タイでは、永住ビザ以外の長期ビザで滞在する外国人は、滞在90日間ごとにイミグレーションに報告する義務があります。これを「90日報告」と呼びます。
国外へ出れば、次の入国日からカウントされます。したがって、90日以内に国外へ出ることを繰り返していれば、この「90日報告」をする必要がありません。私も会社に所属していたころの後半は、年に6〜7回一時帰国したので、まったくしてませんでした。
前回は、今年の6月19日に「90日報告」をしたのですが、この時はパスポートを更新してから初めての報告だったので、イミグレーションへ行きました。この時のことは記事「タイ・バンコクで90日滞在報告をしてきました」に書いてますので、こちらをご覧ください。
その後、7月上旬に一時帰国し、7月18日にタイに戻ってきたので、そこから90日間のカウントになります。したがって、期限が10月15日に迫っていました。
今回は2回目なので、オンラインで「90日報告」ができるはず。さっそく試してみましたよ。結果としては、上手くいきました。
なお、ビザなども同様ですが、ここに書くのは、私が実際に試してみた内容です。今後も同様かどうかの保証はありませんので、ご了承ください。
●申請手続き
オンライン(または郵送)で90日報告ができるのは、期限の15日前から7日前までの期間とされています。したがって、10月1日からできるはずですが、念のために1日遅れの10月2日にやってみました。
申請方法は、いろいろなサイトに書かれています。私もそれを参考にしました。「90日報告 オンライン」で検索すれば、いくつも出てきますので。
その中で、ナディア・コンサルティングさんのWEBページが検索トップだったので、これを参考にしました。とてもわかりやすく書かれていると思います。
申請に必要なものは、パスポートと、そこに挟んであるはずの出国カード(TM6)のみです。
まず「90日報告」のサイトを開きます。以前は、ブラウザはIE(インターネット・エクスプローラー)しか使えないとされていましたが、今回、私は、Chrome(クロム)を使いました。
サイトが開いたら一番下までスクロールして、チェックBOXにチェックして、「Accept」をクリックします。
次に3つの四角が表示されますので、申請は一番上の青い四角をクリックします。1ページ目は、パスポートや出国カードの情報を入力します。一番下の「The CAPTCHA password」は、ランダムに表示されるその下の数字を入力します。ロボットによる不正防止ですね。全部入力したら、「Submit」ボタンをクリックします。
もしここでエラーが出て先に進めなければ、何か入力が間違っているか、初めての申請で元データがないことを意味します。私は1回目の時、ここではじかれました。それで、パスポートを更新してから初めてだったと気づいたのです。(エラーメッセージには、そういう情報はありません。)
次のページでは、ビザや住所などの情報を入力します。この時に注意するのは、住所の記入方法が建物名の次が県名になっていることです。通常の番地、地区、・・・という入力方法とは逆になります。システムで情報を絞り込んで行くので、そうなったのでしょう。
前のページの「Nationality」もそうですが、住所も、最初の1文字を入力すると候補が表示されます。その中からクリックして選ぶようにします。
全部入力したら、また「Submit」を押して、エラーがなければ3ページ目の入力になります。ここはチェックBOXにチェックを入れ、「Accept」ボタンをクリックするだけです。これが通れば申請完了です。
申請が完了したら、4ページ目が表示されます。次のように申請内容が表示されます。
※写真をクリックすると、大きな画像をご覧いただけます。
●申請の確認
申請が通ったかどうかは、同じサイトで確認できます。3つの四角が表示されたページで、今度は真ん中の緑の四角をクリックします。「Passport Information」のタブを開き、そこにパスポート番号などを入力し、サーチボタンをクリックします。そうすれば、自分が申請した情報が表示されます。
表示されたデータの右側に「Status」とあり、そこが「Approved」になっていれば、申請が通ったことになります。その横の「View」にあるボタンをクリックします。申請時の最後に表示された確認画面が表示されます。その右上に「APPROVED」とスタンプがあるはずです。
そのページの一番下に、「The Next Appointment(PRINT)」というボタンがあるので、それを押すと「90日報告」の受領証がPDFで表示されます。
表示されたPDFを印刷し、また同じように畳んでパスポートに貼り付けておきましょう。
受領証の左下には、次回の90日報告の期限が書かれています。この期限は、申請が通った日から90日後になります。なので、余裕を持って早めに申請すると、次の期限が早く来てしまうことになります。
ただそうは言っても、7日前までに申請しなければならないので、せいぜい7日間の違いです。交通費を使ってイミグレーションへ行く手間を考えれば、少々早くてもオンラインでできてしまうのは楽でいいですね。
2018年10月03日
2018年10月15日
英語はまず日本語で考えろ!
何かを見て気になって、また英語学習の本を買ってしまいました。もう何冊も買って、通信教育を受け、それでもほとんど進歩してない私の英会話力。もう私には向いてないのだと思って諦めかけるのですが、そのたびに、新しいものを見つけては試してみる。その繰り返しです。今回もまた、同じことになるのでしょうか?
著者は、本城武則(ほんじょう・たけのり)氏。例によって英語はからっきしダメだったそうですが、飛行機の免許を取得するためにアメリカに渡り、最初はなかなか英会話が上達しなかったものの、あることがきっかけで話せるようになった、という体験の持ち主です。その体験から、英語上達の秘訣を会得し、その方式に従って英会話スクールを展開しておられます。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。なお、私が買ったのがKindle版のため、ページがありません。ご了承ください。
「自分 の 英語 に どれ だけ 自信 が なく ても 話し た ほう が いい し、「 自分 は 話せ て いる」 と 調子 に 乗っ て いい の です。 それ が、 英語 を 話す 最も 近道 なの です。」(Kindle の位置No.557-560)
英語上達のために、まず重要なのが自信を持つことだと言います。これもよく言われることですね。
「では、 どう すれ ば こんな 気まずい 結果 に なら ない よう に できる のか。 対処 法 は 1つ しか あり ませ ん。 それ は、 知ら ない 単語・聞き取れ ない 単語 が 出 て き た とき、 堂々 と「 今 なんて 言っ た の?」 と 聞き返す こと です。」(Kindle の位置No.653-656)
会話に知らない単語が出てきた時の対処法です。ともかくわかるまで繰り返し聞き直せと言います。相手は迷惑しないし、むしろ喜んでくれると。
これはどうかなぁという気はします。自分一人が話し相手ならまだしも、複数人いたら、話の腰を折る気がするので。
「しかし、 後に 僕 の 英語 の 先生 と なる ノルウェー 人 の 飛行 教官 が、 見る に 見かね て、 僕 に こんな 言葉 を かけ て くれ た の です。 「とりあえず、 自分 の 使い たい 英語 だけ 勉強 し なさい」」(Kindle の位置No.742-745)
これはたしかに言えると思います。英語の教科書や、よくある英会話教材では、まったく興味のわかない内容が延々と続くことがあります。本城氏は飛行機のライセンスを取るという明確な目標があったので、そこに絞って単語などを覚えていったのです。
「仕事 の 会話 と いう と すごく 難し そう に 思える のは、 専門 用語 ばかり だ から です。 それ は、 逆 に 言え ば、 専門 用語 さえ 押さえ て しまえ ば、「 知っ て いる 単語 だらけ の 会話」 に なる という こと なの です。 マクドナルド で 注文 一つ でき ない 僕 で すら でき た 簡単 な こと です。」(Kindle の位置No.778-781)
専門用語は、学校で習っていない単語がいっぱい出てきますが、一度覚えてしまえば、それが繰り返し出てくるだけなので、範囲の広い一般的な会話より簡単だと言います。たしかに、そうも言えますよね。まあでも、それでも私はできませんでしたけど。
「だれ でも 初めて の セミナー や スクール に 参加 する とき は、 周り が 知ら ない 人 ばかりで、 ドキドキ する もの です。 その 気持ち は わかり ます が、 これから 数 時間 を 共有 する 仲間 に なる の です から、「 こんにちは」 と 挨拶 し あう のは いたっ て 自然 な こと の はず です。 知ら ない 人 を 極端 に 避ける こと は、 海外 では まず あり え ませ ん。 むしろ、 挨拶 し ない 人 という のは 不審 者 に 思わ れ て しまい ます。」(Kindle の位置No.840-844)
