最近、「看取り」ということに関心を持っています。そして、介護職をしていることから、介護施設で亡くなられる方も身近にいらっしゃいます。そんな時、こういうタイトルの本を見つけたので、思わず買ってみました。著者は介護アドバイザーの高口光子(たかぐち・みつこ)さんです。
高口さんは、介護老人保健施設(いわゆる老健)の「星のしずく」で看介護部長をされているとか。この本で「うちの施設」とあるのは、この施設のことでしょうか? しかし老健は3ヶ月で退所することが原則の、いわばリハビリがメインの施設。最近は看取りもやるようになったとは言え、本来の目的は自宅で暮らせるようになっていただくための一時的な施設です。
そのことがちょっと疑問にはなったのですが、ひょっとしたら他の施設でも働いておられるのかもしれませんからね。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「病院の素晴らしいところは、昨日今日出会った人でも、その命を見届けることができるとことです。介護施設で、それはできません。けれど、食事、排泄、入浴といった具体的な生活行為を通じて培った人間関係の中で、ひとりの人として、最期まで見届けることはできます。
病院で死ぬということは、病名で死ぬということです。
施設で死ぬということは、職員との人間関係をもって、ただひとつの”私”の名前で見送られるということです。そこで尊重されるのは、父や母という家族の中での立場だけでなく、今、あるがままの”私”という立場です。」(p.3-4)
お母様を病院で看取られた高口さんは、施設での看取りとの違いをこう言います。そして、その施設でのターミナルケアのことがあまり知られていないと感じたので、それを伝えたいという思いでこの本を書かれたのです。
「では、施設という生活支援の場で人の最期を見届けるとはどういうことなのでしょうか。
一口に言えば、現在施設で暮らしているお年寄りのその人らしい生活を最期まで支え抜くということ、一般に言われているQOL(生活の質)を守るということです。」(p.13)
「私は、生活支援の場ではあたりまえの生活はもちろんのこと、人それぞれの生活習慣やこだわりも大切にしなければならないと考えています。なぜなら、それが個人の尊厳や尊重に直結するからです。」(p.15)
介護施設は、介護保険の考え方に基づいた介護をすることになっています。その考え方とは、介護を受ける人を中心にすること。つまり、その人の生活スタイルを重視することです。
たとえば入浴では、先に洗ってから浴槽に入る人もいれば、先に浴槽に入ってから洗う人もいます。身体の洗い方も、洗髪を先にする人もいれば、手から洗い始める人、足から洗い始める人もいるでしょう。そういう違いに善し悪しはなく、単にその人のやり方であり、その人らしさなのです。
介護施設では、できる限りその人らしい暮らしをさせてあげるように、ということになっています。それを最期まで支えるのが介護施設であり、介護施設で亡くなるとは、最期までそういう支えがあるということだと高口さんは言われるのです。
ただ、これについては「どうかなぁ?」という思いもあります。原則はそうですが、実態はどうなのでしょう? 介護保険でまかなえる費用は、そんなに高いものではありません。だから、介護職はいつも人手不足なのでしょう。そういうことを考えてみても、効率を優先してしまうことが多々あるのではないでしょうか?
