2017年04月01日
おくりものはナンニモナイ
パトリック・マクドネル氏の絵本を読みました。翻訳は谷川俊太郎氏です。
これも「なんていいんだぼくのせかい」で紹介したように、坂爪圭吾さんが「誰かに無理矢理にでも読ませたい本」と言われた本の1つになります。(ブログ「いばや通信」の記事「自分を殺してひとに好かれるくらいなら、自分を出してひとに嫌われるほうがずっといい。」の中の「わたり文庫」の項をご覧ください。)
物語のあらすじを紹介します。
猫のムーチは、大好きな友だちのアールに、何か贈り物をしようと考えました。しかし、アールは何でも持っています。そんなアールに何を贈ったらいいのか、ムーチは悩みます。
そして思いついたのが、「ナンニモナイ」ということ。何でもあるのだから、逆にナンニモナイが珍しいと気づくのです。
では、ナンニモナイはどこに行けば買えるのか? 探したけど見つかりません。仕方なく、いつもの場所にただ座ってじっとしていると、それが見つかりました。
ムーチは、ナンニモナイを箱に詰めて、アールに贈りました。アールが箱を開けると・・・。
この物語も、なんだか哲学的な話ですね。子どもにこれが理解できるのか?という疑問もありますが、子どもだからこそ素直に受け入れ、大人よりも楽しめる世界があるようにも思います。
こういう不思議な世界も、子どもたちの心を豊かにするのに役立つのかもしれませんね。
2017年04月02日
くまとやまねこ
この絵本も「なんていいんだぼくのせかい」で紹介したように、坂爪圭吾さんが「誰かに無理矢理にでも読ませたい本」と言われた本の1つになります。(ブログ「いばや通信」の記事「自分を殺してひとに好かれるくらいなら、自分を出してひとに嫌われるほうがずっといい。」の中の「わたり文庫」の項をご覧ください。)
作者は湯本香樹実(ゆもと・かずみ)さん、絵は酒井駒子(さかい・こまこ)さんです。本の帯には、「感動の声続々!19万部突破」と書かれており、人気の絵本のようです。
あらすじを紹介しましょう。
熊は、小鳥と一緒に暮らしていました。しかしある日、小鳥が死んでしまうのです。
熊は小鳥を箱に入れ、いつも持ち歩きます。しかし、悲しみは癒えません。
どれほどの月日が経ったのか、熊はふと遠くまで歩いてみたくなりました。川の土手へ行くと、そこに山猫が奇妙な箱の隣で寝ていました。
熊は山猫に、その箱の中を見せてほしいと言いました。すると山猫は、熊の箱の中を見せてくれたら、見せてあげてもいいよと言いました。
熊の箱の中を見た山猫は、熊の気持ちに寄り添います。そして、不思議な形の箱から楽器を取り出し、熊のために演奏するのです。
これもまた、哲学的な内容の絵本ですね。特に前半の熊の回想シーンは、深遠な内容が含まれていると感じました。
こういう絵本も、子どもたちの情緒の発展に役立つのかもしれません。大人が読んでも深く考えさせられる絵本。なかなか面白いと思いました。
2017年04月03日
森の絵本
今回買った最後の絵本を読みました。作者は長田弘さん、絵は荒井良二さんです。荒井さんの絵本は、すでに「なんていいんだぼくのせかい」という作品を紹介しています。
荒井さんは、絵本界では有名な方のようですね。帯に「子どもの本のノーベル賞「アストリッド・リンドグレーン賞」 日本人初 受賞作家・荒井良二の絵本!」と書かれていました。
この本もまた、かなり哲学的なと言うか、詩的な絵本になっています。
「どこかで よぶ声が しました。
でも 見まわしても だれもいません」
絵は、森の中の様子が描かれています。動くものは小鳥と蝶。何の声だかわかりません。どんな物語になっていくのでしょう?
「すがたの見えない 声が いいました。
「いっしょに さがしにゆこう」」
何の声だかわかりませんが、大事なものを探しに行こうと呼びかけます。そして、様々なものを見ては、それが大事なものだと言うのです。
最後にまた、森の中へ戻っていきます。そこで、おそらくその声の正体だと思われる存在が示されます。しかし、その姿は描かれていません。
何らかの価値観を押し付けるものではなく、自分の心の中に深く入っていくように誘う、そんな内容の本だと感じました。
これを読んだ子どもたちが、どんなふうに感じるのか、私にはよくわかりません。しかし、決まった答えがないからこそ、考える力が身につくとも言えますよね。
この絵本もまた、何とも不思議な内容でした。最近の絵本は、こういう傾向のものが増えているのかもしれません。
2017年04月04日
うまれるまえのおはなし
胎内記憶とか生前記憶を持つ子どもの話をよく耳にするようになりましたが、その内容を描いた絵本を読みました。作者はひだのかな代さんです。友人の城村典子さんがFacebookで絶賛お勧めされていたので、買ってみることにしました。
淡いピンク色で統一された絵本は、愛に包まれた魂の世界をイメージさせます。魂たちは、雲の上で神さまと一緒にいたと言います。神さまはそこで魂を創り、この世に産まれるまでの間、魂のお世話をするのだそうです。
そして産まれる時、魂は自分でお母さんを選びます。そして、1つだけお母さんへの贈り物を選んで産まれるのだと言います。
勇気のある魂は、あえて「病気」という贈り物を選ぶことがあります。持って生まれた障害や病気は、お母さんへの大きな贈り物でもあるのですね。
この絵本だけで、すべてのことを語るものではありません。本の帯に「親子で読んでほしい本」と書かれていますが、そうすることでお子さんの記憶を引き出すことになるかもしれませんね。
たとえお子さんがまったく覚えていないとしても、この本を読むことで、想像してみることができるかもしれません。実際、生前の記憶を持った子どもは大勢いるのですから。
2017年04月06日
お金のいらない国
ブログ「いばや通信」で坂爪圭吾さんが紹介されていた本を読みました。坂爪さんは「わたり文庫」と名付けて、自分がお金を払ってでも読ませたい本の循環を提唱されています。この本も、その一環として紹介されたものです。
「こちらの本は、数日前に東京の恵比寿でお会いした麗しき女性M様から「これって、愛だと思うんです」という言葉と共に託された稀有なる一冊になります。わたしも読みました。愛だ…愛た…非常に素晴らしい全人類必読の一冊だと思いました。」
