2017年07月23日
督促OL 修行日記
これもどこで紹介されていたのか忘れたのですが、興味深い本を読みました。著者は榎本まみさん。4コマ漫画のブログを書かれていて、そこから本の出版につながったようです。
なお、アマゾンのリンクは文庫本ですが、私が買ったのは単行本です。2012年の発売ですから、随分と前の本でしたね。
タイトルにある「督促」というのは、借金の返済などを督促する仕事のことです。榎本さんは、金融機関に就職してすぐに支払い延滞顧客への督促を行うコールセンターに配属されます。性格的にも合わない仕事で苦しみますが、その中で自分なりの方法を見つけ、それを公表してこられたのです。
それが今では年間2000億円の債権を回収するなど、指導的な立場になられたとか。自分に合っているから上達したのではなく、その逆で合っていないからこそ上達できたという、興味深い内容です。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「そうか、人間先に謝られてしまうと、その上さらに怒りにくいのかもしれない。
お客さまは、督促の電話をかけてくる私たちに、怒られたり嫌なことを言われたりするんじゃないかと警戒心を抱いている、だから怒られる前に怒鳴る。私たちを怒ることで、自分の身を守ろうとしているんだ。」(p.99)
怒られれば惨めになったり、腹立たしくなったりするものですが、榎本さんは相手の立場に立ってこういう気づきを得ておられる。そこが素晴らしいと思います。
「攻撃は最大の防御なり」という言葉もありますが、攻撃するのは恐れているからです。だから自分を守ろうとして相手を攻撃する。そういうものです。
榎本さんは、お客様を大きく4つのタイプに分類します。感情のプラスとマイナス、論理のプラスとマイナス、この組み合わせです。それによって、対応を分ければいいのだと気づいたそうです。
「感情タイプはまずガス抜き。怒っているお客さまはひたすら怒ってもらうし、泣いてしまうお客さまは相手が泣きやむのを待つ。」(p.107)
感情的になるときは、それをしっかり吐き出させてあげることが重要なのですね。そうせずに否定したりすると、かえって火に油を注ぐことになるのだとか。
論理的なタイプは、自分のプライドを守ろうとして理論武装しているのだと言います。ですから上から目線は禁物で、プライトを満たしてやることが重要なのだとか。
「でもなんで相手から怒鳴られたり、罵倒されたりすると傷つくんだろうか。そんなの当たり前かな? でも世の中にはののしられて喜んじゃう趣味の人たちだっているわけだし(!?)、きっとお客さまの言葉に傷つかなくても平気になる方法があるはずだ、と私は考えた。
(中略)
それは、人間には自尊心があるからだ。
人間は誰でも自尊心を持っている。ぞんざいに扱われたり軽んじらられたりすると、それが傷ついてしまう。お客さまにひどいことを言われると自尊心が傷つく。お礼を言われないと自尊心が満たされない。だからこの仕事は辛いんだ。私の痛みの源になっているのは自尊心、つまりプライドだ。」(p.139)
当たり前のことのように思えることを、「なぜ?」と考えてみるところは素晴らしいと思います。人は、そうやって成長して行くのですから。
ただ、ここで言うところの「自尊心」は、心理学で言うものは違います。本物の自尊心ではありません。
本当の自尊心がないから、他人の評価を得ようとするのです。他人から評価されないと、自分に価値があると思えないのですね。プライドが高い人というのは、他人から高く評価されたくてたまらない(=心理学的には「自尊心がない」)人なのです。
「こんなふうに心や体を病む要素がいっぱいのコールセンターでは、働いているだけでサバイバルだ。自分で自分を守るしかない。
そこで私が考え出したのが、「私は謝罪するプロだ」作戦だった。」(p.144)
つまり、追い立てられて受け身で仕事をするのではなく、プロとしての自覚を持って、積極的に仕事に取り組むということです。謝ることでお金を稼ぐプロ。自分をそう定義することで、積極的に謝罪することができるのです。
「お客さまに1回怒鳴られると1ポイントとしてカウントし、10ポイント溜まるとお菓子を買ったりジュースを買ったり、小さなご褒美を自分に与える。」(p.148)