この本全体を通じて感じるのですが、本当にここまでやってくれる施設なら、利用者様にとっては有り難いものだと思います。そして、それでどうやって施設の経営が成り立つのか、疑問にも感じました。
「「老いて病んで、ただ死んでいこうとしている私に、お前たちはなんで近づこうとするんだ」と。
この問いに、私たち介護者は応えていかなければなりません。私はそこに医療技術がここまで発達した現代ならではの、新しいニーズがあると感じています。」(p.17)
「お年寄りの今までの生き方を無視して数や量として扱うのか、やっかい者として排除するのか、それとも、ひとりの大切な人として最後まで見届けるのか。つまりお年寄りがどんな最期を迎えるかは、そのお年寄りが誰に出会ったかで決まるのです。生活支援の場におけるターミナルケアでもっとも重要なのはこの一点です。」(p.18)
仮に病気が治っても、機能障害などで目や耳など身体の機能が衰えたり、脳の機能が低下して記憶障害が起こったりします。何も言葉を発せず、寝返りもうてない。そんなお年寄りが、自分のどこに尊厳があるのか? と問うてくるのですね。
高口さんは、その問いに答えることが介護施設の役割であり、それこそが重要なのだと言うのです。
「私たちは、治らない機能障害がある人は、人としてダメなんじゃなくて、その治らない機能障害も含めて、それがあるがままのその人なのだと考えます。
「そのあるがままの自分で生きていくのがつらいとか、悲しいだなんておかしいよ」
それが生活支援の場で働く私たちの立ち位置です。この、機能障害が個性になっていく過程を踏む時間と場所が、私たちのいる生活支援の現場なのです。」(p.22)
障害は個性だ、ということですね。たしかに、障害とされないまでも、人によって得手不得手はあるのが当然です。そのできないこと、劣っていることをもって、「ダメ」というのはおかしいのです。
年老いてたくさんの重度な機能障害を抱えることになっても、それさえ個性だとみなす。それも含めて大切なその人だと見る。そういう生き方を共に育んでいくのが、介護施設だと言うのです。
「たとえ意識や言語の障害があっても、その人らしい食事、排泄、入浴ができるようにサポートすることを通して、このことを伝えていきます。お年寄りが「私はひとりではない」と実感できるということは、「ここで生きていってもいいんだ」という、自分が生きることへの肯定につながっていきます。」(p.33)
高口さんは、これを「個別ケア」と呼んでいて、介護者は単なる汚物処理者などではなく、利用者様の生きる力に貢献する仕事をしているのだと言います。
この点については先にも書いたように、介護保険制度の報酬とどう釣り合わせるのか、という疑問が私の中には残ります。たしかにこれが理想だとは思いますが、利用者様の専属介護者ではないのですから。
「安全のためにと言いながら、手足を縛ったり、鍵をかけて閉じ込めたり、薬で動かなくなるようにしてはいけません。動きを制限するのではなく、その人の「動きたい」「立ちたい」「歩きたい」をその人らしく引き出し、支えるのが私たちの仕事です。」(p.35-36)
「私たち介護職は、普通に生きることがすでに「危ない」お年寄りの、普通に生きることを懸命に支える覚悟をもって、日々入居者の皆さんに接しています。なぜなら、私たちの仕事は一人ひとりのあたりまえの生活を一緒につくることだからです。」(p.36)
「お年寄りにとっての自分らしい生活を職員とともにつくり上げていく過程と、家族と職員との新しい良き関係の2つを台無しにしてしまうのが、身体拘束です。だからこそ介護の現場で身体拘束をしてはならないのです。」(p.37)
「職員は「お年寄りを縛らない」という具体的な目標を共有することで、前向きに話し合うことができ、そこに工夫や創造が生まれる余地があります。
介護の現場に「絶対」ということはあり得ません。
「どんなに気をつけても、人は転ぶときは転ぶ。死ぬときは死ぬ。それが生きていくことだから。そうであっても、私たちは大切な人を見守り支え合う」
この視点や考え方を、信頼関係の下に家族と共有することができる職員は、生き生きと仕事をすることができます。」(p.58)
