2015年12月02日
Courage
OSHO(おしょう)氏の2冊目の本を読みました。前に読んだのは「Joy(喜び)」でした。今回読んだのは「Courage(勇気)」ですが、前作と同時に購入したものです。
前作を読んで、たくさんの良いことが書かれていると感じたのですが、なかなか一気には読めませんでした。それもあって、この本もなかなか読めずにいたのです。
読み始めてからずいぶんと時間が経ったのですが、今回、たまたま一時帰国することになったため、持って帰って集中的に読みました。それでやっと読み終えた次第です。
翻訳は、前作と同様で、山川紘矢さんと山川亜希子さん夫妻です。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「私がここにいるのはあなたの覚醒を促し、気づきを与えるためだ−−つまるところ、人生が本来持つあらゆる不安、あらゆる不確実性、あらゆる危険とともに、今ここにいるようにと教えるためなのだ。
(中略)
私はあなたをもっと不安定に、もっと不確実にしたい−−なぜならば、それが人生というものであり、それが神というものだからだ。もっと不安定に、もっと危険になった時、それに対応する唯一の方法は気づくことなのだ。」(p.3)
本の冒頭で、このように言っています。不確実さは驚異であり、不安定さは自由であるのだからと。
「いや、安全なものは何もない。それが私のメッセージだ。何事も安全ではありえない、なぜならば、安全な生は死よりももっと悪いものだからだ。安全なものは何もない。生は不確実でいっぱいだ。驚きでいっぱいだ−−それこそが生の美しさなのだ!」(p.4 - 5)
考えてみればその通りで、私たちは当たり前のように今日も生きると思っていますが、本当はいつ死ぬかわからないのです。
いつ死ぬかわからないから、「一期一会」という茶道の考え方も生まれます。そして、その一瞬に思いを込めるからこそ、人生は有意義で素晴らしいものとなるのです。
「自由は恐れを創造する。人々は自由について話す、しかし彼らは恐れている。そして、もし自由を恐れているのであれば、まだ彼は本当の人間ではない。私はあなたに自由を与えるが、あなたに安全は与えない。」(p.5)
自由と安定、安全は相反するものです。何を選択しても良いのが自由。その代わり、どうなるか保証はありません。
しかし、自由を選択しなければ、本当の人間ではないと言うのです。
「この不確実の中に快くとどまることが勇気なのだ。この不確実の中に快くいるということが信頼だ。知的な人間とはどのような状況においても覚醒している−−そして、心全体でその状況に対応する。」(p.7)
不確実で、どうなるかわからない不安を感じる中で、それでも快くいることが勇気であり、信頼だと言います。そしてそうなってこそ、覚醒していると呼べるのだと。
第1章「勇気とは何か?」の冒頭で、次のように説明します。
「まず、臆病者と勇気ある者との間に、たいした違いはない。
たった一つの違いは、臆病者は恐怖に耳を傾け、それらに従うが、勇気あるものは恐怖を横において、前に進むところだ。勇気ある者は、あらゆる恐怖にもかかわらず、未知の世界へと進んでゆく。」(p.12)
つまり、恐怖(不安)を選択するかどうか、という点がポイントなのですね。
これは「神との対話」でも、すべての動機は不安か愛のどちらかだと言っていますが、それと通じるものがあります。
「あなたを奴隷にするのは恐れだ−−それはあなたの恐怖心だ。」(p.18)
「心の道は勇気の道だ。それは安全ではないところで生きることだ。それは愛の中に生きること、信頼の中に生きることだ。
(中略)
勇気とは危険な道を進むことだ。生は危険だ。そして、臆病者だけが危険を避けることができる−−しかし、そのとき、彼らはすでに死んでいる。」(p.19)
表現は違いますが、恐れ(不安)と愛を対比しています。