ポイント制にすることで、お客さんからの否定的な投げかけを、逆の肯定的なものに変えるのですね。他に「悪口コレクション」というものも、榎本さんは紹介されています。お客さんから投げかけられる様々な悪口を集めて楽しむのです。こういう発想も面白いです。
「私たちが相手に嫌われても、怒鳴られても、包丁を突きつけられても、督促しなければならないのは、お客さまの信用を守ることができるから。お客さまの信用を守るのはもしかしたら命を守ることにもなるかもしれないしね」(p.204 - 205)
榎本さんの先輩の言葉です。お客さんが倒れて意識を失った時、救急車を呼んでも来てくれなかったことがあったそうです。それはそのお客さんが、医療費などを踏み倒す常習者だったから。信用をなくせば、命さえも救えなくなる可能性があるのです。
「お金返さなかったらどうなるのかな、という不安。ホントはお金を返さなきゃいけないんだけど返してない、という罪悪感。それを守るために、お客さまは私たちを怒鳴る。
悪口系だめんずの彼も自分に自信がない人だったのだ。自分の自信のなさを補うために相手に悪口を言う。ああそうか、ダメなのは自分じゃないんだ、と気付いた時、パリン、と洗脳が解けた気がした。それがわかってから、私は数年ひっかかり続けたそのタイプにやっと別れを告げることができた。」(p.216)
自分にやましいところがあって自信がないから、相手を攻撃するのです。怒るのも批判非難するのも、すべてそうです。
それを見抜けば、怒られたり悪口を言われたりしても、平気でいられます。惨めになる必要がありませんから。ダメなのは相手であって自分じゃない。そういう気付きが重要なのですね。そうやって自分が変われば、状況(出来事)も変わってきます。
「古戦場のようなコールセンターで働くうちに、いつの間にか自分の体にはたくさんの言葉の刃が突き刺さっていた。でも、その一本を引き抜くと、それは自分を傷つける凶器ではなく剣になった。その剣を振り回すと、また私を突き刺そうと飛んでくるお客さまの言葉の矢を今度は跳ね返すことができた。それから、仲間を狙って振り下ろされる刃からも仲間を守ることができるようになった。そうか、武器は私の身の中に刺さっていたのだ。」(p.233)
たくさん傷ついてきたからこそ、その経験から武器を手にしたのです。その武器によって、自分を守るばかりでなく、仲間を守ることができるようになったのです。
自分に合わないから、苦手だから・・・。それはやらないことの理由にはならないのですね。やってみれば、真剣に取り組んでみれば、そこに生きる道があるのかもしれない。そんなふうに思いました。
「私には、統合失調症で今も部屋から出られない状態の、ひとつ年下の弟がいます。もし、あなたが外に出られるようになって、仕事をする時に、心と体を守るために少しでもこの本が役立てばと思いました。」(p.236)
榎本さんは、この本を3人の人に贈りたいと書かれています。1人は、かつてぜんぜん督促ができなかった自分自身へ。もう1人は、今一緒に働いているオペレーターさんや同僚たち。そして3人目が弟さんなのだそうです。
自分が苦しんできたことは、無駄にはなりません。その苦しみは、他人を助け、癒す力になるのです。私もこの本が、今、苦しんでいる多くの人の力になればと思いました。
2017年07月24日
長原さん、わたしも生まれ変わります
「みやざき中央新聞」の魂の編集長・水谷もりひとさんがFacebookで紹介されていて、それで買った本を読みました。著者は高木書房代表取締役の斎藤信二(さいとう・しんじ)さん。監修が長原和宣(ながはら・かずのり)さんです。
この監修の長原さんのことを、斎藤さんが書かれたのですね。長原さんは現在、長原グループの代表取締役をされておられますが、乞われて講演活動もされています。そこから、この本が生まれました。
どうして長原さんが講演活動をされているかと言うと、覚醒剤中毒から立ち直ったという経験があるからです。また、17歳でヤクザの組員になるなど、非行を繰り返した経験もあります。なので、少年院や学校から呼ばれて、講演をされているのです。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「誰でも間違いを起こすことはあります。
だからといって、過去に犯した罪や失敗は、帳消しにはなりません。
しかしそれは、済んでしまったこと。
責任逃れで言っているのではありません。
済んでしまったことに囚われて、悩み苦しんでどうなります?
