2017年12月01日

だから、居場所が欲しかった。



あるFacebookページ(ここ)に、興味深いお知らせがありました。そこには、こう書かれていました。

バンコクのコールセンターで働く、元非正規労働者、元風俗嬢、夜逃げしてきた家族、男娼の子供を生んだシングルマザーなどを取り上げたノンフィクション作品だ。
発売開始直後からその衝撃的な内容が、タイ・バンコク在住者の間で大きな話題となっている。


作者はフィリピン在住のノンフィクションライター、水谷竹秀(みずたに・たけひで)さん。私が暮らすタイのこどでもあり、またコールセンターで働く友人も多かったことから興味を持ちました。そして、この本をプレゼントするという企画だったので、さっそく応募しました。そうしたら、みごとに当選して、本が手に入ったのです。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

バンコクにあるコールセンターという職場には、日本社会のメインストリームから外れた、もう若くはない大人たちが集まっているということになる。バンコクへ渡った段階で「人生の落伍者」というレッテルを貼られてしまった人たちが、一つの戦場にまとまって存在しているということなのだろうか。
 だが同時に、青山が口にした「居心地」という言葉も気になった。
」(p.9)

プロローグで青山という女性の例を上げ、このように書いています。いわゆる「普通」に日本で生きられない日本人が集まってくる場所。そして、ここには自分の「居場所」があると感じる。それがコールセンターという職場。そういう事例を、これから示そうと言うのでしょう。


私が取材したオペレーターたちは消したい過去を抱えていることが多かった。たとえばそれは複雑な家庭環境であったり、幼い時に大人から性的嫌がらせを強要されたり、あるいは日本で風俗嬢として働いていたり、恋人の男性に殺されかけたり、同性愛者だったり、といったことだった。それがトラウマとなり、人間不信に陥る。心が屈折し、素直さは失われ、それが強いコンプレックスにつながる。だから自信がない。どこかネガティブなオーラを放っている。次々に出会うオペレーターたちからそんなつらい過去を打ち明けられると、それが彼らの、”最大公約数”ではないかという気がしてくるのだった。」(p.38)

もちろんすべてのオペレーターがそうではないことは確かでしょう。しかし水谷さんが出会ったオペレーターたちのほとんどが、そうだったと言うのです。


日本に居場所はなかったかもしれないが、なければないで海外という選択肢がある。他人からは「ただ単に逃げただけじゃないの?」と言われようが、重要なのは本人が生きていることを実感できるかどうかだ。幸せか否かは第三者が決めることではない。」(p.54 - 55)

夜はカオサンのクラブでDJをする吉川の話を聞いて、水谷さんはこう言います。たしかに日本の社会は閉塞感が強いですからね。「かくあらねばならない」が多いのです。

以前、日本にいたときは、私もこの「かくあらねば」を押しつける側の人間でした。そして他人がそれに従わないことにイライラしていました。しかし、タイで暮らすようになってから、タイは自由だと感じるようになりました。その逆に、日本の閉塞感に気づいたのです。そうなると、日本にいるよりタイの方が居心地が良いと感じるのです。


それでも若者たちは何かを求めてアジアを目指した。かつてそれは「自分探し」と謳(うた)われていたが、探し物が具体的な何かである必要はなかった。たとえ現実逃避でしかなかったとしても、アジアの人々や旅先で出会った日本人たちは、そんな弱い私を優しく包み込むように受け入れてくれた。そこには確かに「居場所」があった。日本と違う景色、違う食事、違う言葉を話す現地の人々との出会いを通じた非日常的体験。そこに意味や理由付けといった小難しい理屈は不要で、ただただ楽しかった。」(p.67)

水谷さんも若いころ、アジアを放浪したと言います。同じ何かを感じたから、オペレーターたちが「居場所」を求めて集まる理由もわかるのでしょうね。


ゴーゴーボーイなど夜遊びにハマる日本人女性の話は意外とよく耳にするという。
「ハマっている女性は本当にたくさんいるんです。でもなぜかタブー視されているんですよ。男性側からすれば俺たちはいいけど、彼女や奥さんにはこういう場所に行ってほしくないって思っているわけですよ。でも実際は行っている。そういう陰の部分を伝えたかった」
 平原編集長の情報でも、ゴーゴーボーイにハマる女性の大多数は、コールセンターで働いているという。
」(p.160)

かつて「アーチプラス」という女性向けのフリーペーパーで、「女の夜遊び バンコクの夜をとことん楽しむ!」という特集があったそうです。2012年9月の創刊号のこと。これまで、ゴーゴーバーやカラオケなど、男性向けの夜遊び情報を扱う情報誌は多かったものの、女性向けはこれが初めてだったとか。

スポンサーの抵抗で、ついにこの企画は続けられなくなったそうです。残念なことです。しかし、私も個人的に、ゴーゴーボーイに通う日本人女性の話は知っています。女性も本当は夜遊びをしたいと思っている人がいる。だったら男性と同じように、もっと自由にやってもいいんじゃないか。私はそう思います。


闇は誰にでもある。ところが日本社会で生きていると、常識や世間体、他人からの評価にがんじがらめにされ、ありのままの自分をさらけだすことができない。だが、遠く離れたここバンコクであれば、周りの目をそれほど気にすることのない解放感から、より自分に純粋に、そして素直になれる。日本で抑圧されていた何かが吹き出す瞬間もあるだろう。海外に来た途端、人が変わったように輝いてみえるのはそのせいかもしれない。」(p.219)

ハメを外しすぎてしまう方もおられますが、日本社会が閉塞的であるがために、海外ではより解放的になるのでしょうね。


タイだと普通に昼間でも男同士が手をつないで歩いている。それに対して誰も何も言わない。だから日本に比べたら暮らしやすいし、俺は公共の場でも当たり前に男同士手をつないで歩きたい。やっぱり日本は同性愛者に対する偏見が強いのかなと思いました。」(p.237)

これは、ゲイの高木のセリフです。私も日本にいる時は、同性愛者を嫌悪していました。批判はしないものの、自分の視界には入ってほしくない。そういう気持ちでした。しかし、タイに来たら慣れるんですね。だって、あちこちで目にするんですもの。

私は、障害者も同じだと思いました。障害者に対する偏見、あるいは同情的な見方も、あまり障害者を見ないからです。見慣れてしまえば、そういう違いの前に、同じ人間だという思いが先立ちます。そうならなければ、違いを受け入れられないだろうと思うのです。


自己を過小評価するあまり、自分のことを人に話しても、耳を傾けてもらえないだろうと言い出せなかったのか。自分は社会の中心から外れ、陽の当たらない片隅でひっそりと生きているという自覚と疎外感が透けて見える。」(p.243)

インタビューを受けたオペレーターの何人かが、「聞いてくれてありがとうございます」などと言い、話を聞いてもらえることを素直に喜んだと言います。これまではなかなか自分のことを言い出せなかったのだろうと、水谷さんは推測します。

自分に自信がない。だから海外でも日本語だけでよくて、しかも誰でもできる簡単な仕事のオペレーターを選ぶ。そういうことなのかもしれません。


自己の存在とはやはり、他者との関係性においてしか認識することができないのだろうか。
 他者に認められ、あるいは他者から自分を肯定される時、人間は自分の存在意義を実感することができる。
」(p.260)

たしかに、誰かから必要とされることで、自己肯定感を得ようとするのです。本当はそのやり方では上手く行かないのですが、そもそも自尊心がないために、他者の言動に依存したくなるのです。


我々外国人には見えにくい部分なのかもしれないが、「LGBTに寛容なタイ社会」という仮面の裏には、もう一つの現実が潜んでいるのだ。」(p.269)

よく目にするため、LGBT(性的マイノリティー)の人がいても何とも思わないように見えるタイ社会ですが、そうではない一面も持っています。学校の先生とか公務員にはなれないなど、差別的な一面もあったのです。


昔はただがむしゃらに女として認められたい、女になりたい、でもどっかでなれない、あなたは女じゃないっていう現実を突き付けられて苦しむことの繰り返しだった。でも今は自分は元男だし、完全に女にはなれないけど、それでも生きたいように生きているから苦しくはないんだと思えるようになりました」
 人は多くを求めず、ありのままの自分を受け入れることで、今以上に幸せになれるのかもしれないと、水野の話を聞きながら思った。
」(p.271)

ニューハーフの水野は、女になれなくてもなれない自分を、そのままに受け入れようとしているのですね。男でも女でもない。それでも自分は自分。それでいいのだ、という自己受容です。けっきょく、ありのままの自分を受容する以外に、幸せになる方法はないのだと思います。


だから、居場所が欲しかった。
 自分のことを認めてくれる環境を探し求めていた。
 他人に好かれ、嫌われないような人間でありたかった。
 本書に登場する人たちもおそらく、同じような思いを抱えて生きてきたのではないか。日本で居場所を見つけ出せず、バンコクで見つけて生きていこうと決めた。私がフィリピンに住むに至った経緯と大筋で変わらない。私が寄り添ってきたオペレーターたちは私にとっての隣人のような存在であり、思いどおりにならない現実を嘆く彼らの姿は私の心を映し出す鏡のようであった。
」(p.278)

水谷さんは、オペレーターたちの中に自分の姿を見ています。ですから、ぎすぎすした日本社会に順応するのを諦め、飛び出すのも悪くはないと言うのです。

今の日本は、いったい何を失っているのか? そして、彼らが「居場所」を感じるタイ・バンコクには何があるのか? それを水谷さんは、このように言っています。

「これもいいんだ」と思える心の余裕である。」(p.279)


バンコクの日本人社会には、駐在員を上に見て、現地採用を格下に見る差別意識があると水谷さんは言います。そして現地採用の中でも、オペレーターは別格なのだとか。だから、オペレーターであることを隠そうとする人もいるのだと。

