9月1日に、妻と一緒に映画を観に行きました。いろいろ迷った挙句、あまり期待もせずにタイのラブコメディーを観ることにしました。
タイトルは「แฟนเดย์..แฟนกันแค่วันเดียว」です。「フェーン・デー..フェーン・ガン・ケー・ワン・ディァオ」と読みます。
「フェーン」はタイ語で「恋人」です。「デー」は英語の「Day(日)」です。タイ語は後ろから修飾するので、「1日の恋人」となります。
サブタイトルは、「たった1日だけの恋人」という意味ですね。
タイのラブコメディーは、笑いあり、涙あり、ロマンスありと、なんでもてんこ盛りにするのが普通です。この映画も、そんな感じで展開しました。
そしてラストは・・・。切なくて、泣いてしまいました。そして、本当の愛とは何かを、考えさせられたのです。
こんな深い内容とは、思ってもみませんでしたよ。今年一番のオススメ映画として紹介したいです。
おそらく、日本で公開されることはないでしょうから、もしDVDが発売されたら、それをご覧ください。間違いなく、素晴らしい作品です。
かなりネタバレになりますが、内容を説明しておきますね。(映画で楽しみたい人は、読まないでください。)
主人公の男性デンは、同じ職場のある女性のことが大好きでした。彼女のことは何でも知りたい。どんな食べ物が好きなのか、どんな音楽が好きなのかなど、彼女のことを知ろうとします。
そして、彼女が困っていると、ひそかに助けたりします。自分がやったとは言わずに。
しかし、彼女には恋人がいます。同じ職場の上司で妻子持ち。つまり、不倫なのです。
そんなある日、職場で北海道旅行をすることになりました。デンは彼女を見守りますが、彼女は恋人とずっと一緒です。
しかしそこに、上司の妻子がやってきました。上司と一緒に、途中からは他(東京)へ旅行するのだと言って。
その様子を見ていた彼女は、ショックを受けます。彼氏はやはり家族が大事なのだと。自分はいったい何なのか・・・。
次の日、移動のバスに彼女は乗りませんでした。デンも乗らずに残りました。彼女のことが心配だったのです。
彼女は、滑れもしないスキーを履いてリフトに乗ります。デンも後を追いかけますが、滑っていった彼女を見つけられません。
何度も転びながら下まで降りても、彼女の姿はありません。遭難したのでは?デンは必死に探します。
やっと彼女が発見されましたが、彼女は記憶喪失になっていました。3年くらい前からの記憶がないのです。
「あなた誰?」と問われたデンは、「恋人だ」と嘘をつきます。
医者から、彼女は次の日になると前日のことを覚えていない、と聞かされていました。だから、1日だけ恋人になって、彼女が北海道旅行で恋人と一緒にやりたかったことを、すべて叶えてあげようとしたのです。
最初は、恋人だということが信じられず、デンによそよそしくする彼女ですが、少しずつ心を開いていきます。そして夜に札幌雪まつりを見るころは、完全に恋人同士のようになったのです。
二人はキスをし、彼女はデンをベッドに誘います。そのときデンは、意を決して真実を伝えたのです。
彼女は、自分は本当にデンを愛しているのだと、自撮りの動画を残します。もし、自分がそのことを忘れていたら、その動画を見るように言ってくれとデンに伝えて。
翌朝、彼女が目覚めると、そこにデンの姿はありませんでした。彼女は、デンのことも、二人で旅行したことも、すっかり忘れてしまっていました。
職場に戻ると、友だちが撮った写真を見せてくれといいます。彼女は記憶がないので、どこも見に行かなかったと言いました。しかし写真を見ると、自分が行きたかったところへ行っていたことがわかります。
そして最期が、動画になっていました。その動画は、札幌雪まつりのものでした。誰と一緒に見に行ったのか、誰がこの動画を撮ったのか、彼女にはわかりませんでした。
デンは、彼女が寝ている間に、デンのことを愛していると語った彼女の動画を消しました。
そして職場を辞め、彼女の前から姿を消したのです。
ハッピーエンドではありません。
彼女に嘘をついて恋人だと言ったのは、1日だけでも恋人同士になりたいという欲望とともに、彼女に北海道の思い出をあげたいという優しさからです。
彼女が前の日のことを忘れた時、もう自分は恋人だったことを捨てなければならないと、デンは思ったのでしょう。
北海道旅行の思い出は、写真や動画で残せます。しかしその中に、自分が一緒だったことは残せなかったのです。
なぜなら、愛しているから。
切なくなるラストでしたが、とても深いものを感じました。
前に見た「ピー・マーク・プラカノン」も素晴らしかったですけど、この映画も本当にすごいです。タイの映画のレベルは、かなり高いと思います。
2016年09月04日
2016年09月05日
己書(おのれしょ)に挑戦しました
9月3日(土)に、「己書(おのれしょ)」の講習会に参加しました。
筆ペンを使って、独特な文字や絵を書くものです。こんな絵葉書が自分で書けたら素敵だなと思って、やってみることにしたのです。
→ 日本己書道場
3年くらい前に、「己書」として普及する活動が、名古屋を中心に始まったそうです。それが今では1万人以上の会員を抱える組織になっているそうです。
「己書」とは、自分だけの個性的な書。それが、わずかなポイントを抑えるだけで、簡単に書けるようになるとのことでした。
講習時間は2時間で、お手本にある文字や絵を、先生方の指導を受けながら書いていきます。
習ったポイントは、だいたい以下の通りでした。
・四隅を空ける
・文字と文字をくっつけて空間を空けない
・絵を描く用に文字を書く(短い線を丸にする、逆筆使いなど)
何度か練習して、本番のハガキに書いていきます。私は4枚のハガキを書くことができました。
どうでしょう? とても初めて書いたとは思えないほど、なかなかの出来だと思いませんか?
もちろんこれは、お手本にならって書いたもの。まだオリジナルの文字が書けるわけではありません。
しかし、続けていたら、そういうオリジナルのものも書けるのではないか、という気がしてきました。
筆ペンも買ったのですが、どうやら無駄にならずに済みそうです。講習の後で、先生から50枚入りのハガキも買いました。
なんだか創造意欲が掻き立てられます。
筆ペンを使って、独特な文字や絵を書くものです。こんな絵葉書が自分で書けたら素敵だなと思って、やってみることにしたのです。
→ 日本己書道場
3年くらい前に、「己書」として普及する活動が、名古屋を中心に始まったそうです。それが今では1万人以上の会員を抱える組織になっているそうです。
「己書」とは、自分だけの個性的な書。それが、わずかなポイントを抑えるだけで、簡単に書けるようになるとのことでした。
講習時間は2時間で、お手本にある文字や絵を、先生方の指導を受けながら書いていきます。
習ったポイントは、だいたい以下の通りでした。
・四隅を空ける
・文字と文字をくっつけて空間を空けない
・絵を描く用に文字を書く(短い線を丸にする、逆筆使いなど)
何度か練習して、本番のハガキに書いていきます。私は4枚のハガキを書くことができました。
どうでしょう? とても初めて書いたとは思えないほど、なかなかの出来だと思いませんか?