ここで言う「彼らはすでに死んている」とは、肉体の死を言うのではなく、精神的な死のことです。人間として生きていない、という意味になります。
「聖書や経典に耳を傾けてはならない−−自分のハートの声を聞きなさい。それが私が処方する唯一の経典だ。気をつけて聞きなさい、意識して聞きなさい。そうすれば、あなたは決して間違わないだろう。そして自分のハートの声を聞いていれば、あなたは決して分裂しないだろう。自分のハートの声を聞けば、何が正しくて何が間違っているか考えなくても、あなたは正しい方向へ動き出すだろう。」(p.22)
「神との対話」では、感情は魂の声だとし、その声にしたがうように勧めています。まさにそのことと符合する内容です。
「真実を探求する旅に出る用意ができた人は、多くの間違いや失敗を犯す用意がなければならない−−危険を冒すこともできなければならない。道に迷うかもしれないが、それはその人が到達する方法なのだ。
(中略)
何が誤りかを知ることによって、人は何が真実かにどんどん近くなってゆく。それは個人的な探検だ。あなたは他人の結論に頼ることはできない。」(p.29 - 30)
ハートの声にしたがったとしても、失敗しないというわけではありません。何度も失敗を繰り返しながら、私たちはより真実へと近づくのです。失敗することが、進化成長するための唯一の方法なのです。
「すべての信念は借り物であり、他の人があなたに与えたものであって、それはあなたに咲いた花ではない。そして、借り物がどうしてあなたを真実、究極の真実へと導くことができようか?」(p.39)
自分の体験に従うようにと、「神との対話」でも言います。また自分がどんな信念を持っているかに気づき、それをより自分らしいものに変えていくようにとも言っています。
「確信は個人的なものだ。信仰は社会的なものだ。確信はあなたが育てるものであり、確信はあなたがとどまるものだ。あなたが何教徒であれ、信仰はあなたに押し付けられる。信仰を落としなさい。
(中略)
作り出された確信は信仰になる。確信はあなたの中に探しなさい。それを作り出してはいけない。あなたの存在の中へ深く入ってゆきなさい、あなたの存在の源に入り、それを発見しなさい。」(p.40 - 41)
信仰とは、他者から押し付けられるもの。恐怖心によって、逆らえないようにするものです。常識だとか、マナーなどの価値観も同じですね。
そういう他者から押し付けられる価値観(信念)を排除し、自分の心の底から湧き上がってくるものを見つけることを勧めます。「作り出してはいけない」というのは、無理に(=不安から)他者の考えを受け入れてはいけない、ということです。
「新しいものがあなたの人生にやってきたら、それはなんであれ、神からのメッセージだ。もし、それを受け入れるならば、あなたは信心深い人だ。
(中略)
それが祈りと瞑想の意味そのものだ−−あなたが心を開き、イエスと言い、「どうぞ、お入りなさい」と言うことだ。
(中略)
常に新しいものを大きな喜びを持って受け取りなさい。時には新しいものはあなたを都合の悪い場所に連れてゆくが、それでもその価値がある。
(中略)
なぜならば、間違いを通してのみ人は学び、困難を通してのみ人は成長するからだ。
(中略)
そして、深く、全面的に受け入れた新しいものだけが、あなたを変容させることができる。あなたは新しいものを人生に持ち込むことはできない。新しいものはやってくるのだ。あなたは受け入れるか、拒絶するかのどちらかしかできない。」(p.75 - 76)
自分にとって新しいものは、どんなものであっても、受け入れることが重要だと言います。新しいものは外からやってくるもので、神からのメッセージだからと。
たしかに、新しいものを取り入れることで、心が乱されるようなことはあるでしょう。しかしそれは変化なのです。変化とは進化すること。私たちは進化成長するために生きているのです。
「あなたの過去からの意思や指示や衝動なしに行動しなさい−−そしてそれは瞑想的に行動するということだ。思いのままに自然に行動しなさい。その一瞬に決めさせなさい。
