2018年09月03日

妻との馴れ初め

妻と結婚して、もうすぐ7年になります。付き合い始めてからだと10年を超えました。

妻との出会いや、その後の関係は、私の人生にとって、とても大きな影響があったと思っています。

私がお勧めしている「神との対話」でも、人間関係がなければ私たちは進化成長できないとあります。

とりわけ妻との関係は、私の成長において重要な役割を果たしていると思うのです。


そこで、妻との出会いや、付き合うことになった経緯などを書いておこうと思い、メルマガ「SJ通信」に書いてきました。

過去ログで読むことができますが、最初または最後から順番にしか読めない仕組みになっているので、ここにリンクを貼って読みやすくしておこうと思います。

 

●メルマガ「SJ通信」:「妻との馴れ初め」シリーズ

01.「結婚するつもりでいました」
 (2018年8月8日)
02.「結婚が破談になった日」
 (2018年8月9日)
03.「それは愛だろうか?」
 (2018年8月11日)
04.「結婚をあきらめたら彼女ができた」
 (2018年8月13日)
05.「自由だから浮気してもいい」
 (2018年8月14日)
06.「自由だから掃除しなくてもいい」
 (2018年8月17日)
07.「根拠のない愛だから永続する」
 (2018年8月20日)
08.「結果的に結婚することに」
 (2018年8月22日)
09.「結果的に結婚することに(続き1)」
 (2018年8月23日)
10.「結果的に結婚することに(続き2)」
 (2018年8月24日)
11.「結果的に結婚することに(続き3)」
 (2018年8月25日)
12.「結果的に結婚することに(続き4)」
 (2018年8月27日)
13.「結果的に結婚することに(続き5)」
 (2018年8月28日)
14.「結果的に結婚することに(終わり)」
 (2018年8月29日)
15.「妻がキレた5バーツ事件」
 (2018年8月30日)
16.「妻がキレた5バーツ事件(続き)」
 (2018年8月31日)
17.「北海道旅行の後で妻に贈る言葉」
 (2018年9月3日)
18.「北海道旅行の後で妻に贈る言葉(続き)」
 (2018年9月4日)
19.「感情を味わうということ」
 (2018年9月5日)
20.「感情を味わうということ(続き)」
 (2018年9月6日)
21.「今はただ安心して生きることにします」
 (2018年9月7日)
※このシリーズはこれで終わりですが、ぜひ引き続き私のメルマガをお読みくださいね。
 ご購読(無料)は、ブログの左サイドバー、または上記過去ログページかこちらのリンク先からどうぞ。



●ブログ記事へのリンク

妻のことや、上記のメルマガで取り上げたことの一部については、これまでにもこのブログで書いてきました。
すべてはフォローできないと思いますが、思いついた記事のリンクをここに載せておきます。

「彼女を泣かせました」
 (2012年5月25日)
「辛い失恋もありました」
 (2012年5月26日)
「フラれてばかりの人生」
 (2012年5月30日)
「50歳の私が結婚できた理由」
 (2012年5月30日)
「がんばろう、福島!がんばろう、ニッポン!」
 (2012年6月30日)
「「もう別れるしかない」と何度も考えました」
 (2012年7月12日)
「帰ってきました」
 (2012年10月19日)
「旅行中の出来事に思うこと」
 (2012年10月22日)
「バレンタインデーの贈り物」
 (2013年2月14日)
「寒くて暖かかった札幌旅行」
 (2013年2月19日)
「7月7日の思い出」
 (2013年7月8日)
「今回の帰省旅行は寺社めぐりをしました」
 (2013年10月25日)
「戻ってきました」
 (2014年4月22日)
「夏の思い出はヤマメ釣りと花火」
 (2016年8月18日)
「パタヤ旅行」
 (2016年9月7日)
「丸2週間の国内旅行」
 (2017年1月7日)


●メルマガ「SJ通信」:その他のリンク

妻とのことを書いたまぐまぐのメルマガの過去ログも、ここにリンクを貼っておきます。
特に、2018年2月末から始まった妻の実家でのことですけどね。わずか4ヶ月でしたが、とても濃い内容でした。(笑)
ここにリンクを貼っていない回でも、妻やお義母さんとのことなど書いてます。
よろしければ上記シリーズ以外の過去ログもご覧ください。

「妻に鍛えられています」
(2018年3月日)
「マスオさんはつらいよ」
(2018年3月13日)
「キレてしまいました」
(2018年3月19日)
「離婚の危機です」
(2018年3月21日)
「まるで禅寺の修行です」
(2018年3月23日)
「私がストレスを感じる時」
(2018年4月7日)
「私は有能でなければならない」
(2018年4月18日)
「あっけなく白旗です」
(2018年4月19日)
「私はお財布ですか?」
(2018年4月26日)
「不覚にも泣きそうになりました」
(2018年6月4日)
「幸せそうに見えません」
(2018年7月28日)
「幸せってなんだろう?」
(2018年7月30日)
「気付かせてもらったこと」
(2018年7月日)
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 13:34 | Comment(0) | └ 家族のこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年09月13日

こう見えて料理は得意です

意外に思われるかもしれませんが、私は料理は得意な方です。

ただし、最初に断っておきますが、なんちゃって料理です。

そんなにグルメでもないし、味にうるさくもないので、それなりに食べられる料理ですね。


と言うのも、18歳で一人暮らしを始めてからずっと自炊をしていましたから。

昔は、惣菜を売っていることなどまずなかったし、あっても高かったので、貧乏苦学生は自炊するしかなかったのです。

そんな私のために、母がレシピを書いたノートをくれました。うどんのつゆなんて、出汁のとり方から書いてありましたからね。一度も作りませんでしたけど。(笑)


それから、新聞奨学生のころは、朝食当番をすることがよくあり、10人分くらいの食事を作りました。

1人100円の予算で前日に食材を買っておき、配達する人たちのために食事を用意します。

なにせ人数が多いので、米はどんぶりで何杯だとか、大雑把な作り方でした。朝っぱらからカレー、シチューなど、ハイカロリーな料理が多かったです。


社会人になってからも、弁当を自分で作って持っていったりしてました。これも節約のためです。

と言っても、自分用だと料理はほとんどしません。市販のレトルトハンバーグをご飯の中に埋めただけとか。(笑)

帰ってからの晩ご飯は、具だくさんスープにご飯を入れておじやにするような料理がほとんどでした。

自分用だと、いくらでも手抜きできちゃうんですね。(笑)


そんな私が、クックパッドにデビューしました!

