元に、看取り介護の研究を推進しているそうです。これは、その調査に関わった「場所づくり研究所プレイス」の宮地成子さんの、石飛医師の話などを聞いて書いた感想文からです。
「お話の中で印象深かったことの一つは、「口から食べられなくなったら、もう先が長くない状態である」ということでした。「そうか、食べられなくなるというのは、生命活動が終焉に近づいているということなのか」と、その事実に驚き、また「安らかな死を迎える判断基準」として明快だと思いました。三宅島では「最後は水だけ与える、そうすれば精神が落ち着き自然に戻る」という言い伝えがあるそうです。無理に食べさせることで、誤嚥やそれに伴う肺炎が起こり、かえって体の負担になってしまうことがあるとのこと。父の最期の時、医師と点滴について相談することがありましたが、「栄養をとらずに横たわる人を静かに看取る」という選択肢は、その時の私たち家族には考えられませんでした。三宅島の言い伝えは、心安らかに亡くなっていく人を、「みんなで見届ける様子が目に浮かぶ、心に響く言葉です。」(p.138)
食べられなくなったら寿命だ。動物なら当たり前のことです。しかし人は、人の助けによって食べ続けることができます。だから判断に迷うのでしょう。
「食べられない」と一言でいっても、状況はいろいろあります。手が思うように動かないのか、噛めないのか、飲み込めないのか。そしてその状況は医療によって改善するのかしないのかなど。それが判断を難しくしています。
宮地さんは明快な判断基準と言われていますが、私はそれでもやはりその場の誰かが決めなくてはならないのだと思います。
そうであるなら、自分のことは自分が決めておくのが良いと思うのです。
私は、自分で食べられなくなったら、もう食べることをやめてもいいかと思っています。それは餓死かもしれませんが、それもまた運命というものかと。
これもまた、いろいろと「死」について考えさせられる本でした。
終末期の医療はどうあるべきか。なかなか難しい問題ではありますが、私たちは考えていかないといけないのではないかと思います。
2022年04月08日
認知症はこわくない
これもたしか上野千鶴子さんの「在宅ひとり死のススメ」で紹介されていた本だと思います。著者は高橋幸男(たかはし・ゆきお)医師。
私は死ぬことはもう恐くはありません。ガンで死ぬなら、最幸だとさえ思っています。けれども、認知症というのは、その実態を知れば知るほど「やっかいだな」という気持ちになります。
そんな中で、認知症でも大丈夫、認知症でも一人で暮らしていける、という少数の方々がいらっしゃることがわかりました。なので、その観点を知りたくて、読んでみることにしたのです。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「Aさんは、毎朝Bさん宅にやってきて、お嫁さんがつくってくれるお昼ごはんを一緒にいただき、一日中話し込んで夕方帰っていくそうです。お嫁さんが、「いつもこうなんですよ」と屈託ない笑顔で話してくれました。Aさんは時々道を間違えることがあって集落内を迷っていたそうですが、地区の人はみなよく知っていますから、Aさんの思いを尊重して、AさんをBさん宅まで連れていくかAさん宅に送っていくわけです。Aさんがうろうろさまよっても「徘徊」という概念はなかったのです。
私は認知症の人がそのように地域で暮らせることが不思議でした。」(p.5)
高橋医師は、島根県の隠岐の島へ行かれて、認知症があまり問題視されていないことに驚かれたのだそうです。
「それでは、なぜ誰もが「認知症はこわい」と思うようになったのでしょうか。私は、一九七二(昭和四七)年に発行された有吉佐和子さんの小説『恍惚の人』が、契機になったと思っています。『恍惚の人』は東京周辺の町が物語の舞台です。『恍惚の人』を書くにあたって、有吉さんは、いろいろと取材をされたと思いますが、隠岐島や石垣島のような認知症の人との出会いはなかったのでしょう。結果的に、『恍惚の人』で描かれた認知症の人は、どんな思いで日々生きているのか、その心の中がまったくと言っていいほど書かれていませんでした。何もかもわからなくなって、異常な行動(たとえば、主人公は青梅街道を何度となく新宿方面へと徘徊します)を示し、世話をする家族が大変である、という話になっています。主人公は、最後に大便を畳に塗りたくるようになり、ほどなく亡くなるのですが、有吉さんはこの状態に「人格欠損」という言葉を使っています。」(p.7-8)
読んだことがないので知りませんでしたが、小説「恍惚の人」の影響で認知症が知られるようになり、同時に恐れられるようになったという説は、当たっているのかもしれませんね。
「昔の時代に戻ることはできませんが、昔の人たちにとって認知症はこわくないと思われていた背景は何であるのか、それを知って現代に生かせれば、認知症の生きづらさも少しは改善できるでしょう。
そして今私たちがすべきことは、まずは認知症を病む人の理解だと思います。」(p.8-9)
昔は認知症という言葉はなく、ボケとか老人ボケなどと呼んでいました。私が子どもの頃です。その後、「ボケ」という言葉は良くないと言葉狩りにあい、「痴呆症」と名付けられましたが、意味合いが同じなのでこれも却下され、「認知症」という言葉になりました。
では、本当にボケは怖くなかったのか? 何とも言えません。そのことは、またいずれ書こうと思います。
ただ、昔はボケてから亡くなるまで、それほど長くなかったのではないか、という考察もできるということです。ボケても元気で動き回って、周囲の人に迷惑をかけることが少なかった。だからあまり社会問題にならなかったのではないかと。
「ここで言いたいことは、認知症そのものが特殊な病ではなく、人が生きていく、特に長生きするときに出てくる、限りなく病ではあっても、老化を伴った価値のある、生きる上で意味のある経過だということです。まず、認知症をそういったものと捉えることは、認知症と向き合う際には大変重要なことではないでしょうか。」(p.17)
これはとても共感します。認知症も、発達障害も、自閉症スペクトラムも、はたまた健常者と呼ばれる人との関係においても、同じようなことはままあります。そうであれば、特別なことと考えるよりも、何かがちょっとだけ突出しただけのこと、と考える方が有益だと思うのです。
「私の経験では、認知症はどういうふうな経過をたどるのか、というのを知ることと関係があるのですが、誰でも認知症になることへの不安のすべてはなくせません。まして、「あなたは認知症です」と医師から言われた瞬間、あるいは周りがそうみなしたときから、自分自身も「ああ私は、ぼけてしまった」と思い、人に言えない不安が大きく募ります。
対応が進んでいるデンマークでさえ「認知症になりたくない」と言っているのはそういった不安があるからだと思いますが、そこからが違います。日本の場合は当事者も家族も認知症に対するネガティブなイメージを思い浮かべて、恐れだけが増幅していく、だから日本のほうが不安が強いのだと思います。」(p.20-21)
解決方法がなく、自分自身を失っていくと思われている認知症ですが、日本と先進国のデンマークとでは、その反応にわずかに違いがあるようです。
そこにこそ、認知症と向き合う姿勢の1つの指針があるように思います。
「ところが、認知症に関しては、意外に多くの人が当事者を悩める人と本気でみなしていないように思います。認知症の当事者も悩める人なのだということを理解して、その人のそばで寄り添って付き合っていけば、多くの認知症の人は、誰もが思うより、はるかにやさしく穏やかに日々を生きていけるはずです。
わからなくなっていくこと、できなくなっていくことは、本来、老いからくる機能低下とみなしてもよいのです。普通の老いは誰もが認めています。」(p.23)
「認知症というのは、原因が脳の障害で、進行が普通の老いに比べて急激に来ます。言ってみれば「あなたの老い方は少しばかりみんなより速いね」というようなもので、認知症の人とつながる上で、その視点が重要だと私は思っています。」(p.23-24)