自分で決めてはいけない。なぜならば、その決定は過去からやってくるのであり、新しいものを壊してしまうからだ。ただ、子供のように瞬間的に行動しなさい。あなた自身を完全に瞬間にゆだねなさい−−すると毎日が新しい開花であり、新しい光であり、新しい気づきであることを発見するだろう。」(p.77)
これは、論理的にならずに、直感にしたがって行動することを求めています。「神との対話」でも、直感にしたがうことを勧めています。
論理は過去の産物です。論理に従う限り、同じことの繰り返しです。もしそこで、何か違うものを感じたときは、素直に直感に従ってみること。そうすることで、新たな展開がやってきます。
第3章「愛の勇気」では、冒頭で次のように言っています。
「恐れは愛の不在に他ならない。何かするときは愛をもってやりなさい。恐れは忘れなさい。もしあなたが十分に愛せば、恐れは消え去るだろう。」(p.86)
「神との対話」では、愛の対極は不安(恐れ)だと言っています。これは非常にわかりにくい概念で、あまりこれを指摘する人はいません。しかし、OSHO氏がすでにこのように言っていました。これは驚きです。
「恐れは愛の否定であり、愛の欠如だ。」(p.86)
このあと、「恐れは暗闇だ。」とし、私たちは暗闇と闘って負けると言います。なぜなら、実は暗闇というものは存在しないからです。
「恐怖と闘わないようにしなさい。さもないと、あなたはますます恐れるようになり、新しい恐れがあなたの中に入り込んでくる。それは恐怖への恐怖だ。
(中略)
恐れは愛の欠如に他ならない。愛をもって行い、恐れを忘れなさい。もしあなたが十分に愛すれば、恐れは消えてしまう。」(p.87)
恐れ(不安)ではなく、愛を選択するようにということです。これもまた、「神との対話」と完全に一致していることです。
「愛はとても有益であり、それはとても深い幸せを与えてくれる−−だから、無条件に愛し、見返りを求めないようにしなさい。人を愛するだけで恐れがなくなると理解できるようになれば、あなたは純粋に喜びのために愛するようになるだろう!」(p.89)
「あなたが心全体で愛さない時は、あなたは取引をしているのだ。あなたは自分のために何かしてくれるように相手に無理じいし、その時だけ愛する。
(中略)
そんなことをしていると、あなたは愛することは相手のためだけでなく、自分のためでもあることを忘れてしまう。まず愛は愛するものを助ける。次に愛されるものを助けるのだ。」(p.90)
誰かのためでなく、自分のために「愛する」ことを勧めます。
「愛するときは、相手のために何かしてあげていると考えてはいけない。あなたは自分自身のために大切なことをしているのだ。
(中略)
利己的になりなさい。愛は利己的だ。人を愛しなさい−−それによってあなたは満たされる。それによってあなたはもっともっと祝福を受けるのだ。
そして、愛がもっと深くなったとき、恐怖が消える。愛は光であり、恐怖は暗闇だ。」(p.94 - 95)
「愛は関係ではない。愛は存在するだけだ。それは他の誰とも関係がない。人は恋をしているのではなく、人は愛なのだ。」(p.102)
「信頼しなさい。そうすれば、あなたの中にエネルギーが新しく湧いてくるのを感じはじめるだろう。そのエネルギーが愛だ。
(中略)
愛とはすべての存在を祝福したいという深い望みなのだ。」(p.103)
「神との対話」でも、神は生命であり愛だと言っています。愛は存在そのものなのだと。それは自由であり、エネルギーだとも言います。
「愛はあなたの欲望をなくすと私が言えば、あなたはおどろくかもしれない。しかし、欲望は不満足からやってくる。あなたは持っていないので、欲しくなるのだ。もしなにかを持てば、それが自分に満足感を与えてくれるだろうと思って、あなたは欲望するのだ。欲望は不満足からやってくる。」(p.111)
言葉の定義次第ですが、「神との対話」では必要性と欲求を区別しています。ここで言う欲望は、必要性に近いものだと思います。
