2016年05月01日

私が一番受けたいココロの授業

 

「みやざき中央新聞」に紹介されていた本を読みました。講演録になっていて、講演者は上田ビジネススクール(通称ウエジョビ)という専門学校の副校長になられた比田井和孝(ひだい・かずたか)さん。そして奥様の比田井美恵(ひだい・みえ)さんも、共著者になっています。

美恵さんは、ウエジョビの創設者である佐藤勲(さとう・いさお)氏の三女であり、現在はウエジョビの校長になられています。

この本のタイトルにある「私が」というのは、美恵さんのことだそうです。夫の和孝さんの授業を聞かれて感動し、これを広めたいとメルマガに書かれるようになったのがきっかけだとか。

最初の本は、「私が一番受けたいココロの授業」で、今回私が読んだのは、その続編になる「講演編」「子育て編」になります。



もともとは「就職対策授業」として、生徒たちに対して行った授業です。それがきっかけとなって、今では全国で講演活動もされているそうです。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

もちろん、「やり方」も大事かもしれませんが、
その「やり方」の前に、もっと大切なものがあるんです。
それは、「やり方」の土台になる「あり方」なんです。
「あり方」と言うのは、「心のあり方」です。
」(「講演編」p.10)

どんな心構えでやるのか、何のためにやるのかというような、基本姿勢のことを「あり方」と言って、それが「やり方」よりも重要だと言います。

「講演編」では、どういう経緯で「就職対策授業」が生まれたかが書かれています。卒業した生徒が就職した後、幸せそうでないケースが見られたことが、きっかけとなったそうです。

専門学校は「やり方」を教える学校です。しかし、それだけ教えていても生徒が幸せになれないのだとしたら、何か違うのではないかと感じたのだそうです。

仕事の技術以前に、人間として重要な土台がある。そのことに気づいた和孝さんは、それを生徒にただ伝えるだけでなく、共感し、実行してもらえるような授業にしたいと思い、工夫を重ねたのだそうです。

その授業の様子を妻の美恵さんに話したところ、「一度自分も受けてみたい」と言われ、その内容がメルマガとして発信されることになりました。


和孝さんは、単にかくあるべしという説教をするのではなく、いろいろな人の実話を元にして、そのストーリを話します。そのストーリーから、普遍的な「あり方」を導き出すような伝え方をしておられます。

その中には、ウエジョビの卒業生の話もあります。たとえばある卒業生は、採用試験の日に台風の直撃を受け、通常のルートでは東京の試験会場へ行けなくなったのだそうです。

普通なら会社に電話をして、事情を説明して延期してもらうでしょう。しかし彼は、それをせず、他のルートを探したのだそうです。台風の進路を避けるようにして、遠回りで東京へ行く。通常なら180kmのところを400kmのルートで、必死に運転して会社へ行きました。

それによって彼は、競争率が非常に高い難関の会社に合格したそうです。無理な状況を言い訳にせず、どうすればそれができるかを考える。そういう心構えのある社員は、会社としても魅力的ですからね。

和孝さんも、就職対策授業を始めるときは、いろいろ葛藤があったそうです。説教臭い話なんて、誰も聞きたくないと思うからです。

でもね、みんなのために…
みんなの本当の幸せのためには絶対伝えなきゃいけないと。
…自分がやらなきゃどうするんだ! って思って、
思い切って始めました。
」(「講演編」p.78)

できるかどうかではなく、やりたいかどうかが重要なのです。やりたいならやる。やると決めてから、方法を探すのですね。


ですから、結局子供たちに幸せな人生を歩んでもらおうと思ったら、
もちろん勉強も大事ですが、勉強ができる、できない以上に
周りの人を喜ばせることに喜びを感じられる、
そういう子に育てなきゃだめだという結論になるわけです。

「周りの人を喜ばせる」ということは、
「周りの人に与える」ということですよね。
「与える生き方」をしていく中で、幸せって得られるのかなと、
そんな風に思いました。
」(「講演編」p.116)

和孝さんの講演の大きなテーマが、「与える者は与えられる」なのだそうです。無条件に与えれば、与えられるのだと。

これはバシャールなどの、与えたものが返ってくるというこの世の法則とも一致するし、これはまさにだと思います。究極的に人々は愛に近づこうとしている気がします。


だから、こんな本を書いていると、「著者はよっぽど人間性が高いに違いない」と思われてしまいがちですが、実は逆なんです。もっともっと人間を磨いて、たくさんの人に「与えることができる人」になりたいからこそ、こんな風に授業実録や講演録を書いて、一生懸命に勉強しているんです。」(「講演編」p.174)

美恵さんは、こう語ります。教える者が、もっともよく学ぶと言います。私もそれは実感しています。学びをシェアすることで、さらに学びが深まるし、それが他の人のためにもなるのですね。


ただ、お母さんたちには、
子どもに勉強をしてもらう原点は
「子どもに幸せになってもらうため」だった
ということを忘れないようにしてほしいんです。
」(「子育て編」p.22)

人の役に立って、人から必要とされることで、人は幸せになれると言います。アドラーの、貢献感が幸せにするというのと、同様だと思います。

そのためには、やはり重要なのは「やり方」ではなく、「あり方」なのですね。勉強するのも、いい大学に入るのも、「やり方」に過ぎません。その前に「あり方」をしっかりと自覚していなければ、間違った方向へ進んでしまう可能性があるのです。

だから、親自身が、
「人を喜ばせるように行動する」ってことですよね。
親自身が、
「人を喜ばせることを心から楽しむ」ってことですよね。
」(「子育て編」p.27)

指示やアドバイス、説教などの前に、親が手本を見せることが大切だと言います。それによって、親の「あり方」を子どもに伝えることができるのだと。


ずーっと自分のためだけにやってきたその勉強は、
将来、やっぱり自分のためだけに使うようになるんです。
自分の損得のためだけに使うようになるんです。
いかに楽をするか、いかに得をするかって。
そんなことに頭を使うようになるんです。
そんな人に「いい仕事」ができるでしょうか?
」(「子育て編」p.35)

「やり方」だけで「あり方」が伴っていないと、いい仕事もできないし、他人の役に立つこともできないのです。どうすれば楽ができるか、どうすれば得するかと、自分のことのために頭を使うようになる。それでは、幸せになれないんですね。


親の大きな役割の一つは、子どもに
「お父さん、いつも楽しそう! 大人っていいなぁ!
僕も、早くあんな大人になりたい!」と思わせることです。
」(「子育て編」p.62)

いつも「疲れた」と言ったり、会社や近所の悪口や愚痴を言っていたら、子どもは「大人になりたい」とは思いませんよね。子どもから希望を奪うのは、今を幸せに生きていない親たちなのです。


「根拠のない自信」があれば、何か壁に当たった時に、
自分で解決して生きていけるっていうことです。
」(「子育て編」p.106)

児童精神科医の佐々木正美さんの話からだそうです。私も「根拠のない自信」の重要性を説いていますが、多くの方が同じことを言われていますね。

では、どうすれば子どもに「根拠のない自信」を持たせられるのか? その方法を、佐々木さんはこう言われたそうです。

できた時に褒めること以上に、
できなかった時に、抱きしめてあげることが大事なんですよ
」(「子育て編」p.107)

いい結果だからと褒めただけでは、根拠のある自信しか生まれません。悪い結果でも「自分は大丈夫だ」と感じられて初めて、人は「根拠のない自信」を持てるのです。

それには、結果に左右されない親の受容が必要なのですね。つまり、無条件の愛です。

…つまり、子どもを丸ごと受け止めて、
「あなたの存在そのものに価値があるんだよ」
というメッセージを子どもに伝えると、
子どもには「根拠のない自信」がちゃんとつくんですね。
子どもには、そういう「無条件の愛情」が大事なんです。
」(「子育て編」p.108)


結果に左右されない親の受容は、実はなかなか難しいことです。「7つの習慣」という本には、コヴィー博士夫妻の失敗談が書かれているそうです。

勉強やスポーツが苦手な子どもを助けようとして、夫妻は最初、励ましたり応援したりしたそうです。からかう人がいれば、その人に対して怒ったりもしたとか。しかし、かえって子どもは自信をなくしたように見えたそうです。

そして、二人の心の奥底に「息子は基本的に劣っている」
という意識があったことに気づいたんです。
」(「子育て編」p.131)

その無意識の信念があったので、子どもを励ましたり、守ったりしなければいけないと、夫妻は感じていたのです。

息子を肯定し、愛し、成長を楽しむ事こそが
親の役割だと考えるようになっていったんです。
子どもに対する見方を変えてからは、
自然と子どもとの時間を楽しめるようになっていきました。
」(「子育て編」p.132)

ダメな状態でも大丈夫だと思える。そうなって初めて、ありのままの子どもを受容できるのですね。

そのとき、子どもを励まさなければとか、守らなければという意識は、親からなくなります。無用な心配をしなくなるのです。つまり、子どもを信じることです。それによって、子ども自身もそのままで自信を持てるようになるんですね。


親が助けたい気持ちをグッとこらえて、
子どもにあえて失敗させて、痛い目にあわせて、困らせるんです。
それが子どものためなんです。
そういう経験を重ねて
子どもは、失敗しても自分で立ち上がるチカラ、
困ったことが起きても自分で解決していくチカラ
を身につけていくんです。
」(「子育て編」p.142)

子どもに失敗させることは、子どもの力を伸ばすだけでなく、親自身も成長していくことなのだろうと思います。


「子育て」の真の目的は
その子を、将来、幸せな人生を歩める子に育て上げる
ってことですよね。

そのために親がしなくてはいけないことは、
「一緒に幸せな人生を歩む」ということです。
そして、「その人生を楽しむ」ってことですよね。
」(「子育て編」p.167)

子どものために最善のことをしようとすると、それは実は、親自身が成長することになっているようです。

親が成長していけるように、未熟な子どもが授けられるのかもしれませんね。子育ては親育てと言うように、親自身がより素晴らしい人間に成長することが重要なのです。


よく知っている野口嘉則さんの話なども語られていました。中には、「それはちょっとどうかな?」と感じる部分もありましたが、実際に子どもを育てながら、その体験から生まれる話には、説得力があると思います。

子育て中の親御さん、教育関係者だけでなく、部下育てが必要なビジネスマンなどにも、お勧めしたい本だと思います。

book20160429.jpg
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 17:04 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月03日

好奇心を”天職”に変える空想教室



TEDのスピーチで有名になった植松努(うえまつ・つとむ)さんの本を読みました。

植松さんは、北海道で宇宙開発を行う中小企業、植松電気の専務取締役です。そのかたわら、子どもたちにロケットの製作や打上げを指導したり、全国で講演活動もされています。


ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。

小学校6年の時、先生から卒業論文に自分の夢を書くようにと言われた植松さんは、「潜水艦を作りたいです」と作文に書いたそうです。

すると先生から、「夢みたいなことを書くんじゃない」と怒られたそうです。先生にとっての「夢」とは、「ちゃんとした仕事」のことだったのです。

”実現しそうなこと”しか、夢だといってはいけないのか。
 では実現するかしないかは、一体誰が決めるんだろう。
 やってみなきゃわからないはずだ。
 やったこともない人が「無理だ」と決めるのは変じゃないか。
」(p.40)

小学生のころには、小学生としての「できる限界」があります。大人になってもやはり、そのときの「できる限界」があります。

しかし、今できないからと言って、将来もできないとは限りません。それなのに、その時点で将来の限界を決めてしまうのは怖いことだと植松さんは言うのです。


潜水艦作りを追いかける植松さんに、大人たちは「そんな暇があったら勉強しろ」と言ったそうです。そうしないと、いい学校に入れなくて、いい会社に入れなくて、大変だからと。

成績があまりよくなかった植松さんは、心配になって「いい会社とは、どんな会社ですか?」と尋ねたそうです。大人たちは、わかりやすく教えてくれたそうです。

「いい会社とは、安定していて、楽をして、お金をもらえる会社だよ」
 納得ができません。なぜなら勉強すればするほど、能力が身につくはずだからです。せっかく身につけた能力を、なるべく使わないようにするために、勉強しろというのです。なんじゃそりゃと思いました。
」(p.43)

たとえ「楽な仕事」を見つけて、その仕事につくことができたとしても、きっとつまらないです。やりがいとか達成感は、その仕事が困難だからこそ得られるものじゃないですか。」(p.44)

たしかにそうですね。おそらく、そう説明した大人たちには、自分たちの矛盾がわからなかったのでしょう。

勉強して高い能力を身につけたなら、それを生かすことに意味があります。これまでできなかったことを、できるようにすることに意味があります。

今できないことを追いかけることが夢ならば、人は夢を持つことによって、能力が増えて、できる仕事が増えることになります。」(p.47)

夢を持つことが素晴らしいのは、自分の能力を高めてくれて、それによって他の人に貢献できるからですね。


植松さんのお祖母さんは、樺太で自動車を売ってかなり儲けたそうです。しかし、1945年にソ連が攻めてきた時、すべてを失いました。貯めたお金が全部、紙くずになったのです。お祖母さんは植松さんに、こう教えたそうです。