坂爪さんがそこまで絶賛されるなら、読まないわけにはいきません。それで、一時帰国に合わせて購入してみたというわけです。作者は長島龍人(ながしま・りゅうじん)さん。私の友人にも龍人(りゅうじん)という名前の人がいるので、何だか親近感をいだきました。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
この本は物語になっています。主人公の普通の日本人男性が、ある日、まったく別の世界に入り込んでしまいます。そこでは、人々はとても親切で日本語が通じるのですが、1つだけでまったく違うことがありました。それは、「お金がない」ということです。
「要するに、このお金というものは、ものの価値をみんなが共通して認識するためのモノサシでしかないわけです。ですから、皆がそのまま仕事を続けていけば社会は回っていくはずなんですよ。」(p.35)
その国の住人は、主人公の男性にこう言います。つまり、私たちの社会からお金がなくなったとしても、みんなが仕事を続けるだけで社会は回っていくはずだと言うのです。
考えてみれば、その通りだろうと思います。お金に価値があるのではなく、物やサービスに価値があるのですから。それを生み出す仕事を続ける限り、お金を介さなくても困らないはずです。
それに、今の私たちの社会では、そのお金を管理するための仕事があります。銀行とか保険とか。そういう仕事は、お金がなくなれば不要になります。つまりその仕事は、社会を豊かにすることには、何も貢献していないということになります。
「今のあなたの国でも、お金に関わる仕事をしている人が全員、その仕事をやめてしまったとしても、みんな十分に暮らして行けるはずなんです。そんな、言ってみればムダなことに時間や労力を使っていたにもかかわらず、あなた方は今までやってこられたわけですから。」(p.35)
まさにそういうことになりますね。お金を管理する仕事がなくなり、そのための労力を他に使えるのだとしたら、もっと豊かになれると思います。
「仕事の目的は世の中の役に立つことです。報酬ではありません。報酬を目的にしていると、必ずどこかにゆがみが生じてきます。自分の行った仕事以上の報酬を得ようとしたり、必要のない仕事を無理に作って、自分の利益だけは確保しようとする動きが出てくるでしょう。そうなると、完全な競争社会になります。」(p.37)
まさにそれが、私たちの社会だと言えます。仕事の目的に「報酬を得ること」がある限り、ゆがみが生じるのですね。
わずか60ページほどの短い小説です。ですから、その気になれば10分やそこらで読めてしまうでしょう。けれども、この物語の中には深い気付きがあるように思います。
今すぐ実現しないとしても、いずれ社会はこうなっていくのではないか。そんな未来を予感させる物語だと思います。続編もあるので、また読んで紹介したいと思います。
2017年04月09日
本当に好きなことをして暮らしたい!
夢を実現するというテーマの本を読んでみました。著者はバーバラ・シェール氏、翻訳は永田浩子氏です。
ハードカバーではない新書版のペーパーバックだからということもあるのでしょう。300ページ以上もあるボリュームで1000円は非常に安いと思いました。
シェール氏は、キャリア・カウンセラーとしてクライアントの人生設計を助けてきました。その中で、自分の天職を見つけて、その仕事をするようになることが、自己実現にもつながるし、幸せにもなれる方法だと確信されたようです。この本には、どうやって転職を見つけるのかという具体的な方法が書かれています。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「好きなものというのは、指紋と同じくらいユニークだということを知ってください。なぜなら、「自分が好きなことをする」以外に、本当にあなたを幸せにするものはないからです。」(p.7)
ここでのポイントは、まず、好きなものはユニークだということです。同じ「犬が好き」でも、犬種に好みがあったり、接し方に違いがあります。それはどれが正しいとかスタンダードかではなく、それぞれの個性なのです。
次に、好きなことをすることが幸せにする方法だということです。バシャールなどはワクワクすることをやるよう勧めていますが、ここで言う好きなことと近い感じがします。
「ですから、自分自身をほめる代わりに、サポーターにほめてもらいましょう。自分自身に言い聞かせる代わりに、サポーターに助言を求めるのです。これはもっとドラマチックで楽しいので、あなたは孤児ではなく、彼らの秘蔵っ子のように感じるでしょう。」(p.70)
何か新しいことをしようとすれば、どうしても不安がつきまといます。その時、必要なのが勇気と安心感だとシェール氏は言います。それらを得るために、空想のサポーターを使う方法を説明しています。
このやり方は、私が勧めている「鏡のワーク」と似ていると思いました。自分だけの問題として捉えるのではなく、そこに第三者を作り出して、第三者の視点で問題を見るということですね。
「このようなやり方で、ただ単純に自分の感情を記録することは、あなたが自分を受け入れ尊敬できるようにしてくれます。それは、「私の感情はすべて正しい」とか、「私は素晴らしい人間だ」などの言葉を一〇〇回唱えるよりも効果があります。何かを記録するという行動は、あなたがそのことを受け入れている、ということだからです。」(p.106)
何らかの感情が沸き起こった記憶をたどり、それを記録するというワークについての一文です。アンガーマネジメントでも、怒ったことを記録するという方法を勧めています。自分の感情を受け入れるのに、感情が起こった出来事やその時の感情、そして何をどう考えたかを記録することが効果的なのですね。
「計画はまったくの作りごとなのです。書かれた通りに起こったものなど一つもありません。
けれども同時に、計画を立てるのは賢いことです。なぜなら、あなたが行動を起こすようにしてくれるからです。そしてその行動は、たくさんのうれしい偶然を引き起こしてくれるでしょう。」(p.251)