日本人は、知らない人ばかりが参加するセミナーへ行くと、隣の席の人とさえ会話しないことがよくあります。どちらかと言えば、私もそういうタイプです。しかし欧米人は、知らない人というのは危険なので、真っ先に言葉を交わすと言います。だから、欧米人と会話することに遠慮は不要だと言うのです。
「実は、 日本語 の 文章 を 英語 に 訳す 際 には、 いくつ か コツ が ある の です。 その コツ を つかむ こと さえ できれ ば、 どんなに 難しい 文章 だろ う と、 だれ でも 簡単 に 英訳 する こと が でき ます。 自分 が 考え た 文章 を、 辞書 も 使わ ず に 英訳 する こと が でき たら、 きっと 感動 する はず です!」(Kindle の位置No.1248-1252)
いよいよ本城式の英会話のコツですが、まずは日本語で話したいことを考え、それを英訳するのだと言います。英語で考えるなんてことは不可能だと。
「 自分 で 考え、 難しい 単語 の 意味 を ほぐし、 簡単 な 言葉 に 置き換え て 話す こと が できれ ば、 中学生 レベル の 英語 力 でも、 立派 に ネイティブ と 話す こと が できる よう になり ます。」(Kindle の位置No.1359-1361)
そこで、まずは自分が話したい日本語の文を、簡単な日本語に置き換える。ここがポイントです。自分が知っている簡単な英語に翻訳できるよう、日本語で簡単な文を考えるのです。
これについては、私もそうだなぁと感じたことがありました。フィリピン人と日本語で会話していたところ、相手から「別の表現で話して」と言われたのです。「あなたは日本人だから、別の表現で置き換えられるでしょう」と。つまり、相手は日本語の語彙や表現方法が少なくて、日本人のすべての言葉が理解できるわけではないのです。相手がわかるような表現に、日本語がよくわかっている日本人が置き換えてやれば、相手も理解できます。
同じことをすればいいんですね。英語能力が低い自分のために、自分の英語力でわかるように日本語の別の表現を考えること。これについては私の友人も、5才児にわかるように話す、という英会話方法を教えています。きっと、同じことなのでしょうね。
「リスニング を 最も 早く、 かつ すぐ に 会話 の 場面 で 上達 さ せ たい! という 場合 に 有効 な 方法 は、「 発せ られる 英語 の 意味 を 日本語 で つかみ ながら 聞く」 という 方法 です。」(Kindle の位置No.2225-2226)
英語を聞きながら、それを英語として理解するのではなく、日本語で理解しながら聞くという方法です。
「この 2つ の 方法 を 合わせる と、「 聞き取れ た 英単語・表現 を、 瞬時 に 訳せ た 場合 は 日本語 で、 瞬時 に 訳せ ない もの は 英語 の まま で かまわ ない ので、 そのまま メモ し て いき、 同時に 日本語 で『 なに を 言っ て いる のかな?』 と 想像 し ながら 聞く」 という こと になり ます。」(Kindle の位置No.2407-2410)
全部を瞬時に日本語化できなくてもいいのですね。聞き取れた単語を、訳せるものは日本語で、訳せないものは英語のまま、記憶に遺すことです。
「言い換える と、 言語 的 常識 を 使っ て 背景 を 想像 し ながら、 聞き取れ た 単語・表現 を 断片的 に メモ し、 その 2つ の 情報 のみ を 使っ て、「 なに を 言っ て いる か?」 を ストーリー の 形 で 想像 する という こと です。」(Kindle の位置No.2441-2444)
その聞き取れた情報を元に、相手が言いたいことを想像します。ある程度想像できたら、仮に全文を逐次訳せないとしても、会話は成り立ちます。
これは私も実感しています。私もタイ語がそれほど話せないのですが、会話は適当に成り立っています。なぜなら、聞き取れた単語を元に類推しているからです。詳細はわからないものの、たいていの場合、それで困らないのです。
「もし 知ら ない 単語 が 出 て き たら、「 それ どういう 意味?」 とか、「 今 言っ た こと が わから ない」 と、 何回 でも 聞き返し ましょ う。 ネイティブ は、 聞き返せ ば 聞き返す ほど、 一生懸命 話 を 聞い て くれ て いる ん だ なと 思い ます から、 どんどん 聞き返し て いい ん です。」(Kindle の位置No.2535-2539)
ここでも、知らない単語に出合ったら、相手に聞き返せと言います。
「この こと を ネイティブ に 聞く と、 だれ もが 文法 は めちゃくちゃ でも、 大きな 声 で 話し て くれ た ほう が 断然 わかり やすい と、 口 を 揃え て 言い ます。」(Kindle の位置No.2645-2647)
英語は子音で成り立っている言語なので、大声で話さないと、ネイティブ同士でも何を言っているかわからないのだとか。だからネイティブはたいてい大声なのだと本城氏は言います。そんなもんですかね。
「海外 は、 日本 には ない 独特 の、「 英語 を 話し たく なる ワクワク 感」 や「 英語 を 話さ なきゃ という ドキドキ 感」 に 満ち あふれ て いる から です。」(Kindle の位置No.3024-3026)
本城氏は、まず海外へ1人で行ってみろと言います。英語を使わなければいけない状況に身を置く。その体験によって、英語を話したいという欲求が高まるからと言うのです。
「僕 が ここ で 言い たかっ た のは、 人 は 選択肢 が 2つ ある 状況 だ と−− いつか は 変化 する 必要 が ある という こと を 頭 では わかっ て い ても−−、 ついつい、 楽 な ほう を 選ん で しまう 生き物 だ という こと です。」(Kindle の位置No.3064-3067)
日本語でも何とかなるという選択肢があると、英語力が鍛えられないのですね。ですから、日本語で何とかするという選択肢を捨てることが、英語力を高めるのに重要なのです。
「1.まず「本当にあなたがしたいことはなにか」を考え
2.そのうえで、「本当は行う必要の”ないこと”」を考え
3.同時に、「そのことを行うには、今なにが一番必要か」を突き詰めて考え、楽しくやっていきましょうということ。」(Kindle の位置No.3339-3345)
本城式は英会話上達のためだけの方法ではないと言います。すべてのことを上手くやるために役立つ方法なのだと。そしてその本城式の核心は、この3つだと言うのですね。やりたいことを極め、そのために今、必要なことを探し、それを楽しんでやることです。
「本城式英会話術の本当の目的は、「だれでも正しい方法でやれば、(英会話に限らず)なんでも可能なのだ」ということを知ることなのだと、僕は思います。」(Kindle の位置No.3371-3374)
このように、英会話に限らず、すべての自分がやりたいことを達成するための方法。それが本城式なのですね。
私たちは何かやりたいことがある時、直接それをやろうとせず、それができるようになるための準備をしようとしてしまいがちです。英会話は、まさにそうですね。私たちは別に、英会話をしたいわけではありません。ネイティブと会話をしたいとか、1人でアメリカ旅行へ行きたいなど、本来のやりたい目標があるはずなのです。
これまでの英語学習では、その本来の目標をやろうと勧めるのではなく、その前に英会話を学びましょうというスタイルでした。その点、本城式はまったく違うアプローチだと感じました。
この英語学習法が私に有効かどうかはわかりませんが、生き方に大きな示唆を与えてくれるものだと感じました。なので、このブログで紹介したいと思います。この本を読んで気づいたのは、私の場合、「特に会話したいと思っていない」というところが、英会話もタイ語会話も上達しない最大のネックかもしれませんね。(笑)
2018年10月21日
この土の器をも
前に紹介した「道ありき」に続いて、三浦綾子さんの本を読みました。これも三浦さんの自伝的な小説になります。サブタイトルに「道ありき 第二部 結婚編」とあります。
「道ありき」が、三浦さんの闘病から結婚までを描いたものでした。この本は、結婚後の生活に関して書かれています。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「全文切りつけるような文面だった。
この手紙を見た三浦は言った。
「一人の結婚は、十人の悲しみという言葉があるね。桜井良也さんの手紙といい、国村さんの手紙と言い、考えさせられる手紙だね」
結婚は必ずしもすべての人の喜びではない。それ故にこそ、只二人だけ仲が良ければよいという閉鎖的な家庭であってはならないと、三浦は言った。
わたしたちは、自分たちは、自分たちの家庭を、多くの人を受け入れ、愛する家庭にしなければならないと、しみじみと話し合った。」(p.18)
三浦さんが結婚したことに対し、祝福の手紙はもちろんですが、批判する手紙もあったようです。三浦さんは、自分の友だちのことや届いた手紙のことなどを、包み隠さずご主人に話していました。最初からそういうオープンな関係であること、そして、批判する者さえ受け入れようとするキリスト教的な精神は、なかなか真似できないことだと思いました。
