2019年07月05日
日韓がタブーにする半島の歴史
韓国の歴史、および日本との関係について興味を持っていたので買った本です。随分前に買ったものですが、やっと読んでみました。
こういう歴史の真実を暴くような内容はけっこう好きなので、何がどう間違っていたのか興味津々でした。著者は室谷克実(むろたに・かつみ)氏。時事通信の記者や雑誌の編集長をされてこられた方です。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「例えば、半島に伝わる最古の正史(官撰の歴史書)である『三国史記(サムグクサギ』には、列島から流れてきた脱解(タレ)という名の賢者が長い間、新羅の国を実質的に取り仕切り、彼が四代目の王位に即(つ)くと、倭人を大輔(テーポ)(総理大臣に該当)に任命したとある。その後、脱解の子孫からは七人が新羅の王位に即き、一方で倭国(ウェグク)と戦いながらも新羅の基礎をつくっていったことが記載されているのだ。
くれぐれも誤解がないように確認しておく。『古事記』『日本書紀』など、日本の古史書の記述内容を、国粋主義的な視点から解析していけば、そういう結論になると言うのではない。
半島で、半島の史官が、半島の王の命令を受け、半島の王朝と人民のために編纂した半島の正史に、そうした内容が書いてあるのだ。」(p.13)
この本では、高度な文明を持った半島から列島(日本)へ文明が渡ってきたという歴史解釈は間違いで、真実は高度な文明を持った列島から半島へ文明が渡った、ということが示されています。
その最初の証拠として、半島には様々な人々が暮らしていて、特に南部は倭人が多く住んでおり、その倭人、脱解が新羅王国の国王になり、行政のトップにも倭人を採用したことで、高度な政治体制を構築したとしています。
「DNA分析が示す科学的事実。そして『三国史記』に僅かながらも示されている半島内部の農業史、さらには中国史書を併せ読めば、新羅人や百済人、あるいは高句麗人は、とても倭人に稲作・米作りを伝授したり、農業を指導したりするような立場ではなかったと判断するのが妥当なのではないのか。
韓族が倭人に稲作をはじめとする農業を教えたのなら、日本の農業関係用語には韓語に似た語彙がたくさんあって然るべきだが、私が知る限り全く存在しない。」(p.73)
詳細は本を読んでいただくとして、ここでは様々な観点から、列島(日本)で稲作が行われていたころ、半島では粟や稗を常食していたと結論づけます。
後でも出てくるのですが、半島から列島へ文明が渡ったとか、韓人が倭人に教えたという歴史観は、根拠が示されていないことがほとんどのようです。最初に結論ありきで、精緻な調査も行わず作り上げられたもののように思います。
「『隋書・百済伝』は、百済の民族構成について「新羅、高句麗、倭人などが混ざっており、中国人もいる」と伝えている。もとより、新羅の南方にある倭地でも多数派は韓族であり、海を渡った倭本国にも韓族は少数だろうがいた筈だ。
しかし、国と国は対立していても、それぞれの国内では民族間に大きな対立はなく、混血が進んでいたのだ。」(p.117)
半島に倭人が多くいても、混血が進んだこともあり、アイデンティティは倭国ではなく、自分が属する国にあったとみられています。ですから政治的に重要なポジションに倭人が据えられたりもしたし、倭種の王が倭国を攻めようと提案したりもしたのだと言います。
「乙支文徳の「降伏」は、いわば出先司令官による口頭の申し入れだった。しかし、六一四年のそれは、国家として国書をもってする正式な降伏申し入れだ。それすらも、時間稼ぎのための方便に過ぎなかったのだ。
核問題に関する北朝鮮の対応を見よう。国家として発した声明も、公式の場で署名した国際協定も守らない。」(p.128)
高句麗の乙支文徳は、随から責められると敗走を続け、最後には降伏するから軍を引いてくれと騙し、引き上げ兵の背後から追走するという作戦で大群の随を破りました。
614年も同様ですが、王は国書を送って降伏を願い出ます。その時の随行員が「弩(いしゆみ)」を隠し持っていて、船中で随の煬帝が国書を読んでいる時に、その弩で撃ったのです。
これって、ある意味でテロですよね。たとえば第二次大戦の停戦条約を結ぶためにやってきた連合国の代表を、ピストルで撃ち殺したり、あるいは人質にとったりするのと同じ行為です。
室谷氏は北朝鮮の対応と比較していますが、最近の韓国の対応も同様かと思います。自分たちの利益のためなら国際協定さえ平気で反故にする。同じ文化が続いているのではないでしょうか。
室谷氏は、2008年北京五輪に向けての野球アジア地区予選での、韓国チームの紳士協定違反の例も取り上げています。野球のルールではなく、紳士協定ですからマナーです。そのマナーを破ったばかりが、それに抗議した星野仙一監督に対し、韓国の保守系新聞の「朝鮮日報」は、非は無知だった星野監督にあると断じたのです。
まさに、騙し討ちは当然という文化を持っていると言えるでしょう。サッカーでのスポーツマン精神のなさも、そういう文化的背景があるように思います。
他にも「献女外交」の文化も書かれていました。女性を貢いで歓心を買おうとしたのですね。中国の皇帝から、可愛そうだからと送り返されたり、献女を禁じるという勅令が出ても、なお続いた文化のようです。事実、朝鮮戦争の時は、米軍に対して女性を貢いでいますからね。
自分たちが女性を貢ぐという文化を持っているから、他国も同様に違いない。そういう思い込みがあるのでしょう。それが今の、慰安婦問題につながっている気がします。
他に、日本の大学教授が、根拠もなく半島から列島へ文化が渡ってきたという考えを示し、その権威のためか、その教授の考えが広まったということも書かれていました。
さもありなん、ですね。そしてこれは、慰安婦問題も、竹島問題も、同様であるように思います。誰か権威が、根拠もなくこうだったと決めつける。それを散々に喧伝することで真実であるかのようにしてしまう。
そういうことがよくあるのが、こういう歴史の世界なのだと思います。
だからこそ、私たちは権威ある人の言葉を鵜呑みにしてはならないと思うのです。
もちろん、この本の内容も、真実かどうかはまだ何とも言えません。
しかし、このように根拠を示しつつ論を展開しているなら、その根拠の事実認定がおかしいのか、他に隠された事実があるのか、論の展開が無理筋なのか、などの点で反論ができるはずです。
そういう論理的な議論がなされていくなら、いずれ真実にたどり着くでしょう。
そういう意味で、歴史の解釈に一石を投じる本だと思いました。
2019年07月14日
比叡山延暦寺はなぜ6大宗派の開祖を生んだのか
これもかなり前に買った本ですが、ずっと積読してました。おそらく親鸞について興味を持っていたころに買った本だと思います。著者は宗教学者で作家の島田裕巳(しまだ・ひろみ)氏です。
