今年も、バンコクで幸せ実践塾のセミナーを行います。
上記のチラシにあるように、昨年行ったのと同じ初心者向けのセミナーを、以下のように行います。
●第1回:「幸せになるためのたった1つのコツ」
誰もが「幸せになりたい!」と思ってますよね。
実は幸せになるにはコツがあります。しかもたった1つです。誰もが簡単に実践できて、すぐに幸せになれるコツをお伝えします。
開催日時:2016/2/10(水)、3/5(土)、3/9(水)10:00-12:00
※3日ありますが同じ内容です。
●第2回:「死の不安を乗り越える」
幸せになるコツを知って実践しても、どうしても不安になってしまうのが「死」です。「死」と向き合う為の考え方を、少しスピリチュアルな観点からお伝えします。
開催日時:2016/3/2(水)、3/12(土)10:00-12:00
※2日ありますが同じ内容です。
場所:サロン・オ・デュ・タン(GSマンション4階4D)
スクムビットソイ35を入り100m左手EmQuartier向かい
参加費:400バーツ/回
お申込み、お問い合わせはチラシの記載先へお願いします。
メール:salonhdtemps●gmail.com (●を@に替えてください)
なお、2月10日のセミナーは、コラボ企画「きらりんvol.4」の1つとして行われます。
キラリん4.pdf
また、チラシにはありませんが、以下の要領で上級講座も行われます。
●上級コース:「愛と自由〜「神との対話」より」
私がもっともお勧めする書籍、「神との対話」を深く理解するための講座です。
「神との対話」でもっとも重要で、一番理解しづらいのが「愛」と「自由」の概念だと思います。
この2つをはっきりと理解すれば、「神との対話」で言っていることもよくわかるし、これまでとはまったく違う価値観を得られると思います。
そして、今までとは違う「自分らしい自分」として生きる第一歩を、踏み出せるようになると思います。
※この上級コースを受講する条件として、以下のいずれかを満たしている必要があります。
・「神との対話」を最低1回、最後まで読んだことがある。
・私が作成した「「神との対話」ダイジェストレポート」(PDF版・A4サイズ36ページ)を最低3回は読んだ。(セミナー申込者に無料で差し上げます。)
開催日時:2016/3/6(日)10:00-15:00(昼食休憩1時間含む)
場所:サロン・オ・デュ・タン(GSマンション4階4D)
スクムビットソイ35を入り100m左手EmQuartier向かい
参加費:1,000バーツ/回(お弁当付き)
さらに、レイキの初心者向けセミナーも昨年と同様に行います。
●「誰でもできる日本伝統のヒーリング技法・レイキ講座」
レイキ(靈氣)は「招福の秘宝 萬病の霊薬」と言われる、1920年代に日本で発祥したヒーリングです。
心身を癒す効果があり、海外では医療にも取り入れられているところもあります。
やり方は簡単で、ただ手を当てるだけ。
人が本来持っている能力なので、特別なものではありません。
是非、レイキの素晴らしさを体験してみませんか?
※レイキの体験と実習も、少し行う予定です。
※ただしレイキ講習ではありませんので、アチューンメント(霊授)は受けられません。
開催日時:2016/2/3(水)10:00-12:00、2/17(水)13:00-15:00
場所:サロン・オ・デュ・タン(GSマンション4階4D)
スクムビットソイ35を入り100m左手EmQuartier向かい
参加費:400バーツ/回
お申込み、お問い合わせはチラシの記載先へお願いします。
メール:salonhdtemps●gmail.com (●を@に替えてください)
2016年02月01日
2016年02月24日
私はなぜイスラーム教徒になったのか
ISに日本人が人質にとられたとき、よくテレビに出て話題になった中田考(なかた・こう)氏の本を読みました。
私がこの本に興味を覚えたのは、やはり、私がまだイスラム教をよく知らないからです。
1日に5回も礼拝しなければならないし、豚肉は食べられないし、お酒も飲めません。もともとムスリム(=イスラム教徒)の家庭に生まれた人は仕方ないとしても、そうでない人たちが、どこにメリットを感じるのかが、とても不思議に感じるからです。
本の評価は後ほどするとして、まずは本の内容を、一部を引用しながら紹介しましょう。
「イスラームとはもともと「服従」を意味するアラビア語です。宗教としてのイスラームは、超越神アッラーへの絶対服従、帰依を意味しています。」(p.2)
「じつのところ、イスラームとは、そのような人間社会に蔓延するあらゆる束縛からの解放です。イスラームの教えの根本は、アッラー以外に服従すべきものはなにもない、ということです。教師も親も上司も、同僚も友だちも、常識も世間も空気も、すべて不当に服従を迫る偽りの神々にすぎません。イスラームとはまず、人間を束縛する偽りの神々からの解放の教えなのです。」(p.4 - 5)
このように、イスラム教が服従する対象はアッラーだけであって、他の何ものにも服従しないのがイスラム教の教えだと言います。
これは、とても素晴らしいことのように聞こえます。アッラーとの交信を自分自身が行うなら、信じるのは自分だけであり、従う対象は自分だけですから。
でも、本当にそういう魅力に惹かれて、多くの人が入信するのでしょうか? そういう疑問を感じながら、読み進めました。
「領域国民国家システムは、近代以前にはイスラーム世界にはもちろん、ほかの世界にも存在していませんでした。その頃、イスラーム世界の中でももっとも広大な版図をもっていたのがオスマン帝国です。」(p.25)