起業した成功者でも、まるで自分の過去を消すかのように、オペレーターであったことを見せないようにしている人もいるそうです。つまり、それだけオペレーターという仕事、オペレーターという生き方を、自分で肯定していないということです。

それは、彼らたちの自己責任なのか? と水谷さんは問いかけます。たしかに、そういう面もあるかもしれないけど、彼らをありのままに受け入れてくれない日本社会という問題点もあるのではないかと言うのです。


私も今は無職なので、オペレーターになろうかと考えた時期もありました。ただ、給料が低いんですよね。日本でアルバイトを掛け持ちするのとどちらがいいのか、悩ましいところです。でもこの本を読むと、タイでオペレーターをやる方が、楽に生きられるのかもしれないと思いました。

そして、水谷さんが指摘するように、違いを受け入れない日本社会の閉塞感は、さまざまな問題を引き起こしていると思います。ただ問題があるということは、変わるチャンスがあるということだと思います。ですから私は、諦める気持ちはありません。この本は、そのチャンスを生かすための一歩になると思います。

だから、居場所が欲しかった。

水谷竹秀さんのサイン
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 18:54 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月07日

やさしいカウンセリング講義



スピリチュアル・カウンセラーの小宮昇(こみや・のぼる)さんの本を読みました。古宮さんの本は、以前に「一緒にいてラクな人疲れる人」を紹介しています。「神との対話」もよく読まれていて、単に心理学を応用するだけでなく、そこにスピリチュアル的な深みを得ておられるように思います。

実は、来年(2018年)1月に、古宮さんにお会いしに東京へ行くのです。古宮さんが、アメリカで発売されたばかりの「神との対話C」を読まれて、その内容を伝えるためのお話会を開催されると聞いたからです。「神との対話」と聞いては、私もじっとしていられません。もとより古宮さんとお会いしたかったこともあって、すぐに一時帰国を決めたのでした。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

カウンセリングは人が変容する過程を支えるものです。これこれの問題に「苦しむ自分」から、もうそのことでは悩まず「より自分らしくのびやかに生きる自分」への変容です。変容の結果、当初来談した理由だった問題が変わったり、なくなったり、もしくは問題の受け取り方が変わって同じことがもはや問題ではなくなったりします。それを問題解決と呼ぶのです。つまり、問題解決は目的ではなく、変容の結果として起きることなのです。」(p.11)

問題を抱える来談者(クライアント)に、解決方法をアドバイスするのはカウンセリングではないと言います。お悩み相談ならそれでもいいのでしょうけど、それでは本質的な解決にならないからです。目の前の具体的な問題を解決に導くのではなく、来談者が変容することによって、問題が問題でなくなるようになる。来談者の成長こそがカウンセリングの目的なのです。


カウンセリングの効果が現れるもっとも重要な要素の一つは、カウンセラーと来談者との人間関係だ、ということが明らかになってきました。」(p.16)

カウンセリングの技法よりも重要なのは、カウンセラーと来談者の人間関係だということです。来談者がカウンセラーとの間に、良い人間関係を結べていると感じた時、統計的に有意にカウンセリングの効果があったと研究結果が出ているのです。

これは、ある意味で面白いですね。つまり、技法を駆使して治してあげるというものではないのです。むしろ、互いに成長し合うような関係を結ぶことが治療になる、と言った方がよいように思います。


誰かがあなたを縛るとき、縛る気持ち自体は愛ではなく恐れだとわたしは思います。恐れは、相手に対する信頼の欠如から生まれます。そして相手への信頼の欠如は、自分自身に対する信頼の欠如から生まれます。信頼とは愛の一側面ですから、信頼の欠如とは愛が欠如しているサインです。自分のなかで愛が欠けているから相手に愛を注ぐゆとりがないのです。」(p.45)

ここでは、嫉妬は愛ではないということと、自分を愛せないと他人を愛せないということが語られています。こういうところは、まさに「神との対話」で書かれている内容ですね。

あるがままでいることを許され、自分自身のままであっても尊重されることを知る経験はとても貴重で、効果的なカウンセリングには欠かせない経験です。」(p.45)

カウンセラーが来談者を完全に受容すること、つまり愛することが、カウンセリングの効果を上げるのに重要なポイントだということになります。カウンセリングとは、要は来談者を愛することなのです。


感情は、わたしたちを突き動かしている原動力、エネルギーです。愛情、喜び、怒り、悲しみなどさまざまな感情がありますが、その存在目的は、ただ一つ、「感じてもらう」ということだけです。悲しみというエネルギーなら、その人の心とからだの全体で悲しみを感じてもらいたいのです。悲しみを全身で感じきったとき、そのエネルギーは解放されて、安らかに消えてゆくことができるのです。」(p.56)

これは、心理療法家の中島勇一氏の書籍からの引用部分です。感情をしっかり感じることの重要性を示しており、これもまた「神との対話」でも示されていることです。


癒しと成長の過程が進むために必要な援助者の態度は「共感的に理解しよう」という態度であって、来談者を「助けよう」とか「変えよう」とする態度ではありません。」(p.60)

もちろん、来談者は悩みがあるからカウンセラーを頼るのであり、カウンセラーは悩める来談者を助けたいからカウンセリングをします。しかし、実際のカウンセリングにおいては、その上下関係はないのです。助けようという気持ちがあると、上手く行かないと言います。まさに本質的ですが、面白いところです。


そのアシスタントは、生徒を傷つける結果になったことでしょう。そしてそうなった原因は、そのアシスタントの「人から頼られ必要とされたい。そうすることによって、自分が無価値だという不安から逃れたい」という、彼女自身のこころの傷に根ざした欲求だったのかもしれません。
 そのスクールカウンセラーのアシスタントのような、いかにもあたたかい・優しい態度が援助的・共感的な態度とはかぎりません。
」(p.95)

生徒の身体に触れたり、「大丈夫よ」とか「応援しているから頑張りなさい」というような声掛けを、しょっちゅうしていたアシスタントについてです。そのうち生徒たちはそのアシスタントに依存的になってつきまとうようになり、アシスタントは逃げるように学校を去ったのだそうです。

来談者から頼られることを心地よいと感じ、そこに依存してしまうことは危険です。ですから、まずはカウンセラー自身が自立していることが重要なのです。自分で自分を愛せるということですね。


援助者がすることは、来談者のいまのあり方を受けいれ、尊重し、共感的に理解し、その理解をできるだけ正確に来談者に伝えるよう努めることです。悪く評価されて援助者が不安になると、それをするゆとりがなくなります。」(p.129)

ここで言っているのも、援助者が、自分の援助が十分に評価されているかどうかを気にしないことが重要だ、ということです。自分の評価ではなく、来談者を受け入れることに心を砕くことです。それができるためにも、援助者がカウンセリングを受けることが必要だと、古宮さんは言います。


わたしたちが他人の「悪い」面を見て腹が立つのは、自分にも同じ面があり、しかもそれを自分では受けいれていないときだと思います。」(p.132)

誰かを見て「ここが悪い」と感じて腹が立つのは、そういう面が自分の中にあり、それを自分が受け入れていないからだと古宮さんは言います。つまり、現実は自分の鏡なのです。

ここでは、「カウンセラーを志望する人間が甘いことを言うな」と指摘したカウンセラー志望の女性に対して、古宮さん自身が腹を立てた例をあげています。古宮さんはその女性を裁き、見下したと言います。

それは取りも直さず、小宮さん自身が、「カウンセラーたる者は人の気持ちを理解的に受けいれなければならない」という価値観を持っており、それに合わない人を受け入れられなかったからです。

その女性が、他の人の価値観を受け入れずに腹を立てたのと同じことを、古宮さんがしていたことに気づかれたのですね。価値観の内容は違っていても、自分の価値観と違えば受け入れられらないという点で、同じことなのです。それだけ、自分の価値観が突き崩されるのが怖かったのでしょうね。


カウンセリング的な癒しの関係が提供することの一つは、きっとこの自己受容の過程だと思います。優秀なカウンセラーほど、何を話しても何を感じても、親身になって理解し受けいれてくれます。本当の気持ちや考えを正直に感じて、見て、表現して、それが理解され無条件に受けいれられる過程。それが解放と変化をもたらします。それが人生を変えます。そして自分一人では入ってゆけない自分自身のこころの領域にも、カウンセラーのような理解的な誰かと一緒なら入ってゆけるかもしれません。」(p.162)

古宮さんは、ここにカウンセリングの可能性を見出しておられるようです。要は自己受容なのですが、自分一人ではなかなかそれができない。それを、自己受容できるカウンセラーの共感的な態度と一緒に自分を見つめることで、自分も自己受容ができるようになる。それがカウンセリングというものなのでしょう。


カウンセリングの過程とは、カウンセラーが来談者より上位に位置して来談者を「治す」ものではなく、来談者のもつ自然な成長の過程が自由に進むように援助するものなのです。
 そして、こころの中の何が痛むのか、どの方向に進んでゆけば良いのか、どの問題が本当に大切なのか、そしてどの経験が心の奥深くに埋められているのか、すべて本当は来談者自身が知っているのです。
」(p.237)

古宮さんは、ロジャースの考え方に共感し、来談者を自由にさせるカウンセリング手法こそが役に立つと思われているようです。したがって、来談者とカウンセラーは、治す者と治される者という上下関係ではなく、共に進む者という考え方なのですね。

そしてさらに、上に立つわけではないので、何が来談者に最適かは、来談者が知っているという立場に立ちます。つまりこれは、完全な来談者への信頼なのです。何も心配せず、治そうとしなくても治る力は来談者自身が持っており、来談者が必要なタイミングで勝手に治るという信頼です。

このような見方は、「神との対話」にも書かれています。例は障害者ですが、魂そのものは完璧であり、あえてそういう障害を負うことで、何かに挑戦しようとしている勇敢な魂だと見るようにしなさいと、「神との対話」では言っています。おそらくロジャースや古宮さんの考え方も、そういうものだと思われます。


