2021年08月18日
99歳、ひとりを生きる。ケタ外れの好奇心で
これも日本講演新聞(旧:みやざき中央新聞)で紹介されていた本です。著者は日本画家の堀文子(ほり・ふみこ)さん。ご高齢でありながらも子どものような好奇心を持ってハツラツと生きておられる。これはエッセイですが、堀さんの若々しく生きる秘訣を知りたくて、買ってみました。
ではさっそく、本の一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「新しい感性で作品をつくるには、いつも「現在(いま)」に興奮していなければなりません。死ぬことは”初体験”ですから、死の問題に自分が何を感じて、どんな最期を迎えるのか、興味津々なのです。」(p.19)
堀さんは、歳を意識したことはないと言います。けれども、だんだんと死に対して親しみを感じてきたのだと。それは、未知の死が目前に迫りつつある臨場感の中で、恐れよりも好奇心の方が勝っているからのようです。
「年を重ねて、自由がだんだんそばまで来たような気がいたします。
何ものにあってもおどおどしなくなるには、よほどの目にあわないとわかりません。
打ちのめされて、必死で新しい道を探すたびに、今までの常識を壊し、少しずつ自由になってきたように思います。」(p.37)
新しいものと対峙するということは、これまでの常識ややり方が通用しないということです。堀さんは、自分自身を追い込むために、あえて見知らぬ場所を訪れたり、住まいを引っ越したりされてこられました。それは、自由になりたいという渇望からだったのかもしれませんね。
「わたくしにとって新しい住居や旅は、
どんな努力も及ばない、自己改造への方法です。
わたくしの中に眠る未知の因子に
火をともしてくれるような気がいたします。」(p.57)
同じところに留まっていたのでは息が詰まる。自分として成長できず、自分らしく生きられていないと感じる。だから堀さんは、あえて未知への挑戦を続けてこられたのでしょう。
喜多川泰さんの小説に「「また、必ず会おう」と誰もが言った。」(通称「またかな」)というものがあります。主人公の少年は、望んだわけではありませんが、ヒッチハイクをしながら長距離を旅して帰宅することになります。しかしその未知なる経験によって、少年は大きなものを得て、成長していくのです。
堀さんのような生き方が、誰しもできるとは思いません。人にはそれぞれ、与えられた課題があるのですから。
けれども、その生きている環境の中で、どうすることがより自分らしさを発揮することにつながるのか、ということへのヒントを与えられたように思います。
自分の限界を自分で決めないことですね。ただし、そうしなければならないのではなく、そうしたいから、そうすることが自分らしいからという理由で、何かに挑戦し続けること。たとえそれが小さなバンジーであろうと、自分を卑下することなく、その小さなバンジーを飛び続ける。そうすることで、より自分を生かせる環境へと導かれていくのではないか。
99歳の女性がやっていることです。それを知るだけでも、勇気が湧いてくるではありませんか。
2021年08月24日
ちよにやちよに
博多の歴女こと白駒妃登美(しらこま・ひとみ)さんが、絵本を出されるというので購入しました。テーマは国歌の「君が代」です。
「君が代」は、国歌としては異質です。これは他国の国歌を知ればよくわかりますが、たいていは他の国々と戦って自国を守ろうとか、国のために戦えとか、勇ましい歌が多いのです。私が暮らしたタイの国歌も、Wikipediaにはこんな訳が載っています。
「血と肉によるタイの団結 タイはすべてタイ国民に属せり 一致団結 国家の独立永らえん 平和を愛するタイ国民 苦難に屈する臆病者なし 侵されることなき国家の独立 自由のために命を捧げん タイ万歳 永きに渡る勝利を!」
それに対して「君が代」は、57577(=31文字)という和歌になっています。これだけ短い歌詞も珍しいのですが、その内容は、ただただ「君が代」が長続きしますように、という意味でしかありません。