本のタイトルにもあるように、この時代は次々と新興宗教が起こりました。そしてそのほとんどが、最澄が作った天台宗の比叡山から生まれたことになります。同時期に空海が作った真言宗もあったのに、そちらからは1つも新宗派が起こっていない。それも不思議な事だなぁと思って、興味を持ったのでした。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「こうした点からすると、空海はまさに当時の超エリートであったことになる。その証拠に、唐から帰国した空海は、嵯峨天皇と親交を結んでいる。それは、嵯峨天皇が空海の書を高く評価したからではあるが、空海がエリートでなければ、天皇と親しく交わるなどとでも不可能だろう。」(p.35)
空海は最澄とよく比較されますが、最澄がエリートなのに対し、空海は一般人だとされるのが定説です。しかし島田氏は、唐へ私費留学できるだけの資金を集められたことや、空海の書のお手本が高貴な人しか所有していなかったことなどをあげて、空海の方が最澄よりもエリートではなかったかと言うのです。
「天台宗の立場は、徹底した平等主義であり、その点は高く評価することができるが、そうなると、一切の修行は必要ないということになる。さらに、誰もが究極的に悟りに達することができるのであれば、悪をなそうと、善をなそうと、どちらでも構わないということになってしまう。」(p.49)
天台宗は大乗仏教として、出家も在家も関係なく誰もが悟りを得られるという立場です。一方、法相宗というのは部派仏教(上座部仏教)の考え方が強く、人には能力の違いがあり、誰もが悟りに達するわけではないという考え方です。最澄は、法相宗の徳一と、激しく論争したそうです。
しかしその一方で最澄は、比叡山を修行の山として、厳しい修行を課しました。一方で出家も在家も同じだと言いながら、なぜ出家に厳しい修行が必要なのか? その疑問に最澄は答えていないようです。
「源信が、地獄を凄惨なものとして描いたのは、それを読む者に地獄の恐ろしさを強く印象づけ、そこから逃れるため、極楽往生への信仰を実践するよう促すためだった。これは、他の宗教における天国についても言えることだが、理想の世界として極楽を描き出すことはかえって難しい。それに比較すれば、地獄の描写はたやすい。源信は、それを徹底したのである。」(p.86)
天台宗の高僧の源信は、極楽往生を果たすためのマニュアルという位置づけの「往生要集」を書き、そこに極楽や地獄の様子を詳細に記しているそうです。特に地獄の描写がより詳細になっており、これが後の地獄絵となっていくのです。
ここにも書かれているように、それは信仰を促すための方便と言えるでしょう。しかし、脅すことで自分が正しいと思う考え方(信仰)を選ばせるというやり方は、感心できませんけどね。
「親鸞の実像というものを追っていくと、なかなか真実にたどりつくことができない。そこにもどかしさを感じる。一般には真実と見なされていることでも、根拠のあやふやなものが少なくないのだ。」(p.139)
浄土宗の法然の高弟と思われている親鸞ですが、どうもそうではないらしいと島田氏は言います。親鸞が残した著書には、法然の高弟にしか許されなかった「専択本願念仏集」の書写を許されたと述べたり、法然の真影(肖像)を写すことも許されたとしているのに、法然側の資料にはそのことが書かれていないそうです。
「そこから、道元は日本の曹洞宗の宗祖となっていくのだが、本人には、曹洞宗を開くという意思もなければ、その自覚もなかった。
(中略)
これは、他の鎌倉新仏教の宗祖全般に共通することである。法然には浄土宗という新たな宗派を開く意図はなかった。南都北嶺の側から、それを意図しているという批判を受けたときには、まっこうから否定している。法然を信奉した親鸞の場合にも、浄土真宗を開こうという意図はなかった。彼は「浄土真宗」という言い方をしているものの、それは師である法然の教えを受け継ぐ流れのことをさしていた。
日蓮も、天台智(てんだいちぎ)や最澄に忠実であろうとした。後世に自分の名を冠した日蓮宗が生まれるとは、生前想像もしなかったに違いない。生涯を旅に費やした一遍ともなれば、宗派の創立など思いもよらないことである。」(p.153 - 154)
誰もが宗祖を目指したわけではない、という指摘は驚きです。最澄や空海とは、まったく違うのですね。
これもあらゆる教義を学ぶことを重視した天台宗が元にあるからと言えます。その中で、自分がこれだと思う道に専念するようになると、それが1つの宗派となったのかもしれません。
「旧仏教のなかには、南都六宗や天台宗、そして真言宗が含まれる。そこでは、それぞれの宗派の教えをもっぱら学ぶのではなく、「兼修」ということが一般的だった。天台宗と真言宗が誕生するまでは、六宗兼学が基本で、この二つの宗派が生まれてからは、八宗兼学が基本的なあり方になった。
これに対して、鎌倉新仏教では、兼修、兼学ということを否定し、宗祖が開いた一つの道をもっぱら追い求めていくように変化したとされている。」(p.155)
道元は純粋禅、法然は専修念仏、親鸞はその教えをさらに深化させ、一遍は踊り念仏を広めた。日蓮は、天台宗で最高の経典とされた法華経に特化し、念仏を否定した。このように、新しい宗派は、そもそもそれまでの宗派にあった教えの一部に特化しているのです。
「書状のなかには、息子を失った母親の悲嘆を慰める、こころのこもったものもあり、そこにあらわれた日蓮の姿は、戦闘的な宗教家という一般的なイメージとはかけ離れている。また、見延期に書かれた激烈な他宗教批判の文章とも違う。日蓮はかなり多面的な人物であったと考えられるのである。」(p.188)
こういうことを知らされると、今まで思い込みで「この人はこういう人だ」と決めつけていたことが、実はそうではなかったかもしれないと思います。
親鸞もそうでしたが、昔のことになると知られていないことが多々あります。現在の人であっても、報道によって部分的に切り取られた面だけを知るだけで、全面的ではないのです。
「『一遍聖絵』では、踊り念仏は、平安時代に京の巷で念仏信仰を広めた空也に遡るとされているが、空也が踊り念仏の興行を行った記録はない。あるいは、空也以外にそうした実践を行った人物がいて、一遍はそれにならったのかもしれない。
『一遍聖絵』では、踊り念仏の意義は、『無量寿経』に、釈迦に出会った者が、「踊躍して大いに歓喜す」と記されていることに求めている。」(p.199)
一遍は比叡山で修行していないそうですが、法然の専修念仏の教えを広めようとして、踊り念仏というスタイルを広めていったようです。
「だが、最澄は、あらゆる衆生が救われる、仏性を備えていると主張しながら、比叡山の僧侶に対しては、厳しい修行の実践を求めた。それは、全体として考えれば、極めて矛盾した試みでもあった。後に道元は、その問題にぶちあたり、それが比叡山を降りることに結びついた。道元以外の宗祖たちも、やはり同じ問題に直面したはずであり、それぞれが独自な道を確立することで、間接的な形でその問いに答えようとしたと言える。そこに、最澄が決して夢見てはいなかった、各宗派の独立という事態が起ったのである。