「同じムスリムとはいえ別々の文化を持ち、別々の自治を行っていたスンナ派、シーア派、クルド人が、一つの国民になれるわけがありません。でも、国民国家となったことによって、住民はいやおうなく国家への忠誠を誓わなくてはならなくなり、のちにそれがイラクという国家の為政者であるサダム・フセインへの忠誠へとすり替えられていきます。
このような状況がイスラーム世界のすべての地域で進行しています。つまり、現在のムスリムは、本来のイスラームである神への服従と、すでに内面化されてしまっている「領域国民国家」への従属との板挟み状態にあります。」(p.30)
つまり、本来の宗教的なイスラム教は、国家の統治とは相容れないものであり、国家が存在しなければ、イスラム社会の中で平和に暮らせると言いたいようです。
また、イスラム教は厳格で、たとえばアルコールを口にしてはならないとか、豚肉を食べてはならないという決まりがあります。味の素製品に豚肉の成分が含まれていたとして、大問題になったことを記憶しておられる方もいらっしゃるでしょう。
「日本では、こういう細かい形式に厳密にこだわる人たちをイスラーム原理主義者だと思っている人も多いのですが、これは原理主義などではありません。原理主義とは、イスラームの根本である『クルアーン』と『ハディース』に忠実に、根本的なことを大事にするという態度であって、『クルアーン』にも『ハディース』にも具体的な規定のない些細なことにこだわり、勝手に決まりを作ろうとするのは些事拘泥主義と呼ぶべきでしょう。」(p.65 - 66)
中田氏は、豚が入っていると知らないで食べたなら、それはしょうがないことだと言います。つまり、そういう考え方が、本当のイスラム教だと言いたいようです。
だから、そういう些事にこだわって処罰したりするのは、本来のイスラム教ではない、というのが中田氏の主張です。
「日本は服装は自由で、飲酒も認められているが、イスラーム社会には服装の自由がなく、飲酒の自由もない、ということではありません。日本とイスラーム社会では服装、飲酒の禁じられる範囲が異なり、それに応じて自由度も異なるというだけです。」(p.71)
「現在、民主主義と呼ばれているものは、制限選挙寡頭制にほかなりません。「ヨーロッパには民主主義がある、アラブには民主主義がない」という言い方は、きわめて不正確です。あるのは制限選挙寡頭制であり、選挙の制限の範囲が異なるというだけのことです。」(p.74)
年齢や国籍でも制限があるし、一度も合ったこともない人に投票するのだから、自分の意思が政治に反映されるわけではない。だから、本当の民主主義ではない、という主張のようです。
このように、イスラム教社会が制限が多くて、西洋諸国が自由だというのは、範囲や程度、質の違いであって、本質的な違いではない、と言われたいようです。
中田氏は、アラブの人たちの約束を守らないいい加減さに対して、スーパーポジティブだと評価しています。
たとえば、電話をいついつまでにつけると約束しても、まず守られないそうです。それを、つかなくても大したことないし、神が望めば電話がつくだろう、くらいに考えるのだとか。
「それは人生のあらゆることについていえることです。大学に落ちる、事業に失敗する、そういうことも同じです。ほとんどのことは、まあ、しょうがないかと思って、めげない。それは彼らの考え方の根底に神への信頼があり、それを疑うことがないからです。そのスーパーポジティブさこそイスラームのすばらしいところだと思います。」(p.118)
たしかに、そういう見方もできますね。でも仏教徒のタイ人にも、通じるところがあるように思います。アラブと言うより、暖かい地域の民族性かもしれませんが。
また、イスラム社会では利息を生む金融を禁じています。つまり、分ち合いによって支え合う社会こそが、イスラム社会なのです。
「食べ物はとっておいたら腐ってしまいます。食べ切れないものがあったら、人に分ける。食べ物以外のものであっても、余っていたら回してしまう。それがイスラーム世界です。」(p.126)
近代化というのは、こういう分ち合いをなくしてしまうように感じます。アラブ社会に限らず、タイなどの東南アジアでも、昔の日本でも、分け合うことが普通に行われていました。
イスラム教は、その教えの中に分かち合うことが書かれているそうです。ただ、それで言うなら、キリスト教もそうですし、仏教もそうだと言えますけどね。
「とりもなおさず、現代のイスラーム世界の知のレベルの低下にほかなりません。最初に申し上げたように、なにが本当にイスラーム的なのか、ムスリム自身にもわからなくなっている。この状況が二十一世紀今日までもつづいています。」(p.155)
こう中田氏は言って、本来のイスラム教から離れていることを嘆きます。
本来のイスラム社会は、国境などもなくて、人はどこにでも住むことができるそうです。さらに、異教徒に対しても寛容で、イスラム社会の秩序を乱さないという約束さえ守れば、宗教的な自治を許され、共存できると言います。
「カリフ制再興は、このような国境を取り払い、人と資本が自由に移動でき、富の公正で適切な配分を行い、真の意味でのグローバリズムを目指そうとする運動です。」(p.185)
ですから中田氏は、本来のイスラム教は、西洋諸国より自由があるのだと言うのです。
しかし、イスラム教自体がシーア派とスンニ派(中田氏はスンナ派と記述)に分かれ、仲違いしている現実があります。イスラム教の中だけでもまとまることができないのに、他の宗教と仲良くやっていけるのでしょうか?
