2019年01月01日
車輪の上
「五体不満足」で有名になられた乙武洋匡(おとたけ・ひろただ)さんの小説家デビュー作を読みました。乙武さんは、不倫騒動で一時期、公の場から姿を消されました。その後、世界中を回られて、また新たな境地を得られたようです。
私は、不倫を理由にした世間の、乙武さんやベッキーさんなどへのバッシングは、まったくナンセンスだと思っています。正義を振りかざして他人を糾弾する行為は、愛の真逆ですから。ただ、そういうバッシングを受けたことで、乙武さんはさらにレベルアップされたようです。ピンチはチャンスなのですね。
この小説、最初は読もうと思っていませんでした。話題にはなっていましたが、それほど読みたいと思わなかったのです。ところが、話題になっているにも関わらず、増刷がかからないほど売れていないと、乙武さんが正直に告白されました。そのことに逆に興味を持ったので、読んでみることにしたのです。私は天の邪鬼ですからね。(笑)
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。と言ってもこれは小説ですから、あまりネタバレにならない範囲で引用します。また、私はKindle版で読んだので、ページを表示できません。Kindleの位置情報になりますので、ご承知おきください。
まずは、あらすじを紹介しましょう。
大卒後、就職できなかった車椅子の進平は、歌舞伎町でホストのヒデヨシに絡まれます。障害者だからホストになれないので、声を掛けないのだと主張するヒデヨシに、進平はやってもいないものをできないと決めつけるなと反発します。
売り言葉に買い言葉で、ホストクラブ「維新」へ行くことになった進平を、オーナーのリョーマはすぐに採用します。進平はシゲノブという源氏名をもらって、働くことになったのです。すぐにタイスケという新米ホストと仲良くなり、いろいろ助けてもらいながら、シゲノブのホスト生活がスタートします。
「「よかっ た ね、 車椅子 で。『 俺 は 車椅子 だ から』 って 言っ とけ ば、 みんな 同情 し て くれる し、 自分 でも 納得 できる もん ね」
「もう、 ええ で」
ヒートアップ する リナ を、 タイスケ が なだめる。
(言い訳 に 使っ て んじゃ ねえ よ、 バーカ)
入 店 初日 の 夜 に リョーマ から 言わ れ た 言葉 が、 二 ヵ月 ぶり に 蘇っ た。」(Kindle の位置No.697-701)
ホストとなって数ヶ月、なかな指名がもらえず悩むシゲノブは、タイスケの上客のリナに、どうすれば指名がもらえるかと悩みを打ち明けます。それに対してリナが放った言葉が、上記のものです。
車椅子姿の自分を、自分が哀れだと思っている。車椅子だからという理由をつけて、何でもできないことにしてしまっている。そのことにシゲノブは気付かされるのです。
「大学 時代 に 一度 だけ 彼女 が でき た こと が あっ た。 だが、 すぐ に 別れ た。 原因 は シゲ ノブ に あっ た。 自分 など 好か れる はず が ない、 相手 が 寄せ て くれ て いる のは 愛情 などでは なく、 同情 にも 似 た 想い なのでは ない だろ う かと 疑心暗鬼 に なっ て しまっ た の だ。」 (Kindle の位置No.1071-1073)
リナの友人として1回だけ来店したアヤと、シゲノブは親しくなっていきます。しかし、障害者であることで自信を持てないシゲノブは、アヤの気持ちを素直に受け取れなかったのです。
この小説には、進平の両親の話も出てきます。進平が障害者になったことで、障害者が生きやすい社会を作ろうとして、会社をやめて議員になった父。しかしその父も、進平がホストをすることは受け入れられませんでした。
「障害者」という見方によって、本人はもちろん、両親や友人、恋人も、様々な思いを抱きます。普通の人ではない。その思いによって、自分の中に抱えていた様々な信念があぶり出されていくのです。
そしてこの小説には、障害者だけでなくLGBTも登場します。同じなのです。「普通じゃない」という見方。それによって苦しむ人々。そしてその先に、本質を見出す人もいます。
この小説は、そういう登場人物の様々な思いが描かれています。どれが正解なのか、そんなことは書かれていません。それぞれに、それぞれの思いがあります。そして、それぞれに、それぞれの理由で苦しむのです。
自分ならどう考えるだろうか?
