前に
「母という病」を読みました。その本を買う時、著者の
岡田尊司(おかだ・たかし)氏がこちらの本も書かれているのを知って、一緒に買いました。
子どもに対する親の影響は、母だけではないだろうという思いがあったので、父がどう関係するのかを知りたいと思ったのです。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「
しかし、父親となると、生まれてくる一年近くも前に、母親となる女性と愛し合い、精子を提供したということ以外に、生物学的な結びつきは乏しく、父親が果たすべき生物学的役割は、これといって存在しない。」(p.10)
考えてみればたしかに、父親の生物的な役割は、種を与えることでしかありません。事実多くの生物が、父親と関係なく生まれて育ちます。そのような中で、人間の父親とは、いったいどういう役割があるのでしょうか?
「
こうした父権的な社会においては、父親は畏怖すべき絶対の存在であり、逆らうことは許されなかった。父親は一家のリーダーであると同時に、教育者であり、精神的な支柱であった。」(p.14)
家父長制度があった時代に、父親は一定の役割を果たしていたと思われます。しかし現代は、そういう制度そのものが崩壊し、父親の役割も変わりつつあります。
「
父親の存在感が、かつてとは比べられないほど希薄な時代を迎えたのだ。父親がさほど重要性をもたないとなると女性たちが、元々そうしていたように、自分の力で子育てをしようと考えるのも自然な成り行きだった。」(p.14)
こうして、かつての母系社会への回帰が起こっていると岡田氏は言います。
「
時代はさらに進んで、母親さえも働き手として、子どもにかかわる時間を切り詰めるようになり、不在の存在となる。母親さえも不在の事態が、稀(まれ)ならず起きるようになっている。子育てよりも、仕事や自分の楽しみを優先する母親も例外的な存在ではなくなった。どうしても母性の部分を犠牲にせざるを得なくなった。母親の不在や母性の欠如した子育ては、さらに深刻な「母という病」をもたらすことになった。」(p.25)
子育てから父性も母性も欠如する時代が、「母という病」を生み出していると言います。
「
このように、本来、父親とは、情け容赦のない、恐ろしい存在だった。そのことは、母親への欲望を禁じるという性愛的な意味よりも、社会の掟やルールを教える、もっとも厳しい師という意味においてだった。言い換えれば、子どもを家から追い出し、自立させるという役割を担っていたのだ。憎まれ役になってでも、一切妥協せず、「死刑宣告」を下したのだ。」(p.78)
父親の役割は、厳しくとも子どもを社会へ放り出し、自立させることにある、ということです。母親への性愛というのは、
エディプス・コンプレックスを念頭に置いた言葉です。
「
父親の一つの重要な役割は、子どもにストップをかける抑止機能として作用し、やがてそれが、子ども自身の中に、自己コントロールする力として取り込まれていくのを助けることだ。」(p.84)
何でも子どもの思い通りにさせるのではなく、その希望を打ち砕く。そうすることで、子どもの中に自己コントロールする力を培うのだと言います。実際、そういう父親のもとで育った子どもは、成績が良く、よく努力し、非行に走るリスクも少ないという研究結果があるそうです。
「
一方、別の研究では、父親に対して子どもが親近感をもち、父親から受容されていると感じている子どもの方が、自己肯定感が高く、身体的な不調が少なかった。父親が抑えるだけでなく、子どもを受容することも、子どもの安定には必要なのだろう。」(p.85)
父親が厳しく接するだけでなく、子どもを受け入れていることも、子どもへ良い影響を与えるということです。
「
精神分析の関心は、エディプス・コンプレックスに偏りがちだが、父親との葛藤を克服するということ以上に、重要なのは、子ども、ことに息子は父親を通して、社会で生きていく技を学ぶということだ。
その場合、子どもが社会適応を学んでいくうえにおいて、重要な手段の一つが同一化だ。子どもは理想化した相手に自分を同一化し、その一挙手一投足を真似、喋り方や感情的な反応の仕方までコピーし、取り込んでいく。
実際、この年代の子どもは、父親のしていることを真似ようとする。」(p.115)
つまり父親が理想的な男性像となって、子どもが真似るに値する存在であることが重要なのです。
「
