2017年10月01日

まんがで読破 わが闘争



前回に続き「まんがで読破」シリーズです。第二次世界大戦でナチス・ドイツを率いたヒトラー氏が、自分の半生を綴った本、それが「わが闘争」です。この本も作者はヒトラー氏としてあります。マンガの作者名はありません。

「わが闘争」は、ドイツでは法律で出版が禁止されています。しかし、覆い隠すだけでは真の問題解決にはなりません。そこに何があったのかを知って初めて、そうしない生き方ができると思うからです。このマンガも、そういう意図で出版されたようです。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。と言ってもマンガですから、一部のセリフを引用しつつ、概要を説明します。

ヒトラー氏は、子どもの頃は画家になりたかったようです。しかし厳格な父によって絵を描くことを禁止されます。母は優しく受け入れてくれたものの、父に続いて母も、若くして亡くなってしまいます。それからは、時に浮浪者のようになりながら生活するヒトラー氏。どうしてこうなるのか? その理由として、ユダヤ人が祖国ドイツを牛耳っていることを知るのです。

第一次世界大戦で、ヒトラー氏は兵士として参戦します。戦闘には勝っているのに、中央政府は敗戦を認める。その中央政府はユダヤ人が牛耳っている。そういう思いが、ヒトラー氏の心を引き裂きます。そして、傷口に塩を塗るかのように、連合国はドイツに対して無理難題を押し付けてきます。

ドイツに対する
あまりにも
過酷な
賠償条件は

国民の生活に
大打撃を
与えた

更にフランスと
ベルギーは
ドイツの賠償金の
支払いが遅いことを
理由に

ドイツ経済の
中心地である
ルール地方を
占拠した
」(p.110)

ヒトラー氏は、このままでは祖国がなくなってしまう、ドイツ人はユダヤ人の奴隷になってしまうと感じたようです。第二次大戦の敗戦を経験した日本人なら、その気持ちはわかるでしょう。勝った方が好き勝手にする様を見て、多くの日本人が腹を立てたはずです。


ヒトラー氏は地方でナチス党を起こしますが、中央政府はそれを潰そうとします。そこでクーデターを起こそうとしますが、失敗に終わります。しかし、その失敗がヒトラー氏にとって幸いしました。法廷での彼の演説は、ドイツ国民の心を激しく揺さぶったのです。

ドイツの
指導者と
名乗る者
たちは

勝利を目前に
しながら
ヴェルサイユ条約に
卑劣にも調印し
戦争を集結させた

その結果戦勝国の
報復ともとれる
過酷な条約が
我々の生活を
窮地においやり

もはやドイツは
崩壊したも
同然となった

それを黙って
見ている
政府こそ

我々
国民に対する
反逆罪では
ないか!

私は
取り戻そうと
しただけだ!

国民の
権利を!

国民が生き
のびるための
権利を!!
」(p.164 - 166)

本来なら優秀なドイツ民族なのに、どうしてこういう状態に甘んじているのか? それは、中央政府を牛耳るユダヤ人たちによって、精神的に奴隷化されているからだ。そう、ヒトラー氏は主張します。なんだか、GHQによって骨抜きにされた日本人に対する警告のようにも聞こえますね。

その後、ナチス党を再結成したヒトラー氏は、国民投票にて約90%という支持率を得て指導者兼首相に就任します。こうして総統となったヒトラー氏は、独裁を行うようになるのです。


このように見ると、様々な原因が浮き彫りになります。元々外国人が国政を牛耳る例は、マレーシアの華僑問題などにも表れています。また、勝者が理不尽なことをすることによる反発は、報復を繰り返してきたことが歴史上も明らかです。

そして、相手がこうだからという責任を他者に押し付ける考え方が、何よりもの元凶だとわかります。他者がこうだから私は高潔な生き方ができない。そうやって自分自身を貶めて、高邁で素晴らしい自分の良さを発揮しないでいるのです。


「神との対話A」では、ヒトラー氏は天国へ行ったと神は語っています。彼は自分のその時の価値観に照らして、正しいことをしたのだと。ドイツ国民のために、ドイツの誇りのために、最善のことをした。彼の心には愛しかなかったのです。

そして、彼の大量虐殺を「悪」と呼ぶのであれば、それは彼が引き起こしたというより、彼を支持したほとんどのドイツ国民が彼を通じてやらせたのであり、ドイツを助けようとしなかった連合国が支援したのであると。


歴史を振り返ることは、他人の体験に学ぶことです。自分がわざわざ同じことをやってみなくても、自分の内側から本来の自分を選び出す助けとなります。ぜひ読んで、感じてみてください。

まんがで読破 わが闘争
 
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2017年10月02日

ぼくと1ルピーの神様



「みやざき中央新聞」で紹介していた本を読みました。2709号(2017年9月4日)の社説(魂の編集長・水谷謹人さん)で、「今週もわくわく感に心躍らせよう」というタイトルです。

社説は、最近どんなことにわくわくしたかと問いかけて、この本の紹介に入ります。作者はヴィカス・スワラップ氏、翻訳は子安亜弥さんです。


ではさっそく、一部を引用しながら・・・と言いたいところですが、今回は概略を紹介するだけにしておきます。

舞台はインド、主人公のトーマスはウエイターです。物語は、いきなりトーマスが逮捕された場面から始まります。トーマスは、クイズ・ミリオネアのようなクイズ番組に出場して13問全問正解し、十億ルピーの賞金を手にするはずでした。しかし番組側は、トーマスに賞金を渡したくないために、彼が不正をしたことにしたかったのです。

絶体絶命のピンチのとき、突然、女性弁護士が現れてトーマスを救います。弁護士はまず、すべてを正直に話してほしいと言います。どうしてトーマスが、13問をすべて正解することができたのか? 本当に不正を働いていないのか? それを知らなければ弁護ができないからと。

しかし、弁護士など雇えないほど貧乏なトーマスを、どうしてこの弁護士は助けようとしたのか? ひょっとしたら敵のスパイで、トーマスを安心させて洗いざらい白状させる戦術なのでは? トーマスは迷います。

トーマスは、ポケットの1ルピーコインを取り出して放り上げます。表が出たら正直にすべてを話す。幸運の1ルピーに運命を預けたのです。


こうしてトーマスは、女性弁護士にすべてを話すことにしました。しかし、それは長い長い物語でした。トーマスは、すべての問の答を人生経験を通じて知っていたからなのです。トーマスの人生にどんなことが起きたのか、それをすべて話しながら、どうして問題に答えられたかを、1問ずつ明らかにしていったのです。

トーマスが語るこれまでの経験の中に、インドの抱える問題、いえ、人が抱える様々な問題が現れます。裏切り、暴行、憎しみ、悲しみ、殺人、レイプ、愛情・・・。トーマスに共感したり、起こる問題を自分の人生と重ねたりしながら、物語にぐいぐいと引き込まれていきます。


社説では、こう言っています。「と、ここまで読んで約3分。皆さんの中にはわくわくしてきた人もいるのではないだろうか。何歳になってもその「わくわく感」が大切だ。」わくわくする時、脳内物質が出てきて幸福感を感じるようになっているそうです。

そして、このわくわく感が美容にも影響すると言います。「えらく老けた二十代もいれば、驚くほど若々しいお年寄りもいる。その違いはその「わくわく感」ではないだろうか。


この社説を読んで、思わずこの小説を買いました。すでに絶版で中古しか無かったのですが、1円で売り出していました。送料の方が高かったのですけどね。

しかし、その後で問題が発生しました。みんなが注文しようとしたために、アマゾンの販売価格が急騰し、数千円の値段になってしまったのです。そのため、そんな高い本を勧めるのかと苦情が出てきたのだとか。