「しかし、すでに述べたように、教義の上では、シーア派とスンナ派が和解するのは、ひじょうにむずかしいのが現実です。厳格なサラフィーであるワッハーブ派にとってシーア派は最大の敵であり、法学的にもシーア派はカーフィル(不信仰者)と見なされます。
一方、シーア派のほうもスンナ派を神学的にカーフィルと見なしています。」(p.208)
「現実的に見て、私はシーア派がマイノリティーとしてマジョリティーのスンナ派に従属する形でしか、平和はないと考えています。」(p.209)
なんとも危うい平和論ですね。こういう教義が障害となって仲良くできないことこそが、本質的な誤りだと私は思いますが。
「日本ほどカリフ制について自由に議論ができる国はありません。シーア派とスンナ派の共存についても、その間を取りもてるのは、日本くらいしかないと思います。」(p.211 - 212)
「異教徒に求められるのは、ただムスリムと結んだ協定を守ることだけです。価値観の共有できない相手を「悪魔」「テロリスト」と呼んで、いっさいの対話や交渉を拒み、殲滅しようとする欧米の「テロとの戦い」とは異なり、言葉が通じ約束が成立さえすれば共存の道はあると考えるのがイスラームです。」(p.213)
中田氏はこのように、世界平和をもたらす鍵が日本にあると言います。そして、対話こそが重要で、相手を敵と決めつけて攻撃する考え方では、平和はもたらされないのだと。
人質をとって、対話を拒絶したISなどは、おそらく本当のイスラム教徒ではないのでしょうね。それは、他のイスラム教徒から批判されていることからもわかります。
では、本当のイスラム教徒とは、どこにいるのでしょう? 自らこそが正当だと主張し合い、互いに非難し合ってきたのが、これまでの宗教の各派だったと思います。
このことについて、中田氏は何も説明していません。
中田氏は、どこかの宗教に入ろうとして考えた結果、キリスト教よりイスラム教だと判断したようです。それは、イスラム教の方が合理的で自由だからと。しかし、イスラム教の自由さは、イスラム教徒でなければわからないと言います。
また、イスラム教は、イスラム教徒になることで、あの世での天国が保証されると言います。つまり、キリスト教のように、教えを守らなければ地獄に落とされるということはないのだと。
ただし、イスラム教の重要な教えは守らなければならないのですから、程度の差のような気もしますけどね。
これを読んで、少しはイスラム教のことがわかったようにも思います。しかし、私には、とりたててイスラム教の方がキリスト教より優れているとか、平和的だというようには感じられませんでした。
それに第一、本来の教えがそのまま信者に受け入れられていないことが問題なら、それはキリスト教でも他の宗教でも、教祖がすでに亡くなっている宗教はどこも同じではありませんか。だから宗教は分裂し、互いに憎しみ合ったりするのです。
その本質的な問題に目をつぶって、本来のイスラム教はと言われても、イスラム教徒も信じていない本来のイスラム教に、どれほどの力があるのか、私は懐疑的になります。
この本を、他の人に積極的に勧めたいとは思いませんが、イスラム教のことを知りたい人には、参考になるかもしれません。
2016年02月25日
吉田松陰の言葉に学ぶ本気の生きざま
株式会社都田建設社長の蓬台浩明氏の本を読みました。この本は、中野博さんたちがされている信和義塾大學校で紹介されたので、興味を覚えて買った本です。
帝王学として、書経などを教える信和義塾大學校が紹介している本なので、だいたい内容は想像できました。しかし、縁のある吉田松陰氏の言葉ですので、興味があったのです。
私が松陰氏に縁があるというのは、松下村塾のある萩に近い島根県西部出身で、松下村塾へも行ったことがあることと、幕末の志士の中でも松陰氏にあこがれていたこと、そして私が通った世田谷の国士舘大学の隣に松蔭神社があったことなどです。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
この本は、最初に松陰氏の言葉を引用し、それに対する解説や、蓬台氏のエピソードなどを語り、最後にワークをするという形になっています。それが全部で37個あります。
その7つ目に、こう書かれています。
「[現代語訳]野山にある小道は、これを使う人があれば道として存在し続けます。使う人がいなくなれば草木雑草によってすぐにふさがれてしまい、道として存在しなくなります。人の心も同じことです。」(p.42)
こう、ちょっとわかったようなわからないような文章を、松陰氏の言葉として紹介します。そして、それについて蓬台氏は、こう解説します。
「私たちの人生は、シンプルに生きようとしても自分ではどうしようもない、外部からの影響で、心に雑草のような気持ちが生まれる出来事が起こりますよね。
でも、その雑草を取り除く作業こそが、自分を成長させてくれるような気がします。
私の場合には、外部で起こることは自分ではどうしようもないと半分は割り切って生きています。しかし、そうした事態になってしまったときには、自分の心の持ち方をその雑草、つまり外部的な要因から学ぼうと努力します。
なぜならば、雑草は抜いても抜いても、どこからともなく生えてきます。それに除草剤をまいて土ごと傷めつけるのではなく、自分の手で丁寧に手入れをし続ける。たんたんと、です。
いつしかその雑草を抜く作業に感情を入れることがなくなるように、当たり前のようにやれるようになります。つまり、心が外部のことに乱されなくなるのです。」(p.43 - 44)
このように蓬台氏は言って、雑草のお陰で自分の内部を鍛えることができたと感謝もできるようになる、と言います。
この気づきは、とても素晴らしいものだと思いますが、松陰氏の言いたいことは、本当にそうなのかという疑問もあります。
つまり、松陰氏の言葉は、道を使う人があれば道として存在し続ける、ということを言っています。それが心と同じことなのだと。
前半は、先人が説いた道にしたがって自らを戒めることによって、その道を残すことができる、と言っているようにも考えられます。
しかし、それが人の心と同じとは、どういう意味でしょうか? 道と心が同じだという意味でしょうか?
