2021年09月03日
世にも美しい癌の治し方
坂爪圭吾さんがSNSで絶賛されておられたので買ってみました。坂爪さんとはお会いしたことがありますが、著者のムラキテルミさんとはお会いしていません。坂爪さんは親しくされておられるようなので、どんな方なのか興味がありました。
読んでみて思い出したのですが、この本の内容は以前、WEBサイトで見ているように思いました。特徴的な挿絵にも記憶があります。そして、石原結實医師の指示に従って癌を治されたということも思い出しました。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
「ムラキさんは、純粋無垢、純情一直線の一途な方ですから、熱情のあまりこの「極く少食法で、どんなガンも治せる」というような印象を与える表現が時々出てきます。しかし同様のガンを患っている方がすべて、ムラキテルミ式の食事療法をやれば治る。などとは、医師の立場からは、とても言えません。しかし、ムラキテルミさんが「悪性の肝臓ガンを極く少食で治した」という事実は、厳然として存在します。」(p.7)
冒頭にある石原結實医師の推薦文です。特に余命宣告されたような癌患者や関係者は、藁にもすがる思いで治る方法を探しているものです。それに対して希望を与えることは意味があるとしても、絶対という保証はできないと釘を差しておられます。
「DR.石原「全ての病気の原因は1つ
血液の汚れ‼
血液の汚れの原因は2つ
1.低体温 と
2.食べすぎ です。
ガンは、
血液の浄化装置ですから
怖れることはありません」」(p.31)
石原医師の著書も以前紹介していますが、ガンというものも絶対的な「悪」ではなく、理由があって存在するという考え方ですね。それが、汚れた血液を浄化するために存在するということです。
そうであれば、血液を汚れたままにしておいてガンだけ除去しても無意味です。だから血液をきれいにすることを勧められるのです。
「家族や財産に恵まれて幸福だったヨブは、すべてを失い、重い病気にかかります。信仰も篤いヨブは、「何も悪いことをしていないのに、なぜこんな目に遭うのか」と嘆くのですが、神さまから、「私の与えることに文句を言うのか」と叱られてしまいます。やがて「今までこれだけの幸せをいただいたのだから、神様がご用意くださるなら、不幸も喜んでいただこう」と思えるようになるのです。」(p.88)
クリスチャンだというムラキさんは、聖書のヨブ記の一節を話して、自分も同じような心境だと言います。
病気とか事故とか、そうなってほしくないと思うことがあります。しかし、どんなに生き方を正して健康的な生活を心がけたとしても、そういう状況になってしまうことはあるのです。
そういう時、天を恨んだり、自暴自棄になってしまうこともできますが、ヨブのように受け入れて穏やかに生きるという選択肢もあるのです。
「その当時、日本ではまだハルステッド法(大胸筋とともに癌を切除する方法)が主流でしたが、カナダでは、すでに温存療法が主流になりつつあったそうです。コータック療法もこの温存療法の進化した方法といえます。」(p.112)
ムラキさんが出会った癌サバイバーのお一人、すみれさんが乳がんを克服された事例に書かれています。コータック療法という名前を知らなかったのですが、高知大学医学部など、一部の病院でしか行われていないようです。
癌患者さんが、あちこちの病院で治療法を探し回るという話をよく耳にしますが、現場の医師が知らないことはあり得るとしても、日本ではまだ、治療法や事例に関する情報を一元管理して提供するというシステムが整っていないのでしょうかね。
「食を慎み、体温が上がれば、体内神秘の力が動いて、体が治癒のシナリオも書いて勝手に「病気」を治癒します。「気」の浄化に必要なのは、浄化し易い体内環境だけでした。
「空腹」であること。「体温が高い」こと。この2つだけです。」(p.125)
ムラキさんは、ガンが治った後も好転反応のような症状が次々と襲ったことを書かれています。その最後が、腎臓結石でした。
ムラキさんは癌になる前、腎臓の働きが悪くなっていたのです。ムラキさんの身体は、癌を治して、やっと本丸の腎臓を治す働きができるようになった、ということかと思います。
江戸時代の有名な人相観(観相家)の水野南北が、人相を観ても当たらない人がいて、そういう人は食習慣が違うということに気づいたそうです。そこで「人の運は食にあり」として残したのが次の言葉です。
「腹八分目で医者いらず。腹六分目で老いを忘れる。腹四分目で神に近づく。」
この言葉は、インドのヨガの教義という話もありますが、少食が健康長寿につながるということは、現代科学でも動物実験でわかっていることです。また、動物が病気になった時は食べずにじっとしていることからも、断食が健康に良いとも言われています。
現代の栄養学はカロリー信仰のようなものがありますが、それでは説明できない少食を何年も続けておられる方や、さらに進んで不食の方もおられます。そういうことも考えると、栄養を摂るのが身体のために良いという考え方は、疑ってかかってもいいのではないかと思っています。
2021年09月06日
免疫力強化大作戦
この前、末期の癌を克服したムラキテルミさんの本「世にも美しい癌の治し方」を読んで、その治療をされた石原結實(いしはら・ゆうみ)医師の本を読みたくなって数冊買いました。これはそのうちの1冊です。
挿絵が豊富で読みやすい体裁となっています。絵はいげためぐみさんです。
石原医師の本は、すでに2冊ほどこのブログで紹介しています。(「100歳まで元気でボケない食べ方・生き方」、「「食べない」健康法」)書かれている内容に大きな違いはなく、要は少食にすることと体温を上げることがポイントだという点で一致しており、それを貫かれています。
なので、どれか1冊だけでいいので、読んでみられることをお勧めします。