比叡山から、各宗派の宗祖が生まれたのは、たんにそこが仏法の総合大学だったからではない。最澄の思想と実践に根本的な矛盾があり、その矛盾が新たな試みを求めることで、新宗派が生まれていったのである。」(p.215)
すでに上で引用したように、最澄が持ち込んだ天台宗の矛盾から、後の宗祖たちがそれぞれに考えた結果、新しい宗派になったということですね。
鎌倉新仏教が、どうして天台宗から生まれたのかという考察は、なかなか興味深いものでした。
ただ、宗祖が新宗派を作ろうとしたわけではないのに、後にそれが新宗派になった理由については、ほとんど考察されていないのが残念ですね。
2019年07月18日
宇宙人タマの「魔法の教室」
Facebookで知ったタマちゃんこと奥田珠紀(おくだ・たまき)さん。「魔法の教室」というヒプノセラビーを使った自己実現(成功)方法を伝えておられます。
タマちゃんは、つい数年前は生活保護を受けるくらいどん底で、電気代を支払うお金もないくらい追いつめられたことが多々あると、Facebookでも言われていました。
4人の子どものうちの2人に障害があり、ご主人もアスペルガー。そんなマイナスの状況をくぐり抜けて、今は月に5日しか働かず、月収が数千万円に。
こんな破天荒なタマちゃんですから、「いったいどんな人生を過ごしてきたのだろう?」「どうやってV字回復したんだろう?」って気になる人も多いでしょう。私もそうです。
ですから、タマちゃんが初めて本を書いたというので、さっそく購入したというわけです。期待に違わぬ素晴らしい内容でしたよ。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「両手を広げて宇宙のエネルギーを取り入れて、静かに息を吐きながら、手のひらに意識を向け、両手を合わせます。すると、手のひらからエネルギーが出ているような温かな感じがします。少しずつ隙間を開け、お団子やおむすびを作るように、そのエネルギーを丸めます。手のひらの間に空気の圧を感じます。エネルギーの塊です。ゆっくり、ていねいに、そのエネルギーを練っていると、まるでゴムボールを手にもっているように感じます。
上手にできると、宇宙のお母さんはほめてくれました。」(p.23)
タマちゃんは、子どもの頃から他の人に見えないものが見えたり、聞こえたりしたそうです。動物と話をしたり、精霊と遊んだり。また、「宇宙のお母さん」と呼ぶ大きなエネルギーがあり、何でも教えてくれたそうです。
ここは「気の塊」の作り方を教わったエピソードですが、気功でよくやることですね。私は気功はやりませんが、レイキをやるようになってからは、より簡単にこれができるようになりました。
タマちゃんは、この「気の塊」を身体の弱っている人に入れてあげるよう宇宙のお母さんから言われて、そうすると体の具合が良くなったのだそうです。
「いろんな「物」とも会話をしていました。「どうして物と話ができるの?」とよく尋ねられましたが、その人たちには、精霊や動物たちと話すより、もっと異様に感じられたようです。
でもね、物にだって心もあるし、性格もあって、いろいろなことを話したり訴えてきます。荒っぽく扱われると嫌な気分になるし、大事にしてもらえればうれしがります。人間と同じ。だから、タマは物を大切に扱います。」(p.27)
物にも心(精神)があるというのは、「神との対話」でも言っています。タマちゃんは、なくし物があると、その物に尋ねてみるそうです。すると、その物が教えてくれるのだとか。そうやって、お母さんのメガネを見つけたというエピソードが載っています。
「その赤ちゃんもだんだん年を重ね、人生の晩年を迎えて、またオムツを換えてもらう立場になりました。その様子を空からお母さんが見ていたら……と、タマは思うのです。
「大切に、ていねいに……」と思っているはずです。
そんなお母さんの思いをタマは引き継いで、今、このおじいちゃん、おばあちゃんのオムツを換えています。お母さんの肉体はなくなっても、思いは残っています。その思いを裏切らないようにしよう。タマはそう自分に言い聞かせていました。」(p.63)
いろいろな職業を経験されたタマちゃんですが、老人ホームでの介護は天職だと思ったそうです。こういう思いで介護してくれる人がいたら、受ける側も気持ちいいでしょうね。
「ホームのみなさんにとってはこれが毎日なのです。何でも体験してみることで、見方や考え方、動き方が違ってきます。タマは、オムツを換えるときの気持ちがガラリと変わりました。」(p.65)
介護の仕事をしていた時、先輩から紙オムツを渡され、それを履いて2回おしっこをするという宿題を出されたそうです。
しかし、大丈夫だとわかっていてもなかなかできません。1回目は便座に座ることでなんとかできました。けれども、それを取り替えることなく、もう1回するという経験は、とても快適なものではなかったそうです。
こういうことも、体験してみなければわからないのです。わかった気になるのではなく、何でも体験してみる。それが何にも増して重要なことなのですね。
「そのおじいちゃん、骨折なんてウソみたいに、すいすい歩いていました。あちこち歩き回っても痛みも出ないし、普通の生活ができるのです。唖然とするしかありませんでした。思い込みは現実にまさることをまざまざと見せつけられました。」(p.70)
骨折しているから安静にしてとタマちゃんが言っても、そのおじいちゃんは骨など折ってないと言い張るので、タマちゃんも半ばキレて好きにさせたのだそうです。
このことからタマちゃんは、思い込みを上手に使えば、とんでもなく可能性が広がると思ったそうです。
「精神病院へ入院されている方はだれもが深い悲しみ、つらさを抱えています。だからと言って、うつむいているばかりでは前へ進めません。どんな状況に置かれても、人はユーモアを忘れてはいけないと、タマは思うのです。」(p.79)
精神病院で助手の仕事をしていたころ、薬を飲んでもらうのが大変だったそうです。美味しくもないし、量も多いし、病気を感じさせられるからでしょうか。
そこでタマちゃんは、苦痛にならずに薬を飲んでもらう方法を考えたのだそうです。それは、「はい、これは肌が10倍若返るお薬です」などと言って薬を渡すこと。「飲まなければいけない」から「それなら飲んでみようか」と主体的になるのだとか。
もちろんそれはウソだし、冗談なのですが、そういうことがあるかもしれないとも思えます。だから、ウソと知っていても話に乗ってみようかと思う。そこに笑いが生まれるのですね。
絶望は苦痛をもたらしますが、希望は喜びをもたらします。状況は同じでも、見方によって笑いに変えられるのです。
「やっぱりタマは地球の常識の中で生きていてはいけないのです。酸素不足で、息が詰まっていました。タマは開き直りました。子どもだったころの不思議な女の子タマに戻ろう。
そう決心することで、どんどん人とお金が集まってきたのです。」(p.115)