高口さんは、絶対に身体拘束をせずに、お年寄りの自分らしく自由に生きたいという思いに寄り添うことが大事だと言います。
ただ、原則的に介護施設での拘束は認められていません。だからこそ、逆に介護の現場では苦労があります。
歩き回って転倒して骨折したり、施設から脱走して事故に合ったり。そのたびに、施設の職員は多大な労力をそこで使うことになり、残された他の利用者様へのケアがおろそかになります。あるいはご家族から責任追及されたりもします。
そういう相矛盾した中で、高口さんの言われることは理想論に近いようにも思います。
もちろん、ご家族には事前に可能性についてよく説明して、納得してもらうことが重要だとは言えます。けれども、それでもいざ何かが起これば、他人のせいにしたくなるのが人の情というものでしょう。
その不条理を噛み締めなければならないのが介護の現場だという一面もあると思うのです。
「「自宅で看取るのは無理だけど、慣れ親しんだ環境と気心の知れた人たちに囲まれて最期を迎えさせたい」ということなら施設でのターミナルケアを選ぶのもいいし、施設で死なせることへの罪悪感がどうしても拭えず、後悔となってしまいそうな場合には、病院をおすすめします。医療という大義名分の下に亡くなったほうが、家族は精神的に楽になれるでしょう。」(p.44)
高口さんは、家での看取りに否定的です。なぜなら、家族の負担が大きいからです。それは家族のためでもあるし、終末期を迎えたお年寄りの望みでもあると言うのです。
たしかに、これ以上家族に迷惑をかけたくない、という思いを持つ人は多いでしょう。本音では家で死にたいと思っていても、そう言えない思いがあるのです。
この点で、お年寄りのわがままを受け入れ、わがままに生きてもらうことが大事なのだとする、前に紹介した看取り士の柴田久美子さんとは考えが違いますね。(参考:「この国で死ぬということ」)
「とはいえこのような段階を経てターミナルステージを迎える人ばかりではありません。入居して間もなくその時期がやって来る人もいれば、ずっと元気で病院とは無縁だった人が、一気に弱ってしまう場合もあります。
そうなると、家族は混乱したまま、次々と選択を迫られ、追い詰められていくように感じる場合もあります。」(p.64)
救急車で病院へ運ぶとはどういうことなのか、やってみなければ実感がわかないのです。手を縛られて点滴を受けるなど、想像もしていないことがあります。
そういうことを経験しながら終末期を迎えるなら、家族の心も固まりやすいもの。しかし、そうではないケースも多々あり、家族にとっても大変な選択をしなければならないのですね。
高口さんは、それでも事前に知っておくことで、混乱は少なくなると言います。しかし、この本の後半にいくつか事例がありますが、どんなに説明を受けていても、混乱してしまうことはあるのだと思います。
「何を選択しても、「本当にこれでよかったのだろうか」とあとあとまで悩むことになるかもしれません。中には、親が亡くなった後も面影を偲ぶたびに、「口からでよかったのか」「鼻腔にしてよかったのか」「胃瘻にしてよかったのか」と問い続ける人もいるでしょう。
とはいえ、少し大雑把な言い方になりますが、親にとっては何を選ぼうと大して違いはないのかもしれません。大事なことは、子どもが考え抜いた末に決めたかどうかなのだと思います。」(p.73)
「私は、親を看取ったすべての家族が、振り返って反省することはあったとしても、後悔だけはしないようにと願っています。反省はやがて思い出になり、生きていく糧になりますが、後悔は家族の気持ちの中に、いつまでも重いしこりを残し、思い出すのもつらい出来事になってしまいます。
自分の死が、残された家族にとってつらいだけの出来事になってしまうのは、親本人の願いではありません。親の老いや、死から逃げず向き合った家族だからこその成長とこれからの充実が、親としての願いそのものでしょう。」(p.83)
絶対的な「正解」などというものはないのですから、何を選ぼうと正解でもあり、不正解なのです。
重要なのは、何を選択するかではなく、どういう気持ちで選択するかということ。高口さんは、そのように考えておられます。