つまり、ものごとは私たちの思い通りにはならないけれど、行動することで導かれるということなのですね。その行動のために、何らかの計画をし、実行する必要があるのです。
人生は予測不可能であり、何がどうなるかはわかりません。それは悪い方向への変化もあれば、良い方向への変化もあります。いずれにしても、その変化によって、不可能だと思われるようなことが可能になるのです。
この本は、好きなことを見つけて、それを実際にやるためのステップが書かれています。このワークを一つひとつやっていくことで、自然と天職が見つかって、その仕事ができるようになるということです。
ただ、1つ残念なのは、とても読みづらいということです。おそらく原本がこうなのでしょう。段落はあるものの、段落と段落の間のスペースがあまりありません。そして文章の書き方も、結論を言わずに説明を延々と続けるような感じで、途中で飽きてしまいます。何の話をしたいのか、よくわからないからです。
そういうこともあり、読み出してもすぐに飽きてしまうため、1日に数ページずつ読むのがやっとで、読み終えるのに1ヶ月近くかかってしまいました。その間に他の本を何冊も読んだほどです。
そういうことはありますが、シェール氏が勧めている方法がダメということではありません。ワクワクする人生に至るための1つの方法として、有効なものではないかと思っています。
2017年04月10日
「怒り」が消える本
野口嘉則さんのオンラインセミナーで課題図書に指定された本を読みました。著者は水島広子さん。聞き覚えのあるお名前だと思ったら、やはりそうでした。ブログ記事「愛とは、怖れを手ばなすこと」で紹介したもう1冊の本「怖れを手放す」の著者でした。
最近はアンガーマネジメントという言葉をよく聞きます。怒りやイライラから解放されたいという方が多いのだと思います。かく言う私も、実は気が短い方だと思っています。以前ほどはイライラしなくなりましたが、それでもまだ、そういう傾向があります。ですから、期待をもって読んでみました。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「怒りは「結果」です。「ひどい」と思う何か(原因)があったとき、結果として出てくるのが「怒り」という感情です。「結果」に過ぎない「怒り」を押さえ込もうとすると、かえってひどくなったり、爆発したりすることもあります。
しかし原因を取り除けば、もちろん結果である怒りもスーッと「消える」のです。
本書では、その、「原因の取り除き方」をご紹介していきます。」(p.3)
本の冒頭、「はじめに」の中で、水島さんはこう言います。「怒り」は結果なのだから、原因にアプローチすることが重要なのですね。「怒り」そのものを我慢したり、コントロールしようとしてもダメなのです。
「痛みを感じることは悪いことではなく(不快なことではありますが)、その「原因」に気づくチャンスを与えてくれるものです。
怒りも全く同じで、怒りを感じることが悪いことなのではなく(不快なことですが)、その「原因」に気づくチャンスを与えてくれるもの、と考えると、「怒り」の感情と前向きに取り組んでいくことができると思います。
怒りのこうした役割を知ることが、怒りをコントロールする第一歩となります。」(p.28)
怒りと痛みを比べて、同じようなものだと言います。怒りは、精神的に問題が起こったと感じることで出てくる感情ですから、その原因に気づくチャンスなのですね。だから「怒り」という感情を抑え込もうとするのではなく、チャンスと考えて感謝して、その原因を探る方が得策なのです。
「怒りにふりまわされず、怒りを本来の役割通り「対処すべき問題のサイン」として活用するためには、まず「怒りの感情」をそのまま受け入れる必要があります。」(p.35)
ですから、怒りに任せて相手を攻撃したり、怒りが湧いた自分を責めたりしてはいけないのです。「怒りが湧いてきたんだなあ」と受け入れることが重要なのです。感情は感じる(=受け入れる)ことが大事で、対処はその後のことですから。
「とにかく、自分がとっさの怒りにとらわれたときには、「単に自分の予定が狂ったから困っているのだ」と思ってみましょう。
これは、おもしろいくらいに、あらゆる状況に当てはまるはずです。
そういう視点を持つだけでも、「とっさの怒り」は手放しやすくなります。」(p.43)
「自分の予定が狂った」というのは、言葉を変えれば「思い通りにならない」ということです。釈迦は「思い通りにならない」ことが世の中の苦しみの原因だと言っています。ですからまずは、怒りに振り回される前に、「自分は何かが思い通りにならなかったから怒ったのだ」と考えてみることなのですね。
「電車で化粧をしている人を同じように見ても、ほとんど気にしない人もいるでしょうし、怒りを感じずに、ただ興味深く見つめる人もいると思います。
これはそれぞれがどれだけ我慢しているか、つまり「我慢度」の問題と言えるでしょう。自分も好きなようにやっているという人の場合、他人の異常な行動に寛容になりやすいのです。」(p.50)
電車内の化粧とか携帯電話の通話など、それを迷惑と感じるかどうかは人それぞれです。それを「我慢度」の違いだと説明されています。こういうことを理解することも、怒りをコントロールできるようになるには大切なのです。
「つまり「怒り」は「困ってしまった自分の心の悲鳴」ととらえることができるのです。この視点の転換はコントロールを取り戻すために大きく役立ちます。」(p.53)
怒っている人は、その問題を自分には対処できないと感じ、「助けてくれー!」と叫んでいるのと同じなのですね。したがって、何かを問題と感じ、それが非常に大きな問題だと思い、自分にどうしようもないと感じた時、怒りはピークになるのです。
「自分が期待した通りの役割を相手が果たしてくれていれば、また相手が自分に期待している役割が自分も引き受けたい役割であれば、ストレスはありません。しかし、相手が自分の期待通りに動いてくれなかったり、相手が期待してくることが、「やりたくないこと」や「できないこと」だったりすると、ストレスになります。
