2020年02月20日
教誨師
これは、「日本講演新聞(当時は「みやざき中央新聞」)」で紹介されていた本です。著者は広島県生まれのジャーナリスト、堀川惠子(ほりかわ・けいこ)さん。同じ広島県出身の教誨師、渡邉普相(わたなべ・ふそう)氏の話を聞き取ってまとめた本です。2014年1月に単行本として発行されていますが、私が読んだのは2018年に文庫化されたものです。
渡邉氏は、浄土真宗の僧侶であり、死刑囚の教誨師です。教誨師というのは宗教家であり、死刑が確定したいわゆる死刑囚が、死刑を執行される前に唯一接することができる民間人です。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「間近に処刑される運命を背負った死刑囚と対話を重ね、最後はその死刑執行の現場にも立ち会うという役回り。それも一銭の報酬も支払われないボランティアだという。渡邉ほど長いキャリアを持つ死刑囚の教誨師は全国どこを探しても見当たらないし、恐らく今後も現れないだろう。理由は、その任務の過酷さである。身体よりも心がもたなくなる者が多いという。」(p.12)
教誨師には守秘義務があり、死刑囚との教誨において話されたことなどは、口外してはならないとされているそうです。なので渡邉氏は、自分が死んでからでなければ公にしないでくれと言われていたのだとか。守秘義務違反を問われても、すでにその時はこの世にはいない。それでも、この内容を世に問うべきだと、渡邉氏は考えたのでしょう。
「「本人が執行されても、幸せになった人間は、誰ひとりもいません」
教誨師に限らず、死刑という難題に真剣に向き合ったことのある者なら、その立場を問わず、誰もが共通して胸に感じる「虚無感」のようなものがある。」(p.350)
被害者遺族の気持ちを慮ってか、死刑廃止に踏み切らない日本。しかし、犯人が死刑になれば、被害者遺族は幸せになるのでしょうか? 堀川さんも渡邉氏も、そのことを問いかけています。
「社会が事件について遠く忘れ去った頃、死刑は執行される。世間で言われるような「とうとう仇を取った」とか「正義が貫かれた」などという勇ましい感慨も、達成感も、そこにはない。被害者遺族も、もろ手を挙げて喜んでいるわけではないだろう。」(p.350)
「私たちは、死刑のある国に生きている。いかなる事情があるにせよ、生身の人間が、生身の人間を縊(くび)り殺すことが合法とされる現場について、もっと現実を知り、想像力を働かせ、その結末がどんな社会的な利益をもたらしているのか、いないのかを考え続ける義務がある。「守秘義務」を理由に、そのことをタブーにしたり、思考を停止させたりしてはならない。」(p.351)
私は以前、大塚公子さんの「死刑執行人の苦悩」という本を読んだことがあります。仕事だから、義務だから、人を殺さなければならない。その苦悩を想像してみるべきだと堀川さんも言います。(以前の記事「自由とは何をしても良いこと?」にその本のことを書きました。)
「大橋は紛れもなく老夫婦を殺害した「加害者」である。その事実に間違いはない。しかし彼は、自身が最も気に病んでいる右手のことを平然と馬鹿にされたことへの「被害者意識」を拭えないでいた。罪を犯しながら、心は被害者のそれなのである。」(p.150)
その死刑囚は、幼い頃から不自由だった手にコンプレックスを抱いていたのですね。貸した金を返してくれと言いに行っただけなのに、断られたばかりか、手のことをバカにされた。そこで我慢が限界に達して殺してしまった。「盗人にも三分の理」と言われるように、人にはそれぞれ「正義」があるのです。
「だからと言って罪を犯すことが許される訳ではなく、自業自得と言ってしまえばそれだけのことだが、そうして行き着いた先が「処刑台」では救われない。事件のことはさておき、まずは彼ら自身に向き合って、その「被害者感情」を取り払わなくては、事件に対する真の反省も被害者への慰藉(いしゃ)の気持ちも永遠に訪れることはない。」(p.150 - 151)
すでに死刑が確定しており、更生したからと言っても許されるわけではない。では、何のために教誨をするのか? 渡邉氏は、被害者感情にこそ問題があると考えるのですね。
誰かのせいで自分がこうなった。この被害者感情こそが、犯罪の温床になっていると言えるかもしれませんね。自分も悪いけど、相手はもっと悪い、というような善悪の比較も同じです。人はみな、そんな風に考えます。子どもの頃のケンカで、どっちが先に手を出したかを言い合ったことを思い出しました。
私たちは、犯罪者を絶対的な「悪」に仕立て上げます。そうしないと叩けないからです。そして、絶対的な「悪」だからこそ、その家族も「悪」だとみなすことが正当化されます。
「事件の後、大橋一家は店で食料を売ってもらえなくなったり、子どもたちが登校を拒否されたりと村中からひどく迫害された。一家は明日の米にも事欠き、子どもまで餓死寸前の状態に追い込まれていた。一審の途中で現場検証のために村を訪れた裁判長は、一家が置かれている状態を知って心を痛めた。」(p.152)
いったい、どっちが犯罪者なのかと言いたくなります。オウムの時もそうでした。地方自治体が受け入れ拒否をしましたよね。犯罪者の家族だというだけで。これが、また次の犯罪の温床になっていくと言うのに。
「自分の右手の障害を罵られて殺人に及んだ大橋の場合もそうだが、死刑囚自身の心の奥底に燃え続ける怨みの炎を消さないことには、平穏はやってこない。自分が被害者であり続ける限り、自ら手にかけた被害者に思いを馳せることなど出来るはずもない。そんな心の状態に「処刑」という形でしかピリオドを打つことが出来ないのだとしたら、あまりに不憫だ。せめて誰を怨むことなく静かな心境で逝かせたい。渡邉は、それが自分の仕事だと思った。」(p.180)
死刑という制度は、犯罪撲滅には何の役にも立たない。私はそう思っています。本当は犯罪を犯さなくてもよかったのだと気づくこと、その心境に、犯罪を犯す前に至ることができることでしか、犯罪は防止できないのです。
「世間を騒がす死刑事件が起きると、マスコミは繰り返し報道する。もう「死刑」という言葉を聞かされても、すっかり耳が慣れてしまって今更驚くこともない。しかし、実際の執行現場のことになると、人々はまるで自分には無関係とばかりに考えることを放棄してしまう、と渡邉は言った。」(p.250)
法務省が情報を出したがらないこともあるが、その気持ちはわかると渡邉氏は言います。それだけ重苦しい場だからです。
この後、堀川さんは旧約聖書にある石打ちの刑に言及します。野蛮な刑のようにも思えますが、死刑判決に加わった人から順に石を投げつけなければならないのだそうです。もし、自分が石を投げつける場面を想像したら、そう簡単に死刑判決をくだすことはできないでしょう。それでも死刑にすべきと思えた時だけ、死刑になるのです。そして、死刑執行の重苦しさを社会で共有したのです。
先進国の中で、死刑制度を維持しているのは日本だけになりました。人の命の重さを訴える一方で、国家が人を殺すことを正当化する。その矛盾に気づかないのが、今の日本だと思います。そして、実際に死刑囚に関わらざるを得ない人たちの苦悩に対する思い遣りも持たない。
死刑が犯罪抑止に役立たないことは明らかです。この本の中で問われているように、重要なのは、犯罪者が犯罪を行う心理です。その心に寄り添い、被害者意識を取り払わなければ、犯罪はなくなりません。
他人に対してひどいことをしても平気なのは、自分がひどいことをされたと思っているからです。その被害者意識こそが、犯罪を抑止するカギであり、死刑廃止のカギではないかと思うのです。
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