2、3年ほど前、オール電化の家なのに電気代が払えず、電気を止められる危機があったそうです。そんな時、タマちゃんは自分らしくない生き方をしていたと気付き、開き直ったのですね。
「タマだからできたことではありません。だれもが、自分らしく生きれば豊かになれるようにこの世はできている、とタマは思っています。それが証拠に、タマの「魔法の教室」を受講した人たちが、自分らしく楽しく生きて、あらゆる面で豊かに暮らせるようになっています。」(p.115 - 116)
タマちゃんは、これは何もタマちゃんだけが特別なのではなく、みんな同じなのだと言います。自分らしく生きるようにすれば、すべてが上手く回りだすのだと。
「バリ島の人たちは、どんなことが起ころうが、すべてのことは神さまが自分のために与えてくれたことだからありがたい、と考えるんだ。なのにタマは、会えたら良くて、会えなかったら損……と考えていた。だからシャーマンさまが留守だとがっかりし、連絡が取れないとやきもきしていたんだ。」(p.138)
タマちゃんの転機になったバリ島のシャーマンに会った時のタマちゃんの気付きです。お金もないのに無理して会いに行ったのに、最初は留守で会えなかったのですね。
シャーマンからは、神さまがタマちゃんのことをかわいいと言っているのがわかるだろう、と言われたそうです。
「タマのことを、懐かしい、愛しい、かわいいと思ってくださっている神さまを感じました。
「何でもお願いするといいよ。神さまは叶えてあげたくて仕方ないのだから」
うれしくなりました。そうなんだ……こうやってタマはずっと守られて生きてきたんだ、というそんな想いが、深いところから湧いてきました。」(p.138)
神は愛そのものなのですね。愛は無条件ですから、ありのままの「私」を受け入れ、それでよいと言い、かわいくて仕方ないという思いで見守っている。だから、安心していていいのです。
たとえ自分にとって不都合と思える出来事があったとしても、それすら神からの愛を込めた贈り物。そう考えれば、思い通りにしようという執着がなくなります。
「バリで受け取ったギフトは次の3つでした。
◎ネガティブなエネルギーなんて捨てなさい。
あんたは、本来、もっと天真爛漫なんだよ。
◎損得で物事を測らないこと。
◎今すでに与えられている、そのことに気づきなさい。」(p.139 - 140)
今すでに完璧である。そのことに気付くだけで豊かで幸せになれるのです。
「不思議な宇宙人のような少女に始まり、奔放に生き、大人になって窮屈な生活をするというステップを踏みながら、たくさんの知恵をもらいました。そのおかげで、顕在意識と潜在意識のバランスがとても良くなったのだと思います。
その中で、「豊かに生きるにはどうしたらいいか」というノウハウを手に入れたのです。これを世の中に伝えていけば、たくさんの人が豊かに生きていけるはずです。タマが「魔法の教室」をスタートさせたのは、それをみんなに伝えていきたいと思ったからです。」(p.155)
いつしか世間体を気にするようになり、自分らしく生きなくなったタマちゃん。だから生きづらくなったのだと言います。
でも、そういうどん底を経験することで、より上手く自分らしく生きられる方法を身につけたのですね。それをタマちゃんは教えているのです。
「私たちがウニヒピリの言うとおりに動くと決めたら、ウハネはそれに従って、「どうすれば実現するか」という現実面をサポートします。チケットを取ったり、現地に連絡をしたり、スケジュールを決めるのはウハネの仕事です。
ウハネのもっとも大切な役割は、ウニヒピリの思いをどうしたら実現できるかを考え、行動することです。ふとしたときに思い浮かぶアイデアやインスピレーションは、ウニヒピリからのメッセージです。大きなチャンスです。「そんなの無理」と決めつけないで、どうしたらそれを形にできるだろうかと考え、行動すると、面白いようにいいことが次々と起こります。自分が「やる」と決心すれば、ウニヒピリは全力で働いて方向性を決め、ウハネが具体的な方法を見つけ出すという仕組みになっているのだと思います。」(p.189)
ウハネは顕在意識、ウニヒピリは潜在意識のことです。ホ・オポノポノの言葉を借用しているそうです。
直感にしたがって、まずは「やる」と決め、方法は後からじっくり考える。その方法さえも、直感で与えられます。
「母なる宇宙は、私たち一人ひとりに対して、すべての生命に対して、「幸せに生きてほしい」という気持ちでいてくれるのです。やさしく抱っこして、愛を注いで、寒ければ温かく、暑ければ涼しくしてくれます。
そんな「宇宙の想い」に抱かれて、私たちは生きています。不安や不満、不足、不信なんて必要ないのです。安らかで満ち足りた気持ちで宇宙を信じて、身を委ねればいいのです。そうすれば必ず、自分にとってもっともいいところへ、宇宙は導いてくれるのだろ思います。」(p.196 - 197)
赤ちゃんを胸に抱いて思うことは、誰もがみな「幸せになってほしい」「寒さから守ってあげたい」のように思うとタマちゃんは言います。なぜなら、それが「宇宙の想い」なのだからと。
「神との対話」でも同じことを言っていますね。この世に存在するのは「存在のすべて」であり、それは「愛」であるのだと。だから、私たちも「愛」そのものであり、それが本能として現れるのです。
タマちゃんの語る理論は、他でも多くの人が言っていることです。ただそれを、ヒプノセラビーを使うことで実現しようとする手法は、タマちゃんの個性なのでしょうね。
でも、本質的には「神との対話」で語られていることと同じことをタマちゃんも言っていると思いました。
この世は「愛」そのものです。だから、安心していていいのです。
2019年07月26日
キラッキラの君になるために
「ビリギャル」こと小林さやかさんが、バンコクで講演をされたことを知ったのは、Facebookの友人の投稿でした。
「そうだったんだ〜、行きたかったなぁ。」とても落胆しました。「どうしてその情報が先に届かなかったんだろう?」そう思って、他人や環境を呪いそうになりましたが、考えを改めました。「きっと今は会うタイミングじゃないってことでしょう。すべては完璧だから。」
その友人の投稿で、さやかさんが本を出版されたことを知りました。これは読まずにはおけない。すぐにネットで注文し、実家に届けてもらい、先日の一時帰国の時に受け取ったのです。
「ビリギャル」とは、さやかさんを導いた塾講師の坪田信貴さんが書かれた「学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話」という本のタイトルを省略したものです。それが転じて、さやかさんのことをそう呼ぶようになりました。
また、さやかさんのお母さん、ああちゃんが書かれた「ダメ親と呼ばれても学年ビリの3人の子を信じてどん底家族を再生させた母の話」という本もあり、こちらは「ダメ親」と省略されます。