「この国の大先輩である現在の高齢者世代の皆さんが頑張って豊かな日本を築いてきた結果、もっとも身近な愛する人の生き方や死に方を考え、家族で話し合うことができるようになりました。これは数ある豊かさの中でも最たるもののひとつだと思うのです。」(p.96−97)
「けれど、迷ったり考えたり話し合ったりすることを通して、さらに言えばマイナスの感情を抱いてしまう自分自身と向き合うことも含めて、私たちは親から学ぶことができます。
生きること、老いること、病むこと、そして死ぬとはどういうことなのかという問題を自分の親を通して考え、自分のこととして現実的にとらえる。これは高齢社会の日本で、長生きの親をもつ子どもにしか体験できない学びです。」(p.98)
世界には、紛争が絶えない国もあれば、貧困に立ち向かうだけで精一杯の生活を強いられる国もあります。そういう中で日本は豊かで、どう死ぬかということを考え悩む余裕があるとも言えるのですね。
「私たちは、どんなに疑問や反省の残るターミナルケアであったとしても、家族には「これで良かった。大丈夫です」とあえて言葉にしています。対応として、仕事として反省するのは、私たちの問題です。家族に対しては、「良かった」と言い切ること、それが家族以外の第三者の務めだと思っています。」(p.137)
これが高口さんの介護者としての矜持なのでしょう。実際問題、ご家族に対して後から「こうすれば良かったのに」と言っても仕方ありませんからね。
反省というのは、次の一歩を踏み出すためのもの。介護者にはまた次のお年寄りがいますから。でも家族には、その方しかいないし、やり直しはできないのです。それはそれで最善だった。そういう見方が大切かと思います。
「最後の最後まで、お年寄りの立場に立って、立って、立ち通すのが、私たちの仕事です。本人の意向と家族の意向とが異なるとき、本人の代弁者として、家族に対してはっきり発言するのも私たちの仕事ではないのか。そう思いながらも、「母親本人によけいな苦しみを与えるかもしれないけれど、1日でも長く生きてほしいから病院へ」という、悩みに悩んだ末の娘さんの判断が私たちの前に示されたとき、私たちは、本人ではなく娘さんの判断を受け入れました。」(p.143-144)
高口さんが遭遇したケースですが、高口さんは、娘さんは自分のわがままを後になって悔いることはない覚悟を持っていると判断したから、本来のあるべき立場から離れて娘さんの判断を受け入れたと言います。
これも、どっちが正しくて、どっちが間違っているというようなことではないと思います。
今は後悔しないように思われても、後になって変わることもあります。それに、その判断を受け入れた介護職が、自分の判断に悩み続けることになるかもしれませんからね。先に話した柴田さんもそうでした。
ですから、重要なのは判断の是非ではないと思うのです。それよりもこれからの生き方です。その判断した結果の現実にしっかりと向き合い、これからどう生きるかが重要なのだと思います。
「それまで夜勤は40人のお年寄りを2人の職員で看る体制でしたが、これを3人に増やし、そのうちの1人は川口さんだけにつくことにしました。2人の夜勤者を3人にした分、昼間の介護職員の配置が手薄になるため、相談員、リハビリテーション職員、厨房のおばちゃん、事務方の職員まで総動員して、3階の昼間の介護業務をみんなで支えるという体制にしました。そして勤務表を作成し直し、私たちらしいチームケアをつくっていったのです。」(p.153)
「職員1名が完全に川口さんにつくというこの夜勤態勢は、川口さんのためというよりも職員のためになったと思います。
職員が本当につらかったのは、従来の夜勤態勢で同時にナースコールが鳴ったとき、どちらかを選ばなければならないことでした。」(p.155)
私が勤務している施設では、約30人のお年寄りを1人の夜勤者が看ます。他に宿直がいるので、何か合った場合の対応はしてもらえますが、通常業務は夜勤者だけで行います。
夜間の排泄介助など、どれだけの介助が必要かによっても違ってくるので一概に比較はできませんが、うちよりも余裕のある体制がベースとしてあるように思います。
それにしてもです。1人の利用者様のために夜勤者を1人増やすとか、他の職員の仕事を増やすとか、そんなことが簡単にできるのでしょうか?