そう考えるきっかけになる小説だと思います。
2019年01月05日
津留さんが、心から伝えたかったこと。
前回紹介した「多くの人が、この本で変わった。」に続いて、津留晃一(つる・こういち)さんの本を読みました。津留さんの言われていることは、まさに「神との対話」で語られていることそのものです。それをまた、別の言い回しでわかりやすく説明してくれます。
この本では、個人セッションでのやり取りが取り上げられており、津留さんに質問して、その答えをもらっているかのような気分になれますね。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「それが多くの問題をつくり出しているようです。不真面目に、いい加減に生きている人というのは、私のもとに相談には来ないですね。その人たちには、問題がないからです。」(p.6)
冒頭で津留さんは、「悩みや苦しみの原因が、「きちんとしたい欲求」からきている」と分析しています。同じ現象でも、それを問題に感じる人もいれば、感じない人もいます。ですから問題は、「きちんとしなければ」「正しくあらねば」という思いが強い人が創り出して、自ら苦しんでいると言えるのです。
「問題が生じると、それをどう解決しようかと、皆さん解決方法を考えるわけですが、まず申し上げたいのは、問題は解決しようとしないことです。
もちろん「するな」とは言いませんが、解決しようとするよりも、自分がその問題を問題だと感じなくなりさえすれば、もう悩まなくてよくなります。」(p.10)
問題に対するアプローチを変えることを、津留さんは提案します。重要なのは問題そのものではなく、その問題を問題視している自分の考え方にある、と考えるからです。
「原因は、自分の中にあるマイナスのエネルギーですから、それを取ってしまえばいいのです。
取り方は簡単です。見たくない現象が起きたら、それをただジーっと見て、その中でいてください。
もし、イヤな気持ちが出てきたら、それを止めようとしないで、イヤな気持ちとともにいてください。その想いをしばらく味わっていると、自分の中に貯まっていたエネルギーは消えていきます。」(p.11)
「良い」「悪い」の価値判断をせずに、ただジーっと見つめること。嫌な感情は、そのままに感じ切ること。そうすれば、マイナスのエネルギーが消えていくと言います。これが、津留さんの問題に対する対処法なのです。
ただ、自分のことならそうもできますが、子どものことだと黙っていられない、と感じる人もいますよね。注意した方がいいのか、ただ黙って見守っている方がいいのかと、悩むこともあるでしょう。それについて津留さんはこう言います。
「子供に注意したほうがいいのか、しないほうがいいのか。それはどちらでもいいことなんです。どうしてかというと、そこで注意をしたら、注意した人の体験があり、注意された人の体験があるだけなのです。
その体験に「良い・悪い」はありません。ただその体験をしているだけです。」(p.15)
私たちが悩むのは、どっちが正しいかわからないから悩みます。でも、どっちが正しいということはない、というのが真実なのです。
「「悪い子になったら困る」という恐れから注意すると、それはうまくいきません。恐れの心から出た行動は、何にせようまくいかないのです。あなたの思いとは逆に、わがままな子になってしまいます。
でも、まったくとがめの思いがなく、「こうしなさい」って言えたのなら、子供はけっこう聞いてくれるものです。」(p.16)
高等テクニックとして、こういう方法があると津留さんは言います。つまり、動機が恐れ(不安)であれば、その恐れていることを引き寄せるからですね。しかし、このように子どもに伝えたからと言って、必ず子どもが言うことを聞くわけではありません。
「そのときに「それはそれでいい」って大人が受け取れるかどうかですね。言いたいことはどんどん言ってもいい。でも、結果を期待しないというのがポイントです。
言いたいことを言って、結果を期待しない気持ちになれるのは、「結果は、どちらでもいい」という場合だけなのです。」(p.17)
つまり、結果をコントロールしようとしている限り、特定の結果に執着している限り、不安からは逃れられないのです。津留さんは、そもそも自分には結果を生み出す力はなく、結果は神のみぞ知ると考えてみてはどうかと言います。そうすれば、結果を手放すことができるからです。
「この世界は、神が、「神ならざる者を体験する」ことを目的として創られています。
まず、神が神ならざる部分を体験し、より高き神へと帰っていく。そのプロセスが宇宙のしくみなのです。」(p.26 - 27)
まさに「神との対話」にある通りです。そして、体験にこそ意味があるのですから、その体験が「良い」か「悪い」かには、何の意味もないのです。すべてを体験したいのですから、どちらも体験したかった体験になりますからね。
「すべての人が、ブッダやマザー・テレサになって、「あがり」というわけではなくて、体験し残していることが、自殺だったら自殺を最後に還っていくし、教祖さまをやったことがない人は、やり残している教祖さまを体験してから還るのです。」(p.30)
神に還るのには1つの道ではなく、無数の道があります。そしてすべての道は神に通じているのですね。
「人は、「しなくてもいいこと」をするのだけが楽しいのです。
だから、「何をすればいいか」を発見するのではなく、「何をしなくてはいけないと思っているか」を見つけることが大切です。
そして、あなたが「仕事をしなくてもいい」と思えるかどうか、がポイントなのです。」(p.33)
「しなければならないこと」をやっても、そこにやりがいを感じないのですね。ですから、仕事にやりがいが感じられない人は、天職探しをするよりも、「仕事をしなくてもいい」のだと思えるかどうかが鍵になるのです。