この本は、がん治療に特化したものではなく、一般的に免疫力を高めるということをテーマに書かれています。コロナの流行がもう1年以上も続いている中、有益な情報ではないかと思いました。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「さて、われわれ人間も、動物も、病気がひどくなると、食欲不振に陥るか発熱することが多いものです。われわれが食物を食べないと血液中の栄養素も不足がちになり、白血球も十分な「栄養素」を食べられなくなり、空腹になり、ばい菌やガン細胞などを食べる力(貪食力)が増します。
また、体熱が上がると、われわれが入浴中やサウナ浴中はからだが温まりよく動くように、白血球もその働きが促され貪食力が増強します。
そうです。免疫力=白血球の貪食力は、「空腹(少食)」のときと「からだが温まった」ときに強化されるのです。」(p.2 - 3)
「はじめに」の部分に、このように結論が書かれています。免疫力という概念は、科学的なものではないのですが、その主要なものを白血球が異物を除去する力だと考えれば、白血球がよく働く環境にすることが免疫力を高めることになる、という理論なのですね。
そして、そのような能力を身体は最初から備えています。だから自然と食欲がなくなり、発熱するのです。
「食べないとからだが冷えると思われがちですが、じつは反対。食べすぎは体温を下げ、免疫力をダウンさせてしまいます。なぜなら、たくさん食べると、血液は食べたものを消化しようとして胃腸に集まります。その影響で、熱を多く生む筋肉や肝臓、脳には血液が十分に送られなくなり、体温が下がってしまうからです。
ですから、体調が悪いときに「いっぱい食べないと力が出ないから」などと、無理に食べようとするのはよくありません。」(p.30)
筋肉が熱を生むということは、一般的に知られています。ただ、人間の深部体温が一定していることや、筋肉が少ないガリガリの人でも一定の体温を保っていることを考えると、必ずしも筋肉が体温を維持しているとは言い難い気がします。
ただそのことはさておいて、食欲がわかないとか発熱するという症状は、それ自体が病気ではない、という点に着目する必要があるかと思います。
私はレイキをやっていますが、そこでも症状は身体の浄化作用だと言っています。つまり自然治癒力の働きだということです。
このことからしても、食欲がわかないということは、身体が「食べるな」と言っているわけですから、無理して食べることは身体にとってよくないと言えるかと思います。
「よく「朝食をしっかり食べよう」ということばを耳にします。「朝食は健康によい」というのが、世間の定説のようです。
とはいえ、朝はなかなか食べる気がしませんよね。農作業をして日の出・日の入りとともに生活をしていたころと違い、現代人は夕食も遅めで夜更ししがち。そんなわたしたちにとって、朝食は必要のないものになってきています。白血球を空腹にするためにはむしろ、朝ごはんを抜いた”プチ断食”がおすすめです。」(p.54)
断食が健康によいということは、最近はよく知られるようになりました。その一方で、朝食崇拝も相変わらずあります。
しかし、人類の長い歴史を考えてみれば、朝、食事をしてから活動するようになった時代は、そんなに長くありません。なぜなら、長い狩猟時代を考えてみれば、獲物を獲らなければ食べられないからです。運が良ければ、昼間得られた獲物を夕方に食べることができる。そんな生活だったでしょう。
また、農耕になってからも、農家は日の出とともに野良に出ます。朝ごはんを食べてからなどという余裕はありません。ひと仕事を終えてから食べるのです。
私自身、若い頃は朝食崇拝もあり、朝食を摂ってから出かけていました。しかし、寝坊した日には食べている余裕がありません。
そんなことから、忙しい朝に無理に食べなくてもいいんじゃないかと思うようになり、ダイエットをするようになってからは、朝食抜きをやっています。
一時期、朝、たんぱく質を食べると胃腸の働きを整えて基礎代謝がUPするという話を聞いて、朝納豆生活をやっていましたが、今はそれもやめています。
石原医師は、ご自身の理論を科学的に検証されているわけではなさそうです。多くの場合が推論だろうと思います。
しかし、その推論の正しさを、医療の中で適用することで確信してこられた。そういう感じがします。
したがって、先ほどの筋肉量が多いと発熱量が多くて体温が高まるという説も、私はちょっと懐疑的です。
この本では、どうやって筋力を高めるかという方法も紹介されてますが、それも通り一遍のもので、どのくらいやればどの程度筋力が高まり、どの程度発熱量に寄与するかというような科学的なデータは示されていません。
けれども、少食が健康長寿に役立つことは、動物実験では明らかになっています。また、昔からそう言われてきた経緯もありますし、私もその論理に賛同します。
体温を高めることに関しては、どうやってという方法論の根拠がやや乏しいようにも思います。ぜひこの部分は実証実験をして、データを出してほしいものです。
まだ科学的に正しいとは言えない理論だと思いますが、可能性は十分にあると思っています。
2021年09月08日
体温を上げて健康になる
前回の「免疫力強化大作戦」に引き続き石原結實(いしはら・ゆうみ)医師の本になります。
これは別冊宝島homeというムック本です。内容は、石原医師のこれまでの本とほぼ同様ですが、オススメの運動のやり方とか食べ物の作り方などが、絵や写真入りでわかりやすく書かれています。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「日本人の死因は、第1位ががん、第2位は心疾患、第3位は脳血管疾患です。2位と3位が血栓症(血管内で血液が固まって起こる病気)ですから、これを防ぐには血液をサラサラに保つ必要があります。
しかし、血液をサラサラにするというのは、水で血液を薄めるという意味ではありません。血液をサラサラにするためには、血液の汚れを取りのぞき、循環をよくすることが大切なのです。