専属の介護者がつくということは、その利用者様の金銭負担が増えなければおかしいし、そうでないなら、本来、他の方のケアでいただいているお金を、その1人のために使っていることになります。
今、目の前に困っている人がいるなら、他の人を放っておいてでもその困っている人のために尽くす。そういう考え方はあるし、それもまた素晴らしい考えだと思います。しかし、その一方で別の問題を引き起こしている。そうも言えるのではないか。私には、どうしてもそういう疑念が残るのです。
「自分の意思を表現することができず、受け身的だったお年寄りや家族が自分の意思を明らかにすると、時に「わがまま」と言われることがあります。このわがままをどれだけ言ってもらえるか、どこまでわがままに振り回されるかは、人の生きる力を引き出す介護の仕事には大切なこととなります。
だから、施設介護者はお年寄りに振り回されて、在宅を支えるショートステイの介護者は家族に振り回される。
これが私たちの健全なあり方なのだと思いました。」(p.177)
私も施設で介護をやっているので、この「お年寄りのわがまま」に日々接しています。みんなが同じようにやってくれて、決めごとにしたがってくれたらどれほど楽かと思うこともしばしばです。
けれども、それでも無遠慮にわがままを言ってくるお年寄りによって、本来の介護のあり方を考えざるを得ない。それがまた有り難いこととも言えますね。
「少しでも食べてもらい、なんとか元気になってほしいという思いから、よかれと思ってやったことでした。まだターミナルケアに対する知識も浅く、おばあさんにはそれが苦痛になっていたことなど、まったく気づきませんでした。」(p.182)
これは高口さんが経験されたことですが、私も日々、こういう場面に遭遇します。
なかなか食が進まない利用者様の食事介助で、何とかして食べさせようとする。中には強引に食べ物を口に突っ込むスタッフもいます。
食べて元気になってもらいたいというのは自分の思いです。少なくとも、そのペースややり方では食べたくないと感じている利用者様の思いではありません。相手の自由を制限して自分の思いを押し付ける。それを「正しい」とは、私にも思えません。
では、食べずに元気がなくなって病気になって苦しんでもいいのか? 利用者様はそこまで考えて食べないことを選んでいるのか?
やはりこれも、難しい問題です。正解などどこにもないのだと思います。
「介護は、人の生き方に通じる人との関わりそのものです。だから、介護を考えるとき、その職員の人としての生き方そのものが反映されます。生き方がいろいろあるように、介護の考え方もいろいろあるでしょう。ときには、職員全員の考え方が違うこともあります。違っていいのです。その違う考え方が、のびのび表現される現場であることが大切なのです。しかし、どんなにのびのび表現され、さまざまな意見が出されたとしても、仕事として行う介護は、ひとつです。これを決めるのが現場の介護リーダーです。」(p.204)
どれが正しいとは一概には言えなくても、現実には何かを選ばなければなりません。それを決めることは大変なことです。重責を感じることでしょう。
私がやっている施設介護の仕事では、まさにそういうことが行われています。考え方は人それぞれでも、リーダーがこうすると決めたなら、それにしたがって介護を行います。
これはまさに、「生きる」ということだなぁと思います。日々、自分の生き方が問われる仕事です。
介護職は、厳しく、大変で、なおかつ給料も低いとされる仕事。だから人が集まらない。けれども、非常にやりがいがある仕事だとも思います。なぜなら、自分の生き方に、人生そのものに、向き合わざるを得ない仕事だからです。
本書は、終末期を介護施設で迎えるという選択肢を提示し、それも1つの方法だとお勧めするための本のはずです。しかし、介護の現場で働いている私が読むと、自分の仕事のあり方を問い直すきっかけを提示されているように感じますね。
いずれにせよ、これからお年寄りが増え、老人介護サービスを利用する人はどんどん増えていくことでしょう。特別養護老人ホーム(特養)だけでなく、高口さんが働かれている老健でも、ターミナルケアをするようになっています。私が勤める民間の施設でも、そこで亡くなられる方もいらっしゃいます。
こういう施設で終末期を迎えるという現実は、これから間違いなく増えていくでしょう。ですから、今のうちにそういうことも含め、自分や家族の死に方を考えておくことも、良いことではないかと思います。死に方を選ぶということは、生き方を選ぶことでもありますからね。