現実的には、会社にボランティアで行っている、と考えてみてはどうかと津留さんは言います。働かされているのではなく、自分が好きで働きに行っているだけ。給料なんて、そもそももらう気もない、というつもりになってみることですね。
会社のマネジメントをしていると、思い通りにならなくて苦しむことがあります。まあ、私自身もそうでした。そんな人に、津留さんはこうアドバイスをします。
「今の彼に必要なことは、「無責任」になることです。ベストを尽くしてもできないものは、できなくてもいいのです。それなのに責任を取ろうとするところにストレスが生まれるのです。」(p.42)
たしかにそうなのでしょうが、現実的に何か対処しなければ大変なことになる、という状況で、それは難しいものがあるでしょうね。それに対して津留さんは、さらにこう言います。
「もし、信用を失ったとしたら、仕事が来なくなり、かえって楽になるのではないですか。」(p.42)
まあそういう見方もできますね。(笑)
津留さんは、力を抜くことで、かえって効率が上がって責任を果たせてしまうかもしれない、と言います。ただし、そういう効果を狙っていてはダメで、心から無責任でいいやと思えるかどうかが重要だと。これは私がいつも言うことですが、要は「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」ということなのです。
「ありとあらゆる体験をするために私たちが、この世界に来ているとしたら、納期に間に合うか否かは、宇宙に委ねていればいいことです。
委ねるとは「あれこれ考えないで、安心している」ということです。
重要な仕事ほど、自分(自我)がやるよりも、内側(内なる神)にやってもらいましょう。」(p.43)
これがまさに、「人事を尽くして天命を待つ」ということでしょう。自分の作業だけでなく、部下の作業についても、結果を心配してあれこれ口出しするのではなく、信頼して任せればいいのです。
「信用するとは、部下の仕事ぶりを信用するのではなく、宇宙を信用することなのです。部下が納期を遅らせたら、それが宇宙の望む姿であり、ベストのことなのだと、その結果を受け入れることが、部長さんの最大の仕事なのです。」(p.44)
結果を手放すとは、こういうことなのですね。宇宙への絶対的な信頼です。だって、目的は体験なのですから。宇宙が最適な体験を与えてくれるに決まっています。そう受け止めて、好き嫌いを言わないことが大切なのです。
「「私はこれまで何かを『成す』ことを目的としてきたが、これからは『体験』を目的としよう。起きてくることは、自分が体験したかったことなのだから」。
こう思えるようになって以来、私の世界から「思いどおりでないこと」が消えてしまいました。」(p.55)
結果を思い通りにするという目的ではなく、起こってくる結果を体験するだけでいいとなれば、そもそも思い通りにする必要がなくなるのです。
「宇宙が、陰と陽の二極で「完全」であるように、あなたも善と悪の二極を、同時に持っていて完全なのです。
そのことを認め、受け入れたとき、どんなに安らぐことでしょうか。」(p.60)
磁石のS極とN極のように、磁石はどう切っても必ず2極になります。それがこの相対的な世界なのです。その両極の体験をすることで、私たちは全体の立場、つまり無極の立場に戻っていけます。そうであれば、片方を体験することは「悪い」ことではありません。「殺す」ことも「殺される」ことも、両方体験してこそ無極ですから。
「もはや、環境を変えようとする欲求が顔を出さなくなります。自分を、人を変えようという気が起きなくなってきます。どんな人を見ても、あるがままでいさせてあげることができます。」(p.61)
すべてが神そのものなのですから、本質的に「良い」も「悪い」もありません。そのことがわかれば、そこが天国になるのです。
「五感を通して入ってくるいかなる情報に対しても、「このままで何も問題なし」と感じられたときがゲームの終了のときです。神にはどんな問題もないからです。
すなわち、どんな瞬間よりも、今この瞬間がベストだと実感しているときです。」(p.65)
悪い人を何とかしようとしなくていいのです。それは単に配役にすぎません。優劣というものもなければ、優れる必要もないのです。
「進化したいという願望のないのが、神だからです。」(p.66)
神は、神でないものになることはできませんし、そんなことは望みません。神は神であるだけです。当然、進化したいという欲求も、進化しなければという願望も、神にはないのです。
夫婦は、意見が食い違ったり、正確が正反対だったりすることがよくありますね。
「バランスをとるために単にそうなっているだけなのです。それ以上でも、それ以下でもありません。
こういう対立関係は、この宇宙が存続するかぎり終わることはないでしょう。ですから、二極の存在(意見の食い違い)を嘆くことは、まったく無意味です。」(p.67)
この世は相対的な世界ですから、二極がバランスを取り合っているのです。どちらか一方にだけすることは不可能なのです。
「あなたが、自分の正しさを主張しているときは、向こうは同じ力で、自分の正しさを主張してくるでしょう。この力は、まさに、作用・反作用の法則で、あなたが押す力と同じ力で相手も押し返してきます。
ですから、力や感情で相手を抑え込むことはできないのです。
しかし、あなたが相手を肯定し、波長を合わせてあげれば、瞬時に同じ宇宙空間に戻り、1つに溶け合います。」(p.69)
相手を責めて、変えさせようとしても無駄なのです。相手は相手のままでいいと肯定し、受け入れることが重要なのです。
「私たちは、「どれだけ目の前の現実を肯定できるか」という旅を続けているのです。」(p.69)
これが理解できたら、本当に何も心配はなくなりますね。
「あれこれと心配することがなくなり、安心できれば、人は自然にリラックスしてきます。そして、小さなことに喜びを感じるような体質になっていきます。