「彼は、さっさと先に部屋の中に入って行った。わたしは、玄関で彼の靴をなおしながら、ふとためらいを感じた。三浦の留守に、異性の友人を家にあげてよいのだろうか。そう思う自分に、わたしはふしぎな気がした。
これは曾(か)つて、結婚前には一度も感じたことのないためらいである。」(p.42)
三浦さんは闘病中から、異性の友だちがたくさんいました。三浦さんのおおらかな性格は、彼らが1人でやってきて、家族がいない時に三浦さんと二人きりになっても、それを問題視しなかったのです。それに慣れている友だちは、結婚後も遠慮なくやってきたのです。
結婚前の友だちと同じように付き合い、それを今度は夫婦の友だちにする。そう考えていた三浦さん夫婦です。それでも当時の常識からしても、現代の感覚からしても、なかなかできないことだろうと思います。三浦さんはためらいながらも、オープンにすることを選ばれたのです。
「「聖書には何と書いてある。許してやれと書いてあるだろう。いいかい綾子、許すということは、相手が過失を犯したときでなければ、できないことなんだよ。何のあやまちも犯さないのに、許してやることはできないだろう。だから許してやりなさい。弁償せよなどと、決して言ってはいけないよ」
言われてわたしはシャッポを脱いだ。」(p.65)
クリーニングに出したご主人の大事な背広の上下を、クリーニング屋が元店員に盗まれたのです。非常に服を大事にするご主人ですから、三浦さんもそれをどう告げてよいか困ったようです。そして、盗まれたことを伝えてこなかったクリーニング屋に腹を立て、不注意で盗まれたのだから弁償させると息巻いたのです。
それに対してご主人は、みごとに聖書の言葉通りに生きておられたのでした。許すという機会が与えられただけだ。大事にしていた服への執着を微塵も見せず、そう言い放つのです。これも、なかなか言えることではありませんね。
「「失敗した時は、誰だって、あ、しまったなと思っているのよ。しまった、悪いことをしたと思っている時に叱ったら、もう、そのすまないという思いは消し飛んじゃうのよ。ぐだぐだ言ったって何の役にも立たないわ」
彼女はそう言って笑い、つけ加えて言った。
「女って、感情的でしょ。おんなじ失敗をしても、ある時は怒ったり、ある時は怒らなかったり、自分のご機嫌次第になるのよ。そんなのは教育上よろしくない」
と、彼女は冗談めかして笑った。この寛容な態度、許す態度に、わたしは舌を巻いた。」(p.70)
これは三浦さんの友人のK子さんのエピソード。娘さんが醤油差しを板の間に落として割った時、眉1つ動かさずにいたそうです。そして、娘さんが醤油を入れ直してきた時、「けがしなかったの?」とさりげなく言ったとか。なかなかできることではありませんね。
しかし、この話にはオチがあります。実はこのK子さん、まめにご主人を送り迎えする良妻賢母のようでありながら、裏では恋人を3人も作っていたのです。そして1年後、隣家の高校生に刺されて亡くなったとか。その高校生も恋人の1人で、嫉妬されて殺されたのです。人間というのは、本当にわからないものだなぁと思いました。
「それは、大げさに言えば、わたしにとって一つの大きな開眼であった。いかに人間というものが、日常の生活の中で、自分の立場でしか、ものを考えないものか、とわたしは痛切に知らされたのである。そして、ごく単純な事柄であっても、公平に判断するためには、検事的な立場も必要であり、弁護士的な立場も必要であり、また判事的な立場も必要であることをわたしは知った。」(p.111 - 112)
教育者の妻が夫に先立たれてノイローゼになり、2人の子どもを殺して自殺しようとしたが死にきれなかったという事件があり、三浦さんはその裁判の傍聴に行かれたそうです。その時、単純な事件のようでありながら、それぞれの立場でそれぞれの見方があることを知ったのです。これにより三浦さんは、一方的な思い込みで判断してはいけないと思ったそうです。
「こう考えて来ると、夫の浮気の問題、子供の非行の問題、親戚兄弟のもろもろの問題、三面記事に書かれた様々な事件、政治のあり方の一つ一つに、わたしたちはもっといろいろな角度からものを考え、せっかちでない判断を下さなければならないような気がする。」(p.112)
「わたしはいきなり打ちのめされたような気がした。わたしは何と同情のない人間だろう。なぜこんなにも同情心がないのだろう。
わたしは、人間関係に苦しんだことのない人間である。むろん自分自身の弱さを知ってはいた。だが、姑や小姑(こじゅうと)、そして夫などの間に立って、現実に苦しむことのないわたしには、彼女の二十年間の苦しみがわからなかったのだ。不貞は悪いと、一方的に決めつけることは知ってはいても、そこに追いこまれる弱さを、わたしは決して同情もしなかったし、思いやることもしなかった。」(p.143)
幼馴染のM子さんのエピソードです。彼女が結婚後に浮気をして、家を飛び出したというような身の上話を聞かされ、三浦さんは白けて腹立たしかったそうです。ところがその夜、いつものように聖書を開くと、そこにはイエスが姦淫の罪で引き出された女に同情された話がありました。それを読んだ三浦さんは、とても反省されたのです。
「「刑務所から出たなんて、あんまり威張って歩かないでよ。後から出て来る仲間が迷惑するわ。それに、刑務所の中の人間も、刑務所の外の人間も、心の中はそう変りはないのよ」
死刑囚を何人も知っていると言っただけで、わたしはやや優位に立った。わたしも三浦も、死刑囚や無期懲役の人と、親しく文通をしていた。」(p.170)
三浦さんの家には、物乞いばかりか、刑務所から出てきたばかりだと脅して金を無心する者も訪れてきたそうです。そんな時、三浦さんは、強がって刑務所には知りあいがたくさんいるなどと言ったのです。
しかし、ここで三浦さんが言われたように、刑務所に入った人と入ってない人と、どれだけ違うだろうかという気がします。法を犯したかどうか、法を犯したとしても捕らえられたかどうか、それだけの違いです。イエスが、これまで罪を犯したことがない者が姦淫の罪の女に石を打てと言われたように、人はみな多かれ少なかれ罪を犯しているのではないかと思います。
「わたしは内心激しく怒った。耳採血しなかった初診の医師も、不潔な点滴注射をした看護婦も、わたしは共に許せないと思った。もしこのまま三浦が死んだなら、わたしは一生この二人を憎みつづけずにはおかないと思った。その時ふと、聖書の言葉が浮かんだ。
「吾(われ)らに罪を犯す者を、吾らが許すごとく、吾らの罪をも許し給(たま)え」
という祈りの言葉だった。毎日、わたしたちが祈る「主の祈り」の一節であった。ふだんは何の抵抗もなくとなえていたこの言葉が、いきなりわたしの前に立ちはだかったような気がした。」(p.179)
ご主人が盲腸炎で死にそうな状態になったエピソードです。医師の誤診、そして看護婦のいい加減な処置、それらに三浦さんは腹を立てたのです。しかし、聖句を思い出すことで、自分の愚かさに気づかれたそうです。
「わたしは結婚以来、三浦の弁当には心を使った。お菜入れに、いろいろなお菜を詰め合わせ、塩辛などを小さなビニール袋に詰め、黄色いリボンで結んで、片隅に入れる。すると三浦は、弁当箱の中に、わたし宛の紙きれを入れてくれる。
「綾子、今日のお弁当もおいしかったよ。いかの塩辛の黄色いリボンが美しかった。ありがとう」
そんなメモが、よく入っていたものだった。」(p.190)
それにしてもご主人は、よくそんなマメなことができたなぁと驚きます。しかし、そうあるべきなのかもしれないと思いました。ここに書かれているように、愛情を込めていろいろしてくれることに対し、たった一言の「おいしかった」も「ありがとう」もないなんて、その方がおかしいのですね。
「彼は後に、刑を受け、手紙をよこした。詫状(わびじょう)だった。幾度かわたしも手紙を出した。
「石にかじりついても、再び罪を犯してはいけない。立派になってから、わたしの前に姿を現わしなさい。心を入れ替えないMちゃんになら、わたしは会いません」
慰めの言葉と共に、こんなきびしい言葉も書き添えてやった。甘やかしてはならないと思ったからだ。
彼はほどなく退所したが、わたしの前に現われなかった。そして、わたしは、彼と同じクラスだった教え子から、彼の消息を聞いた。
「先生、Mちゃんは自殺しました。入所中、奥さんを人に取られて、親も家に入れないと言って、行くところもなくなったんでしょう。かわいそうなことをしました」
それはあまりに悲惨な結末だった。」(p.205 - 206)
三浦さんの教え子から詐欺を働かれて、いくらかのお金を取られたというエピソードです。他の犯行で捕まり、服役し、三浦さんに詫状を送ってきていました。しかし、出所したものの行き場をなくして自殺したのです。その彼に対し、三浦さんは後になって思ったそうです。悔い改められないならそれでもいいから、いつでも先生のところへ来なさい、と言ってやれば良かったのではないかと。
正義は、時として人を傷つけるものです。正義を振りかざすことによって、弱い人間を切り捨ててしまう。はたしてそれは愛なのだろうか? このようなエピソードから三浦さんは、神の愛を考えていかれたのでしょうね。