老いれば誰も、だんだんとできていたことができなくなる。そういう機能低下や見た目の劣化に、多くの人は戸惑い、悩むものです。
ですから、急速に機能低下していく認知症においても、その分、深刻に悩むことがあると言えるのですね。
そういう視点が、たしかになかったなぁと思いました。
「ある当事者の方が本を書かれているのですが、そこでは奥様との葛藤が記されています。奥様と本人との関係はそんなに簡単ではなく、お二人の間には人には知れない葛藤があるのです。奥様自身もいらだって悩んでいます。最後の最後、奥様は「やっぱり、私が(主人の症状を)悪くしている」と言っているのですが、これこそあとで述べる認知症の”からくり”を理解されている発言です。」(p.25)
認知症そのものは、脳機能の低下ということですが、それが周りに及ぼす影響は、人間関係の維持が困難になるということかと思います。それまで近い関係であればより、その影響も大きくなる。それが認知症の問題点です。
そしてそれは、本人が悩んでいることを理解できず、これまでと同様の関係を維持できるのが当然と考えてしまう周囲の人によってもたらされるもの。そういう一面があるのですね。
「どこをどうすればよくなるか、大きなポイントは夫婦関係や親子化関係など、家族関係を改善していくことです。それによって非常によくなるということは、私の長年の臨床経験からわかっています。しかし、その辺のことが、認知症ではなかなか触れられないのです。」(p.27)
これまでできたことが急速にできなくなるのですから、周囲の人はそれが理解できず、これまでと同様のことを期待します。もちろん本人も自分に期待したいのです。その期待が、本人を苦しめています。
だから、周囲の人の過剰な期待を減らしていくこと。そのことで本人の負担を減らすこと。そうすれば、人間関係が改善され、認知症の症状も緩和されるのですね。
「認知症という病をもった人は、”寄る辺ない”状態のままで「叱られ(続け)る」というストレスになかなか耐えていけません。叱られるいわれがないと思って「何も悪いことはしていない」と必死に訴える人もいます。また、叱られ責められてばかりいるから「自分は要らない存在だ」と嘆き、「死んだほうがいい」と言う人も珍しくありません。多くの人が叱られ続けることで、急速に自尊心を低下させますが、笑顔をなくして表情が硬くなるようになれば要注意です。不安や緊張が一段と強まり、周囲のちょっとした言葉や態度が契機となって、本格的なBPSD(行動・心理症状)につながりやすいのです。
そして、ここまで述べてきたようなことを、私は認知症の”からくり”と呼んでいます。認知症の種類を問わず、家族関係のよし悪しも問わず、認知症になると誰もが”からくり”に陥りやすくなってしまいます。」(p.32)
これは認知症に限りませんね。そう感じました。
たとえば、鬱(うつ)の人に対して「がんばれ」と言ってはいけない、と言いますが、これも周囲の過剰な期待です。「あなたはもっとできるはず」という言外の意味を含み、それが「どうしてもっとやらないの!?」という責める言葉に転嫁されて受け取られます。
そうやって責められ続けたら、認知症でなくても鬱でなくても、つまり健常者であってもおかしくなるでしょう。
「一人暮らしの高齢者も、認知症になりゆく過程で周囲とのつながりを失いやすく、そういう意味で認知症になりゆく不安とともに強い孤独感があります。しかし、家族がいる場合とは異なり、”からくり”からいえば、日々指摘を受け(叱られ)続けるストレスはきわめて少ないということになります。
ですから、一人暮らしの認知症の人は、家族と暮らす人よりBPSD(行動・心理症状)が起こりにくいだけではなく、程度も軽い可能性があります。」(p.34)
「一人暮らしの認知症の人の、暮らしへの不安はかなりあるとは思いますが、いろいろな人とのつながりを得ることで、BPSD(行動・心理症状)も起こりにくくなり、程度も軽くなりますし、多くの人の支えがあれば、思う以上に豊かに暮らしていけるはずです。」(p.35)
前に読んだ「老後はひとり暮らしが幸せ」でも、一人暮らしの方が幸せに生きられるとありました。濃厚な人間関係から解放されることで、日常的にストレスにさらされることがないからです。
このことは、認知症のBPSD(徘徊などの問題行動のこと)にも現れるのですね。
「認知症の方々を長年診ていたら、理由がないのに家を出て行くということはまずないことがわかります。最も多いのは、もともと散歩のように外へ出る習慣もなくわけがわからないままに出て行く、そしてみんなが「大丈夫か、大丈夫か」と言い出す徘徊で、徘徊の中には、今日は近所を散歩しようと思って道に迷ったり、いつもの日課で外に出て道に迷ったりという場合もあるでしょう。そこには本人なりの出て行く理由が必ずあります。私が言うところの”からくり”です。」(p.62)
徘徊と言っても、本人には何らかの目的(意図)があって外へ出ていくのですね。ただ、外に出たものの道がわからなくなって、歩き回ることになるだけ。戻ってこれれば、何も問題がないのです。もちろん、途中で事故に遭う危険性はありますが。
「徘徊で亡くなった人、家族が見つけることのできないような場所で亡くなった人は、もしかしたらご本人が死に場所を求めて徘徊した可能性が高いのではないかと、私は考えています。やはり、家族の中で居場所のない、孤立して”寄る辺ない”認知症の人が、励ましや叱責で「私なんかいないほうがいい」「迷惑をかけるだけだ」と思って、「死んでしまったほうがいい」「人知れずに死にたい」と思うのも決して珍しいことではないのかもしれません。そして、最期は本能的に隠れようとするのではないでしょうか。」(p.63-64)
つまり、散歩がしたくて出て行って道に迷う徘徊とは、目的が違うということですね。
つらくて消えてしまいたいという、いわば自殺願望のようなものがあって、戻りたいと思わなくなっている。そういう徘徊でなければ、事故でない限り、徘徊中に亡くなることは滅多にないのだと。
「私の経験からは、認知症の人のつらさや不安は、記憶障害や判断力の低下といった中核症状が進行することよりも、認知症が進む中で、身近な人とのつながりをなくし、孤独で寄る辺がなくなることのほうが深刻なのだと思っています。BPSD(行動・心理症状)のある人はその傾向がより顕著ですが、周囲を巻き込むBPSD(行動・心理症状)は、介護者を苦しめ、介護者のうつ状態を引き起こします。それは結果として、認知症の人の施設入所や病院への入院につながりやすいのです。」(p.65)
認知症の人への周囲の過剰な期待は、認知症の人を苦しめます。その苦しみによって、深刻なBPSDを引き起こし、それが介護をする周囲の人を苦しめるのです。
「事例でも示しましたが、寄り添い、支えるために大切なことは二つです。
一つは、寄る辺のない認知症の人たちにとって、なんと言っても身近な人たちとのつながりを取り戻すことです。その場合、認知症の人たちは自分から行動を起こすことはできませんから、なによりも家族など身近な人の対応が重要です。」(p.65-66)
「具体的には、認知症の人に、笑顔で、感謝の言葉を忘れずに、できるだけ話しかけることが大切です。声をかけてもらえるということは、認知症の人にとって、自分を大事にしてくれている、という思いにつながります。その際、話しかける内容は、季節のことなどさりげない話題から始めて、認知症の人の昔懐かしい自慢話、苦労話などをするのが最も有効です。」(p.66)
「もう一つ大切なことは、できなくなったことを可能な限り家族や周囲が受け入れて、励ましや、こうあってほしいという願望をできる限り少なくしていく必要があります。指摘を減らす=叱られないというだけで、ずいぶん穏やかになったという認知症の人が、私の経験では何人もいます。叱られないということは、認知症の人の尊厳を守ることにもつながります。」(p.67)
