2016年03月01日
小学生のボクは、鬼のようなお母さんにナスビを売らされました。
なんとも長いタイトルの本を読みました。話題になっているとFacebookで友人が紹介していたので、気になって買ったものです。
作者は、文が原田剛(はらだ・たけし)さん、絵が筒井則行(つつい・のりゆき)さんです。原田さんは、株式会社ワイヤーオレンジという出版会社の社長で、この会社は徳島県にあります。
さっそく一部を引用して・・・と言いたいところですが、この本は、見開きで20ページ足らずの絵本です。引用すればネタバレになるので、それはやめておきます。
まず本のタイトルが強烈ですよね。小学生が母親からナスビを売らされるのですから、児童虐待かと思ってしまいます。
しかし、このタイトルは事実であり、この物語は原田さんご自身の実話だそうです。
したがって、現代の価値観とはそぐわない点があるということは、本の冒頭で断り書きがありました。
では、どうしてこうなってしまったのか?
それを書くとネタバレなので、その答えは書きません。
ただ、この絵本は、母親に対する深い愛情から生まれたものだと言っておきましょう。
子どもが母親に愛情を感じるのは、母親の深い愛情があったからです。ナスビを売らせたことの背後に、深い思いやりがあったのです。
この絵本を、自分のお子さんに読み聞かせることで、お子さんはどんなことを感じるでしょうね。
現代なら、ただ勉強するだけで、習い事をやめずに続けるだけで、親から褒められるのかもしれません。
しかし、今から40年くらい昔の日本では、現代とは違う価値観の時代があったのです。
そんな違いに触れてみるだけでも、想像の世界が広がるのではないでしょうか。
いろいろと考えさせられる絵本でした。
私も子どもがいたら、読み聞かせてあげたいなと思いました。
2016年03月02日
あなたの人生を変えるスウェーデン式歯みがき
口腔内の清浄を保つことが免疫力の増加に関係しているという情報を目にしたので、そういう関係の本を探してみました。
それらの中でもっとも気になった本を購入し、読んでみました。その1つがこの本です。決め手は、変な歯ブラシがついてくること。
著者は歯科医師の梅田龍弘氏。付いてきた歯ブラシは、歯科医院専用のワンタフトブラシです。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「口の中の歯垢(細菌)を除去することで免疫力が上がり、いろいろな病気で飲み続けていた薬が不必要となり完治してしまった例は多くあります。内科だけでなく耳鼻咽喉科、小児科、皮膚科の先生も、治りにくい鼻炎、気管支炎、アレルギー、喘息、アトピー等が治ってしまうので驚かれています。」(p.3)
歯磨きの目的は、歯垢を取ること。そして、そのことによって免疫力が上がる。これがポイントのようです。
まずは歯垢は取りにくい、という認識が必要なようです。安易に考えているから、歯磨きがおざなりになります。
また、歯磨きの目的は歯垢を取ることであって、食べかすではない、という認識も重要ですね。
その上で梅田氏が指導する「95%歯垢を取る除菌治療」では、歯ブラシ(ワンタフトブラシ)、歯間ブラシ、フロスを使って歯磨きすることを勧めています。就寝前に最低でも30分かけてしっかりと磨き、朝は簡単にささっと磨くのが良いようです。
「歯垢は、食べてすぐにはできません。4〜5時間経ってからできます。そして歯垢は、寝ている間に増えます(寝ている時には唾液の分泌が少ないからです。唾液には殺菌抗菌作用があります)だから寝る前の歯みがきが一番大事で、時間をかける必要があります。そして朝起きてすぐ(朝、口がねばつくのは細菌が増えているからです)はカンタンに。合計2回のみです。」(p.8)
まずは歯垢染色液で赤く染めて、しっかりと歯垢を落とす歯磨きを実践するところから始まります。こうすることで、本当に歯垢を落とせる磨き方が身につくのだとか。
本書では、「スウェーデン式歯みがき」というのも勧めています。これは、ワンタフトブラシを使ってしっかり2分間磨き、そのあとで普通の歯ブラシで1分間まんべんなく磨くというもの。
簡易的な方法ですが、ワンタフトブラシを使うことで、かなり歯垢を取れる方法のようです。
しかし、ワンタフトブラシでも届かない歯間は、すき間は歯間ブラシで、歯と歯の接触面はフロスを使わないと歯垢が取れません。したがって、より完璧を目指すなら、歯間ブラシやフロスの併用が望ましいことに違いはないのです。
そして、もう一つ重要なポイントとして、口呼吸にならないようにすることが重要だと言います。
「ところが口呼吸を常時繰り返すことで唾液が蒸発してしまうと、そのバランスが崩れ、悪い細菌ばかりがどんどん増えてしまうほか、口腔内に乾燥した冷たい空気や細菌が直接体内に送り込まれるため、鼻呼吸なら100%近くカットされるはずの細菌などが体内に侵入します。
その結果、歯周病、むし歯、口腔内乾燥、歯の着色、全身ではいびき、睡眠時無呼吸症候群、リウマチ、ぜんそく、花粉症、アトピー性皮膚炎などのアレルギー疾患、肺炎や腎炎、さらに糖尿病や高血圧症、白血病、悪性リンパ腫、潰瘍性大腸炎などの原因になります。」(p.22)
まさに口呼吸恐るべしですね。私も口呼吸になりがちなので、少し気になりました。
そして、歯みがきがしっかりできてないと、細菌が鼻の粘膜に着いて炎症を起こしやすく、鼻呼吸ができないことになるそうです。
また、舌の筋肉の衰えから舌が下がって、いびきの原因となり、呼吸が苦しいので口呼吸になることもあります。その予防としては、「すまいる体操」「ベロ体操」を勧めておられます。
口臭や歯の着色、歯並びにも、口呼吸は悪い影響があるとのこと。歯磨きをきちんとして、舌や口の周りの筋肉を鍛えて、鼻呼吸できるようにしたいものです。
ワンタフトブラシが付いて、口腔ケアのポイントが簡潔にまとめられている本だと思いました。
2016年03月03日
ブッタとシッタカブッタ
ちょっと変わったマンガを読んでみました。「ブッタとシッタカブッタ」というシリーズの3冊です。著者は小泉吉宏さん。200万部突破のロングセラーのようで、私が買ったのは新装版です。
