2022年03月07日
医者に寿命を縮められてはいけない
著者の石原結實(いしはら・ゆうみ)医師の本は、これまでに何冊も紹介しています。
最近紹介した本としては「体温を上げて健康になる」があります。また、石原医師の療法によって末期がんが治ったと言うムラキテルミさんの「世にも美しい癌の治し方」も関連本と言えるでしょう。
今回の本も、これまでとほぼ同様の内容になっていました。ただ、知的生きかた文庫の体裁で、見開き2ページに1つのテーマでまとめる、というスタイルになっています。それが全部で82(他にコラムも)あって、どこからでも好きなだけ読めるという感じです。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「もし、これらの老廃物が、尿や呼気、便、目くそ、鼻くそ、汗などを介して体外に排出されなかったら、汚れは血液に乗って全身をかけまわり、細胞・臓器を薄い毒ガスの中に入れたように、徐々に害していくでしょう。
また血液中のコレステロール、中性脂肪、糖、タンパクなども、過剰であれば「血液の汚れ」となります。」(p.18-19)
「体の本能は、血液の汚れを何とか除こうとしますが、西洋医学ではその反応を抑えようとするため、病気がなかなか治りません。血液の汚れである老廃物や余剰物は、食べすぎ、運動不足、ストレス、冷えなどの日々の生活の中で蓄積していくのですから、健康になるにはまず血液を汚さない生活習慣にする必要があるのです。」(p.19)
石原医師の考えは、西洋医学は身体を全体として捉えておらず、症状を病気と捉えて、かえって身体を害しているということです。これは「万病一元、瘀血(おけつ)(血液の汚れ)から生ず」という言葉にあるように、東洋医学の考え方こそベースにすべきだ、というところから来ているようです。
「冷えと食べすぎによって白血球の動きは鈍り、免疫力が落ちてしまうのです。
白血球の働きを知れば、病気のときに、無理やり栄養をとって元気になろうとするのは逆効果だとわかります。断食が免疫力を飛躍的に高めるのは、食べ物の補給を断ち切られた白血球が、病気の原因となる老廃物やウイルス、病原菌、アレルゲン、ガン細胞などを思う存分に食べてくれるからです。」(p.23)
白血球は貪食(どんしょく)細胞とも呼ばれ、身体に不要なものを食べることで健康を保ってくれています。これが免疫力の中心です。そうであるなら、白血球の働きを活性化させるためにも体温を上げ、余分な栄養を摂らないことが重要なのです。
石原医師は癌の治療法としてニンジン・リンゴジュースを勧めていますが、これを飲むと白血球の貪食能が50%も上昇したという実証例があるそうです。
ただこれについては、私はまだ何とも言えません。科学的に検証されたとまでは言えないし、そのメカニズムも不明ですから。それに断食が効果があるなら、ニンジン・リンゴジュースも飲まない方が良いに決まっているではありませんか。そこに矛盾を感じるのです。
「あらゆる病気の原因は、体内・血液内に、老廃物と余剰物を「ためすぎること」、そして病気を治すには、「排せつすること」につきるわけです。汗や涙も含め、体外に排せつされるものには、「ありがたい」と感謝する気持ちが大切でしょう。
健康の原則である「出す」ために、もっとも大切なのが「少食」と「発熱」です。
もともと人体には、「吸収は排せつを阻害する」という生理上の鉄則があります。食べすぎると消化器官が大量の血液を必要とするため、排せつ器官である大腸・直腸、腎臓・膀胱などへの血のめぐりが悪くなり、十分な排せつがなされません。」(p.25)
排泄が重要だということですね。ただ、なぜ少食と発熱が排泄を促すのか、この説明ではよくわかりません。それに、食べ過ぎると排泄器官が働かなくなるというのも、自分の身体のことを考えると疑問です。
食べることによって胃腸が動き、排泄したくなることってありませんかね? 朝一杯の水を飲むことで排便を促すという考えもありますから。
「しっかりと健康指導を受けたグループのほうが、死亡率がずっと高かったのです。心疾患で亡くなった人は二倍、ケガや薬の副作用などの外因死ではじつに一六倍、総死亡数でも一・五倍にも及びます。この調査結果は、マスコミで「フィンランド症候群」と呼ばれ衝撃とともに受け止められました。
フィンランド症候群は、ストレスが人の体に及ぼす役割を如実に物語っています。」(p.31)
1970年代にフィンランドで行われた研究で、40〜50代の循環器系の病気の危険がある患者を2つのグループに分け、一方には綿密な健康診断や指導を行い、もう一方は自己判断に任せたのだそうです。その結果は、予想に反して指導した方の死亡率が高かったのだとか。
石原医師はその原因を、過度な干渉によるストレスだと考えているようです。特に免疫細胞の中のナチュラル・キラー細胞の働きを弱らせたのではないかと。
「かつては中高年特有の症状だった高血圧や動脈硬化、糖尿病、心臓病、高脂血症などの「成人病」は、いまや子供や青年にも増えてきたため「生活習慣病」と呼ばれるようになりました。半世紀前の子供の体温は三六・八〜三七℃が普通でしたが、いまでは、三六℃に満たない体温の子供が約四〇%を占めます。体温低下は老化の特徴であることからも、子供たちの体に老齢化の波が押し寄せていることがわかります。」(p.35)
前半は納得するのですが、後半にやや疑問があります。体温低下が老化の特徴というのは、何となくそうかなぁと思うものの、あまり実感できません。
と言うのも、私が働く施設のお年寄りたちは、たいてい36℃以上の体温があり、36.5℃くらいある人が多いからです。でも、健康とは言えないんですよね。まあ、それは老化だと言うことかもしれませんが。
「しかし、出血を「悪いこと」と決めつける前に、なぜ出血をしなければならないのか考える必要があります。「万病一元、瘀血より生ず」という漢方医学の理論に立てば、出血も血液を浄化するため人体に備わったメカニズムと理解できます。
洋の東西を問わず古くから行われてきた民間療法の一つに、「瀉血(しゃけつ)」があります。
ヒルなどの吸血動物に血を吸わせたり、血管を切開して汚れた血を人為的に抜く療法で、降圧剤のない時期の日本では高血圧や脳溢血の治療に活かされていました。」(p.38)
「また男性は生理がないからといってがっかりすることはありません。定期的に献血して「瀉血」を行えば、骨髄が刺激されて血液の産生能力が高まります。献血は自分も他人も助けられる、一挙両得のチャンスといえるでしょう。」(p.39)
喀血や下血など、出血を伴う病気がありますが、それらは血液を浄化しようとしているのだ、ということなのですね。それを人為的に行うのが瀉血で、新たに新鮮な血液を造ることで、血液全体の汚れを薄める作用があると言うのでしょう。