もしそうだとすると、心を使い続けることによって心が残る、ということになり、なんだかしっくりしません。疑問が残る一節です。
「人の精神は目にあり。」(p.64)
この松陰氏の言葉を、蓬台氏はこう解説します。
「「目は口ほどにものを言う」という諺がありますよね。
目というのは、もしかしたら口以上にその人を物語っているのかもしれません。私自身は、人の目というのは本当に嘘をつかないというように思っています。」(p.65)
松陰氏は、人を見るときは目を見る、と言います。つまり、目を見ることで、その人物を見定めるのです。蓬台氏も同様に、目が重要だと言います。
「願力ということではなく、その目の奥にある「確信」や「覚悟」を見ているのだと思います。」(p.66)
自分の言行を一致させ、心を鍛えていけば、自然とそれが目に現れる。瞳がキラキラと輝くようになる。ですから、目を見て判断することも重要ですが、人物と判断されるよう心の修行が重要だということなのです。
「是非の心、人各々之(こ)れあり、
何ぞ必ずしも人の異を
強ひて之れを己れに同じうせんや。」(p.160)
だいたい意味はわかると思います。ことの正誤の判断は、人それぞれだということです。ですから無理に、自分と同じ考えに強制するな、というのが松陰氏の考えです。
これは実に先進的だと驚きました。つまり、価値観を押し付けない、というのが松陰氏の思想なのです。
「この名言にある通り、「何が正しく、何が間違っているのか?」の判断は難しいことが多いものです。企業経営でいえば、人事評価がこれに当てはまるのではないでしょうか。
私は、自分の判断だけでは人を評価しない、ということにしています。その一環として、私の会社では、スタッフの評価は自己評価を基本にしています。」(p.161)
これも1つの見方だとは思いますが、松陰氏の言わんとすることとは、少しズレている感じもします。
「自己評価をするためには、各自が倫理観、道徳観を持っていることが非常に重要になります。そのことを、私は強く指導しています。」(p.161)
これでは、松陰氏の言っていることと、真逆のような気もします。松陰氏は、価値観は人それぞれだから押しつけるな、と言っているのです。それなのに蓬台氏は、おそらくある絶対的な価値観が存在するという前提で、倫理観や道徳観を押しつける、と言っていますから。
松陰氏の言葉も、そこだけ切り出したものですから、私には本当にそういう意味かどうかはわかりません。
ここで切り出されて、現代語に訳されたものを読むと、どうにも腑に落ちないこととか、その解説が何だか違うような感じがするなど、イマイチ納得できない点が散見されました。
しかし、立派な実績を残されている蓬台氏が言われることを、なんら実績のない私が批判するのはおかしなことです。
ですから、私にはよくわからない、ということだけ申し上げます。きっと、この本が役立つという方も多くいらっしゃると思います。
2016年02月26日
宇宙方程式の研究
小林正観さんの本を読みました。これは、私が購入したのではなく、友人からいただいた本です。
この本は、編集者の山平松生さんが正観さんにインタビューして、それを文字にしたものになっています。
正観さんの本は、「ありがとうの神様」などを紹介していますが、比較的に最近のものばかり読んでいます。この本は、初版が2001年ですから、16年前という古いもの。それだけに、私が知っている正観さんのイメージとは、また違う一面が見られました。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
「脳波をベータ波からアルファ波、シータ波に上げていきなさい。脳波をアルファ波のほうへ変えていくと楽しいですよ。そうすると人生が変わりますよ、というのが、「小林正観の世界」の中でもとても重要なテーマです。」(p.21)
正観さんの脳波は、なんとベータ波0%、アルファ波9%、シータ波91%だったそうです。通常なら眠っているような状態です。
ですから正観さんは、何も考えなくても講演すべきことが次々に頭に浮かんできたりするのでしょうね。
レイキをやっていると眠くなるので、脳波がアルファ波やシータ波になっていると感じていました。顕在意識の働きを抑えて、潜在意識に任せることが、何かにつけて良いようです。
「そのころよく口にしたセリフが、「不幸や悲劇は存在しない。そう思う心があるだけ」というものでした。
(中略)
三十三歳のとき、小林さんはこの言葉が試されます。」(p.56)
これが、「ありがとうの神様」にも出てくる、障害を持ったお子さん、慶子ちゃんが生まれて来たときのエピソードです。
56番目の「「3秒」で、どんな悩みでも解決する方法」に書かれています。正観さんは、娘の障害を受け入れられなくて、見る世界から色が消え、白黒になってしまったと告白されています。
しかし、新聞のコラム記事に、600人に1人は障害児が生まれるとあるのを読んで、それなら自分のところに生まれてきて正解だったと受け入れた時、色が戻ったと言っています。
「たぶん温かい目でこの子に接して育てていくだろう……。そういうように考えた瞬間、これまで話してきた「不幸や悲劇は存在しない。そう思う心があるだけ」という方程式が本物になったのです。事実を受け入れた瞬間、色が戻りました。私にとってそれがたぶん「悟り」だったと思います。」(p.57)
正観さんは、高橋信次さんとも会われています。
「そういえば、高橋信次さんが悟ったのも受け入れるということでした。お前は死ぬぞと言われ、闘い続けた三日間は誰も答えを出してくれません。分かった、もう死のうと決めたときに、お前は悟ったと言われました。だから「悟り」とは「受け入れること」なんです。闘うことではないんですね。闘っている間は苦しいのです。」(p.60)
この争わずに受け入れるということを、正観さんは娘の慶子ちゃんから教わったと言われています。
生まれ変わりについて正観さんは、足立育朗氏の説を引用して、次のように言われています。
「つまり鉱物、植物、動物、雲、そして人間という経験をするのですが、このプロセスにはある法則性があることに気がつきます。それはだんだん自由度が増すということです。」(p.90)
「ある人が言った言葉で、「人格の大きさは行動半径の大きさだ」というのがあります。
(中略)
自由度が増していくというのがじつは魂の進化そのものだと思います。ですから、人間も十万回生まれ変わるんですね、人間の衣を着て……。行動半径の大きさが、生まれ変わりの回数を推定させます。」(p.91)
