2022年02月13日
嫌われた監督
吉江勝さんがメルマガで紹介されていた本を読みました。吉江さんがそこまで勧めるなら、読まない手はないでしょう。
しかし、注文した本が届いて、少し後悔しました。だって500ページ近くある分厚い本だったのですから。ただでさえ積ん読状態の本がたくさんあるのに、これを読み終えるのにどれだけ時間がかかることか…。
しかし、その心配は杞憂でした。ぐいぐいと引き込まれるノンフィクション小説のような書き方で、アッと言う間に読み終えてしまいました。(ただし、この紹介記事を書くのに相当に手間取りましたが。(汗))
そして吉江さんと同様、読みながら感動し、時に涙しました。人生というのは、本当にドラマだなぁと思いました。
著者は日刊スポーツ新聞社の記者として落合監督を8年間見てきた鈴木忠平(すずき・ただひら)氏です。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
なおこの本は、全12章になっており、それぞれのその章の中心人物が設定されています。つまり、その人の視点を中心に話が展開する中で、監督・落合博満がどういう人間なのか描き出そうとしているのです。
「現役時代の落合には、球団との契約交渉の席で年俸を不服とするなど金銭闘争のイメージがあったからだろうか。それとも七年の在籍後、導入されたばかりのフリーエージェントの権利(FA権)を行使して、よりによってライバルである巨人へ移籍したからなのか。
厄介者や裏切り者を見るような視線はあっても、なぜか球団からもこの街からも、かつての四番バッターへの郷愁はほとんど感じられなかった。」(p.23)
低迷していた中日を立て直す監督として、落合博満氏が選ばれた時、街にもチームにも記者団にも歓迎ムードがなかったのだそうです。それはかつて一斉を風靡した星野仙一監督と比較すると、雲泥の差があったのだと。
「落合が出た。前置きはなかった。
「二〇〇四年の開幕投手は川崎、お前でいくから−−」
落合はさも当たり前のことを話すような、平坦な口調で言った。
川崎は何を言われているのか、すぐには理解できなかった。思考をグルっとめぐらせてようやく「開幕」とは四月二日、広島カープとの一軍のオープニングゲームのことなのだと受け止めた。ただ、言葉の意味としては理解したものの、頭はまだ、疑問符で埋め尽くされていた。
四十人ほどの投手がチームにいる中で、なぜ一軍で三年間も投げていない自分が開幕投手なのか? なぜ、なぜ……。
落合の意図は読めなかった。」(p.27)
就任した年、落合監督は誰も首を切らないと言って、現有勢力だけで1年を戦いました。それは、チームのメンバーを大切にしたかったからと言うより、どういう人材なのかを探ろうした感じでした。その証拠に、シーズンオフになると、二軍も含めて多くのメンバーに戦力外を通告したのでした。
ともかく意図がわからない。他人からすると、落合監督が何を考えているかわからない。そういう得体の知れないものを、落合監督は持っていたのです。
「ある時は不良債権と呼ばれていた元沢村賞投手に死に場所を用意し、優しい嘘を口にする。しかし、ある時には、チームスタッフすら信用せず、隠密裡にリトマス紙にかけ、疑いのある者を容赦なく切り捨てる。
一体、どれが本当の落合さんなんだろう……。」(p.57)
落合監督は、その真意を説明するということをほとんどしませんでした。あえて隠していたと言えるかもしれません。
「落合は私の動揺など気にもしていないかのように言った。
「ここから毎日バッターを見ててみな。同じ場所から、同じ人間を見るんだ。それを毎日続けてはじめて、昨日と今日、そのバッターがどう違うのか、わかるはずだ。そうしたら、俺に話なんか訊かなくても記事が書けるじゃねえか」
落合はにやりと笑うと、顔を打撃ケージへと向けた。」(p.74)
落合監督には、選手の本質を見抜く力があったと思います。何ができていて何ができていないのか。どうすればもっと良くなるのか。他の人が見えないことを、しっかりと見抜いていたと思うのです。
そのコツが定点観測にあったようです。実際、落合監督は、ベンチでも同じ場所から動かずにゲームを見ていました。練習でも、毎回毎回同じ位置から見ることで、変化を見つけていたようです。
「私は落合という人間がわからなくなっていた。
ともに戦う男たちにさえ冷たく一線を引いたかと思えば、突然ひとりの選手を捕まえて、血を注ぎ込むかのようなノックを打つ。
情報を閉ざし、メディアを遠ざけたかと思えば、不意に末席の記者の隣にやってきて、ヒントめいた言葉を残していく。」(p.81−82)
おそらく誰にも、落合監督の真意などは理解できないのでしょう。けれどもそれは、彼の気まぐれが原因ではなく、目的が理解できていないからのように思います。
森野にノックをしてサードに起用したのは、立浪の衰えを見て取ってのことでした。ただそれは、立浪を切り捨てたのではなく、競わせたのかもしれません。森野にも期待をし、チャンスを与えたのかもしれません。どこまでわかっていて、何を狙っていたのか、それは落合監督にしかわからないのです。
「「なぜ、自分の考えを世間に説明しようとしないのですか?」
落合は少し質問の意味を考えるような表情をして、やがて小さく笑った。
「俺が何か言ったら、叩かれるんだ。まあ言わなくても同じだけどな。どっちにしても叩かれるなら、何も言わない方がいいだろ?」
落合は理解されることへの諦めを漂わせていた。」(p.96)
説明しても、必ずしも同じくらいに理解してくれるわけではない。人は誤解するものだし、都合よく解釈するものだから。
落合監督は、そういうこともよくわかっていたのでしょう。
「あの立浪さんが泣いている……。
不思議な気持ちだった。何事にも貪欲になれなかった自分も、すべてを手にしたような立浪も、今、目の前にあるひとつのポジションを巡って激情を露わにしている。涙するほどに心底を滾(たぎ)らせている。
そうさせたのは、落合が無表情で振るったひとつのタクトだ。
プロ野球で生きるというのは、こういうことか……。
森野は少しだけわかったような気がした。」(p.112)
結果的に立浪からサードのポジションを奪った森野。しかし立浪は諦めたわけではなく、死にものぐるいで代打の切札というポジションを勝ち取った。