私は、カウンセリングというものは、心に傷を負った人が受ける治療だと思っていました。しかしこの本を読んで、それは間違いだと気づきました。

カウンセリングというのは、特殊なことではなく、人を導く人の在り方ではないかと感じたのです。つまり、先輩とか上司とか教師という人の上に立つ人は、すべてカウンセラー的な考え方を持つ必要があるように感じたのです。

さらに言えば、人間関係においては、いつもカウンセラー的な考え方を持つべきだとも思います。たとえば夫婦間がそうです。相手の自由を完璧に認め、共感的な態度で接する。相手の課題に土足で踏み込んだり、求められないアドバイスをするのではなく、相手のことを信頼して見守る。相手が自分を頼らずに自立できるように仕向ける。

こういう態度こそが、本当の愛だと思うのです。相手を自立させ、自分なしで生きられるようにする。そのために貢献する。そういう生き方がカウンセリングの目指すところであり、人として目指すところだと思います。

もちろん、そう思ったからと言って、すぐに実践しようとしても難しいと思います。ですからこの本でも、カウンセラーこそカウンセリングを受けるべきだと言っているのです。良い指導者に巡り会い、その指導によって自分を見つめ直し、自己受容を深めていくことが大事だと思います。

やさしいカウンセリング講義
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 23:57 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月08日

タイ・バンコクで運転免許証の取得と更新をしました

この前、短期(90日)のノンイミグラントO(オー)ビザを取得しましたので、次なる課題に挑戦です。

それは、運転免許証を更新することです。5年前に、妻に付き添ってもらって更新しましたが、今回は1人でやろうと思いました。さらに、妻の実家へ行ったら車よりバイクに乗ることが多いだろうと思い、この際、バイクの免許も取得しようと思いました。

車の免許は、タイに来て早々に、日本の運転免許から切り替えて取得しました。その時、一緒にオートバイの免許も取ってしまえば良かったのですけどね。まあでも、お陰で一人で挑戦するという機会ができたわけです。バイクの免許も、日本の免許からの切り替えですから、それほど難しいとは思えません。

問題は、車の免許の更新と同時にできるかどうか、という点になります。もし一緒にできれば、適性検査を1回だけやれば済むからです。バイクの免許にビデオ講習があるかどうかは知らないのですが、あるとすれば、これも1回で済ませることができます。


しかし、何と言っても出不精の私です。いざ、そろそろ免許をなんとかしなきゃと思いながらも、「面倒くさいなぁ」と感じて、ついつい先延ばしになっていました。(笑)でも、いつまでも伸ばせるわけもありません。そこで、作業を2段階に分け、2日がかりで行うことにしました。(どんだけ面倒くさがりなんだか。)
そこでまず、免許の更新と取得(切り替え)で必要な書類を洗い出しました。


●免許の更新に必要な書類

・古い免許証
・パスポートとそのコピー(顔写真と最新のノンイミグラントビザのページ)
・住所の証明書(イミグレの住所証明や在留届出済証またはワークパミットとそのコピー)
・申請書(陸運局にある)
・健康診断書
・顔写真
(※)

※顔写真は必要という人もいるし、申請書に貼っている人も見ました。しかし、前回も今回も、顔写真は必要とされませんでした。(念のためにビザ用の写真を持参しましたが。)


●免許証の取得(切替)に必要な書類

・日本の免許証とそのコピー
・日本の免許証の翻訳証明書
(※)
・それ以外は、上記から「古い免許証」を除いた書類

※上記の免許証と翻訳証明書の代わりに、日本の国際免許証でもOKです。


これを、大使館でもらう書類と、陸運局およびその周辺でもらう書類に分けました。


●大使館でもらう書類

・住所の証明書(在留届出済証)
・日本の免許証の翻訳証明書


私はワークパミットがないので、在留届出済証を使いました。


●陸運局およびその周辺でもらう書類

・パスポートのコピー
・日本の免許証のコピー
・申請書(陸運局にある)
・健康診断書


残りの書類の、パスポート、古い免許証、日本の免許証は、そのまま持参します。
このように分けた上で、まずは12月7日(木)に大使館(領事部)へ、必要書類を受け取りに行きました。


●大使館に必要書類をもらいに行く

MRT(地下鉄)ルンピニー駅のB出口を出ると、正面がラマ4世通りとウィタユ通りの交差点になっています。道路に降りて右手に道なりにウィタユ通りを5分ほど歩くと、日本大使館に到着します。朝10時くらいでしたが、座席の3分の1くらい埋まるくらい人がいました。

入り口の右手にインフォメーションがあるので、順番を待ってそこで必要な書類を尋ねます。運転免許の更新と取得のために、上記の書類が欲しいと言うと、「証明発給申請書」に必要事項を記載し、番号札を引いて待つよう言われました。

証明発給申請書
[証明発給申請書]

20分くらいで順番が来たので、パスポート、日本の免許証、証明発給申請書、番号札を提出しました。すると、パスポートの顔写真ページと免許証のコピーが必要だと言われました。持ってないと伝えると、「今度は持ってきてくださいね」と言われ、窓口の方で取っていただきました。(コピー代が浮いた。ラッキーです。)

引換券をもらいました。「当日発給」のようなスタンプが押してありました。待つこと30分少々、やっと名前を呼ばれたので1番窓口へ。そこで引換券を渡して代金を支払い、書類を受け取りました。在留届出済証が2部と翻訳証明書が1部なので、合わせて2,010バーツ(約6,000円)でした。全部で約1時間ほど。それほどかからずに済みました。

在留届出済証 翻訳証明書
[在留届出済証と翻訳証明書]


●陸運局に申請に行く

翌12月8日(金)(つまり今日ですが)、朝9時にアパートを出発し、BTS(高架鉄道)のバンジャーク駅へ。オンヌット駅の隣駅です。たしか駅から陸運局の途中にクリニックがあると思って行ったのですが、どこにもありません。引き返して駅の反対方向も少し見たのですが、それらしいものがありません。仕方ないので、ネットで調べました。(こちらのサイトを参考にしました。)

すると、スクンビット通りの反対側(偶数側)でした。バンジャーク駅のA出口を出て、上りエスカレーターの先20mほどオンヌット駅寄りにクリニックがありました。
そこで、「免許証のための書類がほしい(ヤーク・ダーイ・エーカサーン・サムラップ・ライセンス)」と言ったら、もう心得ているようで、すぐに理解してもらえました。(診断書という言葉がわからなかったもので(笑))パスポートを見せて、2枚作ってもらいました。1枚100バーツです。

探し回ったので、けっこう汗だくになりました。バンジャーク駅から陸運局は、B出口を出て100mほど歩きます。スクンビット・ソイ99と101の間です。入り口にはバイタクがあって、そこから約300m先の陸運局の建物まで、10バーツで乗せてくれます。10時過ぎくらいに到着しました。


まずはコピーが必要ということで、建物を入って右手に進み、部屋の仕切りから外へ出たところの右手に店出ししているコピー屋さんで、1枚1バーツでコピーを取りました。ページを示して、「1枚(ヌンバイ)」とか「2枚(ソンバイ)」と伝えます。
実はこの時、日本の免許証のコピーが要ることを知らなくて、パスポートのコピーしかもらいませんでした。後で指摘されて、またここへ来てコピーしましたよ。勝手に表裏をコピーしてくれて、さすがわかってるなぁと思いました。コピー代金は5枚で5バーツでした。

日本の運転免許証
[日本の運転免許証]


次に、入り口近くのインフォメーションに並び、書類を見せて、「車の免許証の更新とオートバイの免許証の取得(タム・マイ・レーォコー・ヤーク・ダーイ・モーターサイ)」(それにしてもひどいタイ語であることよ)であることを告げます。すると申請書を2枚くれて、上部に名前と携帯番号を書くよう言われました。名前を英語で書き、隣に携帯番号を書いて、書類をまとめて正面の8番窓口に並びます。

けっこう申請者が多かったのですが、私の後から続々やってきて長蛇の列になり、係員が整理券を配っていました。一歩早くて助かりました。

タイの古い運転免許証
[タイの古い運転免許証]

8番の窓口に書類を出し、更新とオートバイ免許の取得だと言うと、何か別の紙をつけて、サインをするよう言われました。そして番号札を2枚渡され、「16番へ行け」と言われました。
最初、6番に聞こえたので念のために「6番ですか?(レーク・ホック・ルー)」と確認したら、「そうだ」と言いいます。それで探したら、6番の場所が見つからない(だって受け取りブースですから)んですよね。それで再確認したら、「16番だ(マイ・レーク・シップ・ホック)」と教えてくれました。タイ語の聞き取りにも苦労します。(笑)
番号札は1枚を自分が持ち、もう1枚を書類につけておくようです。これも、後で適性検査が終わった時に言われたのですけどね。


16番の部屋は、適性検査の部屋です。外で待っていると、何色の番号札と何番までと呼ばれます。
が、私の時は白い番号札と言われた(ように聞こえた)のに、私と同じ紺色の札を持っている人も入り始めたので、係員に番号札を見せて「入れるのか?」と尋ねました。すると「書類は?」と問われたので、「カバンの中にある」と答えると、「入れ」と言うので入りました。なんだかよくわかりません。まあでも、入れるなら入っちゃうことです。

実は、最初に外の椅子に座ってたら、隣のタイ人が、「あなたはもう入ったの?」と聞いてくるので、「まだだ」と答えたところ、「それなら入りなさいよ。」って言われたんですよね。「入っていいの?」と聞いたら、「そうだ」って言うものだから、ドアを開けて中に入ったんです。みんなが列に並んでいるから、その後ろに並んだところ、係員から言われました。「ミスター、ゴーアウトサイド!」まったくもう。こんな小さな失敗を、たくさん重ねているんですよ。