進化すれば自由度が増すという視点は、まさにその通りだと感じました。全国を講演で飛び回っていた正観さんは、何度も生まれ変わって進化されてた魂だったのでしょうね。
「逆に言えば、「努力すること、頑張ること、必死になること」をやめることが大きな能力開発への前提条件になることが分かってきました。」(p.104)
最近は心屋仁之助さんなども、頑張ることをやめようと言われています。正観さんはすでに以前から、そういうことを言われているのですね。
つまり、顕在意識に頼ることによって、潜在意識が働かなくなるのだそうです。正観さんはスプーン曲げなどの超能力研究もされていて、ご自身の体験などから、この結論を導き出されたようです。
「成果が上がらないのは、苦労や努力が足りないからではなく、足りないのは周りの神々や周りの人々への感謝の気持ちです。自分の周囲の方々にもっと感謝したらどうですか。人にはそれぞれたくさんの味方がついているんです。その方々が深いところでちゃんと見てくれているのです。」(p.125)
努力するのは、誰も助けてくれないと信じているから。周りを信頼していないから。つまり愛していないからなんですね。
ですから逆に、安心して、任せて、感謝していれば良いのだと、正観さんは言われるのです。
「私の力ではどうにもならない、神さま、あとはお願いします、と言いきってしまうんです。それができた人は、その問題が突破できます。
そして一度それが突破できると、自分の手の届く問題に囲まれているときに、これは自力でもやれるけれど、このレベルにもお願いしようと頼んでしまうのです。なんの努力もいらない、ただただお願いする。」(p.127)
神仏だけでなく、周りの人にも、ただお願いして感謝する。どんな結果が出ても、それを受け入れて感謝する。そうすることが、大きな力になると正観さんは言われるのです。
「結局私たちは神さまになるための予備軍なんですね。ただ神さまになるための道を歩いているだけなんです。あっちへ行ったり、こっちにぶつかったりしますが、結局はその道をまっすぐ歩いているんです。」(p.141)
人間という存在は、神になろうとしている存在だと、正観さんは言われます。まさに「神との対話」で書かれている通りですね。
「投げかけたものが返ってくる……。いまは過去に投げたものが返ってきているのです。未来は、いま投げたものが返ります。その積み重ねです。」(p.142)
この世の法則は、与えたものが返ってくるということだけだ、と言ったのはバシャールでした。多くの人が、本当に同じようなことを言われています。
「肩を叩かれリストラされたことは、ほんとうはものすごくラッキーなことかもしれません。次の訓練のためのステップだったのかもしれません。ほんとうに自分がしたい仕事が見つかるチャンスかもしれません。恨み辛みを言うのをやめて、すべてのことに感謝し、「ありがとう」を言うと、本人がいちばん楽になって楽しくなりますよ。」(p.143)
何が自分にとって良いことか悪いことか、後になってみなければわかりません。ですから、それを否定するなと、「神との対話」でも言っています。
「人生は自分が書いたシナリオどおりだ……。それが納得できると、やってくる現象一つ一つに対して、あれこれ論評や文句を言わなくなります。逆に、自分が書いたシナリオが今日どんな形で現れてくるのか、わくわくしながらその現実を見られるようになります。このシナリオは、いい悪いがありません。何が起きても何が来ようといいんです。淡々と過ぎていく現実を見ていればいいのです。自分が書いたのですから。」(p.143 - 144)
「神との対話」でも、目の前の現実はすべて、自分が創造したのだと言っています。それは魂の課題に対して最適なものです。そうだとすれば、文句を言ったり、悲観したりする必要はありませんよね。
困っている他人のために何かしてあげたいと思う時、何もできなくて自責の念に駆られることがあります。
そういうとき正観さんは、自分にできることとできないことを分け、できないことは気にしないことが重要だと言います。
「でもたった一つ、方法があります。「自分が太陽になる」ことです。自分が北風のままであれば、その人の氷はいつまでも溶かせません。自分が自分で太陽になる……、これは簡単です。相手を変えるのではなく自分が変わるのですから。」(p.163)
「神との対話」でも、暗闇の光になれと言っています。相手を変えようとせず、その場で自分が輝けば良いのです。
自称「変態」のたまちゃんも、お天道さまのように生きることを提唱されていました。お天道さまとは太陽のこと。光と熱(温かさ)を自ら発するのです。
「ぜんぶ必然なんです。一つでも欠けていたらここにはいませんよ。なに一つ否定するものはありません。「全部」が感謝の対象です。その「全部」に対して「ありがとう」って手を合わせられたら、局面が変わります。ぜんぶが味方になります。神、仏、守護霊、精霊、友人、家族、そして私の体がすべて味方につきます。あれがよくてあれが悪いというのはやめた方がいい。」(p.180)
良いことも悪いことも、すべて必然で無駄がないのですね。それらがすべてあってこそ、今の自分がある。そう思えば、すべてのことに感謝なのです。
「自分が、勝手に色をつけて見ればいいんだって。だから、すべてのことに否定的で、不幸だ不幸だ、悲しい、つらいと受け取るのが、その人の趣味で好きなんだったらそれでもよし、それが楽しいんだから、権利だから、やっていてもいいのです。反対に、その「空」の現象に対して、嬉しくて、楽しくて、幸せだって思う方が、自分にとって嬉しく楽しく幸せなんだったら、そういうふうにとってもいい、自分だけの問題だから。」(p.189)
これが般若心経にある「色即是空 空即是色」の、正観さんの解釈だそうです。もともと色がついていないので、自分の好きな色で染めれば良いのだと。
「二十一世紀は架け橋ですね、二十世紀と二十二世紀の。この百年で西洋文明から東洋文明へと価値観が変わって、それがその後三千年続きます。その礎(いしずえ)がこの百年で出来上がります。
(中略)
釈迦が言ったジャプトーバーですね。自分の教えが、末法の時代になってから五百年ほどたつと、つまり二千五百年後ですね、インドのはるか東方にジャプトーバーという国があって、その国で自分の教えや考え方が正しく理解されなおす……。
(中略)
山平 ジャプトーバーはもちろん日本ですね?