1993年に刊行されたものを、2003年に新装版として発行されています。それからすでに10年以上経っていますが、こんなマンガがあったとは知りませんでした。
このマンガを知ったのは、住むところもなく、仕事もせずに暮らせるかという実証実験をされた坂爪圭吾さんが始めた「わたり文庫」で紹介されていたからです。
見た感じ、仏教的なものだろうなと思っていました。その本をプレゼントすると坂爪さんの「いばや通信」にあったので、申し込みました。
残念ながら、それは当選しませんでした。なので、自分で買って読もうと思って、ネットで探したのです。
最初は1冊かと思ったのですが、検索すると何冊か出てきます。それで、関係ありそうな@〜Bを買ったというわけです。
読んでみて後でわかったのですが、このシリーズは完結したとBに書かれていました。とは言え、他のタイトルでシッタカブッタの話はあるようですね。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介・・・と言いたいところです、この本はマンガです。それを言葉だけ引用しても、あまり意味がないと感じました。
それに、この本の内容は非常に深く、理屈でわからせようとするものではなく、読んで感じ取るもの、というものではないかと思いました。
なので、引用は次の一文だけにします。これで、この本の内容がどれほど深いか、何となくわかると思います。
「人生に意味がないということは
あらゆる意味を持っているということ
意味がないことを知ったら
意味をプレゼントすればいい
いつでも意味がないことを知っているから大丈夫
意味がないことを体で覚えないと
自分でつくった意味にふりまわされる」(B p.187)
このように、文章で書かれている部分もありますが、ほとんどがマンガになっています。
したがって、とても読みやすいのですが、非常に深い内容があります。さらっと読めてしまうけど、そうするのが惜しいと感じる本です。
「いばや通信」で坂爪さんは、次のように紹介しています。
「この『ブッタとシッタカブッタ』というタイトルの4コマ漫画は、果てしなく面白く、最初は「なんだこのダサい表紙は!どうせ中身もたいしたことはないのだろう」などと思っていたのだけれど、読み続ける内にどはまりして、読後には最高の清涼感に包まれてしまった。」
最初は、恋の悩みから始まりますが、徐々に広大で深遠な世界へと移っていきます。それは、恋の悩みが小さなことという意味ではなく、その悩みの中に本質があるという意味です。
私自身、数多くの失恋があり、恋の悩み、愛の悩みを抱えてきました。だからこそ、シッタカブッタが同じように悩む姿にクスッと笑ったりしながら、自分の成長に思いを馳せるのです。
マンガとはバカにできない面白くて考えさせられる本です。興味を持たれたら、ぜひ読んでみてくださいね。
2016年03月04日
長生きは「唾液」で決まる!
口腔内の清浄を保つことが免疫力の増加に関係しているという情報を目にしたことで、唾液の力に関する本をいくつか探し、その中からこの本を選びました。著者は、日本大学歯学部教授の植田耕一郎氏です。
虫歯にならないために唾液が重要だというのはわかります。しかし、唾液の力はそれだけにとどまらず、他の病気を防ぐ作用もするとのこと。期待しながら読みました。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
植田氏は、脳卒中になって咽(のど)が麻痺してしまった人の、口や咽の機能回復の手伝いをされています。リハビリ医療です。
その仕事の中で、「歯ごたえのあるものを食べる」とか「食後に歯を磨く」ことが、口の健康を保つという説に疑問をもつようになります。
それは、固いものも食べられず、歯みがきもできない患者さんを多く見てきて、その中に虫歯ができていない人が多くいたからだと言います。
もちろん中には、虫歯だらけの人とか、歯が溶けてしまったような人もいたとか。その原因を、次のように言います。
「明らかに、本質的な理由は、「固いものを食べたかどうか」や「毎日歯ブラシをかけたかどうか」以前のところにありました。
ひとことでいえば、唾液が足りなかったから、です。唾液の自浄作用が働かなかったから、です。」(p.6)
「このように、唾液はじつに多くの重要な役割を果たしているのですが、それらをまとめると、「自浄作用」ということになると思います。
口に入った食べ物を体内に取り込み、残ったカスの掃除をする一方で、虫歯や感染を防ぎ、口の中を健康に保つのです。」(p.20)
植田氏があげた唾液の機能は、「円滑作用」「溶解作用」「洗浄作用」「消化作用」「保護作用」「緩衝作用」「抗菌作用」の7つに及びます。
つまり、私たちが生きる上で、欠くことができないたくさんの作用を、唾液が行っていたというわけです。
「喫煙者は、歯周病に、非喫煙者の3〜8倍程度かかりやすい、といわれています。
また、糖尿病のような全身疾患があると、身体の防御機能が低下することから、歯周病になりやすくなります。
口の乾きも歯周病の危険を高める、と指摘されており、私はむしろこれがポイントであると考えています。」(p.26)
最近はドライアイならぬドライマウスという言葉があるのだそうです。専門用語では「口腔乾燥症」だそうです。
これが歯周病の大きな原因だと、植田氏は言っています。
「歯周病対策として「毎日歯磨きをしなさい」と勧める歯科医もいますが、私はほとんど意味がないと思っています。歯垢や歯石、食べかすが残りやすい、歯と歯肉の境目、歯の裏側、歯間部といった場所に、確実に歯ブラシをタッチさせられないのであれば、それは、歯磨きした、とすらいえないからです。」(p.35)
つまり本当に歯磨きしたと言える「歯磨き」は、一般の人には非常に難しいということです。ですから植田氏は、歯磨きは意味がないと言うのです。では、どうすればいいのか?
「唾液の分泌量が増えれば、歯周病を介して糖尿病や動脈硬化といった全身の深刻な病気になることも、防げるでしょう。
唾液で口の中が潤えば、歯周病が改善するとともに、唾液の「抗菌作用」によって、歯周病原因菌以外の病原微生物の活動をも抑えることができます。」(p.37)
唾液の分泌量を増やすことが、すべての鍵だと言います。では、どうやって唾液を増やすのか?