過剰に期待しないこと。以前のように行動せよと指摘しないこと。できないことを受け入れて、フォローすること。そして機能低下があっても、存在するだけで価値があるのだということを知って、敬意を示すことですね。
これは、ある意味で認知症の人だけへの対処法ではなく、うつ病でも、発達障害でも、自閉症スペクトラムでも、同じではないでしょうか。そればかりか、健常者であっても、このように対処すべきではないかと思います。
「認知症になるのがこわくない社会、なっても安心して暮らせる社会、それは認知症でない人たちとってもよい社会ではないでしょうか。言い換えれば、人と人がつながっていて、認め合える社会であるはずです。そして、社会を家庭に置き換えれば、私たちが認知症とどう向き合うか、よりわかっていただけると思います。」(p.69)
まさにそういうことですね。認知症かどうかに関係ないのです。
そういう意味で言うと、認知症の人というのは、本当はこうした方がいいんだよということを私たちに気づかせるために、あえて認知症になって示してくれている魂なのかもしれませんね。
これは巻末にある田中とも江さんとの対談からの引用です。田中さんは、身体拘束廃止に取り組んでこられた方のようです。田中さんの本も買ったので、いずれ紹介できると思います。
「後に八王子の川上病院という精神科病院で認知症の患者さんたちの身体拘束廃止に取り組んだときも、看護学総論で学んだ「五つの基本的なケア」(@起きる、A食事、B排泄、C清潔、Dアクティビティ)を自分なりに咀嚼して、患者さんのどんな行為にも理由があるという考え方で「叱らない」「許容する」「拘束しない」を徹底していき、二年で身体拘束を廃止することができました。昭和六一(一九八六)年、まだ「人権」とか「尊厳」など言われない時代で、周りの抵抗もありましたけど、「絶対、それまでの看護に戻ってはいけない。あれは看護の恥だ」という一念で取り組みました。」(p.166-167)
たしかに、介護や看護する人たちは、疑問を感じるのです。しかし、多くの人が現実に圧倒されて、身体拘束の道を選んでしまいがちです。
「便いじり」をしてしまう方に、それができないようにミトンを手にはめる。これも身体拘束です。転倒すると骨折する恐れがあるなら、車イスに安全ベルトと称して拘束ベルトを装着する。
これらは介護や看護する側の都合とも言えますが、スムーズに介護看護できることが、その方の役に立つと思うから敢えてしているのです。
けれども、その方の意志に反していることは事実です。便いじりする人は、便いじりしたいのです。その時のその状況においては。
では、どうすればお互いがWin-Winの関係になれるのか? つまり、便いじりさせたくないわけですから、ご本人が便いじりしたいと思わなければいいのです。どうすればそれが可能でしょうか?
その具体的な方法は、ここには書かれていません。取り組む考え方としてはわかりますが、方法論としてはまだよくわかりません。ただ利用者様の考えを理解せよと言われても、他人のことを理解できないのが世の中のふつうですから。
これは前に紹介した「「平穏死」のすすめ」の著者、石飛幸三さんとの対談からの引用になります。
「当時でも、お嫁さんの本音はいろいろあったとは思うけど、今は、核家族化してしまったこともあって、身を粉にして尽くそうなんていう感覚は間違いなく薄れている。まして、親が姿形も変わって、認知症になって気持ちも荒れて、乱暴なことを言い出したら、血のつながった子どもたちだってつい感情的になるじゃない。それが現実、それが介護地獄。もちろんその人が一生かかってつくってきた家庭だから、そこで家族みんなで覚悟ができれば、それが正しくていいことだと言われると、反論はしにくいけど、現実をしっかり見てほしいと言いたい。むしろ社会としてきちっと施設を準備して、プロが冷静に支えるというのが、今、最も必要な対応でしょう。」(p.185-186)
つまり、ひとり暮らしで最期までというのは無理というケースもあり、その場合、家族の介護があれば大丈夫だというのはきれいごとだとおっしゃるのですね。冷静に、客観的に対処できるプロの支援が、どうしても必要なのだと。
「人間の心理としてスタッフだって、虐待する家族と同じ面がないとは言えない。うまくいかなければ悩むし、一生懸命努めているだけに、頭にくるような思いにかられることもある。でも、どうして認知症の人がそういった行動をとるのかということを真剣に考える、そういう文化が育っているから、自分たちの役割はそれでは済まないということもわかっている。しかも家族のように二四時間介護するわけじゃない、決められた時間に働く仕事だから、自分たちの役割がわかれば、プロに徹することができる。それがある意味では施設の強味かな。」(p.195-196)
これは共感します。1日8時間の仕事だと割り切れるからこそ、感情的にならずに冷静に対処できるという面はあると思いますから。
「そして、高齢者の認知症の世界はそれこそ人間の心の世界だから、それにどう医者が役に立つか、もう一度人を診る医療というか、心を診る医療に戻らなきゃいけないと思うよ。その上で家族も「世の中がなんとかしてくれるだろう」なんていう他力本願じゃなくて、自分たちで認知症の人たちを知ろうと努力する、そして理解していく、そうしなければ本当に変わらないよ。」(p.201)
そもそも認知症だからどうこうではないのです。すべての人間関係と同じなのです。その心の世界に、医療も介護も踏み込んでいく必要があるし、家族関係においても踏み込む必要があると言えるのですね。
排泄の問題に関しては、ここで語られていることだけでは納得できない部分があります。しかし、徘徊とか不穏になるなどのBPSDに関しては、認知症の方の悩みを理解することで、かなり問題解決に近づけるのではないかとも思いました。
私自身、介護の世界に飛び込んで1年が過ぎましたが、まだまだ上手く対処できずにいます。さらに学びを深めていきたいと思いました。
2022年04月15日
理由を探る認知症ケア
お勧めしている「日本講演新聞」に岸英光(きし・ひでみつ)さんの記事があり、とても興味深かったので、何かご著書を読んでみようと思ってネットで検索したところ、この本が表示されました。介護職をしていて認知症に関心があったことと、共著のように思えたので購入しました。
しかし、実際の著者はベ・ホス氏で、在日の方のようです。岸さんは第3章と第6章を監修されていて、コミュニケーションに関してトレーニングを提供するなどして、本書の執筆に協力されたようです。
ということで思惑とは違ってしまったのですが、私の今の仕事には役立つ内容でした。偶然とはいえ、こういう本を読めたことは幸いなことだと思っています。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「そもそも、「認知症である本人が、日常生活の中で、どんなときに、どんな場所で、何につまずいているのか?」という「理由」がわからないまま、「つまずいている人にどう対処するか?」という解決方法ばかりを追い求めることは、本末転倒ではないかと思うようになったのです。」(p.10)
認知症のBPSDが問題視されますが、たとえばなぜ徘徊するのかという理由を知らずに、どうやって徘徊しないようにさせるかということばかり考えるのは、本末転倒だと言うのですね。だからタイトルにもあるように、その人がそうする理由を探ることが重要なのだと。
「認知機能が低下しているために、適切な判断を下すための情報の理解に限界があり、立てる仮説にも限界や思い込みが強く働き、想定外の結果になったときに混乱するということが、本人にも起きている−−と見ることができるのです。
これからは、この「本人の混乱」に目を向け、『本人は何につまずいているんだろう?』という目線を持ち、そのつまずきを支えるケアが求められます。」(p.17)
想定外の結果とは、たとえば散歩に出かけたつもりで帰り道がわからなくなって困惑する、というようなことです。つまり認知症の人が混乱した結果、あてのない徘徊をしているかもしれないのです。