豊かな心になると、今までよりも笑顔が多くなっているはずです。常に喜んでいるあなたを見るのが、神さまは一番うれしいのです。」(p.70)
私たちは喜びそのものだと「神との対話」で言っています。何も心配せず、安心の中にいれば、朝の光にさえ喜びを感じるようになる。毎日が、毎瞬が喜びに包まれる。それが本当の私たちなのだと思います。
津留さんは、人を救うということさえ考える必要がないと言います。それでは救えないのだと。そうではなく、ただ遊んでいればいい、楽しんでいればいいとなって、やっと救えるようになるのだと。
「ほとんどの人は、苦しみを空想ででっち上げるのは得意ですが、喜びはなかなか空想しないようです。
幸せも不幸せも事実に基づいているわけではなくて、空想に基づいているんだ、ということを理解してください。」(p.116)
過去の後悔(記憶)、未来の不安(予想)が、私たちを苦しめるのです。どうせ空想を使うのであれば、自分が喜ぶことを空想すればいいのです。
「問題と思われることが起きたとき、人は事象にしか目を向けようとしません。
本当は、目の前で起きていることが問題なのではなくて、それまでのその人の人生、問題と思っている人の人生の見直しが、その問題が生じたことによってできるから、「大丈夫」と言っているのです。」(p.129)
これは、津留さんが日木流奈(ひき・るな)くんからもらってメッセージの一部です。津留さんは、流奈くんとも交流があったのですね。流奈くんの著書は、「月のメッセージ」などをこのブログでも紹介しています。
「もともと、神そのものであるあなたに、何かしなければならないことなど、あろうはずもありません。
神は、「したいからする」のであり、「しなければならないからする」のではないはずです。」(p.170)
指摘されてみればそうですよね。純粋にそれがしたいからする。それが本来の姿です。
「「どちらでもいい状態」。これは、ニュートラル(中立)ということです。
ニュートラルというのは、我々が目指しているゴールなんですね。すべての価値観が消えること、それがゴールなのです。
価値観の消滅というのは、何もなくなることではなくて、「プラス・マイナス」の価値が等しくなること、「良い・悪い」が等しくなることなのです。」(p.182)
「神との対話」では、必要性を好みに変えるようにと言っています。どちらかの価値観を握りしめている時、それは執着となり、必要性として現れます。それが好みであれば、どちらを選んでもかまわないという状態になるのです。
「あなたに価値観がなくなったとき、深いところの意識が表面に浮上してくるのです。それが、あなたを行動に駆り立てるようになってまいります。
これが「純粋動機」というものです。
純粋動機とは、「ただ、したいからそうする」といったものです。」(p.183)
こだわりがなくなった時、魂が計画していた思いが湧いてくるのですね。その時、魂と精神と身体はひとつになって、この世に生を表現するのです。
「その正義感を手放したところで、なくなるわけではなくて、正義感を持ったまま、「正義感のない人も許せるようになる」のです。「あなたはそのままでいいよ」と思えるのです。この部分が、とても大きいのです。」(p.189)
自分が何を選択するかは自分の自由です。それと同じように、相手には相手の自由があります。それを喜べるかどうかですね。
「あなたが、自分で書いたシナリオを生きたかったら、とにかく「じたばたしないこと」です。」(p.196)
「起こることに身をまかせ、安心して何も求めず、流れに乗りきったとき、「本来のシナリオ」が動き出すのです。」(p.197)
安心して委ねていれば、魂の想いのままに勝手に運んでくれるのですね。
「悟りの瞬間は、あなたが求めることを放棄したときにのみやってまいります。この喜びのときを迎えるには、あなたの自我がギブアップを宣言することがどうしても必要なのです。」(p.199)
雲谷斎さんと阿部敏郎さんが「降参のススメ」でそう言っていますね。
「この三次元世界は、パラドックス(逆説)の世界です。
変える必要などないのだ、とわかったときに人は変わりはじめ、このままで何も問題ない、成長する必要などないと感じたとき、自ずと成長し、しなければならないことなど何もないと知ったとき、最も行動的となります。」(p.201)
たしかに、そういうものかもしれません。だから何も心配せず、安心して、ありのままの自分を受け入れればいいのです。
「そのままの自分を無条件に、愛おしく抱きしめ愛してください。自分を愛するのにどんな条件も不要です。それがあなたの源の愛、無条件の愛です。
あなたが、今のまま、そのままの自分を認め、受け入れ、無条件に愛せたとき、そこが「悟り」なのです。」(p.204)
私たちは、神であることを思い出し、神に還る旅をしています。神とは愛。無条件の愛です。悟りとは、本当の自分である神を、少しずつ思い出すことなのです。
「しかし、私たちがこれから行くべきところは、人を傷つけない人間になる方向ではなく、他人の言動によって自分が傷つかなくなる方向です。
他人の言葉や環境、外にあるものから傷つかない人になるのです。」(p.208)
大学の時、先輩から言われた「傷つく方が悪い」という言葉は、ある意味で、私がスピリチュアルな世界に入るきっかけでした。他人を傷つけることなどできません。自分が傷つくことを選べるだけなのです。
「他人の行為から傷つかなくなると、どうなると思いますか?。人をあるがままでいさせてあげることができるのです。
では、どうすれば傷つかない人間になれるかというと「このままでいい」と思うことなんです。この考え方でいると、絶対に傷つかない。」(p.208)
結局、すべてつながってくるのです。このままでいい、変わらなくていいとなれば、傷つくことさえなくなるのです。