「唾液の分泌量を増やしたいのなら、薬の摂取を控えて、あとは、なんでも食べればいい、話せばいい、深く呼吸をすればいい、表情豊かに暮らせばいい。」(p.40)
口の機能をよく働かせることが、唾液の分泌量を増やす効果をもたらします。しかし植田氏は、一人ひとりの生活スタイルは違うので、そういうアドバイスはしたくないと言って、こう結論を言います。
「ただ、「口」ストレッチという簡単な所作を、いつもどおりの生活に取り入れることを提案したいのです。」(p.40)
「唾液たっぷりの健康な口を手に入れるには、全身を動かす必要があるのです。
なぜならば、私たちの健康にかかわりの深い血液は、私たちの身体の全体をくまなく循環しているからです。」(p.113)
「口」ストレッチの前に、まずは全身を動かすことが重要だと植田氏は言います。そこで高齢者が転びやすいねじる動きを鍛えることなどを、本書では勧めています。
「常々思うのですが、女性が男性よりも長生きなのは、
「わあ、かわいい! きれい!」
と、リアクションが大きいからではないでしょうか。
そのおおげさなくらいのリアクションが、期せずして表情筋のトレーニングとなり、生命力を引き出しているのではないか、と感じるのです。」(p.144)
このように植田氏は言って、「口」ストレッチでは、「微笑み口」「怒り口」「大泣き口」「あきれ口」などのように、感情を表情に表すようなトレーニングを勧めています。
「実は、固いものを食べる、という条件下よりも、食べたいものをおいしく食べる、という条件下において、唾液の分泌量は増えます。
食べたいものをおいしく食べるとき、唾液が増えたことに味覚が反応し、消化酵素をたっぷりと含んだ唾液分泌がうながされます。」(p.147)
つまり、健康のためにと無理して美味しくないものを食べるより、食べたいものを美味しくいただく方が、唾液の分泌のためには効果が大きいのです。
「さらにいえば、若くても頭痛薬や眠剤、安定剤に頼る人が増えている今、薬をやめる、減らすことが、唾液の分泌量を増やす最短・最善の方法だと考えます。」(p.150)
薬は副作用があり、身体の正常な反応を妨げるものです。できるだけ薬に頼らないことが、唾液の分泌のためにも効果的だと言います。
そして植田氏は、よく生きるという意味でも、食べたいものを食べることを勧めます。
「「好きだ」「おいしい」という感情が、「ゴックン」という嚥下(えんげ)を可能にするのです。
ですから、細かい栄養素のあれこれも、考えなくていいです。
たとえば、70歳から日本酒だけ摂取して生きている90代の男性がいました。
その方に向かって「野菜が足りていない」と指摘する意味はあるのでしょうか。
この世に生を受けてから90年以上生きているという、すばらしい実績があるのです。」(p.158)
これはとても説得力があります。「日本酒だけだなんて不健康だ」と決めつけるのはやめましょう。人間の体は、本当に何が必要かは自分が知っています。その人が、日本酒だけでいいと思うのなら、それでいいのですね。
私も「主食はビールだ」と公言しているだけに、勇気づけられました。
食べてもいい、食べなくてもいいというプラーナ食を勧めているのは、はせくらみゆきさんです。人の体は、本来は食べなくても生命を維持できるのかもしれない。そう考えてみると、可能性がもっと広がるように思います。
唾液という、本来備わった自然の能力を取り戻すだけで、人は健康に生きていける。重要なのは、外から取り込む栄養よりも、内側で作られる唾液だった。そういう気がしてきました。
2016年03月05日
最初から幸せだった
以前、物語の笠地蔵について、「笠地蔵が教えてくれる豊かになる生き方」(2012年7月5日)という記事を書きました。
この記事で私が言っているのは、笠地蔵の話は、「善因善果、悪因悪果」の教訓ではなく、「引寄せの法則」だという見方です。
自分のことをかまわずに与えると、「与えたものが返ってくる」というこの世の法則に従って、与えた以上のものが返ってくるのです。
それについては、今でもその通りだと思っています。
でも、さっき、「そういう見方もあるなあ」と感じる記事を読みました。
「みやちゅう」こと「みやざき中央新聞」WEB版の読者用の特典として配信された、過去の記事です。
2009年8月3日の「特集」で、絵本作家の川端誠さんが、笠地蔵について話していました。概要をかいつまんで説明しましょう。
川端さんが最初に「絵本の絵ってこうなんだよなあ」と思ったのが、「かさじぞう」(文・瀬田貞二,画・赤羽末吉)という絵本だったそうです。
その話が書かれているのですが、おじいさんは最初に、傘を5つもこしらえたと、おばあさんに自慢します。そして売りに行くおじいさんを、おばあさんは期待もせずに送り出します。
おじいさんは傘が売れずに帰る途中、6体のお地蔵さんに傘をかけてやります。そのとき、2番目のお地蔵さんを飛ばしている絵があるのだそうです。
つまり人は、最初と最後はきっちりして、何とかつじつまを合わせようとする心情を、絵で表現しているのですね。
しかしおじいさんは、やはり居心地が悪くて、自分の傘を2番目のお地蔵さんにかけてあげます。
家に帰るとおばあさんは、「おじぞうさんにあげてよかった」と、おじいさんを受け入れます。そして、ありあわせのものを食べて、年を越すことになります。
深夜に、お地蔵さんたちがソリに米や金などを乗せてやってきて、家の前に置いていきます。「それから二人は幸せになった」と書かれているそうです。
しかし川端さんは、本当は「それから」ではなく、既にそこそこ幸せだったのだと言います。
傘を5つも作ったと自慢したり、自分の傘さえお地蔵さんにあげるなど、貧乏はしていても心に余裕があったのです。
川端さんは、次のように言います。
「どんなに恵まれない境遇にあっても、ちょっとしたユーモアを楽しんだり、少しでも前向きになるために何か面白いことを見つけようとする。それが生きるバイタリティなのです。そうやって二人はこれまで暮らしてきたんだと思います。
だから二人は十分幸せだったのです。だから大金をもらったからと言って、二人はそんなに大喜びしてるようには描かれていません。そこがまた赤羽さんのすごいところだと思いました。
そこに気づいて欲しいのです。そこに気づいたら、この絵本の持っている宝物を皆さんも受け取っていけます。」
つまり、大金が手に入ったという結果が重要なのではなく、どんな状況であっても幸せに生きていけるということなのです。
そして、そういう生き方をしていれば、大金が手に入るようなこともある。でも、そこでそれが本物かどうかがわかります。
大金が入ったという結果に大喜びするようなら、まだ本当の幸せではないのです。それはそれとして、「ああ、良かったね」くらいで執着せずに喜べたとき、幸せは本物なのだと思います。
結果に執着するのではなく、今あるがままに幸せになる。そういう生き方を、私もしていきたいと思います。
そんなことを、改めて気づかせてくれた「みやちゅう」の記事に感謝です。
この記事で私が言っているのは、笠地蔵の話は、「善因善果、悪因悪果」の教訓ではなく、「引寄せの法則」だという見方です。