ところが、この「君」というのは天皇陛下のことであり、天皇制に反対する人たちから、「とんでもない」「けしからん」という声が聞こえてくるのです。
したがって、学校での国歌斉唱に起立しない、歌わないという教員がいるそうです。政治的なポリシーからそうするとのことですが、公務員という立場にはなじまないもの。国に雇われておきながら、国のやり方には反対というのでは、会社の規則を守らない社員と同じですからね。
そんな問題が社会にはありますが、白駒さんはそこに、違う視点を持ち込まれています。「君が代」は、天皇制礼賛の歌ではないということです。これは、すでに多くの人が言っていることではあるのですが、それをあえて絵本にすることで、また英語訳を加えたバイリンガルにすることによって、日本の国歌の素晴らしさを広めたいということなのです。
なお、この絵本の文は白駒さんですが、絵は吉澤みかさん、訳は山本ミッシェールさん、書は高村遊香(たかむら・ゆうか)さんとなっています。
ではさっそく、本の一部を引用しながら、内容を紹介しましょう。ただ、これは絵本ですので、絵を写真で紹介するのはやめておきます。また、絵本のキャプションも引用しません。その代わり、最後に書かれた「あとがきにかえて」から白駒さんの言葉を引用しましょう。
「私たちの国歌『君が代』の本歌(ほんか)は、平安時代に生きた、ある人物の詠んだ「愛の歌」です。このことを知った時、梅の花に太陽の光が差し込みキラキラと輝き始めたような、美しいあたたかさが、胸いっぱいに広がっていきました。」(p.34)
詠み人知らずとされている歌ですが、古今和歌集に載っています。これが世間に広まり、祝い事の場で歌われるようになりました。その歌は、「君が代」ではなく「わがきみは」と歌われているのです。
「わがきみ」とは、男女問わずに愛するパートナーのことを表現する言葉だそうです。ですからこれは、愛する人に対して「長生きしてね」と願っている歌なのです。
この歌は、多くの日本人の心を捉え、結婚式だけでなく、祝いの席で歌われるようになりました。そのため、古今和歌集から100年が経った和漢朗詠集には、「わがきみは」を「君が代は」と変えて載っているのです。
たとえば、正月の祝いの場とか、上司が栄転する時のお祝いの歌として歌ったりもしたのでしょう。そういう時、「わがきみ」より「君が代」の方が都合が良かったのです。
「『君が代』が、天皇に捧げる歌であるという解釈は、明治以降に生まれました。」(p.35)
つまり、天皇制を強固にすることによって、国民意識の統一を図ろうとするようになってから、こういう解釈が生まれたということです。
なぜそう言えるかと言うと、天皇陛下のことを「君」とは呼ばなかったからなのです。「大君」とは呼びます。もし仮に「君」と呼んだとしても、その場合は「君が御代」というように、必ず尊敬を表す言葉が付加されるのです。
このような経緯が、詳細に書かれています。これを、天皇陛下の世が長続きすることを考えて作られた歌だから国歌としてふさわしくないという理屈は、完全におかしいと言えるでしょう。
日本の国歌はラブレターだったのです。こんな国歌、他の国にありますか?
だからこそ、この歌をバイリンガルにして、世界中に広めたい。それが白駒さんをはじめとして、この絵本制作に取り組まれた方々の思いのようです。
「この歌を歌うとき、誰を「君(きみ)」と思うのかは、歌う人の自由です。想像の翼は、国境も宗教も、時代さえも、たやすく超えることができます。「君」は人でなくてもかまいません。想像力をふくらませれば、虫や動物や草木、山や海や地球、月にも宇宙にさえも対象を広げることができます。
おおらかで和やかな人類愛、地球愛、宇宙愛を込めた、究極の愛のうた。「この素敵な先人たちからの贈り物を、世界中の人々と分かち合いたい」との思いから、英訳をつけたバイリンガル絵本といたしました。」(p.36)
ぜひ、この絵本の制作に携わった方々の思いを、感じ取ってみてほしいと思います。
※白駒妃登美さんのサイン
●コメントを書く前に、こちらのコメント掲載の指針をお読みください。