「「もし綾子が酒を売らないなら、すべてはいいことになるよ」
「そう、じゃ、小説家になれる?」
「なれるとも」
確信に満ちた三浦の声だった。」(p.234)
家計を助けるために始めた雑貨屋。それが近くに商売敵の雑貨屋ができたので、三浦さんは酒の販売によって儲けようとしたのです。しかしご主人は、それに反対しました。それでも売るというなら離婚するとまで言って。クリスチャンだからと言って、酒やタバコが禁止されているわけではありませんが、日本の当時のクリスチャンには、そういうことをしないという美風があったそうです。
しかしご主人は、そういうことよりも、三浦さんがお金を稼ぐことに心を傾けていることを諌めたかったのでしょう。だから商売敵の雑貨屋に対して、むしろ向こうを儲けさせるようにとさえ言ったのです。自分たちに必要なものは神が与えてくれる。だから心配せずに、儲けよりも信仰を第一にしなさいと言って。
この時、三浦さんは朝日新聞が募集していた連載小説に応募しようとしていました。優勝賞金は1千万円。当時のご主人の給料が5万円ほどですから、相当な高額賞金だったようです。それに当選すると、ご主人は予言されていたのです。
「「Tちゃん。人間の生活って、感覚的なものだけを満たそうとしたら、結局、いつまでたっても、満足することはできないわよ。刺激は刺激を求めるのよ」
異性との交渉にあき足らず、同性を求めるようになり、同性にもやがてあき足らず、獣姦(じゅうかん)をさえ望むようになる古今東西の話を思いながら、わたしは言った。T子は、夫の淡白さがあまりにも不満で、他の男性と深い仲になったという。」(p.241)
知人のT子さんのエピソードです。性生活の話になって、T子さんはご主人に不満で浮気していることを語ったのです。一方、三浦さんは体が弱いため、子ども作らないようにしていたそうです。しかしそれにコンドームなどは用いず、ご主人の自制によって行っていたとか。具体的にはわかりませんが、少なかったとあるので、生理の周期を利用する方法ではないかと思います。
この小説が書かれた時期を考えると、LGBTへの正確な知識がなかったのは、仕方ないかもしれません。そして話がこの後も続くのですが、性欲とセックスに溺れることは別のものだということも、気づいておられなかったように思いました。
そしてついに、三浦さんが書かれた小説は、当選することになります。それが「氷点」です。賞金の1千万円が手に入ります。それに対してご主人はすぐさま、次のように言われたそうです。
「わたしは、この使い方も、神の御心にかなう使い方ができるようにと、早くから祈っておいた。神と人のために使うことだね」
まことに三浦らしい言葉であった。
「綾子、神は、わたしたちが偉いから使ってくださるのではないのだよ。聖書にあるとおり、吾々は土から作られた、土の器にすぎない。この土の器をも、神が用いようとし給う時は、必ず用いてくださる。自分が土の器であることを、今後決して忘れないように」」(p.262)
ご主人は、本当に素晴らしい信仰者だったのですね。それにしても、最初から当選することを確信し、その賞金の使い道まで祈って決めておられたとは。まるで「引き寄せの法則」をすでに使われていたかのようです。
そして、このご主人の言葉の中に、この本のタイトルがあります。三浦さんの結婚生活は、まさに信仰生活だったのです。
この小説に書かれたご主人の態度や言葉には、本当に感銘を受けます。私自身、神を信じると言いながら、これほどまでに信じていないことを自覚させられます。もっともっと、精進しなければいけないなあ。そんなことを、この小説から考えさせられました。
2018年10月30日
光あるうちに
三浦綾子さんの自伝的小説の第三弾を読みました。前に紹介した「道ありき」、「この土の器をも」に続くもので、サブタイトルが「道ありき 第三部 信仰入門編」となっています。
この小説は、三浦さんが結婚して「氷点」で朝日新聞に掲載されて作家になった後のことが書かれています。と言うより、作家三浦綾子としての原点である「信仰」を見つめ、それを紹介するものになっています。なので、サブタイトルにあるように、まだキリスト教の信仰を持たない人向けに、信仰を勧めるものなのです。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「これも、時折、わたしは講演で話すのだが、たとえば、
「泥棒と悪口を言うのと、どちらが罪深いか」
という問題がある。わたしの教会の牧師は、ある日説教の中で、
「悪口の方が罪深い」
とおっしゃった。」(p.43)
さて、どっちが罪深いと思いますか?
たしかに泥棒は犯罪です。法律違反です。一方、悪口は法に反しているわけではありません。
しかし、この牧師さんはおっしゃったそうです。泥棒に何かを盗まれても、残念だと思うだけで、それで自殺することはまずない。けれど、悪口を言われたことで自殺する人は時折いるのだと。つまり、泥棒は人を殺さないが、悪口は殺すことがある。だから、悪口の方が罪深いということなのです。
まあどっちが正解ということはありませんが、これも1つの考え方ですね。聖書に、「口から出るものが罪を犯す」という言葉があります。まさにそういうことでしょう。
「考えてみると、わたしたち人間と絶対共犯者にならない、正しく清い存在は誰か。それは神である。だから、自己中心であればあるほど、神を嫌う。神を見ようとはしない。神を無視してやまない。
「神のほうを見ない」
これが原罪なのだ。神を見ない、神を見たくない生き方。この姿勢を持って以来、人類はあるべき所から外れてしまったというが、自己中心は人間にとって正に根本問題なのだ。」(p.46 - 47)
三浦さんの原罪論です。自分の考えに同調してくれない人を憎むという自己中心が罪なのだと言います。怠ける人は、一緒に怠けない友をうとむなど、共犯者を求めるのだと。それに絶対に同調しないのが神だから、自己中心であれば神を嫌うと言います。
ちょっと思い込み過ぎではないか、という気がしなくもありません。同調を求めず、人からどう思われようとかまわない、という人もいますからね。そして、神を嫌うというより、どうでもいいし、ただ信じていないだけという人もいます。
私は神を信じていますが、こういう純粋なキリスト教的考え方は、イマイチ受け入れられません。それは、大学生の時に新興宗教に傾倒した影響です。そして今は、「神との対話」シリーズを読んだことで、一部はその通りなのだけど、ちょっと無理があるよなと思うようになりました。そのことは他で書いてますので、知りたい方は、「神との対話」シリーズを解説するメルマガ(過去ログ)などをご覧ください。
「この人がむずかしい日本語を勉強したのはなぜか。住み馴れた故国を離れ、親きょうだいや友人たちと別れて、はるばる日本に来たのはなぜか。決して、金もうけのためでもなければ、出世のためでもないのだ。ただキリストの愛を、この日本の人たちに伝えたいためなのだ。日本人の魂を愛するが故に来たのだ。
この時点において、既に彼らは多くのものを捧げている。」(p.104)
これは、かつて起こった洞爺丸事件で、2人の外国人宣教師が、すでに身につけていたライフジャケットを、持っていなかった日本人の若者に譲って、溺れ死んだという事実を取り上げたものです。若い人たちは、これからまだ活躍の場があるのだからと言って、ライフジャケットを譲ったのだとか。
ふつうに想像してみても、すでに身につけているライフジャケットを、見ず知らずの外国人に譲るなんてことをするでしょうか? 三浦さんは、そこにキリスト者の愛を見るのです。そして、それができたのは、いざという状況が起こる前から、すでに自分のすべてを神に捧げていたからだと言います。
たしかにそうですね。普段からそういうことを考えていなかったら、なかなか未練を絶てないかもしれません。「友のために命を捨てる。これほど大きな愛はない。」というような言葉が聖書にあります。三浦さんの小説「塩狩峠」でも、そういう愛を示した主人公が描かれていました。
「パスカルは、「パンセ」の中で次のようなことを言っている。
<気晴らし。−−もし人間が幸福であったとしたら、聖者や神のように、気晴らしをすることが少なければ少ないほど、一層幸福であったろう。−−然(しか)り。だが、気晴らしによって愉快になり得るということは、幸福なことではないのか。−−いな。なぜなら、気晴らしは他所(よそ)から、外部から来る。そこで、それは依存的である。故(ゆえ)に、避け難い苦悩を惹(ひ)き起す無数の出来事によって乱され勝ちなのである>(由木康訳「パスカル瞑想録」より)
またパスカルはこうも言う。気晴らしは確かに、わたしたちの惨めな状態を慰めてはくれる。しかし、それがまたわたしたちの惨めさを最大なものにする。それは、わたしたちの真実な反省を妨げ、わたしたちを知らず知らずのうちに滅亡させてしまうからである−−と。」(p.108 - 109)
人生は虚無的であるということを三浦氏は言い、そこから抜け出すことが重要なのだと説きます。たしかに考えてみれば、人生は虚無的です。たとえば、オリンピックで優勝したとしても、だから何だと言うのでしょう? 100mの記録を0.01秒塗り替えたことが、いったいどれほどの意味があるのでしょう?