さて、部屋に入ると最初に、タイ語で今後の流れを説明しているようですが、さっぱりわかりません。それから、適性検査の内容を説明します。まずは、ブレーキ反応テスト。これは、アクセルを踏むと緑のランプがつき、しばらくすると赤に変わるので、すぐにブレーキを踏むというテストです。反応が遅いとブザーが鳴って失格です。

次に、同じ席で視界深度のテストをします。箱の中で2本の棒が立っているのですが、ボタンを押して一方を前に寄せてきて、並んだところで止めて手をあげます。緑のボタンが寄せる、赤のボタンが押しやる、という動きのようです。だいたい並んでいればOKのようです。

隣は、色覚と視野のテストです。顔を固定して正面を見ていると、左右に赤、緑、黄の色が表示されます。それを当てるというもの。

テストはこの3つだけです。5年前と同じですね。あの時との違いは、ちゃんと列に並ばせたこと。2回くらい失敗すると、やり直しということで、列の最後に並び直します。すべて終わった人から、ビデオ講習へ行きます。

私は、前回も苦労した色覚視野テストで「目を閉じるな!」「目を動かすな!」と何度も注意を受け、やり直しの末にやっと合格しました。まあ基本的に不合格はなさそうですけどね、慣れて上手になるので。


続いて、14番の部屋へ行けと言われました。ビデオ講習1時間です。外で待っていると、番号を呼ばれます。幸い、30分も待たずに呼ばれましたが、この時点ですでに11時です。
途中で映らなくなるなどのハプニングはありましたが、タイ語音声、英語字幕の喜劇のようなビデオを見ました。まだ途中でしたが、1時間で打ち切るというのもタイらしいです。

前回のビデオとは違いましたが、善人役と悪役があるのは同じ。今回はまともな男性とヤンキーな兄ちゃん、それと若い女性の3人が主役で、いろいろなケースを見せてくれます。
面白かったのはクラクションの使い方。その中で、変な人が来たら助けを求めるためにクラクションを鳴らすというのがありました。ヤンキーの兄ちゃんが若い女性の車に来たところ、女性が助けを求めるクラクションを鳴らします。するとどこからともなく数人が駆けつけて、ヤンキーの兄ちゃんを殴るは蹴るはでボコボコにします。しかし、ヤンキーの兄ちゃんが、「オレはただ、○○(不明)したかっただけなんだよ」と説明すると、集まった数人が慌てて逃げていくのです。おいおい、そんなことでボコボコにしていいのか? それは暴行傷害罪じゃないの? まったく、タイらしいです。(笑)

それが終わると、一人ひとり書類を渡してもらい、おそらく前回と同様に18番窓口に提出したのでしょう。(受け取る時に確認しようと思っていたのですが。)
ですが、私の書類がなくて、係員が「13番へ行け」と言うので13番窓口へ行き、番号札を渡して待ちました。(他に数人、そういう人がいました。モーターサイの運転手ばかりだったので、バイクの免許と関係があったのかもしれません。)30分ほど待って、係員が呼んでくれ、免許証受け取りの呼出番号札がついた書類を受け取りました。

呼び出す時、係員が「ミスター」と私のことを呼んだのですが、最初は誰のことかわからず戸惑いましたよ。他のタイ人は名前を呼ぶのに。想定してない呼びかけだったので。「えっ?私?」みたいに戸惑ってしまいました。(何度も呼ばせてしまってごめんなさいね。)


そこから建物に入って右手にある免許証受け取りブースの前で、番号が呼ばれるまで約2時間待ちました。そこへ行った時(12時半くらい)、私の番号は456番で、電光掲示板の呼び出し番号が300番くらいでしたから。まあでも、お陰でたっぷりと読書ができました。
途中で、隣のタイ人と少し会話をしました。でも、そんなに会話が続くわけもなく、やはり暇つぶしの何かは重要でしょうね。

番号が呼ばれると、1番から7番までの呼ばれたブースへ行きます。そこで代金を支払い、サインをして、写真を撮って、免許証の出来上がりをそこで待ちます。ものの数分で出来上がるので、待つほどでもありません。
代金は、更新が555バーツ、取得が105バーツの、合計660バーツでした。5バーツは申請書類代です。更新の50バーツは、おそらく住所変更代でしょう。前もそうだったので。前回は写真代の100バーツがありましたが、今回はかかりませんでしたね。また、特に住所変更と言わなかったのですが、何も問題ないようです。

受け取った免許証
[受け取ったタイの免許証(上がオートバイ,下が自動車)]


陸運局を出たのが14時半くらいでした。けっこう混んでいるようにも思ったのですが、意外とスムーズに適性検査とビデオ講習が終わりました。でも、受け取りに2時間待ったので、終わった時刻は5年前とそれほど変わらないかもしれませんね。今回は、昼休み中も関係なく受け取りができたようなので、係員は交代で休んだのかもしれません。

ともあれ、これで懸案の運転免許証更新・取得が終わってホッとしています。車の免許は、2023年の誕生日まで、オートバイの免許は2年後の2019年の12月8日まで有効となります。車の免許を最初に取得した時は、1年の暫定免許でした。今回も同じだと思ったのですが、なぜか2年有効ですね。これも変わったのかもしれません。オートバイも、次に更新すれば、5年(誕生日まで有効)の免許になると思います。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 18:33 | Comment(0) | └ タイのお役立ち情報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月10日

天運の法則



なんと16,200円もする本を読みました。サイズも大きく、分厚くて、重厚な感じがします。さらに、特製の風呂敷に包まれていました。この外装の豪華さを見ても、この値段にふさわしい感じです。こんな特別な本を書かれたのは、イメージトレーニングの研究・指導のパイオニア、西田文郎(にしだ・ふみお)さんです。

西田さんの本は、これまでに「はやく六十歳になりなさい」「驚きの最強思考「赤ちゃん脳」」などを紹介しています。いずれも、脳を上手に使って素晴らしい成果を上げるという、西田さんの考え方が紹介されています。実はこの本、今年の初めごろに購入していたのですが、ずっと積読してました。なんだか読むのがもったいなくて・・・。とは言え、いつまでも置いとけないので、読んでみました。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

だからこそ、私は経営者の皆さんに「社会的成功」と「人間的成功」の2つを目指すようにとお伝えしてきた。
 前項でお話した経営者に必要な3つの力に当てはめると、「社会的成功」が「知」、「人間的成功」が「徳」である。この2つの成功を同時に追い求めることが、真の成功につながる道なのである。
 そして、一流の経営者になるには、もう一つ大切な力が必要なのである。
 それが「胆力」である。胆力とは、度胸、勇気、執念、決断する力などのことである。
」(p.31)

西田さんは、幸せに成功する経営者には知力、徳力、胆力の3つの力が必要なのだと説いています。これを論語にある三徳(知、仁、勇)などと重ねて、重要性を説明しています。

そして特に必要なのが胆力なのですね。たしかに経営者をやってみると、決断する力の重要性を感じます。最後は自分の責任ですから、勇気が必要なものです。


私たちの脳を支配しているもの、その正体は「過去のあなた」である。別の言い方をすれば、あなたの脳に蓄えられた過去の記憶データなのだ。」(p.61)

私たちは、意識で「成功しよう」と思っても、過去の失敗イメージなどに支配されがちです。そして潜在意識は、私たちが本当に信じていることを実現します。私たちの記憶にある強固なイメージを変えない限り、今の意識の思い通りにはならないのです。


人間の脳には錯覚領域と確信領域がある。多くの皆さんは、この「確信思考」と「錯覚思考」の違いに気づいていない。」(p.71)

西田さんは、人間の脳の発達段階には7つの段階があると言います。最初の2つは「錯覚領域」で、「マイナス思考」「プラス思考」です。この段階でも、マイナス思考をやめてプラス思考にすれば、それだけで優秀な人になれると言います。

その次が「確信領域」の5つの段階です。「分析思考」「胆力思考」「繁栄思考」「強運思考」「天運思考」となっています。「天運思考は、ためらいがまったくない状態のこと。」と説明しています。思い通りに行っても、天の法則に適う状態のことです。


「積極的無欲」とは、物も名誉もいらないという無心の状態でありながら、「命に代えてもやる」という強い信念のある究極の状態である。つまり、「積極的無欲」こそが「純粋な動機」による天運的生き方なのである。」(p.99)

マズローの欲求5段階説では、「自己実現の欲求」が最高の欲求とされます。しかしマズローは、死ぬ前にもう1つ上の段階があると考えていたと、西田さんは言います。それを「積極的無欲」だと言います。

これは西田さんも紹介されているように、山岡鉄舟の生き方ですね。西郷隆盛は鉄舟を評してこう言いました。「生命も要らず、名も要らず、官位も金も要らぬ人は始末に困るものです。」まさに積極的無欲です。

このように、小我の欲をすべて捨て去り、天の欲求に身を捧げることを望みとする生き方が、天運思考だと言うのです。


日本人の勇気や一体感、そして規律正しい行動は、多くの外国の人々の称賛を浴びた。それはおそらく、私たち日本国民が国民性として持っている共通の特徴、すなわち大和心、「武士道」のようなものなのではないだろうか。」(p.194)

3.11の東日本大震災での出来事です。あの混乱の中で、静かに列に並んで配給を待つ人々。弱者に配給品を譲る人々。これは、過去の日本人によって培われた精神が、私たち現代の日本人の脳の奥に刻み込まれているのだと、西田さんは言います。


人間には命を賭してやらなければならないことがある。それが、真の使命である。この真の使命に気づくと、生き方が変わる。休んでなどいられないし、学びたくて、知りたくて仕方なくなるのだ。」(p.322)

いくら学んでいても、もっと上を目指そうとする。一流の人というのは、そういうものですよね。そのエネルギーがどこから湧いてくるのか? それが「天運の法則」なのだと西田さんは言います。自分の枠を越えて天の御心を知ることです。