もちろんこれは、お手本にならって書いたもの。まだオリジナルの文字が書けるわけではありません。
しかし、続けていたら、そういうオリジナルのものも書けるのではないか、という気がしてきました。
筆ペンも買ったのですが、どうやら無駄にならずに済みそうです。講習の後で、先生から50枚入りのハガキも買いました。
なんだか創造意欲が掻き立てられます。
2016年09月07日
パタヤ旅行
妻と一緒に、パタヤ旅行をしてきました。妻とは日本への旅行は何度も行っていますが、国内旅行は初めてです。妻の実家や、兄弟がいるサムイ島へ行ったことはありますが、純粋に旅行目的で2人だけで行くのは、結婚5年になりますが初めてなのです。
ひょんな思いつきからパタヤ旅行となったのですが、私自身はパタヤは在タイ15年で4回目くらいになります。泊まりでの旅行は3回目です。バンコクから車で2時間なので、日帰りも可能なのです。
でも、せっかくリゾート地のパタヤへ行くなら、泊まりがけで行きたいですよね。今回は妻の希望で、3泊4日となりました。ひととおりリゾートの旅っぽいものをやってきたので、記録として残しておくことにします。
バンコクを12時ごろに出発し、パタヤに到着したのは14時過ぎ。しかし、車酔いした妻は、ホテルに着くなりゲーゲーと吐いて、16時くらいまでホテルで休みました。12時チェックイン、12時チェックアウトのホテルですから、のんびりと滞在できるのがいいですね。
その後、ビーチまで歩いて行きました。ビーチロード沿いの砂浜にパラソルが立てられていて、その下のリクライニングチェアに腰を下ろすと、食べ物など注文を取りに来てくれます。ここはレストランのようなものですから、座るだけというのはありません。
ビールなどのドリンクは、ここで注文します。食べ物は、無理にここで注文しなくても大丈夫です。ただ、注文してあげると、いろいろと良くしてくれます。
食べ物は、売りに来る人がいるので、そこからも買うことができます。私たちは、海老や牡蠣を買いました。
海老が250バーツ、牡蠣が200バーツ、ソムタムは50バーツです。(10バーツは約33円)ビール2本と水、コーラ、氷、それとコームーヤーン(豚の喉肉焼き)、ガパオムーサップ(タイバジルと豚ひき肉の炒めもの)、などで950バーツ。総額、約1,500バーツ(約5千円)でした。
夕方になって日が落ちると、パラソルもたたまれて、片付けに入ります。夕暮れの海というのも、何とも言えずに趣がありますね。近くの山には「PATTAYA」と書かれた看板があり、それがいろいろな色で光ります。また、海に浮かんだ船も、光を放って美しいです。
ビーチでは、結局3回食事をしました。浜風が心地よくて、海のリゾートに来たなという気分になります。一般的なタイ料理の他に、海鮮料理が安く食べられるのがいいですね。ウォーキングストリートにはシーフードレストランもたくさんありますが、だいたい値段は高めです。
また浜辺にいると、食べ物を売って歩く人だけでなく、いろいろな物売りがやってきます。ミサンガのような腕輪を売る人もいれば、占いをする人、逃がしてやるための小鳥を売る人もいます。鳥を逃がすのは、タンブン(功徳を積むこと)するためですね。
他には、フットマッサージをする人や、刺青を入れる人も。ものは試しで、私も入れてもらいました! 馬の絵と、下にタイ語で「โชคดี(チョーク・ディー=ツイてる)」と書かれています。
どうです? 私も刺青を入れたので、これでもう日本の公衆浴場やプール、海水浴場には行けませんね。
まあ刺青というのは嘘ですけどね。これは、インドの女性がおしゃれでよくやるボディーペイントの一種です。特別なインクで肌の上に盛るように絵を描き、しばらく(1時間弱)置いてから洗い流すと、肌にその色が染み付いているというもの。2週間くらいは消えないそうです。
でもこれ、刺青と見分けつかないでしょう? もしこのボディーペイントを2週間に1回やり続けたら、刺青を入れるのと同じことになります。
日本では、未だに刺青に対する差別があって、公共の場で刺青を見せることを禁止しているばかりか、公務員にもしてはならないなどと圧力をかける風潮があります。世界的には、珍しいことでも何でもないのに、まったく馬鹿げた話だと思います。
その夜、パタヤの歓楽街、ウォーキングストリートに出かけました。夜の街です。ウォーキングストリートは、19時以降、歩行者天国になります。
通り沿いや、そこから入った小路(ソイ)には、バーやライブハウス、ディスコなどの店が並びます。ゴーゴーバーと呼ばれる女性が踊っているバーもたくさんありますよ。
ゴーゴーバーは、いわゆる風俗店になるのでしょうけど、西洋人の見方は少し違うようです。こういう店にでも、夫婦や女友達で一緒に行って楽しむのです。私と妻も、ゴーゴーバーで楽しみました。
ゴーゴーバーやバービアでよくやるゲームに、ジャンケンして負けた人がテキーラを飲むというものがあります。私はやりませんでしたが、妻はノリノリでそれをやって、夜中の3時過ぎにホテルに戻ってから、ゲーゲーと吐いていました。
そのため、翌日は夕方まで寝ていて、どこへも行きませんでした。夕方からビーチへ行って食事をして、その日は夜遊びをせずにおとなしく寝ました。
3日目は、お昼から観光に行こうということになり、ノンヌット・トロピカルガーデンというところへ行きました。行き帰りのタクシー(白タクですが)をチャーターして1000バーツほど。
けっこう広い公園になっていて、歩いてすべてを見て回るのは無理なくらいです。園内で乗り物もあるようですが、私たちは歩ける範囲だけにしました。
ショーもあるので、ショー付きのチケット(2人で1,200バーツ)で買いました。チケットを見ると400バーツと800バーツと書かれているので、外国人は800バーツなのかもしれません。タイでは、高い外国人料金が設定されているのが普通ですから。
園内は、作り物の動物が置いてあったり、一部、本物の動物が飼育されていたりします。植物もいろいろありました。
ショーは、まずは室内でタイの様々な伝統舞踊や、ムエタイなどが次々と披露されました。これはかなり良かったです。
ただ席が、一番後ろのようなところだったのが残念。指定席なのですが、自由に選べないようです。おそらく、中国などの団体旅行客には、下の方の席が割り当てられていたのでしょう。
それと、片翼はガラガラで、正面の赤い席(おそらく特別観覧席)もガラガラでした。そこに座るにはどうすればいいのか、それもよくわかりませんね。その点がちょっと不満です。
室内のショーが終わると、後ろから屋外へ出ます。するとそこが、象のショーを行う場所になっていました。一部が指定席になっていましたが、それ以外はフリー。早い者勝ちです。室内の席が後ろだったのが、ここで幸いしました。
象のショーはよくあるようなものです。絵を描いたり、ボールを蹴ったり投げたり。人をまたいだりマッサージするなど。見たことがあるものですが、それでもよくここまでできるなぁと感心します。
売り子がバナナを売って歩いているので、1房40バーツで買って、象にあげます。面白いのは、バナナをあげるとすぐに食べるのに、お金(20バーツ札など)をあげると、ちゃんと象使いの人に渡すのです。よくしつけられていますね。
その日は、夕方にまたビーチで食事をし、夜はウォーキングストリートに出かけました。この日のメインはライブハウスで、カントリーミュージックからタイソングまで、大いに楽しみました。日本人客は見かけませんでしたが、西洋人は多かったですね。もちろんタイ人女性も。
ステージの前の方では、老若男女が入り乱れて踊っていました。私は前の方の席で、足でリズムをとるくらいですけどね。