まあ、それだけ「みやざき中央新聞」の媒体としての効果、記事の人に行動を起こさせる力が高いという証明でもありますけどね。

これを読み終えて、たしかにワクワクする冒険小説的な内容で、十分に満足できました。なかなか手に入らないかもしれませんが、もし機会があれば読んでみてください。

ぼくと1ルピーの神様
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 14:24 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月03日

懸命に生きる子どもたち



これも「読書のすすめ」で買ってきた本ですが、NPO法人アジアチャイルドサポートの代表理事、池間哲郎さんの講演録を読みました。池間さんの本は、以前、「日本はなぜアジアの国々から愛されるのか」を紹介しています。これも「読すめ」で買ったものでしたね。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

フィリピンのマニラに、スモーキーマウンテンと呼ばれるスラムがあります。ゴミ捨て場なのですが、そこに多くの貧しい人が住み、ゴミの山の中から売れるものを探し集めて生計を立てています。そこには多くの子どもたちも働いています。

過酷な環境です。暑さ、匂い、有毒ガス、事故、怪我による細菌感染など、多くの子どもたちが若くして命を落とします。そこへ行った池間さんは、ある女の子にインタビューしました。

「あなたの夢は何ですか」と訊ねると「私の夢は大人になるまで生きること」と悲しそうな笑みを浮かべて言いました。この言葉は衝撃でした。今でも深く私の心に残っています。」(p.13)

ただ生き延びることだけを夢見る。そういう子どもたちが、たしかに存在しているのです。私たちと同じ、この地球のいたるところに。


カンボジアは、内戦時に残された地雷によって、今も多くの人が苦しんでいます。リンナという女性は、10歳の時に両親を助けるために学校を辞め、みかん農場で働き始めました。しかしその作業中に地雷を踏んでしまい、右足のすべてを失いました。

両親を助けようとしたのに、逆に両親のお荷物になってしまった。そのことをリンナはとても悔しく思ったそうです。しかし、ある時から気持ちを入れ替え、懸命に学んで働くようになったとか。今では小さな雑貨店と洋裁店を構え、幸せに暮らしています。

リンナは「地雷を踏んだことに感謝しています。足をなくしたからこそ一生懸命に生きることが出来たのです。今の幸せがあるのです」と言いました。」(p.31)

地雷がある危険な国に生まれたこと、片足のない障害者になったことは、幸せには関係ありません。彼女の生き方は、そのことを実証しています。


孤児院で暮らす子どもたちの表情は暗かった。本当の笑顔に会うことは難しかった。最初に出てきたゴミ捨て場に暮らしている子どもたちの方が孤児院の暮らしより悲惨です。いつ死んでもおかしくない程、大変な状況で生きているにも関わらず非常に明るく人懐っこい。なぜだと思いますか。それは、親と一緒に暮らしているから。親に甘えることが出来るのです。たとえ片親でも良い、特にお母さんが、しっかりしてると子どもは大変な状況でも心は安定します。親に甘えられることは、とっても大事なことです。」(p.62)

タイのアユタヤにあるタイ最大の孤児院、ワットサーキャオというお寺でのことです。貧しさは微笑みを奪いません。愛されないことが、子どもの心に傷を残すのです。


モンゴルの首都ウランバートルには、マンホールチルドレンと呼ばれる子どもたちがいます。マイナス40度まで気温が下がることもあるため、暖を取るためにマンホールの中で暮らしているのです。しかしそこは、ネズミや虫が這い回り、汚水による悪臭が充満した最悪な環境です。

モンゴル政府も、本当は彼らを救いたいと思っているのです。しかし、公務員の給料の支払いさえ滞ることがあるほどの財政難。池間さんは、だからこそ海外からの支援が重要なのだと言います。

日本人は世界で、もっとも外国から助けられた国民であることを忘れてはいけないと私個人は思っています。」(p.78)

第二次大戦後の大変な時期、アメリカを始めとして多くの国から支援物資が届けられ、食料や教育などの支援が行われました。その後、日本は復興しましたが、それまでの間支えてくれたのは、諸外国からの支援だったのです。

アメリカの政策があったにせよ助けられたことは間違いありません。しかし、残念ながら多くの日本人が「外国の子どもは放って置け」「カンボジア、モンゴル、イラクの子が、どうなろうと構うな。日本の子どもだけを大事にすれば良い」と言います。私は、この意見には同意しません。なぜなら私たちも助けられたからです。もう一つ。「外国の皆さんが日本製品を買ってくださるからこそ、今の豊かな暮らしを維持できる」ことを考えて欲しいと願っています。」(p.78 - 79)

たしかに、他国のことを支援する金があるなら、その前に自国のことを良くしろ、という声を聞きます。しかし、日本がどれだけ豊かな国かということを実際に目にしたら、そういう気持ちになれるでしょうか?


池間さんは、ミャンマーのハンセン病患者が隔離された場所へも行き、集合住宅の改修工事などをしました。屋根が破れ、壁が崩れそうな中で、見捨てられた患者が過酷な環境で暮らしていたからです。政府からの支援も乏しく、食料もほとんどなかったとか。それで、食糧支援も始めたのです。

しかし、3年経って気がつくと、一時は元気になった人々が、また痩せてきました。不思議に思って尋ねると、そこの人々は自分たちに与えられた食料の一部を、ハンセン病ではないけれど森のなかで暮らす独居老人たちに分けていたのです。

その中に、高血圧で倒れて歩くこともできないお爺さんがいて、ハンセン病患者たちは彼の面倒をみていました。

後で聞いて、さらに驚いた。この方は健康なときにはハンセン病の人々を徹底的に差別し苛めていた。彼に殴られた経験がある方も大勢、居た。「なぜ、このような人を助けるのですか」と言うと「あなたは間違っています。恨みや憎しみの心は小さくて醜いものです。一緒に生きていくことが大切で大きな心です。食べ物を分けることは当然のことです」と怒られた。」(p.88)

経済的には貧しくても、心は豊かなのです。だから乏しい中からでも分け与え、一緒に暮らすことを選んだのです。豊かになった私たち日本人は、はたして心の豊かさを持っているでしょうか?


一番、大切なボランティアは何か。人のため、世の中のため、貧しい国の恵まれない子どもたちを助ける。とんでもないことです。違います。「最も大事なボランティアは自分自身が一生懸命に生きること」です。私はアジアの子どもたちの話をして映像を見せて「彼らが可愛そうだから助けてください」と訴えているわけではありません。誤解しないで下さい。この子たちは、どんなに苦しく辛くても一生懸命に生きています。だから、大切にしたいと言っているだけです。」(p.106)

重要なのは、自分がどう生きるかなのですね。貧しい人を見つけて何かをしてあげることではなく、彼らの生き様を知って、自分がどう生きるかを考えること。それが最大のボランティアなのだと池間さんは言います。


私もこれまで、フィリピンやタイ、ラオスなどの貧しい子どもたちの教育支援をしてきたことがあります。まあお金を送っただけですけどね。でも、彼らのことを知れば、何かをせざるを得なかったのです。それは、私自身がどうしたいか、どう生きたいかという問題でした。

チンたなーさんとの出会いも、そういう中でありました。お金を支援したのは私ですが、彼女から生きるということを教えてもらい、背中を押してもらったのだと思っています。ですから私は、自分がそうしたいからという理由で、そのように生きようと思うのです。

池間さんは、還暦を過ぎた今でもアジアを周りながら支援活動をされています。彼らと同じ環境で暮らし、同じものを食べることで、彼らの思いを共有したいと考えておられます。本当に頭が下がります。

