2021年10月02日
介護施設で死ぬということ
最近、「看取り」ということに関心を持っています。そして、介護職をしていることから、介護施設で亡くなられる方も身近にいらっしゃいます。そんな時、こういうタイトルの本を見つけたので、思わず買ってみました。著者は介護アドバイザーの高口光子(たかぐち・みつこ)さんです。
高口さんは、介護老人保健施設(いわゆる老健)の「星のしずく」で看介護部長をされているとか。この本で「うちの施設」とあるのは、この施設のことでしょうか? しかし老健は3ヶ月で退所することが原則の、いわばリハビリがメインの施設。最近は看取りもやるようになったとは言え、本来の目的は自宅で暮らせるようになっていただくための一時的な施設です。
そのことがちょっと疑問にはなったのですが、ひょっとしたら他の施設でも働いておられるのかもしれませんからね。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「病院の素晴らしいところは、昨日今日出会った人でも、その命を見届けることができるとことです。介護施設で、それはできません。けれど、食事、排泄、入浴といった具体的な生活行為を通じて培った人間関係の中で、ひとりの人として、最期まで見届けることはできます。
病院で死ぬということは、病名で死ぬということです。
施設で死ぬということは、職員との人間関係をもって、ただひとつの”私”の名前で見送られるということです。そこで尊重されるのは、父や母という家族の中での立場だけでなく、今、あるがままの”私”という立場です。」(p.3-4)
お母様を病院で看取られた高口さんは、施設での看取りとの違いをこう言います。そして、その施設でのターミナルケアのことがあまり知られていないと感じたので、それを伝えたいという思いでこの本を書かれたのです。
「では、施設という生活支援の場で人の最期を見届けるとはどういうことなのでしょうか。
一口に言えば、現在施設で暮らしているお年寄りのその人らしい生活を最期まで支え抜くということ、一般に言われているQOL(生活の質)を守るということです。」(p.13)
「私は、生活支援の場ではあたりまえの生活はもちろんのこと、人それぞれの生活習慣やこだわりも大切にしなければならないと考えています。なぜなら、それが個人の尊厳や尊重に直結するからです。」(p.15)
介護施設は、介護保険の考え方に基づいた介護をすることになっています。その考え方とは、介護を受ける人を中心にすること。つまり、その人の生活スタイルを重視することです。
たとえば入浴では、先に洗ってから浴槽に入る人もいれば、先に浴槽に入ってから洗う人もいます。身体の洗い方も、洗髪を先にする人もいれば、手から洗い始める人、足から洗い始める人もいるでしょう。そういう違いに善し悪しはなく、単にその人のやり方であり、その人らしさなのです。
介護施設では、できる限りその人らしい暮らしをさせてあげるように、ということになっています。それを最期まで支えるのが介護施設であり、介護施設で亡くなるとは、最期までそういう支えがあるということだと高口さんは言われるのです。
ただ、これについては「どうかなぁ?」という思いもあります。原則はそうですが、実態はどうなのでしょう? 介護保険でまかなえる費用は、そんなに高いものではありません。だから、介護職はいつも人手不足なのでしょう。そういうことを考えてみても、効率を優先してしまうことが多々あるのではないでしょうか?
この本全体を通じて感じるのですが、本当にここまでやってくれる施設なら、利用者様にとっては有り難いものだと思います。そして、それでどうやって施設の経営が成り立つのか、疑問にも感じました。
「「老いて病んで、ただ死んでいこうとしている私に、お前たちはなんで近づこうとするんだ」と。
この問いに、私たち介護者は応えていかなければなりません。私はそこに医療技術がここまで発達した現代ならではの、新しいニーズがあると感じています。」(p.17)
「お年寄りの今までの生き方を無視して数や量として扱うのか、やっかい者として排除するのか、それとも、ひとりの大切な人として最後まで見届けるのか。つまりお年寄りがどんな最期を迎えるかは、そのお年寄りが誰に出会ったかで決まるのです。生活支援の場におけるターミナルケアでもっとも重要なのはこの一点です。」(p.18)
仮に病気が治っても、機能障害などで目や耳など身体の機能が衰えたり、脳の機能が低下して記憶障害が起こったりします。何も言葉を発せず、寝返りもうてない。そんなお年寄りが、自分のどこに尊厳があるのか? と問うてくるのですね。
高口さんは、その問いに答えることが介護施設の役割であり、それこそが重要なのだと言うのです。
「私たちは、治らない機能障害がある人は、人としてダメなんじゃなくて、その治らない機能障害も含めて、それがあるがままのその人なのだと考えます。
「そのあるがままの自分で生きていくのがつらいとか、悲しいだなんておかしいよ」
それが生活支援の場で働く私たちの立ち位置です。この、機能障害が個性になっていく過程を踏む時間と場所が、私たちのいる生活支援の現場なのです。」(p.22)
障害は個性だ、ということですね。たしかに、障害とされないまでも、人によって得手不得手はあるのが当然です。そのできないこと、劣っていることをもって、「ダメ」というのはおかしいのです。
年老いてたくさんの重度な機能障害を抱えることになっても、それさえ個性だとみなす。それも含めて大切なその人だと見る。そういう生き方を共に育んでいくのが、介護施設だと言うのです。
「たとえ意識や言語の障害があっても、その人らしい食事、排泄、入浴ができるようにサポートすることを通して、このことを伝えていきます。お年寄りが「私はひとりではない」と実感できるということは、「ここで生きていってもいいんだ」という、自分が生きることへの肯定につながっていきます。」(p.33)
高口さんは、これを「個別ケア」と呼んでいて、介護者は単なる汚物処理者などではなく、利用者様の生きる力に貢献する仕事をしているのだと言います。
この点については先にも書いたように、介護保険制度の報酬とどう釣り合わせるのか、という疑問が私の中には残ります。たしかにこれが理想だとは思いますが、利用者様の専属介護者ではないのですから。
「安全のためにと言いながら、手足を縛ったり、鍵をかけて閉じ込めたり、薬で動かなくなるようにしてはいけません。動きを制限するのではなく、その人の「動きたい」「立ちたい」「歩きたい」をその人らしく引き出し、支えるのが私たちの仕事です。」(p.35-36)
「私たち介護職は、普通に生きることがすでに「危ない」お年寄りの、普通に生きることを懸命に支える覚悟をもって、日々入居者の皆さんに接しています。なぜなら、私たちの仕事は一人ひとりのあたりまえの生活を一緒につくることだからです。」(p.36)
「お年寄りにとっての自分らしい生活を職員とともにつくり上げていく過程と、家族と職員との新しい良き関係の2つを台無しにしてしまうのが、身体拘束です。だからこそ介護の現場で身体拘束をしてはならないのです。」(p.37)
「職員は「お年寄りを縛らない」という具体的な目標を共有することで、前向きに話し合うことができ、そこに工夫や創造が生まれる余地があります。
介護の現場に「絶対」ということはあり得ません。
「どんなに気をつけても、人は転ぶときは転ぶ。死ぬときは死ぬ。それが生きていくことだから。そうであっても、私たちは大切な人を見守り支え合う」
この視点や考え方を、信頼関係の下に家族と共有することができる職員は、生き生きと仕事をすることができます。」(p.58)
高口さんは、絶対に身体拘束をせずに、お年寄りの自分らしく自由に生きたいという思いに寄り添うことが大事だと言います。
ただ、原則的に介護施設での拘束は認められていません。だからこそ、逆に介護の現場では苦労があります。
歩き回って転倒して骨折したり、施設から脱走して事故に合ったり。そのたびに、施設の職員は多大な労力をそこで使うことになり、残された他の利用者様へのケアがおろそかになります。あるいはご家族から責任追及されたりもします。
そういう相矛盾した中で、高口さんの言われることは理想論に近いようにも思います。
もちろん、ご家族には事前に可能性についてよく説明して、納得してもらうことが重要だとは言えます。けれども、それでもいざ何かが起これば、他人のせいにしたくなるのが人の情というものでしょう。
その不条理を噛み締めなければならないのが介護の現場だという一面もあると思うのです。
「「自宅で看取るのは無理だけど、慣れ親しんだ環境と気心の知れた人たちに囲まれて最期を迎えさせたい」ということなら施設でのターミナルケアを選ぶのもいいし、施設で死なせることへの罪悪感がどうしても拭えず、後悔となってしまいそうな場合には、病院をおすすめします。医療という大義名分の下に亡くなったほうが、家族は精神的に楽になれるでしょう。」(p.44)
高口さんは、家での看取りに否定的です。なぜなら、家族の負担が大きいからです。それは家族のためでもあるし、終末期を迎えたお年寄りの望みでもあると言うのです。
たしかに、これ以上家族に迷惑をかけたくない、という思いを持つ人は多いでしょう。本音では家で死にたいと思っていても、そう言えない思いがあるのです。
この点で、お年寄りのわがままを受け入れ、わがままに生きてもらうことが大事なのだとする、前に紹介した看取り士の柴田久美子さんとは考えが違いますね。(参考:「この国で死ぬということ」)
「とはいえこのような段階を経てターミナルステージを迎える人ばかりではありません。入居して間もなくその時期がやって来る人もいれば、ずっと元気で病院とは無縁だった人が、一気に弱ってしまう場合もあります。
そうなると、家族は混乱したまま、次々と選択を迫られ、追い詰められていくように感じる場合もあります。」(p.64)
救急車で病院へ運ぶとはどういうことなのか、やってみなければ実感がわかないのです。手を縛られて点滴を受けるなど、想像もしていないことがあります。
そういうことを経験しながら終末期を迎えるなら、家族の心も固まりやすいもの。しかし、そうではないケースも多々あり、家族にとっても大変な選択をしなければならないのですね。
高口さんは、それでも事前に知っておくことで、混乱は少なくなると言います。しかし、この本の後半にいくつか事例がありますが、どんなに説明を受けていても、混乱してしまうことはあるのだと思います。
「何を選択しても、「本当にこれでよかったのだろうか」とあとあとまで悩むことになるかもしれません。中には、親が亡くなった後も面影を偲ぶたびに、「口からでよかったのか」「鼻腔にしてよかったのか」「胃瘻にしてよかったのか」と問い続ける人もいるでしょう。
とはいえ、少し大雑把な言い方になりますが、親にとっては何を選ぼうと大して違いはないのかもしれません。大事なことは、子どもが考え抜いた末に決めたかどうかなのだと思います。」(p.73)
「私は、親を看取ったすべての家族が、振り返って反省することはあったとしても、後悔だけはしないようにと願っています。反省はやがて思い出になり、生きていく糧になりますが、後悔は家族の気持ちの中に、いつまでも重いしこりを残し、思い出すのもつらい出来事になってしまいます。
自分の死が、残された家族にとってつらいだけの出来事になってしまうのは、親本人の願いではありません。親の老いや、死から逃げず向き合った家族だからこその成長とこれからの充実が、親としての願いそのものでしょう。」(p.83)
絶対的な「正解」などというものはないのですから、何を選ぼうと正解でもあり、不正解なのです。
重要なのは、何を選択するかではなく、どういう気持ちで選択するかということ。高口さんは、そのように考えておられます。
「この国の大先輩である現在の高齢者世代の皆さんが頑張って豊かな日本を築いてきた結果、もっとも身近な愛する人の生き方や死に方を考え、家族で話し合うことができるようになりました。これは数ある豊かさの中でも最たるもののひとつだと思うのです。」(p.96−97)
「けれど、迷ったり考えたり話し合ったりすることを通して、さらに言えばマイナスの感情を抱いてしまう自分自身と向き合うことも含めて、私たちは親から学ぶことができます。
生きること、老いること、病むこと、そして死ぬとはどういうことなのかという問題を自分の親を通して考え、自分のこととして現実的にとらえる。これは高齢社会の日本で、長生きの親をもつ子どもにしか体験できない学びです。」(p.98)
世界には、紛争が絶えない国もあれば、貧困に立ち向かうだけで精一杯の生活を強いられる国もあります。そういう中で日本は豊かで、どう死ぬかということを考え悩む余裕があるとも言えるのですね。
「私たちは、どんなに疑問や反省の残るターミナルケアであったとしても、家族には「これで良かった。大丈夫です」とあえて言葉にしています。対応として、仕事として反省するのは、私たちの問題です。家族に対しては、「良かった」と言い切ること、それが家族以外の第三者の務めだと思っています。」(p.137)
これが高口さんの介護者としての矜持なのでしょう。実際問題、ご家族に対して後から「こうすれば良かったのに」と言っても仕方ありませんからね。
反省というのは、次の一歩を踏み出すためのもの。介護者にはまた次のお年寄りがいますから。でも家族には、その方しかいないし、やり直しはできないのです。それはそれで最善だった。そういう見方が大切かと思います。
「最後の最後まで、お年寄りの立場に立って、立って、立ち通すのが、私たちの仕事です。本人の意向と家族の意向とが異なるとき、本人の代弁者として、家族に対してはっきり発言するのも私たちの仕事ではないのか。そう思いながらも、「母親本人によけいな苦しみを与えるかもしれないけれど、1日でも長く生きてほしいから病院へ」という、悩みに悩んだ末の娘さんの判断が私たちの前に示されたとき、私たちは、本人ではなく娘さんの判断を受け入れました。」(p.143-144)
高口さんが遭遇したケースですが、高口さんは、娘さんは自分のわがままを後になって悔いることはない覚悟を持っていると判断したから、本来のあるべき立場から離れて娘さんの判断を受け入れたと言います。
これも、どっちが正しくて、どっちが間違っているというようなことではないと思います。
今は後悔しないように思われても、後になって変わることもあります。それに、その判断を受け入れた介護職が、自分の判断に悩み続けることになるかもしれませんからね。先に話した柴田さんもそうでした。
ですから、重要なのは判断の是非ではないと思うのです。それよりもこれからの生き方です。その判断した結果の現実にしっかりと向き合い、これからどう生きるかが重要なのだと思います。
「それまで夜勤は40人のお年寄りを2人の職員で看る体制でしたが、これを3人に増やし、そのうちの1人は川口さんだけにつくことにしました。2人の夜勤者を3人にした分、昼間の介護職員の配置が手薄になるため、相談員、リハビリテーション職員、厨房のおばちゃん、事務方の職員まで総動員して、3階の昼間の介護業務をみんなで支えるという体制にしました。そして勤務表を作成し直し、私たちらしいチームケアをつくっていったのです。」(p.153)
「職員1名が完全に川口さんにつくというこの夜勤態勢は、川口さんのためというよりも職員のためになったと思います。
職員が本当につらかったのは、従来の夜勤態勢で同時にナースコールが鳴ったとき、どちらかを選ばなければならないことでした。」(p.155)
私が勤務している施設では、約30人のお年寄りを1人の夜勤者が看ます。他に宿直がいるので、何か合った場合の対応はしてもらえますが、通常業務は夜勤者だけで行います。
夜間の排泄介助など、どれだけの介助が必要かによっても違ってくるので一概に比較はできませんが、うちよりも余裕のある体制がベースとしてあるように思います。
それにしてもです。1人の利用者様のために夜勤者を1人増やすとか、他の職員の仕事を増やすとか、そんなことが簡単にできるのでしょうか?