だからお金があったら、貯金なんてしないで、本を買いなさい。
 知識を頭に入れなさい。
」(p.56)

お金を自分の知識と経験のために使うこと、つまり自己投資することを勧めたのです。

ぼくの生まれた町には「飛行機を作ったことがある人」がいませんでした。
 でも出会えるんです。そのために本があるんです。本のすごいところは、この世にいない人と出会えるというところです。
」(p.112)

自己投資の中では、読書は本当に安くて、しかも効果絶大な方法だと思います。


新しいことに挑戦しようとすると、失敗する可能性があります。「失敗しそうだから」と言ってやめていては、自分の能力を高めることができません。

植松さんは、「失敗したらどうするか、いっぱい考えてみる」ことを勧めます。たとえば雨を心配して、旅行をやめるのはナンセンスです。雨が降ったらどうするかを、予め考えておけばいいのです。準備を怠らないことが重要なのです。

ただ残念なことに、どれだけ準備をしても失敗するんです。
 そのとき「失敗」そのものに罰を与えてはいけません。なぜなら、罰はいやですね。罰がいやで失敗を避けるようになったら……なにもできなくなります。もしくは失敗を隠すようになってしまうこともあります。
」(p.80)

罰は失敗の抑止にはならないのです。むしろ失敗を隠ぺいすることで、より大きな失敗を招く可能性があります。

失敗を自分のせいにしてはいけません。自分をいくら責めてもなんにもならないし、もちろん誰かを責めても、運の悪さを呪ってもなんにもなりません。
(中略)
 大事なのは「なんで失敗したんだろう」「だったら次はこうしてみよう」という言葉をかけ合うことです。」(p.80)

責任追及も失敗を生かすことにつながりません。それは本当の反省ではないからです。本当の反省とは、次はどうするかをみんなで考えること。失敗したら、そこに貴重な情報があるのですから、それを生かすことが大切なのです。


植松さんは、「どうせ無理」という言葉をなくそうと提案されています。それは、その言葉によって「努力は無駄だ」と思い込まされ、自信をなくすからです。

いじめられる人もかわいそうですが、いじめをしてしまう人も、誰かに自信を取られてしまったかわいそうな人たちです。そのかわいそうな人たちが、自分の自信を守りたくて、しょうがなく他の人たちの自信を奪っているのです。」(p.173)

いじめや暴力は、自信を失ったことが原因だと、植松さんは言います。

ぼくは世界中から「どうせ無理」という言葉がなくなったら、いじめや暴力や戦争がなくなるかもしれないと思ったのです。」(p.174)

植松さんは、「どうせ無理」をなくすために、宇宙開発をやっていると言います。不可能と思われることに挑戦し、その思い込みをぶち破ることで、それが単に思い込みであると証明したいのでしょうね。

今日から「どうせ無理」という言葉に出合ったり、この言葉が心の中にわいたときには「だったらこうしてみたら」を考えてみてほしいのです。つぶやいてみてほしいのです。
 ただそれだけのことで、いつかきっと、この世から「どうせ無理」という言葉がなくなって、暴力の連鎖がぷつっときれるはずです。いじめや虐待がなくなるはずです。
」(p.184 - 186)


否定する人は必ずいます。でも否定する人に「否定すんな」といってやめさせることはできません。だから一番大事なのは、否定されても気にしないことです。」(p.206)

他人の口に戸は建てられません。批判者には、批判させておく他ないのです。

自分の心の中はもう「苦しい」とか「つらい」とか「きつい」とか「悔しい」とか「申し訳ない」とか「悲しい」とか「恥ずかしい」が、ぐるんぐるんして大変なことになりますが、そのときはこの言葉を唱えればいいです。
「ただいま成長中」
」(p.208)

失敗して、思い通りに行かなくて、逆境に陥って、大変な時にこそ、人は根を張っているのです。そのとき、人は成長しているのですね。


勉強は、「社会の問題を解決するためのもの」です。そのために人類が必死に積み上げたものです。」(p.212)

良い成績を得るために、それによって評価されるために、勉強があるのではありません。自分の能力を高めて、社会をより良くするためにあるのです。

教育は「死に至らないよう、失敗を安全に経験させるためのもの」です。」(p.212)

教育は、失敗の避け方や、要領のいい生き方を教えるためのものではありません。失敗こそが貴重な経験なのですから、上手に失敗させることこそが、教育の目指すべき方向だと、植松さんは言います。


植松さんが目指しているのは、個人の成功ではありません。いじめや暴力や戦争のない社会です。

そのためには、可能性を否定しないこと。失敗しながら成長することを認め、責めず、恐れないこと。そういう社会が実現することを願って、不可能に挑戦されているのです。

book20160503.jpg
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 18:34 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月09日

アスペルガーとして楽しく生きる



発達障害カウンセラーの吉濱ツトム(よしはま・つとむ)さんの本を読みました。

どうしてこの本に興味を覚えたのか、そのきっかけは忘れました。発達障害に関心を持っていたので、目に留まったのかもしれません。

著者の吉濱さんは、自信がアスペルガーとして苦しんできた体験があり、それを克服していった体験をふまえて、発達障害専門のカウンセラーをされています。

サブタイトルに「発達障害はよくなります!」とありますが、発達障害のマイナス面を抑えてプラス面を増強させるという、吉濱さんの具体的な手法も書かれています。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

そもそもアスペルガーというのが、どういうものなのかを知っておく必要があります。

それでも、ときとしてアスペルガーの症状が顔を出します。人に何かを指摘されると、ものすごい剣幕で怒り出すことがあるのです。」(p.27)

これはアスペルガー特有の「認知の歪み」という症状の一つです。」(p.28)

他人が親切で言ったことも悪くとる。それだけなら、普通の人にもよくあることですが、それが極端に表れるのがアスペルガーの特徴だと言います。

こうした極端な被害者意識の症状は、たいていの場合、年齢とともにしだいにやわらいでいくか、自分で抑えることができるようになっていきます。僕の場合は、中学生まで続きました。」(p.29)

子どものころ、普通ではない極端な被害者意識、それにもとづく怒りの表現があると、アスペルガーかもしれないと言えそうですね。


全員ではありませんが、アスペルガーは、「世の中をひっくり返したい」という強い思いを持っていることがあり、概して社会主義的、共産主義的な思想に向かいやすい。極端に走って、「戦争も辞さない」と本気で思い込んだり、「社会のシステムはことごとく悪である。今こそ革命を起こすときだ」と、過激な情熱を隠し持っていたりすることさえあります。独善的な正義感が強いのです。授業中に突然、黒板の前に出ていって、あるいは机の上に乗って「諸君!」と演説を始める、そんなこともよくありました。
 アスペルガーは論理的思考に長けた部分があるので、滅茶苦茶な内容だとしても、一見すると筋が通っているような理論や理屈を構築することができます。そして、それを訴えたくて仕方がないのです。何かのきっかけでその衝動に火が点けば、誰も止めることなどできません。
」(p.31 - 32)

アスペルガーには、大きく分けて「内向型アスペルガー」と「積極奇異型アスペルガー」の二種類があります。」(p.33)

積極奇異型というのは、簡単にいえば、過剰な積極性を持ったKY(空気を読めない人)で、著しく協調性に欠ける人のこと。」(p.33)

アスペルガーの症状というのは、これといって特別なものではありません。誰もが持っている性質です。アスペルガーは、その度合いが極端に高かったり、抱えている種類が多かったりという、それだけのことにすぎません。」(p.35)

ちょっと通常の反応と違う。どこか過剰で、極端に欠落しているところがある。それがアスペルガーです。」(p.35)

ある一点で極端に秀でているのに、別の一点でとんでもなく劣っていたりするのです。」(p.36)

発達障害は、脳の機能障害です。親の愛情不足とか、精神障害ではありません。また、ちょっと普通の人と違うということだけなので、鍛えれば何とかなると思われがちですが、それも違うと言います。

「これができるなら、こんなことも簡単にできるはずだ。」このような、普通の人の思い込みによる対応で、アスペルガーの人は傷つき、うつなどの別の精神的疾患を発症するようにもなります。

一見すると普通に見えるだけに、難しいものがあるようです。


世間で問題とされるのは、アスペルガーの短所ばかりです。
(中略)
アスペルガーは、実にたくさんの長所も持っています。(中略)短所を改善し、長所を伸ばしていけば、アスペルガーは、傑出した人材となりえるのです。」(p.39)

歴史上の傑出した人物では、エジソン、アインシュタイン、ベートーベンなども、アスペルガーだと言われるようになりました。今となっては正確な診断はできませんが、その可能性は十分にあると思います。

ですから、もしアスペルガーの人が社会に参加できるようになれば、社会にとっても大きなメリットがあるということなのです。


吉濱さんの方法は、まずは身体を整えるというものです。思考に直接アプローチする精神的な方法は、なかなか難しいものです。しかし、身体的なものであれば、比較的に容易です。たとえば、楽しくなくてもスキップすれば、楽しい気分になれるからです。

その中で、特筆すべきはローカーボ(低炭水化物)の食事法です。

低炭水化物ダイエットが最近もてはやされていますが、野菜ばかりを食べて、タンパク質を摂らないダイエットは、とても危険です。大事なことは、炭水化物を減らし、同時にタンパク質をしっかりと摂ることです。そうしなければ、間違いなく体を壊していまします。」(p.90)

もう1つの特徴は、サプリメントで必要な栄養素を補うというもの。1日1食の吉濱さんは、さすがに鮭缶ばかりでは栄養が偏るようです。

吉濱さんは、このローカーボの食事を数日やれば、それだけでアスペルガーの症状が緩和されると言います。実際の症例を重ねているだけに、説得力があります。


アスペルガーは、発達障害の中でも、とりわけ環境に影響されやすい。少しでも自分の気質や症状に合わない環境に身を置かれると、力が発揮できなくなってしまいます。合わない環境で長い時間を過ごすことに耐えられないので、アスペルガーが仕事を選ぶ場合は、自分に適した環境かどうか、事前に見極めておく必要があるのです。」(p.96)

乱れた環境だと犯罪が起こりやすいなど、環境が人の精神に影響をあたえること、これを「環境圧力」と言うそうです。そしてアスペルガーは、特にこの影響を受けやすい。だから、環境を念入りに整える必要があるのですね。


他にも、行動を変えるとか、習慣化するなど、具体的な方法が示されています。

しかし吉濱さん自身は、レイキを習われたりして、手かざしで病気を治すヒーラーであり、スピリチュアルな方面に造形が深いのだそうです。

けれども、食事や環境、行動などを変えれば、今の苦しみに対してすぐに効果が現れる。ですから、このやり方を続けているのだとか。


後半にはカウンセリングの例もありましたが、それらを読んでいると、私も軽度のアスペルガーなのではないかと思えてきました。

遅刻することに異様に恐怖心があり、時間を守ることにかけては非常に心を砕きます。ソファやベッドがある自宅では勉強ができないので、ファミレスとか環境を変えることで勉強に集中できるようにしてきました。

今はそれがオフィスになっていますが、吉濱さんが示す療法を、知らずにやってきているような気もします。


そう考えると、程度の差こそあれ、アスペルガーの範囲は広がるのかもしれませんね。

現在、発達障害「アスペルガー」「ADHD(注意欠陥・多動性障害」「自閉症」「学習障害」「知的障害」に分類されるのだそうです。しかしそれらは、厳密にわけられるものではなく、スペクトラム(連続体)として認識されているそうです。


私は、「発達障害は世界を救う」と考えています。つまり、明確な病気ではないのに、あまりにも違いが顕在化するからです。

「これができるなら、こんなこともできるだろう。」と他の人が思うことができない。他の人には、なぜ「それができない」のか理解できません。本人も理解できないかもしれませんが、その人にすれば、「それができる」ことが理解できないでしょう。

このように、一見すると同じように見えながら、まったく違った様相を見せてくれるのが発達障害です。

そういう人が普通にいることが認知されるようになれば、社会はどうなるでしょう?それを当たり前と捉えるようになるのではないでしょうか?