「わからないのですから、起きたことが全部いいことだって自分が決めたら、何が起きても「あー良かった」になるわけです。
私は今、体調が良くありませんが、病を体験するという道と体験しない道、どちらがいいかなんてわからないのです。
だったら、今、病になっているという事実を「あー良かった、貴重な体験ができるんだ」って思ったほうが気が楽です。」(p.211)
同じ人が分身の術を使って2つの別の体験を同時にすることはできません。したがって、あっちとこっちとどっちが良いかなど、比較することは不可能なのです。「良い」か「悪い」かなど、どうにでも考えられますから。
ですから、起こることはすべて完璧であり、良いことだと受け止めればよいのです。そう最初から決めてしまえば、何も悩むことはなくなります。
津留さんは、私より15歳年上の方ですが、同じSEの仕事をされていて、会社を経営されたということで、なんだかとても親近感があります。会社が倒産したことで、精神的な覚醒があったとのこと。私の方はまだ倒産はしていませんが、私自身がリストラされました。(笑)
でも、そういう経験が愛おしく感じるようになったのは、「神との対話」との出会いが大きいです。津留さんも、「神との対話」を読んで、とても感銘を受けられたそうです。なんだか、とても身近な存在として感じます。
2019年01月18日
人間らしくて、いいじゃないですか
また津留晃一(つる・こういち)さんの本です。すでに「多くの人が、この本で変わった。」と「津留さんが、心から伝えたかったこと。」を紹介していますが、これで3冊目になります。
この本も前回と同様、個人セッションの内容がメインになっています。なので、自分の悩みと重ね合わせて、津留さんの話を聞くような感じで読めると思います。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「子供にどう言おうかなどは問題ではありません。あなたが自己浄化できていれば、子供がおばあちゃんからその話を聞かされても、困っているようには感じないでしょう。
子供が困っているように見えるのは、「そんなことを子供の前で言わなくてもいいのに」と、あなたが困っているからです。だから、そう感じてしまうのです。」(p.10 - 11)
「大切なことは、自己浄化することです。あなたが「食事をつくらなければ」という想いを手放すことができるかどうかです。」(p.11)
残業が多く、義母が「早く帰って子どもに夕食を作ってやればいいのに」などと親戚の人に話していることを伝え聞き、ストレスが溜まるという女性の悩みです。それに対して津留さんは、自分の中にある「かくあるべし」という想いが原因で、自分を追い詰めているのだと言います。
「現実に起こっている体調不良も、すべては想いのほうが先なのです。あなたが良いことだと思ったら、何でもいい方向に働くものです。
自分が「いいな」と思っているものがやってきたら、それは喜びになり、「良くない」と思っているものがやってきたときは、悩みや苦しみになります。
想いが現象を変えていくのです。」(p.14)
便秘に悩む女性に対して津留さんは、便秘が悪いことだと考えているから苦しむのだと言います。
「つまり、「便秘をすごくイヤがっている自分がいる」という事実を見つめる−自分はそう思っているんだなぁと感じてやることが、『光を与える』ことになります。
光を与えると、物理法則に従い、自分の心の中で強く感じているその想いは、必ず解放される(溶ける)のです。」(p.16)
「便秘が悪い」と思っている自分を責めるのではなく、ただその事実を見つめれば想いが解放されるのですね。それが浄化するということです。ホ・オポノポノのクリーニングも、まさにそういうことでしょう。
「私がお薦めするのは、「社員の意識なんか変えなくても、うまくいく」という考え方です。そのほうが、あなたも気が楽になりますよ。」(p.19)
不況の中で会社をなんとかしなければと焦るものの、だんだんと意欲がなくなってきたという会社経営者の悩みです。私も経営者だったので、この津留さんのアドバイスは身に沁みます。
「「指針や方向性を変えないと、会社がダメになる」なんていう考え方は、自分の会社を困らせようとしているのと同じです。
それは無茶苦茶恐ろしい想念を持っているということです。従業員の意識を変える、つまり絶対に不可能なことが起きないかぎり、あなたの会社は行き詰ってしまうということです。
「今のままで大丈夫なんだ」とあなたが思うことが大事なのです。そして、先ほどのような考えを捨てれば、もっと良くなります。」(p.20)
「何とかしよう」という思いは、「何とかしなければ会社がダメになる」という恐れからくるもの。だから、その恐れが現実になります。津留さんは、「今のままで大丈夫なんだ」という考えを持つように勧めます。
「神さまっていうのは、進化しなくていいと思っている人のことです。それで、したいことをしている人です。だから一度、神さまのように、「このままでいいんだと思える自分を創ってみるのです。」(p.23)
「覚醒というのは、神に帰っていくことです。
「このままでいい」と思っているのが、神さまです。
覚醒したいなら、「このままでいい」という想いを内側につくることです。
いつも内側からそう感じられれば、その人は、もう神さまです。
実に簡単なことなのです。」(p.24)
何が起こっても大丈夫だと安心していること。それが覚醒した人の態度なのです。
「皆さんの中で、自分の使命がわからないという人が多いと思いますが、それは、今わからないほうがいいから答えがきていないのです。わからないことがベストなのです。
今、目の前にあなたがするべきことがあるのですから、それを意識的にやってください。」(p.27)
