何で紹介されていたのか忘れましたが、気になったので中古で買った本です。もう新品は売っていないのかもしれません。作者は岡部明美(おかべ・あけみ)さんです。
出産の喜びもつかの間、脳腫瘍のために意識不明となり、死の淵から生還された岡部さん。しかし、それからも腫瘍の再発に悩まされる中で、ご自身を深く見つめて行かれました。この本に書かれているのは、岡部さんが自分自身を探して行かれた旅なのですね。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「出産のために、毎日「ラマーズ法の呼吸法」を練習するようになった。呼吸法をやり続けていたら、次第に自分の内的な世界に関心が向かうようになった。呼吸に集中すると意識が外に出掛けて行かないことを発見した。」(p.29)
ちょうど前に読んだ「ニュー・アース」で、エックハルト・トール氏が呼吸を観察することを勧めていたので、この部分が目に止まりました。
「「もうやめよう。自分を責めることも、人生を恨むことも。あの雲と同じように、きっと、すべての状況は流れていく、変化していく」。今までだっていろいろつらい出来事があり、その時その時で悩み苦しみがあったけれど全部過ぎていったじゃない。気持ちも状況も全く同じままのものなんかひとつもないじゃない。だから、きっとこの状況だって変化していく、過ぎていく。」(p.45)
脳腫瘍の手術が終わり、これからが闘病だと告げられた岡部さんは、しばらくは自分の運命を受け入れられず、罪悪感のかたまりになったそうです。いつ襲ってくるかもわからない死の恐怖に怯えながら、自分の運命を呪ったのでしょう。
そんな中で、看護婦さんに開けてもらった窓から入ってきた風が頬を撫ぜた時、涙が溢れてきて、このように感じられたのだそうです。
「実は、私は、この大変な状況の全体を眺めている「もうひとりの私」がいるということにも、うすうす気づいていたのだ。この状況に全く巻き込まれていない自分。この状況をただ静かに眺めているような自分。こんな体験は生まれて初めてだった。今までは、想像もしていなかったような突然の苦境に立たされると、決まってものすごく混乱し、パニックになり、あわてふためいていたのに。」(p.53)
観察している自分こそが本物の自分だと、多くの人が言っていますが、岡部さんもこのとき、本物の自分と出会ったのかもしれませんね。
「もしかしたら人はみな、自分の存在が誰かの生きる支えや希望になっていることに気づきもせずに、自分にないもの、手に入らないもの、満たされていないものばかりを数えながら、日々を生きているのかもしれない。」(p.61)
私たちは、つい自己卑下しがちです。「どうせ私なんて・・・」そう言って、誰からも愛されない、関心を持たれない、無価値な存在だと信じ込もうとするのです。
しかし、岡部さんは病気を患うことで、自分は存在するだけで価値があることに気づきます。そしてそこから、すべての人がそうなのだと思うようになったのです。
「でも考えてみれば、これって単なる暇つぶしの絵空事なんかじゃないと思った。実際、自分がこの世に生まれたということ以上の奇跡なんかないわけだし、その奇跡の人が生きて、死んでいくわけだから、一人ひとりの人生というのは、「この宇宙でたったひとつの映画であり、魂の物語であり、いのちの歌なんだ!」と、突然思えたのだ。」(p.85)
自分自身の半生を、まるで一観客として映画を観るかのように眺めてみると、意外と面白いと思えたのだそうです。退屈な人生ではなく、けっこう起伏に富んだ波瀾万丈の人生だったからです。
いい映画には、主人公を助けるいい人ばかりじゃなく、悪役も必要になります。そう考えてみると、なかなかいいキャスティングだと思えてくる。
自分の人生は深刻な状況だというのに、それを外から眺めてみたら、けっこう楽しめたのですね。
「もし一人ひとりの人生が旅でこの宇宙でたったひとつの映画であり、一冊の小説だとしたら、人はみな自分の「人生のテーマ」を持って生まれてくるのではないだろうかと思えたのだ。人生の旅は、ただただ未秩序な出来事の集積なんかじゃないんだという確信は、私にある感覚をもたらしてくれた。それは、私というかけがえのない人間が生きるための理由があるという発見。私がここにいる理由を宇宙は知っているという感覚だった。」(p.86)
どんな人生であったとしても、それはかけがえのないものだし、その人生には重要な意味がある。それを宇宙はわかっているという感覚を、岡部さんは得られたのですね。