それでは問題の解決にはならないのです。
大事なことは、反省すべきことは反省し、改善すべきことは改善する。
その上で、更生するために、自分の生き方を決める。
そして、それを実行に移すことです。」(p.9 - 10)
序章で、長原さんが少年院で話したことを紹介しています。
過去を悔やんでも、なかったことにはできません。それを肥やしにするしかないのですね。そして、そうすると決めて、実行することが重要なのだと言います。
「捕まった時に、取り調べの刑事さんに全部本当のことを話してきました。十代の頃も覚せい剤をやっていましたと、全部棚卸をしました。自分の悪いところを全部話しました。
これがよかったと思っています。釈放されてから、今まであったもやもやしていたものがなくなり、気持ちがすっきりしていました。正直に話をするというのは、気持ちをすっきりさせてくれます。
この時の体験から、正直に生きようと決めました。正直ってすごいです。嘘がないので堂々と生きられます。」(p.41)
隠し立てをすると、どうしてもウソをつくことになります。そのウソがバレないようにするために、またウソを重ねなくてはならなくなります。
だから、正直になった方がいいのです。「神との対話」でも言うように、ダメなところもすべて受け入れて、自分に正直になることが重要なのです。
「人間の成長過程には順序というものがあります。
子供は最初に寝がえりを覚え、座り、這うことを学び、立って歩き、走ったりできるようになっていきます。
どの段階も、それぞれとても大切であり、一つ一つ時間がかかり、どの段階も飛ばすこともできないことです。
人生においても、あらゆることに共通しており、段階をふんでいく順序は大切です。」(p.82)
人は、一足飛びに成長することはできません。それぞれの段階を、それぞれに適した時間をかけて成長します。大人が完全で赤ちゃんが不完全なのではなく、それぞれの段階はそれぞれとして完全なのです。
時に道に迷うことも、失敗したように見えることも、それもまた1つの段階なのだと思います。ですから、その段階を恥じたり悔やんだりすることなく、受け入れて(楽しんで)通過すれば良いのだと思います。
「なぜ私が覚せい剤に嵌(はま)って、体も心も狂ってしまったのか。しかも入院し、治ったと思ったらまたすぐにおかしくなる。最後は事故を起こして逮捕される。何でだろうと、いろいろと考えてみました。
(中略)
不良は克服した。
暴力団も克服した。
高校も卒業できた。
しかし覚せい剤は、なかなか克服できなかった。
それはきっと、私が体験で学ぶべきことがあったからではないかと。
あれだけの中毒になったにもかかわらず、完璧に覚せい剤から断ち切る体験、その地獄のような体験を経て、それを世に伝えることが自分に任された役割ではないかと思うのです。」(p.222 - 223)
真実がどうかは知りません。いえ、客観的な真実などというものはないのかもしれません。ですから、長原さんがそう感じられるということは、長原さんにとっての真実なのでしょう。
覚醒剤の幻覚の中で、お祖父さんなどの声が聞こえ、「覚せい剤をやめろ」と繰り返し言われたそうです。それをただの偶然と片付けるのか、それとも必然と考えるのか。それもまた、その人が決めることだと思います。
この本の中で、長原さんが奥様に対して暴力を振るう話が出てきます。前歯を折り、肋骨を折るような大怪我をさせます。それでも奥様は、長原さんを見捨てなかったのですね。
長原さんは、その後、実業家としても成功されました。それで、次は事業についての本をという話もあるのだそうです。私は、今回の話に奥様からの視点なども加えて、もっと深みのある本にしてほしいなあと感じます。出版社がどう考えるかはわかりませんけどね。
実際にあったことというのは、何にしても説得力があります。一時的に道を踏み外したと思っている人にとって、長原さんの人生は救いになるだろうと思います。
2017年07月25日
名言セラピー幕末スペシャル
また、ひすいこたろうさんの本を読みました。名言セラピーシリーズですが、幕末の登場人物に特化した特別編になっています。
日本の歴史が大きく動いたとされるのは、戦国時代と幕末から明治にかけて。それと大東亜戦争の頃だと言われています。その中でも幕末は、優れた人物が次々に出てきて、西洋列強の侵略から日本を救った時代でもあります。
私も、坂本龍馬氏、西郷隆盛氏、吉田松陰氏、勝海舟氏などが好きで、関連する本をよく読みました。それだけに、ひすいさんがどう取り上げるのか、興味津々でこの本を読みました。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「僕らは、今、どんな仕事についたっていいし、
どこへ行くことだって自由にできるし、
どんな夢をもったっていい。
それは、彼らが命をかけてくれたからです。
そして、今、再び、
新たな革命の
時代を迎えています。
今度の革命は、
ほんとうの自分と出会うための革命です。」(p.6)