タイ語では、「ギン・キー・ピー・ノーン」という言葉があります。強いて訳すと、「食って、出して、やって、寝る」という意味です。これが人生だということですね。ある意味で達観です。人間がやっていることって、所詮はそれだけに過ぎない。そうも言えると思います。
そこで三浦さんはパスカルの言葉を引用しつつ、気晴らしを少なくして虚無と向き合うことが大切なのだと言います。そして、そうすることによって、神と出会うしかなくなるのです。
「わたしには、療養中深く愛している恋人がいた。ある時、彼の友人の金田隆一氏がわたしを見舞ってこう言った。
「もし、どちらかが死んだら、あなたがたは一体生きてい行けるだろうか」
この恋人は死んだ。一年後に三浦が現れ、五年後にわたしたちは結婚した。
わたしたちは、必ずしもお互いにとって、かけがえのない存在ではないのだ。」(p.115)
生涯愛しますと誓って、そのように思っていても、相手が先に死んでいなくなれば心変わりする。それが人間なのだと三浦さんは言います。だからこそ、人間はむなしい存在なのだと。
「誰しもが、様々な苦しさ、むなしさに陥らざるを得ないのだ。そのことを、腹の底からよくみとめた時、わたしたちは、
「虚無の隣りに神がいる」
ことを、知り得るのではないだろうか。」(p.121)
「先日、わたしはある六十を過ぎた癌患者が、日夜世界の平和を祈り、知る限りの人々のために祈りを捧げて、一日の時間が短くてならないという話を聞いた。
なぜ彼らが虚しくならないのか。それは、誰も彼から奪うことのできない実存を知っているからだ。虚無を満たすもの、それは実存しかない。実存とは、真実の存在なる神である。永遠に実在する神である。この神を信ずる時、わたしたちは虚無を克服することができるのだ。」(p.123)
人間が、ちっぽけで虚しい存在であることを、まずはしっかりと受けとめる。そうすることで、虚しくない存在である神に気づき、神にすがって喜びの中で生きられるようになる。そういうことを、三浦さんは言われています。
「いかなる罪を犯しても、一旦悔い改めて神のもとに立ち返ろうとするならば、神は責めるどころか、大いに喜んで受け入れてくださるのだ。わたしたちが、泥棒をしても、姦淫を犯しても、人を傷つけても、殺人を犯しても、とにかく本気で悔い改めるならば、神は大手を広げて、その御手(みて)の中に迎え入れてくださるのだ。」(p.142)
聖書にある有名な「放蕩(ほうとう)息子の話」(ルカによる福音書第15章)をもとに、三浦さんはこう言います。それほど神の愛は大きいのだ、ということですね。
ただ、「神との対話」を知っている私は、なぜ「本気で悔い改めるならば」という条件をつけるのだろう、と不思議に思います。愛が無条件なら、そんな条件は不要です。そんな条件をつけるのは、本当の愛を知らない人間だからではないでしょうか。実際、この「放蕩息子の話」を読んでも、王は放蕩した息子を迎え入れるのに、何ら条件をつけていません。
「子供が父親の大事な物をこわすとする。父が怒って、子供を殴ろうとした時、その間に入った母親がなぐられる。
「どうぞ、わたしに免じてこの子をおゆるしください」
母親が平あやまりにあやまる。父は何の罪もない母親をなぐってしまった以上、ゆるすより仕方がない。これと全く同じではないが、似た形が、神とキリストと人間の関係なのである。」(p.162)
なぜ無実のキリストが十字架に磔(はりつけ)にされる必要があったのか? それは、罪深い人間たちの罪をあがなうためだと、キリスト教では言います。そのことを三浦さんは、こんなたとえ話で説明されました。
しかし、これは申し訳ないが無理があると思われます。これでは神は、怒りに任せて子ども、つまり人間を殴ろうとしたことになります。愛の神なのに。いったいどこに愛があるのでしょう? どこに許しがあるのでしょう? それに、身代わりの母親、つまりキリストに罰を与えてしまったから、仕方なく人間の罪を許したのでしょうか? 本当にそう考えているとしたら、それはあまりに神を蔑んでいないでしょうかね。
「誘った人が、すべてキリストを受け入れるとは限らない。態(てい)よく断わられ、あるいは軽蔑され、嫌われるかも知れない。が、わたしは、この章の最後に、敢(あ)えて今一度、読者の一人一人に向って呼びかけたい。
「かけがえのない、そして繰り返すことのできない一生を、キリストを信じてあなたも歩んでみませんか。
(中略)
過去はいいのです。今からの一歩を、あなたもキリストの愛の手に導かれて歩みたいとお思いにはなりませんか。そしてあなたの人生を喜びに溢(あふ)れた人生に変えたいとは、お思いになりませんか。
そのことが、あなた自身にどんなにむずかしく見えても、神が助けてくださるのです。キリストはこう言っておられます。
<人にはできないことも、神にはできる>
と」
光あるうちに光の中を歩もうではないか。」(p.240 - 241)
三浦さんは、このようにキリスト教に誘います。自分自身がキリスト教によって変わった喜びがあるから、たとえ断られても誘わずにはいられないのです。
私もかつて、新興宗教に入信していて、その活動の一環として勧誘活動(伝道)を行いました。しかし、これが嫌で嫌でたまらなかったのです。相手から否定されることが、受け入れ難かったのですね。それは私自身にまだ、信仰を持った喜びがなかったからだろうと思います。
今、私は、「神との対話」シリーズを積極的に勧めています。これはある意味で伝道なのかもしれません。理解されなくても平気です。批判されても大丈夫です。なぜなら、私の中に喜びがあるからです。
三浦さんの自伝的小説を3冊読んで、三浦さんのことが少しわかったような気がしました。三浦さんは、自堕落な生活をしていたダメな自分から、神と出会うことで熱心な信者になったことを強調されています。しかし私は、元から三浦さんは、本質を求めておられた方だったのだと思っています。
亡くなられた恋人も、結婚されたご主人も、共に人間とは思えないほどの素晴らしい人格者であり、キリスト教信者です。その他にも、素晴らしい信仰者が、三浦さんの回りにはあふれています。それは、本質を求めるべく生まれてきた三浦さんが引き寄せたとも言えます。あるいは、そういう星の下に生まれて来られたのだとも。
ですから他の人が、三浦さんのような信仰を持てなくてもいいし、持たなくてもいいのだろうと思います。ただ、三浦さんの本を読むことで、こういう生き方があり、考え方があると知るだけで、充分なのだと。なぜなら、まずは知ることから人生は動いていくからです。
あることから三浦さんに興味を持ち、3冊を読んできました。三浦さんの人生の一端に触れることができて、私もとてもうれしく思います。
2018年10月31日
バカとつき合うな
話題の本を読んでみました。すぐに読みたかったので、Kindle版です。ホリエモンこと堀江貴文(ほりえ・たかふみ)さんとキングコングの西野亮廣(にしの・あきひろ)さんの共著です。堀江さんの本は、以前に「お金はいつも正しい」と「もう国家はいらない」を紹介しています。西野さんのは「えんとつ町のプペル」ですね。
Facebookの堀江さんの投稿に、この本の出版を記念した企画をやろうという話があり、2人が飲み屋のママをやって100冊買ってくれた人を招待する、ということでした。で、その100冊を買った証拠をどうするかということで、最終的に100冊を持ってきてもらうことにしたのだとか。「そんなバカ、いるか!?」という企画ですが、さっそく何人かのバカが申し込んでいたようです。これを読んで「面白い!」と思い、読んでみたくなったのです。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。なお、Kindle版ですのでページはありません。コピペの制限もあるので、途中からはKindle版の位置情報が一部なくなります。ご了承ください。
「あなた は いま、 自由 です か?