使命探しなどするのは、使命がわからないと困ると思っているからですね。でも、神である私たちは、ありのままでOKなのです。だから、わからないものは「わからに」状態でOKなのです。
「意識を向けるから、顕在化するのです。対処しようとすることが不幸せな状態にエネルギーを注ぐことになり、ちっとも減退していかない−これが、苦しみが続く理由です。どちらかと言うと、対処すればするほど、苦しみは大きくなります。」(p.31)
恵まれているはずなのに幸せを感じないという人の悩みです。「つらい」という思いにただ浸っていればいいのに、何とかしなければと考えることが、逆にその「つらい」状態を長引かせてしまうのだと津留さんは言います。
「あなたが求めるものは、幸せになろうとすることではなく、自分自身を発見していくことです。『思い込み』という想念を発見し、それを手放しさえすれば、あなたは自由になります。
自分自身の想念の縛りから自由になることだけが重要なのです。あなたを不幸せと感じさせているものが、『思い込み』という想念だからです。」(p.33)
幸せを追うと、その対極の世界も広がっていくと津留さんは指摘します。コインの裏表ですからね。幸せになろうとするのは、今が幸せではないと考えているからです。なので、その思い込みを手放すことが重要だと言うのです。
「どうしてもどうしても幸せになりたい人は、幸せをあきらめることです。」(p.35)
私がいつも言うように、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」ということですね。
「どんなものからでも、このエネルギーを取り戻すことができます。すべての力を取り戻してしまえば、大好きなボールペンも大事な子供も素敵な彼も、同じレベル、すなわち、『単なる情報』に変わっていきます。
「それじゃ、つまらない」と感じる人も、たくさんいるかと思います。
実は、私たちが『ここ』にいるのは、そうなるとつまらないから、なのです。大切なのは、「自分に必要のないものにまで、力を与えない」ということです。
子供がいてうれしかったら、それはそれでいいのです。
ただ、子供の言動に振り回され初めたら、子供から力を取り戻すときが来ていると思ってください。」(p.79)
子どもを大事に思っているが、振り回されて疲れてしまうことがあるという女性の悩みです。津留さんは、「子供の死」という言葉にビクッとなるとしたら、力を与えているからだと説明します。ただの「ボールペン」なら心が動かないのに、「大好きなボールペン」だと心が動くのと同じだと。
「力を与えているのは自分なのだから、ただ取り戻せばいいのです。取り戻せば、自分中心でいられます。」(p.80)
振り回されるのは、自分が力を与えているから。だから、その力を取り戻せばいいだけだと津留さんは言います。
「対立した意見と、無理に折り合おうとする必要はありません。たいがいの場合、折り合おうとしたり、どちらかの意見に統一しようとしたりして苦しみます。
調和させようとか、調和が崩れるかも…というのは妄想です。調和することが必ずしも良いことであるとも言えないし、調和が崩れたら悪いともかぎらないのですから、それを恐れないことです。
どちらの意見も正しくて、どちらも正しくないのです。お互いに私見を述べ合ったその後のことは、自然に秩序に任せればいいのです。」(p.83)
いじめ問題など、教師同士で話し合っても意見が分かれるので、自分の方から折れた方がいいのだろうかという悩みを持つ方に、津留さんはこのように言っています。つまり、無理をして意見をまとめる必要はないってことですね。
「自我には、何が正しいかは、絶対にわかりません。
あなたが正しいと思ったものが正しく、間違いだと思ったものが間違いなのですから、「何を信じるか」だけです。「どちらを信じたら心地いいか」−これが、判断基準です。
あなたが、良いと思って信じていることを続けてください。逆らう必要はありません。そのままでもいい、多少のアレンジをしてもいい、したいようにしてもいい。」(p.84)
「正しさ」は人それぞれですから、何を選択しようと大した問題ではないのです。自分は自分の正しさに従えばいいのです。ただ、相手には相手の「正しさ」があるのですから、相手を無理やり従わせようとはしないこと。それで、放っておけば上手くいくのです。
「戦争で感じることは、「自分たちの正義が強ければ強いほど、人なんて簡単に殺せるまでになる」ということです。自分たちの意見(正義感)がどれほど危険かを、人は簡単に忘れてしまうのです。」(p.87)
まさに、こういうことですね。「正義」が絶対だと思うから相手を責めたくなります。そしてその行き着くところは、殺してもかまわないと思うほどになるってことです。
「泣くというのは、自己表現です。泣きたいから、泣いているだけ。だから、思いっきり泣かしてあげるのです。これも『与えるもの』です。
泣いていることを「聞き分けがない」と言って、咎めないことです。
子供を咎めて、「聞き分けのない子」をつくってはいけません。愛する子供を「私の邪魔をする悪い子」に変えてしまってはいけません。」(p.89 - 90)
子どもが泣くのは自己表現だから、それを妨げるなと津留さんは言います。あるがままを受け入れるということです。
「「時間が足りなくなったら困る」という恐れから、あなたは今、与えることを差し控えているのです。本当は、抱っこできる能力があるのに、「与えたら困ることが起きる」と思って、自分で制限しています。」(p.91)
甘やかすと甘えぐせがつくという恐れですね。その恐れのために、愛する機会を失うのです。
「愛に基づいて行動していいのです。時間を気にして、愛を犠牲にすることはないのです。
そして、あなたが本当に疲れていて体がだるいときは、子供が泣き叫んでいても、ハッキリと「NO」と言えばいいのです。」(p.92)