それを落合監督が最初から狙って采配したのかどうかはわかりません。しかし、それぞれがそれぞれの思いの中で、プロとしての意地を見せることで、こういう結果に収まって行ったのです。
「席上で、落合は二つの要請を受けた。
ひとつは、この球団が五十年以上も手にしていない日本シリーズの勝利であった。この時点で中日は十二球団のうち、もっとも長く日本一から遠ざかっていた。」(p.158)
落合監督になってリーグ優勝したり、優勝に絡むようになってきた中日。しかし、日本一にはなれなかった。
球団は、落合監督の契約を更新し、日本一になることを求めたのです。そして、ナゴヤドームのスタンドを満員にすることも。
「落合は勝つことで全てを解決しようとしていた。矛盾するような二つの命題を抱えて、新しい二〇〇七年シーズンを迎えようとしていた。
その裏で、長嶋を含めて五人のコーチがチームを去ることになった。」(p.159)
2006年にリーグ優勝したのに、そのオフにクビを切られるコーチたち。憤慨した人も多かったようです。
血も涙もないのか? そう思われてしまう落合監督の采配には、この契約内容が影響していたようです。
日本一になるには、もっと強くならなければならない。そのためには、温情をかけていられなかったのでしょう。
「「強いチームじゃなく、勝てるチームをつくる」
落合はこのシーズンを迎える前に、そう言った。
三年かけて理想のチームができたかに思えたが、日本シリーズで敗れ去った。新たに契約を結び、血を入れ替え、より勝つことに特化したチームをつくろうとしたが、今度は歯車が噛み合わない。一方で周囲からは、勝っても「つまらない」という声が聞こえてくる。プロセスと結果の天秤はいつも釣り合わないのだ。
落合を取り巻いているのは、勝負における矛盾だった。自らの信じる答えと現実に生まれ出る解との齟齬(そご)である。
それでも、落合が答案用紙を書き換えることはないはずだ。落合は私に言った。
「もし、それが間違っていたとしても、正解だと思うから書くんだろう?」」(p.170)
何かを選択するということは、他の選択肢を選ばないということ。どれが正解かなど誰にもわかりません。わかるのはただ、選んだことで望む結果が出るか、それとも出ないか、ということだけ。
2007年は2位となってリーグ優勝を逃しました。しかし、その年から始まったプレーオフによって日本シリーズに進出したのでした。
「この決断に味方はいない……。
それだけは、はっきりとわかった。もし、このイニングに失点するようなことがあれば、もし、この試合に敗れるようなことがあれば、想像を絶するような批判に晒(さら)されるだろう。あるいは永遠に汚名を背負っていくことになるかもしれない。
落合はそれを覚悟した上で答えを出した。そして、森も運命をともにすると決めたのだ。
森は球審から受け取った真新しいボールを握ったまま、マウンドで岩瀬を待っていた。」(p.207)
落合監督のことを語る上で、この2007年の日本シリーズでの試合のことを忘れるわけにはいきません。
3勝1敗で迎えた第5戦。相手投手はエースのダルビッシュ。中日は伏兵の山井。しかし、2回に運良く犠牲フライであげた1点を守って、中日リードが続いていました。しかも、山井は日本ハム打線をパーフェクトに抑えていたのです。
中日には、抑えの守護神、岩瀬がいました。これが最終戦であれば、岩瀬を抑えにという判断も十分に考えられたでしょう。しかし、これまで誰も成し遂げたことのない日本シリーズでのパーフェクトがかかっていて、しかも3勝1敗とリードしているのです。
森繁和コーチは、投手コーチとして落合監督から全面的に任されていました。その森コーチが交代を決断し、落合監督も同意しました。
「不安げにストッパーとなった岩瀬は森の想像を遥かに超えていった。セーブを積み重ね、やがて日本記録を塗り替えるような投手になっていくなかで、森が抱いていた危惧は、ある種の畏怖に変わった。
酒を飲まず、いつも不安を抱えて、一体どうやって精神を保っているのか。常に明日のこと、次のマウンドを考えながら蒼白になっている。そんな日々になぜ耐えられるのか。岩瀬の心は俺には計り知れない……。
共に闘い、グラウンドの上のすべてを共有しているはずなのに、心の奥に他者と隔絶した領域がある。そういう部分で、岩瀬と落合は通じていた。」(p.213-214)
休みの日でも野球のことを考え続け、野球から抜け出そうとしない落合監督。それと岩瀬投手の考え方は、似たものがあったようです。
「山井を代えたのは落合だった。確信的にそうしたのだ。
それと同時に、私の前にいる落合は限りなく人間だった。最初から冷徹なマシンのように決断したわけではなかった。血が通っている限り、どうしようもなく引きずってしまうものを断ち切れず、もがいた末にそれを捨て去り、ようやく非情という答えに辿り着いた。
「監督っていうのはな、選手もスタッフもその家族も、全員が乗っている船を目指す港に到着させなきゃならないんだ。誰か一人のために、その船を沈めるわけにはいかないんだ。そう言えば、わかるだろ?」
落合はそこまで言うと、また力のない笑みに戻った。」(p.238-239)
これまで日本シリーズで勝てなかったのは、監督である自分の甘さに責任があった。落合監督は、そう考えていたのです。
2004年のシリーズでは、その年に頑張ってきた岡本投手を代えようとしたものの、温情にほだされて代えられず、結果的に負けてしまいました。そのことが、落合監督には悔いとして残っていたのです。
「「稲尾さんのいないロッテにいる必要はない……」
それから落合は球団を渡り歩いた。球界最高年俸を条件にバット一本でさすらう優勝請負人。それが世間のイメージになった。その裏で落合は理解者たる指揮官を求めているようでもあった。星野仙一に請われて中日へ、長嶋茂雄のラブコールで巨人へ。稲尾の幻影を追っているかのようでもあった。」(p.240)
変わり者とされていた落合監督。その選手時代に、自分を認めて受け入れてくれたのが稲尾監督でした。落合監督は、人情にほだされて、その指揮官のためなら死をも顧みない武士のような人だったのかもしれません。
「大勢の人間が唱え、当たり前のように跋扈(ばっこ)する正義とは本当に正しいのだろうか? そもそも、万人のための正義などあるのだろうか?