つまり、「違っていて当たり前」「違っているから素晴らしい」という価値観に、変わっていく気がするのです。その価値観の変化によって、社会は救われるように思います。


アスペルガーを疑っておられる人、アスペルガーで苦しんでいたり、また家族がそうだったりする人にとって、吉濱さんの療法はユニークで興味深いものになると思います。

また、アスペルガーと縁がない人も、アスペルガーという存在を知る上で、貴重な情報を与えてくれる本になっています。

book20160508.jpg
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 19:03 | Comment(0) | 実践内容 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月11日

「幸せになる勇気」(アドラー心理学)の要点

最近読んだアドラー心理学の「幸せになる勇気」が素晴らしかったので、これも詳細に要点をまとめておこうと思います。

前作の「「嫌われる勇気」(アドラー心理学)の要点」も記事にしていますので、そちらも合わせてご覧ください。

なお、これも前作と同様に、哲人と青年との対話形式で進む物語となっています。そのため、ネタバレとなってしまいますのでご注意ください。


青年は教師となり、さっそくアドラー心理学を応用しようとします。しかし、「ほめてはいけない、叱ってもいけない」という教育方針は、上手く機能しませんでした。

理論は素晴らしくても、実践には使えない。そう感じた青年は、哲人を論破すべく、再び哲人のところへやってきたのです。


その青年に対し、哲人はすぐさま「アドラーを誤解している」と青年の過ちを指摘します。

もしもアドラーの思想に触れ、即座に感激し、「生きることが楽になった」と言っている人がいれば、その人はアドラーを大きく誤解しています。アドラーがわれわれに要求することの内実を理解すれば、その厳しさに身を震わせることになるはずですから。」(p.8)

哲人も同様に迷った時期があったそうですが、幸い主夫として幼い子を育てていたため、その体験から理解を深めたと言います。そして、それによって得た確証を、こう言います。

ひと言でいうなら、「愛」です。」(p.9)

アドラーの語る愛ほど厳しく、勇気を試される課題はありません。」(p.10)

つまり、アドラーの言う「愛」を理解しなければ、本当の意味でアドラーを理解したとは言えないし、アドラー心理学を実践に応用することもできない、と言うのです。

さらに、哲人は青年に、こう言いました。

あなたはまだ、「人生における最大の選択」をしていない。」(p.11)

最大の選択とは何かという問いに、哲人は「愛」だと答えます。

この本のテーマは「幸せ」ですが、その背景には「愛」があり、「愛」の問題だと宣言しているのです。


まず、アドラー心理学が掲げる目標を確認します。

行動面の目標は次のふたつ。

 @自立すること
 A社会と調和して暮らせること

そしてこの行動を支える心理面の目標が、次のふたつでした。

 @わたしには能力がある、という意識
 A人々はわたしの仲間である、という意識
」(p.38)

カウンセリングで教育の場でも、この4つが重要だと言います。アドラーはカウンセリングを「治療」ではなく、「再教育」の場だと捉えていたからです。


そこで最初の「自立」という目標を掲げたときのとっかかりとして、「尊敬」することだと言います。

これは親子であれ、あるいは会社組織のなかであれ、どのような対人関係でも同じです。まずは親が子どもを尊敬し、上司が部下を尊敬する。役割として「教える側」に立っている人間が、「教えられる側」に立つ人間のことを敬う。尊敬なきところに良好な対人関係は生まれず、良好な関係なくして言葉を届けることはできません。」(p.41)

まず良好な関係を築くことが重要で、そのために上の立場の人から尊敬するのです。しかもそれは、無条件の尊敬です。相手に問題があるとか関係なく、ただ尊敬するのです。

では、その「尊敬」とはどうすることなのか?

目の前の他者を、変えようとも操作しようともしない。なにかの条件をつけるのではなく、「ありのままのその人」を認める。これに勝る尊敬はありません。そしてもし、誰かから「ありのままの自分」を認められたなら、その人は大きな勇気を得るでしょう。尊敬とは、いわば「勇気づけ」の原点でもあるのです。」(p.43)

条件をつけずにありのままの相手を認めることで、相手が自立に向かう勇気づけをする。それが「尊敬」だと言います。

そして、その具体的な第一歩として、「他者の関心事」に関心を寄せることだと言います。相手の関心事を評価したり否定するのではなく、ただ関心を寄せるのです。それが「共感」だと言います。

「共感」とは、「わたしも同じ気持だ」と同意することではありません。それは単に同調だと言います。

共感とは、他者に寄り添うときの技術であり、態度なのです。」(p.55)

では、どんな技術であり、態度なのか?

われわれに必要なのは、「他者の目で見て、他者の耳で聞き、他者の心で感じること」だと。」(p.52)

しかし、他者がどう感じるのか、その主観的な感覚を共有することは難しいように思えます。そこで、この言葉の意味を、こう説明します。

まずは、「もしもわたしがこの人と同じ種類の心と人生を持っていたら?」と考える。そうすれば、「きっと自分も、この人と同じような課題に直面するだろう」と理解できるはずだ。さらにそこから、「きっと自分も、この人と同じようなやり方で対応するだろう」と想像することができるはずだ、と。」(p.54)

この技術を身につけ、自ら率先して「尊敬」がどういうものであるかを提示する。それが、相手に「尊敬」を教えることにもなるのです。


アドラー心理学は「目的論」と言われます。「原因論」だと、過去のトラウマのようなものが原因で、今の自分がこうなのだと説明します。しかし「目的論」では、自分がこういう目的を持っているから、それを達成するために今の自分を選択していると説明します。

つまり、われわれは過去の出来事によって決定される存在ではなく、その出来事に対して「どのような意味を与えるか」によって、自らの生を決定している。」(p.61)

今の自分を肯定する人は、不幸だった過去の出来事も肯定的にとらえます。「あの苦労があったから、今の自分がある。」というように・

逆に今の自分に満足していない人は、それを過去の出来事のせいにします。そうすれば、今の自分に不満足な自分を、そのままでいいと思えますからね。

いいですか、われわれの世界には、ほんとうの意味での「過去」など存在しません。」(p.65)

このように、過去は捏造されるものだと言います。歴史が勝者によって書き換えられるのと同様に、自分の過去は、今の自分に都合よく書き換えられるのです。


ここで哲人は、カウンセリングで用いる三角柱について説明します。三角柱の各面には文字が書いてあります。「悪いあの人」「かわいそうなわたし」「これからどうするか」です。

ほとんどの相談者は、何も言わなければ前の2つについて語ります。それに同調したとしても、一時の慰めを得るだけで、本質的な解決にはならないと言います。それでは、カウンセラーに依存するだけです。

そこでカウンセラーは三角柱を相談者に渡し、自分が話すことの面を向けて、何でもいいから話すように言います。すると相談者は、自ら「これからどうするか」を選び、それについて語るのだそうです。

このことは、依存させることは本質的な解決にならない、というアドラー心理学の基本的な考え方を示しています。このことが、叱ることはもちろん、褒めることさえしないという、アドラーの考え方につながるのです。


哲人は、学級は独裁国家ではなく、民主主義国家でなければならないと言います。

学級という国家の主権者は教師ではなく、生徒たちである。そして学級のルールは、主権者たる生徒たちの合議に基づいて制定されなければならない。」(p.82)

クラスが荒れたりする原因は、教師が独裁者になっているからだと言います。なぜそうなのか?

本来、人それぞれ価値観が違うにもかかわらず、教師が特定の価値観を生徒に押し付けようとする。つまり管理しようとする。これが独裁国家です。そのためのツールが、「叱ること」「褒めること」なのです。


ここで、人が叱られるようなことをするのには、いくつかの段階があると言います。まずは、「それがよくないことだと知らなかった」という可能性です。

この場合、知らなかったのだから教えて理解させれば良いだけで、ここで叱る必要性はありません。それ以降の段階は、良くないことだとわかっていながら起こす問題行動になります。

まず最初は、ほめてほしいという欲求を満たすための「称賛の要求」という段階です。いわゆる「いい子」です。彼らは、行っていることが「良いこと」だから行うのではなく、褒められるから行っています。

彼らは「ほめてくれる人がいなければ、適切な行動をしない」のだし、「罰を与える人がいなければ、不適切な行動もとる」というライフスタイル(世界観)を身につけていくのです。」(p.92)

この後、「注目喚起」「権力争い」「復讐」「無能の証明」と、徐々にエスカレートしていきます。最初は、問題行動を起こして注目されたい、というところから反抗が始まります。次には無関心よりは叱られたい、権力を競いたい、復讐したい、というようになるのです。

なぜこのように、問題行動がエスカレートするのでしょうか?

そしてそのすべては「所属感」、つまり「共同体のなかに特別な地位を確保すること」という目的に根ざしている。」(p.104)

つまり、その共同体の中で自分が何か貢献していて、役立っているという幸せを感じたいのです。しかし、どうすれば役立っているのかわからない。そのとき、独裁者が方向性を示せば、それに従おうとします。つまり、独裁者に依存してしまうのです。

しかし、独裁者が何を良しとするかはわかりません。価値観は人それぞれですから。また、仮にわかったとしても、それが自分にはできないこともあります。たとえば独裁者が、忘れ物をしたことを叱っても、どうしても忘れ物をしてしまう生徒がいます。するとその生徒は、それでも独裁者から褒められたいので、自分ができる他の方法を考えます。それが問題行動になるのです。


おそらくアドラーを理解できない人は、登場する青年のように、絶対的な価値観があると信じている人なのでしょう。つまり、他者を強制して、一定の価値観に従わせなければならないと考えている人。本当は絶対的な価値観などないのだと理解できない限り、アドラーを理解することは不可能だと思います。

子どもたちの問題行動を前にしたとき、親や教育者はなにをすべきなのか? アドラーは「裁判官の立場を放棄せよ」と語っています。あなたは裁きを下す特権など与えられていない。」(p.115)

裁くことができるのは、その価値観が絶対的に正しいからです。その価値観に従わせなければならないからです。しかしアドラーは、親や教育者にはその特権はないと言います。そして、叱責や暴力は、一時的に恐怖心で従わせることができたとしても、子どもたちを自立させることができません。

叱責を含む「暴力」は、人間としての未熟さを露呈するコミュニケーションである。このことは、子どもたちも十分に理解しています。叱責を受けたとき、暴力行為への恐怖とは別に、「この人は未熟な人間なのだ」という洞察が、無意識のうちに働きます。
(中略)
怒りや暴力を伴うコミュニケーションには、尊敬が存在しない。それどころか軽蔑を招く。叱責が本質的な改善につながらないことは、自明の理なのです。ここからアドラーは、「怒りとは、人と人を引き離す感情である」と語っています。」(p.116)

つまり、叱責やその延長上の暴力は、人間関係から信頼や尊敬というものを奪うことになります。そのような共同体が、果たして幸せな人々で構成されるでしょうか? 考えるまでもなく、答えは明らかです。


叱ってはいけない。褒めてもいけない。それで生徒たちが悪いことをしたら、「これからどうするか」を問う。そんなことでは、単に「もうしません」と言うだけではないかと、青年はくってかかります。しかし哲人は、反省を強要しても意味がないと答えます。

よく、謝罪文や反省文を書かせる人がありますが、これらの文書は「許してもらうこと」だけを目的に書かれたものであって、なんら反省にはつながらない。書かせる側の自己満足以上のものにはなないでしょう。そうではなく、ここで問いたいのは、その人の生き方なのです。」(p.118)

反省させることが無意味であることは、以前紹介した「反省させると犯罪者になります」にもありました。アドラーも同様に考えていて、重要なのは生き方だと言います。

哲人は、カントの言葉を紹介します。

人間が未成年の状態にあるのは、理性が欠けているのではない。他者の指示を仰がないと自分の理性を使う決意も勇気も持てないからなのだ。つまり人間は自らの責任において未成年の状態にとどまっていることになる」(p.119)

私たちは、「他者の指示」によって動いた方が、考えなくて良いから楽だと思っています。それは大人たちが、他人を支配下に置こうとして、子どもたちを「未成年の状態」置くべく、自立の恐怖を吹き込んでいるからです。「社会はそんなに甘いモノじゃない」などと言って、不安を煽っているからです。

大人たちがそうするのは、子どもたちが自立して対等になることを恐れているからだと言います。自分たちの権威を守ろうとして、子どもたちを従順な羊に仕立てあげるのです。

だからこそ、教育する立場にある人間、そして組織の運営を任されたリーダーは、常に「自立」という目標を掲げておかねばならないのです。」(p.122)

カウンセラーも相談者を、「依存」と「無責任」の地位に置かないよう注意すると言います。「先生のおかげで治りました」と言われるようでは、何も解決していないのだと。

子どもに対しても、「遊びに行っていい?」と尋ねられて、「宿題が終わってからね。」と答える親は、子どもを「依存」と「無責任」の地位に置いていると指摘します。では、どうするのが良いのか?