自分のことをかまわずに与えると、「与えたものが返ってくる」というこの世の法則に従って、与えた以上のものが返ってくるのです。
それについては、今でもその通りだと思っています。
でも、さっき、「そういう見方もあるなあ」と感じる記事を読みました。
「みやちゅう」こと「みやざき中央新聞」WEB版の読者用の特典として配信された、過去の記事です。
2009年8月3日の「特集」で、絵本作家の川端誠さんが、笠地蔵について話していました。概要をかいつまんで説明しましょう。
川端さんが最初に「絵本の絵ってこうなんだよなあ」と思ったのが、「かさじぞう」(文・瀬田貞二,画・赤羽末吉)という絵本だったそうです。
その話が書かれているのですが、おじいさんは最初に、傘を5つもこしらえたと、おばあさんに自慢します。そして売りに行くおじいさんを、おばあさんは期待もせずに送り出します。
おじいさんは傘が売れずに帰る途中、6体のお地蔵さんに傘をかけてやります。そのとき、2番目のお地蔵さんを飛ばしている絵があるのだそうです。
つまり人は、最初と最後はきっちりして、何とかつじつまを合わせようとする心情を、絵で表現しているのですね。
しかしおじいさんは、やはり居心地が悪くて、自分の傘を2番目のお地蔵さんにかけてあげます。
家に帰るとおばあさんは、「おじぞうさんにあげてよかった」と、おじいさんを受け入れます。そして、ありあわせのものを食べて、年を越すことになります。
深夜に、お地蔵さんたちがソリに米や金などを乗せてやってきて、家の前に置いていきます。「それから二人は幸せになった」と書かれているそうです。
しかし川端さんは、本当は「それから」ではなく、既にそこそこ幸せだったのだと言います。
傘を5つも作ったと自慢したり、自分の傘さえお地蔵さんにあげるなど、貧乏はしていても心に余裕があったのです。
川端さんは、次のように言います。
「どんなに恵まれない境遇にあっても、ちょっとしたユーモアを楽しんだり、少しでも前向きになるために何か面白いことを見つけようとする。それが生きるバイタリティなのです。そうやって二人はこれまで暮らしてきたんだと思います。
だから二人は十分幸せだったのです。だから大金をもらったからと言って、二人はそんなに大喜びしてるようには描かれていません。そこがまた赤羽さんのすごいところだと思いました。
そこに気づいて欲しいのです。そこに気づいたら、この絵本の持っている宝物を皆さんも受け取っていけます。」
つまり、大金が手に入ったという結果が重要なのではなく、どんな状況であっても幸せに生きていけるということなのです。
そして、そういう生き方をしていれば、大金が手に入るようなこともある。でも、そこでそれが本物かどうかがわかります。
大金が入ったという結果に大喜びするようなら、まだ本当の幸せではないのです。それはそれとして、「ああ、良かったね」くらいで執着せずに喜べたとき、幸せは本物なのだと思います。
結果に執着するのではなく、今あるがままに幸せになる。そういう生き方を、私もしていきたいと思います。
そんなことを、改めて気づかせてくれた「みやちゅう」の記事に感謝です。
2016年03月06日
霊気療法のしおり
「霊気療法のしおり」という、本と言うよりも冊子を読みました。
これは、臼井霊気療法学会が発行したもので、「=会員のために=」とサブタイトルにあるように、会員向けの冊子となっています。
この冊子は、書店では購入できません。私は、「香りの森」というレイキ・スクールで購入しました。ここでレイキを学んだ人は、購入できるようです。
また、この冊子は、昭和49年(1974年)に発行された冊子の内容を忠実にワープロで打ち直して作ったもので、いわば複製と言えます。
最初にこの複製の作成者の但し書きがあり、そのように断っています。また、次のように但し書きを締めています。
「この冊子には霊気本来の世界観や考え方、臼井先生の教え、施術の方法など、貴重で重要な内容が多く含まれています。熟読されて、ご自身の日々の霊気・レイキの実践に役立ててください。
二〇〇七年一二月 霊気・レイキの正しい普及を願う者より」
この冊子は、臼井霊気療法学会の第五代会長をされてた和波豊一氏が会長のとき、編纂されました。
和波氏は「はじめに」の冒頭で、次のように言っています。
「臼井霊気療法は、精神療法の一種でして、病気にならないように、日頃から心身を強健に保ち、また、不幸にして病気になった場合でも、ほとんど医薬に頼らないで治療する方法であります。すなわち、霊気療法は、人間の潜在意識に作用して、それぞれの人の身体に持っている、病気治癒能力=自己癒能、の自然の働きに、強い援助を与えて、病気の予防や、治病しようとするのです。」(p.1)
法律的にレイキは、「治療する」などの言葉は使えません。しかし、民間医療として始まったことは事実であり、会員向けには、このように言っているのです。
「霊気療法が、人間の霊気によって、自己癒能を高めることであるからには、老・若・男女を問わず誰にでもできることであり、その弊害は、全然ありません。誰も、一ぺんこの療法を得ますと、その効果の素晴らしいのに驚くのであります。」(p.1)
誰にでも使えて弊害がないという、レイキの素晴らしさを、このように語っています。
レイキの創設者である臼井氏の教訓も紹介されています。
「「最近、医科学は、いちじるしく進歩しているから、決して医療、薬などを無視したり、また排斥などすることは、不謹慎極まりない。」
と固く固く戒められております。
しかし、
「医薬で、どうしても治らない病は、進んで霊気で治しなさい。」
−と教訓をしておられます。そして、
「霊気で治らない病気はないから、常に浄い魂を持って治療に専念するよう励みなさい。」
との信念を語っておられます。」(p.45)
西洋医学を無視したり、排除したりするのではなく、併用することを勧めておられたのですね。
そして、レイキはすべての病気に効果があることも、はっきりと明言されています。
「ただし、
「ここに一つだけ、霊気でも、神仏の祈祷でも治らない病気がある。それは寿命の尽きたときである。すなわち、人の生命には、大人、子供の別なく限界がある。これは、自然の摂理であり、人間の寿命であるから、何とも致し方はない。しかし、その人の寿命と判ったときは、なおさら、最後の最後まで、万全を尽して親切に真剣に治療をしなさい。
そうすれば、どんな苦病の人でも、実に安らかな往生のできることは確実であるから、努めて実行せよ。」
と教訓をしておられます。」(p.46)
寿命はどうしようもないけど、それでもレイキをすることによって、安らかに往生できると言われます。
したがって、結果がどうであろうと関係なく、真摯にレイキをしてあげることが大切なのだと思います。
「霊気療法の特徴」として、まずは「病腺」を取り上げています。
「病気のある部位に、手を当てると、病原から出ている何かを感得するのです。之を病腺と名付けております。
病腺の感じは、病気の種類・程度・病気の上り坂・下り坂等の状況は人によって違いますから、一定はしておりません。全く体験によらなければならないのです。」(p.66)