「このように一般的に知られている対処方法は、あくまでも混乱を収める確率が高いというだけであって、誰にでも適した方法というわけではありません。人の個性は十人十色ですから、想定通りにいかないことがあるのは不思議なことではありません。」(p.20)
たとえば財布がなくなって誰かに取られたと騒ぎ出した時、それを否定しないとか、一緒に探すなどの一般的な対処方法があります。それが必ずしも正解ではないということがある。その人の混乱は、その人固有のものだからですね。
「つまり、適切な「方法」は、その人なりの「理由」がわかれば、導きやすくなるのです。
認知症ケアも同様で、一人ひとりに適した介護方法を見つけるためには、「理由」を知ることが必要です。」(p.23)
たとえば自宅にいながら「家に帰りたい」と言い出した時、ここがあなたの家だと理解させる方法を考えがちですが、その最適な方法を見つけるためにも、なぜ「家に帰りたい」と言うのか、その理由を探ることが重要だと言うのです。
「そして、もう一つは、「予防に取り組めば取り組むほど、『認知症=ダメ』という価値観を強める」ということです。」(p.31)
認知症もなってからの治療より、なる前の予防が重要だと言われます。しかし、それに取り組むのは、それだけ認知症を恐れているからです。恐れから一生懸命に行動(予防)すれば、その動機である「恐れ(不安)」がさらに強まります。
「認知症になると、自分の存在がおぼろげになっていきます。自分が何をして生きてきたか、自分は誰とどんな思い出を作ってきたかといった記憶が失われます。言い換えれば、「自分」が徐々に失われていくような体験なのかもしれないのです。
だからこそ、自分のこと(顔、名前、生活歴、趣味、こだわりなど)を知ってもらうことに、もっと時間を使ってもいいのではないかと思うのです。」(p.33)
認知症の予防のために好きでもない計算ドリルなどをやるより、自分に関することをノートに書き留めて、ケアしてもらう時に役立つよう備えることが重要なのではないか。そうベ・ホス氏は考えるのだそうです。たしかに、これもまた頭を働かせることになりますしね。
「わたしたち介護者にとっては、「介護の困難を取り除くこと」や「家族の負担感を軽減すること」は大きなテーマであることは確かですが、そうした捉え方だけに介護者が彩られていたとしたらどうでしょうか? 本人にしてみると、「あなたを介護するのは大変だ」「あなたは家族に負担をかける」と言われているようなものです。
認知症というやっかいな症状に、一番悩まされているのは本人なのに、「認知症の症状でわたしたち(介護者)を煩わせないで!」と言われてしまっては、これほど辛いことはありません。」(p.37)
確かに、そういう一面はあるでしょう。しかし、「ない」ことにはできません。そうではあるけれども、それをできるだけ見せないようにする。そういうことになるのでしょうね。
「徘徊や帰宅願望などのBPSDが起きる場面では、本人が不安な気持ちや不快な感覚などに包まれていることが多く、その不安や不快を解消するために、歩き回ったり、家に帰ろうとしたりしていると見ることもできます。
その視点で、「本人が求めている認知症ケアは何だろう?」と考えてみると、これからのケアとしては『認知症ケア=本人の”不快”の時間を一分一秒でも減らし、”快”の時間を一分一秒でも増やすこと』という捉え方が適切なのではないでしょうか。」(p.37-38)
完璧にはできないのですから、少しでも、一分一秒でも、というように、よりよくなるように考えていくしかないのだろうと思います。
「本人は、何かを体験(見る、聞く、におう、触れる、感じる、考える、思い出す、など)して、家に帰りたいと言ったり、介護者につかみかかったり、大声を出したりしている−−としたら、きっかけを発見するポイントは、本人が体験していることに目を向けることだといえます。」(p.59)
認知症の方のことを理解するには、本人の体験をしっかりと観察することだと言います。介護者が気づいていないことに気づいている可能性がある。その可能性を意識することですね。
「不満はあるけれど、妻のためなら参加してもいい。この言葉を聞いたときに、これも素晴らしい自己決定だなと思いました。そして、おそらくは自分にあった不満を、すべての関係者に聴いてもらって、受け取ってもらえたことで、自分が感じている不満よりも大切な妻への思いを再認識したのかもしれません。」(p.71)
デイサービスを嫌がって行かないと言い張っていた男性が、関係者に不満をしっかりと聞いてもらえたことである程度満足し、妻のことを思いやる余裕が生まれたことで行動に変容が現れた実例です。
ただ、これが良かったことかどうかは何とも言えません。行きたくもないデイサービスへ行くことは、やはりストレスを溜めることになるからです。妻と合わせて総合的にどうかという考え方もありますが、双方が満足できる解決方法が他にもあるのではないか。そんな気もします。
「そのため、こうしたBPSDの表現は、実はわたしたちに理由を探ることをあきらめさせる「枠組み」といっても過言ではないのです。
「徘徊の理由を探りましょう」と話し合いをしようとしても、話し合う前から「理由はわからないだろう」という無意識をわたしたちに抱かせてしまっているとしたら……。やはり、「徘徊」という表現は適切な選択とはいえません。
このように、理由を探ることを妨げる「価値観の枠組み」が、ケアの現場には数多くあります。
そこで、まずは自分が持っている「枠組み」を発見することが、理由を探る認知症ケアの第一歩になります。そうすることで、これまで聞き流していた言葉が重要な情報に感じられたり、見逃していた言動を観察できるようになるなど、理由を探るために必要な事象が目に止まるようになり始めます。」(p.76)
「枠組み」というのは「偏見」や「思い込み」「決めつけ」とも言えますが、悪い意味ではありません。捉え方のクセとも言えます。ただ、そこに自分で気づいていないと、無意識にその考え方のクセが発動されるため、枠組みの外の事象や可能性を見落としてしまいがちなのですね。
「この「わかればできる」という枠組みは、裏を返すと「できない=わかっていない」という捉え方も表しています。また、この捉え方は、「できない・わからない」といった本人の能力に焦点を当てていますが、そのことで見逃すものが出てきます。
それが、本人の意思(選択)です。もしかすると、入れ歯を入れないのは、「入れ方がわからないから」ではなく「入れ歯を使いたくない」という本人の意思なのかもしれないのです。」(p.86)
可能性はいろいろあるということですね。枠組みにとらわれて、その可能性を考えることができなくなると、本当の理由を探れなくなるのです。
「自分は「被害者」だと訴えるとき、そこには「加害者」が存在します。つまり、被害と加害という(あまり好ましくないつながりではありますが)他人との関係が存在するのです。「妻」「嫁」「ヘルパー」など、一番身近でよくしてくれる人を加害者として訴えることは、裏を返せば、『その人との関係を途絶えさせたくない』『その人を頼りにしている』という思いの表れだと見ることができます。
施設の職員が、「得意な和裁を教えてください」と関わり始めたら、お金を盗られたという訴えがなくなった−−という話があります。」(p.103)
こういう捻れた思考の発現はやっかいですが、こういう可能性もあるということですね。
「本人の記憶力・理解力・判断力の低下(いわゆる中核症状)や、理解不能な言動(いわゆるBPSD(行動・心理症状))を、一言で「認知症」と表現していることが見受けられます。
そして、こういう出来事を「認知症」とひとくくりに表現するとき、そこには「わたしたちには理解できない」「わたしたちにはなす術がない」というあきらめに似た姿勢が、見え隠れします。これでは、理由を探るケアのスタートラインに立つことさえできません。」(p.106-107)