自分の人生は、日々の行いは、すべて自分で決定するものなのだと教えること。そして決めるにあたって必要な材料−−たとえば知識や経験−−があれば、それを提供していくこと。それが教育者のあるべき姿なのです。」(p.123 - 124)

つまり、親や教師がルールを示すのではなく、目的のためにはどういうルールがいいのか、子どもたちに考えさせ、決めさせるということですね。宿題が先か、遊びが先かは、子どもが決めればいいのです。

子どもたちの決断を尊重し、その決断を援助するのです。そしていつでも援助する用意があることを伝え、近すぎない、援助ができる距離で、見守るのです。たとえその決断が失敗に終わったとしても、子どもたちは「自分の人生は、自分で選ぶことができる」という事実を学んでくれるでしょう。」(p.125)


叱ることが良くないことは、わりと理解しやすいと思います。しかしアドラーは、褒めることも良くないと言います。それは、褒めることによって競争が生まれるからだと言うのです。

独裁が敷かれ、民主主義が確立されていない共同体では、善悪のあらゆるルールがリーダーの一存によって決定されます。」(p.135)

国家でも会社でも家庭でも、独裁的なリーダーが恣意的にルールを決めるのです。

さて、問題はここからです。「ほめられること」を目的とする人々が集まると、その共同体には「競争」が生まれます。他者がほめられれば悔しいし、自分がほめられれば誇らしい。いかにして周囲よりも先にほめられ、たくさんほめられるか。さらには、いかにしてリーダーの寵愛を独占するか。こうして共同体は、褒賞をめざした競争原理に支配されていくことになります。」(p.136)

……競争相手とは、すなわち「敵」です。ほどなく子どもたちは、「他者はすべて敵なのだ」「人々はわたしを陥れようと機会を窺(うかが)う油断ならない存在なのだ」というライフスタイルを身につけていくでしょう。」(p.137)

つまり、褒めることによって、褒められたいという欲求が掻き立てられます。そのとき、ルールは独裁者が決めるので、独裁者の顔色を伺い、他のメンバーを敵とみなして蹴落とそうとするのです。

競争のあるところ、駆け引きが生まれ、不正が生まれます。」(p.138)

これは、ルールがしっかり決まっているスポーツでもそうです。競争して勝とうとする限り、ルールのぎりぎりを突こうとしたり、あるいは、見ていないところで不正をしようとするのです。

そういう競争原理のある組織では、仲間の足を引っぱったり、他人の手柄を横取りするなどの不正が起こります。目的はリーダーの寵愛を受けることですから、そのためには何でもやるのです。

そんな事態を招かないためにも組織は、賞罰も競争もない、ほんとうの民主主義が貫かれていなければならにのです。
(中略)
競争原理ではない、「協力原理」に基いて運営される共同体です。」(p.139)

アドラーが目指す社会は、競争を否定し、協力によって運営されるもの。そのために賞罰を否定するのです。


アドラー心理学では、人間の抱えるもっとも根源的な欲求は、「所属感」だと考えます。つまり、孤立したくない。「ここにいてもいいんだ」と実感したい。孤立は社会的な死につながり、やがて生物的な死にもつながるのですから。では、どうすれば所属感を得られるのか?
 ……共同体のなかで、特別な地位を得ることです。「その他大勢」にならないことです。
」(p.151)

人が賞賛されたがるのは、「所属感」を得たいからだと言います。なぜなら、子どもは例外なく劣等感を抱えて生きているからです。その弱さのために共同体をつくり、協力関係の中に生きようとするのが人間なのだと。

それをアドラーは、「共同体感覚」と呼びます。他者との強固なつながりを求めること。それは劣等感に根ざした、本能的な生きる方法なのです。

すべての人には共同体感覚が内在し、それは人間のアイデンティティと深く結びついているのです。」(p.148)

しかし、承認欲求をいくら満たしたところで、「所属感」は得られないと言います。

ほめられることでしか幸せを実感できない人は、人生の最後の瞬間まで「もっとほめられること」を求めます。その人は「依存」の地位に置かれたまま、永遠に求め続ける生を、永遠に満たされることのない生を送ることになるのです。」(p.152)

他人から愛されることを求め、他人に依存してしまう。それと同じですね。

「わたし」の価値を、他人に決めてもらうこと。それは依存です。一方、「わたし」の価値を、自らが決定すること。これを「自立」と呼びます。」(p.152)

他者からの承認ではなく、自らを承認するしかありません。他人から愛されるのを求めるのではなく、自ら自分を愛するのです。

しかし、なかなか「その他大勢」にならないことは、難しいようにも思えます。そんな個性があると思えないから、自信を持てないのです。それに対しては、「普通であることの勇気」を持てと言います。

いいですか、「人と違うこと」に価値を置くのではなく、「わたしであること」に価値を置くのです。それがほんとうの個性というものです。」(p.153)

他者から認められようとして、他者が望む何かになろうとするのではなく、今あるそのままの自分を受け入れること。自分のままでいいのだと認めること。それが重要なのです。


アドラーは、人が社会で生きていくにあたっては、直面せざるを得ない課題があると言っています。それが「人生のタスク」と呼ばれるもので、「仕事のタスク」「交友のタスク」「愛のタスク」の3つからなります。

この3つのタスクは、すべて対人関係の課題だと言います。「仕事のタスク」と呼んでも、それは労働の課題ではなく、仕事に関する人間関係の課題なのです。

アドラーは、「すべての悩みは、対人関係の悩みである」と言っています。もし宇宙に自分一人しか存在しないなら、何の悩みもありません。他の人がいることによって、人の苦悩は生じるからです。

アドラーの語る「すべての悩みは、対人関係の悩みである」という言葉の背後には、「すべての喜びもまた、対人関係の喜びである」という幸福の定義が隠されているのです。」(p.178)

つまり、私たちの苦悩も喜びも人間関係にある、ということですから、私たちの人生とは人間関係であるとも言えるわけです。「神との対話」でも、人間関係がなければ私たちは進化成長できないと言っていますから、この点でも符合しますね。


「仕事のタスク」は、人間が分業することで身体的な弱さを克服しようとしたことで生じました。「われわれは働き、協力し、貢献すべきである」と言っているのは、それが人間が選んだ生き残り戦略でもあるからです。

要するに、人間はひとりでは生きていけないのです。孤独に耐えられないとか、話し相手がほしいとかいう以前に、生存のレベルで生きていけない。そして他者と「分業」するためには、その人のことを信じなければならない。疑っている相手とは、協力することができない。」(p.188)

分業する協力者として、他人を信用することが重要なのです。相手のことが好きとか嫌いとか関係なく、協力せざるを得ないから信用するのです。

そして、他者からも信用されることが重要です。「仕事のタスク」においては、どんな職業につくかは関係ありません。それは、どんな仕事であっても、共同体の誰かがやらなければならない仕事であるためです。

それより、仕事に取り組む姿勢が重要だと言います。能力よりも、「この人と一緒に働きたい」と思われることが重要だと。なぜなら、その思いによって、互いに助け合おうとするからです。

そうした「この人と一緒に働きたいか?」「この人が困ったとき、助けたいか?」を決める最大の要因は、その人の誠実さであり、仕事に取り組む態度なのです。」(p.193)


教育の現場で求められるのは、「仕事のタスク」ではなく「交友のタスク」だとアドラーは言います。なぜなら、教育の目標は「自立」であり、自立を援助するには尊敬からはじめなければならないからです。

ありのままのその人を尊重する。あなたは「あなた」のままでいいのだ。特別である必要はない。あなたが「あなた」であることには、それだけで価値が有るのだ。尊敬を通じ、そう伝えることによって子どもたちは、くじかれた勇気を取り戻し、自立の階段を登りはじめます。」(p.197)

なぜ、何の関係もない人をありのままに受け入れ、尊重できるかと言えば、その人を信頼するからだと言います。つまり、尊敬と信頼は同義なのです。

「仕事のタスク」では信用がポイントになりますが、「交友のタスク」では信頼がポイントになります。

どんな相手であっても、「尊敬」を寄せ、「信じる」ことはできます。それは環境や対象に左右されるものではなく、あなたの決心ひとつによるものなのですから。」(p.199)

「信用」は、相手が役割を演じてくれると信じるだけです。相手の人格は関係ないし、嫌いなら嫌いのままでかまいません。しかし「信頼」は、まるごと受け入れる必要があります。ただしそれは、相手の思想信条を鵜呑みにすることではありません。

信じることは、なんでも鵜呑みにすることではありません。その人の思想信条について、あるいはその人の語る言葉について、疑いの目を向けること。いったん保留して自分なりに考えること。これはなんら悪いことではないし、大切な作業です。その上で成すべきは、たとえその人が嘘を語っていたとしても、嘘をついてしまうその人ごと信じることです。」(p.205)

まず相手から信じてもらえなかったら、何を語っても相手には伝わりません。正論であればあるほど、それは反発されてしまいます。ですから、相手から信じてもらえるために、まず自分から先に相手を信じるのです。

また、正論で相手をねじ伏せようとしても、相手はそれに同意しようとはしません。なぜなら、正義は人それぞれだからです。

ちいさな口論から国家間の戦争まで、あらゆる争いは、「わたしの正義」のぶつかり合いによって発生します。「正義」とは、時代や環境、立場によっていかようにも変化するものであり、唯一の正義、唯一の答えなど、どこにも存在しません。「正しさ」を過信するのは、危険でしょう。」(p.207)

相手が信じようと信じまいと関係なく、まず自分から信じる。その無条件の信頼によってのみ、相手からの信頼が得られるようになります。そして、それができるためには、前提条件があると言います。

自分を愛することができなければ、他者を愛することもできない。自分を信じることができなければ、他者を信じることもできない。」(p.209)

無条件に他人を信じることができないのは、無条件に自分を信じていないからです。だから最初に、自分自身を信じ、受け入れ、愛することが必要になります。


「交友のタスク」を行うには、「仕事のタスク」で必要な信用ではなく、信頼が必要になります。それは、無条件に相手を信じることです。

仕事で問われるのは機能であり、自分自身ではありません。常に他人と比べられる中で、能力を磨いて競争に勝つことでしか、共同体の中での所属感を得ることができません。

ですから、「仕事のタスク」から「交友のタスク」へと踏み出すことが重要なのです。そうしなければ、本当の意味での幸せを得ることができないから。

無条件に信じたからと言っても、相手から信じてもらえる保証がないのが「交友のタスク」です。だからこそ、「課題の分離」という考え方が重要になると言います。

そこは「課題の分離」です。他者があなたのことをどう思うのか、あなたに対してどんな態度をとるのか。これはいっさいコントロールできない、他者の課題なのです。」(p.211)

どうすれば相手が信じてくれるかは、コントロールできません。つまり、相手の思考を理解することはできないのです。人と人は、わかり合えない関係になります。

当然、相手の考えていることがすべて「わかる」ことなどありえません。「わかりえぬ存在」としての他者を信じること。それが信頼です。われわれ人間は、わかり合えない存在だからこそ、信じるしかないのです。」(p.211)


アドラーはこのように、徹底的にわからない他人を信じることが重要だと説きます。その理由は、彼が軍医として第一次世界大戦に従軍した経験にあると言います。

アドラーは、どこまでも実践的な人物でした。フロイトのように、戦争や殺人、また暴力の「原因」を考えるのではなく、「いかにすれば戦争を食い止められるか」を考えたと言ってもいいでしょう。
 人間は戦争を、殺人や暴力を希求する存在なのか? そんなはずはない。人間が誰しも持っているはずの、他者を仲間だと見なす意識、つまり共同体感覚を育てていけば、争いを防ぐことはできる。そしてわれわれには、それを成し遂げるだけの力があるのだ。……アドラーは、人間を信じたのです。
」(p.214)

このように、何の根拠もなく人間を信じ、空虚な理想を追い求める姿が、非科学的だと批判を受けることになります。

しかし、アドラーは非科学的だったのではなく、建設的だったのです。彼の原理原則は「なにが与えられているかではなく、与えられたものをどう使うか」だったのですから。」(p.215)

世界平和のためになにかをするのではなく、まずは目の前の人に、信頼を寄せる。目の前の人と、仲間になる。そうした日々の、ちいさな信頼の積み重ねが、いつか国家間の争いさえもなくしていくのです。
(中略)
 いいも悪いも、そこからはじめるしかないのです。世界から争いをなくしたければ、まずは自分自身が争いから解放されなければならない。生徒たちに自分を信じてほしいと思うのならば、まずは自分が生徒たちを信じなければならない。自分を棚に上げて全体の話をするのではなく、全体の一部である自分が、最初の一歩を踏み出すのです。」(p.215 - 216)

まずは自分から無条件に他人を信じる。そこが世界平和のスタートなのだと、アドラーは考えたのです。


ここからいよいよ、アドラーが掲げる人生の最後のタスク、「愛のタスク」に入ります。「仕事のタスク」「交友のタスク」と進んだ後に、最後に残るのが「愛のタスク」です。まずアドラーは、一般的に考えられている「愛」についての常識を疑います。

愛とは、一部の心理学者たちが考えているような、純粋かつ自然的な機能ではない」(p.227)

異性と出会った瞬間に恋に落ちるような、そういう情熱的な心の衝動は、「愛」ではないと言うのですね。では、アドラーが考える「愛」は、どんなものでしょうか。

築き上げるものです。「落ちる」だけの愛なら、誰にでもできます。そんなものは、人生のタスクと呼ぶに値しない。意志の力によって、なにもないところから築き上げるものだからこそ、愛のタスクは困難なのです。」(p.227)

落ちる愛は、所有欲や征服欲と同じだと言います。ただ自分のものにしたいだけ。本当の愛は、手に入れることで終わるのではなく、手に入れたところから始まると言います。

彼が一貫して説き続けたのは能動的な愛の技術、すなわち「他者を愛する技術」だったのです。
(中略)
 たしかに、他者から愛されることはむずかしい。けれども、「他者を愛すること」は、その何倍もむずかしい課題なのです。」(p.231)

われわれは、ひとりで成し遂げる課題、あるいは20人で成し遂げる仕事については、教育を受けている。しかし、ふたりで成し遂げる課題については、教育を受けていない」(p.234)