小林 そうです。その国の人々は争うこと、闘うことが嫌いな人たちで、その考えと自分の教えが正しく理解されることが相まって、融合して平和な世界が始まる。そこから三千年間、平和が続くだろうと釈迦は言ったのです。」(p.200 - 201)
そんなお釈迦様の教えがあったのかどうか知りませんが、これは驚きです。でも、なんとなく日本は、世界平和の要だという気はしています。
「だから私は環境問題とも闘わないし、世の中が悪くなったなんて一言もいわないのです。そうではなく、三千年王国に向けての第一歩が始まったと思っています。」(p.202)
自分の人生は、自分の思いが創りあげています。そうだとしたら、現実を批判したり、文句を言ったり、不平不満を言うことはナンセンスです。その思いが、未来を創るからです。
ですから正観さんは、批判せず、否定せず、それでよしと受け入れて、感謝する生き方を勧めています。そう生きることが、幸せへの近道なのです。また、そう生きることが、問題解決の近道でもあるのですね。
超能力探求から始まった正観さんの心の旅は、このような悟りのレベルにまで昇華して行きました。正観さんの生き方が、非常によくわかる本だと思いました。
2016年02月27日
絶望は神さまからの贈りもの
ひすいこたろうさんの本は、前回の「ゆるんだ人からうまくいく。」以来です。
この本は、偉人伝だということもわかっていたので、内容は想像できました。しかし、どうしても読みたくなっちゃいます。
そしてこの本には、意図されなかったドラマがありました。それが実に素晴らしかったです。それについては、最後に紹介しましょう。
なお、この本は、ひすいさんのアシスタント、柴田エリーさんとの共著になっています。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「心は「喜び」を求めますが、魂は「成長」を求めているんです。
心は「安定」を求めますが、魂は「変化」を求めています。
不幸、逆境、困難、トラブル、ピンチは魂にとっては、ウェルカムなんです。
困難こそ、魂の成長を誘う、天からのギフトだからです。
きっとあなたの人生にも、悩み、落ち込み、どうすればいいのかわからなくなるときがあると思います。でも、実は、それこそが「チャンス」です。
もう前には進めない、右にも左にも後ろにも逃げ道はない。そんなふうに行き詰まったときこそ、ひとつ上の次元にジャンプするしかなくなるからです。」(p.4)
魂は成長を求めているというのは、まさに「神との対話」にある通りですね。永遠の生命である魂にとっては、逆境など大したことなくて、我々が呼ぶ「死」ですら、どうってことない出来事なのです。
ですから、どんなときでも安心していればいいし、ピンチになったら「チャンスが来たー!」と思えば良いのです。
「人は自分のために頑張るとき10の力がでる。
でも誰かを喜ばせようとするとき1000の力が湧き上がるのです。
大切な誰かを喜ばせようとして、一心不乱に打ち込んだとき、
「夢ってかなうじゃん!」」(p.32)
これは、絵本作家として成功されているのぶみさんのエピソードです。絵本とまったく関係ない世界にいたのぶみさんは、図書館の絵本を6000冊読むところからスタートします。
そして、ボツ原稿が180cmに積み上がるまで書き続け、やっと絵本作家になります。しかし、それから書いても書いても売れず、70冊目がやっとベストセラーになったそうです。
そこで、ベストセラーになった1冊目と70冊目の共通点が見つかったのだとか。それが、大切な誰かのために一心になること。
自分の野望とか損得ではなく、誰かを喜ばせたいと思って打ち込むと、自分のためでは得られないエネルギーが湧いてくるのでしょうね。
「「いまこそ行動を起こすときだ」とロンドンに移住し、ダンサーの養成学校に行きます。このとき、オードリーの持っていた全財産はたった10ドル。でも、オードリーには、「やっていける」という自信がありました。だって、生きているのは生かされているということだから。
だから必ずなんとかなる。」(p.71)
「ローマの休日」の主演女優に抜擢された以降は、映画の世界で大活躍したオードリー・ヘップバーンさんのエピソードです。
両親の離婚、オランダ語訛りの英語をバカにされた学生生活、チョコの食べ過ぎによる激太り。それからナチスに追われて逃亡生活。ドイツ兵に追われ、地下室に身を隠して1ヶ月も過ごしたこともあったとか。
しかし、その体験でオードリーは、まだ生きているのに、死んだように生きることのバカバカしさに気づきます。
自分の努力で生きているのではなく、自然の力で生かされていると気づいたとき、逃げ隠れする必要がないとわかったのです。
「あなたが、生まれたのは宇宙がそう望んだからです。
宇宙があなたを望んだのです。
だから、あなたの心臓は、あなたが寝ているときだって1秒も休むことなくあなたを生かしてくれているのです。」(p.72)
「自分のためを思っているとき、生まれるのは「恐れ」
誰かのためを思っているとき、生まれるのは「勇気」
For me ではなく for you −−。
このときに心の中で爆発するものが「愛」です。」(p.111)
これはガンジー氏のエピソードです。何度も何度も逮捕され、拘束されても、それでも諦めずに非暴力・不服従によってインドの独立を勝ち取りました。
仲間が暴力をふるった時は、何日も断食をすることで、非暴力を訴えました。相手を変えるのではなく、自分が変わるのです。
暴力のない世界、差別のない世界への愛が、ガンジー氏に勇気を湧き起こさせたのです。
「ここに僕らが学べる重要なポイントがあります。恐れや、将来への不安、不満、わだかまってること、誰にも言えない秘密、嫉妬、許せない人への怒り、それらを一度、ベートーベンのように、正直な気持ちを洗いざらい紙に書きだしてみればいいのです。
