2016年01月03日
手のぬくもりは心のぬくもり
セラピューティック・ケアとタクティールケアという、主になでるだけで認知症などに対しても効果があるという施術に関する本を読みました。
これは、バンコクのレイキ練習交流会に参加されている方から、「こんなものがあるけど、知ってますか?」と言われて、新聞の切り抜きを見せられたのがきっかけです。
「これって、レイキですよね?」と言われたのですが、レイキとは違うように思いました。ただ、興味が湧いたので、関連している本を購入して読んでみたのです。
1冊目は、セラピューティック・ケアの本「手のぬくもりは心のぬくもり」で、著者は秋吉美千代さん。
イギリス発祥のセラピューティック・ケアを日本で普及させることに尽力されている方です。WEBサイトはこちらになります。
もう1冊は、「タクティールケア入門」という本で、タクティールケア普及を考える会の編著となっています。
タクティールケアは、スウェーデン発祥となっています。WEBサイトはこちらです。
両者の違いは微妙です。滑りを良くするのに乳液を使うのか、オイルを使うのかや、なでるときの手の動きなども、若干違いがあります。
また、経絡やリンパへの影響を考えているのかいないのかなど、その効果に対する考え方も、少し違いがあるようです。
しかし、人の手のぬくもりや肌触りを伝えることで、被施術者に安心感を抱かせる効果を狙っているという点で、共通しているように思いました。
では、「手のぬくもりは…」から一部を引用して、内容を紹介しましょう。
「「痛いの痛いの飛んでゆけ!」と、痛いところに手を当てる、”手当て”という言葉があります。痛いところを優しくなでてくれたお母さんの手の温もり……それが、セラピューティック・ケアの原点です。人肌の温もりと柔らかい手のひらの感触、そしてゆっくりと一定のリズムと圧でなでられる心地よさは、どんなに精緻なマッサージ機でもかないません。」(p.5)
このように、セラピューティック・ケアを紹介しています。
このことや、イギリス発祥ということからして、経絡だとかリンパなどというのは、後付のように思われます。また、WEBサイトのQ&Aにも、特に経絡などを意識しなくても、全体をなでているうちに刺激が伝わるのだ、というようなことが書かれています。したがって、経絡やツボを刺激する指圧や鍼灸という東洋医学的なものとは、まったく関係がないと思われます。
ただし、だからと言って、そういうものへの影響がないわけではありません。後付であっても、そういう影響があるかもしれない、という点では同意します。
「『現代の生活問題』(中川清著、放送大学教育振興会刊)によれば、オキシトシンを分泌させるには、「圧をかけて一定の間隔でなでる」ことになっています。相手に手で触れ、その手のぬくもりを感じさせながらゆっくりとなでていくセラピューティック・ケアの効果の多くは、このオキシトシンによるものであると考えられます。
オキシトシンとは、脳の下垂体後葉から分泌されるもので「信頼のホルモン」「安らぎや幸福感をもたらすホルモン」と言われています。このオキシトシンは、触れる(ケアする)側の人にも分泌されるため、施術者も同じようにリラックスし、気持よく感じられるのです。」(p.41 - 42)
つまり、一定の圧力とスピードでなでることで、オキシトシンを分泌させる。これがセラーピューティック・ケアの本質だと言うのですね。
もしそうだとすると、オイルマッサージや一部のリンパマッサージなど、マッサージ系ならほとんどに、この効果があると思われます。
では、一方のタクティールケアはどうでしょうか?そちらの本からも引用しましょう。
「これらの療法では、ある特定のツボや筋肉を押したり揉んだりすることにより効果を得ていますが、タクティールケアの場合は、特定のツボや筋肉に強い刺激を与えるのではなく、手や足、背中全体をやわらかく包み込むようにゆっくりなでることによって効果を得ている点が、ほかのタッチケアとは大きく違うところです。」(p.14)
たしかに、指圧やタイマッサージなどとは、大きく違うのでしょう。もみ返しなどの危険もないので、安全と言えます。しかし、オイルマッサージやセラピューティック・ケアとの違いは、よくわかりません。やり方が多少違うだけで、効果やその理由も、同じもののような気もします。
「その全容が明らかになるのはまだ先の話になりますが、現在のところ、安心感をもたらす効果に関与しているのが「オキシトシン」というホルモンではないかとみられています。」(p.35)