たとえば、お腹が空いて何か食べたいと欲しているのは必要性です。まさに空腹感という不満足を解消したがっているのです。しかし、ラーメンを食べたいなというのは欲求です。別にラーメンでなくてもかまわないと思っているのですから。
ですから、愛があれば必要性がなくなる、ということになります。必要性は幻想だとする「神との対話」と同じ内容が、ここでも語られています。
「それは嫉妬になることがあるが、それもまた恐れの一部だ。それは所有欲にもなりうるが、それもまた恐れの一部だ。それは憎しみにさえなりうるが、それもまた恐れの一部だ。」(p.115)
嫉妬も所有欲も憎しみも、すべて恐れ(不安)から派生したものです。ですから、そういったすべての恐れ(不安)を捨てて、愛に留まることが重要なのですね。
「勇敢さは恐れの大海の中にのみ存在する。」(p.115)
「勇敢とは恐怖でいっぱいであっても、恐怖に支配されないことを意味しているのだ。
あなたが愛に移行するとき、最大の問題が起こる。そのとき恐怖があなたの魂をぐっとつかむ。なぜならば、愛することは死ぬこと、他の人の中に入って死ぬことだからだ。それは死であるが、それは通常の死よりもずっと深い死だ。普通の死の場合、身体だけが死ぬが、愛の死の場合はエゴが死ぬ。愛するためには大きな勇気が必要だ。」(p.116)
愛とは私たちの存在そのものであり、それは「ひとつのもの」です。分割されたエゴは幻想です。ですから、私たちが愛に移行しようとすると、必然的に幻想であるエゴが死ぬことになるのです。
それはエゴにとって、耐え難い恐怖です。その恐怖を乗り越えることが勇気なのです。
「それは、誰かを憎むならば、まず、あなたが様々な方法で自分自身の魂を傷つけなければならないということだ。あなたが他人に毒を投げることができるためには、あなたが毒でいっぱいでなくてはならにのだ。」(p.122)
「人を呪わば穴二つ」と昔から言われる通りです。人は口から入るもので汚れるのではなく、口から出るもの(言葉)によって汚れるのです。
「あなた方は愛の一つの方法しか知らない。それは他を憎むということだ。」(p.123)
憎むということも、1つの愛の表れなのです。私たちは、何か(誰か)を特別に愛するとき、往々にして他の対象と区別し、他の対象を憎みます。国粋主義は、まさにその好例でしょう。
他にも、パートナーの浮気相手を憎むのも、同じことです。他を憎むことが、その人の愛し方になっているのです。
「あなたが憎むとき、あなたのエゴが満たされる。エゴは憎むときだけ存在できる。なぜならば、憎んでいるとき、あなたはより優れていると感じ、あなたは分離し、あなたは立場が明確になるからだ。
(中略)
愛の中ではエゴは消えなければならない。愛の中ではあなたはもはや分離してはいられない−−愛はあなたが他人とひとつに溶け込むのを助けるからだ。愛は出会いと融合なのだ。」(p.125)
分離がエゴであり、一体化が愛なのです。
「愛しなさい。ただし、明日、その女性があなたのところにやってくるとは思わないことだ。期待してはいけない。その女性を妻へと貶めてはいけない。貶めなければあなたは危険に生きている。
(中略)
そして、あなたの明日を予想できないものにしなさい。何事も期待せず、あらゆることに心の準備をしなさい。それが、私が危険に生きると言う時の意味なのだ。」(p.158)
このように言って、結婚という制度に反対します。結婚という制度は、保証を求めるものであり、保証を求めるとは、恐れに支配されることだからです。
相手の女性(男性)を愛することはかまわないが、それを女(男)のままにし、妻(夫)にするなと言うのです。
もちろん、社会の制度の中で、そうできない場合もあります。そこでOSHO氏は、世間を満足させることはかまわないが、心の深いところでは決して所有するなと言います。