最近作って良かった料理を、教えてみたくなったんですね。

第一弾は、「超簡単!無限キャベツ」です。

Cpicon 超簡単!無限キャベツ by プーさんPAPA


これを料理と呼ぶかどうか微妙でしたが、まあいいかと。(笑)

今日、第二弾を載せました。「レンチンで簡単!常備菜のカレー肉味噌」です。

Cpicon レンチンで簡単!常備菜のカレー肉味噌 by プーさんPAPA


こちらは、それなりに料理っぽいでしょ?(笑)

今はキッチンも狭いし、なるべくIHのコンロは使いたくないし、鍋を使うと洗うのも面倒なので、電子レンジで作ることを考えています。

ちなみにご飯は、タイ米で黒米の玄米を電子レンジで炊いています。特別な容器ではなく、普通の耐熱容器です。それで蒸らしも入れれば約30分で約1合の玄米ご飯が炊けます。

炊き方は、玄米1合と水2合を1時間以上置いて給水させ、最初は800Wで5分チンします。水を沸騰させるのが目的です。

次に300Wくらいに落として、5分ずつ3回チンします。

5分ずつ分けるのは、様子を見るためです。容器が浅いので、水分が少なくなるとすぐに吹きこぼれします。それをなるべく減らしたいので、様子を見ています。それと、水蒸気がすごいので、その都度、庫内の水分を拭き取っています。

水分がほぼなくなれば炊き上がり。後は10分ほど蒸らして出来上がりです。簡単でしょ?

クックパッドのレシピも、ぜひお試しくださいね。試してみて良かったら、ぜひクックパッドの方に「つくれぼ」を送ってください。

よろしくお願いします!
 


<2018年9月15日追記>
第三弾を載せました。「レンチンで簡単!おひとりさま玄米ご飯」です。

Cpicon レンチンで簡単!おひとりさま玄米ご飯 by プーさんPAPA


私の食生活が、だいたいわかりますね。(笑)
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 01:15 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年09月19日

仙境異聞・勝五郎再生記聞



「みやちゅう」こと「みやざき中央新聞」の2745号(2018年6月11日発行)「取材ノート」で紹介されていた本を読みました。「天狗のしわざ」と題して編集部の野中千尋さんが書かれたもので、「最近私を「夕飯抜き」にした一冊」ということでした。

Twitterで噂が広まって人気が高まり、急遽復刊され、それがあっという間に1万部も売れたのだとか。そんなことを聞いては読まないわけにはいきません。ということで、さっそくネットで注文し、7月に帰省した時に受け取った本になります。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

まず最初に、この本の概要を説明します。「仙境異聞」は文政3年(1820年)に、天狗に連れ去られたという少年寅吉から平田篤胤(ひらた・あつたね)氏らが話を聞いて、それを篤胤氏がまとめたものになります。「勝五郎再生記聞」は、前世の記憶があるという勝五郎の話を、同じく篤胤氏がまとめたものです。

寅吉は、この時15歳だそうです。昔だと数えですから、今の13歳くらいでしょうか。その少年に篤胤氏ら大人が質問攻めにします。それに対して寅吉は、堂々と答えています。

なお、現代語訳ではないので、文章は読みづらく、内容もわかりづらいです。特に最初の「仙境異聞(上)」は、途中で何度も読むのをやめようかと思ったくらいです。次の「仙境異聞(下)」は、質問形式で文章も割と読みやすくなっています。

こういう本がそんなに話題になるとは、ちょっと不思議な気がします。ただでさえ活字離れしているというのに、こんな読みづらい本が売れるとは・・・。まあ、買った人がみんな最後まで読むとは限りませんけどね。


寅吉云はく、宮も家もいかに小なりとも、大勢入りても狭からず、人数に従ひて、広くも狭くも思ふまゝになる物なり。」(p.252)

これは、「十三天狗」と呼ばれる天狗や山人(さんじん:行者のような存在)たちの住まいが、「岩間山の愛宕宮」だと寅吉が答えたことに対し、使者も含めて50人くらいが愛宕宮のような小さなところに入れるのかと質問した時の寅吉の答えになります。

つまり、寅吉らは現世の人間のような存在ではなく、幽界の存在として、3次元空間に縛られていないのだろうと思われます。他にも、備えられた食事を食べても、そのものはなくならないとか、近くに行っても自分たちの姿は見えない、などの記述があります。


寅吉笑ひて云はく、地獄極楽といふは、愚かなる者を縅(おど)す為に、後人の作言したるなり、と師説なり。殊に極楽は十万億土にあるといへば、地つづきと聞こゆるに、師に伴はれて大空に昇り遠く国々までも行きて見たるに、何と見ても大地は円き物にて、くるりと廻りても十万億土はありそもなし。」(p.305)

これは地獄極楽を見たかという問いに寅吉が答えたものです。地獄極楽は作り事だと言い切っているのが面白いですね。師と共に空を飛び、諸外国ばかりか他の星まで言ったという寅吉が、地球をぐるっと回ったと言っています。本当かどうかは何とも言えませんが、当時の15歳の少年に、こういう知識があるとはなかなか信じられません。


さてまづ光りて見ゆる所は国土の海の如くにて、泥の交じりたる様に見ゆ。俗に兎の餅つきて居ると云ふ所に、二つ三つ穴あきて有り。然れど余程離れて見たる故に、正しく其の体を知らず。」(p.313)

これは寅吉が、星のあるところまで行ったなら月の様子を見たかと問われて答えたものです。しかし、質問者は穴が空いているはずがないと、これを否定します。それに対して寅吉は、次のように言います。

我は書物は知らず、近く見て申す事なり。尤も師も岳なりとは云はれつど、近寄りて見れば正しく穴二つ三つ有りて、其の穴より月の後ろなる星の見えたりしなり。然れば穴ある事疑ひなし。」(p.313)

西洋の書物で月をどう言っているかは知らないが自分はこの目で見た、というわけですね。まあ現代の科学では、寅吉の説は完全に否定されることになりますが。


寅吉云はく、わろきと云ふ事は成るたけ云はぬ物なり。殊にわろき天気などいふ事は宜しからず、よくふる天気など云ふべき事と師の教へなり。」(p.326)

ある人が「わろき鮓(すし)ぞ」と言ったことに対して、寅吉が口を挟んだのです。なぜそう言ってはいけないかについては、特に言及がありません。おそらく、言霊ということではないかと思います。


此の国は仏国に非ず神国にて、我も人も貴き神の末なれば、何でも神に成らむと心掛くべき事なり。」(p.333)

寅吉は、最初から仏教は卑しいもので良くなく、神道が優れたものだという立場です。理由はいろいろ書いてありますが、特に決定的なものではありません。強いて言えば、釈迦も人間として生まれたもので、人間を創ったのが神なのだから、というような理由も書かれていました。

どうも篤胤氏の持論を補強するために、いろいろ編集されているのではないか、という疑いがなくもありません。
ただ、少なくともこういう不思議なことを語る少年がいたことだけは、事実ではないかと思います。