私がレイキを習ったスクールでは、これを「ヒビキ」と呼んでいました。本当は「病腺」と呼ぶのが正しいのでしょう。「響き」はその1つの現れとして名付けられていたのですが、「病腺」という呼び名は治療や診断を想像させるおそれがあることから、「ヒビキ」と呼ぶようにしたのでしょうね。
他に、「毒下し」「交血法」「念達」なども書かれています。これはレイキで行う特殊な療法で、病気に効果があると言われています。
特に知らないことが書かれているわけではありませんが、この冊子に書かれていることは重要な意味があります。
それは、臼井氏がレイキを教え始められたころから伝わってきたものだ、と言えるからです。
臼井霊気療法学会は戦後、固く門戸を閉ざしてきたため、一般の人には西洋レイキからの知識しか手に入りませんでした。
これは、アメリカやヨーロッパで広まっている間に、かなりオリジナルとは異なるものが加わっています。
ですから、この冊子に書かれていることによって、何がオリジナルであるかがある程度わかるのです。
私も、レイキによって怪我や病気の人を癒やしたいと考えているので、この冊子にある手当ての仕方は、大いに参考になります。
こういう本を読めるようにしてくださった方に、心から感謝したいと思います。
これは、臼井霊気療法学会が発行したもので、「=会員のために=」とサブタイトルにあるように、会員向けの冊子となっています。
この冊子は、書店では購入できません。私は、「香りの森」というレイキ・スクールで購入しました。ここでレイキを学んだ人は、購入できるようです。
また、この冊子は、昭和49年(1974年)に発行された冊子の内容を忠実にワープロで打ち直して作ったもので、いわば複製と言えます。
最初にこの複製の作成者の但し書きがあり、そのように断っています。また、次のように但し書きを締めています。
「この冊子には霊気本来の世界観や考え方、臼井先生の教え、施術の方法など、貴重で重要な内容が多く含まれています。熟読されて、ご自身の日々の霊気・レイキの実践に役立ててください。
二〇〇七年一二月 霊気・レイキの正しい普及を願う者より」
この冊子は、臼井霊気療法学会の第五代会長をされてた和波豊一氏が会長のとき、編纂されました。
和波氏は「はじめに」の冒頭で、次のように言っています。
「臼井霊気療法は、精神療法の一種でして、病気にならないように、日頃から心身を強健に保ち、また、不幸にして病気になった場合でも、ほとんど医薬に頼らないで治療する方法であります。すなわち、霊気療法は、人間の潜在意識に作用して、それぞれの人の身体に持っている、病気治癒能力=自己癒能、の自然の働きに、強い援助を与えて、病気の予防や、治病しようとするのです。」(p.1)
法律的にレイキは、「治療する」などの言葉は使えません。しかし、民間医療として始まったことは事実であり、会員向けには、このように言っているのです。
「霊気療法が、人間の霊気によって、自己癒能を高めることであるからには、老・若・男女を問わず誰にでもできることであり、その弊害は、全然ありません。誰も、一ぺんこの療法を得ますと、その効果の素晴らしいのに驚くのであります。」(p.1)
誰にでも使えて弊害がないという、レイキの素晴らしさを、このように語っています。
レイキの創設者である臼井氏の教訓も紹介されています。
「「最近、医科学は、いちじるしく進歩しているから、決して医療、薬などを無視したり、また排斥などすることは、不謹慎極まりない。」
と固く固く戒められております。
しかし、
「医薬で、どうしても治らない病は、進んで霊気で治しなさい。」
−と教訓をしておられます。そして、
「霊気で治らない病気はないから、常に浄い魂を持って治療に専念するよう励みなさい。」
との信念を語っておられます。」(p.45)
西洋医学を無視したり、排除したりするのではなく、併用することを勧めておられたのですね。
そして、レイキはすべての病気に効果があることも、はっきりと明言されています。
「ただし、
「ここに一つだけ、霊気でも、神仏の祈祷でも治らない病気がある。それは寿命の尽きたときである。すなわち、人の生命には、大人、子供の別なく限界がある。これは、自然の摂理であり、人間の寿命であるから、何とも致し方はない。しかし、その人の寿命と判ったときは、なおさら、最後の最後まで、万全を尽して親切に真剣に治療をしなさい。
そうすれば、どんな苦病の人でも、実に安らかな往生のできることは確実であるから、努めて実行せよ。」
と教訓をしておられます。」(p.46)
寿命はどうしようもないけど、それでもレイキをすることによって、安らかに往生できると言われます。
したがって、結果がどうであろうと関係なく、真摯にレイキをしてあげることが大切なのだと思います。
「霊気療法の特徴」として、まずは「病腺」を取り上げています。
「病気のある部位に、手を当てると、病原から出ている何かを感得するのです。之を病腺と名付けております。
病腺の感じは、病気の種類・程度・病気の上り坂・下り坂等の状況は人によって違いますから、一定はしておりません。全く体験によらなければならないのです。」(p.66)
私がレイキを習ったスクールでは、これを「ヒビキ」と呼んでいました。本当は「病腺」と呼ぶのが正しいのでしょう。「響き」はその1つの現れとして名付けられていたのですが、「病腺」という呼び名は治療や診断を想像させるおそれがあることから、「ヒビキ」と呼ぶようにしたのでしょうね。
他に、「毒下し」「交血法」「念達」なども書かれています。これはレイキで行う特殊な療法で、病気に効果があると言われています。
特に知らないことが書かれているわけではありませんが、この冊子に書かれていることは重要な意味があります。
それは、臼井氏がレイキを教え始められたころから伝わってきたものだ、と言えるからです。
臼井霊気療法学会は戦後、固く門戸を閉ざしてきたため、一般の人には西洋レイキからの知識しか手に入りませんでした。
これは、アメリカやヨーロッパで広まっている間に、かなりオリジナルとは異なるものが加わっています。
ですから、この冊子に書かれていることによって、何がオリジナルであるかがある程度わかるのです。
私も、レイキによって怪我や病気の人を癒やしたいと考えているので、この冊子にある手当ての仕方は、大いに参考になります。
こういう本を読めるようにしてくださった方に、心から感謝したいと思います。
2016年03月07日
レイキの講座について
レイキのティーチャーになりましたので、ご要望があればレイキの講座を開きます。
日程は調整させていただくことになりますので、ご希望の日などをお知らせください。場所は、バンコクのBTSアソーク駅の近辺になります。
・ファミリー・レイキ講座:3時間,5,000バーツ
※レイキ・スクール「香りの森」の認定講座です。
※ファミリー・レイキ講座に関して、および「香りの森」でレベル1を受講する際の割引料金に関しては、こちらのWEBページをご覧ください。
・レベル1講座:7時間(休憩1時間含む),10,000バーツ
※ファミリー・レイキ講座を受講された方は、5,000バーツで受講できます。
・レベル2講座:7時間(休憩1時間含む),15,000バーツ