このように、タクティールケアの方も、効果がある理由にオキシトシンをあげています。
元々、人肌が恋しいという言葉もあるように、人は他の人の肌に触れることによって、安心感や満足感が得られることが知られていました。
また子育てにおいては、親が子をしっかりと抱いてやることが重要だと言われています。それは精神的な意味もありますが、その効果を引き起こしているのが「オキシトシン」だとすると、服を通してであっても「肌に触れる」ことが重要なのだと思います。
レイキは、肌に触れる必要がありません。手を浮かせても施術できます。そういう意味では、これらのケアとは効果やその理由も異なると思われます。
ただし、直接触れた方が被施術者に満足感があることは、レイキの講習でも習いました。
もし、こういうケアをする人がレイキも修得されたら、両方の効果が同時に発揮されるわけですから、鬼に金棒のように思います。
また、こういうケアを本格的に習わないとしても、他の人の肌にそっと触れてなでてあげるだけでも、効果があるように思いました。
2016年01月08日
受けてみたフィンランドの教育
フィンランドが注目されていたので、その秘密を知りたくて2冊の本を読んでみました。
「受けてみたフィンランドの教育」は、高校の時にフィンランドへ留学した実川真由(じつかわ・まゆ)さんと、その母親の実川元子(じつかわ・もとこ)さんの本と、フィンランドがどうして成功しているのかを紐解く「フィンランドを世界一に導いた100の社会改革」という本です。
2冊めは、それぞれの改革について、それぞれの担当者が書いた文を集めたもので、編集者はイルッカ・タイパレ氏、翻訳は山田眞知子さんになっています。
フィンランドが注目されるのは、まず学力の点です。OECDの学習到達度調査では、常に上位を占めています。
そして、資源がない国でありながら、一人あたりのGDP比較では、北欧諸国はだいたい上位にあり、フィンランドは日本よりも上なのです。
高福祉国家の方が、経済的に成功するのでしょうか?それとも、他に何か理由があるのでしょうか?
そういう疑問を持ちながら、この2冊の本を読んでみました。
ではさっそく、本の一部を引用しながら、内容を紹介しましょう。
まずは「受けてみた…」の方からです。
「帰国後の長女は、自分の判断基準を持ち、それを主張できる人になっていた。まわりから反対されても、以前のようにふてくされずに周囲を説得して意見を通すようになった。何よりも、自信を持って自分の意見を発言し、好奇心旺盛に積極的に行動するようになったことが親の私たちはうれしかった。また視野が広がり、社会において、もっと言えばこの世界において自分は何ができるのかを考えるようになった。つまり、大人になったのである。」(p.40 - 41)
これは、AFSという組織を通じてチリに留学した長女に関する母親の記述です。高校生という多感な時期に、親元を離れて1年間、文化も言葉も異なる家庭で過ごすという経験が、人を大きく成長させることを示しています。
これはフィンランドの教育とは関係ありませんが、教育の本質を突いているように感じました。またこの子どもを留学させるという経験は、親を成長させる効果もあったようで、親子関係が対等に話ができるものになったと言っています。
「フィンランドの高校生は、学校はただ単に「学ぶ場所」であり、そこに来る来ないという選択は、特に誰にも矯正されていないようだった。」(p.64)
「エヴァは、授業中にふざけたり喋ったりする生徒がいると、何も言わずにドアを開けて「どうぞ」と言って、外に出す。あとからその生徒を呼び出して怒ることもなければ、他の生徒にその生徒について愚痴を言うこともない。」(p.268)
フィンランドには学習塾などないそうです。学校が学習塾のようなものなので、さらに塾へ行く必要性がないのだと思います。
「「読む」。実は、これがフィンランドの教育のキーワードであることに私は気付いた。」(p.76)
フィンランドでは、大量に本を読ませるのだそうです。テストでは、その本の内容から、自分が考えたことをまとめて書くという、エッセイ(小論文)形式がほとんどだとか。穴埋めなどというテストはなく、すべてが記述式。単純な暗記では対応できないのだそうです。
「本や資料から得た知識を、自分なりに解釈していくという訓練がフィンランドの学校が教えていることだ。つまり、知識は前提であって、それをどう自分が考えるかという点を先生は見る。」(p.79)