専属の介護者がつくということは、その利用者様の金銭負担が増えなければおかしいし、そうでないなら、本来、他の方のケアでいただいているお金を、その1人のために使っていることになります。
今、目の前に困っている人がいるなら、他の人を放っておいてでもその困っている人のために尽くす。そういう考え方はあるし、それもまた素晴らしい考えだと思います。しかし、その一方で別の問題を引き起こしている。そうも言えるのではないか。私には、どうしてもそういう疑念が残るのです。
「自分の意思を表現することができず、受け身的だったお年寄りや家族が自分の意思を明らかにすると、時に「わがまま」と言われることがあります。このわがままをどれだけ言ってもらえるか、どこまでわがままに振り回されるかは、人の生きる力を引き出す介護の仕事には大切なこととなります。
だから、施設介護者はお年寄りに振り回されて、在宅を支えるショートステイの介護者は家族に振り回される。
これが私たちの健全なあり方なのだと思いました。」(p.177)
私も施設で介護をやっているので、この「お年寄りのわがまま」に日々接しています。みんなが同じようにやってくれて、決めごとにしたがってくれたらどれほど楽かと思うこともしばしばです。
けれども、それでも無遠慮にわがままを言ってくるお年寄りによって、本来の介護のあり方を考えざるを得ない。それがまた有り難いこととも言えますね。
「少しでも食べてもらい、なんとか元気になってほしいという思いから、よかれと思ってやったことでした。まだターミナルケアに対する知識も浅く、おばあさんにはそれが苦痛になっていたことなど、まったく気づきませんでした。」(p.182)
これは高口さんが経験されたことですが、私も日々、こういう場面に遭遇します。
なかなか食が進まない利用者様の食事介助で、何とかして食べさせようとする。中には強引に食べ物を口に突っ込むスタッフもいます。
食べて元気になってもらいたいというのは自分の思いです。少なくとも、そのペースややり方では食べたくないと感じている利用者様の思いではありません。相手の自由を制限して自分の思いを押し付ける。それを「正しい」とは、私にも思えません。
では、食べずに元気がなくなって病気になって苦しんでもいいのか? 利用者様はそこまで考えて食べないことを選んでいるのか?
やはりこれも、難しい問題です。正解などどこにもないのだと思います。
「介護は、人の生き方に通じる人との関わりそのものです。だから、介護を考えるとき、その職員の人としての生き方そのものが反映されます。生き方がいろいろあるように、介護の考え方もいろいろあるでしょう。ときには、職員全員の考え方が違うこともあります。違っていいのです。その違う考え方が、のびのび表現される現場であることが大切なのです。しかし、どんなにのびのび表現され、さまざまな意見が出されたとしても、仕事として行う介護は、ひとつです。これを決めるのが現場の介護リーダーです。」(p.204)
どれが正しいとは一概には言えなくても、現実には何かを選ばなければなりません。それを決めることは大変なことです。重責を感じることでしょう。
私がやっている施設介護の仕事では、まさにそういうことが行われています。考え方は人それぞれでも、リーダーがこうすると決めたなら、それにしたがって介護を行います。
これはまさに、「生きる」ということだなぁと思います。日々、自分の生き方が問われる仕事です。
介護職は、厳しく、大変で、なおかつ給料も低いとされる仕事。だから人が集まらない。けれども、非常にやりがいがある仕事だとも思います。なぜなら、自分の生き方に、人生そのものに、向き合わざるを得ない仕事だからです。
本書は、終末期を介護施設で迎えるという選択肢を提示し、それも1つの方法だとお勧めするための本のはずです。しかし、介護の現場で働いている私が読むと、自分の仕事のあり方を問い直すきっかけを提示されているように感じますね。
いずれにせよ、これからお年寄りが増え、老人介護サービスを利用する人はどんどん増えていくことでしょう。特別養護老人ホーム(特養)だけでなく、高口さんが働かれている老健でも、ターミナルケアをするようになっています。私が勤める民間の施設でも、そこで亡くなられる方もいらっしゃいます。
こういう施設で終末期を迎えるという現実は、これから間違いなく増えていくでしょう。ですから、今のうちにそういうことも含め、自分や家族の死に方を考えておくことも、良いことではないかと思います。死に方を選ぶということは、生き方を選ぶことでもありますからね。
2021年10月05日
ピンピンコロリの新常識
長寿であることはめでたいことであり、昔から不老長寿が求められてきたように、人々の基本的な欲求とも言えるでしょう。しかし、長寿であれば何でも良いというわけではなく、健康寿命が長いことが求められるようになっています。つまり、寝たきりとか介護が必要な状況で長生きすることに対しては、否定的な考え方です。
したがって、なるべく健康で長生きした上で、死ぬときはコロリと時間を置かずに死にたいという欲求が出てきました。それが「ピンピンコロリ」という考えです。
たまたまオススメに上がってきたので買ってみた本ですが、この本は、そういうピンピンコロリを目指すための考え方を伝えるものになっています。
著者は、医学博士であり名誉教授でもある星旦二(ほし・たんじ)さん。医師であり研究者でもある立場から、どうすればピンピンコロリが実現できるかを語っておられます。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「はじめに、驚くべきデータをお知らせしましょう。北欧の国フィンランドで行われた調査で「医療者から医療処置や指導を受けた人よりも、それをせずに放置した人のほうが、15年後の生存率が高かった」という結果が出ました。医師の言うことを聞いた人よりも「検診なんて行かない!」という人のほうが、結果的には長生きだったというのです。」(p.13)
「もちろん、検診はムダであると言うつもりはありません。検診によって重大な病気が発見されることもありますし、健康づくりの指標にすることも可能です。
しかし、検査数値から処方されるがままに薬を飲むことが、本当の健康づくりになるとは限りません。」(p.14)
「じつは、私たちの調査で「病院が少ない地域のほうが、そこに住んでいる人たちは健康で長生き」ということがわかっています。なんと、医療施設がととのっている都会よりも、医師不足・施設不足といわれる地域のほうが、平均寿命が長いのです。」(p.15)
私も、数年前に検診を受けることをやめました。それよりも自分の身体の声を聞いて、身体を信頼しようと思ったからです。
星さんも、検診によって医師から「悪い」と言われたからというだけで自分の身体の声を聞こうともせず、医療に頼ることが問題だと指摘されています。
こういう医療に頼る(依存する)体質が問題だということは、破綻した地方自治体で有名になった夕張市でも明らかになりました。市内の公共の病院がなくなって、返って市民が健康になったという有名な事例ですね。
安易に医療に頼れない環境である方が、長生きできるという結果が実際に出ているのです。
「一方、ここ数年平均寿命がトップクラスというのが長野県です。こちらは、医療機関や介護施設などいわゆるハコモノを増やす代わりに、県や自治体、医療機関が協力しあって、県民が「自分の健康は自分で守るもの」という意識を持つような活動を積極的に行っています。健康に対する自立心があれば、健康寿命を実現できるというモデルケースとなっています。生涯学習に不可欠な公民館活動もダントツ第1位です。」(p.31)
たまたま長野県の諏訪地区に移住したのですが、諏訪中央病院の医師として長野県の健康寿命を伸ばすための活動をされた鎌田實さんのご著書も読んでいました。ハコモノを充実させるとか、薬をたくさん処方するとかではなく、県民の啓蒙活動や、意識改革を進めてこられた方です。
これまで長寿トップ県だった沖縄県は、どんどん短命県になってきています。国からの支援が多くなってきたのにつれて、長寿県ではなくなってきたという現実に、目を向けてみるべきかと思います。
PART2は「すぐに始められる!ピンピンコロリアクション」ということで、星さんオススメの行動が示されています。「新しい洋服を買いに出かける」とか「美容院に行く」など、ちょっとおもしろいものがありますが、それぞれに理由が書かれています。気になる方は、ぜひ本をお読みくださいね。
その中からいくつか紹介しましょう。まず9番目の「おいしいものを食べる」からです。
「では、何を食べたらいいのかということになりますが、心がけていただきたいのは「自分の体に聞く」ということ。言葉で聞いて頭で考えて判断するだけではなく、あなたの体に合うのかどうか、あなた自身がよく感じてみることが大切です。
私たち人間には、自分に合うものと接していればリラックスし、合わないものと接していれば緊張するという性質があります。体に合うものを食べたときは「おいしい、うれしい」と感じ、その後の体調もよいでしょう。」(p.51)
「○○が健康によい」という情報は多々ありますが、それに踊らされないことですね。まずは自分の身体で試してみること。それが自分に合うかどうかは、自分の身体がよくわかっているのです。自分の身体を信頼することが大事ですね。
次は17番目の「健康法オタクになる」です。「なるな」ではなく「なる」ですからね。お間違えないように。
「でも「ちょっと体調が悪いなぁ」というとき、病院や薬にすべてまかせるのではなく、自分でできることをやってみましょう。風邪気味ならしょうが湯を飲んで体を温め床につく、肩や腰の凝りならツボ押しやマッサージをするといったことです。
じつはそれらは迷信ではなく、体にいい方法なのです。人間の体には自然治癒力があり、それを後押しする方法が、昔から伝わる民間療法です。」(p.67)
つまり、病院に頼るなってことですね。現代医療でなくても、効果があるものはたくさんあります。私もレイキをお勧めしていますが、他にもたくさんあるでしょう。そういうのを知って、自分の体で試してみる。要は現代医療に依存せず、自分主体で生きることが大事なのです。
次は18番目の「手洗いとうがいをする」です。昨今のコロナ騒動で、細菌やウイルスなどから身を守る術として、よく知られるようになりました。
「しかしそれ以外にも、目を向けておくべき病気があります。それは世界の死因のトップである感染症です。抗生物質が簡単に入手できる日本でさえ、死因の3位は風邪をこじらせたことによる感染症である肺炎なのです。
そう聞いて真っ先に予防接種が頭に浮かんだとしたら、ちょっと考えを改めましょう。感染症にならないためにいちばんの近道は、ウイルスを体に入れないことです。
毎年話題になる感染症は、インフルエンザです。そのいちばん有効な対策は「うがいと手洗い」です。また入浴によって体を清潔に保つことです。」(p.69)
コロナでは、まったくエビデンスのないマスクがさかんに取り上げられていましたが、はっきりしているのは手洗い、そしてうがいですよ。星さんは、3番目にさえもマスクではなく入浴(身体を清潔にする)だと言っています。
次は21番目の「発酵食品を食べる」です。これは健康法としてよく知られてますね。
「具体的にいえば、納豆、キムチ、みそ、甘酒、漬物、ヨーグルトなど。きのこ類もそれ自体が「菌」ですので、腸内細菌の活性化に一役買ってくれます。
腸のなかで細菌が活発に動くと、水素がたくさんつくられます。この水素が、活性酸素という体のサビを抑制してくれるので、腸内細菌を元気にすることが大切なのです。」(p.77)
活性酸素を取り除く水素を腸内細菌が出しているとは知りませんでした。ビタミンEなどが余分な活性酸の除去に役立つことは知っていましたが。
もちろん、活性酸素そのものが悪玉ではありません。身体にとって悪い対象を攻撃するのに役立ってもいます。要はバランスなのです。そのために、活性酸素が増え過ぎたら除去する健全な仕組みを体内に持っていることが大事なのでしょう。
最後は27番目の「生涯現役で仕事を続ける」です。
「日本一の健康長寿として知られている長野県では、高齢者の有業率が高い、つまり、働いている人の割合がとても多いことがわかりました。長野県を訪れると、どの地域でも、畑には長靴を履いて元気に作業する高齢者の姿を見かけます。農作業というのもいいですね。植物・動物などの生命力に触れるのは、精神衛生上とてもよいのです。
その反対に、寝たきりの高齢者が多いのは沖縄県。もともと、のんびりした地域ではあるのですが、周りの人がなんでも世話を焼いてくれるので、体を動かさなくなってしまうということも、その理由ではないかと考えられています。」(p.89)
年寄りを大事にし過ぎて、早く引退させたりしてはいけないのです。ちなみに私の職場は定年制がなく、70歳代の方も働いておられます。自分にできることで仕事をし続けることは、健康寿命を伸ばす上で効果的なのだと思います。
PART3は「ピンピンコロリを実現する住宅づくり」ということで、星さんオススメの内容が語られています。その1番目の「「住宅」と「健康」の深い関係に気づこう」に、基本的な考え方が示されています。
「家は、暮らしの基本です。多くの人にとって、休息を含めればいちばん長い時間を過ごすところですし、外出が多い人でも、自分の生活の基盤となる大切な場所です。ということは、家が、健康に大きな影響を与えるのは当然ですね。」(p.105)
「まず、冬に暖かいことです。健康長寿のためには体を冷やさず、体温を高めに維持することが重要なのですが、そのためには家のなかを暖かくするのがいちばんの近道。逆に夏には涼しさを保つことが、快適な眠りを得るためにも必要です。
温度だけではなく、湿度を適切に保つことも大切。湿度が高すぎるとカビやダニなどの発生を招きますし、乾燥しすぎても風邪をひきやすくなるなど、どちらの場合も悪影響があります。」(p.105)
考えてみれば当たり前ですが、一番長く過ごす住環境を快適にすることは、健康のために重要ですね。冬は暖かく、夏は涼しく。昔の人は、そのために様々な工夫をしてきました。最近は、全国どこでも同じような安く建てられる家が増えましたが、やはりそこに手をかけることが大事なのだと思います。
星さんは、「高断熱・高気密住宅」「自然素材住宅」というキーワードを示されています。シックハウスのことも触れられていますが、建材選びも重要ですね。住んで快適な家にする。このことは、健康でいるために、大きな要因になっていると思います。
PART4は「自分の生き方そのものが、健康な毎日をつくる」というテーマで語られています。この本を通じて語られている内容の根本は、ここにあるのではないかと思いました。
「「健康は、他人が決めるものではなくて、あなた自身が決めるもの」という面が見えてきたのです。「自分は幸せだ」と思っている人が幸せであるのと同じように、「自分は健康だ」と思っている人が健康であり、その後も元気で長生きできるのです。」(p.130)
「たとえばカナダの調査では、「健康だと思わない」と答えた人が、「健康だ」という人に比べて、死亡率が約3倍も高くなっていました。
またそれに関連して、「自分は実年齢よりも若い」と思う人が長生きであることもわかっています。自分が若いと思える人、自分は元気だと思える人は、生き方が前向きで、PART2のピンピンコロリアクションなども、意識せずとも実行しているのではないでしょうか。」(p.131)
つまり、もっとも重要なのは自分の意識なのです。たとえ他の人が「あなたは不健康(病気)だ」と言ったとしても、それを受け入れず、自分は大丈夫だと思っている人の方が長生きするのです。自分に対する絶対的な肯定意識、信頼、満足感、それが大事なのですね。