360ページもある分厚い本ですが、実は文字がかなり大きく、行間も開いているので、それほど読むのに苦労はしません。むしろ読みやすく、あっという間に読めてしまう感じです。小さい文字では読みづらいという、私のような中年以降の人に配慮されたのではないかと思います。

西田さんの考え方の集大成ということで、これまでこの「天運の法則」は、限られた人にしか伝えてこられなかったそうです。しかし、西田さんが大病を患われたことで、この内容を多くの人に伝えるべき、残しておくべきと思われたのだとか。

表紙が分厚くて柔らかく、手にした時の感触が他の本とはまったく違います。その感触を楽しみながら、読書の喜びに浸れる本だと思います。

天運の法則
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 13:20 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月12日

生きる職場



これはおそらく、「みやざき中央新聞」で紹介されていた本だと思います。サブタイトルに「小さなエビ工場の人を縛らない働き方」とありますが、スタッフを管理することを極力廃止したことで、返って効率が良くなったという会社があるのです。その会社はパプアニューギニア海産。その工場長である武藤北斗(むとう・ほくと)氏が、この本の著者です。

同社では、日時を定めずにいつ出社してもよく、またいつ退社してもよいというフリースケジュールという制度があります。しかも、いつ出社する、退社するということを、事前に報告してはいけないという制度です。さらに、嫌いな作業をやってはいけないという制度もあります。大きくはこの2つが特徴的です。

しかし、そんなことで会社が経営できるのでしょうか? 上手くいくはずがない。そう思われてしまいそうですが、しかし、現実に同社はそれで上手くいっています。しかも、ただ経営が成り立つばかりか、それらを導入する以前よりも低コストで効率が良いというのです。にわかには信じがたいのですが、どうしてそれができるのか、その秘密を知りたくて読んでみました。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

ですから、僕は根本的に仕事というものは、楽しみではなく、生きていく手段に近いものだと考えています。
 そのうえで、「働きやすい職場」を作るというのは、従業員一人一人が仕事をどのように感じていようと関係なく、会社がひたすらに職場環境や人間関係を整え、誰もが居心地がいい状態を目指すことだと思っています。
」(p.25 - 26)

意外と現実的な方なのですね。仕事そのものは楽しいからやるのではなく、生活のために必要だからやる、少々嫌でも仕方ないからやる、という感覚がベースにあるようです。


このとき、僕は「働きやすい職場を本気で作っていきたいから、みんなを信じてルールを作っていく。だから僕のことをどうか裏切らないでほしい」と何度もミーティングで繰り返しました。」(p.34)

フリースケジュールなどの制度を導入した時、やはりサボる人はいたそうです。それで会社の方針に合わなくて辞めていく人もいたとか。このことは、単に制度だけ導入すれば上手くいくというものではない、ということを物語っていると思います。


このフリースケジュールの原型は家族経営の会社にありがちな、親族の働き方と似ています。端的に言えば、経営者の親族だけは、子育てや私生活を優先した出勤形態になっていることがままあるのです。」(p.80)

たしかに家族経営の小規模事業では、家族親族の働き方はかなり自由です。朝の家事に時間が取られれば、奥さんが仕事に入るのは遅くなります。夕方、学校の用事などあれば、早くあがることもあるでしょう。それに対していちいち目くじらを立てたりしません。

ただ、この会社のフリースケジュールは、パートタイマーの従業員にだけ適用されている点は、ポイントかと思います。時給ですから、多く働けば報酬が多くなり、少なく働けば報酬が少なくなる。そのため、基本的には極端に少ない勤務時間で満足する人が少ない、という前提があるのです。そのことにより、全体で一定の作業時間は確保できている、ということがあるかと思います。

もちろん正社員が多い職場でも、月間の最低勤務時間とか、年間の最低勤務時間を決めることで、フリースケジュールを導入することが可能になるかもしれません。あとは、どれだけ代わりが利くか、という点ですね。この会社では、パートさんがすべての仕事で代わりが利くので、誰が出てきてもかまわないという仕事形態です。どうしてもこの人に期日までにこの作業をやってもらわなければ、という環境では、難しさはあると思います。


従業員同士の関係も大事です。
 そのためには風通しのよい職場環境を作るとともに、従業員同士がお互いのことを助け合える土台のようなものを作ることが重要です。
」(p.101)

出勤した時、その日の体調を○か☓でホワイトボードに示す仕組みを作られたのだとか。これによって、いちいち「今日は頭が痛くて」などと言い訳をしなくても、緩慢な作業や集中力がない従業員がいても、その背景を思いやることができるのです。

あの人はサボってるとかズルしていると感じていると、その人の気分もよくありません。また、そう思われる方の人もつらいものです。そういう感情の行き違いをなるべくなくそうという取り組みですね。


どんなによいルールでも、経営者が一人で作ったものを次から次へと押し付けられるのは、現場にとって気持ちのよいものではありません。特に会社のルールは、経営者的な目線と従業員としての目線のバランスを取ることが必要です。だからこそ従業員は、自分たちで作ったルールであればこそ、気持ちよく守っていくことができるのではないでしょうか。」(p.107 - 108)

ルールは必要だとしても、それを経営者が勝手に作って押し付けた場合、なかなか上手く行かないようです。制約を受ける側にも入ってもらって、どう決めるのが良いか考える。言われてみれば当然のことのようにも思いますが、みんなで話し合っても紛糾して決まらないという恐れもあります。

そこをどうまとめるかが、経営者の腕の見せ所かもしれませんね。絶対的に正しいルールはないのですから、まずはこれでやってみて、ダメならまた検討する。そういう柔軟な態度が必要なのだろうと思います。


もしほかの作業でもこんなふうに好き嫌いが分かれるのであれば、先ほど出てきたような作業の遅い人が力を発揮できるような、もしくは作業の早い人がそれを率先してできるような、そんな仕組みができるのではと感じたのです。
 そこで、工場の作業工程を細かく分類し、アンケート形式で個々人の作業の好き嫌いを書いてもらうことにしました。
」(p.117)

人の好き嫌いは多様だということです。全員が全員、この作業が嫌いということはないのです。このことから、嫌いなことをやって気分を滅入らせたり、それによって作業効率が悪くなることがないよう、嫌いなことをやらないというルールができたのです。

でもそうすると、もしみんなが嫌いという作業があったらどうするのか? という疑問が出てくると思います。それに対して武藤氏は、全員で分担すると答えています。率先してやる作業ではない、というだけで、やらなくてよい作業ではないのですね。


もちろん困難を克服することで、諦めない気持ちや耐える力といったものが養われる可能性があることは否定しません。しかし、そうした困難は他人や会社に無理やり押し付けられるべきものなのでしょうか。
 自分でやると決めて、自分から立ち向かっていくからこそ乗り越えられるし、それを自分にとってプラスに捉えて、その後の人生にもよい効果をもたらしていく。他者からの強制ではなく、自分から気持ちを奮い立たせて立ち向かうことで、人ははじめて成長できるというのが僕の考えです。
」(p.122 - 123)

好きなこと、得意なことをしながら、さらに上を目指す。自分で自分にハードルを課すから、困難なことも楽しくやれる。私も、挑戦とはそういうものだと思うし、そうであってこそ成長するのだと思います。

実際この会社では、従業員が主体的に働ける環境を作ることで、離職率が大幅に下がったそうです。そのために技術(熟練度)が蓄積され、作業効率が高くなり、経費削減につながっています。嫌いなことを無理にさせて辞めていく人が多かった頃は、ストレスが溜まるばかりで作業効率が低かったのです。


こうした取り組みをすると、会社が従業員のためにと思って作った制度を悪用して、ずるずると休み続けたり、やるべき仕事をサボって会社に不利益をもたらす人が出てくるのではないかと考える人もいます。
 でも、果たして、従業員のことを親身になってくれる会社に対して、あえて会社の不利益になるようなことをする人がいるでしょうか。僕は人の気持ちによる相乗効果というものを信じています。そして、もしも前向きに取り組む中で会社に不都合なことが起きたとしても、それはそのときに考えるようにしています。
」(p.155)

まず会社が従業員のことを親身になって考えてあげれば、従業員も会社を裏切らないだろうと信頼することが重要だと言います。もちろんそこで、本当に裏切らないかどうかは別です。その従業員にとっては、会社のことより自分の生活が優先ということはあるからです。

そこで武藤氏は、その時はその時になって考えると言っています。つまり杞憂から従業員を疑い、あらゆる可能性に対処しておくという考え方は捨てているのです。それが信じるということなのでしょう。


僕が今でも印象に残っている一言があります。それは僕が彼らに「日本に来てなにが一番びっくりした?」と訊ねたときの答えなのですが、「毎日多くの人が遅刻せずに時間どおりに来ることにびっくりした」と言われたのです。
 その頃の僕はその言葉を聞いて日本人の几帳面さに得意げになっていました。
 しかし今考えると、彼が言っていたことは、僕が今まさに懸念している日本の社会に蔓延する縛る働き方への警告をしてくれていたのではないかと感じることがあります。
」(p.179 - 180)

パプアニューギニアでは資源を守るために年の3分の1は禁漁期間だそうです。それで、天然エビを獲る会社から毎年2名、1ヶ月くらい研修で働きに来てもらっているそうです。そうすることで、彼らに自分たちが獲ったエビがどのようになって消費者に届くかを知ってもらえる。そんな研修に来た青年が言った言葉です。

私もタイに来たとき、文化の違いに違和感を感じました。日本のように思い通りにならないことにイライラしました。日本の方が優れていると信じていたのですね。でもしばらくすると、タイはタイのやり方で上手く回っているのだと気づきました。そのことによって、必ずしも日本のやり方だけが正しいわけではないとわかったのです。

やり方は他にもある。その気付きが、私を自由にしてくれました。そして、そういう目で日本を見てみると、他人の価値観でがんじがらめになって、窮屈な閉塞感の中に沈んでいる姿が見えたのです。