そして女性は生理によって、毎月のように出血している。これが女性が長生きな理由だと石原医師は言います。
そういうこともあるのかなと思います。献血で血を抜けば、造血機能が刺激されることは間違いありませんから。なので私は、積極的に献血をしています。
「昔から日本には「湯治」という習慣がありました。風呂で体を温めると、人間の体を構成している六〇兆個の細胞から「HSP(ヒート・ショック・プロテイン)」というタンパク質が産生されます。このタンパク質によって、細胞内の古いタンパク質はよみがえり、白血球による免疫力が強化されるのです。」(p.41)
ガン細胞は熱に弱く、39.6℃で死滅するのだとか。また、ウイルスや細菌と戦うために発熱することからも、体温を高めることは何らかの良い結果をもたらすと思われます。
ただ、それが劇的な効果をもたらすかどうかはわかりません。日本のように風呂につかる文化がない人々は多数いて、必ずしもそれで寿命が短いわけではありませんから。
「しかし、「食べたくない」という本能の声は「食べても胃腸は十分に働けない」という体からのサインでもあるのです。無理して食べると、十分な消化・吸収ができず、体内に老廃物が増えて、病気が治るどころか逆効果になります。
「食べることで体力がつく」のではなく、「体力があるから食べることができる」のが本当だからです。」(p.42)
体力が弱った時に動物は食べません。それは食べられないからでもあるのですが、食べないことで元気になろうとしているとも言えるのですね。
「肉は、肉食動物の栄養源であっても、草食動物にとっては何の栄養にもならないどころか、むしろ有害です。」(p.49)
「食べ物の好き嫌いは、病気を予防し、健康を維持・増進させるための体の本能的な反応と考えてよいのです。」(p.49)
動物は、自分が食べたいものだけを食べます。栄養があるからと言って、無理して食べたくないものを食べたりはしません。
そうであれば人間も同じように、食べたいものを食べれば良いということです。体の声に素直に従うこと。それが大事だとも言えますね。
「数日以上の断食をすると、吐く息は悪臭を放ち、体臭も強くなります。また、舌に厚い舌苔(ぜつたい)が現れ、濃いタンが出て、目ヤニや汚い鼻汁、濃い尿や真っ黒な便も出るという、排せつ現象のオンパレードが始まります。体にため込んできた老廃物や有害物質を一気に体外に排出することで、見違えるように元気になるのです。」(p.81)
石原医師は断食や少食を勧めておられます。それは、入ることより出すことを重視するからです。
「動物性タンパク質を食べて自分の筋肉や心臓を形づくっている細胞のタンパク質をつくろうとするのは、たとえていえば、既製服をほどいてつくり直すのと同じで、ぴったり自分に合う細胞ができません。洋服は生地から仕立てたほうが自分に合うに決まっています。よって、私たちの体の細胞をつくるためには、まだ動物としての特性をもたない植物性のタンパク質(生地)のほうがより適しているわけです。」(p.89)
石原医師はこう説明しますが、ちょっと論理性に欠けますね。では肉食動物はなぜ肉を食べて健康でいられるのでしょう?
人間が動物性タンパク質を食べることの是非は、何とも言えません。しかし、この論理では的確に説明できているとは言えないと思います。
「本能を無視して、「あれがいけない」「これをするべき」と、いろいろ指図すると、無理がかさみ体が悲鳴を上げます。何が正しいかは、すべて体に聞けばわかることですが、知識が邪魔して、なかなか「体の声を聞く」ことができません。大切なのは本能をよみがえらせ、本能にしたがうこと。そのためには、自分の体質が陰性なのか陽性なのか、自分の祖先はどんな土地で何を食べて体をつくってきたのか、動物としての本質は何かなど、「己を知る」ことが一つの手がかりになるでしょう。」(p.129)
自分に合う薬かどうかという項なのですが、本能に従うということ、体の声を聞くということが重要だという前段は納得できます。
しかし、そうであれば、一概に動物性タンパク質がよくないとは言えないでしょう。その人が自分の体に尋ねて決めればよいことです。
そして後段は前段と矛盾します。自分の本能に従えと前段で言いながら、そのために陰性体質か陽性体質かを知っておくことだとか、先祖が何を食べてきたかを知るべきだとか、矛盾していますよね。
石原医師は、東洋医学の見地から話をされるのですが、東洋医学が正しいという思い込みがあるのではないかと思います。
もちろん間違っているとは言いませんが、「東洋医学が正しい」を前提として、それを示す事実や論理だけを拾い集めている感があるのです。
「しかし、よく考えてみると、バイ菌はゴミため、肥だめ、ドブ川、死骸などの汚いところにうようよと生息していますが、清流やコバルトブルーの海の中にはほとんどすんでいません。なぜなら、バイ菌は、地球上の余剰物、不要物、死骸などを分解して清浄化し、土の中に戻す使命を担ってこの世に存在しているものだからです。そうしたバイ菌が体内に入って来て、肺炎、気管支炎、膀胱炎などの炎症を起こすというのは、すなわちその人の血液(体内)が汚れていることの証でしょう。」(p.130)
これは一理ありますね。ただ、栄養が豊富であることが汚いことと同じなのかどうかは、一概には言えません。
生きている人の身体には免疫力という防御システムがあるから細菌が繁殖できないだけで、死骸には免疫力がないから繁殖できる。物質的には、生きている体も死骸も同じものではありませんか。
「世界的な長寿学者であるボストン大学のトーマス・パールズ教授は、一〇〇歳まで生きる条件の第一に、「少しの毒は、生命を最大一五年伸ばす」としています。その毒とは「放射線(X線)」「紫外線(日光)」「アルコール(酒)」の三つです。」(p.138)
放射線も少量であれば人体に悪影響がないばかりか、逆に良い影響がある。それが広島長崎の被爆者の追跡調査でも明らかになったとあります。
アルコールもたしかに人体にとっては毒であり、だから肝臓で分解されます。しかし、それによるメリットがあることもたしか。何ごとも一概には言えないのですね。
「健康を保ち、老化を防ぐには、全身の細胞への血流をよくすることが何よりも大切です。私たちはお腹が痛いときはお腹に、腰痛があるときは腰に、無意識に手を当てます。これは患部に手を当てて温め、血流をよくして症状や病気を治そうとする本能的なしぐさなのです。この「お手当て」こそ「治療」の本質といえるでしょう。」(p.143)
これがまさにレイキですね。しかし、どうして手を当てることが患部を温めることが主目的だと言い切れるのでしょうね?