「どんなに医学が進歩しても、不老不死の実現は難しいでしょうし、この本もいわゆる不老長寿を目指しているわけではありません。「年齢相応に元気で暮らし、天寿を全うしましょう」ということをお伝えしたいと考えています。その自然の流れを認めたうえで、自分でできることをできる範囲でやっていくことを提案しています。心と体をできるだけ健康に保ち、人生を最期まで楽しんでいきましょう。」(p.142)
星さんは、これからは医療もDIY(Do It Yourself=「自分でやってみよう」)の時代だと言います。医師など専門家に依存するのではなく、上手に使いながら、最後は自分で責任を持って決めるという生き方です。そのためには、ベースに自分(の身体)への信頼が必要でしょう。そういう自己肯定感が大事なのです。
「高齢者ならなおさら、なんらかの病気を持っているのは当たり前といえるでしょう。ですから、もし何かの病気を指摘されても、落ち込んだりしないことが大切です。病気とともに生きていく「一病息災」の精神をもちましょう。」(p.143)
検診を気にしすぎないということも、こういうことなのです。不調な部分があるからこそ、より身体の声を聞こうと意識づけていられる。そのことを思えば、その不調にこそ感謝ではありませんか。病弱な人ほど長生きすると言われますが、まさにそういうことかと思います。
「一生学ぼうという姿勢が健康長寿の要素だということを証明してくれています。
また、人生につきものともいえる失敗経験も学びのチャンスです。「一生勉強だな」と、しみじみと思わされるのは、成功ではなく失敗したときだったりするのです。失敗したときのダメージは大きいものですが、それを恐れずにチャレンジすれば、きっと何かが手に入ります。」(p.150)
好奇心旺盛に挑戦し続けること。挑戦すれば、失敗もあります。その失敗を恐れ過ぎないこと。それは、たとえ失敗しても大丈夫だ、という自己肯定感があればこそだと思います。
ベースに絶対的な安心感(自己肯定感)があれば、結果を恐れたりはしません。何があろうと大丈夫だからです。そうであれば、より自分らしく生きられるのだと思います。
つまり、恐れずに自分らしく積極的に生きることが、健康で長生きすることにつながる。そう、星さんは考えておられるのです。
「つらいことがあったとき、長い時間の単位で物事を考えるのもそれを乗り越えるコツです。つらいのはいっときのことで必ず過ぎ去ります。仏教では諸行無常といいますが、この世のすべてのものはうつろいゆくものなのです。ですから、過去にしばられず、いまを生きましょう。そして、この世を去った魂が何度も生まれ変わると考える輪廻転生のような視点を持つことも、物事を大きく広くとらえるうえで有効です。「ああじゃなきゃいけない」「こうじゃなきゃいけない」ではなく「あれもOK」「これもOK」という多様性を認める広い心が生まれるのです。」(p.157)
人生にはつらいこと、悲しいこと、困難なことも多々あります。それでも、それは過ぎ去っていくものであり、それもまた自分に役立つものだという見方が大事なのです。そうすれば、今を積極的に生きられます。
そして、そういう見方ができれば、すべてを肯定的にとらえることも可能になります。何でもOKだと思えるから、結果がどうであれ大丈夫だと思えます。こういう考え方、生き方が、健康長寿に役立つのです。
最初は、具体的な行動指針がバラバラに示されているだけで、内容が薄い本かなと思ったのですが、そうではありませんでした。その背後には、自分自身への絶対的な信頼を持つことがベースにあったのです。
医療に依存しないこと。自らを信頼した上で医療などを上手に利用すること。そういう主体的な生き方を確立することが、ピンピンコロリの実現に役立つ。そういうことを星さんは示されたいのだろうと思いました。
2021年10月11日
認知症にならない29の習慣
鎌田實(かまた・みのる)さんのご著書は、すでに何冊か紹介していましたが、縁あって鎌田さんが住んでおられる長野県茅野市の住人になったこともあり、何冊か鎌田さんの本を買ってみました。その中の1冊です。
最近は、看取りとか認知症について関心があります。なので、鎌田さんが実践しているという認知症対策に興味があったのです。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「僕が信州に赴任したのは40年前。当時の長野県は脳卒中が多く、不健康な地域でした。脳卒中は病院で命を助けても、まひや認知症などの後遺症が残ります。地域に戻った患者さんの家では、介護地獄が待っていました。」(p.2)
「食事や運動などの生活習慣について知ってもらい、生活パターンを変えてもらいました。その結果、長野県は平均寿命日本一の長寿県になりました。
そうやって培ってきた健康づくりのノウハウは、認知症予防にも共通するものが多くあります。」(p.2)
長野県の寿命だけでなく健康寿命が長くなったのは、鎌田さんたちの活動によるものが大きいと言われていますね。そのノウハウを、この本で紹介するということです。
「老化をすすめるものとして「慢性炎症」と「フレイル」(虚弱)が注目されています。この2つの予防は、老化にともなって増える高血圧や糖尿病、動脈硬化、脳卒中、がん、うつ病などを防ぎ、要介護状態にならないようにするのと同時に、認知症の予防にもつながります。」(p.3)
「運動が認知症予防に効果的というデータは世界中のさまざまな論文で発表されています。特に、ウォーキングのような有酸素運動と、スクワットのような筋肉を刺激する運動の組み合わせは、認知機能の向上に効果があるとされています。」(p.4)
「老化をすすめる慢性炎症を抑えるには、野菜をたっぷりとることが大事です。野菜の色素には抗酸化力があり、慢性炎症を抑えてくれます。また、魚にはDHAやEPAといった脳の血流を高めるオメガ3脂肪酸が豊富に含まれています。筋肉の材料となるタンパク質も豊富で、フレイルを防ぎます。」(p.4)
「認知症の予防は大切ですが、認知症の予防のために生きているわけではありません。健康にいいからといって、つらいことをイヤイヤ続けるのは苦行です。
脳は、好きなことや楽しいことをすると、前向きになり活性化します。特に、人と楽しみを分かち合ったり、社会とかかわって自分の能力を発揮するという喜びは、人生の原動力になります。楽しむことは、認知症予防には大切なポイントです。」(p.5)
以上がこの本で示される予防方法の本質ではないかと思います。運動、食事、考え方ですね。
特に最期の脳の活性化に関する考え方は重要かと思います。運動も食事も、イヤイヤやっててはダメなんですよ、ということですからね。
「彼は、大学病院で、認知症かどうかを調べる4つの検査を受け、軽度認知障害と診断されました。その後、認知症デイケアに通い、認知力アップトレーニングや絵画療法、楽器の演奏、筋トレなどに取り組みました。結果、3年ほどで健常な認知機能になり、軽度認知障害から回復することができたのです。」(p.15)
つまり、早期発見することで認知症予備軍が認知症にならずに済む、ということのようです。
しかし、これは一例ですし、この対策が本当に効果があったのか、放っておけば認知症になったのかなど、実際のところはわからないと思います。
この本全体を通じて感じたことですが、よく「これによって認知症の発症率が○%下がった」という研究結果を紹介されるのですが、私は疑問に感じます。
なぜなら、たしかにそういう研究はあるのでしょうが、脳卒中などによる脳機能障害以外では認知症の原因は不明だからです。何かによって何十%も違いがあるなら、それが原因だと断定できるでしょう。でも、そうはなっていないのです。
鎌田さんは、そういうことも理解されておられると思いますが、こういう本でそこの正確性を追求しても売れなくなりますからね。したがって、やや煽るような、断定するような書き方になっているのも仕方ないことだと思います。
ですが、読む方としては注意が必要だと思います。ここに書かれた方法をやれば、認知症にならずに済む、ということではありません。
そこをはっきりさせないと、予防を怠ったから認知症になったのだ、認知症になった人が悪い、という誤解も生じかねませんからね。
「糖尿病の人は血糖値が正常な人に比べて約2倍、認知症の発症リスクが高くなります。血糖値が上がると慢性炎症が進むため、認知症のリスクが高くなると考えられているのです。」(p.27)
これも同様ですね。「2倍」という言葉に驚かされますが、仮に正常な人の認知症発症リスクが1%なら、糖尿病の人は2%ということです。こう言われると、大差ないなぁと思いませんか? その傾向がある、とは言えると思いますよ。糖尿病は身体のあちこちで悪影響を与えるものですからね。
「肥満も要注意です。中年期に肥満だった人は認知症リスクが高い、と発表したのはスイスのジュネーブ大学の研究です。
特に、BMI30以上の人は要注意ということがわかりました。」(p.29)
これも糖尿病と同様ですね。認知症に限らず、肥満が身体の健康に悪影響を与えるという傾向については、以前から言われていることです。肥満が認知症の原因ではありませんし、この記述ではどの程度の影響かもわかりません。
「アメリカのヴァンダービルト医学校の研究では、野菜ジュースを週3回以上飲む人は、1回以下の人よりも、アルツハイマー型認知症の発症率が76%も少ないという報告をしています。」(p.38)
これも同様ですね。どんな研究なのかもはっきりしません。もし本当に76%も発症を抑えることができるなら、アルツハイマー型認知症の原因は野菜不足、あるいは野菜ジュース不足だと言えるではありませんか。
野菜ジュースは飲まないけど、野菜を食べている人はどうなのでしょう? 野菜ジュースと言っても、にんじんジュースかもしれないし、トマトジュースかもしれません。その違いは? 1回にどの程度飲んだのでしょう? 100ccですか、200ccですか? フレッシュか濃縮還元かの違いはないの? などなど、ツッコミどころはたくさんありますよ。
ですから、こういうのは単に「傾向があると考えられる」くらいに思っておけばいいと思います。
「僕は、卵を一日に約3個食べます。タンパク質が多く、認知機能の維持によいと注目されているコリンが含まれているからです。オススメは鎌田式ウーロン卵。ウーロン茶と少量のめんつゆにゆで卵を漬けるだけです。卵黄コリンは、脳内に吸収されやすいといわれています。」(p.46)
何だか健康オタクっぽい話になってきましたね。でも、よくよく考えてみれば、この本で紹介しているのは鎌田さんが実践しておられる健康法なのです。
健康法というのは、何も認知症対策だけではありません。健康であれば認知症対策も含まれるわけですから、そういう観点から、鎌田さんが「これが良さそうだ」と思われて実践されていることを、ただ紹介しているだけの本なのです。
「国立長寿医療研究センターは、腸内環境が認知症に強く関連があるとする論文を発表しています。腸内の細菌状態が脳の炎症を引き起こす可能性があるといいます。
僕は、腸内細菌の善玉菌を増やすために、発酵したものを毎日食べるようにしています。納豆、みそ、チーズ、ヨーグルト、麹などです。」(p.60)
これも同様ですね。発酵食品が腸内環境を整えるのに役立つ、ということは言われています。食べて悪いことはないでしょう。健康にも役立つと思います。
「ビールに含まれるホップの苦味の成分、イソα酸が、アルツハイマー型認知症を予防するという研究があります。」(p.64)
これも同様ですが、個人的には採用したいですね。(笑)
「脳を活性化するには、いつもと違うことをして、マンネリから脱することが大事です。新しいこと、苦手だと思って避けてきたことにも、どんどん挑戦してみましょう。」(p.86)
脳を使うこと、刺激を与えることは、老化防止に役立つと言われています。マンネリは刺激がないということですから、こういうことも大切だろうと思います。
「認知症の一般的な症状に、アパシーがあります。何事にも無関心で、無気力になることです。人間は何かをしようという意欲があってはじめて行動するので、意欲そのものが低下すれば、身体活動も減り、脳機能も衰えていきます。認知症の人の約半数に、このアパシーがみられると報告されています。」(p.100)
「アパシーに陥らないためにも、日ごろから脳が喜ぶことをやりましょう。脳は楽しいこと、好きなことには集中力が高まり、感動した出来事は記憶に強く残ります。」(p.100)
これもそうなのですが、アパシーだから認知症になるわけではありませんからね。認知症の人の多くがアパシーになっているというだけです。
したがって、アパシーにならないことが認知症予防になる、と言い切れるものではないでしょう。
ただ、心身の健康を保つ上で、先ほどのマンネリ防止と同様に、脳を活性化させてよく使うことを心がけるということは、大切なことではないかと思います。
「最近、僕は、ワーキングメモリという短期記憶に問題が出てきたかなと思っています。軽度認知障害(MCI)のもう一つ前段階ぐらいになってきたと思って、もっと積極的に生きようと決め、地域包括ケア研究所をつくり、所長になりました。」(p.111)
ここが面白いと思いました。つまり、これだけの認知症対策を続けてこられた鎌田さんであっても、認知機能が衰えてきているということですからね。
ただこれも、この認知機能の衰えが認知症につながるものかどうかは何とも言えません。因果関係はないのかもしれませんし。
現に、鎌田さんのような対策をほとんどしない人でも、認知症にならずにいる人もいれば、逆に健康に気をつけていた人が認知症になるケースもあります。
「読者のなかには、「認知症になったらおしまい」というイメージをもつ人がいるかもしれません。しかし、「認知症=何もできない人」というのは大きな誤りです。
脳の機能の一部がそこなわれても、できることはたくさんあります。現存能力を生かしながら、自分の「居場所」や「役割」を持ち続けることが、脳にいい刺激を与える。脳を刺激すれば、進行を遅らせ、いい状態を長く保つことができるーー好循環を生み出します。認知症になったからといって、人生をあきらめる必要はないのです。」(p.114)
「僕には佐藤さんの言葉で忘れられない言葉があります。
「認知症になって不便なことは増えたけれど、不幸ではありません」
本当にその通りだと思います。」(p.115)
ここまで、認知症をいかに防ぐかという対策を語ってこられた鎌田さんですが、最後に本質的なことを書かれているなと思いました。
要は、認知症を恐れてはいけないのです。不安を動機として認知症対策に汲々となってはダメなのです。これで認知症が防げるかもしれないけど、防げないかもしれない。それはそれでいいじゃないか。認知症になったからと言って、不幸になるわけじゃないんだから、認知症の人生を楽しめばいい。
私はここから、そういう鎌田さんのメッセージを汲み取りました。
たくさんの対策があるので、それらすべて忠実にやろうとすれば無理があるし、おそらくやる気も失せてしまうでしょう。
適当にやるのがいいと思います。何が効果的なのか、まだわからないのです。ですから、自分に合ったものを採用し、これで自分はより健康的に生きられると信じて、実践することだと思います。
2021年10月13日
家にいるのが好きになる 断捨離 すっきり生活
この本は、市販はされていないようです。
たしかFacebook広告として見て、ここのところブームが続いている「お片付け」や「整理収納」を提唱しているものだと思いました。ただ、そこに書かれていたキャッチフレーズに興味を持ち、リンク先のサイトを見たのです。
キャッチフレーズの内容は忘れてしまいましたが、そこにあった問いの答えを知りたくて、この本を注文したのです。
書籍代としては無料ですが、別途、送料+手数料の550円がかかります。届いた本を見ると薄手のペーパーバックのようなもので、これなら書籍代として550円でも不思議じゃないなと思いました。