最終的には、自由にすることが重要というより、自由にするための信頼関係を作る工程が重要なのだと思います。
 そして人は自分が自由になったとき、ほかの人のことを気にしなくなります。自分が幸せなときに、ほかの人を不幸にしようとは思わないのと一緒です。そう考えると、権力をもつことと、幸せになることは違うのだなと改めて感じることができます。
 さらには、この自由を継続できるように自分たちで努力し、これを崩さないようにバランスをとり始めるのです。
」(p.190)

フリースケジュールなどで従業員が自由に、自主的に仕事に取り組めるよう環境を整えていくことは、従業員と経営者の、また従業員同士の、信頼関係を構築することなのですね。その結果として個々人が自由になる。その自由が出来上がると、みんながその自由を守ろうとするようになる。

その逆に、自由が少なくて不幸だと考えていると、誰かが出し抜けすることが許せません。「なんだあいつばかり楽しやがって!」と頭に来るのです。他人が幸せになると、引きずり下ろしたくなります。そういう非生産的なことにエネルギーを注ぎたくなるのです。

ですから、お互いに自由になれるよう協力し合うための関係を構築すること、つまり相互に信頼し合うことが重要になってくるのです。そのためにはまず、経営者が従業員を信頼することなのでしょう。


先にも述べましたが、「フリースケジュール」や「嫌いな作業はやらなくてもよい」というのはあくまでも働きやすい職場へ向けての一つのパーツでしかありません。ですから、それをそのまま自分の職場に当てはめてできる、できないといった議論をするのはあまり意味がありません。
 やらなければならないのは、自分たちの業種や会社で、従業員が働きやすくなるためにはなにができるのかを、現場での経験を生かして、まずは自分たちで考えて行動することです。
」(p.204)

重要なのは手法ではない、ルールではないということですね。上記ですでに述べましたが、たとえば私がやってきたプログラム開発では、途中で誰かに変わるというのは非常に困難です。どうしてもその人が期日までにそれを成し遂げなければなりません。そういう中では、いつ働いてもいいよとは、なかなか言えません。

しかし、フリースケジュールが重要なのではなく、その仕事をする上で働きやすいルールを考えて作ることが重要なのです。たとえば、在宅勤務という選択肢もあるでしょう。でもそんなことをしたら、働かずにいるかもしれませんね。そこで必要になるのが、まずは信頼するという態度なのでしょう。


この本は、単に手法を教えてくれるものではなく、どういう態度で取り組むのかという根本的なことを教えてくれています。そういう意味で、非常に評価できる本だと思いました。

ただ残念なのは、この本の趣旨とまったく関係なく、ご自身の体験もふまえて、原発や、政府を安易に批判しておられることです。そう考えたくなる気持ちはわかりますが、本題と関係のない一方的な思い込みをこの本に含められることには、ちょっと賛同しかねます。


原発に反対なら、その分の電力を使わないのならまだわかります。でも、自分たちは同じように電力を使いながら、原発だけを批判する。原発が停止されたために、何が起こっているかをまったく考慮せず、ただ廃止すべきだと主張される。そういう偏った正義感を振り回されている部分は、ちょっとどうかなと思います。

原子力の代わりに化石燃料が使われ、大気汚染が進んでいることは、目に見えなくても調べればわかります。原発の発電量あたりの死者は、火力発電に比べれば圧倒的に少ないことも、WHOの資料で明らかです。つまり、原発を使わずに火力を使うということに賛同するということは、自分の目に見えないところで多くの人を殺すことを受け入れる、ということと同じだと思います。

少なくともそのことを知っていれば、安易に原発を批判するようなことは言えないと思います。もちろん、原発の事故による被害などもあり、そのリスクがあることも知っています。けれども、リスクはどこにでもあります。だからこそ科学的に検討し、どのリスクをとるかを冷静に判断すべきだと思うのです。安易な批判は不毛だと思います。

生きる職場
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 16:21 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月16日

心に残る言葉

「大丈夫 心配するな 何とかなる
It’s OK. Don’t worry. It’ll work out.」


墨筆士・小林龍人

一休禅師の遺言とも言われるこの言葉を、私の友人で世界で活躍する「侍(サムライ)書道パフォーマー」とも呼ばれる墨筆士・小林龍人 (こばやし・りゅうじん)さんに書いていただきました。

この言葉は、「幸せ実践塾」でお伝えしている数多くの教えの中の究極の一言、「安心していること」を表現するのにもっともふさわしいと思います。

この書は、小林さんが著作権フリー(改変はダメです)で提供しているものです。よろしければ、小林さんのサイトの「言霊書道」のページにアクセスしてみてください。

こちらから、私が依頼した書以外にも、多数の書を自由にダウンロードし、使うことが可能です。小林さんの筆によって、魂を込められたこの書を、どうかお役立てくださいね。私も、スマホの待ち受け画面に使ってみました。


 

一休禅師の遺言の逸話は、次の通りです。

臨終の場で一休禅師は、一通の手紙を弟子に渡し、もしどうしようもないことが寺に起こった時は、それを開けて読むようにと伝えて亡くなりました。

それから数年後、寺に存亡の危機が訪れたそうです。弟子たちは集まり、一休禅師の遺言を読むのはこの時と、開封してみたそうです。

すると、書かれていたのがこの言葉だったとか。

「大丈夫 心配するな 何とかなる」

思わず力が抜けて、みんなで大笑い。よし、大丈夫だからやるだけやってみよう。そう前向きに取り組んだところ、みごとにその危機を切り抜けられたそうです。
 

この逸話は本当ではないという説もあります。私は、これが本当かどうかは、どうでも良いと思っています。
でも、この言葉には真実があるし、この言葉が役立てば良いのです。
 

【「大丈夫」という言葉について】

「大丈夫」「だいじょうぶ」と読みますが、「だいじょうふ」とも読みます。
「だいじょうふ」と読むと、それは「立派な男(一人前の大人)」のような意味になります。元々はそういう意味で、「丈夫」とは1丈(170cm強)の男の意味でした。そこに「偉大な、立派な」という意味の「大」を付けて作られた言葉です。

そこから、「あなたは大丈夫(だいじょうふ)ですよね。(だからしっかりできますね。)」とか、「はい、私は大丈夫(だいじょうふ)ですから。」という使い方から、「大丈夫(だいじょうぶ)」という言葉になったと思われます。
 
なお、小林さんに何か書を書いてほしい(有料)という方は、小林さんあてにメッセージを送ってくださいとのことです。(アメブロの小林さんのページが開きます。その最下段あたりに連絡先のリンクがあります。)言霊旦那の称号をいただけます。ちなみに私は、言霊旦那の第1号に認定されました。(笑)
 
墨筆士・小林龍人、リバース
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 00:32 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月18日

無肥料栽培を実現する本



また農業関係の本を読みました。著者は岡本よりたかさん。「よりたか農法」と呼ばれる無肥料栽培を実践されています。

農業関連では、これまでに「大地がよろこぶ「ありがとう」の奇跡」「百姓が地球を救う」「自然農という生き方」「ニンジンの奇跡」などの本を読んで紹介しています。私は農業などしたことがなく、せいぜい子どものころ、祖父母の手伝いをした程度なのに、なぜか魅力を感じてしまうのです。

これは、食べ物が人工的であることに対する何とも言えない違和感から、自然な食べ物が身体のために良いと感じているからかもしれません。あるいは、「育てる」ということに、魅力を感じているからかもしれません。理由はよくわかりませんが、農業、特に人工的な農薬や化学肥料を使わない農業に関心が向くのです。

この本のサブタイトルには、「ビギナーからプロまで全ての食の安全を願う人々へ」と書かれています。岡本さんも、化学物質に過敏な人のためにということで、無農薬無肥料の野菜づくりをされてるそうです。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

なぜ植物は成長するのか、なぜ成長しないのか、なぜ虫が来るのか、なぜ虫が来なくなるのか、なぜ病があり、なぜ病に勝てるのか、その答えは、全て自然界の中にあります。自然界から得られた解答は、無肥料栽培を行う上で最も大切なマニュアルなのです。」(p.6)

手順が書かれた本を読んでそれに従っているだけでは、応用が効きません。なぜそうするのかがわかっていなければ、返って良くないことをやってしまう可能性もあります。だからこそ、何をどうすれば良いかは、野菜そのものに聞くべきなのですね。


マメ科の植物には、根粒菌という菌が寄生しますが、この根粒菌も窒素固定菌の一種です。落雷によっても、空気中のチッソが土壌中に固定されると言われています。
 土壌中に取り込まれた窒素は、植物によって消費され、余った窒素の一部は空気中に消えていきます。これを「脱窒」といいます。こうして窒素は循環していきます。この窒素の循環があるからこそ、植物は無肥料で育っていけるのです。
」(p.13)

植物の重要な栄養素は、窒素、リン酸、カリと言われています。その窒素は空気中に豊富にあり、それが土壌に固定化されることで、植物の栄養となります。そして植物を形作った窒素は、また空気流に放出され、循環することになります。

自然界を見てみると、この循環が当たり前のように行なわれているのですね。どこにも滞ることなく流れていく。その流れがスムーズであればあるほど、自然は豊かなのです。


しかしよく考えてみれば、自然界は連作障害など起きてはいません。自然界では種はその場にこぼれ、翌年同じ場所で芽吹くのが当たり前だからです。つまり連作障害は人間が作り出した問題だということが推測できます。
正しいミネラルバランスがとれると、正しい微生物バランスが生まれ、連作障害を防ぐことができます。難しいようで、実は簡単なことです。
」(p.21)

農業で問題となる連作障害について岡本さんは、ミネラルバランスが崩れることが問題だと言います。そして、自然界ではそれが整うようになっているのだと。

ですから岡本さんは、「コンパニオンプランツ」と呼ばれる同じ畝(うね)で複数の野菜を育てるというやり方をしておられるのです。


雑草の種類が10種類以上見つけられるようならやせてはいないと判断します。」(p.73)