こういうところも決めつけが多いなぁと感じてしまいます。
「皮ふにすむ黄色ブドウ球菌は、ダニや化学物質から皮ふを防御しますし、腸内の常在大腸菌は、食物と一緒に侵入してくる病原菌をやっつけます。よって、抗菌グッズや消毒剤、抗生物質などで、こうした有益菌を殺すと、菌交代現象が起こり、さまざまな新種の病原菌が現れてくるのです。」(p.170)
「人間の腸の中には百兆個もの細菌がすんでいますが、それは人間という生物と細菌の「共生関係」を示しています。それにもかかわらず、抗生物質で細菌を無差別に殺戮した結果の、細菌の逆襲がO-157食中毒であったかもしれません。
健康のためにその「共生関係」を保つには、食物繊維をしっかり摂る、お腹を温める、食べすぎ(とくに肉食の過食)を避ける……などを心がけるといいでしょう。」(p.171)
人体の健康が細菌によって守られていることは、徐々に知られるようになってきました。ですから、むやみに殺してはいけない。たしかにそうだと思います。
しかし、そのためにどうして食物繊維を食べ、肉食をやめ、お腹を温めるになるのでしょうか?
たとえば西洋人は肉食に合うように進化して、腸が短くなったと言います。そうであるなら日本人だって、これから肉食が増えていけば腸が短くなって適応するとも言えるはずです。
また、人間の歯の構成から食べ物の割合が決まるとも言われてますが、それなら西洋人と日本人とで歯の構成が同じなのはどうしてでしょう?
どうもこういう根拠のない決めつけには納得しがたいものがあります。
「この「本能」こそが、自然治癒力の原点であるべきです。科学が忘れがちな、人間の中の自然や本能に根ざしたサインを一番重要視してほしいと思います。人それぞれがもっている本能を大切にすることが、自然治癒力を呼び覚ますのですから。
この本に書かれていることも、実行したり、考えたりして、「どうも自分の体質に合わない」と実感されたら、無理をして続ける必要はありません。あくまでも「自分の本能」と「自分の体の自然に発現するサイン」を一番大切にしてほしいわけです。やってみて気分がよい、気持ちがよいというほうが、自分にとってつねに正しい選択なのです。」(p.181)
こういうところは共感します。
「日常の診察で気づくことは、「単純明快で明るく朗(ほが)らかな人、些細なことにこだわらない人」はガンにかかりにくく、かかっても、再発や転移も少ないという印象があります。反対に、「頑迷で、物にこだわりがあり、抑うつ気質の人」はガンが治りにくいようです。「精神の安寧」は、ガンを予防・治癒する何よりの薬なのでしょう。」(p.193)
精神が肉体に影響することは、科学的にも実証されています。不安が病気を作るのです。
この本は、最初にも書いたように見開き2ページで1つのテーマとなっています。そういう制約があるためか、あまり根拠を示さず言い切る表現が多いように感じました。
もちろんそれは編集の方針もあったでしょうし、そうした方がわかりやすいとか、浸透させやすいという効果を狙ったものかもしれません。
なので、私としては納得がいかない部分も多々あるのですが、全般的にはこれまでの本と同じような内容であり、支持できる部分が多いと思っています。
2022年03月16日
ここまでできる自衛隊
ロシアがウクライナに攻め入り、戦争が始まりました。そういう時期に合わせたわけではありませんが、我が国の防衛を考えるのにふさわしい本と出合いました。
どういう経緯で買ったのかは忘れましたが、自衛隊の行動が法によって厳格に縛られていること、まただからこそ法整備が重要であることを知る上で、大変役立つ本かと思います。
著者は国際法・防衛法制研究者で軍事ライターでもある稲葉義泰(いなば・よしひろ)氏です。専修大学在学中の2017年から軍事ライターとして活動されているとのこと。随分とお若い方なのですね。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
「しかし、一九一四年に勃発した第一次世界大戦によってもたらされた未曾有の被害を受けて、国際社会において徐々に戦争を行うことを制限したり、違法化したりするための努力が進められることとなりました。その成果の一つが、一九二九年に発効した「不戦条約」です。」(p.23)
国際社会では永らく、切り取ったもの勝ちの帝国主義的な侵略、植民地化が行われていました。それに歯止めをかけたのが、第一次世界大戦と、その後の国際社会のコンセンサスだったのですね。
しかし、この時点では「戦争」は禁止するものの、「武力の行使」は禁止されていない、という抜け穴的な解釈を生むことになりました。宣戦布告などをすれば「戦争」であり、そうではない武力行使は「戦争」ではないという解釈です。
「その結果、人類は第二次世界大戦というまさしく世界規模の戦争を経験することとなり、国家が武力を行使することに対するさらに強固な規制を設けることにしました。
それが、国際連合(国連)の基本文書であり、国連加盟国の権利や義務、さらに国際社会の諸原則について定めている国連憲章の第二条四項の規定です。」(p.26)
これは、「戦争」だけでなく、「武力による威嚇又は武力の行使」を禁止するという国際条約であり、国際法なのです。日本国憲法の第九条も、この精神が反映されています。
しかし、これにも抜け穴があったことは明らかです。自衛のためと称して、その後も数々の戦争が起こっており、今まさにウクライナ戦争も勃発しているのですから。
しかし、だからと言ってこの人類の取組みをすべて否定する必要もないでしょう。少なからず前進していると捉えるべきです。
そうであれば、このウクライナ戦争においても、機能しない国連の取り決めを見直すきっかけにすべきではないかと思います。
本書ではこの後、自衛隊の行動に関する様々な法を取り上げ、何ができて何ができないのか、身近に起こる事例をたとえ話としながら説明しています。
それが必ずしもわかりやすいとは言えない部分もありましたが、少なくともそういう事例がなければ、面白みのない固い内容の本になっただろうと思われます。
たとえば隣国が尖閣諸島に上陸しようとした場合、どういう法がどう適用され、自衛隊は何ができるのか? どこまでできるのか? というようなことが示されています。
ただ、それでも多くの問題点があるはずなのですが、そういう視点での記述は少ないように思いました。
「たしかに、考えてみれば日本国内で一般の人々が自衛隊の姿を目にするのは災害派遣が圧倒的に多く、被災地における自衛隊の活躍がテレビで報じられるほか、最近ではSNSの普及によって、さまざまな被災地の現場で活躍する自衛官の姿を目にする機会が多くなってきたことは間違いありません。しかし、本書でも触れたとおり、災害派遣は自衛隊の任務の一つとはいえ、あくまでも自衛隊の主たる任務は創設当時から一貫して「我が国の防衛」なのです。」(p.345-346)
アンケート調査で、国民が自衛隊に第一に期待しているのは災害派遣だという結果が出ました。戦争に直結しかねないことには、防衛とは言っても慎重なのでしょう。