相手との関係の中で「怒り」が起こるとき、そこには必ずこうした「役割期待のずれ」があると言ってよいでしょう。」(p.56)
相手に何かを期待して応えてくれない(=思い通りにならない)とか、相手が自分が許容できる以上の期待を自分に対してかけてくる(=思い通りにならない)ことが、イライラや怒りの原因となるのです。
「多くの怒りが、「相手を変えようとする不毛な努力」の中で起こってきます。
「不毛な」と書いたのは、人は変えることができないからです。
相手を変えることができると思っていると、怒りから解放された人生を送ることはできません。」(p.71)
これもよく言われることですね。相手は変えられません。なぜなら、相手は相手の論理(価値観)にしたがっているからです。ですから、相手を変えようとして文句を言ったり、アドバイスすることは意味がないのです。
「それでは成長がないではないか、と思うかもしれませんが、もちろんそんなことはありません。
人は基本的には前進する生き物なので、環境さえ整えば変わっていきます。人を変えることはできませんが、人が変わりやすい環境を作ることはできるのです。
ですから、叱って相手を変えようとするのではなく、何が相手の変化を妨げているのかをよく調べて、その障害を取り除いてあげた方が効果的です。」(p.74)
相手を変えようとするのではなく、相手自身が変わろうとするよう仕向けることですね。
「「評価」というのは、自分なりに現実を解釈しようとする試みなのですが、往々にして相手にとっての現実とはずれているものです。それを「あたかも真実のように」相手に押しつけるのは、とても暴力的なことです。」(p.91)
たとえば「仕事人間」とか「だらしない」というのは、相手への評価なのです。それをあたかも真実であるかのように相手に押しつけるから問題が起こります。
「相手に伝えるべきは「どうしてほしいか」であり、「自分がどういう評価を下しているか」ではないのです。」(p.91)
相手にレッテルを貼る(=評価する)のではなく、その状況で自分がどうしてほしいかを伝えればいいのです。
「主語を「あなた」にして相手の話をすると、必ず相手に評価を下すことになってしまいます。前述しましたが、評価を下されると人は自分を守ろうとしますので、相手に対して協力的になりにくくなります。自分の事情だけを話して、協力を依頼するのが、最も効果的なやり方なのです。」(p.93)
いわゆる、You(ユー)メッセージではなくI(アイ)メッセージで伝えるということですね。相手に強制するのではなく、自発性に任せて協力してもらうのです。
「なぜ私たちがあいまいなことを言ったり、間接的なコミュニケーションをしたりするのかと言うと、それは、「直接言うと角が立つ」からです。
でも本当にそうなのか、ということを見ていくと、そこで「角が立つ」と思われるコミュニケーションは、「君は案外だらしないんだね」というように、「あなたは」式のものであることがほとんどなのです。」(p.94)
たしかに、直接言うと角が立つと思って、言えないということがありますよね。それを水島さんは、「あなたは○○すべき」のように言うから角が立つのだと言います。これを「私は○○してほしい」と伝えれば、角が立つことは少ないのだと。
「自分の事情を話して協力を依頼するのはよいのですが、要求してしまうと、相手を追い詰めることになり、得られる協力も得られなくなってしまいます。
「○○してくれるとありがたいんだけど」という距離感が「依頼」です。相手には断る自由もありますし、協力の形を変えるという選択肢もあります。
一方、「要求」は息苦しく迫ってくるもので、「○○しなさい」という命令にも近いものです。断る自由も、内容を修正する自由も感じられないことが多く、それを自分に対する脅威と感じて防御したり反撃したりしてしまう人もいます。」(p.96)
私がどうしてほしいかという気持ちを伝えるにしても、「要求」ではなく「依頼」でなければいけないと水島さんは言います。「要求」だと、相手への評価と同じ意味になるのです。
「評価という銃弾に当たらないように、ただ受け流すのが最も安全です。そのためには、「相手の評価に対して、何の評価も下さない」という姿勢がよいのです。
お勧めは、「ふうん、ダサイと思うんだ」「ああ、そう思う?」などと、発言を受け止めずにただそのまま返す、というやり方です。」(p.102)
他人から評価を下されて、それを真に受けると、それが怒りになります。ですから、それは他人の勝手な評価だから、好きに言わせておけばいいのです。その言葉の意味を受け止めるのではなく、相手がそう言ったという事実だけを受け止めるのです。
「ちなみに、これは単なる切り返し方の話ではありません。評価というのはあくまでも相手が相手の領域内で下しているもの。「ふうん、そう思うんだ」という以上の何ものでもありません。それを「自分への攻撃」と解釈してしまうから、「被害」が生じて、怒りが湧いてくるのです。」(p.103)
評価は相手が勝手にやることなのです。勝海舟は、福沢諭吉の評価に対して、このように返してます。「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張。我に与らず、我に関せずと存候。」毀誉(きよ)とは評価のこと。まさに、「好きに思えばいいよ」という対応でした。
「つまり、「被害者でない人は怒りを感じない」と言ってよいと思います。
ですから、起こってしまった怒りをどうするか、という以前に、そもそも自分は本当に被害者なのか、ということを検証してみるとムダに怒らずにすみます。」(p.112)
自分が被害にあったことを知らせてくれるのが「怒り」という感情でした。そこで、本当に自分は被害者かと問い直してみることがよいと、水島さんは言われます。
「反射的な怒りを感じたとしても、どういう受け取り方をするかは自分で選ぶことができるのです。」(p.113)
反射的に怒ることを防ぐのは難しくても、怒りを相手にぶつけたり、イライラし続けたりしないようにすることはできるのです。その方法が、「本当に被害者か?」と考えてみることなのです。