人の行動の理由は1つであるとは限りません。複合要因も多々あります。そうであれば、「認知症だから」と決めつけることは、偏見でしかないのです。
「言い換えれば、「気づいていないことがあるかもしれない」「知っていることとは違うかもしれない」という姿勢でいることです。そうすると、自分では考えもつかない不思議なことだらけであることに気づき、シンプルに疑問を抱き、知りたいという気持ちが湧いてくるでしょう。
その人に対する「興味・関心」が湧いていれば、理由を探る準備は整っているといってもいいかもしれませんね。」(p.109)
わかったと思った瞬間に、思考がストップしてしまうのです。だから知っていることでも、わかっていることでも、まだ知らないことやわからないことが隠れているかもしれないという、可能性に心の扉を開いておくことが重要なのですね。
「その人らしさは細部に宿るといいます。習慣は「食後のコーヒー」で聞き取りを終えてはだめなのです。「好みの味は?」「ホット? アイス?」「使っていたカップの色は?」「食べ終えたらすぐに飲む?」など、どれか一つが違うだけでも飲む気になれないことだってあるのです。」(p.128)
たしかにそうなのでしょうけど、ここまで言われるとうんざりしますね。介護職にいったいどこまで要求するの!? という気持ちになるからです。
実際、使っていたカップの色と違うから飲みたくないなんて仮に言われたとしても、そんなの慣れればいいだけじゃないか、とも思います。それに、それがどれほど重要かというのも、人それぞれでしょう。
究極のところ、どこまで探っていっても、その人の理由はその人にしかわからないし、その人自身にもわかっていない理由はたくさんあると思います。そうであるなら、いったいどこまで理由を探るのが適切なのか? という問題も、実際の現場では出てくるのではないでしょうか。
「人を相手にしているのですから、完璧に一から十まですべて相手のことを理解するということはできません。また、今日、わからなかったことが、これからもずっとわからないわけではありません。しかし、行き詰まりを感じるケアでは、「自分じゃダメだ」「あの人のことはよくわからない」と、その状態がずっと続くかのように捉えがちです。
だから、「わからなくてもよし!」と自分に言ってあげてください。「わからないかもしれないし、わかるかもしれない」というスタンスが、明日は明日で新鮮に向き合えるあなたをつくってくれます。」(p.143)
理解することが重要だと迫られ、そんなの完璧には無理でしょ! とブチ切れそうになったら、こんな風にフォローされました。(笑)
でも、そういうことだと思います。完璧に理解するなんて不可能ですが、それを最初から不可能と諦めたのでは、一歩も前進できないのです。
「これまでもお伝えしてきたように、家族ごとに背景は違い、介護負担もさまざまです。その中で、どの家族も精一杯の介護をしながら生活しているわけですから、「承認」は家族の気持ちを解放するうえでも重要です。
そして、「承認」には二つのポイントがあります。
一つ目は、具体的な行動がもたらす具体的な影響を伝えるということです。」(p.229)
「二つ目は、「自分が承認される体験があると、他人を承認しやすくなる」ということです。」(p.230)
上手くできていようとできてなかろうと、誰もがその人なりに精一杯に介護をしている。そのことを「承認」によって伝えることで、負担を軽くすることになると言います。これは、介護している家族に対してだけでなく、仕事として行っている介護職に対しても重要なことだと思います。
そしてそのためには、まずは具体的に承認することだと言います。ただ「素晴らしい」と言うより、「一緒に散歩されたことで、お父様も笑顔になられましたね」というように、具体的に示してあげることです。それによって、次もこうしようという意欲が湧いてきますから。
次に、他人を承認できない人は、自分が承認されていると感じていないからだ、ということです。つまり、介護する家族を承認してあげることで、家族は介護している認知症の人のことを承認しやすくなるということになります。本人は、家族から承認されることで、イライラや不安も軽減することになります。
「家族を支えるすべての専門職に大切にしてもらいたい価値観があります。それは、「人の存在が人を勇気づける」という価値観です。」(p.232)
「しかし、家族は、わたしたち専門職がどれだけの知識や経験を持っていて、具体的にどのような助言やアイデアを示せるか? ということだけを、頼りにしているわけではありません。
ただ、そばにいるだけでも人は勇気づけられたりするものです。
誰かが一緒にいてくれるだけで、あまり行きたくない病院にも行くことができたり、初めての場所にも行ってみようという気持ちになることがあります。このように、一緒にいて行動や決断をサポートすることを、コンパニオンサポートといいます。
そんなコンパニオンがいることは、家族にとっては大きな支えになります。」(p.232-233)
専門職だから、知識や技術でサポートしなければならない、と考える必要はないのです。ただ寄り添っていること。それだけで十分な価値があり、十分に役立つのですね。
認知症の人自身が悩んでいる。不安や恐れを感じている。だから、それがわからない人にとっては理解できない行動を取ってしまう。それが徘徊などのBPSDとして表れ、それによって介護する側も苦しむことになる。それが、認知症とその介護に関わる大きな問題です。
この本では、その問題に対して、根本にある認知症の人の「そうする理由」を探ることで、本人の悩みや不安、恐れを軽減して、そういう問題行動を減らしていこうというアプローチを示しています。
もちろん、それが完璧にできるわけではありませんが、今よりも少しでも気づくことができるなら、少しでも問題行動を減らすことに役立つでしょう。
それにこのことは、何も認知症の人に限らないと思いました。だいたい他人のことはわからないのです。だから「あの人はおかしい」というように決めつけ、その偏見から他人を見たりすることが多々あります。人間関係のトラブルの多くは、こういう偏見や無理解から生じているのではないでしょうか。
そうであれば本書のアプローチは、すべての人間関係のトラブル解消のためのアプローチでもあるようにも思います。
2022年04月21日
おむつを減らす看護・介護
前に紹介した「認知症はこわくない」の最後に対談があり、縛らない看護を推進しておられる田中とも江(たなか・ともえ)さんの話がありました。それで興味を持ち、その考え方や手法を知りたくて本書を買いました。
私も老人介護の仕事をしている中で、排泄の問題は日々、頭を悩ましています。排泄介助が追いつかないため、トイレへ行ける人にもおむつをして、その中でおしっこをしてくれと言っている自分がいる。本当にそれでいいのだろうか? いろいろと考えるのです。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「医療や介護の現場で、おむつは汎用されています。もちろん、おむつが必要な場合が多くあるのは事実です。しかし多くの現場では、それが本当に必要なものかどうか、という明確なアセスメントもなく、また、本人や家族との話し合いはおろか説明もないまま、現場の看護・介護スタッフの独断で、使用されているのが現実です。また、使用にあたっても、その使い方が、御本人に合った適切な使用法か、というアセスメントがされているとは思えません。
排泄は、人間の生活行為の中でも極めてデリケートで、ケアされることへの引け目を感じやすい部分です。そして、そのケアの質によって高齢者の生活の快適さ、さらには健康度をも大きく左右するものでもあります。高齢者への不適切なおむつ使用は、身体的、心理的、社会的にもダメージを与えています。特に安易なおむつ使用は、高齢者の活動性を大幅に制限することから、私たちは、おむつは「拘束」にすらなりうるものであると考えています。」(p.3−4)