フィンランド語(国語)の授業では、1ヶ月に1冊は本を読ませるそうです。そして、要約と感想を書かせる宿題も課せられます。
「書く力をつけるためにも、ハードな課題を生徒に課している。A4判の用紙四ページという中学生にしてはかなりの量のエッセイを書かせるのだが、書き方についても厳しい制約をつけている。前書きと結論とメインの部分が五つという合計七つの段落で構成し、整合性のある論旨を展開することを求める。」(p.171)
フィンランドでは、エッセイを書かせたり、みんなの前でプレゼンテーション(発表)をさせたりすることが多いそうです。その指導法にも特徴があります。
「ちなみに先生はよほどひどくない限り間違いを訂正したり、生徒のやり方に対して注意したりしなかった。」(p.107)
日本では、「間違いを許さない」という価値観が優先します。正解は1つであり、それ以外は間違いなのです。
それに対してフィンランドは、正しいかどうかよりも優先する価値観があるように思います。それがおそらく、書かれているものを理解して、自分の考えをまとめて伝える、ということなのだと思います。
そのためには、訓練が必要です。訓練は、何度も何度も経験させることです。そうすることで、だんだんと上手くなっていきます。間違いを指摘して、やる気を失くさせるようなことはしないのですね。
読解力でフィンランドが常に上位なのは、この読書量と、それをまとめて発表する力にあるように思います。
しかも、テストには時間制限がないというから驚きです。日本のように、決められた時間内に正しい知識があることを示す、というテストではないのです。
「フィンランドの高校では、数学のテストのときに持ち込むものが二つある。筆記用具と計算機だ。」(p.81)
つまり暗算などはしなくてよく、計算機が使えれば良いのです。これは、良い面もありますが、暗算力が鍛えられないという欠点もあります。ですから買物などでも、レジで金額を示されるまで、自分が充分なお金を持っているかどうかわからない、ということもあるようです。
「夫婦ともに基本的に朝の九時から五時までと終業時間がきっちりしている。」(p.87)
日本のような残業が当たり前という文化はないのです。このことは、子育てに対する考え方の違いも生みます。
ホストファミリーは、2年間の育休も取得したし、フレックスタイム制度も利用したとか。なんでも仕事優先という日本とは、価値観が違います。
それだけ仕事を優先しているのに、一人あたりのGDPではフィンランドの方が上なのです。そこが問題なのだと思います。
「もうひとつ、子どもを育てやすい環境を感じたのは「地域コミュニティが機能している」ことだ。」(p.87)
日本の都会では特に、地域コミュニティは崩壊していると言ってよいでしょう。群衆の中の孤独と言われるように、人は多くてもコミュニティではないのです。
フィンランドは人口が500万人程度で北海道ほどですし、人口密度もそれほど高くなく、国内でそれほど人が動かないということもあって、近所はみんな長年の顔見知りみたいな状態なのだそうです。
フィンランドの人は、英語もうまいと言います。その理由を、次のように言っています。
「フィンランドではほぼ毎日、日本でいうゴールデンタイムに洋画を放送する。アジアの映画もたまにはあるが、ほとんどが欧米の映画である。
その中でも大半を占めるのがアメリカの映画である。そして、これらはすべて、字幕放送である。フィンランドのテレビに吹き替えはない。」(p.99)
つまり、子どもの頃から生の英語を聴いて育つ、ということです。また日本語にはカタカナで外来語を表記する習慣があり、発音がまったく違ってきます。そういうことも、日本人が英語が話せない理由ではないかと言います。
「まず、ほとんどの場合で、教師は英語のみを使って授業を行う。」(p.102)
フィンランドの英語教育は、英語で指導をするのだそうです。そして英語の授業で、ひんぱんに映画やドラマを鑑賞するのだとか。ただ観て終わるだけのこともあるほど、耳から入る言葉を重視しているのでしょう。
「フィンランドは多様な言語を学ぶことを教育の基本理念にしている。」(p.144)
公用語としてのフィンランド語とスウェーデン語、さらに外国語を小中学校から学ぶそうです。そんなことをしたら混乱する、というのが日本の考え方ですよね。まずは母国語が大事だと言って。
「母語とは文法も発音もちがう言葉を二ヵ国語も必須科目として勉強しているフィンランドの子どもたちが、「混乱」しているようにはとても思えなかった。」(p.146)