「でも人生の冬の季節には、春の兆しがなかなか見つけられないからすごく苦しい。期限付きであれば、私は、その間いくらでも我慢できる。あと三年待てば、新しい道が用意されます、人生が好転しますという、絶対的な保証つきのお告げでもあれば、今のつらさは試練として甘んじて受けられる。「いつまで」というのがわからないからこそ底なしの不安地獄を生むのだ。
(中略)
ただただ、希望が欲しかった。一条でいいから、光が欲しかった。
しかし、新しい季節というのは全く予想もしていないかたちでやってくるのだ。何の変哲もない日常生活のほんのひとこまに、それは突然起こる。不意にやって来る。」(p.147)
たしかに、「いつまで」ということがわかっていれば、我慢できることは多いと思います。しかし、人生はそれがわかりません。この苦しみがいつ終わるのかわからないまま、生きていくのが人生なのです。
しかし、終わりの時は突然にやってくると言います。何の前触れもなしに、予想を超えた方法で。岡部さんが仕事で行き詰まって苦しんでいた時、信じられない場所でかつての婚約者と再会します。それによって、運命が変わっていったのだそうです。
「そのストレスの内容は、多様で重層的で、何か一つということではなかったけれど、深いところで病の引き金を引くものは何かということが見えてきた。それは、人は愛に傷ついた時、自尊心が深く傷ついた時、深い喪失感から孤独になった時、失敗をして無力感に襲われた時、葛藤に悩み、苦しんでいる時……。人はそういう失意にまみれた時に病気になりやすいということだ、身体の極度の疲労だけでなく、怒りや悲しみや恐れが病の引き金になることもあるということ。病の根っこには、何らかの”関係性の崩壊”があるのかもしれない。自分との関係性、あるいは、誰かとの、何かとの関係性の崩壊。」(p.183)
ホリスティック医学に出会った岡部さんは、末期がんから生還した人などと会っては、その体験を聞き取られたそうです。その結果、このような共通点を見つけられました。つまり、上記のようなストレスが病気を引き起こすのだと。
「怒りや悲しみの感情そのものより、怒りの抑圧と悲しみを感じ尽くしていないことの方が免疫力を落とすのだという。喜びの涙も、悲しみの涙も、共に免疫力をあげるというのが不思議だ。きっと、どんな涙も浄化のプロセスなのかもしれない。浄化して昇華させるのだろう。」(p.183)
そして、一般的に良くないとされる怒りや悲しみの感情そのものより、その感情をしっかりと味わわずに抑圧することが、免疫力を弱めるのだと言います。
岡部さんが話を聞いた人はみな、「病気になってよかった。今はあの病気に感謝している」と言われるそうです。それは、病気が治ったからではなく、その病気によって「より自分らしく生きられるようになったからなのだ」そうです。
そして、誰もが「一発でこれだというものに出会えたわけではなく、迷ったり、落ち込んだり」を繰り返しながら、ある時ふと、誰かと出会ったりという導きがあって、「”新しい人生の扉”が開かれた」のだと言います。
「私は生還された人たちに共通する、最も偉大な治癒へのマスターキーを発見した。それは、一人ひとりが、「人の期待に応えてがんばる生き方」を手放して、本当に自分がやりたいことをやって「人と喜びを分かち合う生き方」に、人生を再編集されたということだ。この”人生の物語の再編集”こそが、本当は患者と医療者との共同作業なのだと思う。」(p.185)
誰かのための人生ではなく、自分のための人生であり、そして喜びを誰かと分かち合うというお互いのための人生に目覚めること。まさに「幸せになる勇気」で言われているように、「わたしたち」を主語にすることなのでしょう。
このように目覚めて行った岡部さんでしたが、それでも脳腫瘍の手術から4年後、再発した小さな影が消えることはなかったそうです。「これだけ頑張っているのにどうして?」そういう思いから、ヤケになってしまわれたとか。
しかしそのとき、また岡部さんに出会いが訪れます。それは、「気づき」を大切にするワークショップでした。
「自分の中の「好き、楽、心地いい、ワクワクする、楽しい、私がそうしたい」という感覚で人生を選んでいったら、苦しいことや問題が起きてきた時に人のせいにすることはなくなると思った。いや、人のせいになんかできないのだ、自分が選んでいるのだから。責任転嫁は、その時には一瞬自分は楽だけれど、決して本当には自分の人生の主人公にはなれないし、自分を幸せにしないのだ。」(p.218)
こうして、自分で自分を縛っている固定観念に気づいて、手放していこうとされたのです。