最後にもう一度言うと、こういう本がヒットするとは、ちょっと不思議です。読みづらいし、内容的には特に目を見張るものはありませんから。これで示された痛風の薬とか不妊治療の方法などが、現代で受け入れられているというなら別ですが、そんなこともなさそうですし。

けれども、今から約200年前には普通に天狗がいたのかもしれないなぁと想像してみると、ちょっと楽しくなることはあります。科学的でないからと言って、必ずしも間違っているとは言い切れませんからね。

book20180919.jpg
 
タグ:平田篤胤
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 07:59 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年09月20日

誰も知らない偉人伝



また白駒妃登美(しらこま・ひとみ)さんの本を読みました。この本は、前にも読んだ「こころに残る現代史」のリメイク版の文庫本になります。

今年、白駒さん主催のバリ島の兄貴を訪ねるツアーに参加した時、この文庫本ができることを聞きました。文庫化にあたって、かなりの加筆修正を行うとのことでしたので、期待して読みました。

実際読んでみて、登場するエピソードの中にはよく知っているものが多数ありましたが、まるで新しい本を読んでいるかのような感動がありました。読み始めたらグイグイ引き込まれ、あっという間に読み終えてしまいました。しかもその間、ボロボロ涙を流しながら。

かつて、こんな美しい日本人が大勢いたのですね。その美しさに感動します。そして、この「日本人」という伝統を、私も遺していかなければいけないなぁと、決意を新たにしました。ぜひ、多くの人に読んでいただきたい1冊です。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

死刑執行官は、射撃手に「射撃用意」と告げた後、ひと言つけ加えました。

「愛をもって撃て……」
」(p.27)


時代は日露戦争のころ。民間人でありながら「日本のために」とスパイ活動を行った横川省三のエピソードです。
省三は、任務を行う前にロシア兵に捕らえられます。そして軍法会議にかけられました。

しかし省三は、機密をバラすようなことはせず、スパイ活動をしている者は多数いると、堂々と供述しました。このことによりロシアは、シベリア鉄道を守るため、多数の監視要員を割かなければならなくなったのです。

民間人の死刑は絞首刑でしたが、省三は軍人に対する礼を求めました。その熱意に負け、裁判長は特例で銃殺刑を下します。しかし、省三の堂々たる態度に胸を打たれた裁判長は、自ら減刑嘆願をするのです。その嘆願は叶いませんでしたが、敵国人にそこまでさせるとは、いったいどれほど素晴らしい態度だったのでしょう。

省三は残された娘たちにあてて遺書をしたためます。国のために尽くせと。まさに省三の生き方そのものでした。さらに省三は、使いきれなかった所持金のすべてを、娘たちへではなく、ロシアの赤十字社に寄付します。

そして死刑執行の日を迎えたのです。死刑執行官は、省三を苦しませないように、心臓を狙って即死させよという願いを込めて、上記のように告げたのです。その堂々たる態度で敵国人さえ感動させる。そしてその感動が、愛の行動を起こさせたのですね。


義和団の乱のときの柴五郎にはリーダーとしての矜持(きょうじ)があり、マクドナルド公使は、その五郎の姿に、上に立つ者のノブレス・オブリージュを見ました。
 こうしたことが下敷きとなり、さらに両国の利害関係の一致があって、日英同盟締結という結果に結びついたのではないでしょうか。

 そして、この同盟がなければ、日露戦争の勝利もまたなかったのです。
」(p.46)

日本の近代化において、その最も特筆すべきエピソードとして日露戦争があります。弱小日本が大国ロシアと戦って勝ったのです。これがなければ、日本は植民地支配されていたかもしれません。そして、アジアやアフリカの独立は、さらに遅れたと思われます。白人支配の常識に風穴を空けた出来事だからです。

その日露戦争の勝利には、数々の要因がありました。その中の1つが日英同盟であることは、よく知られています。これまで一度も他国と同盟関係を結んだことのないイギリスが、こともあろうかアジアの弱小国、日本と同盟を結ぶ。こんな摩訶不思議なことが起こったのが、義和団の乱での日本人の活躍だったのです。

清朝は義和団と組んで、日本、ロシア、イギリスなど8ヶ国の人々が駐留していた居住地域を取り囲みました。925名の外国人居住区に、逃げてきた中国人クリスチャン約3000人。その地域を守る兵力は、わずか500人足らず。連合軍2万人が到着するまでの約2ヶ月間、その勢力で義和団の攻撃に耐えたのです。

その中心にいたのが、英語、フランス語、中国語などをたくみに使った柴五郎(しば・ごろう)。冷静沈着に指揮して、パニックが起こるのを防ぎました。イギリス公使のクロード・マクドナルドは、「彼のしもべになってもいい」と手記に記すほど、五郎に惚れ込んだのです。このことからマクドナルドは、本国に日本との同盟を進言します。ロシアの台頭を抑えたかったイギリスは、日本との同盟に踏み切ったのです。


宮古島に戻った後も、「決して口外してはならない」という約束を守り、5人は自分たちのしたことを家族にも口にしなかったといいます。しかし、やがて彼らの努力は多くの人々が知ることとなり、このエピソードは全国の日本人の胸を打ちました。
 彼ら5人は「久松五勇士」と呼ばれ、戦前の教科書に掲載されます。さらに、沖縄県知事からも表彰を受けることとなりました。
」(p.54)

日露戦争では、バルチック艦隊がどこから現れるかが重要なポイントでした。それを真っ先に発見したのは、宮古島の漁師、奥浜牛(おくはまうし)という若者でした。しかし、そこからの連絡が難しかったのです。宮古島には通信施設がないため、石垣島へ行かなくてはならない。約170kmをサバニと呼ばれる手こぎボートで渡る。その任務に選抜されたのが、漁師の垣花善(かきはなよし)、垣花清(かきはなきよし)、与那覇松(よなはまつ)、与那覇蒲(よなはかま,松原村)、与那覇蒲(久貝原)の5人だったのです。

到着した石垣島も、通信施設があるのは30kmの山道を行った先。彼らは疲労した身体に鞭打ち、八重山郵便局に向かい、大本営へ向けて打電しました。

しかし、彼らの苦労は報われませんでした。それより先に、日本郵船の貨客船、信濃丸が「敵艦見ゆ」の打電をしていました。第一通報者にはなれなかったのです。

役には立たなかった。けれども、日本のために死力を尽くした名も知らない人々がいる。白駒さんは、そのことを掘り起こしたいのです。こういう点は、一隅を照らす生き方をした人にスポットライトを当てた神渡良平さんの姿勢と通じるものがあるように思います。


日本が長年統治していたのは台湾と韓国です。では、その2ヶ国、今はどうなっていますか? ともに先進国じゃないですか。欧米が植民地支配をしていた国のどこに先進国があると言うのですか。日本が統治をしていた国や地域だけが、先進国になっているのですよ。」(p.68)