つまり、愛とは「ふたりで成し遂げる課題」である。しかしわれわれは、それを成し遂げるための「技術」を学んでいない。」(p.235)

アドラーは、講演のときに聴衆から恋愛相談を受けることがあったそうです。どうすれば意中の人から愛されるか? そういう人々の期待に反して、彼はどうすれば愛せるかを説きました。なぜなら、我々は愛する技術を知らないからです。


そこでいよいよ、愛する技術に入っていきます。その前提として、個人としての幸福について復習します。

アドラーは言います。われわれはみな、「わたしは誰かの役に立っている」と思えたときにだけ、自らの価値を実感することができるのだと。自らの価値を実感し、「ここにいてもいいんだ」という所属感を得ることができるのだと。」(p.237)

しかし、実際は本当に誰かの役に立っているかを知る術がありません。たとえば農家が野菜やコメを作っていても、消費者に会うわけではないので、直接その気持を知ることはできません。ですから、「幸福とは、貢献感である」と言うのです。「わたしは誰かの役に立っている」という主観的な感覚です。


次に、幸せを求める主体を考えます。仕事においては、利己心から「わたしの幸せ」を追求すると、結果として誰かの幸せにつながるという、健全なギブ・アンド・テイクが成り立ちます。それが分業でした。そして交友の関係では、「あなたの幸せ」を考えて、ひたすら信じ、ひたすら与えるという利他的な態度が求められました。

では、愛の関係における主体は何かと問います。何を追求することで成立するのかと。

利己的に「わたしの幸せ」を求めるのではなく、利他的に「あなたの幸せ」を願うのでもなく、不可分なる「わたしたちの幸せ」を築き上げること。それが愛なのです。」(p.239)

つまり、「わたし」でも「あなた」でもない「わたしたち」を人生の主語にする。その幸せを考える。それが「愛のタスク」になります。

われわれは生まれてからずっと、「わたし」の目で世界を眺め、「わたし」の耳で音を聞き、「わたし」の幸せを求めて人生を歩みます。これはすべての人がそうです。しかし、ほんとうの愛を知ったとき、「わたし」だった人生の主語は、「わたしたち」に変わります。利己心でもなければ利他心でもない。まったくあたらしい指針の下に生きることになるのです。
(中略)
幸福なる生を手に入れるために、「わたし」は消えてなくなるべきなのです。」(p.240)

個の概念が消えてなくなり、「わたしたち」という一体化したものが人生の主語になることが、「愛のタスク」では必要になるのですね。

愛とは「ふたりで成し遂げる課題」である。愛によってふたりは、幸福なる生を成し遂げる。それではなぜ、愛は幸福につながるのか? ひと言でいえばそれは、愛が「わたし」からの解放だからです。」(p.240 - 241)


子どもは、その弱さのゆえに、大人たちを支配して生きようとします。そうしなければ、生きていけないからです。泣けば親が面倒を見てくれる。それが赤ちゃんの生きる術なのですね。

そしてそれは、大人になってからも続きます。自分の不幸や過去のトラウマを武器として、他人をコントロールしようとします。そういう大人をアドラーは、「甘やかされた子ども」と呼んで、そのライフスタイル(世界観)を批判しました。

しかしながら、いつまでも「世界の中心」に君臨することはできない。世界と和解し、自分は世界の一部なのだと了解しなければならない。」(p.244)

赤ちゃんが過剰な自己中心性から始まるのは、生きるために仕方がないことです。しかし大人になったなら、そこから脱却することが大切なのです。そこで、教育の目標である「自立」が意味を持ってきます。

自立とは、「自己中心性からの脱却」なのです。」(p.244)

そして愛は、「わたし」だった人生の主語を、「わたしたち」に変えます。われわれは愛によって「わたし」から解放され、自立を果たし、ほんとうの意味で世界を受け入れるのです。
(中略)
愛を知り、人生の主語が「わたしたち」に変わること。これは人生の、あらたなスタートです。たったふたりからはじまった「わたしたち」は、やがて共同体全体に、そして人類全体にまでその範囲を広げていくでしょう。」(p.244 - 245)

それが「共同体感覚」だと言います。本能として人間が持つ「共同体感覚」が、こうして私たちの中で育っていくのです。


そこで、「愛」についてのライフスタイルがどう変わっていくかに注目します。まず赤ちゃんの時は、自分が無力であるために、生きるために愛されようとすると言います。

われわれはみな、命に直結した生存戦略として「愛されるためのライフスタイル」を選択するのです。」(p.240)

「愛されるためのライフスタイル」とは、いかにすれば他者からの注目を集め、いかにすれば「世界の中心」に立てるかを模索する、どこまでも自己中心的なライフスタイルなのです。」(p.241)

赤ちゃんの場合は、生存するために自己中心的なライフスタイルが必要でした。しかし、自立することなく成長すると、大人になってもこのライフスタイルを持ち続けることになります。

自立とは、経済上の問題でも、就労上の問題でもありません。人生への態度、ライフスタイルの問題です。……この先あなたも、誰かのことを愛する決心が固まるときがくるでしょう。それは、子ども時代のライフスタイルとの決別を果たし、真の自立を果たすときです。われわれは、他者を愛することによって、ようやく大人になるのですから。」(p.250)

自立するとは、ただ単に働いて生活できるようになることではなく、ライフスタイルを変えることだと言います。「愛のタスク」に取り組むことによって、自立できるのです。

愛は自立です。大人になることです。だからこそ、愛は困難なのです。」(p.250)


自立することが困難なのは、そこに不安があるからです。赤ちゃんのころは、愛されることが重要で、そのために考え、行動してきました。しかし、自立するときは、その考えを捨てなければなりません。

愛されることに執着してきた人にとって、それを捨てることは恐怖です。その不安を横に置いて、一歩を踏み出すのは勇気が要ります。そこで、フロムの言葉から次のように引用します。

人は意識のうえでは愛されないことを恐れているが、ほんとうは、無意識のなかで、愛することを恐れているのである」(p.257)

愛するとは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである」(p.257 - 258)

愛することを恐れるのは、たとえ愛しても愛されないかもしれないという可能性があるからです。ということは、やはり愛されないかもしれないという不安が、愛することを躊躇させると言えるでしょう。

私たちは、愛されないかもという不安があるために、相手から愛されているという一定の保証が確保されるまで、積極的に愛そうとしない場合が多いです。

一方、フロムの語る「愛すること」は、そのような担保をいっさい設けません。相手が自分のことをどう思っているかなど関係なしに、ただ愛するのです。愛に身を投げるのです。」(p.258)

愛されない不安を抱えたままでは、本当の意味で「愛する」ということはできないのですね。そこでアドラーは、「課題の分離」を持ち出します。

課題を分離するのです。愛することは、あなたの課題です。しかし、相手があなたの愛にどう応えるか。これは他者の課題であって、あなたにコントロールできるものではありません。あなたにできることは、課題を分離し、ただ自分から先に愛すること、それだけです。」(p.259)

課題を分離して、自分は自分の課題である「愛する」ことに取り組む。つまり、勇気を出して「愛のタスク」を行うことなのです。結果に執着せず、行為(プロセス)にこだわることです。


自分を愛してくれる誰かを待つのではなく、自分から積極的に愛していく。それが「愛のタスク」です。そこでアドラーは、特別な相手の出現を否定します。

それではまず、アドラーの基本的な立場をお答えしましょう。恋愛にしろ、人生全般にしろ、アドラーは「運命の人」をいっさい認めません。」(p.262)

なぜ、多くの人は恋愛に「運命の人」を求めるのか? どうして結婚相手にロマンティックな幻想を抱くのか? その理由についてアドラーは、「すべての候補者を排除するため」だと断じます。」(p.262)

「出会いがない」と言って恋愛対象となる異性が現れないことをなげくのは、関係に踏み出す勇気がないからです。そういう自分を正当化するためなのです。

そして可能性のなかに生きているのです。幸せは、向こうから訪れるものだと思っているのです。「いまはまだ幸せが訪れていないが、運命の人に出会いさえすれば、すべてがうまくいくはずだ」と。」(p.264)


では、結婚とは何なのでしょう? 人生の中で、この人となら一緒に暮らせるという特別な相手を選び、家庭を作ることではないのでしょうか?

結婚とは、「対象」を選ぶことではありません。自らの生き方を選ぶことです。」(p.265)

反発の多い議論であることは認めます。しかし、われわれはいかなる人をも愛することができるのです。」(p.265)

もちろん、誰かとの出会いに「運命」を感じ、その直感に従って結婚を決意した、という人は多いでしょう。しかしそれは、あらかじめ定められた運命だったのではなく、「運命だと信じること」を決意しただけなのです。
 フロムはこんな言葉を残しています。「誰かを愛するということはたんなる激しい感情ではない。それは決意であり、決断であり、約束である」と。
」(p.265 - 266)

日本では以前、見合い結婚がほとんどでした。親同士が婚約をして、当人同士は結婚式当日に初めて会うなんてことも普通にありました。それで、結婚が上手くいかないかというと、必ずしもそうではなかったのです。

つまり結婚とは、「この人を愛する」という自分の決意に過ぎないのです。そういう生き方をするという意思なのです。相手がどうかではなく、自分がどう考えるか、どう生きるかということなのです。


私たちは、個人の幸せから踏み出して、二人の幸せを得るために、結婚を考えます。ただもっと幸せでありたいから。そのために「愛のタスク」へと進むのです。

フロムは言います。「愛とは信念の行為であり、わずかな信念しか持っていない人は、わずかにしか愛することができない」と。……アドラーならこの「信念」を、「勇気」と言い換えるでしょう。あなたはわずかな勇気しか持っていなかった。だから、わずかにしか愛することができなかった。愛する勇気を持てず、子ども時代の、愛されるライフスタイルにとどまろうとした。それだけなのです。」(p.271)

何の根拠も求めず、ただ「愛する」と決める。自分がそうしたいから、そうする。その勇気が必要なのですね。

愛する勇気、すなわちそれは、「幸せになる勇気」です。」(p.271)

われわれは他者を愛することによってのみ、自己中心性から解放されます。他者を愛することによってのみ、自立を成しえます。そして他者を愛することによってのみ、共同体感覚にたどりつくのです。」(p.272)

本当の意味で「愛する」ことが、自己中心性から脱却して自立し、幸せになるための方法だと言います。

自己中心性とは、生存への不安から生じるものです。つまり、不安を取り除くには、愛に踏み出すしかない。まさに「神との対話」が示しているように、不安の対極は愛であり、愛か不安のどちらを選択するか、その決断が私たちに求められているのです。


しかしアドラーは、「貢献感を持てれば、幸せが得られる」と言っていました。この言葉からすると、愛することは無関係であるようにも聞こえます。それについて、このように言います。

問題は貢献感を得るための方法、もしくは生き方なのです。本来、人間はただそこにいるだけで誰かに貢献できています。目に見える「行為」ではなく、その「存在」によってすでに貢献しています。なにか特別なことをする必要はないのです。」(p.272)

つまり、何かをすることではなく、存在するだけで貢献感が得られると言うのですね。これは、なかなか実感しづらいかもしれません。

それはあなたが、「わたし」を主語に生きているからでしょう。愛を知り、「わたしたち」を主語に生きるようになれば、変わります。生きている、ただそれだけで貢献し合えるような、人類のすべてを包括した「わたしたち」を実感します。」(p.272 - 273)

たしかに、誰かと愛し合う関係にあるときは、その相手が生きていさえすれば、それで十分だと思えます。それはまさに、存在するだけで貢献していることになるでしょう。そして、そういう関係であれば、自分も存在しているだけで、相手に貢献しているのだと実感できると思います。

ただ、その特定のパートナーだけでなく、すべての人にその感覚を広げていけるのだとアドラーは言います。それが「共同体感覚」なのだと。


けれども、私たちが本当に共同体感覚を実感する日は来るのでしょうか? 戦争をやめ、互いに手を取り合う日が来るのでしょうか? アドラーは、それが明確でなくても前に進めと言います。

しかし、実際の人生は、なんでもない日々という試練は、「最初の一歩」を踏み出したあとからはじまります。ほんとうに試されるのは、歩み続けることの勇気なのです。」(p.275)

いつ達成されるのか、本当に達成されるのかもわからない。でも、歩み続けよと言うのです。不都合なことと出合ったなら、理論を変えてでも進むのです。アドラーは、そうあることを望みました。

われわれはアドラーの思想を大切にするからこそ、それを更新していかなければならない。原理主義者になってはならない。これは、あたらしい時代に生きる人間に託された、使命なのです。」(p.276)


そして最後に、生き方についての指針を示します。

すべての出会いとすべての対人関係において、ただひたすら「最良の別れ」に向けた不断の努力を傾ける。それだけです。」(p.277)

ある意味で人は、別れるために出会っているようなものです。ですから、その別れを最良のものにする生き方こそが、われわれが日々努力すべき点なのです。

いつか必ず訪れる「別れの日」に、「あなたと出会えて良かった」「あなたと過ごした時間は最高だった」と言えるかどうか…。

では、そう思えるような関係をこれから築いていくしかないでしょう。「いま、ここを真剣に生きる」とは、そういう意味です。」(p.278)

今がスタートです。ここが出発地点です。今、ここがどうであろうと関係なく、今、ここから始めるのです。将来の保証などありません。それがどうなるかは、私たちがどう生きるかにかかっています。

その未来をつくるのは、あなたです。迷うことはありません。未来が見えないこと、それは未来に無限の可能性があるということです。われわれは未来が見えないからこそ、運命の主人になれるのです。」(p.280)


自分の人生の主人になりましょう。主人として生きましょう。アドラーが言う「人生のタスク」に取り組むことで、幸せになりましょう。そして社会を、人類を、幸せにしていきましょう。

それが私たちには可能だと、アドラーは信じています。ですから私たちに、このことを託したのです。

アドラーという偉大なメッセンジャーを送ってくださったことを神に感謝します。そして、こうしてその思想に触れるチャンスをくれた著者の岸見さん、古賀さん、出版に関係された方々に感謝します。

ぜひ、本を手にとって、読んでみてください。ほとんどのページに線を引き、折り目を入れながら読みました。その価値に比べれば、1500円という値段は、あまりに安すぎます。そのいただいた恩恵は、これからの私自身の生き方で、お返ししたいと思います。

「幸せになる勇気」(アドラー心理学)の要点
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 18:07 | Comment(0) | └ 本の要点 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月18日

リストラされました!