「こういう生育歴、こういうトラウマがあるから自分はこうなったんだと人は思いがちだが、実は強い心の痛みを経験した時に、自分がそこで何を間違って”学んでしまったのか”、自分や人や世界に対して”どのような思い込み、信じ込み、信念”を持ってしまったのかに気づくことが大切なのだ。気づきこそが自由と解放への道だ。それによって人は、生命の自己修復力や自己形成力が働き出し、本来の自分を生きるという目的に向かっていけるようになるのだ。」(p.229)
つまり、出来事が原因ではなく、出来事は信念に気づくためのきっかけなのです。そこで気づかずにいると、思い込みを強めてしまい、その呪縛から抜け出せなくなるのですね。
「おそらく家族というのが、この世で無償の愛というものを学ぶための最大の修行なのかもしれない。親子という縦糸の愛、夫婦という横糸の愛。この二つの糸が織りなす悲喜こもごもの愛憎ドラマが、まさに人間関係の修行なのだろう。チベットとかヒマラヤの山奥にこもって瞑想修行している方がよっぽど楽なことなのだと思う。」(p.237)
人間関係が重要だということは、先ほどの「幸せになる勇気」や「神との対話」でも言われています。人間関係によって、私たちは重要な体験ができるのです。中でも、親子関係とパートナーの関係は、より深い体験になると思います。
「愛という言葉は心地よいけれど、実はこの言葉はかなり曲者でもある。愛という名の支配、コントロール、束縛、依存、執着がいっぱいあるからだ。本当は、愛は相手を自由にしてあげること、幸せにしてあげること、幸せを願うことなのに。相手の喜びや幸せが自分のことのようにうれしいことであるはずなのに。愛が呪縛になるから人は苦しむ。愛が自分のニーズを満たしてほしいという相手への要求になるから、人は愛に苦しみ、同時に相手をも苦しめてしまう。一体、人はどれだけ泣くのだろう。痛い思いをするのだろう。愛を学ぶために、愛を知るために。親子の愛、夫婦の愛というのものが、人が無償の愛を学ぶための最大のレッスンであるとするならば、そのメンバー、相手は一筋縄ではいかないタイプであることの方が多いのかもしれない。」(p.237 - 238)
愛は自由であると、「神との対話」などでも言っています。そのことに気づき、本当の愛を体験していくことが、私たちの人生でもあります。そのためには、無意識に作り上げた自分の信念をぶち壊してくれるような相手が、親子やパートナーとしてふさわしいのかもしれませんね。
「怒りの奥にある本当の気持ちを素直に伝えれば、人と人はもっとわかり合えるのに、表層の感情である怒りをぶつけてしまうから互いを傷つけ合ってしまうのだと思った。」(p.238)
怒りの奥に淋しさや悲しみがある。怒りは第二感情だと、心理学では言っていますが、第一感情としての淋しさや悲しさなどを感じたくないという思いが、怒りとなって現れるのですね。
「愛と執着は紙一重だからこそ、執着に気づいても手放すことがとても難しいのだ。人が心の地獄を味わうのは、この執着が断ち切れない時なのだ。のたうち回るほどの痛みを通し、自分が一回死ぬような経験をしなければ、この執着というのは手放せないのかもしれない。」(p.248)
執着に気づき、それが本当の愛ではないと気づくことによって、私たちは本当の愛に近づいていけます。しかし、その執着になかなか気づけないために、痛みや苦しみを味わうことになるのかもしれません。
けれどもこれは、裏を返せば痛みや苦しみのお陰で、気づきを得られるとも言えます。そう考えたなら、ひどい痛みや苦しみさえ、ありがたいこととも言えるのです。
「人生でも人間関係でも、失敗ばかり、転んでばかりの私にとって「生きることはどこまでいっても学びのプロセスなのです」というメッセージに救われる思いがした。大切なのは、失敗しないことでも、常にいい関係でいることでもないのかもしれない。失敗した時、トラブルが起きた時、うまくいかない時には、そこから自分が何かを学び、あるいは態度を選び直すしかないのだろう。そして転んでしまったら、再び立ち上がるために必要なことをきちんとやるだけのことなのだと思う。」(p.251)
人生は、上手く行くことが「良い」ことではないのです。失敗したり、上手く行かなかったりすることで、何かに気づけるからです。その気づきを得ることが、人生なのだと思います。
だから赤ちゃんが、転んでも転んでも何度でも立ち上がろうとするように、私たちはただ立ち上がろうとするだけでいいのだと思います。
「あとがき」には、岡部さんがここに書いたのは、内なる旅の途中までだとありました。「からだ」から「心」に気づいていく道程だと。さらに魂の世界へと、岡部さんの旅は続いたそうです。その過程で様々なことに気づかされると同時に、脳にあった小さな影が消えたそうです。
病気は、私たちを苦しめるために存在するのではなく、何かに気づかせるためである。そのことを、改めて教えてもらえたように思います。