ここのところそんなことを考えるようになっていた。そして、それは落合と接しているためではないだろうか、と感じていた。
なぜなら落合はいつも、正義と決められていることと、悪と見なされていることの狭間に石を投げ込み、波紋を広げるからだ。おそらく意識してのことではないのだろうが、その賛否の渦に日々触れていると、正しいとか正しくないとか、そんなことはどうでもいいような気がしてくるのだ。」(p.246)
悪人には悪人の正義がある。落合監督は、世間の「正しさ」を鵜呑みにせず、それを疑った上で、自分の「正しさ」を模索していたのでしょう。
「「俺はいつも人がいる場所で、下を向いて歩くだろう? なんでだかわかるか?」
唐突なその問いに私は返答できなかった。ただ、思い浮かべてみれば確かにそうだった。落合は球場であれホテルのロビーであれ、世の中の目に晒されるときは、あえて視線を落として歩いているようだった。多くの人々を見渡して、手を振ったりすることはほとんどなかった。プロ野球のスターとして生きてきた人間としては随分と不思議な行動だった。
「俺が歩いてるとな、大勢の人が俺に声をかけたり、挨拶したりしてくるんだ。中にはどこかの社長とか、偉い人もいる。でも俺はその人を知らない。それなのに後で『落合は挨拶もしなかった。無礼な奴だ』と言われるんだ。最初から下を向いていれば、そう言われることもないだろうと思ってな」
落合はさも可笑しそうに言った。」(p.262−263)
「落合には、自分が他人の望むように振る舞ったとき、その先に自分の望むものはないということがわかっているようだった。それは、あらゆる集団の中のマイノリティーとして生きてきた男の性(さが)のようでもあった。」(p.263−264)
他人の期待に応えるということは、自分の期待に応えることに反する。自分に正直に生きようとするなら、他人の期待を裏切る必要がある。落合監督は、そういうことがわかっていたのかもしれません。
「雇用の保障されたサラリーマンならいざ知らず、球団と契約したプロ選手を縛るものは契約書のみであるはずだ。契約を全うするためにどんな手段を選ぶかは個人の責任であるはずだと、落合は言った。
それなのになぜ、当たり前のことを言った自分がこうも非難されるのか。
落合はグラスを手にそう語った。目に涙が浮かんでいた。」(p.371−372)
星野監督に見初められて中日に入った落合選手でしたが、星野監督との考え方の違いからぶつかるようになったのです。
公然と監督批判をした。そうマスコミに書かれて、最後は罰金と謝罪に追い込まれた。けれども、それによって星野監督から離れた環境で調整してシーズンを迎える自由を得たとも言えるのです。
こういう出来事も、監督になってからの言動に影響していると言えそうですね。
「落合は遠くを見たまま、ふっと笑った。
「別に明日死ぬと言われても騒ぐことないじゃないか。交通事故で死ぬにしても、病気で死ぬにしても、それが寿命なんだ」
何かを暗示しているような言葉だった。」(p.382)
球団のオーナーが代わって、監督を続けられないかもしれない。そう思われていたころ、落合監督はすでにそれを覚悟していたかのようでした。
「荒木にも他のどの選手に対しても、落合は「頑張れ」とも「期待している」とも言わなかった。怒鳴ることも手を上げることもなかった。怪我をした選手に「大丈夫か?」とも言わなかった。技術的に認めた者をグランドに送り出し、認めていない者のユニフォームを脱がせる。それだけだった。」(p.426)
おそらく人一倍人情家だった落合監督は、その人情を自分の弱点と考えて封印し、非情に徹したのだろうと思います。ただ「勝つ」ために。それが契約であり、自分に課せられたことだったから。
「おそらく、嫌われたのだ−−。
結果がすべてのプロの世界で、結果を出し続けている指揮官が追われる理由はそれしかないように思えた。
落合は自らの言動の裏にある真意を説明しなかった。そもそも理解されることを求めていなかった。だから落合の内面に迫ろうとしない者にとっては、落合の価値観も決断も常識外れで不気味なものに映る。人は自分が理解できない物事を怖れ、遠ざけるものだ。
落合は勝ち過ぎたのだ。勝者と敗者、プロフェッショナルとそうでないもの、真実と欺瞞、あらゆるものの輪郭を鮮明にし過ぎたのだ。」(p.427)
いよいよ落合監督が辞めることが明らかになった時、その理由はみんなから嫌われたから、と言うのがもっとも核心をついていると思われたのです。
契約では勝つことを求められ、それを十分に達成したけれども嫌われる。もちろん、嫌われたからと言って契約を破棄する理由にはなりませんが、継続しない理由にはなるのです。
「中日は、落合が去ると決まった九月二十二日から勝ち続けていた。優勝を決定づけたこの夜まで十五勝三敗二分−−ドラフトという共通の入口によって戦力が振り分けられるようになった現代プロ野球では、ほとんど目にすることのない数字だった。
その間、淡々と戦うことを矜持(きょうじ)としていたはずのチームは異様な熱を発し続け、最大で十ゲーム差をつけられていたヤクルトに追いつき、抜き去り、突き放してしまった。」(p.444)
「チームが敗れたにもかかわらず球団社長がガッツポーズをした−−もし、それが本当ならば、そこから透けて見えるのは、優勝が絶望的になったことを理由に落合との契約を打ち切るという反落合派のシナリオである。
落合はその行為に対する反骨心が、現実離れした戦いの動力源になったというのだ。
「あんた、嫌われたんだろうねえ」
室内の沈黙を破るように、隣にいた夫人が笑った。」(p.447)
「そして私を震えさせたのは、これまで落合のものだけだったその性が集団に伝播していることだった。
いつしか選手たちも孤立することや嫌われることを動力に変えるようになっていた。あの退任発表から突如、彼らの内側に芽生えたものは、おそらくそれだ。」(p.447-448)
「「俺がここの監督になったとき、あいつらに何て言ったか知ってるか?」
私は無言で次の言葉を待った。
「球団のため、監督のため、そんなことのために野球をやるな。自分のために野球をやれって、そう言ったんだ。勝敗の責任は俺が取る。お前らは自分の仕事の責任を取れってな」
それは落合がこの球団にきてから、少しずつ浸透させていったものだった。かつて血の結束と闘争心と全体主義を打ち出して戦っていた地方球団が、次第に個を確立した者たちの集まりに変わっていった。」(p.449)
いつしか選手たちは、落合監督の影響を受けていたのですね。そしてプロの選手として立派に育っていた。
こうして、優勝チームの監督が退任するという解任劇が行われたのです。
しかし、落合監督が蒔いた種は、着実に芽を出して育っていました。ですから、もうこれ以上そこに留まる必要性がなかったのかもしれません。