「こうして見てくると、私たちは出来事そのもの(相手の長電話)によって傷つくわけではなく、自分がそこに乗せるストーリー(自分が粗末にされた)によって傷つく、ということがわかります。相手が長電話をしたとしても、そこに「自分が粗末にされた」というストーリーを乗せなければ自分は傷つかないのですから、自分が傷つくかどうかを最終的に決めるのは自分、ということになります。」(p.116)
自分が被害者になるのは、出来事が原因ではありません。その出来事に対して自分がどう解釈したか、どういう意味付けをしたかにかかってきます。つまり、自分で選べるのです。
「自分が「被害」に遭った、と思う度に、「そう断言できるほどの証拠がそろっているだろうか?」と考える習慣を身につけるとよいでしょう。
「ほぼ確実」と感情が言っている場合でも、「本当にそうなのか」「違う可能性もあるのではないか」と考えてみます。」(p.118)
相手がどう考えているかは、相手に尋ねてみなければわかりませんし、相手が本当のことを答えるかどうかもわかりません。それに、相手の答を誤解することもあります。つまり、どうしたところで真実はわからないのです。
ですから、出来事の解釈には必ず自分の思い込みが入っていると言えるでしょう。それがわかっていれば、自分が勝手に作った解釈だと思えて、怒りを手放すことができるのです。
「現実に乗せてしまう自分の「ストーリー」とは、現実に対して自分が下している評価にほかなりません。
評価は暴力だということを90ページで述べましたが、実は、評価はそれが向けられる相手に対して暴力的であるだけでなく、評価を下している本人にとっても毒になります。」(p.120)
出来事の解釈そのものが「評価」だと水島さんは言います。そしてそれは、評価した相手に対する暴力だけでなく、評価した自分への毒でもあるのだと。
これは、他人を評価する人というのは、自分がどう見られているかを気にする人だからです。つまり、他人の評価に怯えている人ということです。そういうビクビクした状態でいるわけですから、それが毒だと水島さんは言います。
「「自分なりの正義」を主張し続けると、それは必ず他人の正義とぶつかることになります。一人ひとりの事情が違う以上、それは当然のこと。「自分が正しい」と言うと、相手は「こちらこそ正しい」と言います。これは綱引きのようなもので、「自分が正しい」と綱を引っ張った分の力で、相手は引っ張り返すのです。どちらかがやめない限り、綱引きは延々と続き、怒りからは解放されることがありません。」(p.124)
まさに、戦争は互いの正義のぶつかり合いですからね。互いが正義を主張し合う限り、最終的には戦争になってしまいます。
「怒りを手放すためには、「正しさの綱引き」から手を放さなくてはなりません。
それは、「あなたが正しくて私が間違っている」と認めることではありません。「どちらが正しいか」という「評価の次元」から脱するということです。
もちろん自分の考えを曲げる必要はないですし、大切にしている価値観は大切にしたままでよいのですが、「相手には相手の事情がある」ということを認め、どちらの正義が正しいかを決めない、という姿勢をとるのです。」(p.125)
正義の比較をしないことは、相手の正義を受け入れるということではないのです。違いがあること受け入れるということです。自分の正義(価値観)を相手に押し付けようとしないということです。
実に読みやすい本で、あっと言う間に読めてしまいました。それなのに、これほど引用したくなるほど、重要なことが書かれています。
怒りをコントロールしたい人はもちろん、よく生きたいと思われている方にもお勧めの本だと思います。
2017年04月22日
母という病
野口嘉則さんのオンラインセミナーで勧められていた本(新書版)を読みました。著者は精神科医の岡田尊司(おかだ・たかし)氏です。
タイトルからは少しわかりづらいかもしれませんが、本の帯にこう書かれています。「母親という十字架に苦しんでいる人へ。」つまり、母親が原因で精神的に苦しんでいる人に、楽になる生き方を提供するものです。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「でも、それは当たり前のことだ。子どもは、母親の愛を求めるという本性をもって生まれてくるから。
子どもの何よりもの願いは、母親に愛されたいということだから。
それが得られないと、生涯にわたって、それを求め、そこにこだわり続けることになる。それは悲しいまでの定めだ。」(p.11)
すでに大人になった人であっても、子どものころ母親から愛されたかったという気持ちを持ち続けると言います。それはどんなに表面的に否定してみても、否定しきれないもの。だから「本性」だと言うのです。
「母親に愛されたいがゆえに、子どもは母親の期待することに応えようとする。
しかし、いつまでもその関係を続けることは、子どもが自分自身を確立し、自立していくというプロセスを妨げてしまう。」(p.12)
子どもの本性として母親から愛されたいと思い、そのために母親の期待に応えようとする。けれども、そうしていると自立ができなくなるのですね。それこそが、まさに「母という病」なのです。
「母という病は、単に親子関係の問題ではない。
それが重要なのは、母親との関係がしっくりいかないということが、決して、母親との関係だけに留まらず、人生全体を左右する問題だからだ。」(p.18)
母親との関係が、その後の人生での人間関係にも影響する。それによって、人生全体が影響を受けるのです。
「これまで母という病のネガティブな側面を中心にみてきた。しかし、幸いなことに、母という病を抱えるということは、決してマイナス面ばかりではない。」(p.60)
母親から愛されなくて育つことは、決してマイナスばかりではないと言います。つらい人生かもしれませんが、それだからこそ開花する才能もあるのです。たとえば、ジョン・レノン氏の音楽の才能も、母親との関係があったからだと言っています。(詳細は本をご覧ください。)
「基本的安心感とは、世界や自分といったものを無条件に信じることができることだ。基本的安心感がしっかり備わっている人は、何が起ころうとどうにかなると、未来を信じることができる。誰かが助けてくれると、楽観していられる。」(p.74)