映画化されて有名になっていたことで興味を持った「ビリギャル」。その本を読んでああちゃんの子育てに感銘を受けて読んだ「ダメ親」。どちらも素晴らしい本でした。そして今度は、当事者のさやかさんが本を書かれたのです。読む前から良い本に違いないと確信していましたが、実際そうでした。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「でも、高校2年のとき、弟の代わりに行った小さな塾の面談室で、ワクワクさせてくれるオトナにたまたま出会った。その人は、私の話をちゃんときいてくれる、初めてのオトナでした。その人が、「けいおう」っていう大学に、君みたいな子が行ったら、ドラマチックだよなあ、とうれしそうに、言ったんだ。」(p.17)
「ああちゃん(母)は全力で応援してくれたけど、くそじじい(父)や学校の先生たちはみんな、ふざけたこと言うなって、すっごくキレてた。でも、私は本気でした。だって、人生楽しくしたいんだもん。もっといろんな人に出会いたいし、広い世界に、出てみたい。」(p.17)
将来は適当に働いて、結婚して、子どもを産んで、平凡な家庭を持つのだろうと漠然と思っていたさやかさんは、坪田先生との出会いで人生が変わったのでした。
「私は、ついこの間、31歳になりました。そう、ビリギャルはもう結構オトナになっているのです。30年間生きてきて、皆さんに知っていただいているビリギャルストーリーは、間違いなく私の人生を大きく広げてくれるものにはなったけど、それでも、それは私の人生のほんの一部にすぎません。大学受験後、私の世界はどんなふうに広がったのか、それからまたどんな運命的な出会いがあって、その出会いは今の私にどう影響しているのか。振り返ってみると、すべてがつながっていて、すべてに意味があったように思います。」(p.19 - 20)
この本は、これまでの慶應大学合格までのストーリーではなく、その後のさやかさんの人生が書かれています。ビリギャルがどう成長したのか。私もそこに興味がありました。
「ビリギャルは、単なる受験の話じゃない。家族の愛の物語でも、あるのです。
どんな家族も、最初から完璧なわけじゃない。ちょっとずつ、成長していけばいいんだ、と私は私の家族に教えられました。」(p.22)
さやかさんの家族は、バラバラで崩壊していました。しかし、それが少しずつまとまっていく。互いに信頼し合い、愛し合う家族になる。それが、ビリギャルのその後の人生なのですね。
「でも、ああちゃんは毎日私にこうやって言うんです。「さやかちゃんは世界一幸せになれる子なのよ」って。
うん、そんな気がする。と物心ついたときからずっと自分でも思っていた。小さいときから母が呪文のように毎日私に言ってくれた言葉。」(p.26 - 27)
ああちゃんは、さやかさんのことを丸ごと受け入れ、支えてくれたのですね。だからさやかさんは、とても自己肯定感が高くなったようです。
「ああちゃんは、学校からの呼び出しは、チャンスだと思っていた(これは何年もあとに聞いた話なんだけど)。「さやかが、仮に何をしても、どんなことがあっても、ああちゃんはさやかの味方でいるよ」ってことを、私に知ってもらう、いいチャンスだと思っていた。」(p.41)
喫煙が見つかったさやかさん。普通なら、「何てことをしてくれるんだ!」と怒りが湧いてくるのに、ああちゃんはチャンスだと感じて、意気込んで学校に乗り込んだのです。
「ああちゃんは、命令文で人の行動を変えることはできない、ってことを知っていた。だから、「この子ならきっと、自分で気づいてくれるときが来るはず」と、ああちゃんは信じて待ってくれていた。」(p.41)
知っていてもあえて指摘せず、さやかさんがタバコを止めるのを待っていたああちゃん。ああちゃんは、本当に素晴らしい子育てをされていたのだと思います。
「それで唯一、子育てのモットーにしたこと。それは「ワクワクすることを、自分の力で見つけられる人になってほしい」ということだけだった。これだけで、いい。あとはなんにもいらない。そんな気持ちで、いたんだって。」(p.49)
子育てが上手く行かず、悩み、精神科に通っていたというああちゃん。それを途中で完璧な子育てを全部諦めて、たった1つのことだけを考えるようにしたそうです。だから、さやかさんが慶應へ行くと言って塾通いを決めた時、ああちゃんは大学に合格した時よりも喜んだそうです。
「長女はビリでギャルで素行不良で問題児。長男は野球頑張ってると思いきやヤンキーのパシリになった。次女は不登校らしい。一体なんていうひどい子育てをしたら3人ともあんなダメダメになるんだ? というまわりの目。
「お前が甘やかしすぎなんだろ」「子どもたちは被害者で、お前は加害者だ」「過保護だ」と、いろんな大人が母を責めました。
でも、何を言われても、「でも、あんないい子たち、いないと思いませんか?」と何だかふんわりした雰囲気の中に、何があっても揺るがない強い芯を持った母が、ああちゃんだった。
そんな母をたったひとり、肯定してくれていたのが、私の恩師であり、ビリギャルの著者、坪田信貴先生だった。
「お母さんの、信じきる子育ては、本当に素晴らしいです。必ず、3人とも自分の力で人生を切り開いていけるようになるはずです」。そんな坪田先生の言葉が、母にとっては支えだったのだ。」(p.63)
ああちゃんは坪田先生に御礼の手紙を書いたそうです。その返事のつもりで坪田先生は、さやかちゃんの受験勉強の話を短編小説風に書き、ああちゃんに贈ったそうです。それをネットに載せたところ大評判で、ビリギャル出版につながっていったのだとか。
それにしても、子どもを完全に信じきる子育て。素晴らしいなぁと思います。そして、その素晴らしさを理解していて、それを実践するオトナが2人出会った。これは奇跡とも言えます。
「ただ、やらされてできるものって、何もないよ、ってことが言いたいだけ。厳密にいうと、何かをやらされて、とても大きな成果を得られるケースってなかなかないってことが言いたい。
私の弟がいい例だ。彼は自分の意志で野球を頑張ってしてたわけではなかった。
もちろん、楽しかった時間も山ほどあったと思う。上手だったし成果も出していたし、無理やりイヤイヤやらされていたわけではない。でも、彼には意志を持つ、という余白がなかった。意志を確認されたり、そもそも「自分の意志」というものを意識したことすら、なかったんじゃないかと思う。」(p.68 - 69)
子どもに「勉強しなさい!」と命令するのは意味がないとさやかさんは言います。どんなに自分でやりたいからやっていると思い込もうとしても、やらされたという思いが残っている限り、それは上手くいかないのです。
「ワクワクする目標は、自分でしか決められない。人には、決められないものだ。だから、自分で決めなきゃいけない。なのに、どうやらまわりの大人は、特に「親」という生き物は、わが子を愛するあまり、心配するあまり、いろいろ口出ししたくなっちゃうものらしい。」(p.74)
順番で言えばいずれ親の方が先に死にます。それなのに、親が子どものレールを敷いてやるなんて、ナンセンスなのです。自分で考え、自分で道を見つけ、自分で進む人にならなければ、自分の幸せは得られないのですから。