稲葉氏は、そこにもやもやしたものを感じて、この本を書いたと言われます。つまり、やみくもに戦争に突入するような組織ではなく、法によって厳格に縛られた組織なのだということを、知らしめたかったのだろうと思います。
まあしかし、多くの人はこういう本は読まないと思います。どれだけわかりやすく解説したとしても、専門的と捉えられるでしょうから。
それに多くの人は、イメージで理解するものです。だからプロパガンダに容易に影響を受けてしまうのです。
なので、稲葉氏が意図したような結果にはならないと思いますが、1つの試みとしては評価できるのではないかと思います。
私自身、自衛隊が法によって縛られていることは認識していましたが、具体的にどう縛られるのかは知りませんでしたから。ある程度わかっている人には、役立つ内容ではないかと思います。
2022年03月21日
老後はひとり暮らしが幸せ
これも上野千鶴子さんの「在宅ひとり死のススメ」で紹介されていた本です。非常に多くの興味ある本を紹介されていたので、買ってはみたものの、読むまでに随分と時間がかかってしまいました。
けれども、読んでみると非常に素晴らしい内容でした。単に自分の考えの正当性を押し付けようとするような文章ではなく、アンケート結果に基づいて可能性を丁寧に検討しておられます。
著者は大阪で開業されている辻川覚志(つじかわ・さとし)医師。辻川医師も、このアンケート結果は意外で、目から鱗が落ちるような結論になったようです。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「そこで、現在同居している人やひとり暮らしの人に、日常生活における満足度を聞いてみました。結果は、ひとり暮らしの人の方が、同居の人と比べて、より満足して暮らしておられることがわかりました。しかも、ひとり暮らしで子供を持つ人と持たない人とで、満足度はまったく変わらないこともわかりました。」(はじめに)
タイトルにもあるように、これが結論ですね。
「たとえどのような状況に置かれていても、その人が満足しておれば、その日々は、その人にとって有意義で、充実していると言っても良いと思います。そのために、人の満足感から高齢期の生活を見直すと、いったいどのように見えるだろうかと考えたのです。」(はじめに)
満足感というのは主観的なものです。客観的に比較することはできません。たとえ同じ状況でも違いが出ることもあるし、違う状況でも同じように満足する人もいます。しかし、状況からその傾向を見ることはできます。
辻川医師は、そこに関心を持たれたようです。子を持つ人なら、独居、同居、ホーム入所の3つ、子を持たない人なら、独居かホーム入所。この生活形態による満足度を比較しようとされたのですね。
「平成25年4月から5月にかけ、筆者の診療所を受信されたすべての60歳以上の方々を加えた、独居・同居者の合計484名の方々に、年齢、性別、満足度、悩みの程度、いろいろな状況などについてアンケート調査を依頼し、460名の方々から許可と回答を頂きました。また、さらに、このアンケート結果について、さまざまな年齢層の方々から頂いた意見も加味しながら、高齢期にどのように暮らせば、いちばん幸せに暮らすことができるのかを考えてみました。
その結果、ひとり暮らしがもっとも現実的で、理想の姿であり、もっとも幸せに近いことがわかりました。」(はじめに)
大阪府門真市の医師会では、60歳以上のひとり暮らしの人を対象に電話による情報交換を行っているそうで、その対象者からの情報に加え、辻川医師のもとに診療に訪れた方々へのアンケート結果から、このような結果を得られたそうです。なお、アンケートの詳細は巻末に載っていました。
「この方は、友達も多く、お互いに連絡されたりしておられるようですが、それほど、頻繁ではありません。それにもかかわらず、寂しくないとおっしゃるのは、やはり、はじめからひとりであることが、前提条件のひとつになっていたからかもしれません。つまり、寂しいという感情は、その人の感じ方であり、あくまでも主観的な感情であることをあらためて認識させられます。」(p.14−15)
ひとり暮らしと言うと、すぐに寂しいと想像する人が大勢います。しかし、まったく寂しくないという人もいるのです。
実は私もその中の1人です。長らくひとり暮らしをしていましたが、まったく寂しいと感じたことはありません。孤独だとも思いませんでした。
「すると、男性と女性で満足度には差がなく、両方ともに、独居の方が高い満足度を示していました。」(p.18)
男女でかなり違う価値観や考え方を強いられてきた高齢者ですが、それでもひとり暮らしの方が共通して満足度が高かったようです。
「子が遠方に住んでいる方は、どちらかというと、身寄りのおられない完全独居の方々と似たように話される場合が多いような気がします。つまり、子からの支援を、あまり期待されていないように感じるのです。」(p.26)
「人間はひとりで生まれ、ひとりで逝くものだといわれているように、この立場の方々の生き方こそ、人間本来の姿であるともいえるかもしれません。」(p.27)
「アンケート結果によりますと、子が近くにおられる場合も、遠方にしかおられない場合も、子がいない場合も、すべて満足度には大きな差は認められませんでした。
子の存在は、親にとって一体どのような意味を持つものか、よくわからなくなるような結果になりました。極端なことを言えば、満足する老後に、子は決定的な働きをしていないことを示していると思われます。」(p.27)
「子を持たぬ人は、悩みは少なく、日常生活における満足度も高い。しかも、年齢とともに、体の具合が悪くなってきても、満足度は低下しにくいようです。」(p.28)
子は、いればいたで悩みのタネにもなる、ということかと思います。しかも、同居のように日常的に接するとなると、日々、じわじわとストレスを感じ続けることになる。だから、むしろ子がいないか、いても日常的に接することがない方が、満足度が高くなるのかもしれません。
私も子はいませんが、したがって子育てのことで頭を悩ますことなく暮らしてきました。もちろん、子に自分の生活を助けてもらうこともできませんが、そもそもそれをアテにしていなければ、失ったとも感じませんからね。
「多忙を極める人が、もし何か他の原因で多忙になった場合は、やらされているという意識が働き、ストレスをためることになりますが、もし自らの思いで積極的に多忙となった場合は、その人は、たとえ苦しくとも、自分の目標に向かって突き進んでいるという気持ちが加わるので、不満どころか、充実感すら感じることができるかもしれません。やはり、気持ちの持ちようなのです。」(p.33)
同じ「多忙」という状況であっても、他者から押し付けられていると感じているのか、それとも自ら望んで飛び込んでいると感じているのかによって、ストレスにもなれば充実感にもなる。すべては見方次第で決まるということですね。
「多くのひとり暮らしの方々から聞いた内容から考えて、これが、満足度を上げるために、もっとも重要なポイントと言っても良いかもしれません。緊急時ではなく、普段の生活において、何でも相談できて、どんなことも話ができる友がいることは心強いものです。」(p.36)