冒頭でひすいさんは、このように言います。幕末に活躍した多くの人たちが、命がけで日本を守り、変えてくれたのですね。そのお陰で私たちは、現代の豊かさや自由を味わうことができるのです。
そしてひすいさんは、今もまた革命の時代だと言います。「本当の自分と出会うための革命」というのは、自分が進化成長して、本当の自分として生きるということだろうと思います。
「いつだって物語は「脱藩」から始まるんです。
では、現代における「脱藩」とはなんだろう。
人によっては、それは家族のもとを離れて自立することかもしれない。
属していた組織から離れることかもしれない。
今付き合っている人と別れることかもしれない。
脱藩とは、握りしめていた価値観を一度手放してみること。
脱藩とは、何が起きるかわからない世界へ、
たったひとりで飛びこんでみること。
ブルブル震えながらでもいい。
飛びこんでしまえ。」(p.35)
坂本龍馬氏の活動は脱藩から始まりました。そのことを捉えて、本当の自分と出会うには、勇気をもって新たな扉を開けることだと、ひすいさんは言うのです。
「誰もがみな安定することを望むけれど、
竜馬の人生を見ると
1秒も安定していないことがわかります。
不安定のなかにこそ、
冒険という道がある。
ゆらぎのなかを行こう。
葛藤のなかを行こう。
答えのないカオスのなかを行こう。」(p.39)
何が正解かは、誰にもわかりません。やってみなければわからないのです。間違っているかもしれないという不安の中で、他人から否定されるとしても、自分の道を進むことなのです。
「松陰は後に、兄、梅太郎に
この日の気持ちを手紙でこう告げています。
「海外渡航の禁は徳川一世の事にすぎない。
今回のことは、三千年の日本の運命に関係する以上、
この禁に、思い患うことなんてできなかった」」(p.48)
国禁を犯して黒船に乗り込んだ吉田松陰氏は、3000年先の日本のことを考えて行動しました。まさに佐藤一斎氏の言志四録にあるように生きたのです。
「当今の毀誉は懼(おそ)るるに足らず。後世の毀誉は懼る可し。一身の得喪は慮るに足らず。子孫の得喪は慮る可し。」
明治維新の決定打は、坂本龍馬氏ではなかったと、ひすいさんは言います。では誰か? それは一般民衆が起こしたものだったと。
「1967年、7月18日東海地方の三河国(愛知県)で
「ええじゃないか」というパレードが
民衆のなかで湧き上がりました。」(p.76)
踊る人たちは、周りの人を強引に巻き込んで行きました。恥ずかしさ、バカバカしさを乗り越えさせ、踊る中で自分自身が解放されるのです。
全国に広がったこの運動は、様々にバリエーションがあったそうです。しかし共通点が3つあったのだとか。それは、男は女装し女は男装すること。金持ちの家があれば上がり込んで踊ること。武士の刀を取り上げて、無理やり踊らせること。
「この三つの共通点から見出されるものは何か?
ぶっ壊すということです。
常識を!」(p.79)
多くの人がこれまでの常識を変えようと意識を変えたことで、時代が動いたのですね。
「人は、あふれたときに
眼がキラキラ光り出します。
夢中で1時間語れるものをもつって、
要は、あふれたってことです。」(p.108)
吉田松陰氏は、日本のことになると夢中で語ったそうです。牢に入れられても、それでも語り続けた。他の人から受け入れられるかどうかなどと他人の評価を気にせず、ただ語ることに熱中しました。
情熱を感じて何かに没頭する。そうすることで、突き抜けることができるのです。
「木村は咸臨丸の乗組員たちが
アメリカの軍人に対して見劣りがしないように、
乗組員にお金を出すことを幕府にお願いしていましたが、
受け入れられなかったため、
自らの家財を売ってまで
お金を捻出。
気骨のある木村摂津守を、諭吉は心から慕っていました。
そんな木村摂津守ですから、
維新後も新政府から声がかかります。
しかし、「私は幕府に仕えた身ですから……」と断り、
一生表舞台に出ることはありませんでした。」(p.115)
この話を読んで、福沢諭吉氏が勝海舟氏のことを二君に仕える者だと批判した理由がわかりました。木村摂津守を尊敬していたから、その思いを否定されたように感じたのでしょうね。
勝海舟氏は、「 行蔵(こうぞう)は我に存(そん)す。 毀誉(きよ)は人の主張、我に与(あずか)らず我に関せずと存じ候(そうろう)」と言って、福沢諭吉氏の批判を相手にしませんでした。
生き方、考え方は人それぞれです。どちらが正しいかではなく、どちらも正しいのです。その自分の思いに従って、堂々と生きる。木村摂津守も、福沢諭吉氏も、勝海舟氏も、自分の損得ではなく、自分らしい生き方を選択したのだと思います。
「松陰が葉山左内と交流をもったのは、わずか50日ほど。
また、松陰が萩の松下村塾で弟子たちに講義したのも、
2年半ほど。
なぜ、葉山左内に触れた人が短期間で成長したのか?
なぜ、吉田松陰に触れた人が、
短期間で歴史に残る人物にまで成長したのか?