白駒さんの価値観をひっくり返したという、インドネシアの教授たちから白駒さんが聞いた話です。インドネシアの人たちはみな、日本に感謝していると言われたのです。

歴史上の出来事のプラス面、マイナス面を両方知った上で、自分なりの歴史観を持つこと。それが本当の「歴史からの学び」だと思うのです。
 そういう意味で、このインドネシア独立にまつわるエピソードは、現在の日本に生きる私たちが知っておくべき話だと思い、私はみなさんにお伝えし続けているのです。
」(p.71)

先の大東亜戦争(太平洋戦争)には、いろいろな意味があります。日本が欧米列強と同じように植民地を欲した侵略戦争という一面もあれば、ABCD包囲網でジリ貧になる前に石油を確保したかった自衛戦争という一面もあると思います。そして、欧米の支配からアジアを解放する解放戦争という意味も。

一面的な見方に偏るのではなく、事実をもとに自分の歴史観を持つこと。それが重要だと白駒さんは言います。


あなたが示された寛容と博愛と仁慈の精神を私たちは決して忘れません。そして、もし私たちよりさらに不幸な人々に会えば、あなたに示された精神で私たちも臨むことでしょう。『四海の内みな兄弟なり』という言葉を、私たちはあなたとともに思い出すことでしょう」(p.92)

こう語ったのは、第一次世界大戦の時、青島(ちんたお)で日本に攻撃されて捕虜になったドイツ兵です。四国徳島の一番札所がある坂東に収容所を作り、1000人ものドイツ人捕虜を収容しました。地元の人々からは「ドイツさん」と親しまれ、手厚くもてなされた彼らは、音楽やスポーツの活動も活発に行いました。

その中で生まれたのが、1918年6月1日に行われた日本初の「第九の演奏会」だったのです。彼らを手厚くもてなしたのは、会津藩出身の松江豊寿(まつえ・とよひさ)所長。論語にある「四海の内みな兄弟なり」という精神で、捕虜に対しても真心と礼儀を尽くしたのです。


ところで、沖縄戦といえば、「本土決戦までの時間稼ぎのために、多くの県民が捨て石にされた」というイメージが強いと思いますが、当初、日本軍は住民を戦いに巻き込む気はなく、県民の半分以上を九州や台湾に疎開させ、残り半分以下の県民を沖縄本島北部に移す予定でした。仮に沖縄が戦場になった場合、戦場に多くの住民がいれば被害が大きくなるばかりか、軍は住民を守るため、本来の戦闘力を大きく削がれてしまうからです。」(p.103)

これは知りませんでした。でも、考えてみればそうですね。後で出てくるパラオでの決戦のように、日本軍が民間人を盾に使うことは考えられませんから。

残念だったのは、疎開が遅れたこと。これは、多くの人が疎開に躊躇したことも原因であるようです。そして、アメリカ軍が沖縄本島中央部に上陸して南下したため、住民もろとも追いやられてしまったこと。ここには、官選知事の島田叡(しまだ・あきら)氏が任官を拒否しなかったエピソード、最後まで住民を守ろうとしたエピソードなどが書かれています。

実は、沖縄戦における民間の犠牲者の多くは、首里城が陥落し、軍の南部撤退に伴って本島南部全域が戦場となってから、亡くなっています。まさに彼らは、本土決戦準備のために、捨て石にされたのです。」(p.110)

ここまできては、県庁職員には何もすることができません。島田知事は約100人の職員に解散を命じます。島田知事は、住民全員が逃げられない状況下で、自分が逃げるという道は選ばれなかったのです。

本土から派遣され、このような思いで沖縄の人々に尽くそうとした人がいた。それは、島田知事だけではなかったようです。次の大田実(おおた・みのる)中将が海軍次官へと言って打った最後の電文も心を打ちます。その最後を引用しましょう。

これをまとめると、陸海軍が沖縄にやってきて以来、県民は最初から最後まで勤労奉仕や物資の節約をしいられ、ご奉公するのだという一念を胸に抱きながら、ついに報われることもなく、この戦闘の最期を迎えてしまいました。
 沖縄の実情は言葉では形容のしようもありません。一本の木、一本の草さえすべてが焼けてしまい、食べ物も6月一杯を支えるだけということです。
 沖縄県民は、このように戦いました。
 県民に対して後世特別のご配慮をして下さいますように。
」(p.114)

この1週間後に、大田中将は自決したそうです。この大田中将の思いは、現代に伝わっているのでしょうか? まずは、知ることが重要だと思います。


私たちは、過去に起こった出来事を、変えることはできません。でも、当時の人々の思いを知ることで、受け止め方を変えることはできます。
 それによって、過去に生きた人々の命が輝き、同時に、いま生かされている私たちも少しだけ幸せな気持ちになれる……。そこに、歴史を学ぶことの大きな意味があるように思えるのです。
」(p.126)

昭和天皇の行幸のエピソードの最後に書かれてある白駒さんの言葉です。事実は変えられませんし、それを捻じ曲げてはいけません。しかし、その見方を変えることはできます。

それぞれの人の懸命に生きた背景を知ったなら、同じ出来事も違って見えてきます。もし、自分がその立場なら、どんなことができただろうか? そんなことを考えてみるのも、良いことだと思います。


ただし、ここで特筆すべきは、メキシコが日本にとって一番初めに平等条約を締結した国であり、オリンピックの東京開催を、世界で最初に支持してくれた国であるということです。これが、「2番目」だったら、両国の友情は存在していたかどうか……。」(p.137 - 138)

1874年の金星大接近の観測場所として日本が最適だとわかった時、不平等条約を振りかざして上から目線でものを言ってくる欧米諸国に比べ、メキシコは最初から対等に臨んできました。その真摯な態度に応え、日本は最高の観測場所をメキシコに提供しました。それに対してメキシコは、初めて平等条約を結んでくれたのです。

このことがきっかけで、欧米の不平等条約を改定して行くことができました。日本はそのメキシコの恩義に応えようと、都内の一等地を大使館用に無償で提供したのです。メキシコの勇気ある行動がなければ、欧米と肩を並べるまでに相当な時間を要したことでしょう。


エルトゥールル号が遭難する4年前(1886年)に、やはり近海でイギリスの貨物船ノルマントン号が遭難したとき、乗り合わせていた二十数名の日本人乗客全員が水死するという、痛ましい事件が起こりました。このとき、イギリス人の船長、船員は、自分たちだけボートで脱出し、日本人乗客を見捨てたのです。
 この悲劇を、当時の日本人なら誰もが知っていました。悲しくて悔しい出来事でしたが、当時は幕末に結んだ不平等条約が続いていて、日本は彼らを裁くことさえできなかったのです。
」(p.154)