信頼できる友がいるということは、ひとり暮らしに限らず、満足度を高めてくれるでしょうね。
けれども私は、その必要性すら感じません。なぜなら、頼る必要性がないからです。自分を友にすればいいし、何なら神を友にすればいい。そう考えています。
「アンケート結果では、家族数が4人以上いる三世代世帯に属する高齢者は、ひとり暮らしの人と同じくらい満足しておられました。やはり、多くの家族と過ごす高齢者は、普段から、十分満足して生活されていることがわかります。昔ながらの大家族の中で過ごす老後は、今も快適な環境だと言えるかもしれません。
しかし、今、この三世代世帯が減少してきています。そのため、多くの高齢者が三世代世帯で老後を過ごすことができなくなってきているという現実があります。」(p.40)
三世代同居の大家族という形態は、老後の満足度からすると申し分ないのですが、現在の生活形態からすると実現が難しいということですね。
「人に頼らないということは、人に期待していないということです。他人の力を期待していたら、もしやってもらえなかったときに、がっかりしますが、逆に、もしまったく期待していなかったのに、人から思わぬ援助をもらったりすると、自然に感謝する気持ちが芽生え、自分自身にストレスをため込むようなことはないということになります。また、人に頼らず、すべて自分で何でもやろうとすれば、当然、相当な身体能力を使いますので、自らの能力をできるだけ低下させずに済みます。」(p.43)
人に頼らないという覚悟によって、精神的にも身体的にもメリットがあるということですね。
「とりわけ、家族数がふたり、3人と少数の場合、家族数が少ないだけに、うまくいかなくなったとき、満足度は大きく振れます。ひとりの人とうまく関係を持つことができなくなった場合、間に入って、緩衝役を買ってくれる人がいない分、人間関係の悪化が長期化する傾向があるようです。家族数が少ないために、肝心の人間関係を良好に保つことがむずかしいのかもしれません。」(p.50)
「実際、アンケート結果を、家族数別に集計してみますと、独居と4人以上の家族がいる人の満足度が高く、家族数ふたりの満足度が最低で、家族数3人の満足度はその中間でした。このことは、緩衝役の働きが大きな意味を持っていることを示す結果と考えられます。」(p.63−64)
同居家族数が少ないと、特定の人に依存することになりがちなのですね。その特定の人との関係が悪くなると、とりなしてくれる人もおらず、長期に渡って影響を受けがちになる。これが同居の満足度が低い原因だろうと思われます。
「この家族負担は、介護をする家族にとっては耐えがたい苦しみであることが知られていますが、頼む側の被介護者も苦しんでいるということがわかります。家族介護は、介護する側も介護される側も、どちらも幸せにはしないのです。」(p.90)
「つまり、家族数が多ければ、うまくこれらの問題を吸収しながら、高齢者に対しても一定の支援を続けることができているのかもしれませんが、かならずしも、すべての三世代世帯が幸せとは限らないのではないかと思われます。」(p.91)
そもそも家族介護に大きな問題があるのです。嫁が介護して当然というかつての風潮もそうですが、介護されるのが当然でなくなれば、介護される側にも遠慮が生じます。
この問題を解決しようとしたのが介護保険制度であり、老人介護から家族の負担を解放し、ビジネスライクな公的介護にすることで、介護を受ける側の心理的な負担も解放する試みとなっています。
こういう様々な問題と、現代の「個の時代」という時代背景からしても、三世代同居の大家族制を無理して追い求めるより、同じように満足度が得られるひとり暮らしに解決策を求めるのが適切ではないか。辻川医師は、そう考えられるのです。
「頭も使わなければ、どんどん機能を落としていきます。計算をやることも、漢字を使うことも、やらなくなれば、誰しもすぐに忘れて計算ができなくなったり、漢字を思い出すことができなくなったりした経験を持っておられると思います。何も老人ホームに入所しなくても、起こり得ることなのですが、ホームでは何もかもやってくれますので、いよいよ使いません。そうすると、ひとり暮らしに比べて、能力が低下しやすいと考えなければなりません。」(p.98)
老人介護施設では、スタッフがいろいろなことで介助します。しかし、スタッフにも作業割り当てがあるため、1人の入居者様にいつまでも時間を掛けるわけにはいきません。つまり、待っていられないのです。だから、スタッフが過剰に介助することになりがちです。
それだけ、ホームに入所すると自分が持っている機能を使えなくなる、つまり機能が衰えることになりがちなのです。
「とにかく、住み慣れた土地から離れてはいけないのです。
少なくとも、アンケートに回答して頂いた方々の意見では、住み慣れた土地には、自分自身の人生の記憶が染みついているのだとおっしゃいます。この慣れ親しんだ空気、風景、いつもの音、いつもの顔は、その人の人生そのものであると言っても良いかもしれません。」(p.108)
住み慣れた環境にこだわるということは、それだけ影響を受けやすいということなのでしょうね。でもおそらく、私のように引っ越しを繰り返している人間には、あまり関係がないかと思います。
「ひとり暮らしは、レストランサービスなんかなく、大浴場も完備せず、食事も掃除も洗濯も炊事もすべて自分でやらないといけないのに、満足度は高いのです。その理由は、明確です。自分が思っている通りの生活ができることが最大の利点だからです。この自由ということは、たとえば、体が衰えてきて、炊事をすることも、ままならぬことになってきても、ひとり暮らしの満足度を維持させる原動力となっていたのです。人間にとって自由とは、もっとも大切なことなのかもしれません。」(p.110)
これには私も同感です。人にとって最も重要なのは自由です。多くのことを犠牲にしてでも得たいのが自由。だから、老人介護施設は満足度が低くなるのです。
「いつも一定の時間に、何かやろうとするだけで、朝、絶対に起きないといけなくなり、生活にリズムが生まれるわけです。規則正しい生活こそ、体調を整える第一歩です。」(p.128)
一人暮らしをする上で、怠惰にならずに健康を維持するための極意ですね。
「体力が落ちてきても、アンケート調査に協力して頂いたひとり暮らしの方々は、非常に前向きに、病院だけでなく自宅でもリハビリテーションに励んでおられました。」(p.137)
ひとり暮らしは他の人に頼れないだけに、自分の身体機能を維持するための努力が欠かせないのです。それはある意味で、自分の身体を大切にすることではないかと思います。
「ということは、他人を頼らずに何でも自分でやり、自分に残されているいろいろな能力を、日々使い切りながら自らが満足する人生をおくろうとすることと、多くの共通点があることに気づきます。つまり、認知症予防と、満足する老後を過ごすための努力とは、方向性が同じなのです。何も、認知症を予防しようと肩に力をいれてがんばる必要はなく、ごく自然に、人生を楽しもうとすれば、それがとりもなおさず、認知症予防につながるものと考えます。」(p.150)