師匠の視線に愛があふれていたから。
僕はそう思うんです。」(p.146)
吉田松陰氏は葉山左内氏に学びたくて、毎日のように通ったそうです。その時、葉山左内氏は、吉田松陰氏の姿が見えなくなるまで、帰る姿を見送ったのだとか。
経営の神様と呼ばれる松下幸之助氏も、インタビューに訪れた若い記者を、社長室の入り口まで見送り、深々とおじぎをされたそうです。影響を与える人というのは、このように一人ひとりに敬意を持って接したのですね。
「このまま5年や10年、
牢獄につながれていたとしても、
それでもまだ
僕はたったの40歳だ。
逆襲はそこから
いくらでもできる!
松陰はそんな思いでした。さらに語っています。
「憤慨することは止むべし(中略)
自然と決めた。死を求めもせず、死を辞しもせず、
極に在っては獄で出来る事をする。
獄を出ては出て出来ることをする」」(p.153)
できないことに意識を向けるのではなく、今の状況でできることをすれば良い。そういう考え方が人生を右肩上がりにするのだと、ひすいさんは言います。
「これを知ると、今日を境にあなたも、
困ったことが、一切起こらなくなることでしょう。
その秘密をお伝えしましょう。
「僕は金輪際、
『困った』という言葉を
決して吐かない」
by 高杉晋作」(p.202)
「困った」と言わなければ、「困ったこと」は起こりません。「問題だ」と言わなければ、「問題」はなくなります。「ピンチ」も「チャンスだ!」と言えばいいのです。
幕末に活躍した人たちの人生を見てみれば、ツイてないことやピンチの連続とも言えるでしょう。それでも、人生を変え、日本を変え、名前を遺して憧れる存在になりました。だから私たちは彼らを尊敬し、慕っているのです。
そうであるなら、私たちもまた彼らのように生きれば良いのだと思います。そのヒントを、この本は示してくれています。
2017年07月31日
宇宙を味方につけるリッチマネーの秘密
はせくらみゆきさんの本を読みました。はせくらさんのことは、だいぶ前にひすいこたろうさんとの共著「起こることは全部マル!」で知りました。それから興味を持って、DVDを買ったりセミナーに参加したりもしました。
今回の本は、お金に関して宇宙からのメッセージを受け取られて、書かれたものになります。「お金」というのは永遠のテーマのようで、これまでも多くの方が本を書かれています。はせくらさんがどういう切り口で書かれているのか興味があって、買って読んでみました。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「私たちが一番知りたい本音は、どうしたら豊かになれますか? ということ。
お金に使われる人生ではなく、お金を使う側として、人生を生きたいし、出来れば、お金の心配なんかしなくてもいい人生を生きたいんです。」(p.33)
まさに、これが庶民の願いですよね。この本は、そういう願いを叶えてくれるものだ、ということなのでしょう。
「今、私たちがすることは「お金持ち」に対する無意識の不満、不信感、妬み、あきらめという感覚から、さっさと卒業することなんです。」(p.35)
お金持ちに対する否定的な考え方は、自分がその状態になることを遠ざけてしまいますからね。
「この世にお金が存在するということは、お金というものが生まれ、活用されることになった天の意志、宇宙の意志がきっとあるはずだと。
そうして、お金自身が喜び、嬉しくなる扱われ方をされたら、きっと天(宇宙)も喜んでくれるに違いないと、想うようになりました。」(p.52)
お金はエネルギーであり、人々の間を巡りながらみんなを豊かにしていくもの。そういう素晴らしいツールなのですね。そのツールを創り出した天の思いに協力するなら、天に喜ばれ、助けられるだろうというわけです。
「「お金とは、私の分身である」
というのが、宇宙が教えてくれたお金の正体だったんです!
つまり、「お金=私」であるということです。」(p.54 - 55)
はせくらさんが受けたメッセージは、「お金=私」というメッセージでした。では、私とはどういう存在なのか?
「宇宙の意志は、愛。
この天意(愛)のうちから生まれ、いのちとなり、身体の容れものに宿った存在が、私たち−−ヒトなのです。」(p.56)
私たちもお金も天意から生まれたもの。だから「愛」そのものなのですね。
「あなたの本質である「いのち」はどうしてもやってみたいことがあったのです。
それは、物質のある地上世界(地球ランド)でも、愛を体現するということ。」(p.59)
これは「神との対話」でも語られています。私たちは本当の自分を体験するために、この世に生まれたのです。では、「お金=私」なら、お金も同じ使命があるはずですよね?