最終日、実は今日なのですが、お昼にホテルをチェックアウトし、街をブラつきました。ビーチは、水曜日は店出しが禁止されているらしく、パラソルは開いていませんでした。それで、ショッピングモールのレストランで食事をしました。
14時くらいに、チャーターしたタクシーでバンコクに戻り、16時には部屋でビールを飲みました。
こんな妻とのパタヤ旅行でした。ほんの思いつきの旅行でしたが、それなりにいろいろなことができたので、とても良かったと思います。
ひょんな思いつきからパタヤ旅行となったのですが、私自身はパタヤは在タイ15年で4回目くらいになります。泊まりでの旅行は3回目です。バンコクから車で2時間なので、日帰りも可能なのです。
でも、せっかくリゾート地のパタヤへ行くなら、泊まりがけで行きたいですよね。今回は妻の希望で、3泊4日となりました。ひととおりリゾートの旅っぽいものをやってきたので、記録として残しておくことにします。
バンコクを12時ごろに出発し、パタヤに到着したのは14時過ぎ。しかし、車酔いした妻は、ホテルに着くなりゲーゲーと吐いて、16時くらいまでホテルで休みました。12時チェックイン、12時チェックアウトのホテルですから、のんびりと滞在できるのがいいですね。
その後、ビーチまで歩いて行きました。ビーチロード沿いの砂浜にパラソルが立てられていて、その下のリクライニングチェアに腰を下ろすと、食べ物など注文を取りに来てくれます。ここはレストランのようなものですから、座るだけというのはありません。
ビールなどのドリンクは、ここで注文します。食べ物は、無理にここで注文しなくても大丈夫です。ただ、注文してあげると、いろいろと良くしてくれます。
食べ物は、売りに来る人がいるので、そこからも買うことができます。私たちは、海老や牡蠣を買いました。
海老が250バーツ、牡蠣が200バーツ、ソムタムは50バーツです。(10バーツは約33円)ビール2本と水、コーラ、氷、それとコームーヤーン(豚の喉肉焼き)、ガパオムーサップ(タイバジルと豚ひき肉の炒めもの)、などで950バーツ。総額、約1,500バーツ(約5千円)でした。
夕方になって日が落ちると、パラソルもたたまれて、片付けに入ります。夕暮れの海というのも、何とも言えずに趣がありますね。近くの山には「PATTAYA」と書かれた看板があり、それがいろいろな色で光ります。また、海に浮かんだ船も、光を放って美しいです。
ビーチでは、結局3回食事をしました。浜風が心地よくて、海のリゾートに来たなという気分になります。一般的なタイ料理の他に、海鮮料理が安く食べられるのがいいですね。ウォーキングストリートにはシーフードレストランもたくさんありますが、だいたい値段は高めです。
また浜辺にいると、食べ物を売って歩く人だけでなく、いろいろな物売りがやってきます。ミサンガのような腕輪を売る人もいれば、占いをする人、逃がしてやるための小鳥を売る人もいます。鳥を逃がすのは、タンブン(功徳を積むこと)するためですね。
他には、フットマッサージをする人や、刺青を入れる人も。ものは試しで、私も入れてもらいました! 馬の絵と、下にタイ語で「โชคดี(チョーク・ディー=ツイてる)」と書かれています。
どうです? 私も刺青を入れたので、これでもう日本の公衆浴場やプール、海水浴場には行けませんね。
まあ刺青というのは嘘ですけどね。これは、インドの女性がおしゃれでよくやるボディーペイントの一種です。特別なインクで肌の上に盛るように絵を描き、しばらく(1時間弱)置いてから洗い流すと、肌にその色が染み付いているというもの。2週間くらいは消えないそうです。
でもこれ、刺青と見分けつかないでしょう? もしこのボディーペイントを2週間に1回やり続けたら、刺青を入れるのと同じことになります。
日本では、未だに刺青に対する差別があって、公共の場で刺青を見せることを禁止しているばかりか、公務員にもしてはならないなどと圧力をかける風潮があります。世界的には、珍しいことでも何でもないのに、まったく馬鹿げた話だと思います。
その夜、パタヤの歓楽街、ウォーキングストリートに出かけました。夜の街です。ウォーキングストリートは、19時以降、歩行者天国になります。
通り沿いや、そこから入った小路(ソイ)には、バーやライブハウス、ディスコなどの店が並びます。ゴーゴーバーと呼ばれる女性が踊っているバーもたくさんありますよ。
ゴーゴーバーは、いわゆる風俗店になるのでしょうけど、西洋人の見方は少し違うようです。こういう店にでも、夫婦や女友達で一緒に行って楽しむのです。私と妻も、ゴーゴーバーで楽しみました。
ゴーゴーバーやバービアでよくやるゲームに、ジャンケンして負けた人がテキーラを飲むというものがあります。私はやりませんでしたが、妻はノリノリでそれをやって、夜中の3時過ぎにホテルに戻ってから、ゲーゲーと吐いていました。
そのため、翌日は夕方まで寝ていて、どこへも行きませんでした。夕方からビーチへ行って食事をして、その日は夜遊びをせずにおとなしく寝ました。
3日目は、お昼から観光に行こうということになり、ノンヌット・トロピカルガーデンというところへ行きました。行き帰りのタクシー(白タクですが)をチャーターして1000バーツほど。
けっこう広い公園になっていて、歩いてすべてを見て回るのは無理なくらいです。園内で乗り物もあるようですが、私たちは歩ける範囲だけにしました。
ショーもあるので、ショー付きのチケット(2人で1,200バーツ)で買いました。チケットを見ると400バーツと800バーツと書かれているので、外国人は800バーツなのかもしれません。タイでは、高い外国人料金が設定されているのが普通ですから。
園内は、作り物の動物が置いてあったり、一部、本物の動物が飼育されていたりします。植物もいろいろありました。
ショーは、まずは室内でタイの様々な伝統舞踊や、ムエタイなどが次々と披露されました。これはかなり良かったです。
ただ席が、一番後ろのようなところだったのが残念。指定席なのですが、自由に選べないようです。おそらく、中国などの団体旅行客には、下の方の席が割り当てられていたのでしょう。
それと、片翼はガラガラで、正面の赤い席(おそらく特別観覧席)もガラガラでした。そこに座るにはどうすればいいのか、それもよくわかりませんね。その点がちょっと不満です。
室内のショーが終わると、後ろから屋外へ出ます。するとそこが、象のショーを行う場所になっていました。一部が指定席になっていましたが、それ以外はフリー。早い者勝ちです。室内の席が後ろだったのが、ここで幸いしました。
象のショーはよくあるようなものです。絵を描いたり、ボールを蹴ったり投げたり。人をまたいだりマッサージするなど。見たことがあるものですが、それでもよくここまでできるなぁと感心します。
売り子がバナナを売って歩いているので、1房40バーツで買って、象にあげます。面白いのは、バナナをあげるとすぐに食べるのに、お金(20バーツ札など)をあげると、ちゃんと象使いの人に渡すのです。よくしつけられていますね。
その日は、夕方にまたビーチで食事をし、夜はウォーキングストリートに出かけました。この日のメインはライブハウスで、カントリーミュージックからタイソングまで、大いに楽しみました。日本人客は見かけませんでしたが、西洋人は多かったですね。もちろんタイ人女性も。
ステージの前の方では、老若男女が入り乱れて踊っていました。私は前の方の席で、足でリズムをとるくらいですけどね。
最終日、実は今日なのですが、お昼にホテルをチェックアウトし、街をブラつきました。ビーチは、水曜日は店出しが禁止されているらしく、パラソルは開いていませんでした。それで、ショッピングモールのレストランで食事をしました。
14時くらいに、チャーターしたタクシーでバンコクに戻り、16時には部屋でビールを飲みました。