ひとり暮らしを快適にするために、自分の身体機能を衰えさせないように使い続けることは、そのまま認知症予防にもなるということですね。
もちろん、認知症を完全に予防できるという保証はないのですが、身体を使い、頭を使い続けることは、予防のために大事なことではないかと思います。
「一人暮らしの人がいよいよ衰えてきたら、選ぶ選択肢は、ふたつです。ひとつは、自宅で死ぬことであり、もうひとつは、高齢者用施設(種々の老人ホームや高齢者用賃貸住宅など)に入所することです。
そこで、どこまで低下すると入所を決断するかというアンケートを独居の方々から頂きました。
@独力でトイレに立てなくなったとき
A自分の力で食べ物を口に持っていけなくなったとき
B買物が自力でできなくなったとき
という3つの回答が多かったと思います。」(p.190)
やはりひとり暮らしの方でも、自力で生活ができなくなると、他に頼りたくなるのでしょうね。
けれども、病院はいつまでも入院させてくれません。ですから、ホーム入所を考えるのだと思います。
私は、Bは論外です。なぜなら、介護保険でカバーできるからです。Aは、食べなければよいだけですから、心配していません。
問題は@です。尿意を感じないだけならおむつなどで対処できますが、着替えもできなければ自分の尻も拭けなくなったら・・・。
私は、もう食べることも飲むこともやめて、即身仏になるという方法もあるな、などと考えています。実際にどうするかは、わかりませんけどね。
「また、自宅や病院で、身寄りもなく、最期を迎えたときは、どうなるのでしょうか。
大阪府四条畷市の場合は、市が資産を調べ、3親等以内の身寄りを徹底的に探します。その上で、身寄りがおられないことがわかれば、市の方で、対応することになります。
まず、病院や自宅から、直接、火葬場へ移送され、荼毘(だび)にふされます。その後、共同墓地ですが、しっかりと祀ってもらえます。」(p.197−198)
本人の資産があるなら処分され、必要経費を差し引かれて、国庫に返還されるそうです。このように、日本国内であれば、死後の処分は最悪、行政がやってくれます。だから、独居でも何も心配しなくていいのです。
「独居者全体の満足度は、同居者全体の満足度に比べて、有意に高い値を示していました。そこで、同居者を条件別に検討しましたところ、三世代世帯ならびに家族数4人以上の世帯に属する60歳以上の人の満足度だけは、独居者の満足度を上回っていましたが、悩みの程度は逆に多いという結果でありました。しかも、両者とも統計学的には、有意な差であるとまでは言えません。ということは、同居の中でも、もっとも高い満足度を示した高齢者群でさえ、決して独居者を超えるほど満足して生活されていないのではないかと考察します。」(p.202)
「つまり、独居者では、悩みが少ないために、同居者に比べて、たとえ健康意識が低下してきても、満足度が高いことがわかったのです。
その結果を補完するために、悩みと満足度の関係を調べましたところ、悩みが増えると満足度が低下するという明らかな相関を認めました。
これらの結果を総合すると、60歳以上の人の日常生活における満足度を左右する主たる要因は、悩みの程度であるということがわかりました。つまり、この悩みをうまく低く抑えることができれば、年齢を重ねても快適な生活が待っていることを意味します。」(p.203)
「以上、すべての結果をあわせて考えますと、いろいろな対外的な活動を活発にし、もし子がおられても、決して同居はせずにひとり暮らしを維持し、できるだけ悩まないようにさまざまな取り組みをしながら、最後まで何でも自分でやり、自分の思いのままに暮らすことが最も理想的な老後の姿であるということがわかります。」(p.204)
これが、アンケート調査の結果から読み取れる結論だそうです。
なお、「健康意識」というのは、自分が健康であると意識しているかどうかという度合いのことですね。
「残されたお金は、決して高齢者向け施設に入所するために使ってはなりません。人間誰しも、いずれ彼の地に向かいます。そのときの体の苦しみは、同居でも独居でもホームでも、同様ではないでしょうか。ならば、最期のときまで自分の意思で暮らすことができる可能性の高い独居が、一番、幸せに近い形なのではないでしょうか。
他人に頼るからだめなのです。人を頼れば、充分な支援がもらえなかったとき、ストレスがたまるのです。もともと何も期待していなければ、もし少しでも援助をもらえたら、とても感謝する気持ちが出てきます。気分良く、満足した日々をおくる確率を高めることができるはずです。」(p.209)
高齢者施設に入所して高いお金を払うのはもったいない。そういう施設で働いている私には耳が痛いことですが、現実には同意せざるを得ません。私自身、いくらお金があっても、そういう施設に入りたいとは思いませんから。
年老いても、老いる前でも、やはり重要なのは「自由」なのだと思います。無用に制限されたくはないのです。
家族であっても、離れて暮らしていればどうでもよいことを、同居していたら気になってしまって口出しをすることがあります。それがストレスになるのですね。
もちろん、同居していても互いの「自由」を認め合える関係であれば、独居より快適な生活ができると思いますよ。ただ、今の多くの人の他者依存の姿勢を見ると、まだ現実的ではないのかなぁと思います。
したがって、次善の策として、独居を貫くことは、有望な選択肢ではないかと思いました。
2022年03月27日
なんとめでたいご臨終
これも上野千鶴子さんの「在宅ひとり死のススメ」で紹介されていた本です。在宅医療を、それぞれのエピソードを通じて紹介する内容になっています。300ページを超えるボリュームがありますが、とても読みやすい本でした。
著者は小笠原文雄(おがさわら・ぶんゆう)医師。今まさに亡くなられるばかりの患者さんや、身内を亡くされたばかりのご家族と一緒に、笑顔でピースサインの写真を撮られています。「死」というものを、納得して肯定的に捉えておられるのだなぁと感じます。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
「病院勤務時代に救命救急もしていた私は、数百人の看取りをする中で、「死ぬ時は苦しいのが当たり前」、ご遺族にかける言葉は「ご愁傷さま」、そう思っていました。当時は、”家で苦しみ始めたら、救急車を呼んで病院へ”という考え方から、病院の使命である延命治療を受け、苦しんで亡くなる人が多かったのです。
しかし、最期まで趣味の釣りを楽しみ、奥さんと笑顔で暮らした丹羽さんの穏やかな旅立ちは、私の医療に対する考え方を大きく変えました。
「最期まで家にいたい」という願いが叶う時、目には見えないいのちの不思議さがある、在宅医療なら病院ではできないいのちのケアができる、そう思うようになったのです。」(p.4−5)