水は摂りすぎると体の熱が水分に奪われてしまい、体の冷えにつながります。体の冷えは体内の代謝反応を抑制し、そのため血液中に老廃物が残って血液がドロドロになり、逆に血栓症が起こる可能性を高めることがあるのです。」(p.10)
重要なポイントが書かれていたので、少し長いですが引用しました。
ちなみに死因の第4位は肺炎、第5位は不慮の事故、第6位は老衰、第7位は自殺と続きます。さらに第8位は腎不全、第9位は肝疾患、第10位が慢性閉塞性肺疾患となっています。(厚労省の「平成20年人口動態統計」より)
このように、2位と3位は血管の詰まりが原因の病気です。その原因は、血液の汚れだという分析なのですね。この血液の汚れをきれいにしている臓器が腎臓と肝臓だということを考えると、8位と9位も同じ原因とも言えます。また第1位の悪性新生物(いわゆる癌)は、石原医師によれば血液の浄化装置だそうですから、これも血液の汚れに関係しているのです。
このように考えると、事故、自殺、老衰を除くと、肺関係の病気以外はすべて血液の汚れが原因だと推測されます。しかし、その汚れを水で薄めるべく、大量に水を飲むというやり方は上手く行かないと指摘しておられます。
石原医師は東洋医学にも精通しておられるようで、「水毒」についても解説されています。ここでは引用しませんが、水分過多は水毒になり、冷え、つまり体温低下を招いて、様々な病気の原因となるのです。
「「がんは血液の汚れの浄化装置」という理論は、血液生理学者の森下敬一氏が打ち立てられたものです。胃がんなら吐血、子宮がんなら不正出血など、がんには出血がつきものです。このように、漢方医学では「すべての病気は血液の汚れからくる」と考えます。血液をサラサラにするには、化学薬品で一時的に症状を抑えるより、生活習慣を改めて体質改善をはかることが大切です。」(p.16)
石原医師は、癌も生活習慣病の1つだと言います。そして生活習慣が良くないことが血液の汚れにつながり、そこから多くの病気が発生するのだと。
その生活習慣の中で大きな比重を占めるのが食事、つまり飲食の習慣です。そしてその中でも、食べ過ぎという習慣が、もっとも悪影響を与えると言われるのですね。
また、ここでも指摘されているように、薬の飲み過ぎも長い期間を経て人体に悪影響を与えます。薬は最終的に肝臓で分解されますが、人体にとっては毒素であり、汚れなのです。
「現代人の体調不良の大半は「食べ過ぎ」が原因です。たいして体を動かさなくても、1日3回、習慣的に食事を取り続けています。
消化吸収が追いつかず、胃炎・腸炎を引き起こしているにもかかわらず、消化剤や整腸剤を使ってまで食事を取り続けようとしたり、栄養剤の点滴まで登場しています。」(p.38)
食べ過ぎの問題点を指摘されていますが、現代人は薬に頼ってまでも食べようとしているという指摘は、まさにその通りだなぁと思いました。
この後、スウェーデンのカロリンスカ大学の研究報告より、外科手術後に高栄養の輸液をすると、肺炎や胆嚢炎などの感染症を引き起こしやすい、という指摘をされています。いわゆる細菌は、汚れた成分を分解する掃除屋なので、体内でも老廃物の掃除を細菌が担当しているということが表れている、というわけです。
このように、石原医師の考えは一貫しています。ほとんどの病気の原因は血液の汚れであり、その主たる原因は食べ過ぎにある。また水分の取り過ぎで水毒を引き起こし、体温の低下を招いている。それらが関連して、免疫作用が弱まり、病気を深刻化させている。
そうであれば、重要な対策は食べ過ぎないことです。そして体温を上げることです。そのための生活習慣が重要だというわけです。
最初に書いたように、対策としての運動や食事のレシピは、本に詳しく書かれています。気になる方は、手にとってお読みくださいね。
2021年09月18日
私は、看取り士。
日本講演新聞で紹介されていて、ピンと来たので買ってみました。映画にもなったのですね。著者は柴田久美子(しばた・くみこ)さん。縁があるのか、島根県出身の方でした。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「死は悪いものでも、怖いものでも、ましてや穢(けが)れたものでもなく、むしろ、ものすごい量のエネルギーを放出する、その人の人生にとって最も大きな愛に溢れたイベントなのです。
その場でエネルギーを受け取り、いのちのバトンをつないでいくことは、感動的な体験となるでしょう。」(p.10)
柴田さんにとって「看取り」とは、こういうことなのですね。私も、死を忌み嫌うものではありませんが、こういう価値観の土台があってこその看取りなのだと感じました。
「私は、敏夫さんから発せられるものすごい量のエネルギーに圧倒されながら、「ああ、人は社会のルールに反してさえいなければ、自分らしくわがままに生きていいんだ。むしろ、自分の心が喜ぶ生き方をすることが大切なんだ」と感じたのです。」(p.29)
わがままを言ったり、「普通」じゃない人というのは、扱いにくいと嫌われがちですが、柴田さんは別の見方をします。それは、その人の発するエネルギー量が大きいのだ、という見方です。芸術家にも変人は多いですが、それは裏を返せば、社会を変革するだけのエネルギーがあるということなのかもしれませんね。
「この体験で、私は、初めて看取りの意味がはっきりとわかりました。それは、「看取りというのは、その方がお亡くなりになられてから何時間もかけてエネルギーを放出していくのだ」ということです。」(p.30)
看取りというのは、死ぬ直前からせいぜい死後30分程度の短いものではなく、死後24時間でさえ感じられるその方のエネルギーを感じ取ることなのですね。
ですから、死に目に会えなくても大丈夫なのだと言います。現代は、死後すぐに葬儀屋がやってきて納棺して通夜という段取りになって、死者とじっくり別れを惜しむこともできません。柴田さんは、そういう流れを変えていきたいようです。