こんな妻とのパタヤ旅行でした。ほんの思いつきの旅行でしたが、それなりにいろいろなことができたので、とても良かったと思います。
2016年09月15日
ソース
おそらく昨年買った本だと思いますが、やっと読むことができました。作者はマイク・マクマナス氏で、翻訳はヒューイ陽子さんです。プロデュースとして喜多見龍一氏の名前もあります。
「あなたの人生の源は、ワクワクすることにある。」と表紙のキャッチにありますが、おそらくそういったことで買ったのだと思います。ワクワクと言えばバシャール。そして出版社のVOICEは、バシャールの本を数多く出版しています。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「私たちは世間の目を気にし、直観を無視し、独創的な発想を抑え、のびのびとした大らかな行動や本当に自分らしい生き方をしてきませんでした。この代償はとても大きく、本人だけではなく社会も損失をこうむっていいます。私たちは自分の心を満たしてくれない生き方を選んだ結果、人生に不満を感じ、いらだっています。
そうした生き方を変えるには、自分のワクワクを追求すればよいのです。」(p.6 - 7)
本の冒頭にある前書きで、マクマナス氏はこう言います。バシャールとまったく同じですね。ただワクワクすることをやればいい。非常にシンプルです。
マクマナス氏は、いわゆる落ちこぼれの子どもを集めて、特別授業のようなものをやったことがあるそうです。段々と打ち解けて生き生きと授業に打ち込むようになる生徒たちを見て、マクマナス氏はこう感じたそうです。
「この生徒たちは問題児や落ちこぼれと見られていました。本当にそうでしょうか。この子たちは他の子たちに比べて、外部の圧力から自分を守ることが不得意な、傷つきやすい生徒だっただけなのではないでしょうか。
むしろこの子たちの姿は、現代社会のゆがんだ教育観を反映しているのです。
個人の興味や好奇心をまったく無視して、一律の教育を上から押しつける学習法で、社会で生産的活動を意欲的におこなう、幸せな人間を育成できるという誤った教育観を。」(p.33 - 34)
このときの実験的教育で得られた成果が、マクマナス氏の「ソース・プログラム」につながっているそうです。
「社会全体としても個人としても、私たちは多くの誤った社会通念をうのみにしています。そのために自分の一番大好きなことが見つけられず、人生の方向性を見失っています。こうした社会通念は、一見道理にかなって、実際的な智慧のように見えますが、その実、人々を不幸にし、人生のバランスを狂わせるものです。」(p.50)
常識とか、一般的になど、慣習的なことがらは、個人の価値観を抹殺します。そのことが問題になるのです。
マクマナス氏は、世の中にはたくさんのウソ(真実ではないこと)が、あたかも真実のように信じられていると言います。
「責任感に関する誤解は、私たちの社会の中で一番強い誤解です。
人々は数多くの言い訳をつくり、自分の人生が悲惨なのはしかたがないと言い聞かせます。生き方を変えることはしないで、自己を正当化する高い壁を築き、その中に自分のワクワクを閉じ込めています。そのくせ、どうして自分はこんなに人生に疲れているのかと悩むのです。
もっとも責任のある生き方は、自分が大好きなことを見つけ、それだけを追求することです。」(p.63)
しなければならないからと言って、義務に従うことが責任を果たすことだと、私たちは勘違いしていると言います。本当の責任とは、自分に対する責任なのです。最大限に自分自身を生かす責任です。
ヤル気に対してもウソがあると言います。「ヤル気を起こせ!」というのは、やりたくもないのに、無理してやれということであり、本当のヤル気ではないのです。
「蒸気機関車を見た子供たち全員が汽車に夢中になるわけではありません。」(p.70)
「それぞれの子供のワクワクを選んだのは環境ではありません。親や教師が子供に影響を与えることができるとしたら、その子が好きなことを追求するのを応援するか、やめさせるか、ということだけです。」(p.72)
つまり、ヤル気が起こるのは、そもそも自分の中にあるワクワクを見つけるからであって、他人から押しつけられるものではないのです。
しかし、ワクワクと中毒症状は別だと言います。一日中テレビゲームをするのは、それがワクワクするからではなく、心理的問題があるからだと言います。何かからの逃避ですね。私たちのワクワクは、何か創造的な行為の中に生じるのです。
「創造性には奇跡的な力がそなわっていて、何か創造的な行為をすると、それだけ心が解放され自由になります。
劣等感が消えたり、爪を噛んだりする不安症的悪癖が減ったり、強迫観念や神経症がやわらいだり、場合によっては完全に消滅したりします。」(p.75)
能力のウソもあります。能力があるからと言って、それがやるべきこととは限らないのです。
「適性があると言われたからといって、それをする必要もなければ、好きになる必要もない。しかし、適性がなくてもワクワクすることなら、やったほうがよい」(p.79)
「これは選択の問題ではなく、自分に対する義務なのです。自分のワクワクを無視して能力や技術だけをみがいていても、仕事の能力が優れているだけの、心の空洞に気づくことすらない、孤独でさびしい人間になってしまうかもしれないからです。」(p.89)
能力に関係なくワクワクを追うこと。それが自分自身を大切にすることだとマクマナス氏は言います。
「人は自分に能力があるかどうかと心配しすぎています。好きなことをしていたら、充分な収入を得られないのではないかと、始める前から心配しています。そんな心配をする必要はまったくありません。ワクワクすることなら、人は自然にヤル気が出てきて、だんだん上手になっていくし、幸せで満足そうな人のところには人や機会やお金が引き寄せられてくるものです。」(p.91)
能力があるとか、上手にできるとか、そういう打算的な理由で何かを始めても、心は空洞なままです。それよりワクワクするものを始めれば、最初は下手くそで、上達が遅くても、いずれそこで一人前になるのですね。
さらに、すぐにやらなければみたいな決断も、重要ではないと言います。
「ですからヤル気が起きないときには、ぐずぐずしてかまいません。どんどん先に延ばしましょう。そんなときは、ちょっと休む必要があるのかもしれません。自分の気持ちをさぐる必要があるのです。あなたの人生の方程式がとてもむずかしくて、潜在意識が情報処理を終えるまで少々時間が必要なのです。それはしばらくかかります。かなり長くかかることもあるでしょう。」(p.104 - 105)
すぐに始めなければと、焦る必要はないのです。それより、そうすることがワクワクするかという、自分の心にしたがうことの方が重要なのですね。
「優先順位はどこか無理があって、不自然です。経営学や一般の成功哲学ではものごとを優先順位をつけるように教えますが、人間の基本的なニーズである自己実現という面ではマイナスの効果しかありません。」(p.116)
優先順位をつけるのは、他のことにかかずらわっていると、大事なことが達成できないから、という不安があるからですよね。その他のことがワクワクしないことなら、やらなければいいだけです。けれども、ワクワクすることなら、優先順位をつけず同時並行的にやるべきだとマクマナス氏は言います。
「自分にとって大切なことに関心をはらいつつ、ワクワクのすべてを実生活に生かさないかぎり、人は幸せにはなれません。ワクワクを残らず実行していくと、人生の新しい扉が開いて、それまで夢にも思わなかった人に出会ったり仕事にぶつかったりします。新しい生き方が生まれ、新たな出会いや天職に恵まれます。「同時実行」の考えを実践していくにつれて、あなたの心は満たされていき、その結果、気力や体力がますます増進します。それがあなたを魅力的な人間にし、周囲の評価も変えてしまうのです。」(p.138 - 139)