要は、本をダシにメルマガ読者を獲得し、その先にある有料講座を販売したいということのようです。
そういう販売手法は知っているので、それ自体をどうこうとは思いません。ただ、急速に興味を失って、しばらく読まずに放っておきました。他に読みたい本もあったからですが。
けれども、他の読みたい本を読み終えたタイミングで、「薄い本だから一気に読んでしまおうか」と思い直し、読んでみることにしました。
そうしたところ、これは単なる「お片付け」の本ではないことがわかりました。それで、ここで紹介したいと思ったのです。
著者は、クラタ−コンサルタントのやましたひでこさん。詳細は、公式WEBサイト「断捨離」をご覧ください。
前置きが長くなりましたが、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「断捨離は、そうした住まいに堆積しているモノを相手にするので”片づけ”と混同されがちですが、「見える世界」から「見えない世界」を変えていく、という行法哲学であり、単なるモノの片づけではありません。」(p.21)
「今まで「執着心」とは、誰もが心のうちに抱えている、逃れられない根深い欲求であり、自分では如何ともしがたい存在だと思っていましたが、「眼の前のその洋服を取り除くことは、私自身の執着心を取り除くことになるのではないだろうか」と、はたと気づいたのです。」(p.26)
つまり、モノを断舎離するということは、片づけて整理整頓してすっきりする、という次元の話ではなく、モノを断舎離することによって自分の執着心を手放すということなのです。
執着心を手放せということは、昔から仏教などでも言われてきました。しかし、その目に見えない心の中の執着心を、どうやって手放せばいいのか? そこが難しいところでした。
それを目に見える形であるモノの断捨離によって行おうとする。それが、やましたさんが提唱しておられることなのです。
「つまり「思い入れがあってどうしても捨てられない」というほどに根深い執着心ではなく、もっと反射的な、衝動的な感覚。人間の心の最も奥深いところにある執着心とは、ただそれが「使えるモノである」ということに対する依存心のようなものだということがだんだんわかってきました。」(p.27)
その手放そうとする執着心の中でも、実は何気ない「まだ使えるのにもったいない」という思いこそが、根深い依存心になっているとやましたさんは言います。
もったいない、まだ使える、いつか使う時が来るかもしれない。そんな思いでモノを収納し、見えなくなってしまい、いつしか忘れ去られる。それは、心の中のゴミと同じです。活用されないのであれば、ないのと同じこと。ないけれどもある。そういうことが、実は根深い依存心になっている。
これは、何となくわかります。つまり、もったいないという思いは、裏返せば不安なのです。今、捨てるという決断をすることが恐いのです。失敗するかもと不安なのです。だから捨てられない。取っておこうとする。
つまり、この根深い執着心、依存心の本質は不安(恐れ)だということです。
「このようにモノを通じて「なぜ・なぜ・なぜ」と思考を進めていく中で、自分の課題を発見し、最終的にモノを通じて「不要・不適・不快」を取り除くことで心の解放感を味わっていきます。」(p.36−37)
なぜそのモノを必要と思うのか? 本当に必要なのか? そういう判断は自分にしかできません。自分にとっての正解しかないからです。
そうやって自分の心の内を見つめていく作業は、意識的に生きることにつながります。自分の生き方が本当に自分らしいものなのかを問い直す作業でもあるのです。
「でも、もっと俯瞰して住まいを見た時に、本当にそれは「もったいない」とモノを惜しみ、愛おしいと感じる行動になっているのかどうか。そんな風に、モノをまさに「死蔵」しておくことこそ、もったいないのではないか。」(p.38)
「断捨離を通じてヨガを暮らしにおいて実践していくためには、「罪悪感」と「後ろめたさ」から逃げずに向き合い、そのことに「申し訳ない」と真正面から懺悔できる自分でありたい。」(p.61)
捨てることに罪悪感や後ろめたさを感じて、つい捨てられずにいる。それをいくら「もったいないから」と言い訳したところで、本心ではそれは不安(恐れ)に過ぎないとわかっています。
捨てなければ、新しいものは入れられません。呼吸は吐かなければ吸うことができないのです。そのモノが悪いからとか、価値がないから捨てるのではなく、今の自分には不要だから捨てる。そうであれば、そのモノに対する敬意や、それでも捨てなければならないことに対する「申し訳ない」という思いも出てくるはず。そこに向き合う必要があるのです。
「なければないで、あるもので工夫をする。こうした発想の積み重ねが「捨てて困る」を「なくても大丈夫」と前向きに捉えていくセンスを磨いてくれます。」(p.77)
でも何かあった時に困るのではないか、という未来に対する不安(恐れ)が、捨てることを逡巡させてしまいがちです。たしかに、「捨てなければ良かった」と思うことに遭遇することもあるでしょう。けれども、実はそれがなくても大丈夫だということに気づくチャンスでもあるのですね。
「どうしても私たちは「足りない」とか「ない」という側面をフォーカスする癖があります。」(p.77)
私たちは無意識に、この「足りない」とか必要なものが「ない」ということを考えて、不安(恐れ)を感じてしまうのです。これは、お勧めしている「神との対話」シリーズでも言われていることですね。
「けれど、ここでもやはり、俯瞰がポイント。なぜなら、その困りごとは果たして、必ず防がなくてはいけないような大ごとなのでしょうか?」(p.78)
実際は、なければないで何とかなってしまうことがほとんどだろうと思います。それを経験しないから、いつまでも不安に感じているだけなのです。
「見える世界を自力で変えていくことで、空間が蘇れば、見えない世界の他力の応援が得られる。
モノを選び抜き、その空間を、掃く・拭く・磨くところまで行けば、確実に人生は変わる。「変える」というより「変わる」のです。」(p.95)
断捨離とは、自分の人生を変えること。しかし、自分がやるのは単に吟味してモノを捨てるだけ。そうやって自分が住まう空間を素晴らしいものにしていくことで、自ずと自分の人生が磨かれ輝いていく。そういうことを、やましたさんは言われています。
最初は、どうやって上手にお片付けができるかを示した本だと思っていました。しかし、内容はまったく違いました。
重要なのはお片付けすることではなく、自分自身と向き合うことなのですね。そのための手法としてのお片付けなのです。
たしかFacebook広告として見て、ここのところブームが続いている「お片付け」や「整理収納」を提唱しているものだと思いました。ただ、そこに書かれていたキャッチフレーズに興味を持ち、リンク先のサイトを見たのです。
キャッチフレーズの内容は忘れてしまいましたが、そこにあった問いの答えを知りたくて、この本を注文したのです。
書籍代としては無料ですが、別途、送料+手数料の550円がかかります。届いた本を見ると薄手のペーパーバックのようなもので、これなら書籍代として550円でも不思議じゃないなと思いました。
要は、本をダシにメルマガ読者を獲得し、その先にある有料講座を販売したいということのようです。
そういう販売手法は知っているので、それ自体をどうこうとは思いません。ただ、急速に興味を失って、しばらく読まずに放っておきました。他に読みたい本もあったからですが。
けれども、他の読みたい本を読み終えたタイミングで、「薄い本だから一気に読んでしまおうか」と思い直し、読んでみることにしました。
そうしたところ、これは単なる「お片付け」の本ではないことがわかりました。それで、ここで紹介したいと思ったのです。
著者は、クラタ−コンサルタントのやましたひでこさん。詳細は、公式WEBサイト「断捨離」をご覧ください。
前置きが長くなりましたが、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「断捨離は、そうした住まいに堆積しているモノを相手にするので”片づけ”と混同されがちですが、「見える世界」から「見えない世界」を変えていく、という行法哲学であり、単なるモノの片づけではありません。」(p.21)
「今まで「執着心」とは、誰もが心のうちに抱えている、逃れられない根深い欲求であり、自分では如何ともしがたい存在だと思っていましたが、「眼の前のその洋服を取り除くことは、私自身の執着心を取り除くことになるのではないだろうか」と、はたと気づいたのです。」(p.26)
つまり、モノを断舎離するということは、片づけて整理整頓してすっきりする、という次元の話ではなく、モノを断舎離することによって自分の執着心を手放すということなのです。
執着心を手放せということは、昔から仏教などでも言われてきました。しかし、その目に見えない心の中の執着心を、どうやって手放せばいいのか? そこが難しいところでした。
それを目に見える形であるモノの断捨離によって行おうとする。それが、やましたさんが提唱しておられることなのです。
「つまり「思い入れがあってどうしても捨てられない」というほどに根深い執着心ではなく、もっと反射的な、衝動的な感覚。人間の心の最も奥深いところにある執着心とは、ただそれが「使えるモノである」ということに対する依存心のようなものだということがだんだんわかってきました。」(p.27)
その手放そうとする執着心の中でも、実は何気ない「まだ使えるのにもったいない」という思いこそが、根深い依存心になっているとやましたさんは言います。
もったいない、まだ使える、いつか使う時が来るかもしれない。そんな思いでモノを収納し、見えなくなってしまい、いつしか忘れ去られる。それは、心の中のゴミと同じです。活用されないのであれば、ないのと同じこと。ないけれどもある。そういうことが、実は根深い依存心になっている。
これは、何となくわかります。つまり、もったいないという思いは、裏返せば不安なのです。今、捨てるという決断をすることが恐いのです。失敗するかもと不安なのです。だから捨てられない。取っておこうとする。
つまり、この根深い執着心、依存心の本質は不安(恐れ)だということです。
「このようにモノを通じて「なぜ・なぜ・なぜ」と思考を進めていく中で、自分の課題を発見し、最終的にモノを通じて「不要・不適・不快」を取り除くことで心の解放感を味わっていきます。」(p.36−37)
なぜそのモノを必要と思うのか? 本当に必要なのか? そういう判断は自分にしかできません。自分にとっての正解しかないからです。
そうやって自分の心の内を見つめていく作業は、意識的に生きることにつながります。自分の生き方が本当に自分らしいものなのかを問い直す作業でもあるのです。
「でも、もっと俯瞰して住まいを見た時に、本当にそれは「もったいない」とモノを惜しみ、愛おしいと感じる行動になっているのかどうか。そんな風に、モノをまさに「死蔵」しておくことこそ、もったいないのではないか。」(p.38)
「断捨離を通じてヨガを暮らしにおいて実践していくためには、「罪悪感」と「後ろめたさ」から逃げずに向き合い、そのことに「申し訳ない」と真正面から懺悔できる自分でありたい。」(p.61)
捨てることに罪悪感や後ろめたさを感じて、つい捨てられずにいる。それをいくら「もったいないから」と言い訳したところで、本心ではそれは不安(恐れ)に過ぎないとわかっています。
捨てなければ、新しいものは入れられません。呼吸は吐かなければ吸うことができないのです。そのモノが悪いからとか、価値がないから捨てるのではなく、今の自分には不要だから捨てる。そうであれば、そのモノに対する敬意や、それでも捨てなければならないことに対する「申し訳ない」という思いも出てくるはず。そこに向き合う必要があるのです。
「なければないで、あるもので工夫をする。こうした発想の積み重ねが「捨てて困る」を「なくても大丈夫」と前向きに捉えていくセンスを磨いてくれます。」(p.77)
でも何かあった時に困るのではないか、という未来に対する不安(恐れ)が、捨てることを逡巡させてしまいがちです。たしかに、「捨てなければ良かった」と思うことに遭遇することもあるでしょう。けれども、実はそれがなくても大丈夫だということに気づくチャンスでもあるのですね。
「どうしても私たちは「足りない」とか「ない」という側面をフォーカスする癖があります。」(p.77)
私たちは無意識に、この「足りない」とか必要なものが「ない」ということを考えて、不安(恐れ)を感じてしまうのです。これは、お勧めしている「神との対話」シリーズでも言われていることですね。
「けれど、ここでもやはり、俯瞰がポイント。なぜなら、その困りごとは果たして、必ず防がなくてはいけないような大ごとなのでしょうか?」(p.78)
実際は、なければないで何とかなってしまうことがほとんどだろうと思います。それを経験しないから、いつまでも不安に感じているだけなのです。
「見える世界を自力で変えていくことで、空間が蘇れば、見えない世界の他力の応援が得られる。
モノを選び抜き、その空間を、掃く・拭く・磨くところまで行けば、確実に人生は変わる。「変える」というより「変わる」のです。」(p.95)
断捨離とは、自分の人生を変えること。しかし、自分がやるのは単に吟味してモノを捨てるだけ。そうやって自分が住まう空間を素晴らしいものにしていくことで、自ずと自分の人生が磨かれ輝いていく。そういうことを、やましたさんは言われています。
最初は、どうやって上手にお片付けができるかを示した本だと思っていました。しかし、内容はまったく違いました。
重要なのはお片付けすることではなく、自分自身と向き合うことなのですね。そのための手法としてのお片付けなのです。
2021年10月20日
在宅ひとり死のススメ
看取りや認知症などに関連する本を探していたら、著者の上野千鶴子(うえの・ちずこ)さんの本がいくつか表示されました。「おひとりさまの老後」など、「おひとりさま」シリーズの本を書かれている方で、この世界では有名な方のようですね。それで1冊は読んでみようと思い、この本を選びました。
なんと過激な本だなぁとも思いましたが、これまで当たり前だった病院での死が否定される昨今、自宅での看取りも難しいとなれば、施設での死が受け入れられるようになるのではないか。前に読んだ「介護施設で死ぬということ」の影響もありますが、そう思っていました。
しかし上野さんは、それすら否定します。在宅での死ではありますが、誰にも看取られる必要のないひとり死。しかしそれは、かわいそうで悲惨な孤独死ではないと言うのです。
読んでみて、なるほどと思える部分が多々ありました。一方で、介護の現場をわずかながらでも経験した者として、これはちょっとどうなのだろうと感じることもありました。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「介護保険が始まった2000年には、高齢者の子どもとの同居率は49.1%(内閣府、2000年)、それからおよそ20年で30.9%(内閣府、2017年)までに低下しています。高齢者世帯の独居率は、わたしが『おひとりさまの老後』を出した2007年には15.7%だったのが、2019年には27%と急増、夫婦世帯率は33%と高齢者のみの世帯の合計が5割を超えます。夫婦世帯は死別離婚による独居世帯予備軍だと考えれば、近い将来、独居世帯は半分以上になるでしょう。」(p.14-15)
こうやって数値を見せられると驚きます。上野さん自身も驚いておられますが、予想していたとは言え、変化の速さを感じます。実際、私の両親も高齢者夫婦の世帯でしたが、3年前に母が亡くなってからは父の独居世帯となっています。