「敏夫さんの魂は、「自分がいやなことはしなくていい」「無理はしなくていい」、そして「喜びを感じられる生き方をしよう。それこそが魂を磨く道だ」という、とても大切なことを教えてくださいました。」(p.31)
わがままで無頓着で、他人に迷惑をかけるような変人だからこそ、そういう言わば非常識なメッセージを発することができたのだろうと思います。
自分に正直であること。ことに死の間際であればこそ、自分らしい生き方を選択することが大事なのです。
「キラキラとした輝きの中で、「愛」という字がきらめいていました。そのとき、「ああ、私たちの存在って単純に”愛”なんだ」と妙に納得したのです。」(p.33)
ある看取りで、部屋に入った瞬間に空気が違うと感じたそうです。今まさに亡くなろうとされてる方の首の後から水蒸気のようなものが立ち上がっていて、それが部屋中に充満していって、キラキラして見えたそうです。その美しさに見とれてしまった時、その霧のようなキラキラしたものが「愛」に見えたのですね。
柴田さんは、そういう不思議な体験をされています。私にはそういう体験はないのですが、そういうものが見える人もいるだろうなぁと思います。
「看取りに大切なのは「傾聴」「反復」「沈黙」「ふれ合い」です。お返事に困ることがあれば、「大丈夫ですよ」とやさしく声をかけます。死の前には誰もが無力です。それは当然のこと。」(p.48)
何か特別なことをしてあげようとか、導いてあげようとか、そういう驕った考えはじゃまなのです。ただそばに寄り添ってあげる。
私もよく「大丈夫ですよ」と老人介護の現場で声をかけます。それは、不安を取り除いてあげたいからです。何の根拠もなく、ただ優しくそう言って、少しでも安心してもらうようにしています。その際、できれば相手の身体に触れて、時には撫でてあげて、相手の話を聞いてあげます。奇しくも同じようなことをしているなぁと思いました。
「看取り士がお伺いするのは、依頼を受けて最初にご説明に上がるときと、旅立ちの前後です。呼吸が乱れ始めたころにご連絡をいただければ、駆けつけます。看取り士の費用は1時間5千円です。保険は適用されませんので高額に思われるかもしれませんが、実際に看取り士が介在するのは、最初の面談の2時間、旅立ちの10時間ほどと、ご依頼いただいたときのみです。それ以外の時間は、「エンゼルチーム」がボランティアの形態でサポートします。」(p.65)
看取り士の業務と報酬に関して、具体的に書かれた部分があまりないので、この部分を引用しました。依頼する側は、だいたい6万円くらいを支払うことになるようです。ただ、ここには医師や看護師との連携や葬儀屋との折衝など、重要な部分の報酬に関しては書かれていません。
医療関係者を説得するのは、なかなか骨の折れることだと思います。なぜなら、医療界では「死は敗北」という価値観がいまだにまかり通っていると聞きますから。
※次に読んでいる本には、2019年現在で1時間8千円と書かれていました。値上がりしたようです。したがって、だいたい10万円くらい支払うと考えればよいかと思います。
「看取りのとき、私は抱きしめてふれ合いながら呼吸を合わせます。40分、50分と合わせているうちに、旅立たれる方の呼吸と私の呼吸が一つになる瞬間が訪れます。呼吸と、ふれるという動作が連動して一体になった感覚−−。二人が一つの体になったような感覚は、相手も同じように感じられ、とても心地よく、一切の不安がありません。呼吸を合わせるという行為は、ただそれだけで喜びですし、深い安心感が得られるものなのです。」(p.69-70)
亡くなられる方の頭の後ろに腰を下ろし、片足あぐらのようなかっこうで、亡くなられる方の頭を足に乗せ、胸やお腹あたりに手を当てます。こういう姿勢で抱いていれば、長時間抱き続けられるそうです。
「できれば24時間はご家族でお体にふれたり、話しかけたりする時間にしていただきたいです。24時間は、お体にまだぬくもりが残っています。この間、エネルギーを受け取り、いのちのバトンの受け渡しをしてください。もちろんドライアイスは不要です。」(p.76)
死後24時間、ずっと体に触れ続ける。そんな看取りを提唱する人はいなかったし、現代の葬儀では難しいものがあるでしょうね。けれど柴田さんは、こういう看取りこそが大事だと言われるのです。
「亡くなってから時間が経過し、ご遺体もない中で、他界された方に対する思いや悔いが残っている場合があります。その場合は「看取り直し」といって、もう一度自分の心の中で他界された方を看取ることで気持ちの整理をすることができます。「看取り直し」もまた、グリーフケアの一つです。」(p.91)
日本では初七日の法要がありますが、それまでは魂が留まるとされています。そのことから、まるでその方が生きていらっしゃるかのように考え、朝の挨拶から食事などを一緒に行って過ごす。それが「看取り直し」になるのですね。
「死というものは、あちらからお迎えが来て、初めて逝けるものです。そして、お迎えが来なかったら必ずこちらの世界にもどされます。ですので、自死で亡くなられた場合も、あちらからお迎えが来ているはずです。
私たちは勝手に、自死はいけない、事故死は残酷だなど、目に見える事象で善し悪しを決めつけていないでしょうか。もちろん、自死という選択肢はないに越したことはありません。しかし、何が起こるかわからない世の中で、主観的な価値観だけで決めつけるのは、あまりにも愚かなことです。死の前には善悪の判断など存在し得ないのです。」(p.100-101)
私も、自殺を悪いこととは考えません。残念なことではありますが、自殺されたという結果が出たのであれば、それもまた必然であり、最善であり、完璧だと考えるからです。
「いのちの価値は長さではありません。十分に生き切ったかどうかです。自死だったけれども、その人にとっては周りの人にいのちの重みを伝える役割があったのかもしれませんし、何か訴えたいメッセージがあってのことだったのかもしれません。もしからしたら、そのメッセージを訴えるために、自死という方法を取らなければならなかったのかもしれない。