冒頭の「監修のことば」の中で、田中さんはこのように問題提起されています。
なお、専門用語のアセスメントとは、客観的に評価・分析することです。
「さて、もしあなたがケガや病気のために、立って歩くことができないことから、トイレに行けなくなり、おむつを着けられたらどうしますか。
下半身をおむつに包まれた情けない姿、そして、おしっこもうんこもその中に出さなくてはいけない苦痛、さらに濡れて汚れたおむつをつけたまま、じっとしている不快感。濡れたままのおむつは気持ちが悪いだけでなく、冷えると寒く、ずっしりと重いので歩くだけでも大変です。新しいおむつと取り替えてもらうときは、下半身を露(あらわ)にされ、他人の視線にさらされます。
「とんでもない。おむつを着けられるのだけは、絶対にごめんだ」
誰もがそう感じることでしょう。
しかし、この「当たり前の感覚」が、お年寄りには適用されていないのが今の現実です。」(p.8)
たしかに排泄の問題は、プライベート感が強いだけに、介護されるだけで抵抗感があるものです。ましておむつの中に排泄し、その状態でい続けなければならないのは苦痛でしょう。
私自身、老人介護を始めた当初に、自分でおむつを着ける実験をやりました。自分が経験のないことを他人にやらせることには、どうしても抵抗があったからです。
けれども、小便は何度もやってみましたが、大便はできませんでした。室内にシャワーがないことも1つの理由です。自分できれいにできないので。しかし、そういう環境があったとしても、やはり大きな心理的な抵抗がありますね。
「はっきりしていることは、排泄は人間の尊厳にかかわることだということです。おむつは、自尊心を傷つけ、生きる希望を奪います。精神的にも、肉体的にも、きわめて大きなマイナスの影響を与えることは間違いありません。」(p.10)
私も、もし自力で排泄ができなくなったら、もう生きていなくてもいいかなと考えることがあります。それくらい、排泄は重要な問題なのです。
しかし、とは言え、障害によって寝たきりになって自力で排泄できない人もいます。そういう人は、生きている意味がないのか? そんなことはないでしょう。そういう人が「死にたい」と思う気持ちもわかるし、そういう人だって自力で排泄したいという気持ちもわかるのです。その上で、それでもおむつという選択肢もあるよね、と私は思うのです。
「治療のためにおむつという手段が必要、という論理に対抗するのは容易ではないとしても、それであきらめてしまってよいのでしょうか。治療の効果よりも、おむつがもたらす弊害がお年寄りの生きる力を奪ってしまうことに目を向けるべきです。」(p.12)
おむつが必ずしも有害ということではなく、治療とか生活の質とかとのバランスなのですね。それを考えずに、最初からおむつありき、という考え方は疑ってみるべきだと思います。
「おむつをしたことが、または汚れてもすぐに「随時交換」しないことが、介護量の増大を招いていることは少なくありません。
これに対して、トイレ誘導で排泄できれば、介護の手が必要だとしても、トイレまでの誘導、排泄後の処理といった部分のみですみます。途中でパンツに尿や便を失禁してしまっても、シャワートイレで洗うことができますし、衣類の着替えも寝たきりの姿勢でおむつを替えるような中腰の力作業は必要ありません。」(p.25)
介護の大変さからして、実際はおむつよりトイレ誘導の方が楽なのだと田中さんは主張します。しかし、私はこれには懐疑的です。それこそアセスメントがされているとは思えないからです。
トイレ誘導で必ずしもきちんと排泄できるわけではありません。失敗すれば、もろに衣服の交換、洗濯をしなければならないのです。おむつなら、尿もれ便漏れでもなければ、おむつの交換だけで済みます。
それに何より、おむつ交換は時間が読めます。短時間で済ませられます。しかしトイレ誘導にかかる時間は、対象者次第です。10分、30分とトイレに座り続ける人もいて、いつ終わるかわからなければ、そこを離れられないこともあります。その人の排泄介助だけが仕事なら可能ですが、他にやらなければならない作業があり、それをやらなければ他の人への介助もできなくなるのです。
「おむつを導入する理由として、よく言われるのは「トイレまで行けない」「たびたび失禁する」「転倒する危険がある」などです。
しかし、本当にそうでしょうか。杖を使ってでも、歩ける人であれば、トイレに行けます。スタッフがその人の排尿パターンを把握してトイレ誘導すれば、トイレで排泄できます。車椅子であっても、便器への移乗ができればトイレ排泄が可能です。転倒しないようにケアするのがスタッフの仕事です。」(p.35)
たしかにトイレで座って排泄できる人は、少なくともスタッフの介助があればトイレ排泄が可能です。問題は、いつでも随時にスタッフが介助できますか? ということではないでしょうか。
そして、骨がもろくて立つことさえ医師から禁じられた人もいます。スタッフは、車椅子への移乗ができるなら、トイレも行けると思っていても、骨折したら誰が責任を取るのでしょう? 家族だって責任を取りたくはありません。そうやって医師の言いなりになるのです。医師だって背金を負いたくありませんからね。本人の意向などそっちのけで。
「トイレへの誘導を習慣化することで、お年寄り本人の排泄に対する学習能力が芽生えます。最初は失敗してしまっても、トイレへ向かおうとしたり、尿意・便意を訴えるようになってきます。おむつが必要だった人も、おむつがはずれるケースがあります。」(p.48)
おむつに慣れてしまって、尿意・便意すらなくなってしまう人がいます。そういう人でも、定時的にトイレへ誘導し、便座に座ってもらうことで、自力で排泄できるようになると田中さんは言います。
たしかに、そういうケースもあるでしょうね。しかし、それよりも多くのケースで、その逆があるのではないでしょうか? トイレ誘導していたけれども、徐々に尿意・便意もなくなってしまう。ズボンまで濡れていても、何とも感じない人もいるのです。
「「まったく、もう、さっきも取り替えたばかりでしょ。洗濯物を増やさないでちょうだい」
などと言ったら、ますます気持ちは萎縮し、次からは濡れた下着をタンスに隠したり、徘徊したり、問題は深刻になるばかりです。
「水、こぼれたのね。じゃあ、着替えましょう」
と見て見ぬふりをして、着替えと掃除をさりげなくすませます。同時に、廊下で放尿する理由をきちんと把握し、事前にトイレ誘導できなかった現場のスタッフの側の問題を反省することが大切です。」(p.53)
たしかにそうだと思います。それができたら理想的ですね。
しかしスタッフも、他に作業を抱えながら時間に追われながら、懸命に仕事をしているのです。愚痴の一つ、文句の一つも言いたくなるでしょう。私は、その気持ちもわかります。
そういう文句を言ってしまうスタッフだって、本当はそんなことを言いたくはないのです。どうすれば良くなるか、いろいろ悩んでいるのですよ。
「おむつ交換は、2人ペアになって何十人ものおむつを取り替える作業で、1日に8回も9回も同じことが繰り返されます。生産性はなく、達成感を味わうこともないでしょう。いくらがんばっておむつ交換をしても、おむつをしている限り、ADLやQOLが向上することはないのですから。
それと比べ、車椅子から便座に移乗するときにスタッフが2人がかりだとしても、時間的にはおむつ交換ほどかかりません。汚れた下着やシーツの取り替えといった手間も不要です。おむつではなく、トイレで排尿できるようになると、精神的な喜びや生きる力をわきあがらせ、身体的にも活動性があがってきます。筋力がつけば、便座への移乗時にはスタッフが1人いればできるようになることもあります。」(p.56-57)
たしかにそういう一面もあるのですが、必ずしもそうは言えない、というのが私の実感です。おむつで定時的な介助なら、1日に8回も排泄介助をやりません。せいぜい5回でしょう。けれども、随時に排泄介助をするなら、それこそ1日に8回も9回もやる必要があるかもしれないのです。トータルで、どっちが負担でしょうか?