あなた は 自由 で ある べき だ。
なのに もし、 あなた が いま 自由 で ない と し たら、その 理由 は 簡単 です。
バカ と 付き合っ て いる から です。」(Kindle の位置No.11-13)
まず冒頭で、「自由」と「バカと付き合う」ことの関連性を指摘します。
「つまり、 バカ は 遍在 する。
バカ は ある 意味、 普遍的 な ん です。」(Kindle の位置No.19-20)
「大きな 話 を する なら、 そんな バカ の 存在 が、 人類 文化 の 足 を 引っ張り つづけ て き た ん だ と 思い ます。 正確 に 言う なら、 人類 の 自由 を 邪魔 し つづけ て き た。 同じ 人類 で あり ながら。」(Kindle の位置No.21-22)
昔も今も、そして未来も、「バカ」は存在し続けると言います。そしてその「バカ」によって、自由が邪魔されてきたのだと。
では、どうすればいいのか? 攻撃する必要もなければ、仕方なく受け入れる必要もないと言います。
「だから、 あなた が できる こと は ただ ふたつ だけ。
「バカ と 付き合わ ない こと」 と、
「バカ に なら ない こと」 です。」 (Kindle の位置No.24-26)
これが本書の結論になります。ただ関係を持たないこと。そして、自分自身がそうならないよう気をつけることですね。
しかし、そうは言っても、いろいろなしがらみがあります。そう簡単に付き合わないようにすることは難しい。そう考えがちですよね?
それに対して堀江さんは厳しいことを言います。
「環境 や 付き合う 人間 を 選べ ない と 考え て しまう のは、 バカ の 思考 です。」(Kindle の位置No.165-166)
そう考えていることが、もうすでに自分がバカになっていると言うのです。
「想像力 って、 生まれ 持っ た 能力 とか では ない。 想像 でき ない という のは、 単に 情報 を 持っ て い ない こと に すぎ ない。 情報 が ない から、 想像力 も ない ん です。
情報 を 取り に いく こと に 消極的 で、 運 任せ で、 その 結果、 想像力 が ない 人。 ぼく は そういう 人 を、 バカ と 呼び ます。」(Kindle の位置No.193-196)
環境に従うしかないと思っている人は、想像力が足りないのだと堀江さんは言います。他人や環境のせいにせず、運任せにせず、主体的に生きる。そういう生き方をすれば、バカと付き合わないという決断もできるのだと。
「この 現代 において、 上司、 先生、 家族、 友人…… それ が 誰 で あっ ても、「 みんな と 同じ こと を やり なさい」 という 人 は、 全員 バカ です。」(Kindle の位置No.198-199)
西野さんは、日本の同調圧力を否定します。これは私も同感です。むしろ、他人と違うことをやるべき。これは、投資をやる人なら、みんな知っていることですけどね。
日本では、同じように動く工場労働者とか、命令どおりに一糸乱れぬ動きをする兵隊を、子どものころから養成しているような教育です。
「いわゆる 受験 までの 学校教育 は、 従順 で ある こと が 成績 に つながり ます。 テスト で いい 点 を とる という こと は、 出題 者 の 気持ち を 忖度 する よう な もの です。 ぼく も 東大 の 入試 では、 答案 に「 出題 者 が 書い て ほしい 回答」 を 書き まし た。
それだけ なら まだ いい。 怖い のは、 学校 に 従う こと に 慣れ て いっ て、 勉強 の 内容 とは 関係 の ない 習慣 も 刷り込ま れ て いく こと です。」 (Kindle の位置No.260-264)
出題者が正解と決めたものだけが正解。日本の学校教育は、だいたいにおいてそうです。どんな素晴らしい発想をしても、学校教育では否定されます。ネットで見ると、ピーマンの絵を見せて4文字の答えを書かせる問題で、「パプリカ」と書いた子どもが不正解になった、というものがありました。ピーマンでもパプリカでも正しいと思うのですが、先生の答えに合わなかったということなのでしょう。
「学歴 エリート の 得意 科目 は、 数学 や 英語 では ない。 彼ら の 本質的 な 得意 科目 は、 従う こと と 我慢 です。 サラリーマン という 社会 の 歯車 を やる には 最適。」 (Kindle の位置No.268-270)
自分で考えずに、ただ従うことだけ考える。そういう人間になってしまうのです。
「ただ厄介なのが、こういう人たちにかぎって、「自分と同じようにせよ」って他人に強要してくるんですよね。このへんは西野くんも書いている通り、バカは強要してくるんです。
ぼくに言わせれば、理由はふたつ。
そういう人たちは、自分から勝手に我慢を選んでいるくせに、「自分は我慢しているのにあの人は我慢をしていない、不公平だ、ズルい」と頭の中で論理がスライドしてしまっているから。
もうひとつの理由は、彼らがストレスを溜めているから。そういう人が口出ししてくるときってたいてい攻撃的です。そうやって人にあたって、結局ストレス発散をしてるんです。
自分勝手に我慢して、それで他人に迷惑かけてんじゃねーよ。」 (Kindle の位置No.345-)
こういう人、たしかに多いですよね。やたらと自分の価値観を押し付けてくる。たいていそれは、マナーがどうのこうの、常識がどうのこうのといった、我慢させるものです。
「いまの時代に必要なのは、我慢出来ないほど、「これをやりたい!」と欲望する力です。我慢とは真逆の力。」 (Kindle の位置No.358-)
堀江さんは、我慢グセは多かれ少なかれほとんどの人が持っているから、ゆっくりでいいから我慢グセをやめて、自分がやりたいことをやっていくようにしましょうと言います。それが自分の可能性を広げるのです。
「なにかをやってみて、成功することも失敗することもあるでしょう。成功も失敗も、経験値が上がるという意味では等しいものです。失敗も、重ねれば重ねるほど経験値が溜まっていく。経験の積み重ねだけが、勘の鋭さを磨きます。」 (Kindle の位置No.388-)
西野さんは、未熟なのに勘に頼るのはバカだと言います。もっと論理的に考えて行動せよ、ということです。しかし、重要なのはたくさん行動することです。行動して体験して経験値を積んでいくこと。それが重要なのです。
「座学というスタイルの中に、「行動するな」というメッセージが含まれてしまっているんです。」 (Kindle の位置No.423-)
「既存の学校教育の中では、「行動せず黙っていられる子」が偉くなっていく。
そんな環境の中にいるうちに、「やりたいことを我慢する」ではなく、「やりたいことがない」に変わっていく。「欲望する能力」を失っていく。もともとは全員が持っているものなのに、いわば、去勢されていくんですね。」 (Kindle の位置No.426-)
堀江さんはゼロ高というスクールを作られていますが、そこでは座学を少なくしているのだとか。たしかに日本の学校教育は、我慢する子、じっとして黙っている子を育てているように思います。そして、その典型的な良い子が私でした。まさに、去勢された子どもとして育ったのです。
「ぼくの考えはシンプルで、やりたいことは本当はあるんです。あるいは、かつて持っていた。我慢せず行動する友人たちに囲まれたら、抑えつけられた「欲望する能力」もだんだん復活してきます。」 (Kindle の位置No.441-)
本当に、そうだと思います。私も、子どものころに、こういう話を聞きたかったなと思います。
まあでも、それで親を恨んだり、ただ嘆いていたりするつもりはありませんけどね。常に、今、これからですから。まだ遅すぎるということはありませんから。
「「自分はああいうやり方をしない」と言うだけなら結構。批判上等。けど彼らは「怒って」いました。感情で反応していました。
なぜ感情的にならざるをえなかったか。
ようは、怒っていた人たちは、その常識がどんなロジックで成り立っているか、本当はわかってなかったんじゃないかと思います。自分が作ったわけではないから、実はロジックはわからない、でもそれが正しいと教えられていた。だから、いざ例外が登場すると、ロジックで議論できないから、感情で反応してしまった。」 (Kindle の位置No.488-)
西野さんは、「えんとつ街のプペル」をネットで無料公開されましたが、それに対して非常に大きな反発があったそうです。「コンテンツはつねに有料」という常識に反していたからです。和を乱す者とされ、攻撃されたのですね。
たしかに、こういう意味も知らず常識を振りかざす人は多いですね。そして、西野さんが指摘するように、すぐに感情的になって押さえつけようとします。困ったものです。
「たまたま、数十年前の高度成長期に、終身雇用幻想が実現する「例外的な時代」がたしかにあった。厄介なのは、その次代を経験した上世代が、それが「例外的な時代」だったことに無自覚だということです。だから下の世代に向けて「大学を出て会社に就職しなさい」と言いつづけてしまう。