「自分とはちがう言葉を話し、ちがう生活をし、ちがう価値観を持っている人がいること。それを幼いころから教えることが重要なのだ、というのがフィンランド語の語学教育の根幹にある。」(p.147)
人口が少ないフィンランドが生き残るには、多様化を受け入れて一致団結することが必要だったのかもしれないと、母親の元子さんは言います。
「生徒がその授業のコマを貰い、自分で授業をし、他の生徒と共に勉強する。つまり生徒が先生になる。」(p.166)
授業で行うプレゼンテーションは、生徒が発表して先生が評価する場ではないのです。生徒が先生として発表し、みんなで学び合う場なのです。
日本では、先生が生徒に知識を授けるのが授業になっています。まったく授業に対する考え方が違うようです。
また、フィンランドでは留年は普通にあるそうです。それは、ダメだから落とすのではなく、人それぞれ成長のスピードがちがうのだから、それぞれのペースに合わせる、という意味だそうです。
「留年の話に戻ると、フィンランド人にとって落第は特に恥じることではない、ということである。むしろ「分からないことを分からないまま卒業してしまいました」というのが一番恥じることだそうだ。」(p.181)
「フィンランドではかけ算や割り算だって、小学三年生、八歳〜九歳までに完璧でなかったら落ちこぼれ、というのではなく、一〇歳でも一一歳でも時間がかかってもいいから完璧に理解しようね、という考えである。」(p.276)
フィンランドでは、「勉強すること」が最優先ではないからです。自分の特性を見極めて、それを活かして社会人になることが求められています。そのために勉強をするので、勉強は目的ではなく手段の1つに過ぎないのです。
「まず、お父さんとお母さんは、彼の自由奔放ぶりに腹を立てたりすることはあるものの、無理に学校へ行かせたり、「勉強しなさい」と言ったりすることは絶対なかった。」(p.178)
「ただ、遊び歩いているわけでなく、自分のしたいことを持っている点を、両親は評価していて、そんな息子に対して誇らしげだった。」(p.181)
「しかし、両親が心配しているのは彼の成績のことでも遊び歩いていることでもなく、アケがまだきちんと進路を決めていないことだった。フィンランドの学生は中学生くらいの早い時期から、インターンシップなどで自分の進路を明確化していく。」(p.236)
「「教育の目的は何だと思われますか?」という私の問いに対し、親も先生も子どもたちも全員が口をそろえて言った答えが「自分で納得のいく仕事につけるようにするため」であった。」(p.276)
つまりフィンランドでは、社会人になってどうやって生きていくのかという目的に沿って、教育もなされているのですね。
ですから、子どものうちから仕事の体験をするのも、それはどんな仕事があるのかを知るためなのです。遊ぶことも含めて、自分の特性を知るためなのです。
なので高校を卒業して、すぐに大学に進学するのは、わずか3割だと言います。それ以外の人は、旅行して回ったり、仕事を体験してみたり、その中には兵役についたりして、今後のことを考えるのだとか。
大学などの教育機関は、仕事のための実学を学ぶ場なのです。大学で勉強しながら将来を考えるという、日本とはまったく違っています。
では次に、「フィンランドを…」を見てみましょう。
これは項目は多いのですが、内容は非常に薄いです。どれが本当のイノベーションなのか、ここから読み解くことは困難でした。
「8.汚職の排除・世界で最も汚職の少ない国」(p.38)では、汚職が少ない理由をこう分析しています。
「客観的な要因は、以下の通りです。行政の透明性、幅広く実現している情報公開の原則、進んだ地方自治、きちんとした警察と司法制度の構造、権力の行使を自由に監視する報道陣、つまり機能している言論の自由。」(p.38 - 39)
漠然としていますが、おそらく「透明性」という言葉がキーワードだと感じました。これは「神との対話」でも指摘されていましたが、透明化することが、不正をさせないことの大きな力になるからです。
役所だけでなく、会社も、そして個人も。なるべく透明化して情報を公開すること。これが社会にとって利益になるのだと思いました。
「15.Y財団・ホームレスへの住宅供給」(p.59)で、弱者救済の方向性が示されています。寒い地域ですから特に、住宅というものは重要です。
「Y財団の最も重要な目標は、普通の永住用の住宅の提供であり、一時的なシェルターや寮ではありません。だれもが人並みの生活を送る権利を持っているのです。」(p.60)