懸命に生きる子どもたち

posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 14:53 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月04日

小料理みな子−佳作選−



これも「読書のすすめ」で買ってきた本です。ぽつんと置いてあったマンガなのですが、とても気になったもので。原案は南たかゆき氏、漫画はみやたけし氏となっています。

最後のページにみや氏は、こう書いていました。

静岡の藤枝を基点に活躍する、岡村くんと居酒屋甲子園に多大な協力を頂いたことを、ここにお礼いたします。
 漫画の仕事が上手くいかなかった時…おかむらで酒の美味しさ、人の優しさ、うわべじゃない暖かさを教えられ、そして元気をもらいました。
」(P.218)

これを読んで思い当たりました。これは以前に紹介した「看板のない居酒屋」にあった居酒屋「岡むら」をモチーフにしたマンガのようです。


週刊漫画TIMESに7ページの読み切りとして連載された作品の中から、選りすぐったものをまとめたのがこの本になるのだと思います。全26話あって、それぞれの間には居酒屋のような写真が挿入されています。おそらくそれは、「岡むら」の写真ではないかと思われます。

どの話も、読むと心がほっこりするような内容です。あり得ないようなドラマもありますが、それはマンガの世界ですからご愛嬌。こんな小料理屋が本当にあったら、通いたいなぁと感じます。


重いテーマはそれほどなく、また特定の価値観を押し付けるような話もありません。「こんなことがありましたが、あなたはどう思いますか?」そう問いかけてくるような感じです。

1つだけ引用しましょう。第9話「ブロッコリーヒット」からです。草野球チームに所属する雨森(アマモリ)は、みんなからバカにされていました。2試合続けて雨で中止となった時、おまえが雨男だからというわけです。

雨森も抵抗しません。自分はブロッコリーと同じで、いつも脇役なのだからと。野球をやっていても主力ではないし、何か行事があって雨が降れば自分のせいにされる。自分は脇役だから、仕方ないんだとあきらめているのです。

小料理屋の女将みな子は、雨森に言います。ブロッコリーは脇役じゃないと。主役にもなれる食材なのだと言って、彼にブロッコリーの料理を食べてもらいます。すると、それまでのイメージとはまったく違うブロッコリーの美味しさを感じて、雨森は驚くのです。

みな子は、その様子を見てこう言います。

はい…
ヨーロッパ原産で
向こうでは
”木立花やさい”
”子持ち花やさい”と
いわれていて

華のある
主役の野菜
なんです…

自分の物語の中では
誰でも自分が主役
−−−−なんです!
」(p.72)

脇役だけのどうでもよい人間なんて、存在しないのですね。その人の人生においては、いつもその人が主役です。自分のことを自分であきらめたら、自分様がかわいそうです。


ほのぼのとした人の温かさが伝わってくるようなマンガです。時にはこういうマンガを読んで、ほっこりするのもいいかもしれません。

小料理みな子−佳作選−
 
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2017年10月05日

オーマイ・ゴッドファーザー



帯に清水克衛さんの写真があったので、てっきり「読書のすすめ」で買ったと思いこんでいましたが、まったく違っていました。どこで誰が紹介してくれた本か忘れましたが、こういう本を読んでみました。作者は岡根芳樹(おかね・よしき)さん。企業の社長であるとともに絵本作家、人材教育の専門家でもあるようです。

清水さんが大推薦されてるくらいですから、きっと面白い本だろうと思っていました。しかし、読み始めてすぐに認識を改めました。これは「面白い」なんてものじゃありません。「超絶面白い!」本です。今年一番に挙げても良いくらいです。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

この本は、岡根さんのお父様の教育方針を、フィクション風にしながら伝える内容になっています。あえてご自身のことも次男の良樹と漢字を変えて、客観的に見ているような感じで書かれています。


ピアノはいらないから、せめてつっかえ棒がない家に住んだ方がいいのではないかと思うのだが、すべて主である哲和の「必需品より嗜好品を優先させる」というこだわりだった。」(p.24)

雨漏りもするようなボロボロの家の中に、カレンダーの写真であってもゴッホやシャガールなどの名画を飾ってあったそうです。本棚には百科事典や図鑑、文学の名作などがズラッと並び、クラシックやシャンソンなどのレコードが並び、天体望遠鏡、顕微鏡、ピアノまであったそうです。


子どもを子ども扱いしないといえば、哲和は「危ないからやめなさい」とか「まだお前には無理だ」という言葉を子どもに一度も言ったことがない。」(p.28)

ナイフも止めるのではなく、励まして使わせようとしたそうです。怪我をしても自己責任において良しとする。そういう考え方だったとか。ちょっと行き過ぎではありますが、お酒も飲ませることがあったとか。


だいたい子どもを子ども扱いする親ちゅうのは、自立できとらん無能な人間なんやぞ。親であることだけが自分の存在価値やから、子どもに成長されたら困るんや。せやから手とり足とり何でもしてやって、難しそうなものは遠ざけて、ずっと子どものままでいさせようとするんやぞ。」(p.36)

子どもを子ども扱いしない、大人と同じように見るということを、徹底してやっていたようです。子ども向けの簡単な本を読むのではなく、大人が読むような難しい本を読めと励まします。わからなくてもいいし、わからないから良いのだと。

その代わりに何でも自己責任です。おんぼろな家が嫌なら、自分の責任で出て行けば良いだけだと言うくらいですから。


人生で最優先すべきことは、成功でも儲かることでもない。むしろ人生は失敗したほうが面白いんやぞ。変な人と言われることは光栄に思え」(p.49)

お父様はかなりの変人だったようですが、変人であることに誇りを持たれていたようです。平凡では世の中を切り開いて行く人にはなれない。偉人とは異人だと言われるのです。


べつに映画の話はどうでもいいのだが、人生においてやせ我慢する美学というものは大切である。欲望を満たすことよりも美学を追求する姿、それを粋と言うのだ。」(p.63)

「武士は食わねど高楊枝」と言いますが、やせ我慢する武士道の精神を粋だと言います。

とある賢明な方に、武士道とは簡単に言うとどういうことなのかと尋ねたことがある。するとその方は、
「普通、人は食べるものがないとき『食べられない』と言う。しかし武士は『食べない』と言う」と教えてくれた。
 簡素にして深い言葉だった。
 『食べられない』は被害者意識であり、『食べない』は自分の意志。
 本当は食べたいに決まっている。しかし食べることができないのであれば、自らの意志として「食べない」とやせ我慢する。
」(p.63 - 64)

すべてを自分主体で能動的に生きる。自己責任において生きる。それがやせ我慢の美学なのですね。


美学なんやから、美しいかどうかだけが問題なんであってやな、そこに成果などを求めたらあかん。成果なんちゅう煩悩から解脱して、ただひたすら『美しさ』にこだわるんや。ほんなら成果なんちゅうもんは出るに決まっとる。」(p.67 - 68)

重要なのは生き方が美しいかどうか。その結果どうなるとか、何が得られるかなどは気にしない。そうすれば、結果は自ずとついてくるものだと言います。

私も、こういう生き方に憧れて、それを目指してきました。まあそんな偉そうに言えるほどのことではありませんが。たとえば拾った財布をネコババせずに届けるというのも、こういうことではないでしょうか。


しかし真と良樹は進んだ道こそ違いはあるが、どちらも誰かに選ばされた人生ではなく、自分で選んだ人生だから本人たちに悔いはないのだ。たとえ道に迷おうが失敗しようが自分で何とかするしかないし、何ともならなかったとしてもそれはそれでいいのだ。人生はある程度、適当であることが必要である。」(p.73)