ソースの実践において、マクマナス氏は「目標を立てるな」と言います。
「目標を立てる代わりに、目指す方向だけを決めておくほうが、長期的には多くを成し遂げられるのです。方向には上限も下限もなく、目標を達成できなかった敗北感を味わうこともなければ、プレッシャーもありません。前章の「小さな一歩」の考え方とぴったり対をなし、幅広い体験を受け入れる柔軟性を持っています。」(p.162)
目標を立てるメリットもあるのでしょうけど、プレッシャーがあるというデメリットもあります。それに、目標によって限定されてしまうということもあるようです。
「自分がしようとすることが大事業であれ小さなことであれ、できるという信念がなければ何ごとも達成できません。信念には偉大な力があります。信念は私たちが望む方向に汽車を走らせる機関車の役割を果たす、人生の原動力といえます。」(p.168)
信念とは、「必ずそうなる」と信じていることです。これは、単に「信じる」と言おうと、「確信する」と言おうと同じこと。別の言葉で表現すれば「知っている」とも言えますね。
「頭で考えた条件をもとに探そうとすると、その条件に合うものが、かえって見つからなくなります。探すという行為そのものが目的のものを押しやってしまうからです。
ですから仕事を探さないでください。それよりも、自分の生来のワクワクに根ざした生活を築くようにしてください。」(p.189)
「探す」のは、「今それがない」という信念に他なりません。ですからその信念が、引き寄せられてしまうのです。
だからこそ、ワクワクすることをしながら直観にしたがう生き方をすべきだと、マクマナス氏は言うのです。
「まずやりたいことをやるのです。そうすればお金はあとからついてきます。
とにかく朝から晩まで一生懸命自分の夢やワクワクを追いかけましょう。自分の好きなことやワクワクすることを中心にした生活をするようになると、その度合に応じて、夢の実現を助けてくれる機会や人物があなたの前にどんどん現れます。」(p.214)
「ゾーン」に入ると言いますが、まさにこういう状態でしょうね。何をやっても上手く行くし、どんなピンチも勝手に解消されていく。お金の問題も、同じだということですね。
歴史上の人物でも、夢を追い続けただけで上手く行った人は大勢いるとマクマナス氏は言います。たとえば、ヘンリー・フォード氏やキュリー夫人など。
「彼らに共通しているのは「失敗を覚悟で、自分の夢をどこまでも熱心に追求した」点です。成功した人には「誰が何と言おうとも自分はやる」という気概が特徴として見られます。彼らは、どんなにまわりの人から反対されても、どんな障害物が現れても、くじけなかったのです。」(p.216)
成功の法則は2つしかなく、「始めること」と「続けること」だと言います。別の表現では、「諦めないこと」とも言えます。それは、たとえ途中で失敗したように見えても、それでもやりたいという情熱なのです。
ソースのプログラムでは次の4つの行動が重要だと言います。
「@人生のあらゆる面において自分が持つワクワクの「すべて」を見つける。
A発見したワクワクは、ひとつ残らず「すべて」、現在の生活に生かす。
B自分がワクワクすることを自分自身や人のために無条件に使う。
人のために使うときは、なるべく人知れずこっそりと使う。
C@からBまで実行しながら、バランスの取れた生活を目指す。」(p.235)
この「すべて」というのが重要なポイントのようです。そして優先順位をつけずに「バランス」を取ることですね。
ソースの生き方をするとき、自分の枠を超えることが重要になります。しかしそれは、バンジージャンプをするような、無茶なことをする意味ではないと言います。
「最大限のリスクを冒すというのは、可能なかぎり自分の枠を広げる努力をしながら、常に学び成功する態度を指します。自分の住み慣れた世界から少し飛び出してみることであり、慣れた環境の外へ出て冒険することです。感情的にも、ときには経済的にも冒険をして、自分にできることをすべて試すことです。自分の力をすべて出しきる覚悟で挑むことです。そうしたチャレンジに立ち向かうとき、人はリスクを冒していると感じます。」(p.242)
いつもと違うことをやってみる。そういうちょっとした冒険によって、自分の枠を超えて行くのですね。
「大事なことは、あらゆる行為を愛情の表現としておこなうことです。「ソース」の四つの基本条件の三番目、「無条件に人に尽くす、しかも、できればこっそりと尽くす」というのは、このことを言っています。」(p.251)
損得ではなく、愛情から行うこと。それが人に尽くすことであり、ソースの生き方なのです。
「ソースという自分の中の源泉、あなたの真の意味での「個性」を生きるようになると、日常の中で生活していても、常に力にあふれているのが実感できるようになると思います。この力は、あなたの中から自然にわいてくるもので、たとえばモチベーションセミナーなどに出て、人工的につくられた力はすぐにしぼんでしまったりしますが、決しておとろえることがありません。」(p.238)
ソースというのは、自分の個性であり、自分だけの生きる意義なのですね。だから、後付けのモチベーションアップのように、途中で枯渇したりしないのです。
最後に、プロデュースをした喜多見さんは、このように書いています。
「「ワクワクの力」には一種、超越的なところがあって、それは理屈を超えている。それがどこから来るのかも、よく分からない。なぜ自分は汽車や線路を見るのが好きなのか(マイク自身がそうだった)、なぜ自分は海でも滝でも水に関わる場所が好きなのか、なぜ自分は機械を分解するのが好きなのか、なぜ自分はギターでなくドラムが好きなのか、なぜ自分は世界の少数民族に魅かれるのか、なぜ自分はアメリカではなくドイツに魅かれるのか。どの質問にも答えが、ない。これを論理的・科学的に説明しようとすると、なかなかむずかしい。まあ、「魂の刻印」というひとつの答えを個人的に持ってはいるが、社会一般には今のところ科学的思考とは認められていない。
しかし明白なのは、ワクワクがあなたの人生を強力にドライブすることだ。このことだけは確かである。人はなにか、そのように仕組まれている。」(p.302)
バシャール本も手がけられた喜多見さんだけに、ワクワクに魅せられた感じですね。そして、そのワクワクをどう実際の生活に落としこむのか、その具体的な手法を示したのが、このソースのプログラムだと言えるでしょう。
この本は、1999年10月に日本で発売されたものです。マクマナス氏は、その年に亡くなられたようです。マクマナス氏のことも、こういう本があったとも、私はまったく知りませんでした。
さらに、このソースのプログラム(ワークショップ)は、アメリカだけでなく日本でも行われているそうです。まだまだ知らない世界があるのですね。
ワクワクを実践してみたい方には、お勧めの1冊だと思います。
2016年09月18日
魂のことば
スピリチュアル界の大御所とも言える山川紘矢さんと山川亜希子さん夫妻の本を読みました。ずっと以前に買ったもので、少しずつ読みながら、やっと読み終えた感じです。
と言うのは、この本は辞書のようなスタイルになっているのです。208の言葉に対して、お二人が解説を加えるというもの。ですから、どこから読み始めてもよく、パッと開いて出てきた言葉が自分へのメッセージになるというような、日めくり的な読み方もできます。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「ここに書いてある言葉や説明が唯一の正しい真実である、ということはありません。読む方たちに、「これまでとは少し方向を変えて考えてみませんか」という提案をしているだけなのです。
