2020年08月22日
食えなんだら食うな
執行草舟(しぎょう・そうしゅう)氏が大絶賛される本を「日本講演新聞(旧「みやざき中央新聞」)」で紹介していたので読んでみました。
著者は禅僧の関大徹(せき・だいてつ)氏。書店「読書のすすめ」でもオススメの本だったそうですが、絶版になっていました。それを復刊したのが本書になります。
帯には執行氏が「俺は、この本が死ぬほど好きなんだ!」と寄せておられます。執行氏は本書の最後に、「解題−復刊に寄す」と題して解説文を書かれています。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「自分は僧侶として好きなことをやっているのだから、一握りの米も頂けなくなったら、誰を恨むでもない。そのときは、心静かに飢え死にすればいい。高祖いらい、みんなその覚悟でこられたからこそ、こんにちの禅門があり、禅僧といわれる人は、その祖風をしたって仏門に入ったはずである。」(p.10)
本のタイトルはここから来ています。僧侶というのは、農耕採集狩猟ということはしないのですね。托鉢によって、その日いただく食べ物をもらう。それが僧侶というものだという覚悟を持って生きておられたのです。
「いっておくが、「食えなんだら食うな」とは、「買えなんだら買うな」の意ではない。食えなんだら、食うな、という言葉には、本来、食うことのできない、おのれが……という傷みがある。懺悔(ざんげ)がある。禅僧は、乞食(こつじき)に頼っている。本来、一粒の米も生産できないのである。それが、お恵みを得て、食えるべきでない身が、食わしていただいている。その実感を、小僧の時分から、叩き込まれるのである。」(p.18)
直接生産に携わってないのであれば、食べられる道理がないと言うのです。実際、戦後の日本では、農家でもなければ食べ物に困る日常がありました。それが当然なのであり、幸運にも食べ物をいただいて生かしていただいている、という感謝の思いが常にあるのです。
「人間、本来、自由なのである。誰も、自分を縛りつけているものはいないのである。縛りつけているものがあるとすれば、それは自分自身かもしれず、自分で自分を閉じこめているのである。そうではないか。」(p.28)
関氏は、座禅によって「自由の境地」を得たと言います。自分が自分を縛っていて、そのことに気づいていない。しかし、そのことに気づけば、人間は本来、自由だとわかるのです。
関氏は、ガンを患ったことがあるそうです。幸い、手術のお陰で命をとりとめたのだとか。
「「おめでとう」といってくれる人もあった。こちらは胆の中で、何がめでたいものか、と思っている。そこで、別段、嬉しがりもしなかったら、相手は拍子抜けがしたような顔をして帰っていった。
それはそうではないか。ガンにかかって奇跡的に命を得たからといって、不老長寿の保証を得たわけではない。何年か、何十年か生き永らえるだけであり、あるいは、死のきっかけがガンという病名でなくなっただけのことであって、死から免れたわけではないのである。」(p.56)
いつも「死」と向き合って生きておられた関氏ならではの言葉ですね。
「たとい、言語を絶するとはいえ、苦痛に耐えるだけでよかったのである。だから、たといガンとはいえども死ねばなおると、当然の帰結に安心しておれた。それだけでなく、私は一命をとりとめたばかりか、なお得がたい多くのことを、身につけることができた。
仏教は「転禍招福」の教えである。禍いを除いて、ではなく、転じてというところが、いかにも面白い。禍いは、一度降りかかったら免れ得ぬものとすれば、その禍いを禍いのままに、そのまま、幸福にひっくり返そうというのが仏教の基本的な味わいである。」(p.71)
つまり、見方を変えればどうにでもなる、ということですね。
「私は、揮毫(きごう)をたのまれると「本来無一物」と書くことにしている。
人間、本来無一物なのである。呱呱(ここ)の声をあげたときに、ものをもって生まれた赤ン坊があるか。有りあまる金を、あの世までもっていった大富豪があるか。もっというなら、なまじっか、人間にものを付託したために、人を不幸にすることだってあり得る。」(p.87)
豊臣秀吉が我が子秀頼かわいさに、城や金銀財宝をたくさん遺したがために、一族もろともに滅んだ事例を挙げています。赤ちゃんは、何も持たずに生まれてくるからこそ、両親などから無尽蔵の愛を受けられるのだと。
「そうして彼は勝った。しかし、敗けても本望だったであろう。それは、敗ければ口惜しいに違いない。けれども、彼は彼なりに、全知全能を傾けたのだから、敗けても本望という澄明(ちょうめい)さがなければ、勝負はできない。
いや、勝負だけでなく、人生全般、そうではないか。何物をもおそれないという心境がそれである。
自分の敗北すらおそれなくなってこその大禅定である。」(p.96)
伝統のプロ野球球団の監督が、任された年には散々な成績だったが、座禅修行した後に優勝したという例を挙げています。おそらくは川上哲治氏のことでしょう。
結果に対する執着心を手放すこと。その上で、行為に対して情熱を燃やすことですね。
「−−だから、便所掃除をせよ。
とまではいわない。せめて、その娘にあやかりたかったら、便所を掃除してみよ。自分もさっぱりした気になり、これで人にも喜んでもらえると思ったら、これにまさるよろこびはあるまい。これこそ「徳」のよろこびであり、このよろこびを味わったら、明日に死すも可なり、であろう。」(p.135)
死相が出ていた娘が、ひどく汚れていた公衆便所が気になり、夜寝る前にわざわざ戻って便所掃除をしたことで、運勢が変わって死相が消え、死ななかったという話です。
それが本当かどうかは別として、禅寺では修行として便所掃除を行うそうです。たとえ一山の管長であっても、一禅僧として便所掃除をする。その心がけが大事なのだと。
「仏教では三毒の煩悩という。貪欲(どんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴(ぐち)である。
あれも欲しい、もっと欲しい、安楽にしたいという貪(むさぼ)りの心(貪欲)。自分は間違っていないのに、あいつがいけないという身勝手な怒りの心(瞋恚)。自分の運命は自分で背負っていかねばならないのに、それを誰かの責任のように愚痴る心(愚痴)。
自分がいま人間として生きているということの幸福感をたしかめられぬ人は、すべてこの曇りによるものと心得られるがよい。しかして、この曇りは、自分自身の手でとり除くよりほかはないのである。」(p.180)
中村久子女史が、不自由な身体で身の回りのことをすべて完ぺきにこなし、不平不満も言われないことを挙げて、このように言われます。肉体の目は開いていても、心の目が曇っていると、三毒の煩悩のままに生きることになるのですね。
完全に捨て切ることで、すべてを得ることになる。そんな信念が表れていて、叱咤激励される本でした。
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