「自分で選んだひとり暮らしなら、寂しくも不安でもない、満足度は高く、悩みも少ないってことをデータで示してもらえたのは、強力な援軍でした。
それなのに、メディアではあいかわらず「高齢者の独居」イコール社会問題のような描き方が多いようです。何度もくりかえしますが、独居と孤立は違います。その反対に、同居イコール安心でもありません。同居している家族が虐待やネグレクトをしたら……家族がいるほうが危険な場合だってあります。」(p.35)
かつての三世代同居家族を理想とするかのようなマスメディアの画一的な価値観の押し付けには、私も疑問を感じます。実際、私も一人暮らしが長かったこともあり、一人暮らしの快適さを理解していますから。
日本は現在、超高齢化社会に突入しています。すると今度は、長生きすることが苦しみだと言われるようにもなりました。それに対して上野さんは、次のように反論します。
「そんなに高齢化がイヤなら発展途上国へいらっしゃい、抵抗力の落ちた年寄りは、褥瘡(じょくそう)から感染症にかかってあっというまに死ねるから、とわたしは毒づくことにしています。かつての介護は、褥瘡などあたりまえ、そこから感染症で死ぬこともざらでした。いまどきの介護は、褥瘡をつくらないのがあたりまえ。介護の質の水準がそれほど上がりました。」(p.45)
たしかに、医療だけでなく栄養、衛生、介護などの水準が上がったからこその超高齢化です。私の職場でも寝たきりのような人がおられますが、褥瘡ができかかっても、すぐに治っていきますね。
「でも健康寿命の延伸というかけ声を聞く度に、なんだかな、と思うのは、寿命に終わりが決まっていれば、健康寿命を伸ばせばたしかにフレイル期間も短くなるでしょう。ですが、毎年平均寿命が伸びている状況のもとでは、がんばって健康寿命を伸ばせば、その分持久力もついて、平均寿命も伸びるかもしれないということです。」(p.46)
ちょっとわかりにくい文章ですが、要は、健康寿命を伸ばそうとしたところで意味がない、ということです。
あとでフレイルをヨタへロと表現されてますが、要はヨボヨボになって足腰も飲食もおぼつかない状態です。老化というのは、健康期間の後のヨタへロ期間を経て死に至るもの。ですから、健康寿命が伸びれば、そこにヨタへロ期間が加算されて寿命が伸びることになる。健康寿命が伸びることは、必ずしもヨタへロの問題解決にはならないのです。
「日本人の死因からわかることは、大量死時代の大半の死が、加齢に伴う疾患からくる死だということです。すなわち、予期できる死、緩慢な死です。」(p.49)
「つまり多くの高齢者は死ぬまでの間に要介護認定を受けるフレイル期間を経験しますので、たとえのぞんでも、ピンピンコロリなんてわけにはいかないのです。」(p.49)
「では、年寄りの容態が急変したり、死にかけの現場を発見したら、どうすればいいか、ですって? まちがっても119番しないことです。」(p.50)
これは過激だなぁと思ったのですが、説明を聞くと納得です。年寄りは、何らかのきっかけで死ぬ運命にあるもの、という認識が前提にあるかどうかの問題なのですね。
死ぬべきでない人を見殺しにするなら問題ですが、死ぬ運命にある人は死なせてあげることも、ある意味で助けになるのです。
医療の介入は不要で、医師の役目は死亡診断書を書いて、警察のお世話にならずに済むようにすることだと上野さんは言います。主治医として訪問医療を受けていれば、医師が立ち会っていなくても死亡診断書は書いてもらえるのですね。
逆にピンピンコロリは、死ぬべきでない人が死んだとみなされ、警察が介入せざるを得なくなるとも。そうなれば関係者は、被疑者並みに扱われ、嘆き悲しんでいることもできない。はた迷惑な死に方だと上野さんは言います。たしかに、そうも言えますね。
「施設の機能はそこで生活が24時間完結することです。これを全制的施設(total institution)と呼びます。その典型が刑務所です。だから施設はある意味、刑務所のようなものなのです。しかも刑務所なら終身刑でもない限り、いつかは出て行けますが、高齢者施設は死体にならないと出て行けません。外出はさせてくれますが、職員の管理のもと、家族のもとへ外泊するにも許可が要ります。」(p.61)
私が働いているところも老人施設です。24時間365日、施設で暮らしているお年寄りもいらっしゃいます。
上野さんが指摘しているのは、本人の自由がないということです。これは、入居の契約を本人ができるうちはいいのですが、認知症などになって家族が契約の主体となった時、施設は刑務所のようになってしまうのです。
「いまいちばんもうかる介護系ビジネスは、サ高住に外付けの訪問介護を入れ、そこにさらに訪問看護と訪問医療をつける、というもの。サ高住の賃料と管理費で15万円程度、それに月額まるめての定期巡回介護、そこに訪問看護と訪問医療、不定期の往診などで積み増ししていけば20万〜30万円程度になります。利用者の側からしてみれば、ちょっとした有料老人ホーム並みのコストがかかります。
なんだかな、と感じるのは、医療・看護・介護をまるがかえした医療法人への利用者の系列化が起きることです。」(p.64-65)
上野さんは、一貫して施設を否定する考えのようです。その根本にあるのが自由のなさです。系列化されれば、医療や介護を自由に選ぶことができなくなります。
「施設はもういらない、というのがわたしの立場です。施設が足りないというけれど、これ以上作らなくてもいい。作ったが最後、施設は持ち重りします。建物は管理しなければならないし、雇用は維持しなければならないし、ベッドは埋めなければなりません。」(p.66)
最初の目的がお年寄りのために、ということだったとしても、組織ができればその組織を維持することが目的になってしまいます。その組織の維持にコストがかかれば、そのしわ寄せはお年寄りへと向かうでしょうね。
まあこの問題は、どんな組織にもつきまとうこと。会社だって、作った以上は維持したいと思うでしょう。
「それにわたしにどうしても納得がいかないのは、年寄りばかりが集まって暮らさなければならない理由がわからないことです。
高齢者はいわば中途障害者のようなものです。高齢者も障害者も、老若男女が集まるふつうの街にふつうに住む、それをノーマライゼーションといいます。街が変われば、施設なんていらなくなります。」(p.68)
介護研修でもノーマライゼーションという言葉を習います。たしかに老人介護施設というのは、ノーマライゼーションという考え方に反するものとも言えますね。
「訪問診療の頻度は通常2週間に1回程度。死期が近くなっても週に2回、毎日入るのはよほどの末期ですが、訪問診療の対象に入っていれば、主治医は死亡診断書を書いてくれます。「心不全」や「老衰」と書いてあれば、実は死因はよくわからない、いつ死んでもふしぎではない状態にいたということです。」(p.87)
「だとすれば「孤独死」防止のキモは、死後の発見を早めればよいだけになります。死後一定時間、それも相当期間経過して発見されるというのは、誰も訪れる者がおらず、社会的に孤立した生を送っていることの結果であって、その逆ではありません。だから「孤独死防止キャンペーン」は、「孤立生防止キャンペーン」になるべきなのです。」(p.89)
たとえ家族と同居していても、24時間常に一緒にいるわけではありません。したがって、亡くなる瞬間に独りでいることは充分に考えられるのです。
そういう場合でも訪問診療の主治医がいれば、「心不全」や「老衰」など適当な原因をつけてくれるので、事件性のない死として、警察沙汰にせずに死後の処理ができるというわけです。
そうであればこそ、老人の独居は心配する必要はない、ということですね。それよりも、死後の発見が早まるよう、訪問医療や訪問看護、訪問介護などを受け入れて、少なくとも週に1回、できれば2〜3日に1回は訪れる人がいる状況を作っておくことが大事なようです。
「取材から見えてきたのは、臨終に立ち会いたいというのは死ぬ側ではなく、死なれる側のこだわりだということでした。わたしはこれを「看取り立ち会いコンプレックス」と名付けました。」(p.97)
たしかに、看取る側の考え方の問題が大きそうですね。
上野さんは、前に紹介した看取り士の柴田さんとも会われているようです。その上で、誰かに看取られる必要はないというのが上野さんの意見です。
「精神病院ならずとも、認知症高齢者を受け入れた施設で、認知症者が受ける処遇は、似たり寄ったり。「外に出たい」という患者さんを(そりゃ元気なら、散歩もしたいでしょう)、自由に外出してもらって、疲れるまで職員が同行する、なんて施設は、美談になるほど、めったにありません。そんなことをしたら、人手不足でやっていられない、というのが理由です。」(p.109)
たしかにそうです。認知症の入居者様の自由にさせることもできなければ、常に見張っているとか、常に同行するなんてことも施設ではほとんど不可能です。
「「駆け込み寺」を必要とするのは本人ではなく、家族。認知症病棟が救っているのは、本人ではなく家族と制度の欠陥だということが、6回の連載からはよくわかりました。」(p.113)
精神科の認知症病棟を取材して書かれたコラムを読んだ上野さんの感想です。認知症患者はひどい扱いを受けますが、それによって家族が助かるのですね。
しかし、では認知症の人は社会で野放しにしておけばいいのでしょうか? 上野さんは、まるでそうであるかのように書かれているのですが、私は疑問を感じます。
たとえば「異食」についても、上野さんは介護士から冷凍食品を食べた例を聞いて、大したことではないと書いておられます。しかし、実際の異食はそうではありません。おしぼり、お菓子の包装や保存剤、洗剤など、食べられないものを食べます。本人が苦しむだけなら自業自得とも言えますが、場合によっては生命の危機をもたらします。
もちろん、それは最終的に本人が死ぬだけだから、本人の自由にさせたらいいと言うこともできますけどね。
けれども、社会問題になった踏切への立ち入りなどはどうでしょうか? 重大な事故を引き起こしたり、高額な損害賠償請求されたりもします。それも認知症の方の自由だから、放っておいて良いと言えるでしょうか?
上野さんは、認知症について甘く考えすぎているのではないか、とも感じるのです。
「そのとおり、「周囲の目」が彼らを責める、からです。あんな状態で放っておくの? 世間体を考えないの? 家族も家族だね……と「外野の声」に責め立てられることを、介護職の人たちが内面化しているからでしょう。」(p.122)
自宅ですっぽんぽんでいる認知症のお年寄りに、ヘルパーさんが困るという話に対する上野さんの反論です。上野さん自身がもしそうなったら、放っておいてほしいと言います。気持ちいいから服を脱いでいるだけなのだからと。
この後、排便排尿の異常についても書かれています。部屋のあちこちで排便排尿してしまう父親を、そこは父親の家だから好きにさせると受け入れる息子の話です。上野さんはその話を引き合いに、認知症でも一人で家にいられると言います。
でも、それをケアしなければならない訪問介護や訪問看護の人たちはどう感じるでしょうね。糞尿まみれの部屋の中で作業をしなければならない人たちのことを、それは仕事だから当然だと言えるのでしょうか?
また、自宅から一歩も出ないで素っ裸でいるなら、それは何の問題もないでしょう。けれども、その姿で街に出たらどうなりますか? 街に出てはいけませんと言えば、認知症の方は理解してやめるのでしょうか? 上野さんが書かれていることは、どうも現実離れしているように思うのです。
「ですが、何をやってもムダ、とわたしが思うのは、まさかあの人が、と思うような、知的能力も高く好奇心も強い学者先生の先輩たちが、ちゃんと認知症になっておられる姿を見てきたからです。なにしろ認知症診断の「長谷川式スケール」で有名な精神科医の長谷川和夫さんが、自ら認知症になったと公表されたぐらいですから。」(p.118)
「認知症の発症リスクには、糖尿病や難聴、睡眠時無呼吸症候群、歯周病などが挙げられていますが、これだって疫学的相関であって、原因かどうかはわかりません。同じ症状を持っていても、認知症を発症するひともしないひともいます。それより、こういうデータが増えれば増えるほど、認知症になるのは「自己責任」という考え方が広まるのがおそろしい。」(p.125)
先日、鎌田實さんの認知症予防の本を読んだばかりですが、私も予防は気休め程度にしか考えていません。
「認知症になれば、過去も未来もなくなって現在だけ。赤ん坊と同じです。思えば赤ん坊の時には、あんなにも自己チューに生きることを主張していました。それをしだいに抑制していったのが成長という過程。老いたらその過程をまきもどして、もういちど、過去も未来もない、現在に生きる状態に戻ってもいいのではないでしょうか。」(p.134-135)
こういう考え方には共感します。ただし、現実的にそういう対応ができるかどうかはまた別です。なぜなら、お年寄りは赤ちゃんとは大きさも体力も違うからです。
赤ちゃんなら簡単に行動を抑制できても、力のあるお年寄りを抑制することは大変なことですよ。
それに、赤ちゃんを育てることは、どれほど大変なことかわかっていないのでしょうかね? それこそ24時間365日、誰かが側にいて育てるのがふつうではありませんか。認知症のお年寄りに対しても、同じようにせよと言うなら理解もしますが、そうなればその費用はどうするのかという問題も残ります。
「ほしいのは認知症を怖がる社会ではなく、認知症になっても安心して生きていける社会。自分だけ認知症にならないようにあくせく努力するくらいなら、そのエネルギーを「安心して認知症になれる社会」をつくるために使ってもらいたい。そう、思ってきました。」(p.140)
たしかに、それが理想であり、それだけにまだ実現できていないということなのでしょう。
「認知症になる前に書いた事前指示書を「本人の意思」と見なすかどうかは難しい判断です。事前指示書を書いた時点での過去の自分が、変化した後の現在の自分の死を決定することになるからです。」(p.154-155)
「だが「呼吸器をつけないことを選ぶ」のは、ほんとうに「自由な選択」でしょうか? 周囲のひとびととの「人生会議」のなかで、呼吸器をつけてもじゅうぶん生きていけるよ、そのまま外出だってできる、家族に負担をかけなくてもヘルパーが使える、わたしたちはあなたに生きてほしいと思っているよ……と背中を押されることで、患者の選択が変わることがあります。」(p.158)
「死にゆくひとは、気持ちが変わる。揺らぐ、ジェットコースターのようにアップダウンします。その揺らぎにつきあって翻弄されるのが、家族の役目だ、と。
父の看取り経験から、わたしは健康な時に書いた日付入りの意思など信じるな、と思うようになりました。また、いったん決めたことを最期まで貫くことを、尊いこととも思わなくなりました。」(p.161)
「事前指示書は誰のためのもの? 事前指示書はいったい誰を助けるのでしょうか?
聞こえてくるのは「事前指示書があってよかった」「助かった」という家族と専門職の声ばかり。もちろん本人の声を聞こうにも、死んだ本人から聞くことはできませんが、事前指示書が「助ける」のは、家族と専門職が迷い、考えることから「助ける」ことじゃないか、と皮肉を言いたくなります。」(p.162)
「生まれてきたことに自己決定はありませんでした。死ぬことに自己決定があると思うのは、傲慢だ、とわたしは思います。もし、わたしがボケたら?……食べられるあいだは生かしておいてほしい、と願います。」(p.167)
これは上野さんの考え方であり、それを否定するつもりはありません。ただそうであるなら、上野さんも他の考え方を否定できないのではないでしょうかね。
健康な時の決定を貫きたいと思う人だっているでしょう。成人後見人に重要な決定権を託さなければならない人が、どうして自分の死だけは託してはならないのでしょうか?