このたび、役員を解任されることになりました。つまり、リストラです。

タイで働くようになって15年、今の会社の役員になって12年、社長になって9ヶ月、54歳にしてリストラされました。


2016年5月16日(月)の朝、いつものようにメールをチェックしていると、本社からのメールが届いていました。

タイトルは「退任のお願い」です。

・・・赤木さんには、6月15日付で役員を退任していただきたいと思います。・・・

「役員の退任」をお願いしている文面ですが、要は「解任」です。そしてそれは、役員を辞めて平社員へという意味ではなく、解雇するという意味です。


目の前が真っ白になりました。1ヶ月後には無職になるのです。54歳で、しかも特に何か技術があるわけでもありません。最初の頃はSEをやっていましたが、もう10年以上も経営しかやっていないのです。

強いて言うなら「経営」をしていたという実績がありますが、「経営者求む」なんて求人が、いったいどれほどあると言うのでしょう。再就職できなかったら、路頭に迷うことになります。

蓄えはほとんどありません。今の会社を継続させるために、私財の多くを投入してきたからです。

別にオーナー社長でもなかったのですが、経営者という責任から、そうせざるを得なかったし、そうするのが自分らしいと思ってやってきました。

これからどうしたらいいのか? しばし、そういう答えの出ない思いを巡らせました。


この「幸せ実践塾」は、私がライフワークとしてやっているものです。本業ではありません。これまで、本業での稼ぎがあったからこそ、このライフワークも続けて来られました。

誰もが簡単に幸せになる方法をお伝えするなどと言っているこの私が、リストラされてお先真っ暗に・・・。まるで喜劇ですよね。笑うに笑えませんけど。

けれどもこれは事実です。ほんの3日前に起こったことです。


それでも私は、生きていかなくてはなりません。

この状況を前提として、どう生きるのが自分らしいのか。普段、私が言っていることとやっていることが、この状況でどうリンクするのか。

そんなことが問われることとなりました。


解任の通告から3日経ち、それでも少しずつ動き始めています。

メルマガでは、今、リアルタイムで私のリストラ後の心の動きなどを書いています。もしよろしければ、そちらもご覧になってください。

メルマガ「SJ通信」の申し込みはこちら
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 19:24 | Comment(0) | プロフィール | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月22日

リストラされてわかったこと

先日、「リストラされました!」で、私の身に起こったことを報告しました。

いずれ、タイのIT会社役員という立場ではなくなるので、「プロフィール」のカテゴリにしてあります。

今回は、リストラによってわかったことを書こうと思うので、カテゴリは「ブログ」になります。カテゴリが別々になりますが、続きだと思ってください。


さて、リストラされることがわかったとき、私の頭に最初によぎったのは、「どうやって暮らしていこう?」ということでした。

まず真っ先に、暮らしていけない(=生きていけない)のではないか、という不安が湧き起こったのです。


考えてみると、私には「会社」という後ろ盾がなければ、何も稼ぐための材料がないのです。

もちろん、身体は健康ですし、運転免許くらいはあります。しかし、特別に私でなければ、というような技術とか経験というものは、何もないと感じています。

以前は、SE(システム・エンジニア)として、技術を売って稼いでいました。その仕事には誇りもありましたし、技術力に対する自信もありました。

新技術は日進月歩とは言え、まずをそれを理解して応用できる頭脳が必要です。理解力、論理的な説明力、そういう基礎能力において、私は秀でていると思っていました。

しかし、SEの仕事をしなくなってから約10年間、私は経営ということだけをやってきました。

経営というのは、なかなか範囲が絞りにくいし、何をもって経営のプロと言えるのが、人それぞれ考え方も違ってくるという、ある意味で不思議な職種です。

最終的に会社の業績に責任を取るのであれば、あとはどうしようとかまわない。それが経営でもあると思うのです。


初めての経営でしたから、私も本をたくさん読んで勉強しました。具体的な技術では、日商簿記2級の力が役立ちました。財務諸表を読めますし、会社のお金の動きがわかるからです。

また、本職とは無関係でしたが、SEという立場上、PCについても詳しくなければと思い、ExcelやWordなどを使えることも強みでした。それによって、Excelマクロを駆使して、簡単に経営の資料を作成することができました。

伝票入力から仕分け、損益計算書の作成まで、マクロを使って簡単に作れるようにもしました。これによって、本社への報告がスムーズにできるようになりました。

しかし、その程度のものと言えば、その程度のものです。どこでも必要としている技術でもないし、ある意味では、若い事務職の仕事とも言えます。


そんな風に思っているので、私には何も売るべき技術がないなあ、と感じていました。

ですから、リストラと聞いた時、まっさきに「どうやって稼ぐの?」ということが心配になったのです。

54歳という年齢もネックですよね。定年が60歳だとしたら、今すぐ使える技術がないのであれば、誰も使いたくはないでしょう。


では、私には、いったいどんな強みがあるのか?それを考えてみても、なかなかそういう強みが思いつきません。

PCを多少使えるとは言え、別にPCの専門家というわけではありません。文章は書けますけど、じゃあ小説家になれるかというと、そんな他人を魅了するような小説が書けるほどの力量もないし、まずそういう情熱もありませんから。

そうなのです。「私には何もない。」それが、リストラされてみて、よくわかりました。これまでも何となく気づいていたことではありましたが、それがはっきりしたのです。


とは言え、おそらくそれは、私の見方なのだろうと思っています。

私も、これまでだてに50年以上も生きてきたわけではありません。肩書で示せるような技術や能力ではないとしても、何らかの優れたものを磨いてきたはずです。

それを明確に示せないだけであって、本当は何もないわけではない。そう思っています。

では、それをどうしたらいいのか?それが、これから問われることなのだろうと思います。

とりあえずスタートは、安心していること。導きに身を任せること。これをやっていこうと思っています。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 17:07 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月25日

ニュー・アース



スピリチュアル関係では何度もその名前を耳にしたエックハルト・トール氏の本を読みました。翻訳は吉田利子さん「神との対話」シリーズの翻訳で有名です。

私は、トール氏の本を読むのは初めてです。何かのDVDで、その話を聞いたことはあります。

なぜこの本を買うことにしたのか、もう随分前なので忘れてしましました。それだけ長い間、積んであった本ですが、やっと読み終えました。最初はちょっととっつきにくい感じがしましたが、読み進めていくうちに引き込まれ、この厚い本を飽きずに読み終えることができました。


ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。

本書のいちばんの目的は、読者の頭に新しい情報や信念を付け加えることでも、何かを説得することでもなく、意識を変化させること、つまり目覚めさせることだ。
(中略)
 本書の当事者はあなた自身だ。あなたの意識の状態が変わらないなら、本書の意味はない。だが目覚めることができるのは、準備が整った者だけだ。まだ全員というわけではないが、準備ができている人は多いし、一人が目覚めるたびに集団的な意識のうねりは大きくなり、その他の人々の目覚めが容易になる。目覚めるということの意味がわからない方は、本書を読み続けていただきたい。目覚めることによってのみ、目覚めるとは何なのかが、ほんとうに理解できる。」(p.16)

冒頭で、このように本書の目的を語ります。読者を目覚めさせること。それが目的なのです。


自分の思考と自分自身とを切り離し、一瞬であっても、考えている心からその背景にある気づきに自分自身のアイデンティティが移行したことがある人は、その体験を決して忘れない。またアイデンティティの移行が非常に微妙だったためにほとんど気づかなかったり、理由はわからないままに喜びや内面的な安らぎだけを感じ取る人もいる。」(p.40)

ここで言うところの「アイデンティティの移行」が、私が経験したものを指すのかどうかはわかりません。私も2007年ころと今回、大いなるものに抱かれたような安心感と解放感を感じました。


自分が怨恨を抱いているかどうか、自分の人生において完全にゆるせない何者かが、つまり「敵」がいるかどうかを見極めるには、正直にならなければいけない。怨恨を抱いているのなら、思考と感情の両方のレベルでその怨恨を生かし続けている思考に気づき、その思考への身体的対応の結果である感情をしっかりと感じることだ。怨恨を捨てようとしてはいけない。怨恨を捨てようとかゆるそうとしてもうまくいかない。怨恨はまがいものの自己意識を強化してエゴを温存する以外何の役にも立たないと気づいたとき、自然にゆるすことができる。」(p.77)

私たちの生活において、怒りをどう処理するかということは、実に大きな問題です。この処理が上手くできず、恨みを抱えて自己や他者を傷つけたりしがちです。

許そうとすると、許せない自分を許せなくなったり、許せなくて当然だという理由をつくりあげたりします。ですから重要なのはまず、その思考をしっかりと観察し、湧き起こった感情を感じ切ること。それをしなければ、本当の意味での許しはできないのですね。


実は不満を言っているときは、自分が正しくて不満や拒否反応の対象である人や状況は間違っていると暗黙のうちに想定しているのだ。
 自分が正しいという思いほど、エゴを強化するものはない。正しいというのは、ある精神的な立場−−視点、見解、判断、物語−−と自分を同一化することだ。もちろん自分が正しいと言うためには、間違っている誰かと比較しなくてはならない。だからエゴは自分が正しいと思うために、好んで誰かが間違っていると決めつける。
」(p.78)

すぐに他人を批判非難し、自分の正義を押し付けようとする人は、それによってエゴを強化していることになります。


他人に傷つけられそうになって自分や誰かを守る必要がある場合もあるが、「悪を退治する」のが自分の使命だと考えないように気をつけたほうがいい。そんなふうに考えると、自分も闘う相手と同じことになってしまう。無意識のままで闘うと、あなた自身が無意識に引っ張り込まれてしまう。無意識つまりエゴイスティックな行動は、闘っても退治できない。たとえ相手を打ち負かしても、その無意識は単にあなたのなかへ移行するか、新しい姿で現れるだけだ。何を相手に闘っても、闘えば相手はますます強くなるし、あなたが抵抗するものはしつこく存在し続ける。」(p.86)

闘いは心の癖で、そういう癖から生じる行動はすべて、悪と想定される敵をかえって強くするし、たとえ闘いに勝っても打ち負かした敵と同じような、それどころかもっと手ごわい新しい敵、新しい悪を生み出す。」(p.87)

抵抗すること、闘うことは、その対象に力を与えることになると、「神との対話」でも言っています。自分の正義を振りかざして他者を断罪する行為は、他者の存在を強め、さらなる闘いに引き込まれるのです。

エゴから解放されるために必要なのは、エゴに気づくことだけだ。気づきとエゴは共存できないからである。」(p.89 - 90)

闘うのではなく、気づくことが重要なのだと言います。そうすることでエゴから解放され、目覚めることができるのだと。

スピリチュアルな目覚めとは、自分が知覚し、体験し、考え、感じている対象はつきつめてみれば自分ではないし、つねに移ろう事物のなかに自分自身を発見することはできない、とはっきり見抜くことである。」(p.90)

エゴは物事に自分を同一化して、「自分の○○」のように定義します。しかし、そこに自分はいないのです。それに気づくことが目覚めなのです。


エゴの底流にあってすべての行動を律しているのは不安である。自分が何者でもないという不安、存在しなくなるという不安、死の不安だ。結局エゴの行動はすべて、この不安を解消するためなのだが、エゴにはせいぜい親密な人間関係や新しい所有物やあれこれの勝利によって一時的にこの不安を紛らすことしかできない。幻想は決してあなたを満足させてはくれない。ほんとうのあなたに気づくことができれば、それだけがあなたを解放してくれる。」(p.92)

エゴを突き動かしているのは、「不安」なのですね。しかし、不安を動機とした行動は、また不安を生み出すだけです。したがってエゴの行動では、本当の安心は得られません。


怒りや恨みなど、ネガティブな状態は、自分自身に悪影響を及ぼします。それなのに、どうしてそういう考え方をするのでしょう?