必ず助けが来ると信じること。これが重要だと、本田健さんの小説「ユダヤ人大富豪の教え」の中にも書かれていました。この本では、心理学的な面からそう言っていますが、「脳の分子レベルの研究から」も、裏付けられていると書かれています。ただ詳細な説明はないので、何とも言えませんが。
「母という病を抱えた人は、安全基地をもたないがゆえに、手近に得られる慰みに依存してしまいやすい。安らげる港を、手っ取り早い仕方で求めてしまう。過食や買い物、アルコールや薬物といったものは、そのありふれた候補だと言える。対人関係や不安定な恋愛に次々のめり込むことも多い。それによって、激しい刺激や刹那的な満足を得ることで、つかの間でも、不安な気持ちを忘れようとする。」(p.132)
薬物依存などの依存症が問題になりますが、その原因は、実は「母という病」にあるのだと言います。心に安全基地がないため、常に不安にさらされているからですね。
「母という病を抱えた人は、大きく二つに分かれる。小さい頃から何かと問題を起こして親を困らせていたか、逆に、手のかからない良い子で、「反抗期がなかった」と言うくらい、見かけ上、母親との関係が良かったか。
早くから問題が出るケースは、それだけ問題が深刻なことが多いが、必ずしも、結果が悪いわけではない。問題を噴出させることで、否応なしに親がかかわるようになり、状況が改善し、大人になった頃には、だいぶ落ち着いているというケースも少なくない。
良い子を続けてきたケースの場合は、一見問題はそれほど深刻でないかのように思える。しかし、長年我慢し、問題の噴出を遅らせた分だけ、ダメージが広がり、取り戻すのが容易でない面もある。」(p.243 - 244)
いわゆる不良少年や非行に走るケースと、逆に良い子になるケースがあるそうです。そして、より深刻なのは、良い子になるケースなのですね。
「まだ子どもの場合には、親が変わると、子どもは劇的に変わる。もう大人になっている場合には、もう少し時間がかかり、傷の深さによっても違ってくるが、親が本気で考えや行動を変えた場合には、大きな変化が現れる。
だが、親が自分の非を顧みず、子どものせいだけにして、変わろうとしない場合には、回復の過程はより難しいものとなる。残念ながら、こうしたケースの方が多いのが実情だろう。」(p.244 - 245)
「母という病」は、親が変われば治るということです。それも、早ければ早いうちに変われば、より効果的だと言うことですね。
「逆らったことのない母親と激論を戦わして、それでも母親が受け入れてくれないと、宮崎は悔しさで、涙さえ流すこともあったという。そのぶつかりあいと涙が、宮崎がずっと我慢していた何かを吹っ切るうえで重要だったように思える。それは親の支配を脱し、自分自身のアイデンティティを確立する大きな一歩ともなったはずだ。」(p.264 - 265)
これは映画監督の宮ア駿氏の話です。彼もまた「母という病」を引きずっていたようです。前のジョン・レノン氏の例もありますが、この病によって才能が開花することがあるのですね。
「顔を合わせれば傷つけられるか、振り回されるかという状況が繰り返される場合、親とかかわりあうことは、余計に子どもを不安定にし、問題をこじらせていく。母という病が深刻な場合ほど、こうしたことが起きがちだ。
その場合、悪循環を防いで安定を取り戻し、自己確立を遂げていくためには、母親から適度な距離をとることが必要になる。」(p.265 - 266)
前に、親が変われば子どもの状態は改善するという話がありました。しかし実際は、親が変わるのを待っていても、なかなか難しいものがあります。そこで、側にいて振り回されるくらいなら、いっそのこと距離を置いた方がよいと言うのです。
私は、母親に振り回されていたというほどのことはないのですが、やはり親からの影響があって、内向的な性格になっていたと思います。それが改善されたのは、大学に通うために一人暮らしを始めたことが大きいと思っています。強制的にでも離れると、変化が現れるようです。
「そもそも自立という関門は、ある意味、母親に見切りをつけるプロセスだと言える。それは、なかなかつらいことだ。後ろ髪をひかれる思いに駆られる。たっぷり甘えて、愛情をもらった人の方が、この関門を容易に通過できるのだが、母親に愛されなかった人ほど、未練が強くなる。」(p.271)
母親に愛されたいのに愛されないという経験は、母親への依存を生じさせます。だからなかなか親離れできないのですね。
「自己否定を抱えた人ほど、それから逃れるために、理想的なもの、完璧なものを求めようとする。完璧な自分は、良い自分。不完全な自分は、悪い自分。その二つしかないのだ。」(p.278)
自分に自信がないと、完全主義者になりがちです。完全にできることしかやらないのです。失敗する(=不完全)ことが怖いから。
自分で自分を否定しているので、他者からの評価を必要としています。そういう子どもにとって、他者から(特に母親から)否定されるということは、耐えられないことなのです。だから完璧を求めるのですね。
「「良い子」に未練があるのは、親に愛されたいから。だが「良い子」の自分に縛られる限り、親の支配を脱することはできない。自立した大人にはなれない。
「悪い子」の自分も、また大切な自分だということ。「悪い子」の自分を受け入れたとき、人は一人前に一歩近づく。」(p.279)
親に依存している限り、自立はできません。自立するには、親への依存を断ち切ることです。それは、親の評価に左右されないで、ありのままの自分をすべて受け入れることなのです。
「母親から愛情をもらえず、母という病を抱えた人は、しばしば自分が誰かの親代わりの存在になることで、自分に得られなかったものを他人に与え、それによって自分の抱えた傷を乗り越えようとする。本来は母親から優しい愛情と世話を与えられることによって育まれる愛着を、自分が小さな存在に対して母親の役目を行うことによって育み直そうとする。」(p.290)
母親から愛されなくて「母という病」を抱えた場合、後にパートナーやカウンセラーの支援を得たとしても、その病を克服するのは困難だと言います。では、どうするのか?