田中さんの思いはわかるのですが、それを正当化するために、無理やりこっちが合理的だと決めつけるのはどうかなぁと思うのです。
「しかし、ポータブルトイレのほうが実は手間がかかるのです。朝に、昼に、ポータブルトイレ内の排泄物をトイレに捨てに行く作業、洗って消毒剤を入れる作業、部屋にたちこめた臭を消す作業などです。トイレに連れていってあげたほうが本人も気持ちいいし、長い目でみればスタッフも楽なはずです。
トイレに行くことは足腰を鍛え、寝たきりを防ぐためにも大切です。」(p.59)
これも、たしかにそういう面もあります。けれども、一概にそうは言えない、と私は思います。
トイレに行ける人でも、ポータブルトイレの方が安心できるからと言って、トイレに行かない人もいるのですから。
ただ、トイレに行かなければならないからという理由で、多少無理をしても動くことで筋力を鍛え、日常生活がスムーズに行えるようになるという一面もあります。何ごとも絶対的にこれが正しいとは言えないのです。
「身体拘束については介護現場を含めて様々な固定観念があり、それが廃止への取り組みを阻害している。その代表的なものは「身体拘束は本人の安全確保のために必要である」とか、「スタッフ不足などから身体拘束廃止は不可能である」という考え方である。しかし、こうした考え方は、介護現場での実践の積み重ねにより、多くは誤解を含んだものであることが明らかになってきている。」(p.100)
「そして、何よりも問題なのは、身体拘束によって本人の筋力は確実に低下し、その結果、体を動かすことすらできない寝たきり状態になってしまうことである。つまり、仮に身体拘束によって転倒が減ったとしても、それは転倒を防止しているのではなく、本人を転倒すらできない状態にまで追い込んでいるからではなかろうか。」(p.100)
これも、たしかにそう言える面もありますが、必ずしもそうは言えないと私は思うのです。
相変わらず身体拘束をせざるを得ない時があると介護現場が感じているのは、単なる誤解ではないと思いますよ。つきっきりで介護できるとか、随時に臨機応変に対応できる環境があればいざしらず、他の業務を抱えながらでは、どうしても無理があるのです。
身体拘束される本人の機能劣化は、たしかにあると思います。しかし、ではフリーにしたことで転倒し、骨折した場合、いったい誰が責任を負うのですか? 本人がそれでも良いと意思表示できるなら、その意志を尊重することも可能でしょう。けれども、それが認知症の人ならどうですか? 家族だって責任を負えません。まして医師は、安全な方を選択したくなるでしょう。
本書の全体を通じて感じたのは、理想的にはそうかもしれないが、実際の現場でどうするかは難しい問題がある、ということです。
それでもおむつをしないとか、拘束をしないという選択は、崇高なことかもしれませんが、そういう崇高さを求める関係者の同意がなければ、現実的には難しいのではないかと思うのです。
認知症と診断され、本人の意思が軽視される前に、そういう決断がなされればいいなとは思います。しかし、こういう問題に直面するのは、そういう時期の後なのです。それだけに、一概には何とも言えないなという思いが残ります。
2022年04月24日
マスターからの手紙
雲黒斎(うん・こくさい)さんの本を読みました。たしかFacebookの投稿か何かで、この本が最高だというようなコメントがあり、それなら読んでみようかと思ったのです。
サブタイトルが「超訳『老子道徳経』」とあります。雲黒斎さんの本ですが、本名の黒澤一樹(くろさわ・いつき)の名前で出版された「ラブ、安堵、ピース」という本がありましたが、あれもたしか老子の関係だったはず。そう思って、老子関係の2冊目の本かなと思ってましたが、違ってましたね。
読み終えてからわかったのですが、本書はその「ラブ、安堵、ピース」そのものだったようです。他の出版社から改定再販するにあたって、書名を変更されたようです。
しかし、読み終えるまで気づかなかったということは、すっかり内容を忘れていたということですね。(笑) 「ラブ、安堵、ピース」は2017年に読んでますから、5年前のことです。改めてその紹介記事を読み返したのですが、また違う感銘があったようで、後で引用して紹介しますが、その箇所にも違いがあります。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「でもね、そうやって人が世界に名を付けることによって、タオは姿を隠し、代わりに「解釈」という幻想が現れる。そしてその幻想を「現実」と認識して生きているのが人間なんだ。
世間一般に言われる「現実」は、「様々な存在は分かれている」という幻想の中にあるけど、本当の現実(リアリティ)に分離はない。物理的に分かれて見えるからといって、それが「個別な存在だ」と決めつけてしまうのは早とちりだ。」(p.24-25)
名前を付けることで分離分断された個々別々のものだと解釈する。それが幻想なのですね。
「このように、「解釈」は、何かと何かを識別し、それらを比較したときに現れる。
一瞬のうちに行われる「自動連想ゲーム」の結果だ。
もちろん、識別自体に問題があるワケじゃない。
識別したものを比較し、その一方だけに価値をおいたり、選び取ろうとしてしまうところに、「満たされなさ」が生まれてしまうんだよ。
そして、もうひとつ大事なポイントは、この「解釈を生み出す物差し(優劣を決める基準)」が、人それぞれ違っているということなんだ。
だから、「あるがままの現実」はひとつでも、「解釈の現実」は人の数だけ存在する。」(p.29-30)
本当の現実がひとつのものなのに、その一部だけを選んで得ようとする。それは本質的に無理なことだし、一部しか受け取るまいとするのですから、不完全になって満たされなさを感じるのですね。
そして価値観は人それぞれであるということ。それなのにそれを絶対的なものと勘違いして、どっちが正しいかと争う。違うものを排除しようとする。劣ったものを批判非難する。こうして幸せから遠ざかっていくのです。
「だからね、そもそもの「賢い者ばかりをありがたがる」という物差しがなければ、人は「競う」という世界から自由になれるんだ。
同じように、皆が皆、希少価値を重んずるから、それらを奪い合い、しまいには、「泥棒だ! 強盗だ!」という騒ぎになる。
世の中が、「あいつが偉い」「これは素晴らしい」と、やたらに煽り立てるほど、余計に心がかき乱されるけど、本来は「事物そのもの」に価値が内在されているワケじゃない。人間がその対象に、概念的な価値を後付けしているだけなんだ。」(p.33-34)