「「ひとつ覚えておけよ」
そう言って、落合は私を見た。
「お前がこの先行く場所で、俺の話はしない方がいい。するな」
私はなぜ落合がそんな話をするのか、飲み込めなかった。
落合はそれを察したように続けた。
「俺の話をすれば、快く思わない人間はたくさんいるだろう。それにな、俺のやり方が正しいとは限らないってことだ。お前はこれから行く場所で見たものを、お前の目で判断すればいい。俺は関係ない。この人間がいなければ記事を書けないというような、そういう記者にはなるなよ」
言い終わると、落合は再び窓の外に視線を戻し、空を見ていた。
私は黙って頷いた。
落合なりの別れの言葉なのだろうと受け止めていた。」(p.470-471)
他の人に頼って生きるのではなく、自分を頼って生きる。それが落合監督が示してきたことであり、そうやって選手たちを育ててきたのでしょう。
誰からも理解されなかったし、多くの人から嫌われた監督。それでありながら選手たちを育てて独り立ちさせていった監督。チームとしても勝ちを重ね、何度も優勝に導いた監督。それが落合監督でした。
しかし、だからと言って栄光の最後が用意されているわけでもありません。これだけのことをやったのに、解任されるという結果になったのですから。
けれども落合監督は、自分の生き方に誇りを持っていたのでしょう。自分らしく生きたという満足感もあったでしょう。
そして、自分はこういう生き方をしたけれど、それだけが正しいわけではなく、人には人の正しさがあることもわかっていた。だから他人に共感されることも求めなかった。
寂しい人生に見えるかもしれませんが、私は「美しい」と感じます。私も、こういう生き方をしたいなぁと思うのです。
2022年02月18日
世界が注目する日本の介護
昨年の3月から介護職に就き、介護というものを学びながら働いています。そんな中で興味を抱いて買ったのがこの本です。
ずいぶんと「積ん読」状態だったのですが、やっと読むことができました。
読んでみて、様々な思いが駆け巡りました。「すごいなぁ」「でも、ムリだよ、うちでは」「こういう利用者様ばかりならできるだろうけど」「いや、最初から決めつけるべきじゃないよ」・・・
実際に介護職として働いているだけに、どうしても今の仕事内容と比較して考えてしまうのです。
たしかに、すぐにはできないことも多々あります。でも、諦めたら終わりでしょ。実際にこうやって、素晴らしい介護を実現しているところがあるのですから。
今の私にも何かできることがあるはず。そのためのヒントを得よう。そういう思いで、読み進めました。
著者は、あおいけあ社長の加藤忠相(かとう・ただすけ)さん。この本もマンガを取り入れていて、とても読みやすくなっています。そのマンガを描いたのは、ひらまつおさむさんです。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
「認知症の「原因病」のほとんどは、医師でも治せません。一方、「行動」に目を向けると「カギをかけて出られなくする」「薬でおとなしくしてもらう」といった、よくない発想に陥ってしまいます。
だから、「症状」に目を向ける必要があります。より具体的には、症状に影響して行動を引き起こす「環境」「心理状態」にアプローチします。つまり、
・お年寄りが症状で困らない「環境」を、先手を打って整えておく
・お年寄りが困っていても、コミュニケーションをとって「心理状態」を安定させる
こうした配慮で、症状が出ない(もしくは、出ても目立たない)ようにすれば、困らないので行動も起こらなくなるはずです。」(p.33)
まず、認知症そのものは治せないし、それによる問題行動を直すという発想だと上手くいかないということですね。
そうではなく、現れた症状に影響している環境を整えることや、心理状態を安定させるためのコミュニケーションを考えて接することが大事だと。
「わざわざこう書くと、何か特別なことをしたように見えるかもしれません。確かに建物は、若い頃からログハウスに思い入れのあった私の理想が反映されています。でも、その他に特別なことはしていません。普通の台所、普通の風呂場です。にもかかわらずお年寄りが動き、料理までしてくれるのは、困らない環境で心理状態が安定しているからです。
困ってさえいなければ、認知症があっても「普通のお年寄り」です。普通のお年寄りとして、自分のことは自分でできるように支援する、それが本当の「自立支援」ではないでしょうか。だからこそ、何よりもまず「困らないですむ環境」が大事なのです。」(p.36)
認知症によって記憶に障害が現れても、手続き記憶と呼ばれる身体で覚えたようなことは忘れにくいと言われています。たとえば、毎日料理を作っていた人なら、何も考えなくても手が勝手に動いて料理ができるようなものです。
そういう手続き記憶を活かすことによって、認知症のままでも普通に暮らしていける。それを支援することが本当のケアだと言うのです。
「なぜケイコさんは、スタッフの誘いに応じたのか? それは、人間関係ができたからに他なりません。ケイコさんに自分たちを認識してもらい、<この人はいい人だな>という「いい感情」を積み重ねてもらって信頼関係ができたから、なのです。
認知症の人は、脳の「海馬」という記憶を司る部位が萎縮して、忘れっぽくなっています。しかし、感情を司る「扁桃体」の機能は強く残ると言われています。つまり、記憶が傷害される代わりに感情面では鋭敏になるので、その「感情」に上手にアプローチする必要があるわけです。」(p.64)
まず人間関係を築かなければ介護ができない。これは私も実感しています。
しかし、一度人間関係を築いたからと言って、それだけですべてが上手くいくわけでもありません。利用者様の期待に添えないこともあり、それをいくら説明してもわかってもらえないこともあり、怒らせてしまうこともあるのです。
それは私がまだ下手だから。そうかもしれません。けれども、ムリなことはあるよ、と自分を擁護したくもなるのです。
「誰かが自分に関心を持ってくれる−−これって、人間にとって最高に幸せなことですよね。認知症があっても、自分に関心を持ってくれる人に対しては、確実に「いい感情」が芽生えるものです。」(p.95)
日々の作業に追われていて、利用者様を大切な友人であるかのように考えている暇がない。そう思っている情けない自分があります。
つい、相手の欠点に目を向けてしまい、問題老人という見方をしてしまう。それでは、好かれることはありませんね。
「要するに私は、ばあちゃんの「できない」が「できる」になるまで付き合ったわけです。それが「ケア」だと思っています。
一方的に「してあげる」のではなく、お年寄りと関わり、できるまで付き合います。すると使える道具が揃い、同時に人間関係ができてきて、「環境」が整います。となれば、じいちゃん・ばあちゃんも大人ですから、自ら動くのはあたりまえではないでしょうか?」(p.160)