「なので、宇宙は、素晴らしい方法を、人間にインスピレーションさせたんです。
肉体のあなたがわざわざ行かなくても、あなたと同じ働きができる便利な道具を発明してもらったのです。
それが、お金でした。」(p.59)
肉体を持つ私たちは、あちこちを自由で飛び回ることは困難です。そんな私たちに代わって世界中を飛び回り、人々を豊かに、幸せにしてくれる存在。それがお金なのですね。
「あなたがあなたのことを、愛して、認めて、大好きになればなるほど、あなたから発せられるエネルギーも増大して、結果として、高い現実(望む現実)を表しやすくなるのですね。」(p.63)
自分で自分を絶対肯定する。自尊心とも呼ばれますが、自己肯定感を高めることが重要です。それが天の望みだと言います。
お金は、みんなが絶対的に信用しているから、その存在価値が生まれます。信用して認めているから、お金として役立ちます。同じように私たちも、自分を(他人も)絶対的に信用することが大切なのです。
「これからは、天意にそって動こうと決意し、動き出した人のほうに、お金が集まりやすくなってきます。」(p.88 - 89)
自分勝手ではなく、天意である「愛」という本質的な生き方をする。それが遠回りなようでも、本質的にお金に好かれる生き方なのです。
「喜びや幸せは、なるのではなく、あります。
今ある、すでにある豊かさ、幸せ、喜びに気づくことで、
私たちはたった今、幸せの中にいるのです。」(p.104)
幸せはなるものではなく感じるもの。すでに幸せであり、豊かであると気づくことが重要なのです。
「さて、自分=お金だとするなら、私であるお金は、どういうふうに使われたら嬉しくて、さらなるめぐりがよくなるでしょうか?
それは、自分がありたい姿、思われたい姿を思い描き、そのような気持ちでお金と向かい合ってみることです。」(p.147)
自分が愛でありたいなら、愛をもってお金を使う。感謝されたいなら、感謝の気持ちを添えて使う。お金に対する思いを、自分の理想的なものにしていくことです。
「「安物買いの銭失い」という言葉もあるように、安さを一番の基準にしてしまうと、おそらく余計なものまで買い込んでしまいます。それよりも、感情が「好きだから」、「必要だから」、「欲しいものだから」という気持ちが沸き上がったものに対して対価を払うようにすると、買い物の質が上がります。
また、さらに上質を目指そうとするなら、感情の一段階上にある、感動で買うようにすると、それはとても心に残る買い物ということになります。」(p.165)
ついつい安さを追い求めてしまいがちですが、そういう買い方は、そのモノ(サービスも)に対する価値を認めていないということです。価値を認めないのですから、豊かな気持ちにはなれませんよね。
「どうも私たちは、究極的なところ、愛か不安かの二択で、進むべき道を決めているようです。
どういうことかというと、愛をベースにして生きている時は、幸福感を覚えやすいのに対し、不安のほうを選んでしまうと、イライラや悲しみ、心配や恐れといった感情にさいなまれ、あまりハッピーには暮らせないということなのです。」(p.198)
「神との対話」で語られているのと同じですね。究極的には「愛」か「不安」なのです。
「お金の本質は愛であり、あなたの本質も愛です。
お金は私、私はお金、という新しい見方は、あなたの人生を確実に変える鍵になります。
見える世界が変わり、買うものが変わり、人やモノとのつきあいが変わり、暮らしの質が変わり、あらゆるものが変容していくかもしれません。」(p.206)
お金の見方を変えることは、「お金=私」ですから、自分自身が変容することなのですね。そうして自分が変われば、現実が変わってくるのです。
「あなたの花が咲くと、地球は喜び、歌いだします。
宇宙も喜び、踊りだします。」(p.218)
宇宙全体が、私たち一人ひとりの変容(進化成長)を楽しみにしています。それはまるで、赤ちゃんの成長を見守る親のようなものです。
私たちは、そういった宇宙から期待されている存在です。それだけ価値がある存在なのです。
「宇宙の始まりにいる天の父は、
にっこりほくそえみ、つぶやきました。
すべてよし、これでよし。
嬉しいなぁ、楽しいなぁ、満ちているなぁ。
すべては完璧で、完全だ。
人間の中に宿ってみるのは、
最高の体験だったなぁ。」(p.221)
私たちの本質は天の父(神、宇宙)だと言います。そしてその天の父の思い通りに、完璧に、この世で人間として暮らしている。それが私たちなのです。