そんな状況下で起こったエルトゥールル号遭難事件です。どうせ外人なんだからと、放っておいても良かったはず。でもそれをしなかった。それを白駒さんは「惻隠の情」があるからだと言います。頭で考えた結果ではなく、直感的に助けずにはおれないと感じる心。そういう心を、日本人は強く持っているのかもしれませんね。

官軍と幕府軍が戦った時も、同じようなことがありました。清水の浜に打ち上げられた幕府軍の兵士を、多くの人が官軍を恐れて見て見ないふりをしていました。しかし、1人、そうしない男がいました。清水の次郎長です。死んだらみな同じ仏様だとして、手下に命じて懇ろに弔ったのです。

また、日露戦争の時もありました。日本海海戦では多くのロシア戦が日本海に沈みました。その中に、島根県江津市沖まで辿り着いた船もありました。イルティッシュ号です。住民はそれを助けて介抱し、乗員265人全員を助けたのです。私の故郷でもある島根県のエピソードです。

たとえ敵国の人であったとしても、戦闘時でなければ人として敬意をもって遇する。そういう気概が、日本人には伝統的にあるように思います。本書にも太平洋戦争時に、沈没した敵艦船の乗員を助けたエピソードが載っています。そういうのを読むと、人としての美しさを感じます。

それにしても、海で受けた恩を空で返してくれるなんて、トルコ人も粋ですね。」(p.155)

エルトゥールル号の恩を忘れなかったトルコによって、イラン・イラク戦争の時にイランに取り残された多くの日本人が救われました。自国民は陸路で避難するようにさせ、優先的に日本人を救出機に乗せてくれたのです。

このエピソードは、映画にもなりました。「海難1890」です。もう思い出しただけで涙がこぼれそうになります。


私は、航空会社に勤務していた頃、仕事や旅行で海外のさまざまな町を訪れましたが、そのたびに、”日本ブランド”を感じていました。「日本人だから」という理由だけで、信用してもらえたり、とても親切にしてもらえたんです。
 それは、先人たちの素晴らしい生き方に、世界中の人々が共感してくれていることからきていたと思います。敗戦後、日本がまたたく間に復興できたのも、日本人の努力や能力以上に、日本人ブランドが世界に愛されていたからではないでしょうか。
」(p.172)

本書には、ベルギー、メキシコ、ウズベキスタン、トルコ、ポーランド、スリランカ、パラオ共和国という国の人たちが、日本に対して親しみを持っていてくれることがエピソードとともに書かれています。日本人があまり知らないことがほとんどです。しかし、間違いなく私たちのご先祖様の誰かが、その国の人々の心に残る対応をしてくれています。

「日本は天国のようなところだった」と語ってくれたのは、シベリアから日本経由でポーランドに戻ることができた孤児の1人、アントニーナさん。ヨーロッパの国がどこも助けなかった時、日本だけが救いの手を差し伸べたのです。そして、その孤児たちに対して親身に接した大勢の日本人がいました。

何か特別なことやとてつもなく大きなことをする必要なんて、ないのです。先人たちがしてきたように、大切な人、大好きな人を笑顔にするために、一日一日を、心をこめて丁寧に生きる。勇気と誇りを持って、この世を天国に変える小さな一歩を、踏み出していきましょう。」(p.173)

白駒さんは、このように言います。目の前の人を笑顔にする。喜びを与える。そうする方法は無数にあるし、そう決意すればその方法は見つかる。そして、他人に喜びを与えれば、自分が喜びを得られる。それが本来の私たちの姿なのだ。そう、「神との友情・下」にもありました。


例えば、コップに半分入った水を「もう半分しかない」と受け止めるのが、マイナス思考。「まだ半分ある」が、プラス思考。でも、まったく違う受け止め方もあるのです。水の量に関係なく、「こうして飲めることが有り難いな」とか、「こうして安心して水が飲めるのも、大自然のおかげであり、先人たちのおかげ」といった受け止め方がある。
 私はこれを「感謝思考」と呼びたいと思います。
」(p.188)

これは新しい視点ですね。多い少ないと量に注目するのではなく、ただ存在していることに感謝する。「感謝思考」という言葉は、私の心に響きました。


八田さんが台湾に残した一番の功績は、八田ダムを造ったことではありません。確かに、それも大きな功績です。でも自分は、それと同じかそれ以上の功績があると思っています。それは、八田さんが台湾に日本精神を伝えてくれたことです」(p.228)

李登輝元総統は、日本で講演する時、必ず于山島(うざんとう)ダム(八田ダム)を造った八田與一(はった・よいち)氏のことを話されるそうです。その時、上記のようなことを話されるのだとか。

「公に生きる」「他人の幸せを考える」「他人の痛みを自分の痛みとする」というような自他同一の感覚が「日本精神」なのです。台湾の人たちにとっては、「日本精神がありますね」というのが、最も嬉しい褒め言葉なのだそうです。


巻末には横田南嶺(よこた・なんれい)氏の解説があります。白駒さんは、これだけでも読む価値があると絶賛されていましたね。私のFacebookに、白駒さんが次のようにコメントされていました。

横田管長の解説が素晴らしく、これだけでも皆様にお読みいただけたら本望です(*^^*)

本書に、日露戦争に先立って金子堅太郎ルーズベルト大統領に会いに行き、日本への協力を取り付けたという話が載っています。ハーバード大学で同窓だったよしみがあったからです。その金子がアメリカに渡ることになった時の伊藤博文とのやり取りが、この解説に書かれています。

ちょっとネタバレになるので引用しませんが、さすがは伊藤博文だなぁと思わせるエピソードです。しっかりとした見識と胆識。一流と言われる人は、さすがに違いますね。もし大東亜戦争の時も、伊藤博文が首相だったら・・・と思ってしまいました。気になる方は、ぜひ本書をお読みください。


白駒さんも書かれているように、歴史を学ぶとは、年号や出来事を覚えることではない、と私も思います。さまざまな環境、事情、出来事があり、その中で人々がどう考え、どう行動したのか。そのことを知ることが、歴史を学ぶことだと思います。

それも、ただそれを知ればよいのではありません。知識だけ増えても、評論家になるだけです。それでは意味がありません。その知識を自分の生き方に活かすこと。活用しなければ歴史を学んだことにはならないのです。

そういう意味で、わかりやすくエピソードを伝えてくれる白駒さんの本は、とてもお勧めです。この本も、ぜひ多くの人に読んでいただきたいと思いました。

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posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 04:13 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年09月24日

「幸せ実践塾」通信【SJ通信】(目次)

「「幸せ実践塾」通信(SJ通信)」というメルマガをまぐまぐで発行しています。(通称「SJ通信」)
過去ログを読めるのですが、順番にしか読めないので、こちらにリンクを貼って目次を作っておきます。