「ビリギャルは奇跡の話なんかじゃない。分野は違えど、その子がワクワクできる場所でなら、絶対どんな子でも頑張れる。子どもたちの可能性の邪魔をしてほしくない。」(p.90)
地頭が良かったからさやかさんにはできたのだ、という声もあるようです。しかしさやかさんは、そうではないと言います。重要なのはワクワクするものを見つけることであり、そこで最高に頑張ることなのだと。
坪田先生は、「死ぬ気で何かを頑張るっていう経験をすること」が一生の宝になると言います。そういう経験があれば、どこへ行ってもやっていけるのだと。
私も、さやかさんほどではありませんが、新聞奨学生として4年間頑張ったという記憶が、私自身を支えてくれています。また、システムエンジニアとして月に250時間以上、最高で350時間の仕事をしたことも、私にとって宝物です。やらされてやったのではなく、自分でやることを選んでやったのですから。
「信じてくれる存在って、子どもたちにとっては必須だ。ひとりもそういう存在が近くにいない中で、大きな目標を持って、それに向かってひたむきに、だれにも応援されずに、頑張り続けるのは、結構きつい。私は全然無理だ。
すべての子どもたちに、1本だけでいいから、近くにピグマリオン効果の柱が立っていてくれますように。それだけで、子どもたちの人生は、大きく変わっちゃうから。まわりの大人の在り方って、子どもの人生変えちゃうんだ。」(p.113)
「お前には無理」というネガティブな見方をし、そういう言葉をかけ続ければ、子どもはしぼんでしまいます。これをゴーレム効果と言うのだとか。その逆がピグマリオン効果です。坪田先生とああちゃんは、さやかさんのピグマリオン効果の柱だったのです。
「坪田先生がしてくれたことは、「勉強を教える」ではなく、「私の能力を引き出す」ことだった。私は間違いなく、勉強が大嫌いだった。つまんないし、意味ない。やる必要性を感じられなかった。
でも先生は、勉強する意味と目的を「私に自分で」見つけさせてくれた。私は「自分で」決めて、「自分で」意志を持ち「自分で」行動に移すことができた。これを導いてくれたのは、坪田先生だ。」(p.129)
そうする意味や目的を、自分で見つけ、そうすると自分で決め、自分で行動に移す。そうすれば子どもは、勝手に頑張るのです。
「ああちゃんは、beingで毎日私たちを褒めちぎった。これも、私の自己肯定感を引き上げたああちゃんの魔法の言葉だ。」(p.133)
お手伝いをした(doing)とか、学年で1位を取った(having)で褒めると、自分でないものにならなければ褒めてもらえない(愛されない)と子どもは感じます。ああちゃんは、家に無事に帰ってきてくれてありがとうという思いでさやかさんを抱き締め、褒めたそうです。褒めるというより、「いてくれてありがとう」という感謝の想いでしょうね。
ただ、これまでそういうことをやってこなかった親が急に変わろうとしても、子どもに見透かされるとさやかさんは言います。そこで、「youメッセージ」から「Iメッセージ」に変えることを提案しています。「(あなたは)勉強しなさい!」ではなく、「(私は)あなたが勉強してほしいと思っています」のように、主語を「私」に変えるのです。これも、心理学でよく言われるテクニックですね。
「すると坪田先生は中身を見て、「これ、もいっかい持って」と私に封筒を返してきたのだった。いつも笑ってる先生の顔は、真剣だった。
「その重み、絶対に忘れるなよ。必ず、自分の力で二倍にして返せよ。君ならこの意味、わかるよね?」
その日から、私は塾で一睡もしなくなった。(それまでは、カラオケでオールしてそのまま塾行って、10分だけ、とか言って寝たりしていた)。1日15時間、気づいたら勉強してた、という状態になってきたのはこのころだったと思う。私は、浪人という道はないとそのとき気づいた。もう一度これをああちゃんに払わせるわけにはいかない。絶対に慶應に受かんなきゃいけない。そう気づいた私はスイッチがパチーーーンと入ったかのように、死に物狂いで勉強するようになった。」(p.147 - 148)
ああちゃんが何とか作ってくれた塾代を持って行った時のエピソードです。父親が反対したから、ああちゃんが自分で作ったのです。その苦労がわかるから、本気になったのですね。
「絶対に即決させられる自信あるのに。そう、私ってばやっぱり自己肯定感がスーパー高いので、根拠のない自信がいつだってあるのだった。」(p.176)
ウエディングプランナーの仕事を始めた時、研修としてロールプレイングをするのですが、それが苦手だったようです。本番なら絶対に上手くやれると思っていたとか。そして実際、本番ではいきなり、その場で契約を取る「即決」を決めました。
私は自己肯定感が低い方でしたから、さやかさんとは真逆です。ですから、こういうところは羨ましいなぁと思います。まあでも、それは人それぞれですから、私には私の課題があるのだと思っています。
「つらいなあ、って泣いてる私に、ああちゃんは言った。
さやちゃん、すごいね。さやかの人生ってわかりやすいなあ。さやちゃんがもっともっと幸せになるために、この経験は絶対に必要なことなんだよ。これには、どんな意味があるんだろうね? さやちゃんが最高に幸せになるために、この出来事はどうつながって、どんなお役目を果たしてくれるんだろうね? 大丈夫、大丈夫だよ、って。」(p.199)
さやかさんは、尊敬し愛した夫と離婚をしました。理由はよくわかりませんが、何かが食い違ったのでしょう。それにしても、ああちゃんの絶対的に信じる見方は素晴らしいです。
「命令文で相手の行動を変えることはできない。ああちゃんも、命令文を使わない人だった。優さんも、命令文を使わずに、恐ろしい速さで学校を変えている。いや、もはやいまの新陽高校は優さんが変えているんじゃない。先生たちが、生徒たちが学校を変えている。」(p.220)
学校が荒れて、入学する生徒も少なくなって、廃校になりそうだった新陽高校。そこにビジネス界から転身して校長になった荒井優さん。さやかさんは、荒井さんとの出会いによって、大きな影響を受けたと言います。
せめて挨拶をする生徒に変えようと、荒井さんも最初、いろいろ努力したそうです。しかし、まったく変わらなかった。ところが、掃除のおばちゃんと話をした時、生徒たちがちゃんと挨拶してくれるとおばちゃんが言うのです。荒井さんは全校集会で、おばちゃんが褒めていたことを話し、校長として誇らしいと言って生徒を褒めたのです。すると次の日から、生徒は自主的に挨拶するようになったのだとか。
変えようとしていた時は変わらず、受け入れたら変わったのですね。そして、自主的に変わるからこそ続くし、発展するのです。
「学校は「違う」を知れる場所だ。「違う」は悪いことじゃない。認め合うべきことだ。それが社会というんだと思う。自分以外をたくさん知って、なにが違うのかがわかってくると、自分のことがだんだんわかってくる。」(p.232)