遺された人は、そのメッセージをきちんと深く理解して、心に刻んで「ありがとう」と思うことから、次の一歩が始まるのだと思います。」(p.103)
すべての出会いは贈り物だと「神との対話」シリーズでも言っています。どんな出来事も「気づき」を与えてくれるために起こっている。そうであれば、知り合いの死もまた贈り物なのです。
「看取り士は彼らの生きる希望になるように努めます。死は敗北ではありませんが、かといって、看取るためだけの看取り士でもありません。「奇跡をあなたに届けます」という意味もあるのです。ここでいう奇跡とは、万能な力で病を治すようなことではありません。最後まで自分らしく生きていただくために、「希望を届ける」とも言えるでしょう。」(p.118)
高齢になって、老衰して亡くなって行くのであれば、生への執着心もそれほどないかもしれません。しかし、若くして亡くなっていかなければならない運命を背負った方の看取りは、また違うものがあると柴田さんは言います。
看取り士は、そういう方に対しても「大丈夫」と希望を与え続けるのですね。治るかどうかは何とも言えない。けれど、治らないなら治らないままで大丈夫なのだと。
「「もういいよ、ありがとう」というのは、「これまでよく頑張ったね、もう頑張らなくてもいいよ」という意味です。人生の終末期を迎える人は、遺る人たちのことを本当に心配しています。彼らが自分に対して「逝かないで」と思っていることを、誰よりも敏感に感じ、遺される人がその手を放したくないことを痛いほどわかっているのです。ですから、「もういいよ、ありがとう」と言ってあげることは、「ああ、もう頑張らなくていいんだ」と、彼らの背中をちょっと押してあげるような意味合いがあります。」(p.134-135)
私の祖母がまさに亡くなろうとしていた時、泣いてすがって祖母を呼び続ける母に対し、近所の親戚の方がもう呼ぶなとたしなめたことがありました。その記憶が蘇ります。
本人にとって死は、悪いことでもなければ敗北でもありません。魂にとって死は喜びだと「神との対話」シリーズでも言っています。ただ別れの時なのです。未練なく逝かせてあげること。それもまた愛なのですね。
「1度聞いてだめなら2度聞いて、それでもだめなら3回、4回と何度も聞いて……。諦めずに何度も繰り返し質問すれば、必ず意思疎通はできます。「認知症の方は決められない」と思うのは、単なる思い込み、固定観念にすぎません。ご自身が救われるためにも聞き続けることは大事です。」(p.157)
終末期に自分がどうしたいのかは、自分が決めるしかないのです。たとえ認知症であっても。医療を続けて助かりたいのか、それとももう十分なのか。決めるのは本人です。
「お医者さんで「自分が当直になると、亡くなる人が多い。だから怖い」と悩んでいる人から相談を受けたことがあります。でも私は、それはいいことだと思います。その先生は、「この先生だと安心して逝ける」と患者さんから信頼されて、選ばれているのです。」(p.162)
介護の現場でも、亡くなる日の夜勤はやりたくないという雰囲気があります。作業が大変だからではなく、気が重いからという理由で。
私はむしろ、私の時に亡くなってほしいと思っています。それは、人が亡くなるというあまりない経験が積めるということがあるからです。でも、柴田さんの話を読んで、それもすべてその方が決めているのだなぁと思いました。
「それより上の世代、団塊の世代やそのすぐ下の世代に、私が提案したいのが、男性による看取りです。看取りを経験すると、確実に自らのいのちが覚醒して成長できます。」(p.174)
「息子」という字は、最期の息を引き取る子どもという意味だと聞いたことがあると柴田さんは言います。女性は子どもを産んで命のリレーをするのが役割なら、男性は看取って魂の受け渡しをするのが役割ではないか。そう言って、男性に看取りを勧めておられます。
「私が提案したい一つの目安の年齢は60歳です。60歳を過ぎたら、自分の旅立ちのことを考えて準備を始めてほしいのです。準備とは、エンディングノートを書いただけでは完全ではありません。それを、配偶者や子供たちとすり合わせ、これを執行するのは誰とか、いのちの責任を持つのは誰なのかというところまで、一つ一つ詰めていくことが必要です。」(p.189-190)
私も還暦になったばかりですから、ちょっと考えさせられました。
「「看取り士」とは、余命宣告、または、お食事が口から取れなくなってから、ご本人、そのご家族の不安を取るために、共に寄り添う役割です。納棺前まで寄り添わせていただきます。」(p.237)
最後に鎌田實さんとの対談がありました。鎌田さんの著書は、「がんばらない」などをこのブログでも紹介していますが、諏訪で活躍されておられて、介護の仕組みづくりにも尽力された方でした。そんなこともすっかり忘れて私は縁あって長野県で介護職をすることになったのですが、これもまた魂の導きなのかもしれないなと思いました。
ここでは柴田さんが鎌田さんへ、「看取り士」というものを端的に説明されておられたので、その部分を引用しました。
「「死の哲学」ってわかりにくいけど、せめて自分が万が一寝たきりに近いような状態になったら、胃ろうはつけるのかいらないのか、どちらでも構わないので、その判断を人に任せずに自分で判断することです。また、その希望や判断が変わることも”アリ”ですよね。」(p.257)
鎌田さんは、「死の哲学」を持つべきだと言われます。つまり、死が目前に迫った時、自分は何を選択するのか、という考えです。胃ろうや人工呼吸器などの延命措置はどうするのか、ガン宣告されたら手術や抗癌剤投与などの治療はどうするのか、認知症になったらどうするのか、などなど。私も、こういうことを日頃から考えておいて、親しい関係者に伝えておくことが重要だと思います。