受験勉強に積極的に取り組んで公立大学の医学部に進み、医者になったお兄さんの真。一方、高校も途中から行かなくなり、劇団を立ち上げては潰し、急性胃潰瘍で倒れるという弟の良樹。どちらの生き方であっても、それぞれが選んだ道であり、良い悪いと他人が言えることではないのです。


勉強っちゅうのは考えることやぞ。何でそうなるのか、疑問を持って考えることが勉強や。
 歴史でも同じやぞ。いい国作ろう鎌倉幕府とか年号だけ覚えて何の意味があるんじゃ。それより何であんな鎌倉みたいな辺ぴな場所に幕府を開いたのかを考えた方がええ。
」(p.77 - 78)

ただ教わったように、マイナスかけるマイナスはプラスになると覚えて計算ができても、それは計算機がやることであって、人の勉強ではないと言います。マイナスかけるマイナスとはどういうことなのかを考え、それを理解する。そういう本質的な学びこそが勉強なのだと。

これは「神との対話A」でも書かれている通りです。ただ年号を覚えても意味がありません。そんなことを知りたければ、今はインターネットで瞬時に答えが得られますから。それより、なぜそういうことをしたのかということを、前提条件や当時の人の価値観を知って考え、自分がその立場ならどうするだろうかと考える。それが本当の勉強なのです。


本を読むとやな、新しい疑問が生まれてくるんや。それでまた次の本を読むと、また違う疑問が生まれてくる。つまり新しい疑問を持つために本を読んで、その答えを考えることが勉強や」(p.79)

わかるようになるために本を読むのではなく、わからなくなるために読むのだと、逆説的に言います。与えられた答を丸暗記するようなことは、本当の勉強ではないのです。


子どもに関心を持たない。
 それは口にするほど簡単なことではない。相当の覚悟が必要である。
 我が子が路頭に迷おうが、ヒマラヤで遭難して死のうが、路上で吐血して死のうが、海外でどこの誰と結婚しようが、それもまた本人の人生。などと冷静に言いきれる親はなかなかいない。
 むしろ、そんなのは子どもに対して無責任だ、という人の方が圧倒的に多数だろう。

 子どもに関心を持たないという表現が過激であるのなら言い換えよう。
 子どもに期待しない。
」(p.95 - 96)

最近でこそアドラー心理学で、叱ることはもちろん褒めることもしない、という教育論が知られるようになりました。しかしそれ以前から岡根家では、こういう育て方をしていたのですね。子どもの成績が良かろうと悪かろうと興味も示さない。一見無関心に見えることが、実は愛なのです。


馬鹿になろうとするんやない。すでに自分は馬鹿やということに気づけ」(p.112)

賢いと損得勘定で判断し、損をすると不幸になります。勝ち負けで判断し、負けると不幸になります。しかし馬鹿は、それに気づかないから幸せでいられます。常識にとらわれることがないから、自分の好きなように生きられるのです。そんな馬鹿になるには、そもそも馬鹿なのだと気づくことなのです。

哲和は、ドン・キホーテがすごいと言います。風車を竜に見立てて、本気で戦いを挑む。狂人とも言えますが、その卓越した想像力によって、自分の人生を豊かにすることができるのです。

この後、良樹の想像力についての例え話があるのですが、これがとてもいいのです。

お金がなくて食べるものがご飯しかない時、茶碗に盛ったご飯をテーブルに置き、横になって想像するのだそうです。自分は今、砂漠の中を何日もさまよっているのだと。口にしたのはわずかな水だけ。もうこのまま死んでいくのだろうか。せめて最後に、美味しい炊きたてのご飯を食べて死にたい!そして目を開けると、そこにご飯がある。

ご飯を食べるということは同じでも、想像力次第で悲惨にもなれば幸せにもなれる。コップ半分の水を、「もうこれしかない」と思うのか、「まだこれだけある」と思うのか、考え方を選択するのは自分の意志なのです。


この世は、すべて光と闇でできとるんや。光だけでは成り立たん。影がないのは偽もんや。せやから人間の心には、光も大事やけど同じように闇も必要なんや」(p.127)

心の痛み、苦しみや悲しみ、そういうものが大切なのです。味で言えば、苦味や辛味。甘味だけでは深みがないのです。人間も影の部分を持っているから、人生が深くなるのです。


常識を疑って反対側から見てみろ。
勝者の立場からだけではなく、弱い立場の者の視点を持て。
」(p.145)

良樹は哲和から、たった1度だけこのような手紙をもらったそうです。物事には必ず表と裏があるのだから、一方からの見方だけが正しいわけではないのです。白人の西部劇ではインディアンは悪者ですが、インディアンからすれば白人は強盗なのです。


不安も悲しみも絶望も、人間の心が作り出すもの。実際にはそんなものは幽霊や化け物と同じなのかもしれない。
(中略)
 人生は深刻になるな、笑って大げさに生きろ。」(p.171)

哲和の会社が倒産した時、哲和は何ごともないかのように妻に伝えました。差し押さえに来るから頼むと。それを聞いた妻は、子どもたちに落書きをさせます。その当時、子どもの物は差し押さえられないという規則だったようです。悩んだり沈んだりしているのではなく、家族で大落書き大会をやって楽しんだ。そんな岡根家だったのです。


良樹、『自分を信じろ』などと言うけどな、自分なんか信じとったらとんでもないことになるぞ。人間は自分にとって都合のええことばかりを信じたがるもんや。
 自分なんか信じとらんで、もっと世界を観察した方がええんや。先人たちの多くの成功例や失敗例がいろんなことを教えてくれるやろ。
 せやから本をたくさん読んだ方がええぞ。
」(p.185)

まあ自信と言うより過信ですね。大した経験もしていないのに過信して、無謀なことをしてしまう。それより先人に学んだ方が良いというわけです。


ええか、挫折は何回したってかまわんけど、それで挑戦することを止めてしもうたらあかんのや。諦めんで生きることが人生や。諦めて生きとる奴に人生はない。良樹、人生は長いぞ。今のうちにいっぱい挫折しとけ。だいたいお前の人生はまだ夜明け前や」(p.197)

絶対合格すると先生からも太鼓判を押され、自分も絶対の自信を持っていた中学受験に良樹は失敗します。落胆している良樹に、哲和は「そうか、あかんかったか。良かったやないか」と声を掛けたそうです。

挫折することが良いと、心の底から思っていたのでしょうね。そして、二度と受験などしたくないと思っていないかと良樹に尋ねます。挫折することが悪いのではなく、めげて挑戦をやめてしまうことが悪いのだと言うのです。

こういうことがサラッと言えてしまうのは、それだけ自分の中に確立したものがあったのだろうと思います。そして、そういう思いで、哲和自身が生きてきたのでしょうね。


世の中には十代で自ら命を絶とうとする若者がいるが、ちょっと待ってくれ。それは浅はかな考えだ。
 二十歳になってようやく人生の朝を迎えるのだから、十代でやるべきことは、しっかりといい夢を見ることだ。
 たとえ悪夢を見てしまったとしても、笑い飛ばしてもう一度眠り直せばいいだけではないか。十代なんて人生の夜明け前、まだ一日の本番は何も始まっていあにのだから。
」(p.199)

人生80年を1日に例えるなら、10年は3時間、二十歳になってやっと明け方の6時です。だから、まだこれからだと思って、何度挫折しても笑い飛ばし、挑戦を続ければ良いのです。


上京してすぐに借金を抱えて血を吐いて倒れた時もまた立ち上がることができたし、二十二歳で婚約者に振られて人生に絶望し、「死んでしまいたい!」と大袈裟に思った時もそうだ。
 何度ころんだっていい、そのたびにまた立ち上がってやる。
 人生、取り返しがつかないように思えることはある。けれども、本当に取り返しがつかないことは人生には起こらない。
」(p.202 - 203)