「在宅ホスピス緩和ケアの「在宅」とは、暮らしている”処(ところ)”。「ホスピス」とは、いのちを見つめ、生き方や死に方、看取りのあり方を考えること。「緩和」とは、痛みや苦しみを和らげること。「ケア」とは、人と人とが関わり、暖かいものが生まれ、生きる希望が湧いて、力が漲(みなぎ)ることです。」(p.5−6)
小笠原さんは、死は敗北だとしてきた医療のあり方に疑問を持たれたのですね。そして、在宅ホスピス緩和ケアを始められた。そのことによって、同じ亡くなるとしても幸せでいられることがわかったのです。
「ご家族は、”最期まで家にいたい”という患者さんの願いを叶えてあげたいという想いで支えていますが、ほとんどの方は、家での看取りが初めてです。
患者さんが元気なうちはいいのですが、死ぬ直前になって少し様子がおかしくなると、どうしたらいいかわからずパニックになり、救急車を呼んでしまうご家族も少なくありません。急いで救急車を呼んで、死ぬ前に救急車が到着してしまった場合、何が起こると思いますか。悲劇です。患者さんは救命処置をされ、死ぬことを許されず、延命措置をされるのです。
そんな悲劇を起こさないためには、患者さんの身にこれからどんなことが起こるのかを予め想定しておくことが大事です。そのため「お別れパンフ」には、これから患者さんに何が起こるのか、お別れの前にしておくこと、してはいけないことなどを書いています。」(p.26)
看取る側にも知識と心の準備が必要なのですね。昔なら、近所のお年寄りなどがやってきて、いろいろ教えてくれたり、支えてくれたりしたものです。今はそういうコミュニティーが崩壊しているので、いきなり身内の死に直面し、自分たちだけで何とかしなければならない。
救急車を呼ぶとはどういうことなのか? そういうことも、事前によくよく考えておく必要があると思います。
「お孫さんが渡辺さんの告別式で話した言葉を、THP+に載せてくれました。
この遺影(次ページ参照)は、先生方と一緒に畑に行ったときのものです。嬉しそうにピースサインをする祖父。大好きな畑に行き、お風呂にも入り、ビールも飲むことができました。自宅では本当に幸せそうでした。写真の笑顔を忘れず、祖父を偲んでいきたい。おじいちゃん、ありがとう。」(p.33)
人はいつか死ぬものです。その最期が、幸せに満ち足りたものだったら、遺された家族もまた、幸せな気持ちでいられるのではないでしょうか。
なお「THP+」というのは、後にも出てきますが患者さんやそのご家族、そして在宅ホスピス緩和ケアに携わるチームの人々が交流し合えるアプリのことです。
「上松さんはその後も大好きな焼酎を飲んで笑顔で生き、最期は穏やかに旅立たれました。多くの患者さんの最期を見てきた医師が、在宅ホスピス緩和ケアを選択したという事実を、抗がん剤で苦しむ多くのがん患者さんに知ってもらいたいと思い、この事例を取り上げました。それは、今も抗がん剤治療で苦しんでいる患者さんへ、上松医師が遺してくれた希望なのだと思っています。」(p.39)
最期まで抗がん剤治療を行ってきた医師が、自分が癌になったら治療をせず、緩和ケアをすることは卑怯ではないか? そういう葛藤を乗り越えて、自ら緩和ケアという選択肢があることを広めようとされたのですね。
「ここにいたいと願うところにいられれば、心が定まり、極楽にいるような心境になれる。それが「ところ定まれば、こころ定まる」なのです。そして、そのような想いになれた瞬間から、我がいのちは、仏様と同じ清らかなところ、極楽が報土(ほうど)と化したところに存在し、今がいちばん幸せと思いながら穏やかに生きて、死ねるのではないでしょうか。
希望死・満足死・納得死は、暮らしの中にあるのだと思っています。」(p.48)
在宅で死ぬということは、自分がここにいたいという思いを満たすことなのですね。それは必ずしも自宅という意味ではなく、その人がそこにいたいという思いを満たせる場所、ということなのです。
「最初にお伝えしたとおり、木下さんの希望は「自宅で最期まで過ごすこと」でした。だからこそ木下さんは限界が来るまで自宅療養していたのです。でも自宅療養にも限界が来た、近くに24時間診てくれる診療所もない、山で暮らすことはもう不可能だろうと、希望の光が消えました。希望がなくなると、免疫力が下がるとともに、ADL(日常生活動作)も下がり、悪循環となるのです。
ところが「家で死ねる、山で死ねる」という1本の電話によって、自宅で最期まで過ごすことができるとわかり、希望の光が見えました。光には灯りと力があります。それが元気の源になったのだと思います。」(p.60−61)
電話で自宅にいたいという望みを叶えてあげますよと伝えただけで、奇跡的に元気を取り戻したという事例です。病は気からと言いますが、病状にも大きな影響があるのですね。
「自宅で看取るご家族は、患者さんが急変した時や亡くなった時、医師を呼ぶのが当たり前だと思っている人が多いと思います。でもそうではありません。「旅立ちの日が近づいたサイン」(196ページ参照)に記載してあるように、旅立ちの過程を知っていて、患者さんが穏やかであれば、最期の時はご家族だけで過ごしていいのです。ただし、苦しんでいる場合は救急車ではなく、訪問看護師を呼んでくださいね。」(p.73)
亡くなることを受け入れていれば、穏やかな旅立ちが可能なのです。
「モルヒネとは、量を増やすことで痛みを緩和できる不思議な薬です。医師がモルヒネを使いこなすスキルを身につけるのと同時に、そのことを患者側も知っておくことが大切なので、次のことを頭の片隅にとめておいてください。
・痛みは薬で取れる
・薬は安全に使用できるように工夫されている
・医療用麻薬は、痛みの治療をしている限り、中毒にならず安心である
・突然の痛みは我慢せず、レスキューですぐ取る
・副作用による便秘や吐き気などは、予防できる
さらにモルヒネは、エンドルフィンという嬉しい時や幸せを感じた時に出る物質の化学構造式にいちばん似ています。つまり、モルヒネを摂取すれば、エンドルフィンが出ている時と似た状態になって、痛みや苦しみ、呼吸苦を取り除くだけではなく、朗らかになれるのです。」(p.79−80)
終末期の医療に関わらず、長期的な痛みの緩和において、もっとモルヒネの使用についてのハードルが下がるといいのに、と思います。
他にも、「ソル・メドロール」という薬の話がよく出てきます。私は老人介護の現場で働いていますが、看取りの段階のお年寄りに対して使っていないように思いました。こういうことも、医師によって知識や経験の違いいがあり、使用するしないという差が生まれるのかもしれませんね。
「知らないことは不安を煽るのです。不安は免疫力を下げ、生きる気力を奪い、その結果、余命はさらに短くなると考えられます。気づいた時には死が迫り、やり残したことを悔やみ、その無念さと後悔の中で旅立つのは、真実を知るよりも辛いと思いませんか。「終わりよければすべてよし」と言います。真実を伝えず、最後の最後に地獄の苦しみを与えてしまった後悔は、取り返しがつかないのです。
真実の告知によって、一時的に絶望感に襲われ、不安になるのは当然です。だから告知をする前提として、告知後に医師や看護師による心のケアを行うことが必要であり、重要なのです。」(p.118−119)