土壌改良する必要があるかどうかの判断基準として、多様な雑草が生えているかどうかを第1の基準にすると岡本さんは言います。

次には土そのものを見て、粘土質ならやせてる、腐食が多くて黒っぽくなっていれば肥えているという判断です。さらにph(ペーハー)も測って6以上(弱アルカリ)かどうかを判断します。それもOKなら、単純に作物がよく育つかどうかで判断すると。こうやって土壌改良が必要だとなった場合に、土を耕したり、緑肥を植えたりなどの特別な方法が必要になるのですね。

野菜を作る(=畑にする)ということで、すでに自然ではないのですから、何らかの人間による調整が必要になるのだと、岡本さんは言います。


雑草があるからこそ、土が豊かになり作物の成長を助けてくれるわけです。雑草が栄養を取ってしまうという考えは、土壌に肥料を与えるという行為から生まれてくる発想です。与えたから奪われたくないと考えてしまうわけですが、無肥料栽培ではその考えが全く逆転するだけです。」(p.98)

ここでも、循環が大切だということを言っています。循環がなければ、与えて消費されて終わりです。また新たにどこからか持ってきて与えなければなりません。こういう考え方をしているかぎり、永続的な農業は不可能です。そして、それは自然に反するのです。


少数の困っている人たちに、少数の僕らが作物を提供してあげればいいんです。それが僕らの使命でもあるわけです。」(p.189)

多くの人は、多少の化学物質を摂取しても問題ありません。しかし中には、微量でも強烈に反応してしまう人がいる。そういう人にとって、今の社会では食べるものがありません。岡本さんは、そういう人たちのために、ごく一部の人が無農薬無肥料で野菜をつくることが、意味のあることだと言うのです。


大上段に構えて、無農薬無肥料こそが農業の主流であるべきなどと言う必要はないのですね。ただ、それを必要としている人がいる。少々高くても、そういう野菜を食べたい人がいる。そのニーズに応えるだけだと、緩やかに構えていればいいのかもしれません。

私は、今現在、農業をしているわけではありません。しかし、この本にあるように、自然はそもそも循環によって永続できるようになっているのです。ですから、農業をする場合でも無理をせず、自然の循環の中で作物を育てればいいのではないか、という気持ちになりました。

無肥料栽培を実現する本
 

posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 01:19 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月19日

99.9%は仮説


野口嘉則さんのオンライン講座の課題図書を読みました。サブタイトルに「思いこみで判断しないための考え方」とあるように、常識を疑うということがテーマです。著者は科学作家の竹内薫(たけうち・かおる)さんです。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

科学は絶対的なものごとの基準ではありません。あくまでも、ひとつの見方にすぎないのです。
 よく「科学的根拠」がないものは無視されたりしますが、それはまったくナンセンスです。
 なぜなら、科学はぜんぶ「仮説にすぎない」からです。」(p.32 - 33)

ここまでに、飛行機が飛ぶ原理が解明されてないことなど、いくつかの驚くべき事実が書かれています。その上で、科学はすべて仮説だと言うのです。にわかには信じられなかったのですが、この本を読み終えた時には、その通りだと思えるようになりました。


つまり、常識というやつは意外にもろいのです。常識はくつがえるものなのです。
 ですから、この本では、そういった常識のことも「仮説」と呼ぶことにしたいと思います。常識は仮説にすぎないのです。」(p.57)

科学だけでなく、常識もまた仮説だと言います。真実ではないということですね。ここの前にガリレオの望遠鏡の話、コペルニクスの地動説の話などがあるのですが、当時の人が常識として信じてきたことが覆されてきた歴史がありました。


「タブーに挑戦し、あらゆる仮説に触れてみよ」

 とにかく、いろいろな仮説にじかに触れてみることが大切だ、というのです。
 ガリレオの望遠鏡を否定した教授たちは、自分たちの仮説をおびやかす代替案に耳を傾けることを拒否しました。それは、社会でタブーと呼ばれるものです。
 ファイヤアーベントは、あえてタブーに挑戦し、あらゆる仮説に触れることにより、知的な「免疫力」をつけろ、というのです。」(p.95 - 96)

自分の中にこびりついている仮説に気づき、本当はそうではないかもしれないと思えるようになるために、このようにアドバイスをしています。頭から否定するのではなく、タブーと思われていることこそ、それもあるかもと思って触れてみることが重要なのです。


結果的には、ロボトミー手術というのは、とりかえしのつかない治療法だったということになります。世論が一八〇度変わってしまったわけです。
 そして、一九七〇年代以降、この手術はもうほとんどおこなわれなくなりました。
 この世には「正しいこと」などなにもない。
 世界一権威のあるノーベル賞といえども、まちがえることはあります。」(p.108 - 109)

これはまったく知らなかったのですが、精神疾患の治療法として、脳の一部を切除するロボトミー手術というものがあり、それを人体に適用して広めたモニスという医師は、ノーベル賞を受賞しているのです。しかし後に、それがとんでもないひどい手術だったとわかったのですね。

このように、どんな権威が認めたことでも、それが間違っているということはあり得ると竹内さんは言います。ただ、今の常識を当てはめてモニス医師が悪いと断罪する必要はありません。当時はそれが正しかった。けれども今は正しくない。それだけのことなのです。


人間が作りだす世界は言語がもとになっています。そういう意味では、文化のすべてが仮説だといっても過言ではありません。
 でも、その仮説には、白から黒までの幅広いグラデーションがあり、また、専門家と素人で、その濃淡の感じ方も大きく変わることがあるのです。」(p.126)

その時代の大部分の専門家が正しいと認める仮説を白い仮説、大部分が認めない仮説を黒い仮説と呼ぶそうです。しかし仮説には、白と黒だけがあるのではなく、その中間のグレーもあり、グレーの濃淡も様々なのですね。


ようするに、歴史も文化である以上、「裸の史実」など存在しないのです。
 だって、日本史の一級資料であっても、その書き手がホントのホントに事実をそのまま書き写したと検証できますか?
 つまり、歴史はあくまでも仮説の集まりであり、真実ではないのです。」(p.156)

指摘されてみればそうですね。今、目の前で見られない以上、確認のしようがありません。再現することもできませんから。そうなると歴史は、伝聞か、伝聞の伝聞か、ということになってしまいます。真実ではなく、仮説だということです。

だからこそ、歴史を疑う姿勢が必要なのですが、多くの人は真実だと錯覚します。そしてプロパガンダに騙され、判断を誤ってしまうのです。そういう意味では、騙されないことも重要ですが、プロパガンダを放っておかないことも大事だと思います。それがいつしか、真実として語られるようになるからです。


わかっていないことについては、わかっていないとちゃんと教えるべきなんです。その線引きを曖昧にしてはいけません。
 なにがわかっていないかということがはっきりすると、たとえば天才がでてきて、それをひっくりかえしたりします。
 でも、一〇〇パーセントわかってはいないのに、一〇〇パーセントわかったかのように強制的にみんなに教えてしまうと、だれもが先入観としてもってしまって、疑問に思う人がいなくなってしまいますよね。」(p.175)

教える側としては、まだ検証されていない仮説、定まっていない仮説は、完全にわかっているわけではないことを教える必要があると言います。複数の仮説がある場合は、それをすべて教えるのが良いとも。自分で考えさせるようにするためにも、仮説にすぎないことを教えることは、とても効果的だと思います。


そうすると、世間でいう「正しいこと」には絶対的な根拠がひとつもないことがわかってきます。
 誤解を恐れずにいうと、人殺しですらある意味では悪じゃない可能性がある。
 戦争でも、戦勝国の英雄は人殺しですが悪じゃない。でも、敗戦国の英雄は戦争犯罪人として裁かれるでしょう?」(p.199 - 200)

こういう極論は大好きです。(笑) なぜなら、真実がはっきりしますから。たしかに、人殺しさえ悪ではない現実があります。価値観次第では正義となり、殺せば殺すほど英雄になるのですから。


つまり、話が通じないのは、自分の仮説が相手に通じていないということです。また、相手の仮説を自分が理解していないということでもあるのです。」(p.226)

意見が対立し、話が噛み合わない相手というのは、お互いの仮説が違っているからだと言うのですね。たしかに、そもそも前提とする価値観が違っていれば、話は噛み合いません。

竹内さんは、そういう時は相手の仮説(価値観)を理解しようとしてみることを勧めます。それがすぐに理解できないとしても、相手には相手の仮説があるのだと思って考えてみることで、自分のキャパが広がると思います。


新書版で、ちょっと小難しそうな印象を受けましたが、いざ読んでみるとまったく違いました。とても読みやすく、すいすいと一気に読んでしまいました。

常識がいかに常識ではないか。自分がいかに特定の仮説(価値観)を真実だと思い込んで生きているか。そういうことを知るのに、最適な本だと思います。それがわかれば、対人関係でも柔軟になれますし、怒りやイライラからも解放されるでしょう。

99.9%は仮説


posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 16:20 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月23日

〈新装版〉心配症をなおす本



森田療法の本を読みました。サブタイトルには「よく分かる森田療法・森田理論」とあります。著者は森田療法の研究の第一人者、青木薫久(あおき・しげひさ)氏です。この本はおそらく、Facebookで「人生を変える幸せの腰痛学校」伊藤かよこさんが紹介されていて、それで買ったのではないかと思います。

私自身、森田療法という名前は知っていましたが、詳しいことは知りませんでした。紹介文を読んで興味深く感じたので、買ってみたのです。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