全部書きだしたら、そう思ってるありのままの自分を認め、「うん。ここから始めよう」とつぶやいてみてください。書き出すことで、自分の頭の中を客観視できますから、悩みと自分を分離できて、悩みから一定の距離を置くことができるのです。」(p.128)
これは、ベートーベン氏のエピソードです。音楽家なのに耳が聞こえなくなり、それが知られないように腐心したベートーベン氏です。
そういう苦労に無理解な人々への不満を、弟に遺書として書き始めました。しかし途中から、希望のメッセージへと変わっていったようです。
このことで吹っ切れたベートーベン氏は、代表作を次々と生み出すようになります。苦しみを超えることで、彼は歓喜の世界に昇りつめたのです。
参考までに、リンカーン大統領も、批判・非難する手紙を書いては、出さずに捨てたそうです。また、「怒らない技術2」などで嶋津良智さんは、アンガーログ(怒ったことの記録)をつけることを勧めています。これらも、同じような効果があると思います。
「死と向き合って、孫さんは、大事なのはお金じゃないんだ、そう気づいた。
地位でも名誉でもないんだ。そう気づいた。
おばあちゃんがやっていたような、人に喜んでもらえること。そういう貢献ができたら幸せだ。入院してから、なおさらそう思ったそうです。」(p.168)
ソフトバンクを創設した孫正義さんのエピソードです。孫さんの事業が順調に進みだしたころ、まだ20代なのに慢性肝炎にかかります。肝硬変寸前で、肝臓がんへ進行する危険がありました。「5年はもつかもしれないけど…」と診断され、孫さんはショックを受けます。
そのとき、地位も名誉もお金も要らないと思ったそうです。ただ、「生まれたばかりの娘の笑顔が見たい」と。そしてそこから、家族みんなの笑顔、社員の笑顔、お客さんの笑顔と、見たい笑顔が広がっていったそうです。
誰かを喜ばせること。それが自分の使命だと気づいたとき、人は自分以上のパワーが出せるのですね。
「「我々は自分に問いかける。自分ごときが賢く、美しく、才能にあふれたすばらしい人物であろうはずがないではないか? だが、そうであってはなぜいけない?
あなたが遠慮しても世界の役には立たないのだ」」(p.196)
これは、ネルソン・マンデラ氏の大統領就任演説の言葉です。マンデラ氏のエピソードは、まるでセミのようです。長い苦難の人生の末に、わずかな期間の栄光があったのですから。
マンデラ氏は、アパルトヘイトの南アフリカで、その政策に抵抗し、実に27年間も牢に押し込められます。獄中にあるとき母を亡くし、息子も亡くします。その葬儀にさえ参列することを許されませんでした。
自分の家族よりも民衆の幸せを優先させたことに対して、疑念が頭をもたげます。しかし、マンデラ氏は、それでも民衆のためにと思い続けたのです。
「アパルトヘイト撤廃。それは夢のまた夢のことだった。
でも人生は、できる、できないじゃない。やるか、やらないかです。」(p.195)
「「怖くなんてないですよ。神の所へ行くのがちょっと早くなるだけのこと」
神さまの所へ行くのがちょっと早くなるだけ、なんてすごい理屈でしょう。
愛あるところに、恐れはないのです。どんなに誤解されても、危険な目に遭っても、マザーテレサは、内なる声を信じて、自分の道を貫きました。
そう、「愛」とは覚悟なんです。」(p.205)
これは、マザーテレサさんのエピソードです。ノーベル平和賞を受賞したマザーですが、最初から歓迎されたわけではなかったようです。
病気の人の手当をしているのに、怪しまれて石を投げつけられたりしました。また、カトリック信者に変えようとしていると批判され、ツバを吐きかけられたりしました。
やがて、マザーを追い出そうとするデモが起こります。警察が出動し、警察署長が取り調べにやって来ました。
事情聴取を終えた警察署長は、町の人たちに言ったそうです。マザーを追い出そうと。しかし、さらに続けて言いました。あなたたちのお母さんやお姉さんが、マザーの代わりに同じことをやってくれるならと。こうして、マザーの活動は認められるようになっていったのです。
「あなたは望まれてこの世に生まれてきたんですよ。
あなたはかけがえのない大切な人なんですよ。
マザー・テレサはそう伝えてあげたかったのです。」(p.207)
マザーの活動は、その思いを伝えることでした。愛の活動であっても、受け入れられるとは限りません。しかし、愛し続けるなら、それは必ず道を開くのです。
最後に、宮沢賢治氏のエピソードからです。賢治氏が生前に出版した本はたったの2冊。しかも、引き受け手がなくて、自費出版だったそうです。
賢治氏は、たった1人の理解者であった妹さんを喜ばせるために、童話を書き続けました。しかし、その妹さんも、24歳で亡くなってしまいました。
賢治氏の作品は、生前は世にでることがありませんでした。あの有名な「アメニモマケズ」の詩も、手帳に書かれていたもので、トランクの中から発見されたそうです。
復活劇のなかった賢治氏です。それでも、妹さんのために、農民のためにと、優しくなれる人だったとか。
このエピソードの締めくくりとして、ひすいさんは最高の言葉を用意しました。しかし、校正も終わって印刷された本を手にした時、その言葉がまったく関係のないものにすり替わっていることに気づきました。
あとでそれは、写真のサイズを変えたことで、工場で間違って他の言葉が入ったことがわかります。しかし、最後の言葉が違っていたのでは、賢治氏のエピソードも輝きません。
ひすいさんは、無性に腹が立ったそうです。その怒りをどこにぶつけていいかわからないほどに。しかし、幸いなことに、気づいたのが真夜中だったとか。それで冷静になったひすいさんは、善後策を考えたのです。
この話は、ヒカルランドの3周年記念イベントで、ひすいさんが話してくれました。かわいいシールに正しい言葉を印刷して、それをイベントなどに来てくれた人に配ることで、付加価値をつければよいというアイデアも生まれたそうです。
しかし私は、この出来事もまた必然だったのだと思います。それは、本来入れたかった言葉が、そのことをよく物語っているからです。