岡根さんは、実際に何度も何度も挫折を繰り返してこられたのですね。婚約者にフラれて絶望したという話は、思わず笑っちゃいました。微笑ましいという感じです。だって、私もそうですから。


うまい話をする奴もそれにただ乗っかる奴も、どっちにしてもクソ野郎や。せやけどな、一番あかんのは被害者になることや」(p.213)

満州へ行けば天国が待っている。そう政府の宣伝に乗せられて、多くの人が満州開拓に乗り出しました。しかし敗戦によってすべてを失い、命からがら帰国できただけでも運が良かった方です。権力者は何があっても褒美を独り占めし、騙された庶民は被害者だと泣きわめく。そういうことはおかしいと、哲和は言います。

誰が悪いのか? 権力者が悪いと言う良樹に、哲和はそうは思わないと言います。騙された方が悪いのかと問うと、それも違うと言います。哲和は、「被害者になること」が悪いと言うのです。騙された方ではなく、騙された結果、自ら被害者になることを選ぶ人たちのことです。

被害に遭うことは、いくら努力しても防げないことがあります。しかし、被害者にならないことは自分でできます。自己責任で人生を笑い飛ばし、自己を確立して生きる。そういう生き方が重要なのです。


それほど期待せずに読み始めた本なのですが、これは驚きました。こういう教育論そのものは、アドラー心理学にもあるように、まったくないものではありません。しかし、自らの体験を元にそれを確立し、自分自身がそのように生き、子どもを教育してきたということが驚きだったのです。

ただただ、すごいなーと思います。そして、私自身もこんな風に生きたいなーと思うのです。

オーマイ・ゴッドファーザー
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2017年10月10日

凛とした日本人の生き方



鍵山秀三郎さんの本をまた読みたいなぁと思って探したところ、「読書のすすめ」白駒妃登美さんのおすすめ本3冊の中に鍵山さんの本があることがわかり、ついでだということで3冊まとめて買いました。今回は、その3冊の中の一番薄い本です。

白駒妃登美さんのおすすめ本3冊

鍵山さんは、イエローハットの創設者としてより、掃除、特にトイレ掃除として知られているかもしれません。私が最初に読んだのは確か「凡事徹底」という本でしたが、平凡なことを徹底的に行うことを貫いて来られた方です。

そして、私にとって鍵山さんは、とても重要な方なのです。それは、鍵山さんが「少女パレアナ」という本を紹介してくださったからです。この小説を読んだことで私は、「見方を変える」ということを学んだのでした。

昨年、神渡良平さんが主催されている照隅会に鍵山さんがゲストで参加されるということなので、私もぜひ参加したいと思っていました。しかし、体調の問題があって、ゲスト出演は中止になったようです。ぜひ一度お会いしたいと思っているのですが、どうなることでしょう。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

聞く耳を持たない生徒に、どんなにいい話を聞かせても、理解してもらえないばかりか反発を買うだけでしょう。近ごろは、カリキュラムに基づいて教科書の内容を教えることが「教育」だと思いこんでいる教師が多いようです。何よりも相手の心を開かせ、「もっと聞きたい」「学びたい」という気持ちを起こさせるところに、教育の原点はあるのではないでしょうか。
 大切なのは「教化」ではなく「感化」です。
」(p.10)

コップに水を注ぐ前に、まずコップを上に向けさせるという言葉を例に上げています。では、具体的に感化はどうやって行うのか? 鍵山さんは、ご自身の両親を例にあげて、不満も愚痴も言わずに目の前のことに骨惜しみせずに取り組みことによって、「そこまでするのか」と思われることで感化できるのだと言います。


小・中学校で講演する時、私は子供たちにこう伝えます。「頭のよい人」とは、記憶力がよいとか頭脳の優れた人という意味ではありません。いつもよいことを考える人のことです。」(p.15)

つまり、徳のある人が本当の意味で頭の良い人だと言うのですね。「論語」にも「巧言令色鮮し仁」とあります。口先だけで徳がない人というのは、社会の役には立たないのです。むしろ迷惑かもしれません。


人を憎み、恨んだところで、結局、損をするのは自分です。「過去と他人は変えられない」と言われますが、自分の生き方次第で過去さえも変えることはできます。起きた事実は不変でも、自分の受け止め方を変えることで、その過去が持つ意味は変わるのです。
 私は今、過去のすべての災難や苦労を笑って話すことができます。とても幸せなことだと思います。
」(p.31)

「他人と過去は変えられない」とよく言います。たしかに、その通りです。だから自分と未来を変えればよい。普通はそう続きますが、鍵山さんのように、「過去は変えられる」と言う人もいます。それは、過去の事実を変えるのではなく、その事実の解釈を変えるのです。

解釈が変われば、不幸な事実が幸せな事実へと変わります。これが過去を変えるということです。そして鍵山さんご自身は、過去の辛く苦しい経験を、今は幸せな出来事として解釈されているようです。


下村湖人(しもむらこじん)先生の『青年の思索のために』は、何度読み重ねたか知れません。その中にこうあります。
 「私は苦悩のない世界に住みたいとは思わない。私の住みたい世界は、苦悩が絶望の原因とならず、勇気への刺激となるような世界である」
 苦しみは自分を鍛える試練です。感謝してわが身に引き受ける人こそ、経営者の資格があるのです。
」(p.54)

苦しみというのは、自分を磨き鍛える砥石のようなものです。「艱難汝を玉にす」という言葉がありますが、苦難に出会ってこそ成長するのだと鍵山さんは言います。

そして、人の上に立つ経営者は、他の人よりいっそうその苦難を乗り越えて自らを成長させる必要があるのですね。私自身が経営者でしたから、この言葉はとても心に突き刺さりました。


そんな私が、なぜ一度始めたことを途中で投げ出さず、継続できる人間になれたかと言えば、「掃除以外に自分が歩める道はない」と覚悟を決めたからです。人間の心はガラスのように脆(もろ)く、壊れやすいものです。しかし覚悟を決め、決断をし、集中力を高めて行動することにより、心を鋼鉄のように強くすることができます。」(p.58)

5人兄弟で甘やかされて育ったと鍵山さんは言います。宿題は上の兄弟がやってくれるので、自分ではやったことがなかったと。それが東京空襲によって一気に貧乏になり、地方で農家が見捨てた畑を耕すという生活になったのです。

もともと自分は器用ではないと感じておられたのでしょうね。だからこそ、平凡なことをとことんやることでしか自分の道は開けないと、強い意志を持つことができたのでしょう。


人生を価値あるものとするために、一番大切なことは何でしょうか。
 知識を高めることでしょうか。それとも財産を増やすことでしょうか。私は「後世に伝えるもの」を持つことだと思います。
」(p.116)

これは内村鑑三氏「後世への最大遺物」という講演で語られた内容にも通じています。つまり、人が遺していけるものとは、自分の生き方(生き様)だということです。

鍵山さんも、「言志四録」にある言葉を引用し、その生き様こそが重要なのだと言います。その言葉は、私も座右の銘にしている「佐藤一斎「言志四録」を読む」でも紹介したこの言葉です。

「当今(とうこん)の毀誉(きよ)は懼(おそ)るるに足らず。後世の毀誉は懼るべし。一身の得喪(とくそう)は慮(おもんばか)るに足らず。子孫の得喪は慮るべし。」(言志録89条)