息子にしがみつき、手放したがらない母親が、その思いを断ち、息子を自由の身にするためには、父親が防波堤となる必要があるのだが、父親が防波堤として機能するためには、父親と母親との関係が恒常性をもったものとして維持されるとともに、わが子の巣立ちの淋しさを共有し、その自立を共に喜ぶ方向に、気持ちが切り替わっていく必要がある。父親がいることで、そのプロセスは円滑に進みやすくなる。父親が母親のそばにいてくれることで、子どもは安心して母親から離れ、自立していくことができる。」(p.126)
子どもに愛着する母親を上手に子どもから引き離すのが、父親の役割なのです。
「
父親が不在でも、母親が心の中にしっかりとした父親像をもち、子どもの父親に対して、肯定的な気持ちをもっていれば、子どもは父親の不在を乗り越え、良い父親像を手に入れ、それを自分の中に取り込むことができる。それが、社会の掟や秩序に対する敬意をもち、その中でうまくやっていくことにつながる。」(p.185)
父親の存在は重要ですが、たとえ父親がいなくても、母親がしっかりとした父親像を持っていれば、子どもに対して良い影響があるということです。
「
母親への執着を諦めるというプロセスは、思い通りにならないものは、すべて敵だ、悪だという二分法的で両極端な受け止め方を克服し、より成熟した関係を獲得する道でもある。思い通りにならないものを受け入れることができず、攻撃するという段階から、思い通りにならないものであっても受け入れ、共感するという新たな段階へと導くのだ。父親という第三の存在がいることで、思い通りにならない状況を子どもに乗り越えさせることによって、そのプロセスは促される。」(p.190)
泣き叫べば何でも言うことを聞いてくれるのが母親。一方の父親は、泣き叫んでもダメなものはダメと言って思い通りにさせてくれない存在。子どもは、その存在を受け入れられていながらも、思い通りにならないことを経験し、社会に適応して行くのです。
「
この段階を乗り越えられなかった子どもは、フラストレーションに対して脆(もろ)くなりやすい。全面的に自分を受け入れ、守ってくれる存在としかやっていくことができない。少しでも非難されたり攻撃を受けると、立ち直れないほど傷ついてしまう。不快さを押しのけ、自分を主張するということが難しいのだ。
実際、多くの研究が、父親が、子どもの自立を促すだけでなく、ストレスに対する復元力(レジリアンス)を高めるのにも役立っていることを裏付けている。」(p.195)
父親の存在と言うか、要は適度な抵抗に遭うことが、フラストレーションに対する耐性を獲得するのに必要だということだと思います。
「
現実の父親が目の前にいれば、ほどよく満たされ、ほどよく失望を味わいながら、幼い頃、理想化された幻影も、やがて現実サイズのものに修正されていく。
だが、その不在ゆえに、父親を求める気持ちが強く、「父親飢餓(ファザー・ハンガー)」と呼ぶべき状態を呈することもある。」(p.216)
理想的な父親が存在すれば、子どもはその父親と同一化しようとします。残念ながら理想的でない場合は、傷ついた父親像を回復するために、父親代わりの存在を求めるようになると言います。
しかし、実在の父親がいない場合は、空想の中に理想的な父親像を求めて、理想に近い男性に出会っても、すぐにその不足部分が目につき、他に理想的な男性がいるのではないかと追い求めることになるのです。
「
父親と母親という異質な存在の間に、微妙なバランスをとることの方が、自己確立を成し遂げやすい。二つの極の間にあるが、どちらの極からも自由であるという関係が、主体性や個性を育む上で、具合がいいのだ。」(p.275)
子どもは本来、父親と母親の両方を必要としている存在だと言います。ですから、離婚によってどちらか一方に育てられるということは、もう一方を奪われたということになるのです。
「
パートナー同士のかかわりは、夫婦間、恋人間の愛着を安定化させることもあれば、逆に不安定にすることもある。愛着は、対人関係の土台であり、精神的な安定の土台でもある。愛着が安定しているとき、パートナーが安全基地として機能している。パートナーとの関係がうまくいっているとき、お互いが安全基地となっている。
安全基地とは、困ったことがあったとき、何でも打ち明け、受け止めてもらえる存在だ。どんなときも、大丈夫だと言ってくれる存在だ。」(p.294)
パートナーが安全基地としての役割を果たせなくなった時、子どもと同様に「非行」に走ると言います。アルコール依存、浮気、DVといった非行です。
ですから、そういう問題が起こった時は、本人を責めたり突き放したりするのは逆効果です。それではパートナー間の信頼を取り戻せません。
むしろ安全基地としての機能を取り戻すこと、つまり非行を受け入れ、それでも大丈夫だと言うことの方が有効だと言うのです。