自分がたまたま恵まれていただけという自覚がないのは、バカです。」 (Kindle の位置No.623-)
堀江さんは、ひとつの仕事を続けることで大成するのは、イチロー選手のような天才だけで、凡人にはそんな生き方は難しいと言います。堀江さん自身も凡人であり、だからたくさんのことをやっているのだと。そのため、「多動力」を重視し、やりたいことを複数持って、そのどれもをやることを勧めているそうです。
「必要 に 迫ら れ なかっ た 進化 なんて ない という 話 です。 天才 の 話 も これ と 同じ。 極端 な 才能 も、 極端 な 環境 によって もたらさ れ た もの な ん です。 環境 が 先。 そこ に 帳尻 を 合わせる よう に、 才能 が 出 て くる。 天才 に なる 必要 が ある 環境 に 人 を 追い込め ば、 その 人 は 天才 に なる ん です。」(Kindle の位置No.650-654)
ピンチがチャンスになるというのは、こういうことですね。苦しい環境に置かれるから、そこに適応して才能が開花する。だから、設計図を描いてその通りに生きようとするのではなく、自分を信じて好きなことに飛び込め、と西野さんは言うのです。
「多くの人は、人生の時間を、なににどれくらい投じるかについて、主体的に選択していません。学校もそうだし、労働もそう。」 (Kindle の位置No.722-)
「人生とはなにか。人生とは単純に、時間のことです。」 (Kindle の位置No.729-)
堀江さんは、社会から自分の時間を取り戻せと言います。何にどれだけ時間を掛けるかは、自分が決めるべきだと言うのです。
「それを象徴するのが、日本の高校以前の学校に飛び級がないこと。だから学校には、年齢の多様性がない。大学も結局、18、19歳で入学する人がほとんど。優秀層だけの問題ではありません。逆に、勉強が苦手な子どもが、小学校を12年かけて18歳で卒業するということも許されない。」 (Kindle の位置No.737-)
たしかに、決まった時間で勉強しなければなりません。そうやって、大量に落ちこぼれを作っているのが、日本の学校教育です。
堀江さんは、仕事時間だって自分で決めるべきなのだと言います。会社に使われていてはいけないのです。
「人の時間を奪うことに鈍感な人間が多すぎる。
たとえば、電話をかけてくるバカ。
電話は、他人の時間に割り込みをするツールです。あなたが電話をかけるとき、相手は必ずなにかほかのことをしています。」 (Kindle の位置No.817-)
これは同感です。私も、電話がかかってくると「邪魔だな」と感じることがあります。また、なるべく電話はかけないようにしています。だって現代では、メールもあればLINEなどのチャットツールもあるのですから。
「メールのほうが早く書けるのにわざわざ手書きで書くというのは、無駄な時間を使って、つまり自分の時間を差し出すことで、相手にへりくだっているつもりなんでしょう。その理屈がもう、キモい。」 (Kindle の位置No.840-)
たしかに、手書きの手紙が好きな人はいますね。私などは、やはりメールで済ませたい派ですから、今や年賀状も出しません。
ただ、手書きの文字に温もりを感じて、それが好きだという人もいます。ですから、一概に否定されるべきでもないかなと思います。
さらに堀江さんは、三国志の「三顧の礼」という故事を否定します。
「現代では反面教師にすべき故事成語です。立場が上とか下とか関係なく、現代だったらLINEで「軍師やって」って送って終わりでしょ。俺が欲しければ同じことを言いに三度訪ねて来いなんてやつ、名軍師じゃない。バカです。」 (Kindle の位置No.846-)
これまたバッサリですね。(笑)たしかに、偉そうに見せるためであれば、それはナンセンスだと思います。
ただこの故事で諸葛孔明は、本当は軍師をしたくなかったのでしょう。劉備に会えば引き受けざるを得なくなる。だからわざと会わないようにした。しかし、三度も諦めずに訪ねてきてくれたという劉備の情熱にほだされ、意気に感じて引き受けたのです。そういう一面もあると思いますよ。
「どんなに合理的に説明しても、理屈の問題ではなくなってしまっている。なぜなら、おばちゃんの中ではそれは善だから。つまり、善というのが、思考停止をする口実になってしまっている。「これはいいことだからいいんだ!」みたいな。」 (Kindle の位置No.868-)
風の強い日に、軒並み倒されていた自転車を、おばちゃんが起こしていたのだそうです。それを見た西野さんは、また1台ずつ寝かせていったのだとか。まだ風が強かったので、起こした自転車はまた倒れると思ったからです。倒れれば傷つくし、壊れるかもしれません。だから、寝かせたままにしておく方がいい。それが西野さんの理屈だったのです。
けれどもそれはおばちゃんには通じず、たいへん怒られたそうです。被災地に千羽鶴を送るとか、何の準備もせずにボランティアへ行くなど、善意の空回りはよくあることです。重要なのは、そういうことがあると知っておくことと、やはりよく考えることでしょうね。
「独善的、つまり独りよがりの善っていう形容詞がありますけど、逆に、世の中に独善じゃない善ってどれくらいあるんですかね?」 (Kindle の位置No.885-)
西野さん自身、振袖詐欺の被害者を救うためのイベントをやったりして、善意の行動をよくされます。しかしそこには必ず「自分が喜ぶ」という要素があるから、独善性が入っていると言います。だから、独善だから悪いのではなく、空回りしないようにしっかり考えることが重要なのです。
堀江さんがツイートで炎上した事件ですが、新幹線で「シートを倒していいですか」と聞いてきた前の席の人に、そんなこと聞かずに勝手に倒せと堀江さんが批判したことがありました。堀江さんは、時間の無駄だからと言います。
また、国内線の飛行機の手荷物検査で、「ペットボトルの中身をお調べしてよろしいでしょうか?」と必ず尋ねることなども、同様に無駄だと言います。調べなければ乗れないのだからと。
「まず、ぼくの時間を無意味に奪っているのがダメ。そのうえ、よく考えてみると、他人の時間を奪っておきながら、その人もなにも得ていない。天気の話を振ってみたところで、自分もなにも得るものがないでしょ?ぼくだけじゃなくて向こうも時間を無駄にしている。」 (Kindle の位置No.906-)
ビジネスで会った時、最初に天気の話をするのさえ無駄だと言います。堀江さんらしいですね。
「マナーなんてどこかのバカが作ったものです。
ぼくには、「了解」のLINEスタンプだけでいいです。早いから。」 (Kindle の位置No.934-)
目上の人に「了解しました」はダメというビジネスマナーに対しても、堀江さんはこのように噛み付きます。合理主義を追求されているようです。
「いまでも取材で訊かれることがあるんです。「いわゆるライブドア事件の前後で、金の切れ目が縁の切れ目とばかりに、人間関係を失ったでしょう」って。そういうストーリーに落とし込もうとする下心が透けて見えて、大嫌いな質問です。
そりゃあ去った人もいるでしょう。でもそんなやつの顔なんてもう覚えてない。人間関係なんてつねに変わりつづけるものだから。」 (Kindle の位置No.990-)
「「孤独になったらどうしよう」と恐怖している人って、世の中に多いんですね。だから、なくならない人間関係の作り方について、ヒケツを教わりにくる。書店には人との付き合い方の本が並ぶ。
そういう書籍の中で、ぼくが薦められるのは『嫌われる勇気』(岸見一郎&古賀史健/ダイヤモンド社)だけです。あ、あと『バカとつき合うな』か(笑)。」 (Kindle の位置No.997-)
堀江さんは、人間関係は常に変わっていくものだから、去る者は追わずでいいと言います。そうすれば、自然と新たな人間関係が生まれるからと。
「あなたが本当にやりたいことをやって、自分の時間を生きていたら、それにふさわしい「自分の人間関係」は、自然とできてくるものです。もっとも、自分の時間を生きている人に、孤独を恐れている人なんて見たことがないですけどね。」 (Kindle の位置No.1009-)
孤独になることを恐れず、自分の生き方を貫くこと。孤独が嫌だからと言って、バカと付き合っているようではダメなのです。
「「自分の時間」はあなたを守る。一方、「他人の時間」は、あなたを守らないどころか、最終的に孤独に追いやるのかもしれない。
まあ、ぼくは他人の時間を生きたことがないんで、わかんないですけどね。」(Kindle の位置No.1015-)
やりたくないことを嫌々やる。それが「他人の時間」です。そうやって恨んでいるから、孤独になっていくのです。
「でもぼくからの最重要メッセージは、「未来をあれこれ想像して、不安に思うことに意味はない」ということです。」(Kindle の位置No.1087-)
未来予想してみたところで、なかなか当たるものではありません。
「どうせそうなら、いま目の前にあるものが、あなたがワクワクできるものかどうかを大事にしてほしい。」(Kindle の位置No.1093-)
「過去や未来という概念は、人間がもともと生まれ持っていたものではありません。子どもを見てください。熱心に現在だけを生きているでしょ?