・レベル3講座:7時間(休憩1時間含む),25,000バーツ
・レベル4講座:7時間(休憩1時間含む),50,000バーツ
なお、他のスクールで途中まで受講された方に対して、続きのレベルから受講していただくことも可能です。
ただし、本当にそのレベルの知識があり、実践できるかどうかを確認させていただいてからの受講となります。
したがって、そういうケースでは、事前に一度お会いして、確認させていただく(無料,1時間以内)ことになります。
また、レベル1〜レベル4の受講にあたっては、相当な期間を開けていただくことになっています。詳細は、別途お尋ねください。
興味がありましたら、右上の「お問い合わせ」からメールでお問い合わせください。
◆以下のようにレイキ・ティーチャーの認定を受けています。
※<2016年7月11日追記>
レイキの講座については、別サイト「レイキ癒し処」−「レイキ講座」に最新情報を表示しますので、そちらをご覧になってください。
また、施術場所も違いますので、別サイトをご確認ください。
日程は調整させていただくことになりますので、ご希望の日などをお知らせください。場所は、バンコクのBTSアソーク駅の近辺になります。
・ファミリー・レイキ講座:3時間,5,000バーツ
※レイキ・スクール「香りの森」の認定講座です。
※ファミリー・レイキ講座に関して、および「香りの森」でレベル1を受講する際の割引料金に関しては、こちらのWEBページをご覧ください。
・レベル1講座:7時間(休憩1時間含む),10,000バーツ
※ファミリー・レイキ講座を受講された方は、5,000バーツで受講できます。
・レベル2講座:7時間(休憩1時間含む),15,000バーツ
・レベル3講座:7時間(休憩1時間含む),25,000バーツ
・レベル4講座:7時間(休憩1時間含む),50,000バーツ
なお、他のスクールで途中まで受講された方に対して、続きのレベルから受講していただくことも可能です。
ただし、本当にそのレベルの知識があり、実践できるかどうかを確認させていただいてからの受講となります。
したがって、そういうケースでは、事前に一度お会いして、確認させていただく(無料,1時間以内)ことになります。
また、レベル1〜レベル4の受講にあたっては、相当な期間を開けていただくことになっています。詳細は、別途お尋ねください。
興味がありましたら、右上の「お問い合わせ」からメールでお問い合わせください。
◆以下のようにレイキ・ティーチャーの認定を受けています。
※<2016年7月11日追記>
レイキの講座については、別サイト「レイキ癒し処」−「レイキ講座」に最新情報を表示しますので、そちらをご覧になってください。
また、施術場所も違いますので、別サイトをご確認ください。
レイキ・ティーチャーになりました
先月(2016年2月)、レイキのティーチャー講座を受講して、正式にティーチャー(マスター)になりました。
私は2つのスクールでレイキを習っていて、どちらもレベル3まで受講していました。これまではティーチャーになるつもりはなかったのですが、教える必要性を感じ始めたので、受講することにしたのです。
まずは2月22日(月)に、「香りの森」でファミリー・マスターの講座を受講し、無事にファミリー・マスターになりました。
ファミリー・マスターと言うのは、レベル1まで行かないファミリー・レイキという講座を開ける資格で、このスクール独自のものです。
ただし、ここでアチューンメント(霊授)のやり方を習うため、知識の上ではレベル1の講座を開くことも可能になります。ただこのスクールとしては認定されませんけどね。
ファミリー・レイキを習った人は、「香りの森」なら割引価格でレベル1を受講できます。ファミリー・レイキの内容は、2回のアチューンメントとレイキの基本的なやり方で、受講時間は3時間ほどです。
翌23日(火)に、今度は「ヴォルテックス・レイキ」でティーチャーズ・ディグリー(レベル4)を受講しました。
こちらは、レベル1から4までの講座が開ける資格になります。「ヴォルテックス・レイキ」の認定ティーチャーではありませんが、独自の講座を開くことが可能です。
以下のように、両方のスクールから修了証をいただきました。
これで私も、独自であればレイキ講座を開くことができます。
ただ、私はレイキ・スクールをやりたいわけではありません。レイキ・ヒーリング・サロンのようなものを作って、病気や怪我の人を癒やしたいと思っているのです。
そのとき、実際に施術にあたるタイ人スタッフに教えるために、ティーチャーの資格が必要だったのです。
それなら、どちらか一方のスクールだけで良かったのですが、好奇心から、いろいろなところで学んでみたいと思いました。
それで、両方のスクールで学び、良いところを取り入れようと思ったのです。
特に一般の方向けに講座を開くつもりはありませんが、要望があれば検討したいと思います。
※とりあえず、レイキ講座の概要を作りました。「レイキの講座について」こちらをご覧になってください。
私は2つのスクールでレイキを習っていて、どちらもレベル3まで受講していました。これまではティーチャーになるつもりはなかったのですが、教える必要性を感じ始めたので、受講することにしたのです。
まずは2月22日(月)に、「香りの森」でファミリー・マスターの講座を受講し、無事にファミリー・マスターになりました。
ファミリー・マスターと言うのは、レベル1まで行かないファミリー・レイキという講座を開ける資格で、このスクール独自のものです。
ただし、ここでアチューンメント(霊授)のやり方を習うため、知識の上ではレベル1の講座を開くことも可能になります。ただこのスクールとしては認定されませんけどね。
ファミリー・レイキを習った人は、「香りの森」なら割引価格でレベル1を受講できます。ファミリー・レイキの内容は、2回のアチューンメントとレイキの基本的なやり方で、受講時間は3時間ほどです。
翌23日(火)に、今度は「ヴォルテックス・レイキ」でティーチャーズ・ディグリー(レベル4)を受講しました。
こちらは、レベル1から4までの講座が開ける資格になります。「ヴォルテックス・レイキ」の認定ティーチャーではありませんが、独自の講座を開くことが可能です。
以下のように、両方のスクールから修了証をいただきました。
これで私も、独自であればレイキ講座を開くことができます。
ただ、私はレイキ・スクールをやりたいわけではありません。レイキ・ヒーリング・サロンのようなものを作って、病気や怪我の人を癒やしたいと思っているのです。
そのとき、実際に施術にあたるタイ人スタッフに教えるために、ティーチャーの資格が必要だったのです。
それなら、どちらか一方のスクールだけで良かったのですが、好奇心から、いろいろなところで学んでみたいと思いました。
それで、両方のスクールで学び、良いところを取り入れようと思ったのです。
特に一般の方向けに講座を開くつもりはありませんが、要望があれば検討したいと思います。
※とりあえず、レイキ講座の概要を作りました。「レイキの講座について」こちらをご覧になってください。
2016年03月09日