「お茶を入れる」ということも、お年寄りにやってもらいますが、最新の電気ポットが使えないお年寄りもいます。そんな時は、一緒にお店へ行って、そのお年寄りが使える道具を買い揃える。そして、「私のためにお茶を入れてもらえませんか?」と誘いかける。
そこまでやることで、やっとお年寄りが自ら動こうという気になると言うのですね。
「介護する側がさせたいこと」ではなく、「お年寄りがやりたいこと」に合わせていくのが大切なのです。
声のかけ方も大事です。ただ頼むといっても、「○○してください」なんて言ってしまうと、その瞬間に「やらせる/やらされる」という関係性ができてしまいます。
「豚汁のこんにゃくって、包丁で切るんだっけ? 手でちぎるんだっけ?」
「これからサラダを小鉢に盛り付けるんですが、これでいいんでしたっけ?」
というオープンな感じで始めると、お年寄りが「どれどれ……」と主体的に関わる機会ができます。声のかけ方ひとつで、大きな違いが生まれるわけですね。」(p.225)
人が楽しくなるのは、自発的に動くからです。そして、そうすることが誰かの役に立つことが嬉しいものです。
そうであれば、このようなアプローチが大事だろうと思います。
「たとえば私たちは、お年寄りと梅干しを手づくりしていますが、余ったシソをジュースにし、近くの公園に体操をしに集まる人たちに振る舞ったことがあります。
また、古いシャツやタオルを集めて、ばあちゃんたちと雑巾づくりをしたこともあります。事業所内で使うだけでなく、お年寄りが小学校に寄付しに行っていました。
単なる家庭菜園や雑巾づくりが、外に出るだけで立派な「地域共生ケア」になりました。」(p.226)
自分の楽しみだけではなく、それが他の人に役立つように考える。そうすれば、自分の喜びも増えるし、他の人も喜ばすことができる。そういう取り組みが、地域全体にとっても良い結果になるのですね。
「外出し、人と会い、おしゃべりし、お腹が空いたら自分でご飯を用意して美味しく食べる−−そんな何気ない日常の行為こそが、お年寄りの健康を支えているのです。その「日常」を支えるのが、介護の仕事ではないでしょうか?」(p.228)
外出すれば、いろいろなリスクもあるでしょう。けれども、そのリスクを恐れて閉じ込めてしまえば、不健康になってしまう。
どう生きることが本当の意味で幸せなのか? それをもっと真剣に考えてみる必要があるように思います。
「であれば、私たちがすべきは、その希望を奪ってまで医療につなぐことではないはずです。じいちゃん・ばあちゃんの「○○したい」という気持ちを支えること。それが「CARE(ケア)」であり、介護にあたる人間が目指すものだと思います。」(p.260)
若い人なら、まずは病気を治してから、というのが最善かもしれません。しかしお年寄りは、ずっと病気と付き合って行かなければならない、ということもあるし、いずれ近いうちに来るであろう「死」を受け入れて、それでもやりたいことを優先するという生き方が最善かもしれません。
その判断は簡単なものではないし、他から責められる可能性もあります。けれども、これも正面から向き合わなければならない問題だと思います。
「暴れるから縛る・眠らないから薬を一服盛る−−高齢者の尊厳を傷つける行為でしょう。それを”介護”と呼び、胸を張って”自分の仕事”と言えますか? あなたなら、縛られたり薬を盛られて「しかたない……」と我慢しますか?
いいところや強みを活かす。「困っている人」が困らない環境とアプローチを整える。私たちがやっているのは、一言でまとめるとそれだけですが、お年寄りは元気になってくれます。」(p.294)
うちの施設では、さすがにそこまでのことはやりませんが、けれども考え方はそれに近いものがあります。いかにお年寄りを扱いやすくするか、という発想です。
これには、仕方がない面もあります。そうしないと、他に手が回らないから。
何が問題なのでしょう? 人手が足りないのでしょうか? だったら、給料をもっと高くすればいいのです。でもそうすると、会社経営が続けられない。ならば施設の利用料を高くするとか? そうすると利用者が減って、やはり会社経営が成り立たない。
また、介護保険制度というものによって、施設側が受け取れる金額もある程度制限されてしまっているようです。したがって、それ以上のサービスを求めるなら、介護保険を使わずに、自費で介護を受けなければならず、それでは高額になってしまいます。介護保険という目安があるだけに、それは利用者としても受けがたい。
こういう問題があると私は思うのですが、この本では、そこまでは語られていません。それでもこの「あおいけあ」では上手くやっている。それが事実なのでしょう。
実際のところ、一介護士という立場で、すぐにどうこうできないことは多々あります。
著者の加藤さんも、最初は特養で働かれたそうですが、老人を押さえつけるだけの介護に幻滅して辞め、自分の理想を実現するために「あおいけあ」を作ったそうです。
事業者がこういう想いを持っていなければ、介護が変わることはないのかもしれませんね。
けれども、それだけではないと思います。施設に預ける家族の認識が変わらなければ、やはり責任問題はつきまといます。
もちろん、施設側がしっかりと家族に説明し、受け入れてもらえないなら入所させない、という覚悟があればいいのでしょうけれど。
また、介護職の認識も変わる必要があるでしょう。ただ決められた作業をこなすことが仕事ではなく、利用者様に喜んでもらい、元気になってもらうことが仕事なのだと。
そういう意味では、「あおいけあ」のようにマニュアルがないとか、作業指示書のようなやるべきことがない、という仕組みづくりも大切かもしれませんね。
いずれにせよ、一介護士がすぐにできることではありません。そういう考え方を施設内に広めるために、機会を見つけてそういう話をすることはできるでしょうけど。
でも、諦めたくはない、という気がしています。何ができるかはわかりませんが、今、できる範囲で、自分にできることをやりたい。そんな気持ちになっています。
2022年02月20日
89歳、ひとり暮らし。
Twitterを見ていて、89歳でやってる元気なおばあちゃんがおられたので、興味深く感じてフォローしました。
すると、本を出版することになったとおっしゃるので、それならと予約して購入したものです。
著者は大崎博子(おおさき・ひろこ)さん。現在は都営住宅で一人暮らしをされていて、娘さんはロンドンで結婚して暮らされているそうです。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「苦労もしましたし、病気もいろいろ患いました。悩みごとをたくさん抱え、悶々としたまま長いトンネルから抜け出せなかった時期もあります。