「でも、どんなに進歩しても、少しは良くなっても、ずっと生きることはできないっていう前提でいのちがあるんだということを、もう再認識すべきときに来ています。そうであるならば、自分が最期のときにどういうふうに逝きたいのかということを、自分が選択して自己決定するようにならなくてはいけないと思います。」(p.276)
医師など医療関係者が決めるのではない、ということはもちろんのこと、家族にすら決めさせてはいけないのです。自分のことは自分が決める。そこはわがままであっていいし、わがままであるべきだ。鎌田さんも柴田さんも、そう思っておられるようです。
縁あって介護職になりましたが、この仕事は身近に人の死がありました。考えてみれば当たり前なのですが、私もこの仕事をすることで、死のあり方について再考せざるを得ませんでした。
そんな時に、この本と出会いました。柴田さんは、私と同じ島根県出身で、対談された鎌田さんは、今、私が働いている長野県で医療関係の仕事をされてる方。そういう奇遇もあり、この「看取り士」というものに興味を持ちました。さらに多くを学びたいなぁと思っています。
2021年09月24日
この国で死ぬということ
前回の「私は、看取り士。」に引き続き、柴田久美子(しばた・くみこ)さんの本を読みました。同時に購入したものですが、日本講演新聞で著者のテーマや内容がだいたいわかっていたので、複数冊を買ったのです。それだけ関心のあるテーマだということですね。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「これまで私は、十数冊の著書(巻末に拙書「参考図書」)を出版してきましたが、「看取り士」に関心を持たれるのはほとんどが女性でした。それはそれでよかったのです。しかしこれからの超高齢化・多死社会の到来を考えると、もっと男性の方たち、とくに団塊世代と団塊ジュニア世代の人たちに、「この国」の現実を直視してほしいと強く思うようになりました。」(p.i)
冒頭の「はしがき」で、柴田さんはこのように語られています。つまり、この本はある意味で、男性向けと言えるでしょう。
「私たちの看取り学というのは、最期を看取ることだけを学ぶのではなく、死生観そのものを確かなものにして生きることです。旅立った人々の魂を重ねて生きることが今を生きる者の務めです。すべての人が誕生の時、天国行きの切符を手にしているのだから……。」(p.7)
看取りをするということは、確固たる死生観を持つ必要があるのですね。すでに天国行きは約束されている。そういう死生観があれば、生き方もまた違ってくることでしょう。
「親の最期に近づいたとき、子供たちは「仕事があるから」と親の看取りよりも仕事を優先することが当然のように、あたかも美談のように語られた時代がありました。しかし、日本にはかつて家族全員で看取る風習がありました。看取りはすべてに優先すべき、最も大きな豊かさだと、先人たちは無意識のうちに感じていたのではないかと思えてなりません。
死は、旅立つ人がこれまで生きてきたエネルギーのすべてを、見送る人たちに渡す荘厳な場です。また、死は第二の誕生のときであり、その誕生に家族が立ち会うのが看取りだと、私は思っています。」(p.28)
私自身、家族親族の看取りの場に立ち会ったのは祖母の時だけですから、偉そうなことを言える立場ではありません。死に目に会えないのであれば、葬式に遅れてもかまわない。そう考えて、母の看取りもせず、火葬された後に帰省して初七日の法要だけで済ませたくらいです。
けれども、看取りを家族の重要なイベントと位置づけられる柴田さんの考えもわかります。
「しっかりと自らの行く先を決めて凛として生きていく。それこそが人間らしい生き方だと思う。死は決して忌み嫌うべきものではない。それは私たちが魂の故郷に帰る日なのです。それを無理やりに引き止めるかのような、行き過ぎた医療行為は決して許されるべきではないでしょう。その意味で私たちは自分がどんな最期を迎えたいのか、しっかりと決めておくことが大切です。そのとき、私たちは医療を介さなくても、自然な死が迎えられることを忘れてはならないと思います。」(p.70-71)
医療を否定するわけではありませんが、むやみに延命するような医療行為は、私も拒否したいと思います。そういうことも死生観として確立しておくことで、「自然な死」を迎えられるのです。
かつては医療が無力だったために、「自然な死」が当然でした。しかし、医療が発達し、力を得ることによって、私たちの死は自然でないものになっていったのですね。
「しかし、命の長さは決まっていたのだから、どれだけ親御さんやご家族がそばで目を光らせていたとしても、きっと救えなかったのではないかと思うのです。逝くときは逝ってしまう。
けれど、どのような形であれ、その人は命の長さの分を生ききったわけなので、「ありがとう」と感謝して、手放してあげてほしいのです。罪悪感や責任感などで相手の魂をつかんで放さないようなことはせず、生き切った魂を解き放すのです。そうすることで、その魂も救われることになるし、遺された人間にとっても救いになると思うのです。」(p.73)
身近な人が自殺した場合の心得です。私も、人は死ぬべき時に死ぬのだから、その死に方がどうであれ、地獄へ行くなどということもないし、その生き様(死に様)を丸ごと受け入れることが大切だと思います。
「人はこの世に生を受けた限り、老いも病も死も決して避けて通ることはできません。私たちは病で寝たきりの生活を強いられることもあれば、ボケてしまうこともある。でも最後は必ず誰もがこの世を去って行く。それを私たちは当然のこととして受け入れていかなければならない。だからこそ、寝たきりになっても、ボケても、安心して暮らせる社会を築いていくべきではないでしょうか−−。」(p.79)
老いも死も避けて通れないし、寝たきりやボケも、そうなる可能性を否定できません。それでも人間の尊厳性を守れる社会を私たちは作っていけるのか? それが問われていると思います。