鍵山さんは、荒んだ社員の心を癒やしたくて掃除を始めたのですが、最初の10年間は無視されたり否定されたりして、とてもつらかったと言います。次の10年になって、やっと賛同者が現れたそうです。そして30年経って、その取組が認められ、多くの賛同者が現れ、日本全国だけでなく、世界でもこの取組みが実践されるようになったと。

ですから、平凡なことを諦めずに淡々とやることだと鍵山さんは言います。それが効果があるのかないのか、そんなことは10年、20年と経たなければわからないのだと。効率よく「小さな努力で大きな成果」を狙うのではなく、「大きな努力で小さな成果」を目指すべきだと言うのです。愚鈍であれ。バカ正直に、目の前のことを黙々とやれ。これが、鍵山さんの教えであり、目指してこられたことなのです。

凛とした日本人の生き方
 
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2017年10月16日

すぐに結果を求めない生き方



これも、「読書のすすめ」白駒妃登美さんのおすすめ本3冊の中の1冊になります。前回に引き続き、鍵山秀三郎さんの本を紹介します。

白駒妃登美さんのおすすめ本3冊

鍵山さんの紹介は、前回の「凛とした日本人の生き方」の紹介の最初に詳しく書きました。興味のある方は、そちらをご覧くださいね。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

さらに、自分がやるのではなく、「誰かが」やるべきだと考える人がいます。こうなるともう絶対にできません。「いますぐに」「少しだけでも」「できるだけ」「私が」やるという覚悟をもって始めることが大切です。」(p.38)

すぐに「できない」と言う人は、できない理由を探しています。そしてそれを理由に「やらない」ことを正当化するのです。

できる条件が整ってからやろうとすれば、いつまで経ってもできません。ですから、「いますぐに」「少しだけでも」やることが重要なのですね。

そして、誰かがやってくれるだろうと思っていたら、いつまで経ってもできません。自分ができることを自分がやる。そこから始まるのです。


これらは本来、私の仕事ではありません。もちろん、あなたの仕事でもない。誰の仕事でもないのです。誰の仕事でもないことだからこそ、するのです。」(p.42)

自販機の横にある空き缶入れに他のゴミが入っている時、鍵山さんは中身をすべて外に出し、分類して、空き缶や空き瓶以外は持ち帰って処分しているそうです。

誰の仕事でもないけれど、自分がやらなければゴミはそのままで、回収する人が困ることになります。ただ回収する人が困らないようにという思いから、気づいた自分がやればよいと言われるのです。


私が気をつけていることは、掃除を強制しないことです。強制すれば、最初は全員が従うかもしれません。でも、けっして続かない。飛行機でも、滑走路から離陸するためには、長い助走距離が必要です。同じように、リーダーにはねばり強く自分の信念を伝えていく根気が必要なのです。」(p.57)

言われたから嫌々やるというようにさせては意味がないのですね。強制しないのですから時間がかかります。それを辛抱強く耐えることが、リーダーの務めなのです。

鍵山さんが掃除をされ始めてから社員に賛同者が現れるまで、約10年かかったそうです。最初の頃は無視されたり、批判されたりしたとか。それでも続けていくことで、やっと受け入れてもらえるようになったのです。


最近は、ほんとうの意味で人間としての美学を極めようという気持ちで仕事をしている人はたいへん少なく感じます。私の場合、美学といえるかどうかわかりませんが、「与えられた枠を使い切らない」ということを一つの信条にしています。」(p.96 - 97)

鍵山さんは、飛行機や新幹線の座席の間の肘掛けを使わないそうです。自分が使えば隣の人が使えなくなるからだとか。当然、自分が使っても良いし、先に肘を掛けた者勝ちなのですが、だからこそ使わない。それが自分に与えられた枠を使い切らないということなのです。

それでは損をするかもしれません。しかし、損か得かではなく、それが自分にとって美しいかどうかが重要なのです。それが美学なのです。


社長である私が、社員が苦労しようが売上さえ上がればいいと思っていたら、いまの会社はなかったでしょう。社員が卑屈な思いをする会社にはしたくない。こんな取引がいつまでも続くようならば、会社を続ける意味がない。そこから脱却しようという強い意志があったから、困難にも耐えることができたのです。」(p.106)

売上の6割を占めていたスーパーが、あまりに無理難題を押し付けてくるようになったため、鍵山さんはそのスーパーとの取引をやめたそうです。そして社員の仕事を作るために、直営店を立ち上げたのだとか。しかし小売店から反発され、理解してもらえるまで大変だったようです。

どんな困難が待っているとしても、上手く行かないかもしれないと思っても、自分の志を貫くこと。それが重要なのです。

私も以前は経営者でしたから、耳の痛い言葉です。私にはそこまでの志があっただろうか? そう反省させられます。


哲学者の三宅雪嶺(せつれい)は、「大才は決断にあり」(まず決断できることが大才である)といっています。さらに「決断は私利を去るところにあり」とも述べています。この雪嶺の指摘こそ昨今の日本の指導者に欠けているのではないでしょうか。」(p.119)

「できる」から「やる」のでは「決断」ではありません。まず「やる」と決めるのが「決断」です。生きる上での信念、つまり志がしっかりしているかどうかが、決断できるかどうかの決め手になるのでしょう。


有名になったのは、強盗が源左の所持金を盗ろうとしたところ、源左の言葉を聞いて何も盗れなくなったことを警察に話し、それが新聞に掲載されたからだといいます。
 源左に会った人たちがたくさんの思い出話を残しています。近所の住職が、夕立に遭って全身ぬれねずみになり田んぼから帰ってきた源左を見て「ようぬれたのう」と声をかけると、源左は顔をほころばせて、「ありがとうござんす。鼻が下に向いとるんでありがたいぞなあ」といったという話。
」(p.182)

これは、因幡の源左と呼ばれた人の話を紹介している部分です。江戸末期から昭和にかけ89歳の長寿を全うした1人の農民です。18歳で父親を亡くし、息子2人は発狂して早世し、2度も火災に遭うなど、不幸が絶えない人生だったそうです。しかし、浄土真宗の阿弥陀如来に帰依して、善行と孝行を尽くし、3度の県知事表彰を受けたのだとか。

この後、鍵山さんは、トルストイ氏の「イワンの馬鹿」という小説を紹介します。まさに源左の生き方は、イワンのような生き方でした。出来事がどうかとか、他人がどう思うかに関係なく、今あるがままに喜びを見つけ、幸せな生き方をしているのです。


私も不器用な人間ですから、誰でもできることをただ黙々と続けるという鍵山さんの生き方には、とても共感するものがあります。たとえ他人から評価されなくても、自分がやるべきと思ったことを続ける。そういう美しい生き方をしたいと思います。

すぐに結果を求めない生き方
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 14:01 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月23日

約束 般若心経は「愛の詩」



かっこちゃんこと山元加津子さんの本を読みました。フォトブックという感じですね。これは先月、「読書のすすめ」へ行った時に見つけたもの。般若心経をかっこちゃんがどう解釈しているのか、とても興味が湧きました。

フォトブックということもあり、47ページの薄い本です。最初に見開きで、「宇宙(そら)の約束」と題された般若心経の心訳の全文が載っています。次のページからは、素敵な写真とともにその一節ずつが紹介されているという体裁です。最後に、かっこちゃんがどうしてこの心訳に至ったか、その経緯が書かれていました。

かっこちゃんは、とても不思議な方です。私のような理屈っぽいタイプではないのですが、深遠なことを疑問に感じ、それを心で理解しているような感じです。かっこちゃんが出会った養護学校の子どもたちや、同僚の先生方、そして動植物たちが、かっこちゃんにいろいろ教えてくれるようです。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