でも今はこんなに幸せです。
特別なことは何一つしていません。ただただ流れに身を任せ、前向きに生きてきただけです。その結果、財産がたくさんあるわけではないけれど、愛する家族は元気でいてくれて、私の体は健康です。
子どもの頃からは想像もできないほどの便利なものにあふれた世の中にいられることに、感謝せずにはいられません。」(p.7)
戦争を体験された方ですから、今がどれだけありがたいか、身にしみて感じておられるのでしょう。
「それでも今は毎日夕飯どきにLINE(ライン)」電話が来ます。たいがい私が晩酌している時。ロンドンは朝の10時くらいでしょうか。たわいもない話をするだけですが、私にとってはかけがいのない時間です。
ときどき思うんです。このぐらい距離が離れているからこそ、親子関係がうまくいくのかもしれないと。近ければいいわけじゃない。」(p.30)
今は海外とも無料でTV電話ができる時代。私が子どもの頃、やっとダイヤル式の黒電話が家に設置された時代からすると、本当に夢のような世界です。
そして、適度な距離があるということは、本当に大切なことだと思います。私も一人暮らしを始めてから、そう思うようになりました。そして今は、タイの妻とLINE通話をする関係ですから、大崎さんがおっしゃることがよーくわかります。(笑)
「今、私は自分でも驚いてしまうくらい元気です。痛いところはどこもないし、毎日楽しいし、お酒も美味しい。
だからといってずっと健康でいたわけではありません。50代で子宮筋腫を患い、70代は胃がんで胃の3分の2を切除しました。さらに右ひざに水が溜まってしまい、治療のために注射をどれだけ打ったかわかりません。そんな状態でしたが、無理をしない程度に歩くことを続けていたら、いつの間にか痛みもなくなり、溜まっていた水もなくなり、全部解消してしまいました。」(p.54)
「実際に私は大金とは無縁ですが、毎日これ以上ないほど楽しく過ごしています。でもそれは、今のところは幸いにも健康だからというのもあります。病気はお金がかかりますし、気分も落ち込んでしまいますから。なので、歳をとったらお金よりも健康こそが、何よりの財産なのかもしれないなとよく思います。」(p.114−115)
大崎さんは、1日に8000歩あるくことを自分に課しているそうです。その散歩と太極拳の運動で、健康になれたと言われています。
たしかに、歩くことは基本ですからね。私も今は仕事によって適当な運動ができていますが、この健康を維持するには、仕事を辞めても歩く習慣を持たなければと思っています。
「急な出費の時は、貯金の出番です。必要経費は仕方ないので、えいっと下ろして使います。そのための貯金ですものね。とにかくストレスがたまらない生活を心がけていて、それはお金に関しても同じことなのです。贅沢はしませんが、無理もしません。これは私の人生において、一貫して言えることかもしれません。」(p.120)
いくら貯金をしていても、使わざるを得ない事態になると、うじうじと出し渋ってしまうことがあります。将来の不安など、恐れがあるからですね。
大崎さんは、その恐れ(不安)を捨て去って、しょうがないと割り切るようにされています。それがストレスをなくして楽しく生きることにつながるのだと。
「BTSだって、最初は名前と顔が一致するまで1週間かかりました。カタカナがなかなか覚えられないんです。でも、こういう時は「脳トレにもなるな」と思えばいいんですよね。頭なんてボーッとしていたら衰えるばかりですから。なんでも前向きに楽しんでみる。面倒がらずに娘や孫の言うことを聞いてみて、気がついたら自分もファンになっていて、元気をもらえているなんて、いいことづくめじゃないですか。」(p.134)
最初は娘や孫に好かれたいからだったかもしれませんが、面倒がらずに頭を使うことが元気の秘訣だと大崎さんは言われます。
その際、見方を変えるのもポイントですね。ものごとの良い面を見れば、それを楽しむこともできますから。
「前にも書きましたが、とにかく手を動かすことが大好きで、だから、お水を替えたり、花瓶に生けたりといったことがまったく苦になりません。むしろ、そのお世話している時間は心のリハビリとでも言いましょうか。日の当たるお部屋で、無心になってお花に触れていると、ちょこっとイヤなことがあっても浄化されます。気持ちが整理され、スッキリするのです。」(p.146)
手作業も脳を活性化させ、ボケ防止になると言いますからね。そして、何かに没頭する時間というものが必要なのだろうと思います。
私も趣味でトイレ掃除や新聞折り(仕事の排泄介助で使用するもの)をするのですが、あれこれ考えずに作業に没頭できるので、大崎さんと同じようにスッキリすることができます。
「コロナ禍は制限も多くて本当に大変でしたが、唯一、これをきっかけに人間関係を整理することができたということだけは、良かったのかもしれません。自然と人と距離ができたので、改めて、自分にとっての快適な距離感を保てるようになった気がするのです。
自分の気持ちに誠実に。これは年令に関係なく、とても大切なことだと思っています。」(p.167)
嫌いな人からは離れる。大事なことですね。
無理してそばにいるから、ストレスを感じたり、嫌な自分になったりするのです。
斎藤一人さんも、たとえ親子兄弟でも、会うとぶつかることが多いなら離れたらよい、と言われています。
「歳をとってミスが増えても、大丈夫なようにケアはしつつ、あとはどーんと構えている、もうこれに尽きるのではないでしょうか。」(p.174)
取れる対策は取っておけばいい。それ以上のことは心配してもどうしようもないのですから、あれこれ考えない。そうなったらそうなった時と鷹揚に構えておくことですね。
「これは私の根本にずっとある部分なんだと思います。昔から何に対しても「ケ・セラ・セラ」、なるようになると思って生きてきたところがあるのです。いいか悪いかは別として、だからストレスが溜まらず、長生きできているのかもしれません。」(p.176)
大崎さんは、生まれつきの楽天家のようですね。それこそが天賦の才能で、多くの人が得たいと思ってもなかなか得られないもののようにも思います。
「そしてもう一つ、老婆心ながら申し上げますと、「全部ひっくるめて楽しむ」、これに尽きると思うのです。
私は89歳でひとり暮らしです。ひとり娘は遠く離れたロンドンにいます。この状況に対して、「さみしくないかしら」と心配される方がほとんどでしょう。でも、強がりいっさいなしで、私はこの暮らしを心から楽しんでいます。
”楽しむ”ことにお金はかかりません。人に迷惑もかけません。ただ自分の心の持ちようです。なんてお手軽なんでしょう!