自分の思い込みや社会的な通念、常識などが絶対ではないこと、ちょっと見方を変えてみれば新しいものが見えてきて、人生がもっと豊かになることを知っていいただきたいと思います。」(はじめに)
絶対的な真実とか正義、価値観などというものはないということを、亜希子さんは言われます。そして、見方を変えることが重要なのですね。
「私たちは、肉体でも、頭脳でもありません。私たちの本質は魂であり、光であり、愛であり、神であり、すべてのものと同じものからできている宇宙的な存在です。」(009「精神世界」)
「魂はすべてを知っています。でも、地球にやって来て人間の肉体に入ると、そのほとんどを忘れてしまいます。そして「魂」ではなく、「自我(エゴ)の思い」で生きるようになりますが、それこそが地球上でしか体験できない貴重なことなのです。そして自我を捨て、肉体の中にいながら、自我でなく魂に戻ることが、私たちが今行っているプロセスなのです。」(010「魂」)
このように、実に本質的なことをズバッと言い切っておられます。「神との対話」などでも、このように言っていました。
「古代より中国では、「気」とは自然界に存在するすべての物質の最も基本的な構成単位であり、エネルギーのもとであると考えられてきました。そしてすべてのできごとや変化は、「気」が動き、波動することによって現れる現象としてとらえられています。
(中略)
あなたも、自身の「気」を高めることによって、人生のすべてを好転させることができるのです。気功、太極拳、ヨガ、レイキなどは「気」を高めるために役立ちます。」(036「気」)
ここでも、気がこの世の根源的なエネルギーであることが語られています。そして、レイキは気を高めるのに役立つのですね。
このように、全部で208の言葉(一部重複しています)について、山川夫妻が解説をしています。「はじめに」で書かれているように、これが絶対的な真実だと思う必要はなく、違う見方をするきっかけになればいいと思います。
2016年09月24日
人の心を動かす伝え方
大本教の教祖の出口王仁三郎(でぐち・おにさぶろう)氏のひ孫にあたる出口光(でぐち・ひかる)氏の本を読みました。と言っても、宗教関係の本ではありません。
タイトルからして、人の心に響く話し方のテクニックが書かれているのかと思いました。たしかにそういう面もありましたが、しかしこの本が伝えたいことの本質は、そういうテクニック的なものではありませんでした。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
まず第1章で、テクニックは重要ではないと言います。それよりももっと重要なもの。それが伝えたい「想い」だと言います。その例として、卒業式に子どもへの感謝の気持ちを詰まりながらも話した母親の話をします。
「お母さんのスピーチは息子に対する「想い」にあふれていました。そしてそれは、今日卒業を迎える子どもたちの親全員の本当の「想い」でもありました。だから人々に伝わったのです。
つまり、あなたの言葉が相手に伝わらないのは、話し方の問題だけではないということです。」(p.23)
ではどうして、普段は「想い」を語ることができないのでしょうか? それは理性や感情が邪魔をするからだと言います。つい子どもを叱ってしまうのも、本当は「愛している」とか「大切なのだ」という「想い」の前に、感情が邪魔してしまうからなのだと。
「感情や理性を消すには、それらがあることをいさぎよく認めて、言葉にして出してしまうことが有効です。
(中略)
マイナスの感情や理性を認めると、不思議なことにそれらが消えて、本当の「想い」が見えてくるのです。」(P.59)
自分の感情を抑圧せずに、感じたことや思ったことを、そのまま認めることが重要なのですね。
「「なぜ」を考えることで、魂から生まれる本当の「想い」を言葉にすることができます。すると、あなたの「想い」は相手に伝わるのです。」(p.78)
理性で考えたことに対して、「なぜそう言うのか?」という問を自分に投げかけるのです。そうすると、その先にある自分の「想い」に気づくのだと。
この後、「四魂の窓」によって、人を4つのタイプに分類します。そしてそのタイプごとに、「想い」を探る上でヒントになる動詞(志動詞)を見つけていきます。これによって、人や場に合わせた話し方ができると言うのです。
「極端な表現でいってしまえば、
「好きな人の話は聞けるが、好きになれない人の話は聞けない」
ということです。」(p.125 - 126)
「自分の人生の喜びや、怒り、悲しみ、楽しみをわかってくれる人は、誰にとっても大切な存在であり、そういう相手のことを、人は好きになるということです。」(p.126)
このように、人を理解して、わかっていることを伝えることによって、好きになってもらえる、つまり聞く耳を持ってもらえるのです。そのために「四魂の窓」や「志動詞」が重要なのだと言います。
「相手に本当の「想い」を伝える方法は、あなた自身が相手の本当の「想い」を聞く方法でもあります。
上手に自分の「聞き耳」をつくることができれば、会話のキャッチボールがさらに順調に進むことはいうまでもありません。」(p.145)
自分の「想い」を伝えるには、相手の「想い」を聞くことなのだと言います。このようにして「想い」でつながることができれば、人間関係はとても素晴らしいものになります。
ここまでは、言葉でどうやって伝えるかという内容です。しかしここからは、「想い」を極めて「志」を見つけることや、「志」で人とつながることの重要性を訴える話になります。
つまり、人の心を動かすというのは、自分の「志」を見つけることであり、人と「志」でつながろうとすることなのです。
「あなたの本当の「想い」に触れたときに、あなたの言葉に魂が宿ります。その言葉はとてつもないパワーをもち、必ず聞く人の魂を揺さぶるでしょう。
あなたの魂の奥底にある本当の「想い」に触れて、ほんの少しの勇気をもって、それを「志」だと、自分自身で認め、受け入れることから始めてほしいのです。」(p.238)
誰の心の底にも、この「志」があると言います。それは、世の中を良くしたいという想いにつながるものです。それを気づかせようとするのが、この本の主題だと感じました。
他人を都合よく動かすことではなく、「志」に感銘する同士を得る。そういう「志」でつながった仲間なら信頼できるし、語り合っても楽しいと思います。
そのためには、まず自分が「志」を持つことです。そのために、この本は役立つと思います。
2016年09月27日
覚えない記憶術
ベストセラー作家として有名な樺沢紫苑(かばさわ・しおん)さんの本を読みました。
樺沢さんのことは、いろいろな関係で存じ上げていたのですが、あまりご著書を読んだことがありませんでした。今回は友人の勧めもあり、読んでみることにしました。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「私の20年以上の試行錯誤によって磨かれた、「暗記力」が悪くても、自分の個性を発揮し、チャンスをつかみ、圧倒的に自己成長し、社会的にも評価される方法。」(p.4)
このノウハウをわかりやすくまとめたのが本書だと、樺沢さんは言います。私も記憶力が劣っていると思うので、とても興味があります。
「本文で詳しく述べますが、覚えておきたい情報を記憶に残すために必要なのは、徹底したアウトプットです。」(p.7)
記憶なのに必要なのはアウトプットというのも面白そうです。実際に樺沢さんは、メルマガやFacebook、Twitterなどに毎日情報発信しておられます。そのことが、記憶することと関係しているようです。
「人間の脳というのは、「理解」することによって、物事が忘れづらくなります。他の人に説明できる程度に理解しておけば、長く記憶にとどめておくことができるでしょう。」(p.34)