忘れないでね
 大切なのは
 心の目と心の耳をすますこと
 そして自分を信じること
」(p.6)

答えはすでにあるのです。だから、心の目と耳をよーく澄ませていれば、必ず答えは与えられる。そう自分を信じることが大切なのです。


私とあなた あなたとお花 お花と石ころ
 みんな同じ
 同じものでできている
」(p.14)

般若心経では「色即是空 空即是色(しきそくぜくう くうそくぜしき)」と言っています。かっこちゃんは、「空(くう)」がすべての素であり、「同じもの」だと表現しています。

同じものが、約束によって光が当たって私になり、あなたになり、花や石になっただけ。すべては同じものなのです。


でもね
 忘れちゃいけないの

 約束には無駄がなく
 必要なものだけを
 いつもちゃんと作ってる

 花がそこに咲くことは
 それが大切だという証(あかし)
 私がここにあることは
 それが必要だという証
」(p.19)

存在しているのは、それが大切だから。必要のないものは何も存在しないのです。だから、いろいろなことがあったとしても、そのままに受け止めればいいのだと言います。

怖がらなくてもいいんだよ
 悲しまなくてもいいんだよ
 だってすべてがだいじょうぶ
 すべてがみんなだいじょうぶ
」(p.25)

すべてが必要で大切なもので、そのままに存在していてOKなのであれば、もう怖がる必要はありません。不安にならなくていいのです。大丈夫だから、安心していればいい。それが般若心経のメッセージなのですね。


学校の子供たちはいつも「だれもがみんな素敵な存在で、みんなが自分のことを大好きでいいんだよ」と教えてくれます。私は般若心経に書かれた宇宙の”約束”が、子供たちの教えてくれていることと同じだと信じています。
 そして般若心経だけでなく、哲学でも科学でもそして他の宗教でもまた、同じことが言われているように思います。
」(p.45)

かっこちゃんが一緒にいるのは、「ダメな人間」と思われがちな自閉症など障害を持った子どもたち。しかしかっこちゃんは、彼らが深遠なことを教えてくれていると言うのです。

子どもたちは、おそらく人間的に純粋であるために、より宇宙(天)とつながっているのではないかと思います。かっこちゃんの文章を読むと、そういうふうに感じるのです。


かっこちゃんは、私とはまったく違ったタイプの方ですが、なぜだかとっても好きになります。それだけかっこちゃん自身が、ピュアな心を持った方だからではないかと思うのです。

約束 般若心経は「愛の詩」
 

posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 15:08 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月28日

「やさしい」って、どういうこと?



先月、「読書のすすめ」さんへ行った時に購入した本を読みました。帯にこう書かれています。「話題のベストセラー! フジテレビ系列『エチカの鏡』で”人生を変える1冊”として本のソムリエ・清水克衛さん(「読書のすすめ」店長)おすすめの1冊です。」薄い本ですが、気になって購入しました。

著者はアルボムッレ・スマナサーラ氏。訳者がないので、おそらく日本語は問題なく話ができるレベルなのだと思います。経歴にも駒澤大学の大学院で学ばれたとありました。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。その前にこの本では、「やさしさ」を誰もが求めるが、誰もその意味を知らない、と説明するところから始まっていることをお伝えしておきます。その「やさしさ」を解き明かす本だということです。

「群れる」ことは「引きこもる」ことですが、同時に「群れ以外のすべての人間を排除する」ことでもあります。私たちは、やさしさを求めて内向きに引きこもり、外向きに排他的になってしまうのです。」(p.20)

これは面白い視点ですね。「自分のエゴの型が世間と合わないことに我慢できない」と引きこもると指摘しています。そして群れるのは、たまたまその型が似ていて、許容してくれるからですね。そして内向きに群れたり引きこもったりする時、同時に外向きには排除していることになるのです。


自我を張らず、よけいなことを考えないで、自然の流れで生きていれば、その人はやさしいのです。
 誰にも迷惑をかけません。誰も損をしません。弱肉強食ではなく、これは共存主義なのです。これが「あるべきやさしさ」なのです。
」(p.35 - 36)

本当のやさしさとは、こういうものだと言います。具体的には、「ただいま」と言われたら「おかえり」と応えること。相手を思い遣り、受け入れ、少し気遣ってあげる。そういう簡単なことだと言います。


本当のやさしさは、エゴのない「生命」という次元なので、必要以上を求めません。「欲しい」というところまでいかないのです。」(p.38)

たとえば、子どもにご飯を食べさせるのは「必要」だから、ご飯を求めるのは当然だと言います。「あれが食べたい」とわがままを言うのは、必要以上と言うわけですね。それが「欲しい」というレベルなのだと。

そして、その「必要」というレベルは生命の次元で、やさしさもまたその次元の話なのだと言います。つまり、当たり前のことを当たり前にするということだと。


部屋にいると、自然のものは自分の身体くらいかもしれません。
 それだけでも人は喜びを感じることができるのです。「自分という生命は、数え切れない人に支えられて生きているのだ」と。それで「寂しい」とか「一人だけだ」とかいう気持ちは、たちまち消えてしまいます。
」(p.44 - 45)

あらゆる物が誰かによって作られ、それが自分を支えてくれています。それを感じるだけで喜べると言います。このように生命のネットワークということを考えることが重要なのですね。


「すべての生命の幸せを願う」というと、「他の生命をなんとかしてあげることができるのだ」と思うかもしれませんが、そうではないのです。「あなたがエゴをなくしたら、あなたが確実に幸福になります」「あなたがエゴをなくしたら、他人があなたに迷惑をかけることさえできなくなります」ということです。
 こちらにエゴがないと、エゴでなぐられてもなんともないのです。
」(p.70)

すべての生命がエゴをなくせば、世界は変わると言います。しかしそれは、他人のエゴをどうにかするということではないのですね。自分が自分のエゴをなくせば良いのだと。

そして、自分のエゴをなくしさえすれば、他人がエゴをむき出して自分を責めても、それに対して怒りの気持ちすら湧いてこない。そういうものだと言います。


テロリストもエゴから現れます。「あいつらと関係を持ちたくない。殺してやりたい」というのはエゴです。だから彼らをエゴで攻撃しても、テロは消えないのです。それどころか、テロリストにさらなるテロの理由を与えるだけです。」(p.72)

エゴで攻撃すれば、さらなるエゴで攻撃し返されるだけです。だから、たとえエゴで攻撃されたとしても、相手を侮辱しない。自分がエゴから離れれば、そうなるのだと言います。それが正しい生き方だと。


「愛」というのは使ってはいけない単語です。そうではなくて慈(メッター)・悲(カルナー)・喜(ムディター)・捨(ウペッカー)という四つの感情が正しいのです。この感情が、生命に対する基本的な法則の実践になります。これが本来のやさしさ、自然に、素直に生きるために育てるべきやさしさなのです。
 「自然に」といいながら「育てるべき」というのは矛盾していると思うかもしれませんが、誰にもエゴ、自我があるので自然にできないのです。だからこのような方法でエゴの病気を治療して、完璧に健康な生命をつくりあげる必要があるのです。
」(p.86)

ここで言う「愛」というのは、おそらく執着したものを指しているのでしょう。言葉は、その定義によってどうにでもなりますから。

4つのやさしさを取り上げていますが、ここで詳細に説明はしません。簡単には、メッターは友情、カルナーは抜苦(苦しんでいる人を助けたいという思い)、ムディターは喜(うまくいっている生命を自分のことのように喜ぶ)、ウペッカーは捨(幸も不幸も平等な心で捉える)だと説明しておきます。