Googleなどの検索では、あまり出てこないんですよね、なぜか。
なので、私が過去ログを使いたい時、すぐにアクセスできるようにするという意味もあります。

※すべてのメルマガへのリンクは張れないので、原則として月の最初の発行日のメルマガと、発行数が多い時は中間点くらいのメルマガのみとします。

※注意:露骨な性描写を含むような時は、メルマガのタイトルに「(18禁)」とつけます。
もしそういう内容は読みたくない方は、それを目印にしてください。


それからこちらで、過去ログ内の検索もできます。
 


どうぞ、ご利用ください。


なお、「「幸せ実践塾」通信(SJ通信)」のメルマガは、最初は独自配信で行っていました。第1回配信は、2012年5月24日になります。
その後、2017年6月24日から、まぐまぐでの配信を始め、 独自配信は2017年12月16日が最後となっています。
(そこまでは両方で配信していました。)

したがって、基本的にまぐまぐ配信になる以前の独自配信分は、このブログの「SJ通信過去ログ」カテゴリの44記事しか過去ログが読めません。

今から全メルマガを読みたいという人もいないとは思いますが、もしご要望があれば、何らかの方法で読めるようにするかもしれません。(笑)

2018年9月24日現在ですが、あと10回くらいでこのメルマガの発行が1000回になる予定です。
気になる方は、ぜひブログの左サイドバーか、こちらからメルマガにご登録くださいね。


●2017年6月
「サンプル誌」
 (2017年6月24日)
「メッセンジャーとして生きる」
 (2017年6月29日)

●2017年7月
「マスターになるために」
 (2017年7月1日)
「終わりを決めておく」
 (2017年7月9日)
「死後の世界はどうなっているのか?」
 (2017年7月22日)

●2017年8月
「グループ意識というもの」
 (2017年8月1日)
「期待に応えなくても良い」
 (2017年8月8日)
「正義は人それぞれにある」
 (2017年8月1日)
「やらなかったことをやってみろ」
 (2017年8月1日)

●2017年9月
「成るようになる、大丈夫だ」
 (2017年9月1日)
「思い通りにならなくても完璧」
 (2017年9月12日)

●2017年10月
「神様の宿題」
 (2017年10月2日)
「「かくあるべし」を減らす」
 (2017年10月13日)

●2017年11月
「ビザ申請で得た気づき」
 (2017年11月4日)

●2017年12月
「心配しない生き方」
 (2017年12月3日)

●2018年1月
「独りの熱狂から始まる」
 (2018年1月2日)
「愛は神である」
 (2018年1月12日)

●2018年2月
「満月は人を狂わす?」
 (2018年2月1日)
「ナチュラル・レイキを始めます」
 (2018年2月12日)

●2018年3月
「引っ越しました」
 (2018年3月3日)
「マスオさんはつらいよ」
 (2018年3月13日)

●2018年4月
「バリ島から帰ってきました」
 (2018年4月1日)
「私は有能でなければならない」
 (2018年4月18日)

●2018年5月
「心配するな、なんとかなる」
 (2018年5月2日)

●2018年6月
「不覚にも泣きそうになりました」
 (2018年6月4日)

●2018年7月
「少しずつ進めばいい」
 (2018年7月7日)

●2018年8月
「フォーカスしたものが見える」
 (2018年8月1日)
「結婚するつもりでいました」
 (2018年8月8日)
 ※ここから始まる「妻との馴れ初め」シリーズは、ブログにまとめてあります。

●2018年9月
「北海道旅行の後で妻に贈る言葉」
 (2018年9月3日)
「心屋仁之助さんのブログについて」
 (2018年9月18日)

●2018年10月
「正直にすべてを開示する」
 (2018年10月3日)
「思い通りにならなくていい」
 (2018年10月15日)

●2018年11月
「「いいバカ」を目指す」
 (2018年11月2日)

●2018年12月
「すべては完璧だということ」
 (2018年12月4日)



まだまだ継続中です。よろしければ、メルマガにご登録ください。

→ メルマガ「「幸せ実践塾」通信(SJ通信)」
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 19:49 | Comment(0) | メルマガの目次 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年09月29日

妻のことを歌に詠みました

私はこう見えても、高校では文芸同好会に入っていました。文学青年だったのです。

と言うのは半分ウソで、人数が足りなくて潰れそうだから救ってくれと1つ年上の姉から頼まれ、しょうがなく文芸同好会に入ったのです。他に陸上部と放送同好会にも所属していましたから。

一応、同好会の活動として会誌(作品集)のようなものを作っていたので、何か作品を作らなければなりません。一番短いのは俳句ですが、これは季語を入れなければならないなど、思ったよりハードルが高い。そこで目をつけたのが短歌でした。

短歌は、五七五七七の三十一文字(みそひともじ)になっていれば、あとは何も問われません。(たぶん)その手軽さから、数首の短歌を詠んで投稿したことがあります。

まあその程度の経歴ですが、三十一文字にするだけで、それなりに歌っぽく聞こえるのが気に入ってます。

最近、三浦綾子さん「道ありき」を読んだのですが、そこには数々の短歌が載せられていました。それに触発されて、私もいくつか詠んで、Facebookに投稿しました。

振り返ってみると、妻のことを詠む歌が多いようです。この妻がいてくれるからこそ、いろいろ経験させてもらえるのだなぁと、改めて思いました。

と言うことで前置きが長くなりましたが、Facebookに投稿した妻に関する短歌を、ここで紹介しておきますね。

本を読む 我の隣に妻おりて
動画に笑う 声や涼しき


ケタケタと 子どものように 笑う妻
汝(な)が幸せを 喜びており


出かけ行く 妻の背中に ありがとう
明日はあらむと 常に思えば


明日なきと 思わば心に湧き上がる
妻への感謝 言葉になりて


帰るたび3万円を小遣いに
与えたい父 遠慮する妻


夜更けて 帰宅するのはかまわぬが
足くすぐるな 我は眠たし

#愛しの妻へ

くすぐるな!
我が手を擦る足を擦る

#妻に言いたいこと
#ゴメンこれもパクリです
※川柳っぽく

あしびきの 山鳥(やまどり)の尾の しだり尾の
長々し屁を 妻こきにけり

#ごめんこれもパクリだ

雷に妻シアンダン(うるさい)だと叫びたる
あなたの声はもっとうるさい

#深夜はお静かに

嗅いでみよ臭くないわと妻が言う
寝ている我の顔に足乗せ

#虐待はやめましょう

※パクリもありますが、パロディですのでご容赦を。


<2018年10月4日追記>

そっちじゃない こっちに寝ろと妻が言う
昨夜はそっちと言ったじゃないか

#朝令暮改
#妻の言いなり

遠慮なくドカンと足を載せてくる
妻と寝る夜は息が苦しい

#安眠妨害
#妻になされるがまま


<2018年11月19日追記>

3〜4日(さんよっか)、いや4〜5日(しごにち)は干してある
うちのベランダこれが普通だ

#えっ普通じゃないの?
#妻に教えてあげてください

雨風に耐えにし松は壮健に
うちの衣服もたぶん壮健

#誰か妻に言ってください
#衣服を丈夫にしてくれてありがとうと

スースーとベッドで寝息をたてる妻
起こさぬようにソファーで午睡

#これでも気を使ってるんですよ
#こんな生活も幸せだなぁ

乾いて濡れ 濡れて乾くを繰り返す
かくて洗濯物は丈夫に

#なるわけないやろ〜!
#さっさと取り込まんかい!