学校に通うことの意義を、さやかさんはこのように言います。ただ勉強をする場ではない。ただ友だちを作る場ではない。それぞれが「違う」ということを知って、自分とは何かを知ることができる場なのだと。
「性教育は、命に関わる、一番大事な教育だ。教科書なんかじゃ、伝わらない。もっとちゃんと、大人が、リアルな声でまっすぐに、目をそらさずに向き合って、伝えるべきだと、そのとき思った。
性教育は、その下の世代にも、その下の世代にも連鎖する。性教育を怠ることは、まだ見ぬ子どもへの虐待と一緒だ。教育は愛だ。性教育は、子どもたちにとって絶対に必要な愛だと、思うんだ。」(p.246)
さやかさんが保健体育の時間に、性教育の授業をした時のエピソードが書かれています。性教育とは、命を大切にする教育なのだと、さやかさんは力説したようです。
「親だけで育てるなんてナンセンスだし、結構無理だ。みんなで、育てればいい。そっちのほうが100倍いい。だれかがだれかに責任を押し付けることもなく、だれかに依存することもなく、子どもたちにはたくさんのメンターがいて、お母さんやお父さんも自分の人生を存分に生きられて。そんなイケてる大人の背中を見て、子どもたちは勝手にいろいろなことに興味を持って、学んで、自分の足で歩いていく。広くて明るい世界にどんどん出ていくんだ。近くにそんな環境がある子どもって、超幸せだなあ、って妄想しています。
ビリギャルは奇跡なんかじゃない。ああちゃんが、自己肯定感という栄養満点でフッカフカの土を、長い時間かけてつくってくれた。そこに、坪田先生というワクワクさせてくれる大人との出会いが、種になって飢えられた。」(p.262)
さやかさんは、自分の能力が高かったから花開いたのではなく、周りの環境によって支えられたのだと言います。そして、その環境は自分で取りに行くこともできるのだから、けっきょくは自分次第なのだと。
自分で自分を諦めず、勇気を出して行動する。周りから応援してもらえる自分になれば、その環境が自分を育ててくれるのです。
さやかさんは、これからまだまだ大きくなろうとしておられるようですね。まだ30歳そこそこですから、人生はこれからです。さやかさんの、益々の成功を期待しています。そして、半生をシェアしてくださったことを、ありがたく思います。
2019年07月27日
幸せのコツ
荒川祐二(あらかわ・ゆうじ)さんの本を読みました。Facebookで多くの方が推奨されていたので興味を持ったのです。
サブタイトルには「大富豪 父の教え」とあります。荒川さんのお父様は、ラーメンチェーンで大きな財産を築かれた方のようですね。66歳の若さで、病気で亡くなられたようです。この本には、お父様が亡くなられる直前まで荒川さんに教えられたことなどが、ドキュメンタリー風に書かれています。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「「みんな意外に気付いてないけどな、自分自身にお金も幸せも運んでくるのは、実は全部『人』でな。お前も生きてるこの社会というものは、要は人の集合体でな。そんな人に愛されることが出来たなら、お金も成功も、それに繋がる縁も情報も、たくさん、たくさん、運ばれてくる。そのために必要な心構えが…」
「…おかげさまの心…」」(p.13)
荒川家では、毎月1日を「ご先祖様の日」と決め、家族みんなが集まって神仏とご先祖様に手を合わせて「ご挨拶」を行い、みんなで食卓を囲んでいたそうです。これはお父様が事業を始めて上手く行かなかった時、神仏を大切にすることを成功者から学んで始めたもので、それから事業が上手くいくようになったのだとか。
この「おかげさまの心」は、神仏やご先祖様から始まり、お客様や従業員へと広がっていきます。自分に関わるすべての人のお陰で今の自分があると思えば、自ずと感謝の気持ちが湧いてくるのです。
そして、こういう話をする人は多いが、それを聞いて実行に移す人は滅多にいないとも言われます。良い話や成功法則を聞いても、実践しなければ意味がないのです。
「本来はな、スタッフや従業員という存在は、遅刻もせずに、無断欠勤もせずにな、働いてくれるだけで、有り難いんや。経営者と言えども、俺もお前も、みんな人間。みんな未熟や。そんな未熟な自分なんかについてきてくれる。そう考えたら、それだけで有り難いと思えて、感謝の気持ちが湧いてけーへんか?」(p.60)
たしかにそうですね。私自身、会社経営に携わったことがあるので、自分の未熟さを痛感しています。
社員を思い通りに動かそうとしていました。ワンマンというほどひどくはなかったのですが、それでも最終的に「正しい」のは自分だという思いがあり、社員を従わせようとしていたのです。
社員には社員の都合があり、考え方がある。もし、それを受け入れていたら、最初に出てくるのは「お陰様で」という感謝の気持ちだったはず。そうならなかったということは、私自身が傲慢で未熟だったということなのです。
「すべて普段からの親の態度であり、言葉がけであり、『生き方』そのものである、ということや。だから親は自覚を持って、普段からその背中を、子どもに見せていかなければいけない」(p.66)
子どもが生まれた荒川さんに、お父様はこのような言葉をかけられたのですね。
子どもを育てる上で大切なことは、素直に真っ直ぐに育てること。きれいなものを見たら「きれい」と言える、親切にされれば「ありがとう」と言える、困った人がいればすぐに助けようとする。そういう心がある子どもに育てば、親がいなくなっても多くの人から愛され、助けられるから大丈夫なのだと。
そしてそういう素直な心を育てるには、まずは親自身がそのように生きて、その背中を見せることなのです。自分はできないがお前はやれ、みたいな命令(指示)では、子どもは育たないのです。
「いつの時代も、時代は常に動いていてな…。そんな中でもついついみんな、安定を求めて生きてしまうけどな…。安定を求めた先には、安定はなくて…。成長を求めた先にこそ、安定はある…。時代を常に生き抜いてきた人間というのは、そういう風に常に、最悪の未来を迎える覚悟の上で、最善の未来に変えていくための、行動をしてきた人間なんや。それも、実際に事が起きる、ずっと前の時から、ずっとな…」(p.78 - 79)
私たちは、時代の変化とともに翻弄されてきたとも言えます。最近ではバブルとその崩壊は、私たちに大きな影響を与えました。多くの人が、予想できていませんでした。ですから翻弄され、困ったことになったのです。
お父様は、最悪の未来を予想し、それを引き受ける覚悟をした上で、今、最善の生き方を選べと言われるのですね。
「祐二な…、人間は…成功することが…大事なんちゃうで…成長することが大事なんやで…。成長することが…出来たなら…、成功なんていくらでも…することが出来るから…。たくさんの…本を読んで…、たくさんの人と…会って、たくさんの経験をして…、たくさん笑い合える…そんな人生をな」(p.149)