「ウォーキングしなくちゃ」と嫌々家を出て、猫背でとぼとぼ歩くのと、「今日はどんな花が咲いているかしら」と浮き浮きした気分で歩くのと、1年後にはどれほどの差が出ていると思いますか?
この”楽しむ”の積み重ねこそが、若さと元気をキープする秘訣だと思うのです。」(p.185)
義務感ではなく楽しんで前向きになってやること。大崎さんは、いつもそう考えていらしたのでしょうね。
何も大崎さんのやり方だけが正しいとは思いませんし、参考になる部分を参考にすればそれでいいと思います。
けれども、楽しんで生きるということは、すべてにおいて核心的なことではないかと思います。
私も大崎さんのように、楽しんではつらつと生きる老人になりたいと思いました。
2022年02月25日
医者に殺されない47の心得【必携版】
近藤誠(こんどう・まこと)医師の著書は、以前に「何度でも言う がんとは決して闘うな」を読んでいます。「がんもどき」という考え方は、とても面白いなぁと感じました。
他にも現代医療や栄養学に疑問を呈する本をいくつか読んでみて、私も疑問を持つようになりました。そういう本をネットで買うせいか、オススメにこの本も出てきたので買ってみた次第です。
内容は想像通りでしたが、改めて大事な視点があるなぁと感じました。そして、滅多なことでは薬を飲まない、医療にかからないという私の生き方について、「これでよい」と再認識しました。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「日本人は世界一の医者好き国民です。
年間ひとり平均14回前後、先進国平均の2倍以上も、病院に行っています。
健診やがん検診も、国からの強い症例もあるので、せっせと受けています。
とりあえず病院に行けば、医者が何とかしてくれる。病気の専門家なんだから、病気の防ぎかたも治しかたも、よく知っているはず……。
あまり深く考えずに、たいていの人がそう信じているから、ワクチンで死にかけてもまた医者にかかっているのでしょう。」(p.6)
皮肉っぽく書かれていますが、たしかにそういう現実がありますね。
「多くの子どもが、ワクチンや解熱剤の副作用で脳に障害を受け、一夜にして痴呆状態になったり亡くなったりしている。おまけに病気を予防したり治す力はない……。今まで何と危ないことをしていたのかと背筋が凍りました。
そして「何とかして、医療からプラス面だけを得て、危険を避ける方法を見つけたい。ムダに苦しむだけの治療や、悲惨な医療死を、ひとつでも減らしたい」という想いが、僕の悲願になりました。」(p.14)
近藤医師は異端とされていますが、そうまでして医療界に楯突くのは、こういう強い思いがあったからですね。
「大学病院、日赤、国立がん研究センターなど、世間で「いい病院」と言われる設備のととのった大病院は、「いい実験を受けられる病院」だと思ってください。
がんで苦しみ抜いて死ななければならないのは、がんのせいではなく、「がんの治療のせい」です。医者は必ず「がんのせい」にしますから、騙されないように。
自覚症状がなくてごはんもおいしいなら、医者にあちこち悪いと言われたり、がんが見つかっても、忘れるのがいちばんです。治療をあせると、寿命を縮めます。」(p.18)
大学病院ではモルモットにされるという話を、昔、聞いたことがありました。そういうことはあるでしょう。最新の医療機器が揃っていて、新しい医療方法の確立を目指しているわけですから。
しかし、自分の健康を保つことや、寿命をまっとうすることを優先するなら、あえてそういう実験に参加する必要はない、ということですね。
「僕は医者ですが、ここ数十年、骨折と勘違いしたとき以外は病院で検査や診察を受けたことがなく、薬も歯の痛み止め以外、飲んだことがありません。
うちには血圧計がないので、自分の血圧も知りません。
なぜなら、今の日本で大人がかかる病気はたいてい「老化現象」で、医者にかかったり、薬を飲んだりして治せるものではないからです。」(p.32)
老化現象と病気は別であって、老化現象に効果のある医療はない、ということですね。たしかに、医療によって不老不死は得られていませんから。
「多少の痛みや不自由は「自然の摂理だ、仕方ない。がまん」ととらえて、仲よくつきあっていく。これがいちばん理にかなっています。
むしろ高血圧、高コレステロールなど、年とともに出てくる症状には意味があり、老いに立ち向かうために必要な変化。不用意に薬で抑えてはいけません。」(p.34)
老化現象は抑えられませんが、私たちの身体は、老化現象があってもなるべく全体の健康を保とうとして、高血圧や高コレステロールなどになるのだと言います。
たしかに、老化現象で固くなった血管でも、圧力を高めれば血を隅々まで行き渡らせることができます。逆に圧力が低ければ、末端に血が届かなくなって、身体全体としては不健康な状態になるのです。
「そこで、体は年をとるほど血圧を上げようとします。脳や手足のすみずみまで血液を送り続けるために。それを下げたら、ボケたりふらついたりしてしまいます。」(p.42)
フィンランドの調査では、最高血圧が180以上の人が生存率が最も高く、140未満の人はガクンと生存率が下がる、という結果も出ているそうです。
「いまだにワルモノ扱いのコレステロールも、実は「長寿のもと」です。1980年代に福井市の約3万7千人を5年間追跡したら、男女とも、コレステロール値の最も低いグループの総死亡率がいちばん高く、男性は、血中コレステロール値が高いほど、総死亡率が低いという結果がはっきり出ています。」(p.43)
コレステロールは細胞の修復材料でもあるのですから、加齢とともに多くを必要とするようになる。そう考えれば、コレステロール値が高いことも、身体が健康を保とうとしていると見ることができますね。
「このアンケートの結果を4ランクに分けたら、満足度がいちばん高いグループは、いちばん低いグループよりも入院日数が9%多く、医療や薬に使うお金も9%多かった。医療に満足している人は「転ばぬ先の杖タイプ」で、体に何かあると医者に診てもらい、よく薬を飲み、早めに入院。ところが、4〜5年追跡したら、満足度がいちばん高いグループは、いちばん低いグループに比べて死亡率が26%も高かったんです。」(p.37−38)
医療に満足している人ほど早く死ぬ。そういう結果が、アンケート調査に表れていたのだとか。
「本物のがんは人の命を奪います。がんが治る病気になったのなら、以前国民の死因のトップだった脳卒中がいま4位になっているように、がん死は年々、みるみる減っているはずです。しかし、まったく減っていません。