「すべての問題は、あなたを優しくするために存在しています。
優しさこそ、この宇宙の最高芸術です。」(p.239)
まさに、優しさを発揮するチャンスになったのです。この間違いによってこそ、この本は、最高芸術に昇華したのだと思います。
もし読者が、「こんな不出来な本を買わせやがって!」と怒ったなら、それは優しさを発揮するチャンスを逃したことになるのですから。
24人の偉人たちのエピソードは、私たちに勇気と希望を与えてくれます。
だから安心して、自分の人生を自分らしく生きましょう。逆境こそが、神さまからの最高の贈り物なのですから。
2016年02月29日
死ぬのを楽しみに生きると人生の質は最高になる
ヒカルランドの3周年記念イベントに参加し、お目当てだったひすいこたろうさんや植原紘治さん、はせくらみゆきさんの他に、空中浮遊を行ったヨガ行者の成瀬雅春さんなども講演をされました。
その成瀬さんの話を聞いて面白かったので、その場でこの本を買いました。
東京の五反田でヨガ教室を開いておられますが、書のような絵のような瞑想画を書かれたり、ジャズを演奏されたりと、なかなか多彩なお方のようです。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
「私の生き方の中心は「死」です。
常に死と向かい合い、死に敬意を払い、最高の死に向かって生きています。
そうすると、「今が楽しくなくてもいい」「生きたいように生きられなくなってもいい」「趣味を続けられなくなってもいい」のです。
楽しくても、楽しくなくても、つらくても、うれしくても、苦しくても、すべて含めて「愉(たの)しい」のです。」(p.6)
講演の中でも言われていましたが、つらいことがあれば、それが終わることで無上の喜びが感じられるとわかるので、愉しくなるのだそうです。
死ぬときには、生前の体験が走馬灯のように浮かんでくるそうですが、その走馬灯が愉しいものであるような生き方をする。それが成瀬さんの生き方のようです。
「死の可能性は、無数に存在しているのです。
「死は来ない」「死とは縁がない」と考えるのは間違いで、むしろ日々死と直面しているという認識を持つほうが正しいです。その考え方を持つことで、死の恐怖は確実に軽減されます。
「死が来るかもしれない」と思うから怖いのです。
「死は来る」と思えば「かもしれない」という不安要素がなくなります。
人間がドキドキするのは、何かが決まっていない、もしくは決まる直前です。
「どうなるかわからない」から不安になり、怖くなるのです。」(p.33)
常に死のことを考え、今日にも死ぬかもしれないと思うことで、死の恐怖から逃れられると言います。このへんの考え方は、ひすいさんの「あした死ぬかもよ?」と同じですね。
「寝たきりになっても人生は終わらない。
それどころか、寝たきりになったら、新たな楽しい世界が開けるのです。」(p.76)
仮に寝たきりになっても、できないのは身体を使うことだけで、考えることはできると言います。勉強もできるし、瞑想もできる。制限が大きければ大きいほど、できることに専念できるわけです。
そうやってできることに意識をフォーカスすれば、それは愉しいことだと言うのですね。
「すべて自分の判断で選択して、自分の責任において生きていくのが正しい人生です。その中で、私のような考え方をする人間がいることを知って、自分の判断基準の参考にすればいいのです。」(p.86)
成瀬さんは、石鹸やシャンプー、洗剤や歯磨き粉など、自然でないものは一切使わない主義だそうです。
ですが、それを他人に押しつけることはしないそうです。それぞれが自分で考えて、自分で判断すべきだと思われているからです。
「私は「奢ってあげた」と考えるのではなく「奢らせてもらった」と考えます。
つまり、「私が奢るチャンスを与えてもらったこと」に感謝するのです。」(p.157)
飲食を奢るのは「生前贈与」だと考えているのだそうです。同じようでも、死後の遺産相続は、少なくとも死んだ本人が喜べません。ですから生きているうちに贈って、喜ばれ、感謝されるなら、その方が愉しいのです。
そして、それをすることで「損した」と考えると、やはり愉しめません。ですから成瀬さんは、感謝できる見方を選ぶのだそうです。
「生死という観点で考えると、誰かに奢って感謝され、その直後に自分が死んだとしたら、奢っておいて良かったことになります。奢る分のお金がもったいないから奢らなかったとして、その直後に自分が死んだら「奢っておけばよかった」と後悔することになります。なぜなら、その奢る分のお金は、死の瞬間に、自分の手から離れるからです。
自分の持ち物はすべて、死の瞬間に自分の手から離れます。
死の瞬間に自分から離れないのは、「経験」であり「意識」です。
素晴らしい経験を積んでおけば「素晴らしい死」を迎えられます。」(p.160)
ちょっと長いですが、重要なことが書かれていると思います。死んだら、地位も名誉も財産も無意味です。ここまでは、多くの人が言っています。
成瀬さんはさらに突っ込んで、死後に残るのは経験と意識だと言っています。これは、「神との対話」に通じる考え方ですね。
ですから、「良い経験」、つまり「自分らしい経験」をすることが重要になります。いつ死ぬかわからないのですから、常に、自分らしく生きることが重要なのです。
そして、そのように生きていれば、「素晴らしい死」が迎えられると言います。つまり、自分の死を輝かせるために、常に自分らしい選択をすることが重要なのですね。
まったく自由に、思うがままに生きている感じの成瀬さんは、本当にかわいらしいおじいちゃんという感じの方でした。
植原紘治さんといい、成瀬さんといい、すてきな「おじいちゃん」と出会えて、なんだか心がほっこりしました。
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