ありのままの私
大学教授の安冨歩(やすとみ・あゆむ)さんの本を読みました。
たしかネットの記事で安富さんのことを知り、興味を持ったのです。
性別は男性ですが、女性装をされています。「女装」ではなく、「女性装」というのがポイント。意味が違うのだそうです。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「私の考えでは、赤ちゃんは「劣等感」なんか抱いていないと思います。だからそれは、大きくなる課程で、どこからか、入り込んでしまうもののはずです。一体どこから? 多分それは、大人から。親とか、先生とか。恐ろしいことです。」(p.39 - 40)
この考えは、私も同感です。赤ちゃんの心をねじ曲げてしまうのが、大人なのだと思います。
安富さんは最初、自分の体型に合うということだけで、女性物の服を買って着るようになったそうです。それは、女装に憧れたからではなく、単にそれが自分に似合っているから。
「しかし、やがて私は予想もしなかった、重大な事実に気づきました。それは私が女物を着ると、「ただならぬ安心感」を感じる、ということでした。
世の中には、性的刺激を求めて女装する趣味の方がいるそうです。こういう方は、女物を着ると、興奮するのでしょう。それに対して私にとっての女物は、精神を安定させる効果があります。
現に、性欲、という面に限っても、私は女物を着始めてから、大幅に落ち着きました。」(p.43)
強い孤独感を抱いていた少年時代から、性的な感覚に依存する傾向があったそうです。その後も、持て余しぎみなほど性欲が旺盛だったのだとか。
しかし、女物を着るようになってから、性的興奮が抑制され、落ち着くようになったと言います。
私も、性欲が旺盛だという人は、実は性欲そのものではなく、他の精神的な要因があると思っています。ですから、この安富さんの感覚はわかるような気がします。
そして、いじめとか、他者への攻撃的な態度も、自分の中のストレスが原因と、ご自身の体験から言います。
「その理由を考えていたのですが、私自身、そういう連中と同類の面が多いにあって、ストレス発散のために、こういうことをしていたのではないか、というのが今の考えです。かつては男装していたために、自分自身の姿を離れてしまい、それがストレスの源泉となって、かといって、何も悪いことをしていない人をイジメるのはやる気がしませんから、ひどいことをしている知識人を見つけてイジメる、ということをしていたように思うのです。」(p.99)
人間の中の攻撃的な一面は、このように本当の自分として生きられないことのストレスから、生じることがあるのかもしれません。
「それは、はるな愛さんや私のように、異性の姿をしている人だけではありません。誰だって、「男」でも「女」でもないのです。そういう分類そのものが、暴力なのです。」(p.134)
私たちはつい、男か女か、どちらかはっきりさせたいと思います。そこには、男か女かどちらかであるべき、という価値観があります。その価値観の押し付けを、安富さんは暴力だと言います。
「そこでそういう人々になんとか事情を飲み込んでもらうために、いろいろな工夫がなされてきました。そのひとつが、「トランスジェンダー」という言葉です。「トランス」というのはラテン語の「越える」という意味の言葉で、ジェンダーというのは「性」のことですから、「性別を越える」というような意味です。「性別越境」という訳が適当だと思います。」(p.135)
つい男か女か、そうでないならどういう分類か、と私たちは考えてしまいがちです。その説明をする代わりに、トランスジェンダーという言葉を使うのですね。
これは、もう男とか女とかの分類ではなく、それを超えた存在なのだという意味です。私もまた、男という分類の前に、私という1人の人間ですから。
「子供が生まれたら男集団・女集団に振り分けて、それぞれの集団にふさわしい振る舞いをするように圧力を掛けます。これによって「帰属」という「アイデンティティ」が生まれるのです。こうして子供は、何かに「帰属」して、その規範なり文化なりを、自分の中に取り込む、という変な能力を身につけます。
この変な能力を「秩序」の基盤だ、と人々が認識しているわけです。この帰属意識の形成がスムーズに行われるなら、社会の「秩序」が成り立ち、それができないと「無秩序」になって社会が崩壊する、と思い込んでいるのです。」(p.146 - 147)
指摘されてみると、まさにその通りだと思います。私たちは自分の経験にしたがうのではなく、ただ押し付けられた価値観にしたがって、考えるクセがついているようです。
「私のような者に対して、嫌悪感を示す人々は、以上のような事情を感じているのではないでしょうか。男が男を好きになったり、女が女を好きになったり、男のくせに女の格好をしていたり女のくせに男の格好をされると、世の中が「無秩序」になる気がするのです。」(p.147)
たしかに、そういう不安定感を感じます。私自身、オカマとか大嫌いでした。あり得ないと思っていました。しかしタイに来て、そういう人が非常に多いことを目の当たりにして、考え方が変わってきました。徐々に受け入れられるようになったのです。
まだ、違和感というものはあります。しかし、以前のような嫌悪感はなくなりましたし、存在を否定しようという気持ちも、もうありません。
このようなトランスジェンダーの存在は、実は日本では受け入れられてきたようです。西洋ではキリスト教などの影響から、許されない罪とされてきたようですが。
「これに対して日本では、同性愛そのものが犯罪とされたことは、おそらくないのです。少なくとも江戸時代まで、誰も「異常」だとは思っていませんでした。それどころか、同性愛の目を見張るばかりの氾濫は、近代以前の日本社会の興味深い特徴でした。」(p.153)
イギリスでは、1967年まで同性愛は犯罪だったのです。しかし日本は、キリスト教の宣教師が驚くほど、寛容に認められていたようです。
また、動物世界においても、同性愛的な行動はしばしば見られるようです。ですから、同性愛というものが、自然でないとも言えないのです。
もちろん、自然界であるから、人間界であっても問題ないとは言えないと言います。たとえば子殺しなどは、自然界でよく見られますが、これなどは人間がやって良いものとは思えないからです。
「自然は人間の倫理の手本にはならないのです。
ただ、人間の本性を人間が抑圧すると、碌(ろく)なことにはならない、ということは覚えておくべきだと私は考えています。」(p.156)
本来の自分を抑圧すれば、それがストレスとなって、ネジ曲がった行動につながります。他者への攻撃的な態度とか、異常な性欲などもそうです。
私も、単なる思い込みで「かくあるべし」を押しつけることは、ろくなことにならないと思います。
「しかし、人間には、男女を問わず、美しさが不可欠なのです。
美しさとは、作るものではありません。掘り出すものです。自分自身という金鉱を探し出して掘り当てる。そうすると人は、美しくなるのではないでしょうか。」(p.170)
私も、男女問わずに「美しさ」を追求することが重要だと思います。それは見た目だけではありません。生き方そのものについてもです。