「この世に生を受けた一人ひとりの人間には、すべて大切な役割がある。今までの人生がどうであれ、たとえ罪を犯し、人々からどんなに罵られようとも、生かされるべき尊い存在なのです。」(p.85)
命に貴賎はありません。軽重もありません。私も同感です。
「人は死に背を向けている限り、あるいは生にのみ執着している限り、決して心に心の安らぎを得ることはできません。死を遠ざけようとすればするほど、苦しみや不安は増していく。しかし、離島で暮らす幸齢者のように、死をあるがままに受け入れて生きようとするとき、私たちの人生は大き変わるのです。」(p.87)
島根県の隠岐の島で看取りの家を始めた柴田さんは、高齢者のことを幸齢者と書かれます。あるがままに死を受け入れて亡くなっていかれるお年寄りの方々の中に、幸せな死に様、幸せな生き様を見つけられたのでしょう。
「臨終にあって送る側が何をするのか。その人をそばでじっと見守りながら、ただひたすら手を握り抱きしめて、感謝の思いを伝えること、それだけです。そして、臨終という尊いときを共有できることに感謝する。この世を旅立つ人は、そばにいる者たちに目には見えない大きな贈り物、生きるエネルギーを手渡そうとしているのだから。このエネルギーを受け取り、また次の世代に手渡す。これこそが、まさに「命のバトンリレー」です。そして人類は命をバトンリレーすることで進化していく……。」(p.101)
何をするかということよりも、見守っていること、感じようとしていることが重要なのでしょうね。
「母は以前に自然死を希望すると言っていましたから延命治療はしませんでした。しかし、あの時、私の気持ちは揺れていました。最期の14日間は母と一緒にいて、少しでも長く生きてほしいと思っていましたから。家族の方が延命治療を希望するという気持ちはよくわかります。ですから、延命治療をしないと決断するには、勇気が必要なのです。」(p.110)
柴田さんもそうであったように、家族にとっては葛藤があるでしょうね。最期を迎えた方への思いもあれば、世間体というのもあるでしょうから。
「怖いというより、つまりは人の命を引き受けられない家族が多いということだと思います。漠然と誰かが何とかしてくれるだろうと期待して、家族の命も誰かにお任せしたい、ということです。お医者さんにお任せしたいし、自分が責任を取りたくないということです。」(p.111-112)
自分の病気の治療のことも自分で決めずに医師に「お任せします」と言ってみたり、最期を迎えた家族を、その希望通りに引き取ろうとせずに病院にお任せする。つまり、重要なことから責任を回避したいという気持ちなのでしょう。
けれども、それでは自分らしい生き様、死に様は、できないではありませんか。だからこそ、死生観を持つことが大切なのです。
「しかし最近は医師のなかにも「患者の尊厳」を重視する方も多くなり、多死社会の到来が迫る中、厚生労働省も「患者の尊厳」についてはようやく指針を変えざるをえませんでした。
「できるだけ長く自宅や介護施設などで療養を続けた上で、最期は本人が希望する場所で亡くなることを推進する」
このように、2018年に指針の改定がなされました。その背景には、医療費高騰に歯止めをかけたいという国の思惑もありますが、とにかく患者の尊厳を尊重する方向に国が舵を取る時代になったことは私たちにおいては大きな喜びです。」(p.120)
どこで最期を迎えるかについての自己決定権を尊重する。国がそれを推進する時代になったのですね。
「死は再び胎内に戻ることだと私は思っています。女性が胎内から命を産むなら、男性がその命を胎内に戻すことをしてほしいのです。女性は出産によって魂の覚醒をしますが、男性にはそのチャンスがありません。男性に魂の覚醒をしてほしいというのが私の切なる願いです。女性と同じように体で受け止めることで魂は覚醒するでしょう……。」(p.123)
確かに女性の妊娠出産は、神秘的で魂的と考えることができますね。一方の男性には、そういう命のつながりに生理的に関与している実感が湧くものがありません。柴田さんは、看取りに参画することで、そういう経験をしてほしいと願っています。
「そしてこの体験で、私は、初めて看取りの意味がはっきりとわかりました。人は息を引き取ってから何時間もかけて「魂のエネルギーを放出していく」ということです。今では私達看取り士が当たり前のように行っていることですが、それまでの看取りは、お亡くなりになって30分から長くて1時間。何時間も抱き続けているわけではありませんでした。」(p.130)
亡くなられた男性の背中がずっと熱くて、7時間以上も抱き続けられたそうです。そういう経験から、抱き続けるという看取りのスタイルが生まれたのですね。
「2人の距離が縮まったのには、ちょっとしたきっかけがありました。肝臓がんは皮膚にかゆみが出ます。そのため、軟膏を全身に塗るのですが、毎日、夏海さんが塗ってあげていました。来る日も来る日も祐子さんの肌に触れているうちに、夏海さんの中にあったわだかまりのようなものが溶けていったようなのです。」(p.133)
仲違いしていた母と娘が、「触れる」ことを通じて心を通わせるようになった。私がレイキを始めてから、「レイキは愛だ」と確信するに至ったのも、まさにこういうことです。
「車内で何度も何度も繰り返し、「大丈夫だよ。ありがとう」と心の中で呟いていました。のちに看取り士になってから、この短い言葉こそ、死にゆく人を抱きしめる言葉であり、自分自身を励ます祈りの言葉であることに気づいたのでした。」(p.144)
私もこの「大丈夫」と「ありがとう」には、とても大切なメッセージを感じます。
「死の孤独を癒せるのは、抱きしめることしかありません。私たちは母の命がけの出産により体をもち、この世に生み出されます。その瞬間に希望と孤独を手にするのです。自分では癒すことのできない背中があること、自分の身体の中に、自分の手の届かない場所があることを理解したとき、他者の存在が認められるのではないでしょうか?