はせくらさんは、小さいころから不思議な少女だったそうです。目に見えない存在が見え、それらと会話できたとか。それが普通じゃないと気づいてから、そういう能力を封印して来られました。しかし、大病を患われたのを気に、その能力の封印を解き、宇宙のメッセージを伝える活動をされています。
この話を信じるかどうかは、それぞれの判断にお任せします。私は、その内容から、はせくらさんの話は本質的だなと感じています。
神は怒らない
昨日、心屋仁之助さんがFacebookに「ダンナ様は霊媒師」というブログの「★神社で写真を撮るときの注意点」という記事をシェアされていました。
簡単に要約すれば、神社は神のお社だから、挨拶もせずに写真を撮りまくると神様が怒るという話です。
他人の家に上がり込むなり許可なく写真を撮れば、住人は怒るでしょう。だから、神も同じなのだと。
霊的なものが見える方のようで、神様が怒っていたり注意している写真をときどき見かけると言います。
祈祷中に写真を撮るのは、神様に対して失礼だとも書かれていますね。
心屋さんは、シェアした投稿にこう書かれています。
「神さまも
怒るんだね(・∀・)」
これは肯定しているようでもあり、我関せずという感じでもあります。
「神との対話」を読んでいる私としては、神様が怒るなんてことは絶対にあり得ないと思います。
人間が何かをしたら失礼だと感じて神様が怒るという発想は、それこそ神様への冒涜でしょう。
なぜなら、神様はそんなちっぽけな了見の持ち主だと言っているようなものですから。
「わたしがあるものを嫌い、あるものを愛する、そう思っているのかな? 言っておくが、わたしは何も嫌いはしない。反感ももたない。すべては生命であり、生命は贈り物だ。言葉にならない宝物、聖なるもののなかの聖なるものなのだよ。
わたしは生命だ。生命はわたしだから。生命のすべての面に、聖なる目的がある。
どんなものにも神が理解し、肯定した理由がある。」
(「神との対話」p.86)
このように、何かを否定するということはあり得ません。
神とは「存在のすべて」であり、神が受け入れたものしか存在していないからです。
また、神は「存在のすべて」ですから、何も必要とはしません。
人間から尊敬される必要もないし、丁寧に扱われる必要もありません。
「神は自我もなければ何かを必要とすることもない、存在するすべての源であり、すべての知識と愛の座であると考えるならば、あなたの神学はばらばらに崩れる。」
(「神との対話A」p.70)
つまり神は、そういう存在だと言っているのです。
まるで人間のような神を想像するから、神が怒ると考えるのでしょう。
何でもできる神を怒らせたら大変なことになります。
だから毎週礼拝を欠かしてはいけないし、豚肉とか牛肉とか食べてはいけないし、大昔には生贄を捧げたりもしました。
すべて神の機嫌を取るためです。
「神が何かを必要とする−−それが手に入らなければ、怒って相手を罰すると考えるなら、あなたがたはわたしよりもずっと小さな神を信じることになる。あなたがたは劣った神の子だということになる。わが子たちよ、もう一度、はっきりと言う。わたしには必要なものはない。わたしは何も求めない。」
(「神との対話」p.91)
「存在のすべて」である神が、何かを必要とするという考え方がすでに矛盾しています。
これまでの私たちは、本当の神よりもずっと小さな神を信じ、怯えていたわけです。
そして、神に気に入られるように生きようと、努力を重ねてきました。
特に信心深い人ほど、そういう生き方をしてきたのでしょう。
「人生の目的は神を喜ばせることではない。人生の目的は、自分とは何者であるかを知ること、自分を再創造することなのだよ。」
(「神との対話A」p.70)
人生の目的は、神の機嫌を取ることではありません。
ここが、大きな違いなのです。
もちろん、だからと言って相手に失礼なことをしてもかまわないと言っているのではありません。
重要なのは、相手から怒られるからそれをしないという発想をやめることです。
そうではなく、自分がどう在りたいからそれを「する」、あるいは「しない」という選択をすること。
自分軸で生きることが重要なのです。
「不安でなければ正しい者にならず、正しいことをしないのか? おどかされなければ、「善良」にならないのか? 「善良である」とはどういうことか? 誰がそれを決めるのか? 誰が指針を示すのか?誰が規則をつくるのか?