ネガティブな状態になったとき、あなたのなかには必ずその状態を望む何者かがいて、そのネガティブな状態を喜びだと感じるか、それによって欲しいものが手に入ると信じている。」(p.125)

だから自分のなかにネガティブな状態が生まれたとき、そのネガティブな状態に喜びを感じる、あるいはそれが目的達成に役立つと考える部分があると気づけたなら、あなたはまさにエゴに気づいたことになる。そのとき、あなたのアイデンティティはエゴから気づきへとシフトしている。エゴが縮み、気づきが成長したということだ。」(p.125)

まず自分がネガティブな状態になっていると気づくこと。そして、自分の中にそれを望む部分(=エゴ)があると気づくこと。アドラー心理学で言うなら、その目的ですね。それに気づけば、自分の本質ではないエゴの存在に気づいたことになるのです。


それでは、いま安らぎを得るにはどうすればいいか? いまという瞬間と仲直りすることだ。いまという瞬間は、生命というゲームが展開している場である。生命は他のどこで展開することもあり得ない。いまという瞬間と仲直りしたら何が起こるかを、自分には何ができ、どんな行動を選ぶことができるかを、それよりもあなたを通して生命がどう展開するかを見つめよう。生きる秘訣、すべての成功と幸福の秘訣は、次の言葉に要約できる。「生命とひとつになること」。生命とひとつになることは、いまという時とひとつになることだ。そのときあなたは、自分が生命を生きているのではなく、生命があなたを生きているのだと気づく。生命が踊り手で、あんたが舞踊なのだ。」(p.129)

詩的でわかりにくいかもしれませんが、言葉を味わってみてください。多くの人が言うように、「いま、ここ」しか本質的にはあり得ず、それは「ひとつのもの」なのです。そのことに気づくことが、人生の目的であり、成功であり、それは幸せなことなのです。


ときには報酬も名誉や栄達も求めず、集団の大きな目的のために生涯をささげ、個人的なエゴが完全に溶解したように見えることもある。個人的な自己というすさまじい重荷から解放されれば、さぞやせいせいするだろう。そういう集団のメンバーはどれほど仕事が大変でも、どれほどの犠牲を払っても、満ち足りて幸せだと感じる。彼らはエゴを超越しているように見える。問題は、ほんとうにエゴから解放されたのか、それともエゴが個人から集団にシフトしただけなのか、ということだ。」(p.139)

異常なナショナリズムのように、集団の目的のために個を埋没させることがあります。それはエゴの消滅ではないと言うのですね。注意しなければならない点です。


一言で言えば「悟り」とは「いまに在る」ことです。それは具体的に、次のようなことだと言います。

考えても「いまに在る」ことは理解できない。それどころか多くの場合、誤解する。気遣いがない、よそよそしい、愛情がない、無関心だ、と言われることもある。だがほんとうは、思考や感情よりももっと深いレベルで関心を寄せている。それどころか、そのレベルでこそ、ただ関心を寄せるだけでなくほんとうに気遣い、ともにいることができる。「いまに在る」静謐(せいひつ)のなかで、あなたは自分と相手の形のない本質を感じる。あなたと相手がひとつだと知ること、それこそが真の愛であり、気遣いであり、共感だ。」(p.192)

マザーテレサは、愛の反対は無関心だと言いました。しかし、一見すると無関心に見えることが、本当の愛であると言うのです。

このことは、愛が何であるかを理解すると、わかるようになります。心配するのは愛ではない、という言葉の意味がわからなければ、本当の愛がわからないのです。


普段、自分を何者だと考えているか?それによって、自分に必要なもの、人生で大事だと感じるものが決まると言います。

「あるいは「私は自分が不死の霊(スピリット)であることを知っている」「もうこんなおかしな世界にはうんざりだ。私が望むのは平安、それだけだ」と言う人もいるだろう。だがそれも電話のベルが鳴るまでのことだ。悪い知らせが来る。株価が大暴落した。取り引きが失敗しそうだ。(中略)相手はあなたのミスだと言う。ふいに怒りや不安がふつふつと湧き起こる。声が荒々しくなる。「もう、黙っちゃいないぞ」。あなたは詰(なじ)り、非難し、攻撃し、自己防衛し、自分を正当化する。すべては自動操縦で行われる。」(p.205)

このように現実の出来事に反応する自分を見るとき、取り引きや金銭などの方が重要だと考えていることがわかります。そして、それを大事だと考えているのは不死の霊(スピリット)ではなく、「小さな私」(=エゴ)なのです。「小さな私」を自分だと考えていることが、これではっきりするのです。


彼らの現実はすべて、自分は何者かという妄想の上に築かれている。それが状況の妨げになり、すべての人間関係を損なう。自分が考える自分に欠乏−−お金でも、承認でも、愛でも−−という考え方がしみつくと、いつも欠乏を経験する。すでにある自分の人生の豊かさを認めず、欠乏ばかりが目につく。すでにある自分の人生の豊かさを認めること、それがすべての豊かさの基本だ。」(p.208)

自分が「小さな私」だと考えていれば、あらゆるものから守らなくてはならなくなります。あらゆる欠乏に対処せざるを得なくなります。しかし、それでは真の豊かさを経験できません。すでにあるものの中に豊かさを見ることが大切なのです。

次のことを何週間か試して、結果がどうなるかを見ていただきたい。人々が物惜しみをして与えてくれないと思っているもの−−賛辞、感謝、援助、愛情をこめた気遣い、等々−−を自分から他人に与えるのだ。そんな持ちあわせはない、って? あるようにふるまえばよろしい。そうすれば出てくる。そして与え始めるとまもなく、与えられるようになる。与えないものは受け取れない。出力が入力を決める。世界が物惜しみをして与えてくれないと思っているものは、あなたがすでにもっているのに出力しようとしないもの、それどころかもっていることを知らないものだ。そのなかには豊かさも含まれる。」(p.208 - 209)

まず自分自身でやってみなさいと言います。たとえなくても、あるふりをして、与えなさいと。そうやって、与えたものが返ってくることを体験するのです。


何が起ころうと気にしない。これは何を意味するのか? 自分の内面は起こった出来事と調和している、ということだ。(中略)その何かと調和しているというのは、起こった出来事との関係に心のなかで抵抗せずにいるということである。起こった出来事に善だの悪だのというレッテルを貼らず、ただあるがままに受け入れるなら、行動もせず、人生を変化させようともしないのか? そうではない。それどころか逆で、いまという時との内的な調和をベースに行動するとき、その行動には「生命」そのものの知性の力が働く。」(p.216 - 217)

これはインドの覚者、J・クリシュナムルティが、自分自身の秘密として「私は何が起ころうと気にしない」と言ったことに対する説明です。

つまり、どんな出来事が起ころうとも、それを否定したり、変えようとするなどの抵抗はせず、「そうか、起こったのか。」という態度で受け入れるということです。しかしそれは、しぶしぶ認めるとか、変化させることを諦めるという受け入れ方ではなく、それを前提として自分らしく生きることです。

「神との対話」では、人は何かによって幸せになるのではなく、まず幸せになって、それを前提として行動するのだと書かれています。ここで言っていることも同じで、自分らしい在り方(愛、幸せ、寛大、豊かなど)を選択して、それを前提として行動するなら、その行動は導かれて、より良い現実を生むのです。

本書では続けて、白隠禅師のエピソードを紹介しています。言いがかりを付けられたとき、白隠禅師は「ほう、そうか?」と言うだけで、批判も否定もしませんでした。

彼は良くても悪くてもいまという瞬間の形をそのまま認めて、人間ドラマには加わらなかった。彼にとってはあるがままのこの瞬間だけがある。起こる出来事を個人的なものとして捉えない。彼は誰の被害者でもない。彼はいまこの瞬間に起こっている出来事と完璧に一体化し、それゆえに起こった出来事は彼に何の力も振るうことができない。起こった出来事に抵抗しようとするからその出来事に翻弄されるし、幸福か不幸かをよそから決められることになる。」(p.218)

自分を守りたかった女性のウソで、生まれた子どもの父親にされてしまった白隠禅師は、子どもを引き取って、愛情を込めて育てました。白隠禅師が抵抗しなかったから、子どもは慈しまれた。そして、女性のウソであったことがわかったとき、すべてが良い方向に解決したのです。

簡単に言えば、エゴとは現在という時との関係の機能不全であると定義してもいい。あなたが現在という時とどのような関係でいたいかを決められるのは、いまのこの瞬間だ。
(中略)
現在という瞬間を友人としたいか、敵としたいか? 現在という瞬間は人生(生命)と切り離すことができないのだから、実は人生(生命)とどんな関係でいたいかを決めることでもある。いまという瞬間を友人としたいと決めたら、まずあなたが働きかけるべきだ。それがどんな姿で現れようとも、友人らしく歓迎すること。そうすればどうなるかはすぐにわかる。人生(生命)はあなたの友人として接してくれる。人々は親切になるし、状況は都合よく展開する。一つの決断があなたの現実をまるごと変化させる。だがこの決断は何度も繰り返してしなければいけない−−それが自然な生き方になるまで。」(p.219)

このように、自分自身が主人公として現在という瞬間との関係をまず決めるのだと言います。友人か、敵か? 相手を見て決めるのではなく、まず自分が決めるのです。

そして友人だと決めたなら、相手(現在という瞬間=起きた出来事)がどうかに関係なく、そのように扱うこと。そすると相手もまた、友人として接してくれるのです。それを何度も何度も繰り返すことで、それが私たちの習慣となり、生き方になるのです。


現在という瞬間を友人としようという決断は、エゴの終わりを意味する。エゴは決して現在という瞬間と仲良くできない。ということは、人生(生命)と調和できないということだ。エゴの本質は「いま」を無視し、抵抗し、貶(おとし)めるようにできている。エゴは時間のなかで生きている。エゴが強ければ強いほど、人生はいっそう時間に支配される。そうなるといつも過去か未来のことばかり考え、自分がどんな人間かが過去によって決定され、自己実現を未来に頼ることになる。恐怖、不安、期待、後悔、罪悪感、怒りなどは、意識が時間に縛られて機能不全状態になっていることを示している。」(p.219 - 220)

エゴは、現在という瞬間には生息できません。ですから、いま、ここにいることは、エゴから離れることになります。不安や期待、罪悪感などは、エゴが動きまわって意識が機能不全であることを、魂の声(感情)が教えてくれているのです。


無抵抗は宇宙最大の力を開く鍵である。その力によって、意識(スピリット)が形から解放されて自由になる。(どんな状態、どんな出来事でも)形に対する内なる無抵抗は、形の絶対的なリアリティの否定だ。抵抗すると、形への自分の同一化であるエゴを含め、世界と世界のものごとはますます実際よりもリアルに、頑強に、永続的に見えてくる。世界とエゴに重みと絶対的な重要性を付与してしまい、自分自身と世界を非常に深刻に受けとめることになる。そうすると形の世界の動きを生存競争と誤解し、その誤解がそのままあなたの現実になる。」(p.227)

仏教ではサレンダー(降参する)と言うそうですが、目の前に起こった出来事や現実(=形)は幻想なのですから、それに抵抗しないことです。抵抗すれば、その形はますます力を持ち、存在し続けると「神との対話」でも言っています。


生きる喜び(真の幸福はこれだけだ)は形や所有や達成や人間や出来事を通じてもたらされはしない−−起こる出来事を通じてもたらされることはあり得ない。その喜びは外からもたらされることは決してない。それはあなたのなかの形のない次元から、意識そのものから放出されるものであり、したがってあなたと一体だからである。」(p.232)

幸せとは「生きる喜び」であり、それは自分と不可分なもの。ですから、何があってもなくても関係なく、幸せでいられるのです。


スーフィー教徒に伝わる古い物語で、王から悟る方法を尋ねられた賢者が、ある言葉が彫られた金の指輪を王に渡したという話があるそうです。そこには、「これもまた過ぎ去るだろう」と彫られていたとか。

抵抗しない、判断しない、そして執着しない。この三つは真の自由の、そして悟りを開いた生き方の三つの側面なのだ。
 指輪に記された言葉は、人生の良いときも楽しむなと言っているわけでもないし、苦しいときの気休めを提供しているわけでもない。この言葉にはもっと深い意味がある。すべての状況は変化し、すべての形は(良いものも悪いものも)一時的でしかないと気づきなさいということだ。
」(p.244)

すべての形が無常なら、形に対する執着は減るでしょう。だって、仕方がないことですから。また、その形が良いものであれば、それを愛しく思い、もっと楽しめるでしょう。また、その良いものを失うのではという不安にとらわれず、今を楽しめるはずです。


エゴを押し出して本当の自分に気づくための方法として、トール氏は「呼吸を観察してみる」ことを勧めます。

呼吸を観察してみよう。呼吸を感じてみる。空気が動いて身体のなかに入っていくのを感じる。息を吸ったり吐いたりするたびに、胸と腹がわずかに広がったり収縮したりするのを感じる。一つの呼吸を観察するだけでも、それまでは途切れない思考が続いていたところに空間ができる。意識的な一呼吸(二度三度とすればもっといいが)、これを一日のうちにできるだけ多く繰り返す。これは人生に空間をつくるすばらしい方法だ。」(p.263)