子どものように、真の現在を生きてください。それも、熱心に。」(Kindle の位置No.1097-)
堀江さんは、過去や未来にとらわれることなく、不安を捨てて今に生きるようにと言います。けっきょく、ここに行き着くんですよね。「前後際断」です。
西野さんは、ただ有名だという「認知度の高い人で」ははなく、「信用度の高い人」が勝ち組になっていると言います。
「信用度の高い人……言い換えれば「嘘をつかない人」ですね。
場がシラケようが、立場が悪くなろうが、不味いモノに対して「マズイ!」と言えちゃう人たち。」(Kindle の位置No.1115-)
自分に正直な人と言えるでしょうか。相手の顔色をうかがわない人です。そういう人は信用度が高く、お金はそこに集まってくる、というわけです。
「ツイッターで、アンチらしきアカウントがぼくの言動に粘着してくることはよくあるけど、どれもこれも総じてレベルが低い。行動が伴わない人の思考は浅いんです。レベルが低すぎて、ツイートの向こうに人間の思考を認識できない。ああいうアカウントって、自動botなんじゃないかと思ってるんですよね。つまり、ぼくにとっては存在していないのも同然なんです。
だからこれは、これまでに書いてきたバカとはちょっと違っていて、バカでさえない。バカ以下というか、無です。存在以前。」(Kindle の位置No.1161-)
たしかに、粘着質の人いますね。私もFacebookでよく絡まれます。絡んでくる人は、だいたい論理的な思考ができないし、批判のための批判ですから、どんなに説明しても納得はしません。「ああ言えば上祐(じょうゆう)」と言う言葉が昔流行りましたが、付き合うのがバカらしくなります。無視するに限りますね。
「考えることに時間を費やさなかった分、バカのほうが利口より時間コスパがいい。利口が考え詰めているあいだ、そして小利口がちょっと考えて結局足踏みしているあいだ、バカはもう行動しています。」(Kindle の位置No.1209-)
堀江さんは、こう「いいバカ」のことを言います。考えすぎず、たくさん行動する。前に出た「多動力」です。そして、それはまさに西野さんのことだと。
「そして堀江さんがルールを書き換えようとするのは、自分個人の利益のためなんかじゃなかったと思います。自分の後に続く新しい世代が、息苦しさを感じずに、より自由に行動していけるように。その下地として、彼はルールを書き換えなければいけないと考えていたと思う。」(Kindle の位置No.1434-)
西野さんは、堀江さんのことをこのように評します。誰かが作ったルールの中で戦っていたら、絶対にその作った人を超えられません。堀江さんは、社会のルールを変えようとしていた。パイオニア(開拓者)です。しかも後に続く世代のために。そういう堀江さんに対して西野さんは、嫉妬を感じると言います。それだけ、高く評価しているということです。
堀江さんは、本当にそういう人だと、私も思います。
2011年、私は堀江さんのツイートをフォローしていました。3.11の時、身内と連絡が取れなくなった多くの人が、堀江さんを頼りました。「誰が誰を探しているから連絡を」というツイートを、拡散してほしいという依頼です。堀江さんは、寝てないのではと思うほど、腱鞘炎になるのではないかと思うほど、ずっとリツイートをし続けていました。
私は、お節介ながら堀江さんに言いました。「もうやめた方がいいですよ。そういうことをしても効果は少ないし、堀江さんの身体がもたないから。」と。他のフォロワーから批判されました。役に立ったケースがあるのだからと言います。でも、論理的に考えて、そういうツイートでつながることはあまりないし、それでは堀江さんだけが負担になってしまいます。他の手段を講じるべきです。
それでもしばらく、堀江さんはリツイートし続けました。堀江さんは、そういう人なのです。だから私は、堀江さんのことを信用しているし、好きなのです。
「「断られるかもしれない」と何度考えてもその時間は無駄で、大事なのはその1回の「乗れよ」に早く出会うこと。そのために必要なのが、バカになることだった。」(Kindle の位置No.1539-)
堀江さんは、大学生の時にヒッチハイクをしたそうです。ほとんどは断られるのですが、10回に1回くらいは「乗れよ」と言ってくれたのだとか。それが「いいバカ」になる原体験だったと言います。
「自分がバカであるか天才であるか、あるいは普通の人か。
それを定義したところで、誰が得をするんでしょうか。それもぼくにとっては「考えてもしょうがないこと」のひとつ。そんなことを考えるのは思考のパフォーマンス低下の理由にしかならない。無駄。
自分の定義を追い求めることは、突き詰めると結局、人からどんなふうに見られているのかを意識しているだけにすぎません。」(Kindle の位置No.1551-)
まさにそうなんですよね。他人からどう見られているかが気になる。自分に自信がないから、他人の評価に頼ろうとしてしまう。私は、そういう人間でした。今もまだ、そういう面が残っています。
「だから真似することは、個性を育てるんです。
いいと思ったことは、好きに自由に、真似る。パクる。人と違うことをしなければと考える「自分探し」とは逆の道ですね。
これが最後まで読んでくれたあなたへの最後のアドバイスです。」(Kindle の位置No.1658-)
この本を読んで、堀江さんや西野さんの考え方、行動を真似るようにと堀江さんは言います。いくら真似ても、ミニ堀江、ミニ西野にはならないからと。守破離ですね。まずは完全な模倣から入ること。そして時期が来れば、自ずと自分の道が見えてくるのです。
「このときの踊りというのが、高尚でストイックなものなんかではなくて、裸踊りだったらしいんですよね。つまり、アメノウズメはバカをやった。それでみんなは笑って、なんだか楽しそうな外の様子が気になるアマテラスが岩戸をやっと開いたという。
アマテラスが出てきて、みんなに光が戻る。それをなしたのがアメノウズメであり、芸人であり、バカだったわけです。神さまですけどね(笑)。」(Kindle の位置No.1768-)
古事記にある岩戸の話です。私の田舎では石見神楽をやりますが、この岩戸も演目にあります。子どものころは興味がなかった演目ですが、おとなになってこのストーリーを知ってから、大好きになりました。特にこの天鈿女命(あまのうずめのみこと)が半裸状態で踊ったというところ。大好きです。
「日本で最初の芸人、アメノウズメはバカだった。バカをやって、まわりの人を笑わせて、アマテラスオオミカミを岩戸の外に出て来させて、世界に光を与えた。世界を明るくした。」(Kindle の位置No.1815-)
西野さんは、「いいバカ」は世界を明るくするのだと、このように言います。
「行動してください。
この本を閉じたら、すぐに行動してください。
当然、行動には恐怖や痛みは伴います。それでも、それら一切を受け止めて、走り続けてくだされば、
きっとぼくらは、どこかの酒場で出会えると思います。
その時は、堀江さんやぼくやぼくらの友人といった、バカとつき合ってください。」(Kindle の位置No.1862-)
西野さんは、最後をこう締めくくります。
いいですねぇ、いつかそういう日が来ますかねえ。いや、きっと来ると信じます。「いいバカ」を目指す。私も、そういう生き方をしたいと思います。
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