たしかに理解できていないものは覚えられませんね。樺沢さんは、「「理解」「整理」「記憶」「反復」の4ステップ」で記憶は定着すると言います。そして記憶できない人の多くは、最初の「理解」「整理」に時間を使っていないと分析します。
「人間の脳は「重要なこと」だけを記憶する、つまり、「重要ではないこと」は全て忘れるようにできているのです。」(p.39)
ですから、脳に重要だと認識させれば良いのです。
「脳が「重要である」と判断する基準は、たった2つです。それは、「何度も使用される」か「感情が動いた」か。」(p.39)
このことから、アウトプットが重要だということになるのですね。しかもSNSを利用することは、読者からのフィードバックが得られるので、喜びの感情も湧きます。記憶するには、Facebookなどへ投稿するのが良いと、樺沢さんは言います。
「記憶の分類にはいくつかありますが、「意味記憶」と「エピソード記憶」という分類があります。「意味記憶」は情報、知識に関する記憶。「エピソード記憶」は、出来事、経験、体験、思い出に関する記憶です。「意味記憶」は覚えづらく忘れやすい、「エピソード記憶」は覚えやすく忘れづらいという特徴があります。」(p.58)
たとえば患者の名前は「意味記憶」なので忘れやすいですが、その診断をどうしたとか、どんな話をしたなどは「エピソード記憶」なので忘れづらいということのようです。
「「記憶の索引」は「意味記憶」で、「記憶の本体」は「エピソード記憶」となります。」(p.58)
「すぐに思い出せるように「記憶の索引」作りをしておけば、「記憶の索引」に紐づけられた「記憶の本体」を簡単に思い出すことができます。」(p59)
ここで「記憶の索引」は覚えづらいものですから、メモをする方法を勧めています。メモを見さえすれば、「記憶の本体」は簡単に思い出せるという仕掛けです。
「暗記の前にすべきことは、「理解」と「整理」です。「人に教える」ことをするだけで、「理解」「整理」が同時に終了します。また、人に説明することは、自分の知識の「復習」と「反復」にもなります。つまり、「人に教える」ことは、記憶のステップの全てを含んでいるのです。」(p.83)
教える者がよく学ぶと言いますが、まさにその通りだと思います。記憶についても、教えることは最強の方法のようです。
「五感やそこから生まれる感情など記憶しづらいものも、言葉、文字として表現する。言語化することによって、それを客観的に把握できるようになり、しっかりと記憶に残すことができるということです。」(p.88)
ワインのソムリエが膨大な量のワインのことを憶えられるのも、その味や香りを言語化しているからだと言います。たしかに言葉が「記憶の索引」となって、味や香りの記憶がよみがえるのかもしれませんね。
「つまり、場所を移動するだけで、海馬を活性化し、記憶力をアップさせ、学習効率、仕事効率を高めることができるということです。」(p.158)
海馬には「場所細胞」と呼ばれるものがあるというのが、ノーベル賞の発見なのだとか。ノマドという仕事形態は、効率が良いということになりますね。
この他にも、様々な記憶を良くする方法が書かれています。私自身、暗記というのは苦手で、暗記科目の成績は良くありませんでした。これを読んですぐに暗記が得意になるかどうかはわかりませんが、いろいろ役立ちそうです。
2016年09月29日
いまこそ、感性は力
芳村思風(よしむら・しふう)さんと行徳哲男(ぎょうとく・てつお)さんの対談本を読みました。おそらく雑誌「致知」のFacebookで紹介されていたのかと思います。
私も以前は、「致知」を購読していたので、お二人の記事は何度も読んだことがあります。しかし、「感性」という言葉には、いまいちピンと来るものがありませんでした。でも、だからこそ読んでみたいと思ったのかもしれません。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
「感性こそ盲目社会(一寸先は真っ暗闇)を生き抜く最強の力であり、人間に希望と勇気を与える最高の力である。」(p.2)
冒頭でこのように言って、「感性」こそが重要なのだと訴えます。
「考え方に支配されれば、詮(せん)ずるところ理性の奴隷となって、血の通ったあたたかな心が消えてしまうんですね。人間性が破壊されて、人間的な心情を持った生き方ができなくなってしまう。極端になると、真理のためには人を殺してもいいという心情になってしまうわけです。そこに理性の恐ろしさがある。」(p.28 - 29)
「感性」というのは、「理性」に対抗する「感じる心」であり、「情」だということです。そして理性は「正しさ」を追求するために、時として人を殺すことになってしまうのです。
「いま、ようやく人類は理性の恐ろしさに目覚め始めていると思うんです。一方で感性の必要性に気づき始めている。行徳先生の言われたように、人間のちょっとした心の機微にふれて感性が通い合うと、人間同士のあらゆる対立を一瞬にして乗り越えることができる。そういう力が感性にはあるんです。」(p.33)
「感性」は人間同士の対立を乗り越えられる。これが「感性」の力だと言います。
「感動できない人間、つまり感性が鈍くなった人間は自分が自分に帰れないわけですから、あとは彷徨(さまよ)うだけです。いまは人類全体がこの感性の鈍さによって彷徨っている状況でしょう。その状態がアイデンティティー・クライシスです。」(p.43)
感動できるということは、感性が磨かれている証拠なのですね。感動が少ない人が多いことが、人類を危機に陥れるのです。
「理性で考えた理想や目標は命に苦しみを与えます。だけど命から湧いてくる欲求に基づいて抱いた理想や目標は命を喜ばせます。」(p.46)
「すべきこと」ではなく、「したいこと」で動く。これが感性だと言います。そうだとすると、感性というのはワクワクのことではないかと思いました。
「人間は本当の自分を確認したがるものですよ。そして、本当の自分に戻れば、自分がいとおしくてしょうがなくなる。そういう人間は、やってはいけないこと、やっていいことをセルフコントロールできるようになるものです。自尊自制といいますかね。
だから、わがまま、何でも好き勝手にするのは感性の働きとはいえない。感情と感性は明確に違います。感情は成熟しない限り感性とはなりません。」(p.49 - 50)
「自由」とは言っても、「好き勝手」ではなく「自分らしさ」ということなのだと思います。つまり、「エゴ」の働きではなく、魂の「想い」という感じでしょうか。
「長いこと山にこもっている私から見ると、現代人は確かにわがままになっている。ただ、わがままは「我(われ)がまま」になるための通過点です。わがままを通そうとすればいろいろなところに頭をぶつけます。それを繰り返して我(われ)がままになれ、と私は言っているんですけどね。」(p.55)
他人に従っているだけの自分のない生き方から、まずは我を通す「わがまま」な生き方にシフトする。しかし、それは通過点に過ぎないのです。そこを通ることによって、本当の意味での自分らしく生きられるようになるのです。
「人間が最も不健全で異常な状態とは何かといえば、それは狂えないということですよ。現代人は冷めてしかものを見ることができなくなっています。だから狂えないし、不健全、不自然になってしまっている。狂の中にいる時、人間は一番自分が自分に帰属しているんです。」(p.72)
「狂う」というのは、バカになること。つまり、自分で制限している他人の価値観を廃し、本当の自分の想いで生きることです。昔の人は「狂」に価値を感じていましたが、最近はどうなのでしょうね。