そして、ひとりでは生きることも、死ぬこともできないと受け入れた時、人はやさしく生きていけるのではないでしょうか?」(p.145)
何ごとも1人でできることはない。その当たり前の事実に気づくことで、私たちはつながって生きているのであり、孤独は幻想だとわかるのですね。
「旅立つ方は、自分が旅立つことを理解しています。ちゃんとそのお迎えが来て、自分も逝く準備ができたとき、その方は、私たちのような健康な人に比べて肉体こそ自由に動かせませんが、私たちにさまざまな気づきを与えてくれます。
この域に到達すると、彼らの魂は完成度が高くなっています。私たちが偏見や先入観を捨てて心をオープンにしていくと、彼らの愛が私たちの中に流れ込んでくるようになります。」(p.164-165)
実にスピリチュアルな話で、信じられないと感じる人も多いでしょう。けれども私は、こういうことはあると思うのです。
「遺族の方が思い残すことなく看取りをしておくと、ひどい喪失感に陥ることはなく、旅立たれた方の魂が自分の中に生きているような感覚になるのです。
人が旅立ってゆくとき、首の後ろからエネルギーが抜けていきます。看取る人は首筋から背中の方に手を差し込んで、この部分にふれたり、ひざ枕でその方からのエネルギーを受け取ることになります。すでに息を引き取られていても、肉体がある限りは時間をかけてエネルギーを放出していますので、同様の姿勢で看取り続けてください。最初は冷たく感じても、ふれているうちに肌のぬくもりが戻ってくることがわかります。
この作法は、肉体がある限りはできるので、ぜひ実践していただきたいと思います。
肉体があるうちに何時間もお体にふれて、エネルギーをいただくことは、グリーフケアの観点からも大切なことなのです。」(p.170)
少し長くなりましたが、看取りのやり方が端的に述べられていたので引用しました。
「でも大丈夫です。悲しみはいつでも癒すことができます。旅立った人の肉体があるか否かで異なる部分はあるものの、いつでも”看取る”ことができ、それによってあなたの悲嘆を癒すことができるのです。旅立った方は遺された人のことをとても愛していて、彼らの幸せを願い見守っています。決して恨んだり怒ったりなどはしていません。」(p.173)
愛する対象を失った喪失感、死に目に会えなかったという臨終コンプレックスなど、私たちは大切な人の死によって悲しみを抱くことがよくあります。その悲しみを緩和することがグリーフケアですが、看取りや看取り直しによって、グリーフケアができると柴田さんは言います。
「死者と話ができるというと、不可思議なことかと思われる方もいるかもしれませんが、自分自身との対話でもあるのです。」(p.179)
これまたスピリチュアルな内容ですが、私もこのように思います。魂が永遠なら、死んでも生きています。生命は永遠であり、ひとつのものであるなら、誰かとの対話は自分自身との対話でもあるのです。
「私は「『ご縁をいただいてありがとうございます』と声をかけてください」と伝えました。私達の人生において偶然はありません。その自衛隊の方も、職務上のこととはいえ、何らかの理由があってその犠牲者と出会ったのです。その出会いに感謝し、「ご縁をありがとうございます」と伝えることで、相手の方は喜ばれます。」(p.180)
東日本大震災の後、被災地に入った自衛官で、赤ちゃんを抱いた若いお母さんの遺体を収容した時、何も声をかけてあげられなかったことが悔やまれるという話に対して、柴田さんはこのように言われています。
私たちの出会いは、すべてがご縁なのだと私も思います。どんな素敵な人でも、どんな嫌な人でも、出会いはご縁であり、必然だということです。それに感謝できるかどうかは、見方次第だと思うのです。
「私が島に暮らしていた当時、抱きしめて看取った幸齢者さまのお通夜が7日間通して行われ、その間、ご遺体はずっと自宅にありました。」(p.182)
隠岐の島にはこういう風習があったのですね。「もがり」と呼ぶ死者の魂が戻るかもしれないという期間があり、それが死後の7日間なのだそうです。
実はタイでも、似たような風習があります。葬儀は3〜7日くらいかけて行われるのが普通で、その間、ご遺体は安置されたままです。葬儀の最期の日に火葬の儀が行われます。高貴な方になるともっと長くて、前国王のご遺体は1年間安置された後に火葬されました。
「看取りとは何かと一言で言うなら、「愛を伝えること」だということです。これさえ心の底から納得できたなら誰でも看取り士になることができるのです。
前にも書きましたが、愛を伝えるには、まず自分自身を愛さなくてはいけません。誰しも人間は完璧な人にはなれませんから、ときには自己嫌悪に陥ったり、人を羨んだりすることもあるかもしれませんが、看取りの場面では全ての人が「許し」と「愛」を心の底から体験します。」(p.192)
私は、「レイキは愛だ」と言っていますが、柴田さんに言わせたら、「看取りは愛だ」ということなのでしょうね。
すべての経験は愛に通じているし、私たちは愛を経験するために生き、そして死んでいくのかもしれません。
実に、いろいろなことを考えさせられる内容でした。
特に私が男性であるだけに、男性にこそ看取りをやってほしいと言われる柴田さんの言葉が響きました。
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