これは簡単にできそうですね。動きを緻密に見て(感じて)いく瞑想法がありますが、それと同じかもしれません。

呼吸を観察すると、いやおうなしにいまこの瞬間に「在る」ことになる−−これがすべての内なる変容の鍵なのだ。」(p.264)

考えるのではなく「観察する」こと。それが、いま、ここに「在る」ためのポイントなのです。


あなたの内なる目的はまことにシンプルだ。目覚めること。あなたはこの目的を地上のすべての人と分かち合っている。これは人類の目的だからだ。あなたの内なる目的は全体の、宇宙の、現出しつつある知性の目的の一環で、それと不可分だ。外部的な目的は時とともに変わり得る。人によっても大きく違う。内なる目的を見出してそれと調和した生き方をすること、それが外部的な目的達成の土台だ。真の成功の基盤である。この調和がなくても、努力や苦闘、断固たる決意、この上ない勤勉、あるいは狡猾(こうかつ)さによってある種の目標を達成することはできるだろう。だがそこに喜びはないし、結局はなんらかの形の苦しみにつながる。」(p.278)

私たちの目的は、「目覚めること」だと言います。そして、これが土台となって初めて、外部的な目標達成も意味を持つと言うのです。

目覚めとは意識の変化であり、その変化した意識のなかで思考と気づきが分離する。ほとんどの人にとって、これは一度限りの出来事ではなくて過程、プロセスとして訪れる。」(p.278)

阿部敏郎さんなどのように、突然に悟ってしまうような特異体験をする人もいます。私はここにあるように、これまでの知識がふと「ストンと腹に落ちる」ような体験が、何度か起こるタイプのようです。

目覚めると、思考に呑み込まれて自分を失うことがなくなる。思考の背後にある気づきが自分だとわかる。すると思考はあなたを振り回して指図をする利己的で自律的な活動ではなくなる。思考の代わりに気づきが主導権を握る。思考はあなたの人生の主役ではなくなり、気づきに仕えるようになる。目覚めとは、普遍的な知性と意識的につながることだ。言い換えれば「いまに在る」こと、思考なしの意識である。」(p.279)

目覚めに関してあなたにできることは何もない。何かをしようとしても、それは目覚めや悟りを価値ある所有物として獲得し、自分をもっと重要に大きく見せようとするエゴの試みになってしまうだろう。」(p.279)

目的が目覚めることであっても、目覚めるためにできることは何もないのです。悟りは与えられるものであって、努力して得るものではないと、多くの人が言っている通りです。


人を助けること、子どもを育てること、どんな分野でも卓越しようと努力することに価値がないと言っているのではありませんよ。こういうことはみな、多くの人にとっては大切な外部的な目的です。でも外部的な目的はつねに相対的で、不安定で、一時的です。だからって、そういうことをするなと言うのではありません。それを内なる第一義的な目的と結びつけなさい、そうすればあなたの行動にもっと深い意味が生まれますよ、と言っているのです。」(p.284)

外部的な目的が、「目覚めること」という第一義的な目的よりも優先すると、エゴが動き出します。ですから、まずは「目覚めること」を第一目的として、外部的な目的を考えるようにと言うのです。

思考と気づきの分離、それが第一義的な目的の核心にあるのですが、これは時間の否定を通して起こります。(中略)
 いましていること、いまいる場所を人生の主要な目的とみなすなら、あなたは時間を否定しているのです。これはとても大きな力ですよ。たったいましていることを第一に考えて時間を否定すると、内なる目的と外部的な目的、『在ること』と『行うこと』がつながります。時間を否定すると、エゴを否定することになるんです。何をするにしても、すばらしくうまくできます。行為そのものが関心の焦点になりますからね。」(p.285)

「時間を否定する」というのは、時間の概念にとらわれないと言うか、過去や未来に思いを馳せないという感じでしょうか。「前後際断」という言葉がありますが、まさにそういうことでしょう。結果というのは未来にあります。結果がどうなるかを気にせず、今行っている行為に意識を集中する。それが「時間を否定する」ことになります。

そして、結果を気にせずに行為に意識を集中することが、「目覚める」という目的にも適うのです。


職場やその他の場所で人と会うときには、相手に関心のすべてを注ぎなさい。あなたは個人としてそこにいるのではなく、気づきの場として、研ぎ澄まされた『いまに在る』状態として、そこにいるのです。人との関わりの本来の理由−−モノの売り買いや情報のやりとりなど−−は、二次的なことになります。二人の人間のあいだに立ち上がる気づきの場、それが人との関わりの第一義的な目的になるのです。」(p.289 - 290)

人間関係においても同様なのですね。仕事を遂行する関係とか、家族が睦み合う関係とか、そのためにする行為だとか、そういうのは二次的なことになります。重要なのは、「目覚めること」という目的に照らして、2人がそこにいるということです。


「世間では、成功とは目標を達成することだと言うでしょう。成功とは勝利であり、認められることや豊かになることが成功の不可欠の要素だと。でもいまあげたのは通常の成功の副産物ではあっても、成功そのものではありません。世間一般に言う成功とは、あなたの行為の結果のことです。成功とは刻苦勉励と幸運が、あるいは強い意志と才能が合わさったものだとか、適切なときに適切な場所に居合わせることだと言うでしょう。どれも成功の要素かもしれませんが、本質ではありません。世間が教えてくれないのは−−知らないから教えられないのですが−−あなたは成功者になることはできない、ってことです。できるのはいま成功すること、それだけです。成功とは、いまこの瞬間での成功でしかない。そうじゃないなんていう誤った世間の言葉に耳を貸してはいけません。では、いまこの瞬間の成功とは何か? 自分の行為に、それがどれほどシンプルな行為であっても、質の裏打ちがあることです。質の裏打ちがあるとは、心遣いと関心、つまり気づきがあるということです。質の裏打ちがあるためには、あなたが『いまに在る』必要があるんです。」(p.290 - 291)

成功について、単に金持ちになったとか、有名になったとか、業績を上げたなどは、本当の成功ではないと言います。何かの結果、手に入れるものではなく、いま成功することしかないのだと。

そのためには、何かの行為をする時、気づいていることが大切なのですね。思考に踊らされずに、気づいて、いま、ここに在ること。それがすぐさま成功だと言います。


人によっては過去ととつぜん、あるいは徐々に訣別(けつべつ)するでしょう。仕事、生活環境、人間関係−−すべてが根源的な変化を遂げます。」(p.293)

内なる目的を認識すると、外部的な変化が起こると言います。それによって、外部的に自分が何をすべきなのか、自ずとわかるのですね。

表面的にはネガティブに見える変化もあるでしょうが、いずれは新しい何かが生まれるための空間ができたのだと気づくでしょう。」(p.294)

リストラや離婚、失恋など、ネガティブな変化があるかもしれませんが、それもまた人生に新たな空間を作るためのもの。別れなければ出会えないし、離れなければ新たな関係は結べないのです。

不安で不確定な時期も通るでしょうね。自分は何をすべきなのか? 人生を動かすのがエゴではなくなると、外部的な安定に対する心理的な要求も(これは結局は幻想ですが)減少します。そうなれば不確定でも生きられるし、それどころか楽しむことさえできるようになります。不確定に安んじていられると、人生に無限の可能性が開けるのです。もう恐怖は行動の支配的な要素ではなくなるし、変化を起こす妨げにもなりません。」(p.294)

安定を失うことは、エゴにとっては恐怖です。しかし、そこでエゴの恐怖に振り回されていては、内的な気づきを得られません。

こういうときこそ、内的な気づきを得て、エゴを追い出すチャンスだとも言えます。そうすることで、不確定な状況でさえ楽しむことができるのだと。


個人の生命(人生)における回帰の動きが起こるときには、つまり老齢や病気、心身の障害、喪失、個人的な悲劇などを通じて形が弱まり解体するときには、スピリチュアルな目覚めの大きなチャンスが存在する。意識が形との同一化を解消するチャンスだ。現代文明にはスピリチュアルな真実はほとんどないので、これをチャンスと捉える人は多くない。だから自分や近しい人にその時が訪れると、人は何かとんでもなく間違ったことが、起こってはならないことが起こったと考える。」(p.307)

私たちの生命(この世の命)がピンチを迎えた時は、実は目覚めのチャンスなのだと言います。しかし、多くの人はそのことに気づかず、チャンスを逃してしまいがちなのでしょうね。

結局のところ、起こるべきでないのに起こることなどないのだ。つまり偉大なる全体とその目的の一部でないことなど、いっさい起こらない。だから外部的な目的に破壊や阻害は内なる目的の発見に、さらには内なる目的と調和したもっと深い外部的な目的の出現に結びつくことがある。大きな苦しみを経験した子どもは、年齢よりもはるかに成熟した幼いおとなへと成長することが大きい。」(p.309)

親との死に別れなど、この世的には不都合な出来事が起こる場合があります。しかしそれも、目覚めにとっては良いことなのかもしれません。


あなたの行動には、つまりあなたを通じてこの世界に流れ込む意識のモードには三種ある。あなたが人生(生命)を宇宙の創造的な力と調和させる三つの方法である。この三つのモードは、あなたの行動に流れ込んであなたの行動をこの世界に生じつつある目覚めた意識と結びつけるエネルギーの周波数を意味する。この三つ以外のモードであれば、あなたの行動はエゴによる機能不全のそれになるだろう。またこのモードは一日のなかでも変化するかもしれないが、人生のある段階ではどれか一つが支配的になるだろう。状況によって適切なモードは異なる。
 目覚めた行動の三つのモードとは、受け入れる、楽しむ、情熱を燃やす、の三種である。
」(p.317)

宇宙の創造的な力と調和させるとは、つまり目覚めようとすることです。エゴをおとなしくさせ、気づきに至ろうとする時、「受け入れる」「楽しむ」「情熱を燃やす」の3つのモードのいずれかを、自分の意識が採用すべきだと言うのです。

たとえば深夜、見知らぬ場所で篠(しの)つく雨のなか、パンクしたタイヤを交換しなければならないとしたら、情熱を燃やすどころか楽しむことだってできないだろうが、受け入れることはできる。受け入れれば、安らかな気持ちで行動できる。」(p.318)

「起こったことはしょうがない」と状況を「受け入れる」ことが、気づきの第一歩なのですね。あとは「楽しむ」「情熱を燃やす」という精神の状態で行動すれば、気づきが加速されるのでしょう。


人生の主たる目的は意識の光をこの世界に持ち込むことだと気づいて、することなすことすべてを意識のための道具にする人が増えていけば、新しい地が生まれる。
「大いなる存在(Being)」の喜びは、意識的であることの喜びである。
 目覚めた意識はエゴから自分を取り戻し、人生(生命)の主役になる。そのときあなたは、それまで長いあいだしてきた行動に意識の力が加わって、いつのまにかもっと大きなものになっていくのを感じるだろう。
」(p.321)

外部的な目的はどうでもよくて、意識のための道具として行動する。それが先ほどの3つのモードであり、そうすることが重要だと気づく人が増えれば、世界が変わっていくのですね。

私たちは、その目的に気づくことで人生の主役となり、本来の自分として生き始めるのです。それが私たちの喜びでもあり、大いなる存在の喜びにもなるのです。


彼らの仕事はこの地球に新しい意識の周波数を根づかせる錨(いかり)となることだ。そこで、この人たちを新しい意識の担い手と呼ぼうと思う。彼らの使命は日々の暮らしを通じて、「ただ在ること」と他者との関わりを通じて、新しい意識を生み出すことだ。
 この人たちはそのあり方を通じて、一見ささいなことに深い意味を付与する。彼らが何をするにしても、その仕事はまさにいま、ここに在ることを通じて広い静寂をこの世界にもたらすことだ。彼らの行動はどんなシンプルなものでも意識がこもっており、したがって質が高い。彼らの目的はすべてのことを聖なるやり方で行うことだ。個々の人間は人類の集団的意識と不可分だから、彼らが世界に与える影響は表面的に見えるよりもはるかに深い。
」(p.328)

ここで言う「彼ら」とは、瞑想家とか黙想家などと呼ばれるような、穏やかな暮らしをする人たちのことです。見た目の派手さはありませんが、人類の集団的意識に与える影響は大きいのですね。


分厚い本を通じて、トール氏はエゴの働きを抑えて、気づくことを促します。目覚めることが本当の目的であり、そのために外部的に行うべきことは何もないのです。

具体的に、どうすれば良いのかという指針も書かれています。とても長く、言い回しもわかりづらい部分もありますが、読んでみる価値のある一冊だと思います。

ニュー・アース
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 17:28 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

●コメントを書く前に、こちらのコメント掲載の指針をお読みください。

ランキングに登録しています。面白かったらボタンをポチッと押してね。
↓↓↓↓
にほんブログ村 ライフスタイルブログ 自分らしさへ

スポンサーリンク