価値を与えているのが自分の考え方、つまり価値観であり、それが絶対的なものではなく人それぞれなら、奪い合わなくても自分の考えを変えれば良いだけです。そうすれば簡単に幸せでいられるのです。
「「解釈の世界」に生きる人は、物事を分離して捉えているからこそ、「人の内に命がある」と言う。人に限らず、生物の個体それぞれに、個別の命が宿っていると思っている。
「あるがままの世界」に生きる人は、存在すべてのつながりを捉えているからこそ、「命の内に人がある」ことを知っている。
個別の命があるのではなく、無限に広がるたったひとつの「命」という空間の中に、すべての存在の躍動があるんだ。だから、そこに見えるのは、「個々の死生の繰り返し」ではなく、「絶え間ない宇宙の呼吸(全体における運動)」。そこには、奪われる命も、与えられる命もない。」(p.39)
本質が「ひとつのもの」だけであるなら、生命が「ひとつのもの」であるなら、そういうことですね。
「タオを生きる人は、誰かを救おうだとか、改心させようだとか、成長させようなどといった、何かをコントロールしようとする作為がない。
「世はこうあるべき」というイデオロギーを押しつけることもなければ、「自分はこうでなくてはならない」というセルフイメージに縛られることもない。
世の「うつろい」そのものを受け入れ見守る、愛の中に生きる。
タオは、万物を生み出し繁殖させるが、それらが成長しても、決して我がものとはしない。万物の創造主でありながら、支配者を気取らない。
「(意図を持って)働く」のではなく、「(摂理の)働き」とともにある。
これこそが、タオを生きる人の奥深さ「徳」なんだ。」(p.49)
自らの意図や希望を押しつけることがない。なぜなら、意に反するものは存在しないし、「かくあるべし」と考えないから。ただあるがままを無条件に、無批判に受け入れるだけ。愛とは、そういうものですね。
「「解釈の世界」では、一定の条件を満たしていなければ、相手や状況をそのまま受け入れられない。
ありのままの相手では受け入れられず、自分が受け入れられる状態に「変わって欲しい」と願うから、そこに、相手を自分好みにコントロールしようとする作為が生まれる。
また、相手に気に入られようとするがゆえに、ありのままの自分を認めず、相手の求める条件に沿う自分に矯正しようとしてしまう。
そうやって、「わたし」という自意識が強くなり、取引の世界に埋もれるほど、人は本当の愛から離れてしまうんだ。」(p.67)
「家庭内にいざこざが起きれば、「親孝行をしろ」「目上は敬え」とやかましく語られ出し、国の秩序が乱れれば、国民の模範となるべき者が求められ出す。
だけど、みんなが本当に求めているのは「愛」だろう?
本当に望んでいるのは、「礼儀」でも「正しさ」でも「ルール」でもないじゃないか。」(p.67)
愛は無条件。このことを知っているはずなのに、誰もそれを実行しようとはしません。自分の解釈、特定の解釈に従わせようとするのです。
「人はそれぞれに理想や希望を抱えていて、人生が思い通りに運ぶことを期待している。
残念だけど、どんなに綿密な計画を立ててでも、コントロールしきれないのが人生ってもんさ。
人生もまた、すべての流れはタオに従っているんだ。
人間にはどうすることも出来ない。
タオが右に流れようとすれば、現象は右に流れる。人はその流れに逆らえない。
その流れと同調せずに「左に行きたい」と願っても、「なぜ願い通りにならないんだ」という苦悩にしかならない。」(p.87)
どんなに「思い通り」にしようとしても、そうはならないものだと老子も言っています。その「思い通り」に執着するから苦悩が発生するのです。
「だからこそ、優れた者は「反戦運動」ではなく「平和運動」を選ぶんだ。
前にも書いたとおり、「争いがない」ことでしか「平和」はあり得ないんだからね。
それゆえに、平和が訪れてもおごり高ぶる事がない。
「平和のために戦う」という行為ではなく、「そこに加わらない」という無為こそが、その平和をもたらすのだから、そこに「己の強さをひけらかす」なんてことはナンセンスだろう。」(p.89-90)
マザーテレサは、反戦運動には参加しないが、平和運動なら参加すると言ったとか。平和のために争うなら、それは平和には結びつかない。それがわかっていたのですね。
「自衛のため、やむを得ず用いなければならないとしても、決してそこに大義名分や免罪符をつけてはならない。
仮に戰に勝ったとしても、それを美談にするようじゃダメだ。英雄になってはいけない。
その勝利を褒め称えるなら、それは人殺しを楽しみ、褒め称えているのと代わらない。
殺人を楽しむような輩がこの世で志を得ることなんて、できるわけがない。」(p.92)
防衛のために暴力をふるい、敵を殺してしまうことはあるかもしれません。しかし、その行為を褒め称えることはもちろん、仕方なかったと言い訳をしてもダメなのです。
どんな理由があったにせよ、人殺しは人殺しです。どうにか殺さずに済む方法があったのではないか? そう自問し続けることが大事なのです。
「人生は「思い(願い)通り」に流れてくれるわけじゃない。
でも、人生を「思い(願い)通り」に歩むことはできる。
どんな状況であっても、「満たされない」と解釈するのなら、人生は決して満たされない。
どんな状況であっても「満たされている」と解釈するなら、人生は幸せなものになる。
ほら、人生における「幸不幸」は、その人の「解釈」の世界に浮かび上がっているのさ。」(p.94)
「満たされない」と解釈している限り、満たされる人生にはならないのです。幸せもまたそうですね。
「「足るを知る」という言葉が指しているのは、「有り余るほど抱えている」ことでも、「欲をこらえて我慢する」ということでもない。「欠乏感がない」ということなんだ。」(p.119)
現実を何とかし、思い通りに十分に抱えることでないのはもちろんのこと、欲しいものを我慢することでもないのですね。つまり、そもそもそれは、それほど欲しいものではないという認識に立つことです。すでに十分にある、あるいは、あればいいけどなくてもかまわない、という認識です。
前の本の紹介でも書きましたが、この考え方は、まさに「神との対話」シリーズで語られている内容です。ですから私も理解しやすいのです。
それにしても驚くべきは、こういう考え方が2500年以上も昔に、すでに示されていたということです。ただ、私たちが理解し受け入れてこなかっただけなのでしょうね。
雲黒斎さんの解釈力、表現力には、本当に感服します。「超訳・般若心経」もありましたが、これからも「超訳」シリーズを出してほしいと思います。
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