「感動するのも大事ですけれど、これは自然の働きであり、受け身の姿勢です。もちろん、感性が鈍れば感動もできないことになりますけど、感動させる力を持ってこそ実力なんですよね。」(p.96 - 97)
感動する力は重要ですが、感動させる力の方がもっと重要だと言うことです。特にリーダーには、他人を感動させて動かす力が必要だと言います。
「まず、これから世界が目指すものは大きく分けて三つあります。
一つ目は、戦争なき世界、平和な世界をつくっていくこと。
二つ目は、人類の人間性をもう一次元高いレベルに進化させること。
三つ目は、個性の時代をつくっていくこと。
この三つの人類の課題に対して、応え得るだけの指導力を発揮できる民族は日本人だけです。だから、日本はこれから世界の指導者になっていくことになる。」(p.102 - 103)
被爆国であること、和の精神を持っていることが、その理由だと言います。日本人の精神性の高さ、有色人種として最初に西洋列強と肩を並べた国であることも、こういう使命を持っている民族だと言えるのではないでしょうか。
「政治も経済もあらゆる活動は全部、人間を本物に鍛えるための手段だという「道の思想」をこれから人類に教えていくことによって、日本は全人類の人間性をもう一段高いレベルに進化させるという課題に応えることができるのです。」(p.114)
単に美味しいお茶を飲むのではなく、茶道というものを作る。単に闘う技術を身に着けるのではなく、柔道や剣道というものを作る。すべてが道であり、自分を鍛えて進化成長させるものという見方を、私たち日本人はしているのです。
「現代人は苦しみから逃げすぎていますよ。苦しみから逃げるから、苦しみに追い掛けられるんです。大体、理性型の人間ですよ、逃げるのは。何かと言い訳をつくる。言い訳が多すぎます。
感性型の人間は相手に同化しますから、苦しくなったら苦しみます。悲しかったら思い切り泣けばいい、死ぬ時は死ねばいいんですよ。」(p.131)
あるがままを受け入れること。運命を否定せず、それを一旦受け入れて、そこからスタートするのです。
「感性というのはもともと包括の哲学ですからね。包容する力なんです。理性は分けていくんですね。客体化して、細分化してしまう。」(p.168)
これは良い、あれは悪いと切り分けるのではなく、すべてを丸ごと受け入れる。理性は分離の働きであり、感性は統合の働きだと言います。
「そういう感性の共振作用という働きは、喜怒哀楽を味わいつくさないと育たないものです。」(p.168)
喜怒哀楽を味わうことで、他人に共感できるようになります。様々な体験をするとともに、その感情をしっかりと味わうことが重要なのです。
最初、「感性」という言葉の意味がピンと来なかったのですが、本を読んでいるうちに、これは「ワクワク」のことであり、「自分らしさ」なのだと感じてきました。
対比される「理性」とは、他人の価値観です。自分が体験したものではなく、他人が言ったことを無批判に受け入れ、自分を押し殺すことなのだと思います。
これからは「感性」の時代だと言います。世界のリーダー的存在として日本人が使命を果たすには、一人ひとりが感性的な生き方をする必要があるのかもしれません。
ママがおばけになっちゃった!
のぶみさんの絵本を読みました。のぶみさんのことは知りませんでしたが、ひすいこたろうさんのご友人のようで、Facebookを通じて知りました。
「ママがおばけになっちゃった!」が話題になっていましたが、まあ絵本ですし、特に買おうとは思っていませんでした。ただ、その続編の「さよならママがおばけになっちゃった!」が発売された後、のぶみさんからHELPのメッセージが投稿されていて、それで買うことにしたのです。
どういうHELPかと言うと、増刷されないと出版社が困るので、「さよなら・・・」を買って欲しいというもの。売れっ子の作家さんなのに、素直にお願いできるところがスゴイなあと思って、思わず買っちゃいました。
ではさっそく、一部を引用しながら・・・と言いたいところですが、これは絵本ですからね。内容を簡単に紹介しましょう。
これは交通事故で亡くなったお母さんと、息子のかんたろうくんのお話です。
お母さんが死んだ後、かんたろうくんの思いや、お母さんの思いが描かれています。
夜の12時を過ぎると、かんたろうくんは幽霊のお母さんと会うことができました。それでお互いに、自分の本心を伝えることができたのです。
ひすいこたろうさんの著書に、「あした死ぬかもよ?」というものがあります。何だか、この本に通じるような世界ですね。
絵本ですから、お子さんと一緒に読みながら、死について考えてみるのもいいでしょう。そして、実際に死ぬ前に、自分の思いを正直に伝え合えるといいですね。
2016年09月30日
見てる、知ってる、考えてる
話題になっているバオくんこと、中島芭旺(なかしま・ばお)さんの本を読みました。
Facebookで心屋仁之助さんなどが紹介しているのを見て、興味を持ったのです。だって、たった9歳の少年が書いたというのですから。
しかもこの本は、バオくん本人から持ちかけられてできたのだとか。9歳の少年が出版社に「本を出したい」と言うことそのものが、すごいと思います。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。ただし、この本は全部で92の散文的なものなので、多くを引用するのは控えます。
「僕は小さい頃身体(からだ)を洗ってもらう時、
感謝する事をママに教えてもらいました。」(p.4)
そう言って、髪の毛や手足、内蔵などに「ありがとう」と伝えていると言います。バオくんも素晴らしいのでしょうけど、こういうことを教えているお母さんも素晴らしい方だと思います。
「自由にやっていいよ!
でも、ゲームはダメだよってどっちだよ!」(p.9)
お母さんはバオくんを、自由に生きるよう育てたようです。しかしその一方で、「ゲームはダメ」みたいに押しつけるところもあったようですね。
「もっと子供を信じたら?
自分の子供だよ?」(p.9)
痛烈ですが、真実だと思います。親自身が矛盾を抱えているのですね。
斎藤一人さんも、もっと子どもを信頼するようにと言われています。親からも信頼されない子どもが、どうして社会に出てから信頼される大人になれるのかと。
「僕は不登校はひとつの才能だと思っています。
それは不登校するという決断を出来るという才能。
自分を信頼できるという才能。」(p.17)
バオくんは、小学校3年の時に不登校を決めたのだそうです。理由は知りませんが、いじめなどがあったのでしょう。
しかし、そのことを悲観的にとらえるのではなく、前向きにとらえていることが、この本を読むとよくわかります。
「わがまま言うなっていうのは
他人になれって言っているようなもの。
他人になれば自分はなくなる。」(p.40)
他人の価値観で生きないこと、自分らしく生きることの大切さを、9歳の子どもが言っていることが驚きです。
「「こわい」は、やりたいということ。
やりたくなかったら「やりたくない」って思う。
「こわい」ということは、やりたくないわけではない。」(p.92)
この気づきも素晴らしいです。怖いというのは、何かをやろうとしたときに不安があるからです。バシャールも、ドキドキ(不安)はワクワクにつながると言っています。
「人生つまるところ神さまは自分なのだと知る為にあるのだ。」(p.100)
ただただ驚く他ありません。
バオくんが、どうやってこのような考え方をするようになったのか、それはよくわかりません。子どもというものは、そもそもこういうことがわかっているのかもしれないし、バオくんが特別なのかも。
いずれにせよ、若い人たちの中に、このように本質をとらえた発言をする人が増えていることは確かです。人類の未来は明るいと感じます。
●コメントを書く前に、こちらのコメント掲載の指針をお読みください。