しかし、事態が深刻化した場合は、第三者を安全基地として、当人同士は距離を置き、冷静さを取り戻す方が有効だと言います。
「
逆にケースによっては、離婚が積極的な意味で必要な場合もある。離婚しない限り、その人の主体的人生を取り戻すことが困難だという状況に陥っている場合だ。」(p.298)
離婚というのは最終手段で、できればそれまでの早い段階で手を打つ必要があります。ですから、すぐに「被害者」と「加害者」というように分けるのではなく、関係を修復するための措置が大切なのです。子どもがいなければ影響は少ないかもしれませんが、離婚が子どもに与える影響はあまりに大きいのですから。
しかし、だからと言って子どもを理由に離婚せずに我慢し続けるのが良いわけではありません。我慢は当人の心身に悪影響を与えますし、子どもへも同様です。そして、離婚が最善というケースもあるのですね。
「
その典型は、女性が、父親代わりの存在と悪しき依存関係に陥ってしまっている場合だ。そうした状況において、女性は自分の主体性を放棄し、相手の庇護によってしか行きていけないと思い込んでいて、精神的、経済的に依存する。性的にも精神的にも経済的にも男性に隷属し、男性の所有物としての自分を受け入れることで、心の安定を保とうとする。こうした状況に、配偶者間暴力が伴っている場合も多い。」(p.299)
このように結婚が「鳥かご」になっているなら、離婚することが先決になると言います。自立できない関係なら、その関係を解消することが優先されるのです。
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ただ、幸いなことに、父親の不在や拒否は、母親の不在や拒否よりも克服しやすい。母親との不安定な関係は、存在の土台そのものを揺さぶるが、父親との関係は、通常、そこまで強い影響力はない。母親との関係が安定していれば、父親が不在であったり、父親との葛藤が強かったりしても、その影響は存在の根底を揺るがすまでには至らない。」(p.306)
父親の存在が重要であるとは言っても、やはり母親の方が重要なのです。
「
相手に理想の父親像を求め、それと比べて失望するのではなく、ありのままの相手を見ることだ。裏切られたと思っているのなら、それは間違っている。最初から、勝手な期待をかけただけなのだ。自分の期待に反したからといって、相手を責めるのは、相手からすれば、まったく不当な仕打ちとしか思えないだろう。相手を祀り上げたのは、あなたなのだ。」(p.321)
相手の男性に理想の父親像を求めてしまう女性は、まず自分が、理想の父親像を求めているだけなのだと自覚することが重要だと言います。それがない限り、互いに不幸になるしかないのです。
「
母親が父親を否定したり、貶す言葉に、あなたの判断は影響されていないだろうか。あなたが、父親から受け継いだもの、授けられたものは、そんなにひどいことばかりだろうか。
父親のした”悪い”行動が、どういう状況でなされていたのか、どういう意味をもっていたのかを、もう一度考えてみることだ。母親があなたに教え込んだ見方ではなく、できるだけ客観的な視点で、父親に何が起きていたのかに、思いを巡らしてみることだ。」(p.328)
父親の実像がどうであれ、母親が父親をどう語るかが、子どもへ影響することを岡田氏は言っています。ですから、もし自分が父親に対して悪い印象を持っているとしたら、それは母親のフィルターを通したものかもしれないと言うのです。
実際問題、酔っ払って暴力を振るう父親も、そうせざるを得ない何らかの事情があるのです。それは、父親が育てられた環境(親)に原因があるかもしれないし、母親の言動が、何かを刺激するのかもしれません。
いずれにせよ、そうやって共感的に対等な1人の人間として父親を見ることが、父という病を克服する上で有効な方法だと岡田氏は言うのです。
人間関係は、幸せの源泉であるとともに、不幸の源でもあります。これは
アドラーも指摘している通りです。
「神との対話」でも、人間関係なしには、私たちは成長できないと言っています。その人間関係の中でも、特に重要なのが親子関係とパートナー関係だと思います。
岡田氏の
「母という病」と
「父という病」を読むと、親子関係がパートナー関係にも影響を与えていることがよくわかります。生まれて初めて結ぶ人間関係が親子関係ですから、さもありなんという気がします。
この本を読む人は、すでに大人になっている人だと思います。もうすでに子どもには戻れない年齢かもしれませんが、知ることが自分で親子関係を修復する力になるように思います。ぜひ、この2冊を一緒に読むことをお勧めします。