「たえずあらわれてくる不安ととらわれはしかたのないものだから、これにさからわないようにし、不安・苦悩のまっただ中にあっても、当面はなすべきことをなしていく」という吉沢さんがとっている態度を、わたしたちは”あるがままの態度”といっています。
 この”あるがままの態度”は悪循環を断ち切り、不安やとらわれをのりこえていく一つのバネになるのです。
」(p.19)

森田療法で心配症が改善した吉沢さんの例を取り上げ、その本質が「あるがままの態度」を取ることだと言っています。つまり、不安を感じちゃいけないと、自分のマイナス感情を否定することがダメなのですね。湧き上がる感情はそのままに認める。それを受けいれながら、為すべきことは為す。

「神との対話」などでも、感情を抑圧することは良くないと言っています。そして不安を乗り越えるには、それをしっかりと見つめることと、最後は一歩を踏み出す勇気なのです。森田療法も、同じようなことを言っているのだなぁと思いました。

”あるがままの態度”で社会生活上の問題を一つ一つ解決していけば、あなたの心は軽くなり、不安やとらわれは少しずつうすらいでくるでしょう。そうなれば、あなたの行動にはずみがついてきて、心にも張りが生まれ、よりいっそう仕事にはげむようになりますし、不安やとらわれにたいする硬直した態度はなくなってくるでしょう。」(p.30)

この過程では、不安や恐怖に飛び込むような感じ(恐怖突入)や、不安と一緒に行動するような感じ(不安共存)を感じるでしょうけど、為すべきことなのですから仕方なく為すしかないのです。諦めのような気持ちでしょうか。開き直りと言う方がふさわしいかもしれません。

いずれにせよ、そうやって不安があっても否定せずに、ただやるべきことをやっていく、というのが森田療法なのです。


”治そうとする態度”と”治そうとはしない態度”が相互に矛盾しながら”あるがままの態度”のなかにふくまれているのです。そして”治そうとする態度”と”治そうとはしない態度”の矛盾のなかで、前進がみられ、しだいに吃音をのりこえていくのです。
 このように、運動・発達する事物のなかに相対立する二つの側面の矛盾・葛藤をみることを、森田療法では「両面観」といっています。
」(p.131 - 132)

吃音に悩む人たちの全国組織で、吃音者宣言というのを作ったそうです。そこには、どもることを恐れず、どもるままに社会人として行動する、というようなことが書かれています。これに対して、治療の放棄だという反対意見があったのだとか。

この矛盾が、森田療法の中では統合されるのだと言います。つまり、治療を放棄したのではなく、治療のためにこそ、治療されなくてもかまわないという態度が必要だということです。治療にこだわることが、かえって治療を遅らせてしまう。そういう矛盾があるのですね。


よく「神経質は内向的だ」といわれますが、一方の気持ちは「強い欲求」によって外に向かっています。つまり「神経質は外交的だ」ということもできるわけで、このように人間の性格は矛盾しているからこそ、運動し発展していくものだ、ということができます。
 このように、運動・変化していく事物のなかには、かならず矛盾があるもので、これを「矛盾の普遍性」とよんでいます。
」(p.135)

神経質な人は失敗を恐れ、内向的だと言われます。けれども心にはものすごい葛藤があって、その強い欲求が治療の困難に立ち向かわせます。このように、相矛盾するものがあるのですね。そして、だからこそ運動し発展すると言います。弁証法もそうですが、矛盾こそが変化を生み出し、変化は発展につながるのです。


しかし、ここで注意しなければならないことがあります。それは、自分が悩みをのりこえ、自信をもちはじめると、他人の悩みも同じことだと軽々しく判断して、自分の体験がいちばんだと押しつけることです。人の心はさまざまです。だから悩みもさまざまで、人にはそれぞれ独自の悩みがあります。つまり、「世の中の事物には一般と特殊、つまり共通する性質とそのもの独自の性質の矛盾がある」ことをわきまえないと、この「平等観のとらわれ」となってしまうのです。」(p.144)

やや難しく語り過ぎているきらいはあります。そう何でも「矛盾」にする必要はないとは思いますが、森田理論としては「矛盾」で統一したいのでしょう。要は、一般的に言えることもあれば、個別にしか言えないこともあるよ、ということです。

当たり前と言えば当たり前なのですが、猫好きな人がいるからと言って、すべての人が猫好きではありません。猫を飼ったら気が紛れて病気治療にいいよというようなアドバイスは、猫好きの人の中では一般的であっても、そうでない人には役に立たないアドバイスですから。


このことは、奉仕も「客観的事実」の正しい分析と、それにもとづいた正しい方針なくしては、かえってアダになることすらある、ということを、はっきりと示しています。
 そして、「現実に根ざした奉仕」の重要な意味が、おわかりいただけることでしょう。つまり、奉仕のポイントは「客観的現実にあったものでなくてはならない」ということです。
」(p.230)

ここは、とても違和感を感じた部分なので、あえて紹介しました。シュバイツァー博士を例にして、世界的にはその業績が讃えられているものの、現地の評判は散々だということが書かれていました。だから、奉仕をするなら客観的事実を正しく分析し、正しい方針を選択せよと言っているのですね。

でも、「客観的」とは何でしょうか? 現地の評判が散々だとしても、現地の人でシュバイツァー博士に感謝している人は1人もいないのでしょうか? 先ほど、すべてに矛盾があると言っているのに、ここにきて、絶対的な正しさがあるとするなら、それこそ矛盾でしょう。

このあと、客観的な現実にあった奉仕の例として、家の掃除や皿洗いをあげています。それをされて怒る人は、よほどの変人だとこきおろします。そうでしょうか? たとえば、台所を自分の縄張りだと感じている妻がいるのに、お姑さんが勝手に皿洗いをしたら、どうでしょうか? 表面上は感謝して見せるかもしれませんが、内心は腸が煮えくり返る思いかもしれません。

ですから、客観的事実などというものは存在しないのです。それが何かを分析することより、個々人がどう感じるかという主観を尋ねる方が重要だと思います。もちろん、自分がそれをされたら助かるなあという感覚で、どんな奉仕をするかを選ぶことも良いでしょう。けれども、他人が同じように感じるなどと決めつけないことです。

やや本の内容を否定してしまいますが、この部分は私が納得できなかった部分ですので、あえて書いておきます。


事例も豊富に載っていて、森田療法の理論もわかりやすく書かれています。
理屈っぽく頭でっかちになるのではなく、現実の事実に即して行動するという実践を重んじています。不安や恐怖が沸き起こっても、それをそのままにやるべきことをやる。その行動の積み重ねによって、治療がなされるのですね。

また世の中は、一面的にとらえることはできず、必ず矛盾があるし、両面性があるものです。ですから決めつけをせずに、丸ごと受け入れる、ありのままに受け入れることが重要だと。それができないとらわれ(執着心)こそが、病気の原因になっているようにも思います。

〈新装版〉心配症をなおす本
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 19:00 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月27日

課長のルール



メンターの吉江勝(よしえ・まさる)さんの本を読みました。吉江さんの本は、これまでに「どんな人にも1つや2つ儲けのネタはある!」「人生を好転させるたった2つのこと」を紹介しています。マーケティングのコンサルタントなのですが、起業支援もされています。

今回の本は、何かの景品としていただいた本だったと思います。もう課長は関係ないかなと思って、ずっと積読(つんどく)状態でした。(汗) さすがに放置もできないので、読んでみました。これから課長になる方、あるいは今、課長をされてる方に、仕事の進め方や心構えなど、101の項目(ルール)に分けて解説しておられます。


ではさっそく、一部を引用して内容を紹介しましょう。
とは言え、この幸せ実践塾で課長の作法を紹介しても仕方がないので、幸せに通じるような考え方の部分を紹介しますね。

出世にこだわらない姿勢が出世を呼ぶ」(p.216)

これは「課長のルール94」のタイトルです。ここでは、出世したいという気持ちがあっても、それを前面に出すのではなく、その気持を忘れたかのように目の前の業務遂行に全力を尽くす方が、結果的には出世が早いという話題を取り上げています。

これは、まさに私がいつも言っていることですね。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」結果に執着せず、放り出した方が良い結果に結びつくのです。


その悩みは自分をもっと上のステージに導いてくれる宝物だと認識して、問題が起こったら喜ぶくらいのポジティブさが課長には必要です。」(p.219)

問題が起こらないことが良いのではありません。起こった方がむしろ良いのだと吉江さんは言います。なぜなら、それによって自分も会社も成長できるからだと。

そこで、何か起きた時に唱えるおまじないを2つ紹介しています。それは、「これでいいのだ」「なるようになる」だそうです。何が起ころうとも「これでいいのだ」と言い、あとは「なるようになる」と腹をくくって対処する。そうすれば、結果はついてくるのですね。


私はこの現実社会の理不尽こそ、神様があなたと遊びたくて繰り出すゲームなんだと思うのです。」(p.231)

神様とのゲームですから、もし自分が真剣に取り組めば、神様も楽しいでしょう。そうなれば、神様が幸運とか成長とかのプレゼントをくれると吉江さんは言います。

神様のご厚意による恩恵はどうかと思いますが、現実はゲームだという考え方はわかりやすいと思います。ですからどんな困難なことも、ゲームの中の山場に過ぎないのです。最高に面白いところですから、それは真剣に取り組まないともったいないというものです。

そして、問題に真剣に取り組み、果敢に挑戦していれば、自然と成長が促されます。そして、そういう前向きさが、幸運な現実を引き寄せるのだと思います。


この本には、具体的な仕事の仕方などの話もたくさん載っています。したがって、実際に課長をされてる方は、そちらも参考になると思います。これから課長を目指す方は、予習にいいかもしれません。そして、その上に行かれた方は、後輩への贈り物としてどうでしょうか。

メンターの本ですから、一応宣伝しておかないとね。(笑) まあそれは冗談ですが、生き方そのものに言及された部分もあり、大いに役立つ本だと思います。

課長のルール

吉江勝さんのサイン
 
タグ:吉江勝
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 11:12 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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