これらの気持ちを自分の意思で育てることで、エゴから離れることが重要だと言います。エゴのないあり方が自然ではあるものの、意識して育てなければならないのだと。


特に「なぜそうなのか」は説明されていません。偉大なお釈迦様がそう言われたのだから、それに従うのが良いのだという感じです。これはお釈迦様も、今死にかけているのに刺さった矢の毒が何だとか、そういうことはどうでも良くて、それより治療することが先決だと言っています。おそらく、そういうことなのでしょう。

私としては、ウペッカーはまさに「神との対話」で示されている内容だと感じました。ただ、エゴは努力しなければなくせない、という考えには同意しません。もちろん、そちらへ意識を向けると成長が早まるということは、たしかだと思います。しかしその一方で、進化成長はプログラムされていることであり、まさに自然に起こるのだと思うからです。

わずか100ページ足らずの薄い本ですが、仏教的な考え方に触れてみるには、適当な本ではないかと思います。

「やさしい」って、どういうこと?
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 13:33 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月29日

違うってことはもっと仲良くなれること



これも「読書のすすめ」さんで購入したかっこちゃんこと山元加津子さんの本になります。かっこちゃんの視点は、言われてみるとなるほどと思いますが、なかなか気づけないものがあります。それだけ心がピュアなのでしょうね。

この本も、かっこちゃんが多くの子どもたちと出会う中で気づいたことがたくさん書かれています。それぞれが素晴らしい話なので、そのすべてから引用することはできません。一部を紹介しますので、ぜひ読んでみてほしいと思います。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

こんな足、いっそなければいいといつも思っていたけれど、足があったからこそ、おばあちゃんの手がさする場所があったのです。おばあちゃんが、私の足をいとおしく思ってくれたということに、しみじみ気がついて、涙があふれて止まりませんでした。」(p.30)

病気か何かで手足がまったく動かなくなったあきちゃんという女性の話です。動かない足があることが憎らしいと、メールが届いたのが始まりでした。それに対してかっこちゃんは、何も答えられなかったそうです。歩けても歩けなくても、大切なものではないかと思うのに、どう言ってあげれば良いかわからなかったのです。

それで同僚の山田先生に尋ねると、両親の遺伝子で自分の足ができているから大切なのだ、と答えてくれたそうです。かっこちゃんは、自分の身体は両親の身体とよく似ていて好きだとメールを返しました。

それに対して、あきちゃんが送ってきたメールの一部が先ほどの引用です。彼女は、自分のことしか考えていなかったと言います。足があったから、祖母はずっとさすってくれたのです。両親も、何とか歩けるようにならないかと、たくさんの病院や寺社を回ってくれたと。

動かないけど足があったから、家族がそれを通じて愛情を注いでくれたのですね。そのことに気づかせてもらったと、喜びの返信だったのです。人はどのような状況であっても、気づけば自分で変わっていくのですね。


ゆーちゃんがウンチを壁に塗ったり、髪につけたりする理由は今もわからないままですが、私はそのウンチのことがあって以来、ウンチを塗ることも髪につけることも、ゆーちゃんが生きる上でとても意味のあることなのだと思うようになりました。」(p.42 - 43)

最初はゆーちゃんに、ウンチを壁に塗ったりするのは「ばっちい」からと言って、やめさせようとしていたかっこちゃんです。しかし、ある時、ゆーちゃんのウンチがなかなか出なくなったのです。以前、出にくかった時にお尻が痛くなって、そのトラウマではないかと最初は思ったのだとか。

しかし、それだけではないという気がしたとかっこちゃんは言います。「汚くて臭い」というメッセージを伝えていたので、もしウンチをしたらかっこちゃんが悲しむと思って、無意識に我慢しているのではないかと。

自分でも辛くて、ただゆーちゃんを抱いているしかなかったと言います。そして4日目に、やっとウンチが出たそうです。「まるで爆発のように吹き出すたくさんのウンチをこんなにいとおしくうれしく思ったのは初めてでした。」とかっこちゃんは言います。

こういうところを読むと、かっこちゃんは本当にピュアなんだなぁと思います。どこまで子どもたちを本心から受け入れているか。存在そのものを愛しているという感じが、ひしひしと伝わってくるのです。


浩介の家、とりこわすことになったんだ。今日、視察があってね、浩介の家を見た偉いさんがさ、『こんな犬小屋に子どもを入れてけしからん。人権無視だ』なんて言うんだ。校長もさ、すぐにどかせって言うしさ。わかっちゃねえよな。」(p.63)

浩介くんは、授業中にじっとしていられない生徒でした。しかし家では、おもちゃのダンボールや家具で空間を作り、そこでじっとしていることが多かったのです。それでかっこちゃんは、教室でも安心していられる場所があれば良いと思い、そのことを担任の先生に伝えたのでした。

担任の先生が手作りのダンボールの家を用意したところ、浩介くんはそこを気に入って、授業中もそこでじっとしていたのです。自分で薄汚れた毛布を持ち込んで。クラスの仲間も「浩介の家」と呼んで、色を塗ったりしたそうです。浩介くんは、クラスの中に留まっていたかったし、クラスの仲間もそんな浩介くんを受け入れていました。

それが、視察の偉いさんと校長の、何も理解しない権力者によって否定されました。どっちが本当に子どものことを考えているのか、どっちがより子どもに寄り添っているのか、それは明らかでしょう。お母さんも教育委員会に訴えたそうですが、養護学校へ行くのがみんなのためだと言われたそうです。

ともかく隔離して、見えなくしてしまえばいい。そういう考え方が行政側にあるように思います。本当は、一緒に過ごすことで互いに理解し合えるようになるのに。まったく残念な話です。


そして思ったのは、人はよく知らない人のことは怖かったり分けたりしてしまうのじゃないかということでした。でも知り合えれば大丈夫。仲良くなればきっとわかり合えるものなのじゃないかと思ったのです。
 国が違っても、それから、たとえば障害を持っていても、いなくても、わかり合えれば大丈夫。もっともっと仲良くなれる・・・・そのためにも、もっともっと子供たちは町へ出たらいいと思ったし、私ももっといろいろな人と出会いたいと思いました。
」(p.175)

かっこちゃんはケニアの空港で、黒人が大勢いる中に身を置いて、なぜか「怖い」と感じたのだそうです。それからケニアの青年たちと交流し、マサイダンスを一緒に踊ったりして楽しみ、かっこちゃんはケニアの人たちのことが大好きになったのだとか。その時、最初はどうして「怖い」と感じたのかを考えてみた結果、得られた結論が上記の引用です。

人は、違うことに対して不安を感じてしまうのですね。それが怖いという感情になる。しかし、違うけれども通じ合う部分があると気づいた時、その違いは不安の原因ではなくなるのです。

だからこそ、障害者はもっと街へ出ていくべきだし、他の国の人と触れ合うべき。そうすれば互いに理解し合い、仲良くなることができる。そうかっこちゃんは言うのです。


かっこちゃんは、最初から相手を「受け入れる」と決めているような方です。子どもたちに対して、完全にオープンマインドです。違いの中に、自分の思い込みを見つけては、それを正そうとされています。そんなかっこちゃんの生き方が、よく表れている本だと思います。

かっこちゃんが人気者なのがよくわかります。しょっちゅう乗り換えで間違えてしまうようなおっちょこちょいで、忘れ物をしたりして迷惑をかけてしまうのに、みんながそれをサポートしたがるのです。それは、かっこちゃんをサポートすることが本当に嬉しいからだと思います。

「違い」をそのままに、ありのままの相手を受け入れようとするかっこちゃん。そういう姿勢を見習いたいと思います。

違うってことはもっと仲良くなれること
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 12:00 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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