上野さんが、「食べられるあいだは生かしておいて」というのも、これも事前指示書と同じですよね。ボケたら「もう死にたい」と言うかもしれないのに。そんな皮肉を返したくもなります。
このことについては、私も動画を撮って語りました。「尊厳死、安楽死、自殺。どこまで受け入れられますか?」です。よろしければご覧ください。
「その結果、事業者の利益を最大化するように誘導するケアマネが出てきました。お金をくれる人の顔色を見る……のは、どこの世界でもあたりまえ。ケアマネをつくったところまではいいけれど、事業者所属を認めたのは制度の設計ミスでした。」(p.180)
「介護保険はもともと中流階級の家族介護負担を軽減するという政策意図を以て設計されたものでした。「利用者中心」をうたいながら、その実、介護保険を推進したのは要介護当事者ではなく、その介護家族たちだったことは、覚えておいてください。」(p.184)
「あまり多くの論者が指摘しませんが、介護保険がもたらした大きな変化のひとつは、ケアという労働がタダではない、という常識が広く定着したことです。」(p.186)
「暴言暴力からネグレクト、介護殺人まで。その実態を踏まえて、高齢者虐待防止法ができたのは2005年のことです。それまで家族の恥は世間に見せたくない、そもそも他人に頼らなくてはならないこと自体が家族の恥だとする考え方が、久しく「家族の闇」を閉ざしてきました。介護保険は、その「闇」の扉を、こじあける効果がありました。」(p.188)
「高齢者の施設入居の意思決定者は大半が家族。現場の専門職は利用者と利用者家族を区別しないばかりか、両者の利害が対立すると、家族の意思を優先する傾向がありました。」(p.190)
介護保険という制度の導入によって、いろいろな変化が現れたそうです。介護は家族の、特に嫁の、タダ働きだという常識が覆されたことは、本当に良い変化と言えそうです。
その一方で、新たな姥捨山を作ることに貢献したとも言えるわけです。
「「あなたご自身が将来ここに入ってもよいと思われますか?」という問いには、多くの職員さんが一瞬絶句します。ホンネは入りたくないのでしょう。経営者さんにもおたずねします。「あなたが要介護になったら、ご自分が経営していらっしゃるこの施設でお世話を受けたいと思いますか?」これまでたったひとりの例外を除いて、すべての答えは、「ぎりぎりまで家にいたい」でした。」(p.192)
上野さんは施設に反対する考え方ですので、こういう意地悪な質問をするのでしょう。
でも、この質問は偏っています。施設職員にここの施設に入りたいかと問えば、私でも入りたくはないと答えるでしょう。自分が働く施設だけでなく、すべての施設です。なぜなら、自由が大きく損なわれるからです。
しかし、ではどうすればいいのか? どうしたいのか? それができるのか? ということが対立軸に必要ではありませんかね。
「ぎりぎりまで家にいたい」という答えは、いみじくもそれを示しています。自分が自由に振る舞えて問題がないなら、施設には入りたくないのです。けれども、それでは生活ができないとか、愛する家族を困らせるなど問題が大きくなってきたら、やむを得ないという思いもあります。
認知症になって、他人を困らせる存在になってしまう自分を、今の健常な自分が許せないと感じる。そうであれば、たとえ自由を抑制したとしても迷惑をかけないようにするのか、あるいはできるだけ短い期間で死を迎えられるようにしたいと思うのか、人それぞれ判断があろうかと思います。
「すべて利用抑制したいという「不順な動機」からです。医療保険財政の二の舞だけは避けたいという、「制度の持続可能性」が錦の御旗になっていますが、背後には財務省の思惑が透けて見えます。」(p.201-202)
介護保険制度は、3年毎の改定によって、徐々に使いづらいものになってきたと上野さんは言います。だからこそ政府の動きを先読みし、正しく改定されるよう見張り、声を上げていく必要があるのだと。
その政府の動きは、介護予算の削減だと見ているわけですね。福祉予算の肥大化が日本の財政の大きな問題ですから、当然のことと言えるでしょう。
これについては、どっちが正しいなどと一概には言えません。問題は多々あります。介護職の人手不足の問題もあります。
理想を言えば、要介護者に介護職がつきっきりで介護し、自由を満喫させてあげればよいのでしょう。しかし、その費用は誰がどうやって負担しますか? という問題にぶち当たります。当然のことです。
やみくもに予算は増やせません。どこまでやるのが正しいのかなど、一概に答えは出ませんよ。だから迷うのであり、悩むのでしょう。様々な意見を言う人がいて、それをとりまとめる側も大変です。どう決定しても文句が出ますからね。
介護保険制度の導入から関係していて、老後は一人で暮らすのが幸せだという上野さんの考え方は、いろいろと参考になります。私自身、独りで暮らすのがいいなぁと考えているからです。
しかし、介護保険の訪問介護だけで本当に生活していけるのか、はなはだ疑問なところはあります。私自身はかなりストイックな生活スタイルなので、充分に可能だとは思っていますが、ふつうの人は難しいのではないでしょうか。
また、施設の介護職として働いていることもあり、上野さんの施設不要論には、私はいささか疑問を感じます。
やはりまだまだ社会全体が認知症の方の一人暮らしを容認し、そのために起こる問題をも許容しているとは思えませんから。これもまた、何が正解かなどは一概に言えないと思っています。
ただ、上野さんの考え方を知ることで、いろいろと考えさせられたことは間違いありません。もし認知症でも一人暮らしが可能だということをもっと掘り下げて語る本を出されたなら、また読んでみたいと思いました。
もう10年くらい前ですが、「平穏死」という言葉を知りました。終末期に医療にかかると穏やかに死ねなくなるから、もっと心を強く持って穏やかな心持ちで死を迎えようとするものです。このブログでも「「平穏死」という選択」と「「平穏死」10の条件」の2冊を紹介しています。上野さんの本もそうですが、自分や身近な人の「死」を、じっくり考えるきっかけにしていただければと思います。
2021年10月23日
やっぱり高血圧はほっとくのが一番
私自身、ずっと高血圧です。上の血圧が150〜160mmHgという状態が10年以上は続いているでしょうか。そういうこともあり、どうすれば高血圧を改善できるかということに関心があり、情報を集めたりもしています。
ともかく太っているのはよくないということで、ダイエットも自分の身体でいろいろ実験しました。その結果、10kgくらい痩せて、血圧も120mmHgくらいに下がった時期もありました。けれども、また高くなって、現在は体重がさらに落ちているにも関わらず、相変わらず血圧が高めの状態です。
そういうこともあって、オススメに出てきたこの本のタイトルにピンときました。
これまでは、いかにして高血圧を改善するか、という考え方でしたが、それとは異質の考え方があると感じたからです。
血圧降下剤を飲むことには抵抗があります。なるべくそういう薬に便りたくない。そう思っているので、この本からなにか得られるかもしれないと期待したのです。
実際、これを読んだ結果、タイトルにあるように「ほっとくのが一番」だなぁと思えるようになりました。それは、私の価値観と非常にマッチしていたからです。
著者は、現役の医師の松本光正(まつもと・みつまさ)さん。中村天風氏に師事しておられるということで、積極的思考の大切さをよく理解しておられる方のようです。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「血圧のお話に入る前に、読者のみなさんにどうしても知っておいていただきたいことがあります。それは、本題の血圧をはじめ、風邪、発熱、下痢、便秘などによる病院や診療所への受診のうち95%は不要だということです。」(p.14)
「なぜ受診が不要なのに、多くの患者さんはお金と時間をかけて通院するのでしょうか。それには4つの原因があると考えます。
@正しい医学知識がないこと、A「不調=悪いこと=薬で取り除くべき」と思い込んでいること、B老化現象を治療すべき病だと思いこんでいること、C不調を放置することが不安でたまらないこと、です。」(p.14)
いきなりストレートですが、受診の95%、つまりほとんどの受診は不要だと主張されます。
そして、高血圧だけでなく、風邪とか発熱や下痢なども、受診は不要だということなのですね。
@〜Cの詳細は本書を読んでください。そのAの説明の中に、次のような文があります。
「この「人間も普通の生物」「生物の一種」という考え方がないから、人間は自然界には本来存在していない化学薬品(薬)を平気で飲み、科学的合成品の食品添加物を口にします。」(p.17)
人間もまた動物の一種に過ぎない。これは、動物つまり生命がやっていること以上のことは不要だということです。なぜなら、生命にはその生命を維持するための装置が備わっているからです。
「その一つが自然治癒力です。自然治癒力のおかげで、少々の不調なら私たちの身体は薬の力を借りなくても自然に治ってしまいます。」(p.17-18)
私がやっているレイキも、自然治癒力を助けるものという立場です。病気を治すのは自然治癒力の働き。そういう大前提を、私たちは忘れてしまっているのかもしれませんね。
「患者さんも医師も、なぜ熱や咳が出るのか、そのようなことは考えません。血圧もなぜ上がるのかなど考えようとしません。血圧が命を守る大切な現象などと考えたこともないのです。」(p.18)
レイキでは、発熱や下痢などは身体の浄化作用だと言っています。同じ理屈で、高血圧も浄化作用だと言えそうですね。
次にBの説明の中では、次のように書かれています。
「人間は年をとります。年をとることはすなわち老化することです。老化すれば、それに伴う変化が身体に起こります。これは誰にも避けることはできません。それなのに、この加齢による身体の変化をも「病」だと思い込んでいる人が大勢います。」(p.19)
加齢によって白髪が増えたり、髪の毛が薄くなったりしますが、誰もそれを病気だとは思いません。けれども血管や骨の老化は病気だと思い、治療できると信じているという指摘ですね。
「白髪一本を黒くすることすらできないのに、骨粗しょう状態になった骨を薬や注射で強く丈夫にできるわけがありません。それにもかかわらず、医師も患者さんも躍起になって骨粗しょう症を治療しようとします。医療機関はこれに乗じて金儲けしようとしますし、患者さんは言われるがままにお金を使っています。老化をきちんと理解していないから、こういうことが起こっているのです。」(p.20)
これはまた痛烈な指摘ですね。私が勤める施設の利用者様も、定期的に骨粗しょう症改善の薬を飲まれている方がいらっしゃいます。いいカモにされている、というのが松本さんのお考えのようです。
Cの説明では、次の一文があります。
「多くの患者さんは、たとえ食べたいものを我慢しても、旅行の費用を抑えても、なんとかやりくりして必死に医療費を確保しています。医療にお金を使わなかったら、好きなものが食べられます。お友達との付き合いも活発にできますし、旅先でよい旅館にも泊まれます。
受診という楽しいとは言えないことのためにお金を使うのと、幸せで豊かな時間のために使うのとどちらがいいですか。おそらく後者のほうがいいですよね。そのためにはマイナス思考をプラス思考に変えましょう。」(p.22)
要は、何のために生きているのか、ということでしょうね。健康になるために生きているのではなく、楽しむために生きているのだと。
「あなたの身体の中にいる最高の名医とは、あなたの身体に生まれたときから備わっている「自然治癒力」のことです。」(p.23)
「私たち人間の身体は、誰でもみんなこの自然治癒力で守られています。風邪だけではなく、口内炎、胃潰瘍、肝炎、湿疹、切り傷などすべての不調は受診しなくても自然に治るのです。これらの症状が治癒するのは、医師や薬が治しているためではありません。医師はほんの少しのお手伝いをしているだけで、あなたの身体が持つ自然治癒力のおかげで自然に治っているのです。」(p.24)
もともと最高の名医が備わっているのだから、それより劣る医療を受診する必要はないということですね。こういうところは、レイキの考え方に通じるものがあります。
「たとえ、咳や下痢のような不快な症状があったとしても、それは現在のあなたの命を守るために自然治癒力によって作り出された、今のあなたの身体にとって最良の状態なのです。
健康診断時に出たさまざまな検査の数値は、もしそれが基準値からはみ出していたとしても、それが今のあなたにとって一番よい数値です。その数値で健康が保たれているからです。」(p.34-35)
先ほども書いたように、すべての症状は浄化作用だとレイキでは言っています。つまり、身体を健康に保とうとする自然治癒力の働きによって引き起こされているものなのです。
そういう考え方からすると、様々な診断数値の異常は病気ではなく、それ自体が健康を保とうとする生命の自然治癒力の結果だとも言えるのですね。
「通常なら肺炎になると高熱が出ます。単純な風邪よりもなお一層高熱を出して命を守るのですが、元気がなく、自然治癒力を発動させる力がないから熱が出ないのです。熱が出ないからウイルスが繁殖して、風邪から肺炎へと一気に進むというのが無熱性の肺炎です。」(p.41)
初めて知りましたが、自然治癒力の働きが弱まると発熱すらせず肺炎が進行することがあるのですね。発熱が悪いことなのではなく、むしろ発熱するから治るのです。
「事実、内科では高齢者の大動脈に石灰化という現象をよくみかけます。これは破れそうになっている大動脈に石灰の覆いをかけることによって大動脈が破れるのを防いでいるのではないでしょうか。また肺や腎臓にも各所で石灰化という現象をみます。何か疾患があるとその跡に石灰化が発生します。身体の保護作用だと思います。」(p.56-57)
石灰化という現象すらも、身体が健康を保つために自ら行っていることだ、という見方ですね。まだ科学的に解明されていないとは言え、そういうことがあるのかもしれません。
松本さんは、同じ理由で歯の石灰化、つまり歯石も歯を保護する目的があるのかもしれないと言っています。十分に考えられますね。
「健康を保つために最適な血圧の目安としては、経験的に年齢+90という数値が使われており、私もこの数値を目安にして良いと考えています。」(p.68)
これには賛否両論あるようです。私は現在60歳ですから、上が150で最適だということになります。90歳のお年寄りなら、180でも大丈夫だってことですね。
ここでも、老化ということを考えれば、若者と年寄りを同列に扱うことはおかしい、老化が病気でないなら老化現象を考慮すべきだ、という松本さんの考えが表れています。
「そもそも血圧が130を超えたら正常高血圧、140を超えたら高血圧だと設定し「高血圧は身体に悪い、死にますよ」とあなたを脅かしているのは誰でしょうか。
それは製薬メーカーと製薬メーカーのおこぼれをもらっている御用学者、そして血圧の本質を考えようとしない、あるいは知らない医師たちではないでしょうか。」(p.73-74)
「テレビではいろいろな健康食品メーカーがここぞとばかりにこの130を利用して国民を煽っています。その結果、いつの間にか日本中が正常血圧130未満を保たねばと洗脳されてしまったのです。まさに洗脳です。これが「血圧心配性」の患者を増やしたのです。あなたも洗脳されていませんか。」(p.74)
これまた手厳しい指摘ですね。けれども、こういうことがあるように思います。
「つまり、血圧が高い、低いと言いながら、いつ、どこで、どのような状態で測る血圧が基準なのかが定められていないのが現状です。
基準がないのに「血圧が高いですね、薬を出しましょう」と医師は言います。なんとか薬を飲ませようとしているのです。だから科学的な基準を作ろうとしないのです。