断ることに罪悪感は不要です。相手を責めず、出し惜しみをせず、罪悪感も抱かない。こういう感覚が身につくと、容易に愛せるようになるのではないかと思います。
「無条件に無制限に、相手に自由と愛を与えたときに、初めて「我、神なり」という実感を持つことができ、本当の自分が実現します。私たちは、そこへ到達するためのゲームをしています。
相手に対して、無条件に無制限に、自由と愛を与えるために結婚するのです。それ以外の目的だと、うまくいきません。」(p.101 - 102)
「神との対話」でも、結婚の目的は本来、自分を体験する機会であり、相手から何かを得ることではないと言っています。その目的を間違えるから、上手くいかないのだと。津留さんも同じことを言われていますね。
「だから、大事なことは、無条件に無制限に、自由と愛を相手に与えることができて、なおかつ、自分がその人と一緒に居たときに心地いいかどうかなのです。」(p.103)
「ところが、多くの人がその違いを克服し、埋め合わせようと頑張っています。それは決して報われない不毛の努力です。相違点をなくせば一致するというのは、誤解です。
私たちは、一つです。すでに初めから一致しています。わざわざつくった、個々の小さな違いに、意識をフォーカスするのはもうやめましょう。」(p.106)
パートナーになるのに、性格が一致すること、笑いのツボが同じであること、同じ趣味を持っていることなど、何かと一致点を探そうとしてしまいます。しかし津留さんは、それは無駄な努力だと言います。違いは違いのまま、無条件に無制限に、相手に自由と愛を与える。それだけでいいのです。
私がいつも言うことですが、パートナーが浮気したってかまわないのです。それはパートナーの自由ですから、無条件に無制限に自由にさせることです。そして、それを喜んでいればいいだけです。それができないなら、自分が自由になることです。相手のせいにする必要もなく、自分がその環境にいたくないからという理由で、別れたらいいのです。
「その子は、あなたを傷つけるために現れたのではなく、本当は、その言葉に傷つくあなたを癒してあげるために登場してきたのです。あなたに、気づかせるために…。
自分の周りから、キライな言葉や出来事がなくなると、そこは天国です。だから、ここを天国にするために、キライな言葉やイヤな出来事をなくしていくのです。」(p.115)
荒れたクラスの教師の悩みです。暴言を吐いてくる子どもに困っているとか。津留さんはまず、その子を敵だと思わないようにと言います。むしろ、重要なことを気づかせてくれるために現れた天使なのだと。
自分の中の観念によって、その子から受ける言葉に傷つきます。もしその観念がなければ、言われても傷つきません。そこに気づいて、浄化することが重要なのですね。
「「自己浄化したら、どうなるか?」、「もしやれば、そうなりますか?」と質問しないでください。それは、やってみないとわかりません。私が「新しい世界がそこにはあります」と、今のあなたに言っても想像できないでしょう。
とりあえずやってみれば、体験が起きてきます。体験してみて、そのほうがよかったら続ける。気に入らなければ、やめればいい。」(p.117)
私たちは体験するためにこの世に来たのですから、他人の言葉で体験したつもりになるのではなく、自分で体験することが重要なのです。
「もし、生まれてきた子が神だとしたら、教育は要らないはずですよね。「教育しないと大変なことになる」というのを信じるか、「神ならば、放っておいても神のままだ、大丈夫!」を採用するか?
今までの教師体験からは、「放っておいたら大変なことになる」と思っても当然です。でもそれは、今までの体験です。あなたはどちらを選択しますか?」(p.118)
「このままではダメだ」という信念に基づいて行動するのか、それとも「このままで大丈夫だ」という信念を選ぶのか。まさにそれが問われているのです。
「私がこうお話するのは、私自身がスムーズに自分を改造できるようになったのは、『自分を否定しなくなった』のが、きっかけだったからです。
「自分を変えなきゃいけない」と思っているときは、自分を否定していますから、その否定が必ず自分に返ってきて、うまくいかないことが起こってくるのです。」(p.128)
自分に対しても同様と言うか、自分のことをどう思っているか、その信念が重要なのですね。
「人というのは、『呪縛』から、なかなか逃げられないものです。私たちは、心象世界に住んでいます。心を縛れるのは、言葉だけなのです。」(p.135)
「苦しみは、すべて呪縛からきています。「ああしてはいけません」、「こうしてはいけません」と子供を怒ったとき、「何で悪いの?」と言い返されて、初めてあなたの中の「こうであらねばならない」という過去の教えが見えてきます。」(p.135)
自分が自分を縛ってきた信念を、私たちは外部世界にも適用しようとします。他の人がそれを守ってくれないとイライラします。自分も本当は自由でありたいのに、縛られていて自由になれないと思っているからです。だから自由な他人を怨むのです。
「きちんと気持ちを伝えたあとは、放っておけば必ず何とかなります。正しいか間違いかなんていうことも、決める必要はないのです。
苦しみというのは、それを決めようとするところに生まれてきます。決めなくていいんだ、とわかるだけで、すごく楽になります。
『あと解釈』するよりも、ただそのときの自分を感じるだけで充分なのです。」(p.156)
自分を受け入れてもらえないとつらいと感じる方の悩みです。受け入れてもらうことに依存して、相手の反応をコントロールしたくなるのですね。
「怒りを出し尽くし、その想念を自分で受け入れ、自分の出したカルマを自分自身で刈り取れば、カルマの連鎖に終止符が打たれます。
あなたは、体験の階段を一歩登り、『真実の私』の目的を一つ遂げるのです。怒りという種子を、体験という果実として結実させ、叡智へと昇華していくのです。