1960年代から50年、人口に占める全がん死亡率は下がらず、がんは日本人の死因のトップにい続けています。
なぜなのか。検診が、何の役にも立っていないからです。」(p.57)
「欧米では肺がん、大腸がん、乳がんのくじ引き試験が多数行われ、「検診をしてもしなくても、死亡率は同じ」と実証されています。」(p.58)
たしかに、医療によって癌が治る病気になってきたのであれば、死亡率は下がらなければおかしいのです。しかし、そういう証拠はどこにもない。
早期発見早期治療が功を奏しているなら、がん死が減らなければおかしいですよね。
「日本のCT装置の台数はダンゼン世界一で、全世界の設置台数の3分の1以上。1993年に8千台、2003年には1万4千台に増えています。放射線検査による国民被ばく線量も、検査によって起きる発がん死亡率も、世界ワーストです。
イギリスの研究によると「日本人のがん死亡の3.2%は医療被ばくが原因」「世界15か国で、日本が最もCT検査回数が多い」「発がんへの影響は英国の5倍」という医療被ばく大国ぶりです(04、医学誌『ランセット』)。」(p.65)
原発事故で多くの人が被ばくを恐れましたが、それ以前に多くの人が医療被ばくを受けているのに、そっちはまったく気にしていないようでした。論理的に考えられない人が多いのでしょうね。
「僕はすべての患者さんに「一度に3種類以上の薬を出す医者を信用しないように。5種類以上を一度に飲むような行為は極めて危険」と伝えています。」(p.74)
高齢者にたくさんの薬を処方する医師は、残念ながら多数います。薬が毒であることを知っていれば、そんなことはできないと思うのですが、医師の多くにも薬信仰があるのでしょうね。
「風邪をひくと、体はセキや鼻水によってウィルスやその死骸を追い出し、体温を上げて、外敵と闘う白血球を活発に働かせようとします。せっかくのセキや熱を薬でおさえたら、病気との闘いに水をさすことになります。ウィルスは体にいすわり、なかなか治りません。
インフルエンザをワクチンで防げるとか、タミフル、リレンザなどの治療薬で治せるという実証もなく、薬害による脳症や死亡事件は数えきれないほど起きています。」(p.79)
薬によって病気が治るのではなく、身体の免疫力など自然治癒力によって病気が治るのです。だから、薬によって症状を軽減させることは、病気を治すことにはならないのです。
「熱が40度まで上がったとしても、熱で脳をやられる心配はありません。解熱剤の副作用による脳症や死のリスクを考えると、解熱剤は避けたほうが賢明です。
熱が上がっていく段階では、温かい飲みものをたっぷり飲んで、ふとんを多めにかけて、どんどん汗をかかせる昔ながらのやりかたが、理にかなっています。
高熱が出てつらい場合は、水枕、冷たいおしぼりで体をふくなど、物理的に冷やすことをおすすめします。アメリカでは高熱が出ると、水風呂に入る人も多いんです。」(p.81)
最近は日本でも、身体を冷やすようになっていると聞いたことがあります。要は、身体が気持ちよくなるようにすればいいのではないかと思います。
「僕は30年間、「どうしたら、がん患者さんが最も苦しまず、最も長生きできるか」という観点から、無理や矛盾のない診療方針を考え抜きました。
そして「がん放置療法」に到達しました。「がんもどき」なら転移の心配はなく、「本物のがん」なら治療をしてもしなくても死亡率に差がなく、延命期間も同じ。ならば、そのがんによる痛みや機能障害が出たときに初めて、痛み止めや放射線治療、場合によっては外科手術をすればいい。
「これは世界で最も新しい治療法であり、考えかたであるとともに、最善の対処法である」と確信しています。」(p.99-100)
本物のがんであれば、今の療法では延命の役にも立たない。そういう見極めによって、がん放置療法が成り立つのですね。
「マンモグラフィ(レントゲン撮影による乳がん検査)の大規模なくじ引き試験でも、やはり検診と死亡率は無関係です。カナダの5万人調査ではむしろ、「総死亡率は検診群のほうが少し多い」という結果でした。」(p.113)
このような事実から、検診や治療は効果がないと言われているのです。
「魔法のような「手当て」の記憶をお持ちの方は多いと思います。愛情をこめて、手を当てる。最もシンプルで、医療がどれだけ進歩しても、何ものにも代えがたい、癒しの原点です。
痛みも苦しみも、「愛情に満たされる」「不安がやわらぐ」ことで、驚くほど軽くなったり、症状が消えたりします。」(p.189)
北欧のタクティールケアの話もされていますが、日本でも伝統的に「手当て療法」というものがあり、レイキもまたその1つです。
「風邪、インフルエンザを「治せない」のを手始めに、がん、腎臓病、肝炎も、治らないものは治らない。薬を使うと副作用がひどく、逆に寿命を縮めることも多い。高血圧、糖尿病、リウマチは数値を下げたり痛みを抑えるだけ……。
特に高齢になるほど、医療行為は体の負担になります。薬はできるだけ飲まないほうがいいし、手術をすると後遺症、合併症で命が縮むことが、とても多くなります。」(p.204−205)
老いるこは止めようがなく、老いれば心身の機能が低下するのはどうしようもないことなのです。その諦観(諦め)というものも、大切なのではないでしょうか。
「「病気の80%は医者にかかる必要がない。かかったほうがいいのが10%強、かかったために悪い結果になったのが10%弱」という言葉がありますが、まさに至言。
基本的に少々の痛みや不自由は「ほっときゃ治る」と放置して、どうしても日常生活にさしつかえる症状があったときだけ、病院に行く。本当に手術や入院が必要なのか、あらゆる情報を調べてから踏み切る。
そう心がけると、人生終盤を有意義に過ごせます。」(p.207)
どんな病気でも、いつでも治るのが当然という見方をやめることですね。治る時は治るし、治らない時は治らない。そう考えて、不安(恐れ)から不必要な治療をすることの愚は避けたいものです。
医療界の異端児とされる近藤医師ですが、非常に純粋な思いから、苦しんでいる人々のために何とかしてあげたいという動機で行動されていることがわかります。
そして、言われていることの多くが、非常に理に適っているとも思います。なので私は、近藤医師などの考えを参考に、なるべく薬は飲まないし、医療も受けないようにしようと思っているのです。
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