それが、自分が他の誰かを愛することなのですね。対象は、子どもであったり、ペットであったりします。自分が与えられなかった愛情を、他者にたっぷりと与えることで、自分の傷が癒えるのです。
「母という病に苦しんできた人は、大抵否定されたり、傷つけられたりした人なので、何気ない素振りや意味のない表情にも、敵意や怒りを感じてしまう。いつも自分が恐れてきたものが、見えてしまうのだ。
余計なことに傷つかないためには、どうしたらいいだろう。
その一つは、自分に言い聞かせる言葉を使うことだ。たとえば、「他のことに気を取られていたんだ。別に意味はない」と言い聞かせる。」(p.299)
私にも経験があります。ある時、数人で座っていたのですが、エアコンの風が当たって寒かったので、そう言いながら席を移ったのです。すると後から隣りにいた人が、「私のことが嫌いだから逃げた」と言って泣き出しました。その人からすると、何気ない私の行為の中に敵意を感じたのでしょう。
私にそういう意図がなかったのは明らかです。出来事は同じでも、解釈は複数あります。だから、自分はそう感じるかもしれないけど、他の見方もあるということを知っておくことが重要ですね。そして、そのことを自分で自分に言い聞かせるのです。
「そこまで何もかも知り、事実と向き合うことで、彼女は母親を許すことができたのだ。その事実は、決して彼女にとって都合の良いことばかりではなかった。それでも、母親という人間を客観的に理解することによって、自分が受けた傷の意味を知り、それを乗り越えることができたのだ。
だが、何よりも、彼女が母親を許すことができたのは、彼女がそうすることを望んでいたからだろう。
子どもは、親を怨みたくなどないのだ。本当は、母親を許したいのだ。その手がかりが欲しいのだ。」(p.312)
ジェーン・フォンダさんの例です。彼女は、母親の診療記録まで取り寄せて調べ上げ、母親がどういう人生を過ごしたのかを客観的に理解しようとしたのです。そのことによって、母親もまた弱い1人の人間だと認めることができて、母親への怨みを手放せたのでしょう。
後半にあるように、どんなに恨んでいても、子どもは母親を愛したいものなのですね。憎み続けたくはないのです。許したいのです。それだけに、なんだか切なくなります。
「子どもは親を許したい。親のことを恨んで暮らしたくなんかない。恨み続けることは、否定を抱えながら生きるようなものだからだ。自分の一番大切だった人を否定するということほど、悲しいことはない。」(p.315)
「親に対する否定的な思いが薄らいでいくにつれて、他の人に対しても、思いやりをもち、優しくなれるようになる。
また、自分に対する否定的な思いも薄らいでいき、肯定的な思いが高まっていく。
親に対する否定的なとらわれが、自分に対しても、他者に対しても、否定的な気持ちを生み出していたのだということに気づくだろう。」(p.317)
「母という病」は、母親との関係だけでなく、他者との人間関係にも影響を及ぼします。それは、その病が自分への評価(自信)に影響しているからで、その自分への評価が他者との間に反映されるのです。
「そして、ある日、まるで自分を蝕んでいた害毒が、透明な結晶となって固まり、取り出されるように、心から剥がれ落ちる。
そのときには、自分を苦しめてきたものさえも、特別に大切な宝物になっているだろう。その苦しみさえも、今の自分となるために不可欠なものだと、受け入れられる時がくる。」(p.317)
愛されない苦しみ、自分を信じられない苦しみがあったからこそ、本当の愛を知ることになるかもしれません。そうなった時、その苦しみこそが自分を育ててくれたと知るのですね。そして、愛してくれなかった母親にも、心から感謝したくなるのです。
「社会の近代化は、母親と子どもを孤立させ、子どもが母親から支配されやすい状況を生んだ。母親は忙しすぎて、子どもにかかわる暇も十分になかったり、不在がちな父親に代わって、子どもを厳しく指導しなければならない。だが、そんなスーパーマンのような母親を子どもは求めているだろうか。子どもは、明るく優しく、困ったときに、そっと寄り添ってくれるお母さんでいてほしいだけではないのか。
豊かで快適になったはずの社会は、子どもから、本来の母親を奪ってしまってきたように思える。それが、母という病の増加をもたらしている大きな原因ではないだろうか。」(p.321)
経済的に発展して豊かになった一方で、母親が忙しくなったことが、「母という病」の増加の原因だと主張します。たしかに、そういう一面もあるかもしれませんね。
母親から愛されないことが、様々なことに影響してくる。このことは、私も感じていました。この本では、多くの実例、特に有名人の例をあげながら、「母という病」の影響を解説しています。
本の帯に「読むカウンセリングとして大反響!」と書かれています。たしかにこの本を読むと、自分の心の内が理解されたような気がして、満たされた気持ちになるかもしれませんね。
2017年04月23日
DREAM ドリーム
犬飼ターボさんの本を読みました。犬飼さんの小説は、成功小説というジャンルで、日本では草分け的な存在です。
この本は、以前に紹介した「CHANCE チャンス」の続編になります。犬飼さんによれば、これは成功者シリーズ3部作の第3部になるのだそうです。
ちなみに「CHANCE チャンス」が第2部です。第1部が最後になるというのも変ですが、第2部、第3部の主人公である泉卓也の、最初の師である弓池を主人公としたものだそうです。タイトルは「トレジャー」で、これもまたいつか、紹介したいと思います。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。ただ、小説ですので、ネタバレにならないように大まかなあらすじを書きます。
主人公は、整体院を2店持つまでになった泉卓也です。ところが好事魔多しと言いますが、恋人に溺れ、本業がおざなりになって行きます。そして、支店を任せていた清志の横領によって、支店をたたむことになります。
1店舗になって収入が減った卓也は、お世話になっている石田の甘い話に乗ります。その一方で、不労所得について教えを請うために、湯沢に100万円払うのです。その結果、・・・。
波乱万丈の卓也の人生ですが、最後はハッピーエンドになるが成功小説のお決まりです。ただ、その中において、卓也は様々なことを学びます。その学びこそが、犬飼さんが読者に伝えたいことでもあるのです。