最近は告知をする方が主流になってきたのではないでしょうか。人々の意識が変われば、告知のハードルも下がるでしょうね。
「お金がなくて治療を諦めたり、絶望している人も少なくありません。そういう苦痛を社会的疼痛(とうつう)と言います。でも、お金があってもなくても受けられる医療、社会的疼痛を解決するスキルと知恵を備えた在宅医療、それが在宅ホスピス緩和ケアです。
この事例は、隣のおばさんのようなボランティア的な方がいれば、ひとり暮らしでも安心してその地域で暮らし、生きたい”処(ところ)”で生き、旅立つことができるという地域包括ケアのモデルケースかもしれません。」(p.139−140)
毎月の年金が72,466円、家賃が3万円という末期がんの高齢者の事例です。明るく朗らかに元気に生きられ、寝たきりになったら3日で亡くなる。だからそれほどお金がかからないと小笠原医師は言われます。
そのポイントは、訪問看護を介護保険ではなく医療保険から出すということです。70歳以上で低所得だと、医療費の自己負担は8千円が上限。それ以上は無料なのです。
痛みを取るためにモルヒネワインを飲む。夜眠れなければ「夜間セデーション」と呼ばれる睡眠薬を使った療法で、夜もぐっすり眠れるようになる。訪問看護の人だけでなく、近所のおばさんが尋ねてきてくれるので、適度に人と触れ合うこともできて、心も安定するのでしょうね。
「タッチパネル式テレビ電話のおかげで、河合さんの安心感はさらに増したようでした。ひとり暮らしの患者さんが自宅で最期まで穏やかに過ごすためには、痛みを取ることと、痛みへの不安を取ること、安心できること、これがいちばん大切なのです。
そして、もう一つ重要なのは、患者を支える体制です。在宅医療では多職種で支えます。そこで小笠原内科では、「THP+(ティーエイチピープラス)」というアプリを使い、情報共有をスムーズに行うとともに、連携ミスが起きないようにしています。」(p.146)
現代は、テレビ電話が無料でできる時代です。スマホやPCを高齢者が初めて使うにはハードルが高いのですが、タブレットを専用機のように使えるようにしてあると、使いやすいかもしれませんね。
THP+は、支える側の情報共有手段であると同時に、患者やその家族とも情報共有できる仕組みだそうです。
「「最期まで家にいたい」、そう願っても、ひとり暮らしだからという理由で反対する家族がほとんどです。
そのいちばんの理由は「夜中にひとりで死んだらどうするんだ」というものです。ひとりで死んだら孤独死だと心配する方が多いのです。
でも考えてみてください。病院で夜中に死んだら孤独死ではないのでしょうか。苦しさのあまり、うめき声などを発すれば、夜間巡回の看護師が早く気づいてくれるかもしれません。もしも、うめき声などに気づき、医師の到着が死亡前だったら延命措置を行うでしょう。しかしそれは生きるための「治療」ではなく、家族が到着するまで息をさせておくための「措置」であり、最期まで苦しい思いをさせる拷問のようなものになってしまうかもしれませんね。
それなら本人が望む自宅にいて、仮に誰も見ていないところで亡くなったとしても、それは孤独死ではなく、希望死・満足死・納得死だとは思いませんか。」(p.158)
よく孤独死を不安視する人がいますが、なぜそんなに心配するのか、私にはよくわかりません。どうせ独りで死んでいくのですから、その瞬間にそばに誰がいようといまいと、同じではないかと思います。
それよりも重要なことは、本人が満足しているかどうか、幸せかどうかだと思います。幸せに生きて、その状態で亡くなっていくなら、それでよいと思うのです。
「「亡くなった後は、神妙な面持ちで涙を流すもの。笑顔なんて不謹慎」、合言葉は「ご愁傷さま」、まだまだそんな時代です。でも旅立つ人はそれを願っているでしょうか。交通事故などの不慮の事故や突然の旅立ちなど、無念の最後だった場合は、本人も遺族も悔しさや悲しみ、後悔の涙が溢れるでしょう。
しかし、旅立つ人が希望死・満足死・納得死ができたなら、離別の悲しみはあっても、遺族が笑顔で見送ることができるのです。「なんとめでたいご臨終」と言わずにはいられません。」(p.174)
私も、死は卒業だと思っています。卒業であれば、離別の悲しみはあっても、前途を祝福して旅立つもの。だから、悼むのではなくお祝いすべきものだと思うのです。
「そして水曜日、ひ孫が到着すると、高木さんは穏やかに旅立たれたのです。
到着した私たちも一緒に高木さんを囲み、笑顔でピースの写真を撮りました。
これまで”その時”を見計らったような旅立ちをたくさん紹介してきました。この偶然のような奇跡が、これまで私が幾度となく立ち会ってきた「めでたいご臨終」なのです。
延命治療で強制的に生かされているいのちではなく、目に見えないいのちがあるとしたら、それは「旅立つ時を選んでいる」、いのちの不思議さなのだと思わずにはいられません。」(p.212)
逆に、いない時を見計らったような亡くなり方もあります。私の母がそうでした。老老介護の父が部屋から出て行った時を見計らったように、静かに亡くなったのです。
私は、魂は自らの意志で亡くなると思っています。だからどんな死であっても、「めでたいご臨終」だと思います。
「安楽死と誤解されるほどの「持続的深い鎮静」を行う前に、苦しみの原因である大量の点滴を減らしたり、モルヒネを増やしたり、「夜間セデーション」を行うなど、何かやれることはないのか、命がけで考える必要があるはずです。
そうすれば、「持続的深い鎮静」を行う必要がなくなり、QOD(死に方の質)が高い旅立ち、つまり最期に「あ・り・が・と」というやり取りができて、旅立つ人も見送る人も心が暖かくなるでしょう。」(p.307)
苦痛をなくして死なせるために、「持続的深い鎮静」と呼ばれる長期間の麻酔(?)による睡眠を与える医療があるのですね。知りませんでした。
これはたしかに安楽死と同じか、それ以上にたちが悪いと感じます。生き殺しのようなものですから。
「やがて旅立ちが近づくと、ヨチヨチ歩きになり、赤ちゃんと同じように這いずり、ついには寝たきりになります。この自然の摂理に沿って生きて、死ねることができた時、苦しみは少ないようです。
しかし、今の日本はこの摂理に逆らった”長命”国にすぎないと私は思っています。自然の摂理の中で、在宅ホスピス緩和ケアが広がった時に日本は本当の”長寿”国になるのだと確信しています。」(p.314)
まったく寝たきりの赤ちゃんが成長し、ハイハイし、つかまり立ちし、歩くようになる。死に向かう高齢者は、ちょうどその逆を進んでいくのですね。
死は、敗北でもなければ悲しいことでもない。むしろ喜ばしいこと。だから祝うべきこと。私もそう思いますが、死に向かっているご本人や、看取られた後のご家族と、笑顔でピースをされる小笠原医師の存在は励みになります。
もっとこういう考え方が広まって、死を身近なものとして、喜ばしいこととして受け入れられるようになるといいなぁと思います。
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