お金も成功も、追い求めてはいけないのです。それらは、結果としてついてくるもの。ですから、困難とか失敗とかを恐れず、自分を成長させる道を選ぶことなのですね。
「次にな、『お金欲しい、お金欲しい』って、言うたらあかんで。逆に金に逃げられる。そうじゃなくてな、自分の行動の極意をしっかり持ってな、トキメキに従って、強くやっていかなあかん。」(p.177)
つまり、ワクワクすることを優先することですね。ワクワクというのは、今の自分にとって重要なことかどうかのセンサーです。世間の価値観に乗せられるのではなく、あくまでも自分の直観を信じること。それが大切なのですね。
他にもたくさんの「教え」が書かれています。どれもこれも、なるほどと思わされるものばかり。それはつまり、特別珍しい「教え」ではなく、他の多くの人も同じようなことを言われているということです。
しかし、重要なのは実践するかどうかでしたよね。私も実践したいと思います。成功するかどうか、得するかどうかという基準ではなく、ワクワクするかどうか、自分の成長につながると思えるかどうかという基準で、ものごとを選択したいと思うのです。
2019年07月30日
気象予報士のテラさんと、ぶち猫のテル
この本を読もうと思ったきっかけは、「みやちゅう」こと「みやざき中央新聞」の「人生には「晴れ」も「雨」も「風」もある」という社説(2791号 2019年6月3日付け)を読んだからです。水谷編集長が紹介されるこの本の内容に惹かれて、すぐに注文しました。
この社説で水谷編集長は、この本を読みながら「「雨」や「晴れ」、「風」や「雪」など、天気予報には欠かせないこれらの気象用語が、人生のいろんな風景と非常によくマッチすることに気が付いた」と言います。そして、この本の第一章を紹介して、次の言葉で締めくくっています。
「天気は、人間の意思では変えられないが、受け止め方は自由だ。そもそも天気には良いも悪いもないはず。「雨」や「晴れ」、「風」や「雪」などの自然現象は解釈ひとつで感じ方も見える風景も違ってくる。
だったら「追い風」とか「恵みの雨」みたいに、全部前向きに捉えて、自分の人生の風景に取り入れてみよう。」
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
まずこの本ですが、作者は志賀内泰弘(しがない・やすひろ)さんです。全6章からなる短編小説集で、それぞれの最初にねこまきさんのマンガが描かれています。また気象予報士の寺尾直樹(てらお・なおき)さんが監修され、天気予報についてのうんちくを示してくださっています。
登場人物は、気象予報士のテラさんと、彼が登場する天気予報番組を楽しみにしている居酒屋「てるてる坊主」のご主人と女将さん、そしてそこに引き取られたぶち猫のテルなど。それぞれでテラさんが語ることわざや名言と出来事が、登場人物の人生に影響を与えます。
「No rain, no rainbow」(p.31)
「ノー・レイン・ノー・レインボー。日本語で訳すと”雨がなければ虹は見られない”です」(p.31)
これは、社説でも紹介された第1章の物語に登場する名言ことわざです。ハワイの言葉ですが、ザーッと降るスコールの後、よく虹が見られるそうです。
震災のために家族を失い、住み慣れた土地から離れ、ついには頼みの夫も亡くなる。シングルマザーとなって懸命に働く真知子が主人公です。しかし、仕事は上手く行かず、それでも契約を取らなければと雨の日にずぶ濡れになりながら居酒屋にたどり着き、この言葉を聞いたのです。
けれども、この言葉を聞いても真知子の心は晴れません。にっちもさっちもいかない現実を生きている真知子にとって、気休めに過ぎないと感じたのです。しかし、ここから物語が急展開します。(どう展開するかは、本をお読みくださいね。)
「俺らは、あんたの人生まで変えてやることはできねぇ。お日様にもなれねぇ。きっと今は土砂降りの中にいるんだろう。でもな、傘の一つくれぇは差し掛けてやることはできる。どうでぇ、甘えてみないかい。」(p.39)
永遠に雨が続くわけではないのです。だから、希望を捨てずにいること。どこかで誰かが必ず、救いの手を差し伸べてくれますから。
「「人間って、つくづく愚かな生き物ねぇ」
だってそうでしょ。お店に来るどのお客さんも、後悔と取り越し苦労の話ばっかりしているんだもの。ばっかじゃないのって思う。
だって、過ぎたことは変えられないじゃない。まだ来てもいない明日のこと考えても仕方ないじゃない。
でも、人間ってそういう動物らしい。あたいネコで良かったって、ホントに思うわ。」(p.82)
第3章の冒頭にあるぶち猫テルの独白です。たしかにネコからすれば、人間のやってることってバカバカしく感じるかもしれませんね。
「樹静かならんと欲すれども風止まず」(p.86)
テラさんは、「詩経」の言葉を取り上げます。人はいろいろなことを後悔し、普段は忘れているようでも何かの拍子に思い出し、心が揺れ動きます。そうなると、静めようとしても静まらず、心がざわつくのです。樹木は静かにしていようとしていても、風が吹いて葉がざわめき、止めることはできないのですね。
この章では、居酒屋の主人、勝男の人生が語られます。後悔に後悔を重ねてきた人生。ふだん明るくふるまっていても、人にはそれぞれ影の部分があるのです。
テラさんは番組の中で、自分の人生も後悔の連続だったと語ります。そして、この日紹介した名言ことわざには続きがあると言います。
「『樹静かならんと欲すれども風止まず』の後には続きの言葉があります。『子養はんと欲して親待たず』といいます。ことわざの、『孝行したい時分に親はなし』と同じ意味です。つまり、後悔しないように親孝行しなさいよ。という教えですね。」(p.109)
「後悔先に立たず」とも言いますが、やっておけば良かったという後悔は、ずっと心をざわつかせます。だから、今、できることを懸命にやることが大切なのです。後悔しないように。
でも、すでに起ってしまったことは、後悔し続けるしかないのでしょうか? テラさんは言います。
「でも、私はこう思うのです。過ぎたことは仕方がない。犯した罪は戻らない。それに甘んじて心の苦しみを背負って生きるしかない。だからこそ、今日という日を、後悔しないように生きよう。もう明日からは、後悔のない生き方をしよう。それこそが、恩を受けた人たちに対する、恩返しなのではないかと。」(p.110)
過去を取り戻すことはできません。いくら悔やんでも変えられません。今をどう生きるかだけが、私たちにできることです。
そうであれば、いつまでも悔やみ続ける生き方と、二度の同じことはすまいと決意して前向きに生きるのと、どっちが良いのでしょうか? 恩を受けた人、迷惑をかけた人は、どっちの生き方をしてくれと望むでしょうか?
どこかほのぼのとする短編小説ですが、生き方に深く切り込む鋭さがあります。
サブタイトルには「ココロがパーッと晴れる「いい話」」とありますが、読み終えたときの爽やかさは格別ですね。
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