喜ばせようとしたって怒られる
それが当然 にんげんだもの

#まあよくあることです
#いまだに妻の心は読めません

ゴミ箱を蹴って移動させる妻
私の親には見せない姿

#くつろいでいるんだね
#結婚7周年ありがとうね

床に這い 妻の抜け髪拾いおり
苦労をかけてすまぬと思う

#しょうがないね
#これも運命だ


<2018年12月1日追記>

ちびまる子ちゃんの動画を見る妻の
となりで我は踊るポンポコリン

#完全に呆れられた
#酔っぱらいオヤジです

くじいたと足かばいたる妻の横
手を当て座る1時間なり

#レイキは愛だ
#本当は50分間だったけど

KFC買って帰れと妻が言う
入った改札出て買いに行く

#入場料は初乗りの15Bでした
#時々無性に食べたくなるそうです

爪を切る我の隣に妻来たり
親しく寄りて屁をして去りぬ

#わざわざそんなことするか
#風と共に去ってくれ 


 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 14:28 | Comment(0) | └ 家族のこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年09月30日

食に添う 人に添う



何の紹介で買った本だか忘れましたが、安全な食に関する本を読みました。著者は「食といのちを守る会」代表の青木紀代美(あおき・きよみ)さんです。

半分くらい読んだあたりで、違和感を感じました。「あれっ?これって食の安全について書かれた本じゃないの?」どうやらこれは、青木さんの自伝のような本だったのです。

そういう意味では期待を裏切られたのですが、別の意味でとても感銘を受けました。それについては後ほど。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

青木さんの一人息子、淳(あつし)さんは、1700gの早産で生まれ、身体がひ弱だったそうです。そのため青木さんは、「よい食べ物」を求めて奔走することになるのです。

その淳さんが、「おいしい」と言って飛びついたのが牛乳でした。そこで青木さんは、おいしい牛乳のことを考えていて、北海道の農協牛乳にたどり着きます。そこで岡田米雄氏と出会い、食について学ぶことになるのです。

人間が考えた牧草や人工的に作った飼料ばかり食べさせていると、あるとき牛は脱柵します。柵の外に生えている草を食べるために、電気が流れている鉄条網を踏み倒して外に出るそうです。いのちを守るためには、集団で脱柵することもあるとか。」(p.55)

狭いところに閉じ込めて配合飼料ばかり与えている牛からは、おいしい牛乳が出ません。青木さんは、自然な放牧によって、時には毒を持つ草も必要に応じて食べるような牛を育てられる北海道の放牧に注目します。そこでは牛が自分の生命を守るために、生命の危険を冒してでも身体によい草を食べようとして脱柵することがあることを知るのです。

そういう生命の不思議を一つひとつ学びながら、青木さんはおいしい牛乳を作ってくれる生産者を訪ね、共同購入という仕組みを作ります。

本土の酪農家を守るために政府は、飲用の牛乳は本土の酪農家だけに許可し、北海道の牛乳は加工用に決めていました。本当はそのまま飲めばおいしいのに、あえておいしくない牛乳を飲まされる仕組みになっていたのです。

牛乳の殺菌についても、いろいろあるようです。日本では高温殺菌が普通に行われますが、酪農が盛んなヨーロッパなどではノンホモという脂肪球を粉砕せず低温殺菌された牛乳が当たり前なのですね。こういうことも、青木さんは学びながら、おいしい牛乳を求めて活動されたのです。


先生の姿勢は一貫して「生産者による消費者運動」という立場でした。生産者から消費者へのアピール−−生産者はこういうことを考えています−−と訴えることでした。化粧品や家電でも、テレビCMなどで「うちの商品はこんなにすごいですよ」とアピールするのがふつうです。これは企業から消費者に対する情報提供で、ある種の消費者教育です。しかし、農業や酪農にはこういう活動はありませんでした。」(p.85)

岡田氏は、生産者からその活動を否定されたことから、日本での啓蒙活動をやめられたのだそうです。せっかく流通の仕組みを作ってきた青木さんたちでしたが、生産者の方が「おいしい牛乳を届けたい」という情熱をなくしてしまったのです。高く、たくさん、売れればいい。農産物が商品になり、商品は売れさえすれば何でもよくなったのです。


どんな緊急事態にあっても、落ち着いていることの大切さを母から教わりました。生きるか死ぬかというとき、人はあわてます。動けなくなってしまいます。それが当たり前です。しかしそれでは正しい判断ができなくなってしまいます。大変な事態のときこそ、冷静であれ。母は、そのことに気づかせてくれました。」(p.119)

青木さんのお母様のエピソードは、どれもこれもすごいです。ここでは、甲府が爆撃にあった時の話です。いつもと違うことから、布団をかぶって用水路に避難したそうです。その布団もお母様の機転。お陰で火傷せずに済んだとか。

ところが、爆撃が終わって自宅に戻ると、焼け出されたたくさんの人が、家を占拠していたそうです。青木さんの実家は小地主で、それなりに豊かな家だったようです。お母様は、その避難した人たちを無理に追い出そうとはせず、まずは炊き出しをされたのだとか。人は空腹だと何をするかわからないからと。

こういう知恵を持っておられたお母様でした。青木さんは、そのお母様の生きる指針を受け継がれたようです。


「お役目ご苦労といわれるような仕事はしない」、これが母の口癖で、その後に、「仕事はこともなげに静かにするのですよ」「他人様(ひとさま)の仕事をするときはその相手の人の身になって、もっとも喜んでくださるような仕事をするのです。自分で精一杯したと思ってから、もうひと仕事することがないかを考えることが大切ね」と続きます。」(p.126)

青木さんが子どものころ、身体が弱いお母様に代わって水汲みをしてあげた時のエピソードです。お母様は褒めなかったばかりか、むしろたしなめたのです。それは、青木さんが「なんのために水汲みをするのか」を考えていなかったから。厳しいとも感じますが、青木さんはこういうことから、お母様の教えを身に着けていかれたのですね。


「いくら勉強ができてもだめ」と戒めながら、一方で、プライドを傷つけないように対応していたのです。あの秀才が寝小便だなんて! 私や長男が気づいていたら、バカにしたり、からかったりしたかもしれません。」(p.130)