スラム化を防ぐために、一般住宅群の中に、ホームレス用の住宅も作られるそうです。ダメな人というように差別しない。そういう考え方が現れています。
「29.親族介護給付」(p.99)では、介護をすることで仕事に就けない人に対して、給付金を支給するという制度です。
ここにも、支援を必要とする人は、国全体で助けるのだという気持ちが現れています。家族のことは家族に任せるのではなく、社会がバックアップしようとしています。
他にもいくつかあるのですが、全体を通じて見えてくるのは、やはりどんな人も国にとって重要な存在なのだ、という考え方です。
それは、最初の本に示されていたように、スウェーデンやロシアという大国に挟まれ、人口わずか500万人の小国が生き残る上で考えついた智恵なのかもしれません。
どんなマイノリティであっても、異なる文化や言語、考え方をしていても、フィンランド人であるという一点でもって団結することが、生き残る上で重要だという価値観を共有しているかのようです。
先日のニュースでありましたが、フィンランドは世界に先駆けてベーシック・インカム制度(BI)を導入することになりそうです。
BIは、非常に優れた制度です。まるで数学の公式のように美しく、論理的には完璧です。しかし、これまでにまったくない概念であることから、なかなか受け入れられてきませんでした。
もしフィンランドがBIによってさらに発展することになれば、追随する国も出てくると思います。
日本は、自分たちが最高だと勘違いし、他に学ぶものはないと思っているのかもしれません。しかし、わずか北海道ほどの小国フィンランドが、教育でも経済でも日本を上回っていることを、真摯に受け止めるべきではないかと思います。
2016年01月20日
つながるカレー
ちょっと変わった本を読みました。各地でカレーを作っては、やってくる人にふるまうというカレーキャラバンという活動をしている3人の方の本です。
著者は大学教授の加藤文俊(かとうふみとし)さん、カレーキャラバンのリーダーで大学院生の木村亜維子(きむらあいこ)さん、パブリック・アーティストの木村健世(きむらたけよ)さんです。
この3人は、木村健世さんなどが企画した墨田区のアートプロジェクトの1つ、墨東大学で出会ったそうです。
その中に「墨大カレー考」という木村さんのパートナーの亜維子さん発案の講座があり、そこでご当地カレーを作るというイベントを行ったのだとか。亜維子さんは、毎日カレーを食べても飽きないほどのカレー好きだそうです。
それがきっかけとなって、月に1回くらいの頻度で、各地でカレーを作ってふるまうという、カレーキャラバンの活動が始まったということです。
この活動は、実にユニークです。どういう活動かが書かれている部分を引用しましょう。
「私たちは、自腹を切ってカレーを提供するスタイルを、冗談半分で(ビジネスモデルと対極にある)「赤字モデル」と呼んでいるが、カレーキャラバンを多くのことを学ぶための場づくりの「方法」だと考えるならば、「赤字」ということばが適当ではないことに気づく。訪れたまちは「教室」になり、鍋のなかのカレーは「教材」になる。一杯のカレーは、私たちが支払うべきレッスン代としては、破格に安い。なによりも、この学び方があまりに楽しいので、レッスン代のことなど、すぐに考えなくなってしまうのだ。」(p.11)
つまり、この活動は、この3人が自腹を切ってカレーを作って振る舞うというものです。しかし、ボランティアではないし、人助けでもありません。単に、学び(遊び)の機会であり、支出するお金はその授業料として捉えているのです。
最初は、墨田区の地域で行われたイベントでしたが、それが各地に出向くようになります。その理由を、こう書いています。
「「楽しいから」続けてきたことは間違いないのだが、そもそも、旅に出ようと思ったきっかけは、カレーづくりを介して、人と出会うこと、人と話をすることに魅せられたからだった。もちろん、美味しいカレーをつくって食べることは大切な目的だが、それ以上に私たちを魅了したのは、カレーではじまるコミュニケーションだった。食材やスパイスの調合を変えると、カレーの味が変わるのと同じように、場所が変われば、カレーを食べにやって来る人びとも変わるはずだ。話していれば、そのまちの生活をうかがい知ることができる。つまり、カレーづくりは、まちのようすや人びとの気質を知るための「方法」になると考えたのだった。」(p.64 - 65)
いろいろな人と出会い、コミュニケートすることが楽しい。だから、その場を作るためにカレーを作ってふるまう。そういう活動なのです。