こうやって、あなたは怒りの感情に振り回されている体験途中の人たちへ、温かいまなざしを向けることができ、同情できる人へと進化していくのです。」(p.157)
他人が憎い時は憎んでいいと津留さんは言います。なぜなら、体験することが重要であり、その先には必ず辿り着ける「幸せのゴール」があるのだからと。湧いてくる感情を否定せず、味わっていけばいい。もうこんなのは嫌だと感じたら、それを吐き出し、自分を丸ごと抱きしめること。そうやって体験し尽くして行くのです。
「私たちは、現実世界に住んでいると思い込んでいます。
でも、皆さんが生きている空間は、現実世界ではなく、観念で創り上げた世界です。だから、あるものをあるがままに見ていく訓練が必要になってきます。
あなたの観念で創りあげた世界から、真実の世界を紡(つむ)ぎ出す。『今この瞬間』という宇宙から、真の自分の姿を探すこと。それが、自分を幸せにしていく秘訣です。
まず、観念的世界と、あるがままの世界の、どちらに自分がいるかを知ることです。そして、その切り分けができるようにならなければいけません。」(p.180)
現実と感じているものはすべて幻想だと、「神との対話」では言っています。津留さんは観念的世界と呼んでいますが、その中にどっぷりと浸かっていると、真実の世界が見えてこないのですね。
「しかし、自我に思考をとめろといっても、とまりませんから、思考の外に飛び出すには、「思考の外に出よう」という想いに、一点集中すること以外にありません。
この想いを胸に抱き、想いと一緒にいることです。雑念も浮かんでくるでしょうが、じっと我慢して、根気よく続けていく。そう、瞑想と同じですね。」(p.181)
「神との対話」でも瞑想を勧めています。静かにして自分とともにあること。それが観念的世界から抜け出すコツなのです。
「「お金が欲しい」ということですが、本当は、ただ「欲しい」と想っていれば、入ってくるものなのです。
しかし、皆さんは「欲しい」と想ったあと、「どうすれば入ってくる?」と考えるから、入ってこない。お金を得る『手段』に走って、「こうやれば、お金が入ってくるかもしれない」というのばかり頭に浮かべますよね。
これはもう『恐れ』です。お金を手に入れることしか考えていないわけです。お金が手に入ったときのことを、考えてないんですね。」(p.186 - 187)
方法を考えるのは自我(理性)の仕事ではありません。自我は体験したい方向性を示すだけ。方法は与えられるのです。
「お金は、私たちの『自由性』です。皆さんは、「お金があれば、自由になる」と思っているから、お金を欲しがります。でも、心が不自由な人に、どうしてお金という『自由の象徴』が入ってきますか?」(p.187)
私たちがお金を欲しがるのは、自由になりたいからなのですね。でも、その手段を考えている限り、恐れ(不安)に支配されてしまいます。まず最初に自由になればいいのです。
「家庭の数だけ、親の数だけ価値観があって、それを子供に押しつけたくなる…それが教育、しつけなのです。すべてのしつけは、親が正しいと思っている価値観を子供に押しつけようとしているにすぎないのです。
だから、あなたが「優しくしなさい」、「順番を守るのよ」という価値観を、子供に押しつけても、それはそれでいいのです。
ただ、「優しくしなさい」と教えてあげて、子供がそれを受け取るかどうかは、子供の選択の問題なんですね。いつでも、選択があるだけなのです。
私たち一人ひとりが神さまで、あなたも神さまであれば、その子供もまったく同じ力を持った神さまなのです。」(p.192)
自分の価値観を持つことはかまいませんが、それを他人に押し付けることは不毛です。受け入れるかどうかは相手次第。そこに気づけば、心が自由になります。
「それは、『良い・悪い』ですよね。私は、「良いと悪いはない」といつも言っています。だから、「否定的なことばかり言ってもかまわない」ということです。
なぜならば、すべてのものは必ず何かの役に立つからです。怒りまくっている人がいても、その人が怒りまくることによって、だれかの何らかの役に立っているのですから。」(p.202 - 203)
親から否定的なことばかり言われて嫌だという人の悩みです。津留さんは、ものごとはニュートラル(中立)であって、そこに「良い」も「悪い」もないのだと言います。
「否定的なことばかり言って、否定的な現象を引き起こしてこなければ、わからないこともあるでしょう。その体験をまだしていなかったから、やり遂げようとしているのかもしれません。是非、やらせてあげてください。」(p.204)
「実は、「片方が、もう片方より良い」なんてことは、あり得ないのです。どんな事象も、陰と陽がバランスを取っているだけです。あなたが、その「陰陽のどちらを見るか」という選択があるだけです。」(p.205)
相手には相手の課題がありますから、それを妨げる必要はないのですね。重要なのは、その相手の言動に対して自分がどう感じるかということです。そこには自分の課題があります。ひかかるようなら、浄化されていない観念があるということなのです。
津留さんが言われていることは、まさに「神との対話」で語られていることです。それを、津留さんの表現でわかりやすく説明してくれています。
究極的には、私たちは神だという立場に立つことが、あらゆる問題を解決してくれるように思います。神であれば、変えようとさえしないでしょう。何からも傷つけられないとわかっているから。ただ見て、それを楽しんでいればいいのです。
ある意味で、こんな非現実的な考え方はないとも言えます。しかし最近は、ホ・オポノポノや心屋仁之助さんなど、不思議なことが普通に語られるようになってきました。これも、アセンションの結果なのかもしれません。
●コメントを書く前に、こちらのコメント掲載の指針をお読みください。