どうするのが自分らしいのか、どうあるのが自分らしいのか、その自分らしさを探し求める中で見つかるもの。それが「美しさ」だと思います。
安富さんは、自分の中にある女性性に目覚めることで、やっと本来の自分と出会えた感じがしたのでしょう。
そして安富さんは、ありのままに生きることが、「人間に与えられた唯一の使命だと信じています」と言い切っています。
どんなに外部とぶつかろうと、恐れることなく、勇気をもって自分らしく生きる。私も、そういう生き方を素晴らしいと思います。
2016年03月11日
共に生きる
新しい本が出ました。書店やAmazonでは入手できない直販です。『苦しみとの向き合い方 言志四録の人間学』(PHP研究所)で評判になった辻光文さんのことをさらに詳しく書いた本です。「生きているだけではいけませんか」の詩が全文掲載されています。定価500円。ご注文は私か、夢工房だいあん㈱(FAX045-546-1269)にお願いします。
Ryouhei Kamiwatariさんの投稿 2015年12月6日
神渡良平さんの本を読みました。
これは、書店では注文できない冊子です。神渡さんの「苦しみとの向き合い方」でも取り上げられた辻光文さんのことを、前半で神渡さんが書かれています。
後半はその神渡さんと、辻さんの弟さんで、発行者の「夢工房だいあん株式会社」初代代表取締役の辻存之(つじ・やすゆき)氏、「だいあんグループ」代表の光田敏昭(みつだ・としあき)氏の3人で、辻光文さんのことを語り合った対談が収められています。
上記のFacebookの投稿にあるように、この冊子を欲しいと思われる方は、神渡さんか夢工房だいあんへ申し込んでください。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「はじめに」で、障害児の娘さんが生まれたことで苦しんでいた女性が、「苦しみとの向き合い方」を読まれて、神渡さんに書かれたという手紙が紹介されています。
「神渡先生は、私がどんなことを思い、何を求めていたかがお分かりになるのでしょうか? 私は光文先生の『生きているだけではいけませんか』の詩に出合いたかったのだと思いました。詩の中で光文先生が問いかけておられたように、人の役に立っているという私の思いの中に、いつしか傲慢な思いがひそんでいたのです。生きていて人に迷惑をかけない人っていやしないのに、そのことを忘れていました。」(p.9 - 10)
人の役に立つことを生きがいとして生きておられた女性にとって、役に立つこともできず、ただ人様の世話にならなければ生きていけない次女が生まれたことは、とても苦しいことだったようです。
それが光文さんの詩に出合うことで、自分の見方が間違っていたと気づかれたのです。
この手紙に対して、神渡さんも返信を出されました。
「人さまのお世話にならなければ生きていけない次女はひょっとすると、周りの人々のやさしさを引き出すために存在しているのかもしれませんよね。現にあなたは次女を通して大きく変わりつつあるではありませんか。」(p.10 - 11)
役に立たないから役に立つ。与える側も何かを受取り、受け取る側も何かを与えている。人間関係というのは、そういうものかもしれません。
光文さんが面倒をみた子どもの中で、どうにも手に負えないS子という子どもがいました。この話は、「苦しみとの向き合い方」の中でも書かれています。悪性脳腫瘍にかかったS子を前にして、光文さんは大きな気づきを得ます。
「「私はやっとわかりました。私が心の中でS子を問題児だと思っていたので、それが彼女を萎縮させ、荒れさせていたのです。問題は彼女にあったのではなく、私自身の中にあったのだと深く気づかされました」
S子は、人間は誰でも御仏(みほとけ)のあふれるような慈悲に包まれていることを、辻先生に気づかせてくれたのです。こうして辻先生の世界観、人間観はいっそう深くなっていき、表面に現れた個々の行動にとらわれることなく、「いのちそのものを拝む」ようになりました。子どもたちを見詰めるまなざしがやわらかくなったのです。」(p.38 - 39)
人は、自分が見たいものを対象の中に見る、と言います。光文さんが気づかれたのも、まさにそのことでした。
「お釈迦さんが本当に言いたかったことは、自他不二(じたふに)、自他一如(じたいちにょ)ということだったんじゃないでしょうかね。長い人生を歩いてきて、しみじみと思うのは、『自分もあの人もこの人も、みんないっしょや』ということです。こちら側に自分、向こう側に他人と分かれて存在しているのではなく、初めから”一つのいのち”なんですね。自分と他者が分かれて存在していると思うのは、そもそも”迷い”なんだとやっと気づきました。」(p.58)
光文さんは、このように気づかれたことを言われます。子どもたちと共に生きる中で、気づかせていただいたという思いです。
これが宇宙の理(ことわり)であり、「私たちは何一つ切り離せない”ひと続きの世界”に住んでいる」ということがわかって、感謝しかないと言われます。
さらに一歩進んで、完全にすべてが一つのものであったと悟られます。
「生も死も別物ではなく一如(いちにょ)、二つ別々に分けることができない不二(ふに)の世界でした。自分と他人は分けることができない”一つのいのち”であるように、何と生も死も分けることができない”一つつながり”なのです。生と死すら一つつながりで、表と裏の関係で、決して非情な断絶などではありません。人間は死を誤解して忌み嫌っていますが、それは迷いに過ぎないんです。」(p.59)
85歳になられた光文さんは、養護老人ホームの病床で、神渡さんにこのように話されました。
そして、こういう永遠のいのちの中に自分があると思うと嬉しくて、自分の人生はこれから始まるという気分なのだと言われるのです。
対談の中で弟の辻存之氏は、思い出された光文さんの言葉を、このように紹介されています。
「ぼくは職業的な技能とか知識とか何にもないのに、なんでこうやって、必要とされるようになったのかなあ。ぼくはただ一生懸命、子どもらといっしょに生きてきただけなのに、なんとなくうまくいき、長生きできた。不思議でしょうがないよ」(p.106)
テクニックを駆使したわけでもなく、何か自分の生活が良くなるよう工夫したわけでもない。ただ目の前の子どもたちのことを考え、一生懸命に生きてきた。ただ共に生きてきただけなのだと、光文さんは言います。
人の生き方って、それでいいのかもしれません。あとは、神や仏が何とかしてくれる。その御手に身を委ねて、ただただ寄り添って生きればいい。
人生に迷った時、ついテクニックを得ようとしたりしがちです。それもまた良いのかもしれませんが、私は、光文さんの生き方をステキだと感じます。
儲かるかどうかとか、より大きなチャンスが得られるかどうかなどではなく、ただ目の前のことに精一杯に打ち込む。自分らしいか、それは愛かどうかと自問しながら、損得ではなく美しい生き方を追求する。
将来を不安に思うこともせず、安心して身を任せて生きる。そういう生き方を、私もしたいと思います。
●コメントを書く前に、こちらのコメント掲載の指針をお読みください。