そして、基本的な姿勢は「待つ」ことなのだそうです。無理にそこに集まらせるのではなく、自然と人が寄ってくるのを待つ。そのための手段として、カレーのスパイスの香りや、鍋で煮込むという作業などは、有効だと言います。
「カレーキャラバンは、静かな場づくりなのだ。まちや地域コミュニティに関わる活動について語るとき、私たちはすぐに、その効果を求めがちだ。よく、「これ、どういう意味があるの?」「何を目指しているの?」と、問われる。だが、そもそもまちも人びとの暮らしも、ゆっくりと変化する。私たちは、効率やスピードだけではなく、「待つ」ことの意味をあらためて考えてみる必要がある。そのためにも、じっと留まるという姿勢が基本だ。カレーキャラバンは、少しずつ溶け合う関係性について、理解するきっかけづくりになる。私たちが、この活動に没入しているのは、「待つ」ことの喜びと価値にあらためて気づいたからなのだ。」(p.83 - 84)
こういう活動のため、結果ではなく過程を重視すると言います。何が起こるかわからない、そのハプニングを楽しむのだと。したがって、あらかじめレシピを決めたりするようなことはせず、その場で買ったりもらったりした地元の食材を使って、カレーを作るのだとか。
「カレーづくりの過程は、私たちのコミュニケーションによってかたどられている。そして、私たちのカレーづくりを成り立たせているのは、何かを伝達し、効果をもたらすためのコミュニケーションではなく、おしゃべりそのものを楽しみ、味わうコミュニケーションである。(中略)カレーキャラバンのコミュニケーションは、効率的にカレーをつくるための段取りや手続きだけでなく、人びととの関係を築き、おしゃべりそのものを楽しむためにある。それは、もし仮にレシピをつくることになったとしても、記載されることのない、「現場」に消えゆくコミュニケーションである。」(p.87)
このように、効率とかスピードではなく、ただコミュニケーションを楽しむという姿勢が基本だと言います。
最初、3人のこの活動は理解されず、多くの人から活動の理由を尋ねられたそうです。そのたびに、もっともらしい説明を考えたのだとか。
しかしある時、1人の女性から「赤字でいいじゃない」と言われたそうです。いまどき、大人が一晩遊べば、1人5千円くらいは使います。3人で1回1万5千円ですが、そのお金でカレーを作ってふるまうという遊びをしていると思えば、べつに普通のことではないかと。こう言われて、非常にすっきりしたのだそうです。
「本書では、カレーキャラバンを場づくりの方法として語ろうと試みてきたが、じつは、私たちには「楽しいから」というひと言だけで、じゅうぶんなのだ。それが、結局のところは「居心地のいい場所」をつくるための創意工夫に結びつくにちがいない。」(p.106)
理屈ではなく、それが単に「楽しい」からやってきただけなのだと言います。そして、その「楽しい」を追求した結果、学びが生まれるのだと。
私がこの本に興味を持ったのは、循環型の経済を考えた「いばや通信」というブログを書かれている坂爪圭吾(さかつめけいご)さんの記事を読んだからです。
これまでの経済は、物やサービスを提供してもらう側がお金を支払います。それを逆にして、提供する側がお金を払うようにしたら、循環型になるのではないか、と言うのですね。
その構想を実験する場として、「わたり食堂」というものを考えて、実際にされてみたようです。つまり、提供する側がお金を出し、消費する側はただでもらうというもの。
第1回の「わたり食堂」は、さながら持ち寄りパーティーのようになってしまい、思った通りのものではなかったようです。
けれども、いろいろなことを試してみて、新たな流れを作ろうとされていることを、非常に面白いと感じました。
こうした坂爪さんの活動と、カレーキャラバンの活動は、まったく性格が異なるのかもしれません。
しかし、「楽しい」を追い続けている姿勢は、同じもののように感じます。
「神との対話」でも、はるかに進んだ文明では、自分がやりたいことをやって暮らしていると言います。
それはつまり、それぞれが「楽しい」ことをやっているだけで、社会は上手く回っていく、ということです。
今はまだ実験的なものかもしれませんが、カレーキャラバンやわたり食堂のような活動が、これからどんどん増えてくるのかもしれません。そう思うと、なんだかワクワクしてきます。
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