言っておくが、規則をつくるのはあなたがた自身だ。あなたがたが指針を示すのだ。自分がどれだけ善良であったかを決めるのは、自分自身だ。あなたがたがほんとうは何者であるか、そして何者になりたいかを決めるのは、あなただ。そして、どこまで目的を果たせたかを決めるのも、あなただ。」
(「神との対話」p.62)
神は、踏みつけにされても怒りません。
問題は、神が怒るかどうかではなく、そういうことをする自分を自分がどう思うかなのです。
そして、その考え方(価値観)は人それぞれです。
神社で写真を撮る例でも、事前に断るのが礼儀だと考える人もいれば、そうではない考え方の人もいます。
そして、それぞれに正しいのです。
ですから、他人を裁く必要性はありません。
他人を批判非難する必要はありません。
ただ自分が正しいと思うことを、他人に関係なく自分がやれば良いのです。
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簡単に要約すれば、神社は神のお社だから、挨拶もせずに写真を撮りまくると神様が怒るという話です。
他人の家に上がり込むなり許可なく写真を撮れば、住人は怒るでしょう。だから、神も同じなのだと。
霊的なものが見える方のようで、神様が怒っていたり注意している写真をときどき見かけると言います。
祈祷中に写真を撮るのは、神様に対して失礼だとも書かれていますね。
心屋さんは、シェアした投稿にこう書かれています。
「神さまも
怒るんだね(・∀・)」
これは肯定しているようでもあり、我関せずという感じでもあります。
「神との対話」を読んでいる私としては、神様が怒るなんてことは絶対にあり得ないと思います。
人間が何かをしたら失礼だと感じて神様が怒るという発想は、それこそ神様への冒涜でしょう。
なぜなら、神様はそんなちっぽけな了見の持ち主だと言っているようなものですから。
「わたしがあるものを嫌い、あるものを愛する、そう思っているのかな? 言っておくが、わたしは何も嫌いはしない。反感ももたない。すべては生命であり、生命は贈り物だ。言葉にならない宝物、聖なるもののなかの聖なるものなのだよ。
わたしは生命だ。生命はわたしだから。生命のすべての面に、聖なる目的がある。
どんなものにも神が理解し、肯定した理由がある。」
(「神との対話」p.86)
このように、何かを否定するということはあり得ません。
神とは「存在のすべて」であり、神が受け入れたものしか存在していないからです。
また、神は「存在のすべて」ですから、何も必要とはしません。
人間から尊敬される必要もないし、丁寧に扱われる必要もありません。
「神は自我もなければ何かを必要とすることもない、存在するすべての源であり、すべての知識と愛の座であると考えるならば、あなたの神学はばらばらに崩れる。」
(「神との対話A」p.70)
つまり神は、そういう存在だと言っているのです。
まるで人間のような神を想像するから、神が怒ると考えるのでしょう。
何でもできる神を怒らせたら大変なことになります。
だから毎週礼拝を欠かしてはいけないし、豚肉とか牛肉とか食べてはいけないし、大昔には生贄を捧げたりもしました。
すべて神の機嫌を取るためです。
「神が何かを必要とする−−それが手に入らなければ、怒って相手を罰すると考えるなら、あなたがたはわたしよりもずっと小さな神を信じることになる。あなたがたは劣った神の子だということになる。わが子たちよ、もう一度、はっきりと言う。わたしには必要なものはない。わたしは何も求めない。」
(「神との対話」p.91)
「存在のすべて」である神が、何かを必要とするという考え方がすでに矛盾しています。
これまでの私たちは、本当の神よりもずっと小さな神を信じ、怯えていたわけです。
そして、神に気に入られるように生きようと、努力を重ねてきました。
特に信心深い人ほど、そういう生き方をしてきたのでしょう。
「人生の目的は神を喜ばせることではない。人生の目的は、自分とは何者であるかを知ること、自分を再創造することなのだよ。」
(「神との対話A」p.70)
人生の目的は、神の機嫌を取ることではありません。
ここが、大きな違いなのです。
もちろん、だからと言って相手に失礼なことをしてもかまわないと言っているのではありません。
重要なのは、相手から怒られるからそれをしないという発想をやめることです。
そうではなく、自分がどう在りたいからそれを「する」、あるいは「しない」という選択をすること。
自分軸で生きることが重要なのです。
「不安でなければ正しい者にならず、正しいことをしないのか? おどかされなければ、「善良」にならないのか? 「善良である」とはどういうことか? 誰がそれを決めるのか? 誰が指針を示すのか?誰が規則をつくるのか?
言っておくが、規則をつくるのはあなたがた自身だ。あなたがたが指針を示すのだ。自分がどれだけ善良であったかを決めるのは、自分自身だ。あなたがたがほんとうは何者であるか、そして何者になりたいかを決めるのは、あなただ。そして、どこまで目的を果たせたかを決めるのも、あなただ。」
(「神との対話」p.62)
神は、踏みつけにされても怒りません。
問題は、神が怒るかどうかではなく、そういうことをする自分を自分がどう思うかなのです。
そして、その考え方(価値観)は人それぞれです。
神社で写真を撮る例でも、事前に断るのが礼儀だと考える人もいれば、そうではない考え方の人もいます。
そして、それぞれに正しいのです。
ですから、他人を裁く必要性はありません。
他人を批判非難する必要はありません。
ただ自分が正しいと思うことを、他人に関係なく自分がやれば良いのです。
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