「誰でも親に対する復讐心を持っているものなんだ。復讐を成し遂げても苦い思いしか残らないものでしょ? でもね、ほとんどの人は一生気づかずにそれを続けているよ。何かをするときに、認めてくれなかったじゃないか、愛してくれなかったじゃないか、という復讐心を動機にしそれを始めてしまうと、手に入れるまでのプロセスもイライラしたり恐怖を感じたりと苦しくなるだろうし、将来せっかく手に入れても嬉しく思わないだろうね」(p.174 - 175)
卓也のメンターである湯沢の教えです。同じ成功を目指すにしても、動機が何かが重要なのです。動機が復習なら、たとえ成功しても幸せにはなれない。そう湯沢は言うのです。
「卓也は完成したプランを見て、ここ数年の経験が活かされていることに満足した。今までの出来事は、これを完成させるために起きたのだとさえ思えるようになった。」(p.255)
人生で起こる出来事は必然でムダがない。私もそう常々言っています。どんなひどい出来事も、最悪な事態も、すべては自分を良くするために起こります。卓也も、そう感じたのです。
ビジネスのこと、不労所得のことなど、具体的な指針が盛り込まれています。ですがそれ以上に、本質的なものの考え方が書かれていて、それを読むと感動するのです。
一度は上手く行きかけても、それで終わりにならないのが人生です。挫折があるからこそ学びも大きく、それによってより進化成長できるのです。自分の人生と比較しながら、読んでみてはいかがでしょうか。
2017年04月25日
「好きなこと」だけして生きていく。
心屋仁之助さんの本を、久しぶりに読んでみました。最近はFacebookの投稿やブログを読んだりもするので、あまり本を読もうとは思っていませんでした。どんなきっかけか忘れましたが、おそらく心屋さんの武道館ライブへ行ったことが理由かと思います。それで読みたくなって買った2冊のうちの1冊です。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「自分には価値がないと思っている→価値を認めてもらえるように頑張る→でも頑張っても報われない→ますます自分には価値がないと思ってしまう。
この悪循環をひっくり返すだけです。
(中略)
自分には価値があると思ってみる→価値があるから頑張らず自然体でいると、成果が上がる→頑張らなくても報われる→ますます自分には価値があると思うようになる。
このように現実が逆になるのです。スタートは”自分には価値がある”と思えるかどうかにかかわらず、”価値が有ることにする”ところがポイントです。」(p.29)
心屋さんも昔は、頑張って頑張って生きてきたのだそうです。なぜ頑張るかというと、頑張らないと自分に価値がないと感じていたからだと。
しかし、自分に価値がないと信じているのですから、頑張っても報われないことになります。そこで、自分はダメなんだと意気消沈するか、さらに頑張って価値を得ようとすることになります。さらに頑張る道は、いつか自滅する道なのですね。
そこで心屋さんは、前提を変えようと思われたのだそうです。まず自分には価値があると決める。そうしたところ、流れが変わったのだと言います。
「僕たちが電気の粒でできているということは、つまりは僕たちは神様でできている!?
だから、価値が無いということは絶対ないのです。
僕たちは神様(の一部)なんですから。」(p.35)
心屋さんが本気で言われているのかどうかはわかりませんが、心屋さんもついに「神」を語り始めたのですね。斎藤一人さんや小林正観さんなども、やはり「神」を語られる方々です。心屋さんのは心理学というよりスピリチュアルだと思っていましたから、こうはっきり言われる方が納得します。
「好きなことをしようと思ったら、人に迷惑をかけて、嫌われる覚悟がいります。
安定を手放すとか、収入をなくすとか、築いてきた地位や立場を捨てるとか、とにかく一番恐ろしくて、絶対それだけはあり得ない、というところに飛び込まないと、好きなことをしては生きていけません。
つまり好きなことをするには一番嫌なことをしなければいけないのです。
でもラクなことというのは、人から嫌われないようにすることです。
人から批判されたり、憎まれたり、無能だと思われたりして、自分の周りに波風がたつのはラクな生き方ではありません。
だから上手に嫌われないことばかり選んで逃げ回っていくのがラクな生き方です。」(p.77)
好きなことをするとか、自分らしく生きるということは、自分を最優先にすることです。それによって、他人の意向をないがしろにする覚悟がいります。
他人の意向を優先して自分を犠牲にするのは、ラクな生き方だと言います。ラクをしていれば自分が好きなようには生きられない。どっちを選択するのか、という問題なのですね。
「でも、本当に好きなことだけしていたら、生きていけるのでしょうか?
そんなことをしたら、収入がなくなってしまうのでは?
生活していけるのか?
お金がなくなって、ホームレスになったらどうしよう?
みんなからバカにされて、誰も相手にしてくれなくなったらどうしよう?
たくさんの「もしそうなったら」が浮かんできます。
でも、今、あなたはそうなっていませんよね?
まだそうなっていないのに、なぜ未来のことを心配するんでしょうか?
もしそうなったら、そうなったときに考えてみませんか(怖いね)。」(p.82 - 83)
これは今、私が直面していることだけに、心に響きました。好きなことだけしてて、本当に生活ができるのかという疑問は、常にありますから。他人からバカにされるという心配は、もうほとんどありません。でも、収入がなくて生活できないという不安はあります。
しかし、収入などなくても生きていけている、というのも事実です。今は貯金を取り崩しながら、生活できていますから。だから、お金がなくなった時はなくなった時で考えよう、と思っています。
私の考えは、「神との対話」などから得たものですが、心屋さんも同じようなことを言われていますね。だからスピリチュアル系だと感じるのです。
他にもいろいろ書かれていますが、心屋さん自身が書かれているように、特に目新しい理論が書かれているわけではありません。「神との対話」などで書かれているようなことが、別の言葉で書かれているだけです。
けれども、心屋さんが自分の人生で実証してきたことがベースにあるだけに、説得力があります。私も心屋さんの武道館ライブへ行って、初めて生で心屋さんとお会いしました。その人柄に触れて、やっぱり本物だなと感じたのです。
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