青木さんの次兄が、小学校6年まで寝小便をしていたことを、還暦を前に話してくれたのだそうです。同じ部屋で寝ていたにも関わらず、誰もそれに気づかなかった。お母様は、冷たく接していたように思われた次男に、実は温かく接しておられたのです。

寝小便が終わったのは、次男が修学旅行へ行く直前。その時、お母様は「大丈夫よ。もう終わったから」と次男に言ったそうです。そして、その通りに寝小便をしなくなったのだとか。まるで超能力者ですね。(笑)

実は私も、小学校6年まで寝小便をしていました。いえ、中学生になっても、1〜2回したと思います。考えてみると、私の母も、一度も私を責めませんでした。それでも恥ずかしかったのですから、もし責められていたら、たまらなかっただろうと思います。寝小便を責めず、文句も言わずに濡れた布団の始末をしてくれる母親は、本当に偉大だと思います。


難しい問題があると、「これ、どういうこと?」とよく母に聞きました。母の対応は、「その問題を大きな声でちゃんと読んでご覧」「もう一回読んでごらん」と決まっています。国語はもちろん数学も、「大きな声で読みなさい」が決まり文句でした。
 不思議なことに、それでわかるようになるのです。
」(p.137)

女子師範に進学されてたお母様は、子どもたちの教育にも熱心だったようです。ただし、いちいち手取り足取り教え込むのではなく、ただ大きな声で読ませるだけだったとか。国語だけでなく、数学でもそうだったようです。これによって、わかるようになったというのですから、面白いですね。

実は私の中学の先生が、関連するようなことを言っていました。すべての教科に関係するのは国語力だと。つまり、文章を理解できなければ、数学も理科も、問題を解けないと言うのです。私は読書は人一倍やっていましたから、国語はほとんど勉強せずに良い点が取れました。すると、数学や理科も良い点が取れるんですね。苦手だったのは、記憶が必要な英語や社会などです。


結婚するとき、功(いさお)さんからは「人間、本来自由だからね、好きなようにするんだよ」といわれました。よくわかりませんでしたが、私はただ「はい」と答えました。自由な時間など持ちようがありませんでしたが、夫はできる範囲で私を自由にしてくれました。ああしろ、こうしろといわれたことはありません。
 結婚して一緒に暮らしはじめると、確かに彼は自由人でした。食事以外、私は夫の世話をすることはありませんでした。
」(p.149)

私は、夫婦間の自由を求めた先駆者だと思っていたのですが、まったく違いましたね。(笑)青木さんは結婚した時、ご主人から「自由だ」と言われていたのです。そういうご主人の理解もあったから、青木さんは食の活動に奔走できたのだろうと思います。


そうして私は気づきました。本物の生産物を作る人をあと押しするのも、私のするべきことだと。本物の生産物を作ろうと思いながら、環境がそれを許さず悩んでいる人もいるでしょう。そういう人と出会い、私にできるささやかな力づけをすることも私の役目なのだと。」(p.202)

黒砂糖は、サトウキビの絞り汁を煮詰めて造ります。それが本来の黒砂糖です。しかし、その作業が大変なため、ザラメと廃蜜を使って、見た目が黒い黒砂糖もどきを造る業者が増えました。しかし、表示はどちらも「黒糖」です。消費者にはわかりません。それで青木さんが消費者庁に働きかけて、「黒糖」と「加工黒糖」の表示分けをさせるようにしたのだとか。

青木さんは、岡田さんの後を継いで、生産者の思いを消費者に伝えることをされているのだなぁと思いました。


「あのね、私の手から電気が出るみたいで、さすってあげるとみんな気持ちいいっていうの、だから高橋さんのおなか、さすりましょうか?」
 高橋さんは不思議そうな顔をしています。
」(p.223)

これが、青木さんが不思議な手の力を実感したきっかけだそうです。この後、青木さんは、4時間ほど高橋さんのお腹をさすり続けたそうです。

実は高橋さん、劇症肝炎で大変な状況だったようです。この後、青木さんは10日間ほどお腹をさすってあげたそうですが、それによって劇的に症状が改善していたのだそうです。


さすられているあいだ、多くの人はとにかくよく眠ります。深い眠り。よっぽど疲れているのでしょうか。その人に寄り添って手を当ててさすっているだけですが、相手の方はそれだけで気持ち良さそうです。」(p.230)

この部分を読みながら、これはまさにレイキだなと思いました。しかし青木さんは、そのことには気づいておられないようです。


Oさんからいわれたことは、私が体をさすると眠くなり、恐怖や不安でコチコチだった頭がゆったりして、いい気持ちになること。しかし、なぜそうなるのか、私にはさっぱりわかりません。」(p.236)

筋萎縮性側索硬化症(ALS)に罹っていたOさんは、3年で亡くなると言われながら、週に1回の手当てで当初の願望だった8年を無事に生き、その後は月に1回の手当てながら、20年を生きながらえておられるそうです。


あれはね、青木さんの気がわかった瞬間です。何かというと、今日の患者さんの脳波で一番反応があったのがアルファ波だった。すべての人の針が振り切れるほど、アルファ波の反応が起こりました。つまり患者がいい気持ちになったということです。
 治らないかもしれないといわれた患者さんや手術後の患者さんは、ものすごい恐怖で、不安だらけになっています。眠るとか、ゆったりするという気持ちになれず、ベッドで悶々としてしまいます。医者としては、仕方なく安定剤や睡眠薬を使って強引に寝てもらうんだけど……。
 患者さんにとっては、リラックスしてなんかいい気持ち、というアルファ波の脳は状態が一番必要なのに、こればっかりは医者の力ではどうにもなりません。しかしあ奥さんが気を当てると、能の中でアルファ波を示す針が振り切れるくらいになりました。青木さんの気は、脳内をアファ派で満たすんです。それが病気を治すときの大切な要素なんです
」(p.238)

青木さんの手当てを科学的に測定した時、九州大学の藤野氏が語った言葉だそうです。私も、レイキをした時に眠くなるのは、アルファ波かシータ波の脳波になっているのではないか、と思っていました。おそらくそうなのでしょう。そういう実験がすでになされていたことに驚きです。


残念ながら、最初に期待していた「良い食」に関する具体的な情報は、それほど多くはありません。どこかの味噌がいいとか、そういう情報はあります。なので、それが欲しい人は、青木さんの会に問い合わせてみると良いでしょう。

しかし、それ以上に得るものがありました。それは、1つは青木さんの生き方です。特に、お母様のエピソードは、素晴らしいと思いました。そして、もう1つは手当ての話です。私は、アチューンメント(霊授)を必要としないレイキを教えていますが、青木さんはまさにその実現者です。

これを、青木さんだからできたのではなく、誰でもできるということになっていくと、素晴らしいなあと感じています。そんなヒントを与えてくれる本でした。

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posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 01:11 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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