もっとも作れないというのが正しいでしょう。誰にでも科学的に当てはまる基準などというものは設定のしようがないのです。」(p.79)
気温を測るのでさえ、どういう場所でどのようにしていつ測るのかという基準があると松本さんは指摘します。しかし血圧は、眠っている時に横になって測るのか、運動後や食後に測っていいのかなど、基準はあいまいですね。
1日の間でさえ変動することがわかっている血圧を、何の測定基準もなく測って、130という一律の基準で診断することが問題だという指摘です。
「とにかく一番低いときの血圧を見つけて、それが自分の血圧値だと思ってください。それがあなたの血圧の基準値です。そのときの血圧が年齢+90なら安心です。それより低くても一向に構いません。」(p.80)
「あなたの身体は、その最も低いときの血圧を基準として、必要なときに必要な分だけ血圧をあげます。この基準にしたがうと、ほとんどの人は高血圧症ではなくなります。薬など飲む必要はなくなります。」(p.81)
変動する血圧ですが、最も低い時の血圧を自分の基準値とすればよい、という考え方ですね。それより高くなる時は、身体に何らかの理由があって、健康を維持しようとした結果だととらえるのです。
「血圧が高いとなぜ危険なのでしょう。切開のときに血圧が下がって上の血圧が60になったほうがよほど危険です。最悪の場合、死に至る可能性があります。血圧は低いほうが怖いのです。」(p.82-83)
考えてみれば当然で、血圧が低いと脳に血が行かなくなり、失神したり、重篤な障害が残ったりします。起立性低血圧症というのがありますが、私の妻もそれで風呂場で卒倒し、頭を強く打ったことがありました。
高血圧は、すぐに死に結びつくわけではありませんが、低血圧は間違いなくその先に死があるのです。
「「血圧心配症」で、これまでずっと降圧剤を飲み続けてきたという人がいるかもしれません。もしあなたがここまで読み進めてきたことで、その薬を飲みたくないと思ったのなら今すぐに止めても構いません。決断するのはあなた自身です。」(p.92)
「大櫛先生の研究によると、降圧治療をおこなっていた人たちのグループでは降圧治療をおこなっていない人たちのグループに比べて脳梗塞を発症した人の割合が2倍も多かったことが報告され、高血圧の治療が脳梗塞リスクを高めている可能性を示唆しました。
降圧剤を飲んでいる「のに」脳梗塞になったのではありません。降圧剤を飲む「から」脳梗塞になるのです。」(p.92-93)
「脳梗塞という脳の血流が悪くなって詰まった人に対して病医院では降圧剤を出します。必ずと言っていいほど処方します。詰まったのですから血圧を上げる薬を出すならまだしも、血圧を下げる薬を出してどうしようというのでしょうか。でもそれが正しいと思い、ほとんどの医師が脳梗塞後の患者さんに降圧剤を処方しているのです。これでは再発間違いなしでしょう。」(p.94)
水道のホースの中に詰まりができて水が流れにくくなった状態、それが脳の血管で起こったものが脳梗塞です。
ホースの詰まりを取るには、圧力をかけて勢いよく水を流すことですよね。つまり、高血圧の状態にするということです。
それを身体がやっている時に降圧剤を飲んで無理やり血圧を下げれば、詰まりは取れないどころか、もっと詰まってしまう可能性があります。そのことを、松本さんは指摘しています。
そして、そうであるならば、自分で降圧剤を飲むのをやめるという決断をすべきだと言うのです。
ふつうの医師は決断できませんから。自分の身体には自分が責任を負う覚悟が必要なのです。
「だから血圧だけを化学薬品で無理にいじると、さまざまな不調が身体のあちこちに起こるのです。たとえば、降圧剤によって血圧を下げると血管が詰まり、脳梗塞が起こります。心臓の血管が詰まれば心筋梗塞です。脳の血流が弱くなれば認知症も起こるかもしれません。認知症までいかなくても、めまいやフラフラ感が出ます。歯茎が腫れる人もいます。咳が続く人もいます。ときにはがんの発生も見られます。
これらの弊害が起こるのは、血圧が身体の部品ではないからです。血圧をはじめ、多種多様な結びつきで命が形成されているからです。」(p.96−97)
血圧という人体の一部だけを切り取って無理やり操作しようとすると、他に弊害が出るということですね。全体のバランスの中にある血圧だという視点がないと、おかしなことになってしまうのです。
「脳梗塞というのは、先ほども申し上げたように血管が血の塊によってふさがった状態です。そのままにしていては脳の血流が止まってしまうので、身体は血圧を上げて血液を流そうとしているのです。だから脳梗塞のときには血圧が高くなるのです。血圧が上がったから脳梗塞が起きたのではなく、脳梗塞が起きたから血圧が上がったのです。」(p.100-101)
相関関係と因果関係は明確に区別する必要がありますね。脳梗塞と高血圧の関係も、高血圧が原因ではないと松本さんは指摘します。
「身体はあなたにとって悪いことは一つもしません。コレステロールが血管に集まるには集まる理由があるのです。血管の破裂を防いでいるのです。脳出血を防いでいるのです。」(p.102)
健康診断でよく指摘されるコレステロールの値ですが、これも高いことが問題なのではないと松本さんは言います。血管が破れやすいから、コレステロールで修復しているのだと。
ですから、私たちの身体は常に健康状態を保とうとして一生懸命に働いているのです。それを無理やり1つの要素だけを取り上げて、薬で変化させようとするから問題が起こるのですね。
「だから化学薬品の薬は危険なのです。気軽に飲んではいけないのです。
ただし、医師がこういうことを十分に理解したうえで命を救うために使う化学薬品は別です。心不全で浮腫のひどいときに使う利尿剤はたいしたものです、人の命を救います。細菌感染で使用する抗生物質も人の命を救います。ほかにも人の命を救う薬はいくつもあります。こういう薬だけを適切に使うなら問題はありません。」(p.107)
たしかに、薬は毒にもなるものですからね。しかし、私たち素人には、どの薬が命を救う薬なのかよくわからないという知識不足があります。それだけに、医師に頼り切ってしまいがちなのでしょう。
「糖尿病を心配し、脅かされている人はどうぞ安心してください。糖尿病を「病」にしているから怖がるのです。正確には「糖尿状態」なのです。ほとんどの場合、何も怖がる必要がないのです。怖がらせる人がいて、怖がるあなたがいるだけなのです。こうした事情ですから、ほとんどの場合において薬は必要ありません。
ただし、食事には気をつけてください。
体重を標準体重にしてください。太っているのに糖尿病を心配して薬を飲むなど本当におかしなことだからです。糖尿病のほとんどは体重を落とせば治ります。」(p.113)
「体重を落とすのは簡単です。食べなければ痩せます。痩せなければ食べ過ぎているのだと判断しましょう。食事はなるべく炭水化物を減らしてください。米、いも、南瓜、パンなどです。甘いものは厳禁です。簡単ですね。」(p.113-114)
今回のコロナ禍でも、糖尿病など既往症がある人や肥満の人は重症化リスクが高いと指摘されていました。そんなにコロナを怖れるなら、まずは痩せたらいいのにって思いましたが、不安を煽る専門家にも太った方がおられましたね。非常にちぐはぐで矛盾を感じました。
私の周りにも、何をやっても痩せないと嘆く人がいるのですが、そういう人は本当の意味では悩んでないのです。深刻さが足りないのです。方法論もへったくれもなく、ただ食べなければいいだけ。食べたら殺すぞと真剣に脅されたら、それでも食べますかね? 考えてみれば明らかなことです。
「諸外国では医療のミスによる傷害や死亡は刑事事件にはなりません。医療が刑事事件になるのは故意におこなわれたときだけです。日本ではそれが故意でなくても刑事事件になりマスコミを賑わす事件として取り扱われます。そのため医師の自己防衛反応が起こり、その結果として過剰診療になるのです。」(p.121)
医療過誤による傷害や死亡は残念なことだとは思いますが、そのことを過度に重視することによる弊害にも目を向ける必要があるように思いますね。
血圧が高いことを気にするなら、降圧剤に頼るのではなく、4つのことを実践してほしいと松本さんは言います。その4つのこととは、「体重を落とす」「睡眠不足を解消する」「塩の摂り過ぎに注意する」「ストレスをストレスと感じないようにする」というものです。
詳細はまた本書をお読みいただきたいのですが、気になった部分を引用します。
「もしあなたが太っているならば体重を落としてください。
太っていれば血圧は上がります。重い体重を移動させ、運ぶためには血圧を上げなければならないからです。太ったままで高い血圧を心配しているのがおかしいのです。」(p.128)
「食べなければ体重は落ちます。世間ではいろいろなことが言われていますが、食べなければ痩せます。食べるから太るのです。」(p.128)
前に引用したところにもありましたが、痩せる秘訣は食べないことです。これは間違いありません。
そして、血圧が高くなる要因として、太り過ぎは明らかだと指摘している点も、知っておく必要があるでしょう。糖尿病と同様に、肥満は高血圧の原因にもなるのです。
「高血圧には塩が悪いと言う学者が沢山います。もしあなたが塩を摂り過ぎている自覚があるなら少し減らしましょう。血圧が下がるかもしれません。」(p.130)
先ほどの引用とのニュアンスの違い、わかりますか? 一般的に塩分の摂り過ぎは高血圧の原因とされていますが、松本さんはそこまで明確に言い切ってはいません。
他の項目では、「睡眠不足は血圧を上げます。」(p.130)「ストレスは血圧を上げる大きな要因です。」(p.131)などと言い切っているにも関わらずです。
つまり、塩分と血圧の関係には、まだ確定していないものがあると松本さんは認識しておられるのでしょう。
松本さんは、心が身体に与える影響は大きいと言います。中村天風師に師事しておられるだけのことはありますね。
それで、心の健康を保つための4つの方法を示しておられます。「笑うこと」(p.139)「我慢を覚えること」(p.140)「攻めの健康思考を持ち、実践すること」(p.142)「覚悟すること」(p.143)の4つです。詳細は本書をお読みいただくとして、その一部を引用しましょう。
「笑いが一番です。とにかく笑いましょう。「にもかかわらず」笑うのです。
笑いには即効性があります。免疫を高めてくれます。無料で、副作用はありません。あるのは”福”作用だけです。」(p.139)
「中村天風先生はかつて「死ぬときは死ぬのだ。何をやっても死ぬのだ」と言いました。そうなのです。死ぬときは死ぬのです。何をやっても死にます。
このことを別の言葉でも言われました。
「治るものは治る。治らないものは治らない」
これが真実です。治るものは治るのです。治らないものは治らないのです。薬が治すのではないのです。自分の自然治癒力が治せるかどうかなのです。そして、治らないものは治らず、死ぬのです。」(p.144-145)
レイキの創設者の臼井甕男氏も、同じようなことを言われています。寿命だけはレイキでもどうしようもないのだと。
覚悟を決めることが大切だと思います。それには、起こっていることは必然であり、最善であり、完璧だと受け入れることだろうと思います。
「では、無医村のように少々の不調で病医院にかかれない状況で生活している人たちはみんな早死にしてしまうのかというと、そうではありません。むしろ長生きなのです。」(p.155)
これは、財政破綻した夕張市で奇しくも証明されましたね。医療に頼れないと覚悟すると、意外と健康になるのです。
医師にも「良い医師」「普通の医師」「悪い医師」の3つがあると松本さんは言います。ほとんどは「普通の医師」です。ごくまれに「悪い医師」もいると言います。
「悪い医師」が悪いのは当然なのですが、「普通の医師」がたちが悪いのです。善意で患者に悪いことをしてしまうからです。何も考えずに薬を処方したり、手術を勧めるのも「普通の医師」ですから。
では、「良い医師」とはどういう意思なのか。その部分を引用しましょう。
「良い医師は人間も生物の一種だときちんととらえています。
そして良い医師は考えます。その医療行為は人間という生物にとって正しいのだろうか、と。まず真っ先にこのことを考えます。そして、最終的にその治療はその患者さんにとって最適な科学的な治療なのかということをつねに考えます。
このように考えるから風邪薬も血圧の薬もみんないらないと気づき、処方しません。検査も最低限の項目で、最低限の回数でおこなうように努力します。不必要なレントゲン検査もしません。
人間という生物をよく心得ていますから、人間という生物の加齢現象のこともきちんとわかっています。不可逆的な変化を起こしている高齢者に若者と同じような薬は投与しませんし、検査もしません。
このように高齢者には高齢者に合った医療があることを十分にわかっているのが良い医師の条件でしょう。患者さんの気持ちも大切にしますが、患者さんにとって悪いことはきちんと説明して、納得してくれるように努力します。」(p.164-165)
少し長めに引用しましたが、こういう医師と出会えるといいですね。
「血圧を心配せずにすみ、病医院に行かなければどれだけあなたは節約できるでしょう。降圧剤の最大の副作用は懐が痛むことです。医療で浮いたお金で美味しいものを食べて、旅行にでも行ったらいかがでしょうか。高血圧の治療で医療機関を定期的に受診していると、年間に少なくとも3万〜4万円はかかると思います。とてももったいない話です。」(p.169)
高血圧を心配して医療にかかることは、お金をドブに捨てるようなものなのですね。
最初に書いたように、この本で書かれていることは、理屈としてとても納得できます。
病気を治しているのはもともと備わった自然治癒力であって、薬や手術ではありません。だからこそ、頼るべきは自分の身体なのです。自分の身体が最適なことをやっているのだと信じることが、もっとも大事なことではないかと思いました。
2021年10月26日
血管が詰まらない、切れない100のコツ
老人介護施設で働いており、最近は老人介護、看取り、認知症などに関心があって、そういう本でピンとくるものを読んでいます。
この本は、そういう中で見つけたものですが、私が読みたいというより、施設の利用者様が読みたいかなぁと思って買ったものです。
案の定、想定したように通り一遍の内容でした。
50人くらいの専門家の方が、それぞれ「これが役立ちそうだよ」というものを紹介しているだけで、全体的に統一感があるものではありません。
実際のところ、たとえば塩が高血圧につながると言う人もいれば、逆に塩の取り過ぎは無関係と言う人もいて、ある意味で支離滅裂です。
与えられたページ数も限られているようで、「これがいい」「これが役立つ」の根拠も薄弱だし、何も示していないものも多々あります。
そういう本なので、積極的にお勧めするつもりはまったくありません。ですが読んでみて、いろいろ感じる部分はあったので、そのことを記録に残しておきたいと思います。編集は主婦の友社です。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「血管が詰まったり、切れたりすることは、脳卒中や心筋梗塞などの重大な発作を起こすだけでなく、さまざまな病気や症状につながることがあります。
日本人の死亡理由の上位に挙げられる血管のトラブルは、文字通り血管の障害によって起こります。大きく分けると、血管が詰まる「梗塞」と、血管が破れる「出血」、また、脳の場合では血管が破れることで脳と頭蓋骨の間にある水(髄液)に出血する「くも膜下出血」があります。」(p.10)
