2017年10月30日
アドラーをじっくり読む
岸見一郎さんの新しい本を読みました。岸見さんの本は、すでに数冊紹介していますが、「嫌われる勇気」や「幸せになる勇気」は有名ですし、とても素晴らしい内容でした。
この本は、帯に「もう一歩先の理解へ」とあるように、さらに深くアドラー心理学を知るためのものになっています。それだけに、やや読みづらいところもあるのですが、すでにアドラー心理学を知っている人を対象にしているので、そこは仕方がないところかと思います。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「アドラーの功績は心理学を決定論から解放し、人間の尊厳を取り戻したところにあります。人間の行動や今のあり方がすべて本能や過去の経験などに決定されているという考え方が、尊厳を人間から奪ったと考えたのです。」(p.5)
まえがきで、アドラーの功績をこう説明しています。人間の行動は原因で説明することは不可能であり、何が過去にあろうとも自由意志によって自分で決定できると見たのです。これまでの決定論に対して目的論と言います。
「教育におけるもっとも大きな問題は、子どもが自分に限界があると考えることによって引き起こされる。子どもがこのような誤った人生の意味づけによって自分に課した制限を取り除かなければならない。」(p.90)
アドラーは「誰でも何でも成し遂げることができる」と、人間は万能であるような楽観主義的な言葉を述べています。しかしこれは、言葉通りに万能という意味ではなく、楽観主義になることによって、勇気を出して課題に挑戦することが重要だったからなのです。
「アドラーは、いかなる意味でも決定論に立たないので、犯罪者も生まれつきであるとは考えず、どんな犯罪者も更生しうる、と考えた。ただし人を罰することは有効ではない。罰してみても、犯罪者はそのことを自分への挑戦としか見なさない。死刑ですら、犯罪者がそれを怖れて犯罪を思いとどまると考えてはならない。犯罪者は絶対、どうすれば見つからずにすんだかということしか考えない。」(p.92)
犯罪を防ぐために厳罰を与えることや、更生不可能な犯罪者がいるという考え方があります。こういう考え方は、行き着くところは死刑しかありません。しかしアドラーは、こういう考え方を否定しているのです。
「殺人を犯す人も、それが善を実現するための副次的な目標として、自分にとっての善、ためになる行為であると、少なくとも殺害する時には判断していたはずなのである。」(p.113)
「盗人にも三分の理」と言いますが、人を殺す人にもその人なりの正当な理由があるのです。殺すことが自分の善に役立つと、その時は思っているのです。
「一本の木に同じ葉を見つけることができないように、同じ人は二人としていない。タイプや分類を重視すると、それに人を合わせようとすることになり、目の前にいる人が見えなくなってしまう。一般的な枠組みからはみ出すところにこそ、個性があるかもしれないのである。」(p.125)
アドラーは人をタイプ分けしていますが、そのタイプを個人に当てはめるべきではないということなのです。タイプは、個人の類似性を理解するためです。血液型がA型の人はこうだというような決めつけは、その人そのものを知ることから遠ざかってしまうのです。
「ここで問題にしている性格もまた何かの目標、目的を達成するために自らが選び取ったのであって、性格が原因となって、あれこれができないというのは、後で説明のために持ち出された弁明にすぎない。」(p.131)
たとえば怠惰な性格は親の遺伝だという言い方をする時、自分が好きでそうなったわけではないとか、自分には変えられないという、言い訳を含んでいます。その言い訳によって、自分の課題に取り組まなくてよい口実にしたいのです。
「アドラーが寄って立つ目的論では、神経症や精神病の場合も、脳や臓器の生理的、生化学的な状態や変化それらがただちに症状を引き起こすわけではない。後に見るようにある「必要」があって、症状は創り出される。これがそのために症状が創り出される「目的」であり、その目的こそが症状の「わけ」である。症状はある目的、必要があって創り出されるが、症状が必要ではなくならない限り、ある症状が薬物によって除去されたとしても、必ず別の症状が起こる。」(p.155)
これは、「人生を変える幸せの腰痛学校」でも詳しく書かれていますね。腰痛という症状も、何らかの身体的原因があって起きるのではなく、腰痛である必要があるから起きていると考えるのです。
「このような子どもがまわりからの強い影響を受けて身につけてしまったライフスタイルを変えることは容易ではない。しかし、治癒不可能であると諦めてはいけない。変えることはできないと認めてしまえば、そもそも育児、教育、治療はありえない。困難であっても、ライフスタイルは変えうるという前提がなければ、子どもへの働きかけはすべて不毛なものになってしまう。」(p.174)
たとえば、虐待を受けるなど育った環境が原因でひねくれたり、他人を思いやれない子どもがいます。「教育困難な子どもたち」と呼ぶそうですが、それでも不可能ではないとアドラーは言います。このことは、科学的にそうだということではなく、アドラーの信念なのでしょうね。
「伝統的な教育の方法は共同体感覚を育まない。まず、アドラーは罰による教育を否定する。アドラーは野心を十分示さない子どもたちの眠っている野心を十分にかきたてようと、子どもに厳しくすることの弊害を説いている。このような方法では子どもは勇気をくじかれるだけである。」(p.192)
他者を仲間だと思い、他者に関心を持ち、貢献しようとする。この共同体感覚が正常な成長にとって重要な要素だとアドラーは言います。その観点からすると、罰を与える教育は害悪があるのです。なぜなら、自分の課題に挑戦する勇気をくじいてしまうからなのです。
「そこで、カウンセリングの目標はこのような人が人生の課題に取り組めるという自信を持てるよう援助することである。これを「勇気づけ」という。」(p.208)
「人は生きていくに当たって、人生のさまざまな課題に直面することを避けられない。それにもかかわらず、あれやこれやの理由を持ち出しては課題から逃れようとする。持ち出される理由はいずれも、そういうことならやむをえないと自分も他者も欺く「人生の嘘」である。人生の課題に立ち向かうためには勇気が必要である。」(p.221)
アドラー心理学の需要なポイントは、この「勇気づけ」にあるように思います。勇気をくじかれて自分の課題に挑戦できずにいるから、様々な問題が起こるのです。ですから、勇気を持たせるようにして、自分の課題に挑戦させることが重要になるのです。
アドラーは、人は自由な存在だと見抜いているのですね。それに枠をはめて強制することは、人間の本質に反すると考えているようです。ですから、正しい教育によって個人が救われるとともに、私たちの社会全体が救われると考えたのでしょう。
少々難しい部分もあるので、アドラー心理学を知らないという方は、上記で紹介した2冊から入られると良いでしょう。それをすでに読まれた方は、アドラー心理学の本質をつかむのに、この本は役立つと思います。
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