「脳細胞は身体の中で最もたくさんの酸素とブドウ糖を消費しますが、これらを蓄えることができません。詰まったり破れたりした血管の先に血液が送られなくなると、とたんに酸素やブドウ糖が不足して、脳の神経細胞が傷つけられてしまいます。すると、身体のマヒや、言語・視覚障害などの症状がもたらされたり、最悪の場合は死に至る場合もあるのです。また寝たきりやボケなどの原因にもなります。
血管が詰まる、破れるなどの問題は、老化やストレス、悪い生活習慣などによって血管が傷むことに起因しています。」(p.10-11)
このように、血管が詰まったり破れたりすることが、私たちの健康にとって大きな問題につながるということです。そしてその原因は、老化や生活習慣、そしてストレスだということですね。
このような前提をもとに、ではどうすればこういう問題を起こさなくて済むようになるのか、というのがこの本のテーマになります。
「ペンや箸をぽろりと落とす、ろれつが回らなくなる、思うように話せない、手足や顔面にしびれがある、ものが二重に見える、片側の目が見えにくい、視野の一部が欠ける、食べ物が飲み込みにくい、などの症状に思い当たる節があれば、脳梗塞の前ぶれである「一過性脳虚血発作」が疑われます。繰り返し起こるようであれば、大きな発作の可能性も高くなります。即刻、大きな病院で検査を受けてください。」(p.13)
これも最近はよく知られるようになりましたね。上記のような変調が続くようなら、受診してみると良いかもしれません。
ただし、だからと言ってこれだけで脳梗塞とは言い切れません。実際のところ私は、ろれつが回らないということが続くために大学病院などでCTやMRTの検査を受けましたが、まったく正常でした。つまり原因不明ということです。
ストレスではないかと言われましたが、逆にストレスから解放されたところでしたので、医師のなんでもストレス説にはうんざりしたものでした。
「高齢者の場合、これらの発作が多発するのは冬場ですが、働き盛りの中高年では身のまわりの環境が変化しやすい4月に多く発症します。ところが、曜日や時間帯を見ると、土曜日や日曜日、あるいは深夜0時〜3時に多発しています。不思議なことに、勤務中ではなく、休日や深夜に倒れたり亡くなったりしているのです。
つまり、病気の背景にはストレスがあり、発作のきっかけはリラックスにあると考えられます。」(p.19)
脳梗塞や脳出血、くも膜下出血、心筋梗塞などが起こるタイミングには、上記のような特性があるのですね。
ストレスが原因と言われますが、ストレスが溜まった後のふっと気を抜いたタイミングで、上記のような発作が起こりやすいというのです。
そうだとすれば、私がストレスから解放されたタイミングでろれつが回らなくなったというのは、あり得ることかもしれません。
けれども、そういうことを大学病院の医師は何も説明しなかったし、最新鋭の機器で検査しても異常は見つかりませんでしたよ。そういうことがあった、ということは述べておきたいかと思います。
「健康な人ならば、食事によって血糖値が上昇しても、一定のラインを超えることはありません。しかし、糖尿病にかかると、高い値が続いたままになり、血管や臓器が糖によって傷つけられてしまいます。これが、糖尿病の三大合併症といわれる、神経の病気、目の病気、腎臓の病気をはじめ、さまざまな病気の原因につながります。」(p.47)
高血糖が続くと、どうして合併症などの問題が起こるのか? 実はまだ正確にはわかっていません。
増え過ぎたブドウ糖は血管の壁にある内皮細胞に入り込み、活性酸素が発生させ、血管を傷つけてしまうと考えられているようです。あるいは、細胞内のたんぱく質に結合して細胞が変質し、正常な機能を保てなくなる。つまり血管の細胞が傷つくことで、その部位の正常な機能が損なわれる、ということが考えられています。
このようなことがググればわかるのですが、この本にはそこまでの詳細な説明はありませんでした。
「糖尿病、肥満、高血圧、脂質異常症などの病気は総じて「生活習慣病」と呼ばれています。生活習慣の管理を怠ることで発症しやすいこれらの病気は、「ひとつの病気」と捉えることもできます。肥満から高血糖、脂質異常症になるというように、連鎖して引き起こされることも多いからです。」(p.50)
メタボリックシンドロームと呼ばれるように、要は肥満が諸悪の根源なのだと思います。
しかし、「肥満」「高血圧」を「病気」と説明するのは、いささか乱暴かと思いますね。
「じつは、高血圧の明確な原因はほとんどわかっていません。この原因不明の高血圧は「本態性高血圧」といって、3000万人以上いる高血圧症患者の95%を占めています。」(p.55)
つまり、ほぼほぼ原因不明だということです。にも関わらず、高血圧の原因は塩の摂り過ぎだという決めつけだけはするのですね。
「高血圧が慢性的に続くと、血管は次第に弾力性を失って硬くなり、ボロボロになったホースのようにもろくなります。すると、ちょっとしたことで詰まってしまったり、破裂しやすくなったりするのです。そこに繰り返し高い圧力がかかれば、最悪の場合、脳梗塞や心筋梗塞などの命を左右する病気が引き起こされます。」(p.56)
何となく納得してしまいそうなのですが、因果関係が明らかではありません。
高血圧だから血管が弾力性を失うのでしょうか? そのことは証明されているでしょうか?
原因はわからないけど高血圧が続くと血管がボロボロになって梗塞や出血などが起こる。こう説明すると、まずは高血圧を治しましょうということになり、降圧剤の処方が正当化されるわけです。
しかし、本当にそうでしょうか? 少なくとも、この前に紹介した「やっぱり高血圧はほっとくのが一番」によれば、必ずしもそうとは言い切れないとなります。
「調べていくうちに、人によって脂肪蓄積の分布には差があることや、CTスキャンを用いた検査法で内臓脂肪の状態を知ることができることを突き止めました。そして、世界で初めて、学会で内蔵肥満に関する発表を行いました。さらなる研究で、内蔵肥満になると糖尿病や脂質異常症、高血圧をはじめとする生活習慣病にかかりやすくなるということもわかりました。」(p.59)
同じ肥満であっても、皮下脂肪が多い肥満と内臓脂肪による肥満では、健康に与える影響が違うということですね。
ただこれも、因果関係なのか単に相関関係なのかははっきりしていません。いずれにせよ、肥満、つまりメタボを解消することが重要だと言えるでしょう。
「青い部分はカリウムとカルシウムが豊富で、カリウムには血圧を上げる原因であるナトリウムを排出する働きがあり、高血圧の予防、改善にパワーを発揮します。利尿効果も高く、筋肉のエネルギー代謝を高めるため、血糖値が気になる人にも有効です。カルシウムが骨粗鬆症の改善にもつながるほか、βーカロテンとビタミンAには、視力低下や爪・髪の傷み、抜け毛などの予防が期待されます。」(p.98)
これはネギに関する記述ですが、食べ物によって病気の予防につながるという代表的な記述を1つ取り上げてみました。
読んでわかるように、どれほど効果があるのかという科学的な根拠はまったく示されていません。試験管内でこういう効果があったということは事実でしょうけど、それが人体においてどれほど病気の予防に役立つのか、科学的な根拠はどこにもないのです。
ですから最後に「改善にパワーを発揮します」「有効です」、挙げ句は「期待されます」とごまかしてますよね。
「脳の血管にとって大切なのはコレステロールです。コレステロールが不足すると、血管の壁が薄く弱くなり、脳卒中や脳梗塞を起こす可能性がぐんとアップするのです。ところが、コレステロール値が正常値を少しでも超えると「卵や肉を控えなさい」と指導されます。実際、心臓の血管である冠動脈に悪玉コレステロールが沈着すると動脈硬化を起こすのですが、日本での心筋梗塞発生率はアメリカの1/3〜1/4程度。それよりは同じ血管の病気でも、日本に多い脳梗塞を心配するべきなのです。」(p.116)
このように、コレステロールが高いことより低いことの方が問題だという指摘もあります。
医師や研究者によって見解に違いがあるということは、それだけまだはっきりしていないということの証左ですね。
「アメリカでの約20万人を対象とした健康調査でも、塩分摂取量の多い人ほど心臓病や脳卒中などによる死亡率が低くなることが明らかになっています。加えて、グルジア共和国のコーカサス地方では100歳以上の長寿者たちの塩分摂取量はかなりのものですが、みな元気で健康です。当地の長寿学研究所のダラキシビリ教授は「塩は体を温め、気力・体力を増し、健康を保つうえで一番大切なものである」といいます。また「塩は体にたまると確かに生活習慣病の原因になる。しかし、労働や運動で発汗して排出すれば何ら問題はない」ともいっています。
つまり、「塩を多くとる=高血圧・脳卒中の原因」ではなく、「塩を体にためる=高血圧・脳卒中の原因」となるのです。」(p.120-121)
これは、これまでにも本を紹介している石原結實氏の記述ですね。一言で塩分量と言っても、食べる量だけを考えても意味がありません。必要だからこそ食べるべきなのですから。
では、どのくらいだと食べ過ぎなのか? 私はやはり、身体の声に耳を傾けるべきだと思うのです。
「やせると血圧やコレステロール、血糖値が下がり、メタボリックシンドロームを回避できることは、皆さんご承知の通りです。ところが、いざダイエットを始めても、「続かない」「リバウンドした」など、やせられない人は少なくありません。
そこで、実際にわたしが3ヶ月で73kgから64kgにまでやせた「ボールペン1本ダイエット」を紹介します。やり方は、1本のボールペンとメモ帳、体重計を用意して、毎日の体重を量ってグラフ化するだけ。自分の現状を見つめ直すことができ、ダイエットできるという仕組みです。」(p.162)
これは「測るだけダイエット」とか「記録するだけダイエット」と呼ばれるダイエット方法ですね。私も試したことがあります。
1本のボールペンかどうかは意味がないので、「ボールペン1本ダイエット」という名前はあまり賛同できませんがね。
まあこれも1つのやり方だと思います。それよりも「やっぱり高血圧はほっとくのが一番」にもあったように、「食べない」ということが確実で核心をついているかと思います。
ということで、今の私からすると、それほど役立つ内容ではなかったのですが、記録としてブログ記事に残しておこうと思います。
2021年10月31日
ようこそ感動指定席へ!
これも日本講演新聞(旧「みやざき中央新聞」)で紹介されていた本です。
「日本一心を揺るがす新聞の社説」という本の広告に興味を抱いて読んだのが、「みやちゅう」との出会いでした。それからWEB版に変更し、ずっと読み続けています。
今回読んだ本も、中日新聞のコラムを集めたもの。その内容は、「みやちゅう」と同様に暗い世相を伝えるものではなく、ちょっとほろりとするような日常的な出来事を、読者からの投稿をもとに伝えています。コラムの執筆者は志賀内康弘(しがない・やすひろ)さんです。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「本書は、中日新聞の愛知県内版(169万部発行)で連載中のコラム「ほろほろ通信」のベストセレクションです。勝手な想像ですが、ご家族や職場を含めると500万人位の方に読んでいただいているかもしれません。2006年4月にスタートし、現在までに掲載された約310編の中から、99編を選び出しました。
「ほろほろ」とは、花びらや葉っぱ、そして涙が静かに零れ落ちる様のこと。心がポカポカして、ときには胸が熱くなる「ちょっといい話」のコーナーです。」(p.3)
「このコラムの連載が始まるとき、編集者さんから二つの点を依頼されました。一つは「投稿者が主役で基本的に実名」であること。いま一つは、「物語性を重視し教訓話にしない」ことです。」(p.4)
「そのため、すべてが実名入りの「実話」です。「事実は小説より奇なり」と言います。実話だからこそ、心の奥底にジーンと沁みます。」(p.4)
このようにコラムのことを紹介されています。「ほろほろ」という言葉は、花や葉が散る様にも用いる言葉なのですね。どことなく切なくも感じますが、「ほろり」というのはちょっとした感動に涙がこぼれそうになる感じ。そういうニュアンスが伝わってきます。
「7年間の連載を通じて「感動・いい話の法則」を見つけました。それは、「○○なのに○○だ」という意外性です。分かりやすい例で言うと、「小柄なのに大リーガー」。そう、イチローのことですね。」(p.5)
「そしてもう一つの法則。それは、「ピンチに天使の登場」です。」(p.5)
ヤンキーな兄ちゃんが優しい行動をとったとか、想定外の大変なことが起こった時に、ふと出会った人に助けられた、というようなことですね。まさにこの本は、そういう話がいっぱい載っていました。
p.30には「拍手で迎えられて」という話がありました。
バス旅行で土産物屋へ行ってバスへ戻った時、買った物が入った袋を忘れてしまったことに気づきます。外に出て立ち寄ったところを探してみるも見つからない。悲観してバスに戻ると、1人の乗客がトイレの扉の内側のフックに似たような袋があったと教えてくれます。
急いで行ってみると、たしかにありました。しかし、バスの乗客には長い時間待たせて、大変な迷惑をかけてしまった。大ひんしゅくを買ったと思い、文句の1つも覚悟してバスに戻ったら、みんなから「良かったね」と拍手で迎えられた、という話です。
まさに「ピンチに天使」ですね。そして、「怒られても当然なのに、一緒に喜んでくれた」という意外性。こういう体験をすると、人っていいものだなと思うし、自分も同じようなことがあったらイライラせずに優しい気持ちでいようと思いますね。
p.86には「内定取り消しを巡って」という話があります。
工業高校の男子生徒が、リーマンショックに始まる不況で内定取り消しになったそうです。もうすでに他の企業の採用は終わっており、途方に暮れてしまったのだと。
その時、担任の先生や校長先生が奔走してくれて、企業に再考を頼み込んで、内定を復活させてもらえたそうです。彼は皆勤賞の真面目な子で、きっと御社の役に立つ人材だからと口説いて。
しかし入社後、景気が回復せずに自宅待機が続いたそうです。給料は少なく、転職の話もあったとか。しかし、その会社に残ると言って、頑として転職話に乗らなかったのです。
自分が大変な時に救ってくれた会社を裏切りたくない。たとえ損をしても、そういう生き方こそが自分らしい生き方だから。
そういう思いが伝わってくるような話で、私もほろりとしてしまいました。
p.122には「ニコニコになあれ」という話がありました。
2歳の娘さんの子育てに忙しい高校の養護教員の女性。遊びながらゆっくりと朝食を食べる娘さんに、ついイライラしてしまうことがありました。
そんなある朝、娘さんを急がせて車に乗せて保育園へ行こうとした時、娘さんから呼びかけられたそうです。
「「何?」と聞くと、「お母ちゃん、ニコニコしてよ」と言う。さらに人さし指をクルクル回して「ニコニコになあれ、お母ちゃん」と。保育園で覚えたのか、まるで魔法の呪文(じゅもん)のように唱えた。
忙しくて、心がささくれ立っていた。そのことを幼いながら感じ取っていたのだと思うと、申し訳なくて泣けてきてしまった。「ごめんね、お母ちゃんプンプンして」と言うと、もっと泣けてきた。さらに「お母ちゃん泣いちゃだめ、ニコニコになあれ」と言う。」(p.122-123)
大事なのは、何かを思い通りにこなすことではなく、ただ幸せであることだけなのに。ついつい忘れてしまいがちなんですよね。
そんなに大げさに感動するような話はありません。本当にちょっとほろっとするような話ばかり。でも、だからこそ気楽に読めるし、ちょっと考えさせられるのかもしれませんね。
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