「働きなさい−−働くことは必要だ−−しかし、仕事をあなたの唯一の人生にしてはならない。遊びがあなたの人生、あなたの人生の中心であるべきなのだ。仕事は単に、遊ぶための手段であるべきだ。オフィスで働き、工場で働き、店で働きなさい。しかし、遊ぶための時間と機会を持つためだ。あなたの人生を単なる仕事の繰り返しに貶めてはならない−−なぜならば、人生の目的は遊ぶことだからだ!」(p.159)
人生は遊び(ゲーム)だという指摘です。ここで言う仕事は、義務とか責任というものなのでしょう。そういうものにとらわれるのではなく、本来の目的である遊ぶこと、つまり自由に生きることが重要なのです。
「多くの恐れがあるが、基本的にはどれも一つの恐れが分かれたものであり、1本の木から出た枝である。その木の名前は「死」だ。あなたはこの恐れが死に関するものだとは気づかないかもしれないが、あらゆる恐れは死と関係している。」(p.171)
恐れ(不安)の根源は、死だと言います。
「もし死が基本的な恐れであるならば、ただ一つのことだけがあなたの恐れを無くすことができる。それは死ぬことのない意識をあなたの内側で体験することだ。」(p.172)
「死は一つの体から、一つの形から、もう一つの形への量子的飛躍だ。しかしそれはあなたにとって終わりではない。
あなたは決して生まれず、そしてあなたは決して死なない。
あなたは常にここにいる。形はやって来て去ってゆくが、命の川は続いている。これを体験しなければ、死の恐れはあなたから離れはしないだろう。瞑想だけが−−瞑想だけが役に立つ。」(p.173 - 174)
生命は永遠であり、私たちの本質はその生命そのもの。その知識だけでなく、体験が必要だと言います。その方法が瞑想なのですね。
「死の瞬間の人々を観察しなさい。彼らの苦しみは死ではない。死に痛みはない。まったく苦痛はないのだ。実際はとても気持ちの良いものなのだ。ちょうど深い眠りのようなものだ。深い眠りが苦痛だとあなたは思うかね? しかし、彼らは死について心配しているわけではない。深い眠りや気持ちよさも関係ない。彼らは自分の手から滑り落ちてゆく既知のものについて心配しているのだ。恐れはただ一つの事だけを意味する。既知のものを失って、未知へと入ってゆくことだ。」(p.187)
死の苦痛が恐いのではなく、未知へ入っていくことが恐い。この指摘は、たしかにそうだなと、自分の体験からも思います。
「勇気は恐れの正反対のものだ。
既知のものを落とす用意を常にしていなさい−−それを喜んで落とすだけでなく−−それが熟すのを待っているだけでなく、準備するのだ。新しい何かに飛びつきなさい−−その斬新さ、新鮮さはとても魅力的だ。すると勇気が生まれる。」(p.187)
既知のものをいつでも手放す心の準備をしておくとともに、新しいものを喜んで迎え入れようとすることですね。
「簡単な練習から始めなさい。いつも覚えていなさい。選択する必要がある時は、いつも未知のもの、リスクのあるもの、危険のあるもの、不安定なものを選びなさい。そうすればあなたは何も失わないだろう。」(p.189)
常にそういう心の準備をするとともに、日々の選択において実践し、習慣づけることが重要なのですね。
「死を超越する唯一の道は死を受け入れることだ。するとそれは消滅する。恐れを無くす唯一の道は、恐れを受け入れることだ、するとエネルギーが放出されて自由となる。」(p.195)
すべての結果を受け入れる覚悟をすることですね。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」と言われますが、受け入れさえすれば恐れ(不安)は消えます。それは幻想なのですから。そしてそのとき、私たちは自由になれるのです。
「罪悪感を持ってはいけないし、罪があると感じてもいけない。たとえ、何か間違ったことがあっても、あなたは間違っていない。多分、あなたは間違った行動をしたが、しかしそれだからと言って、あなたの存在が間違っているわけではない。」(p.196)
罪悪感が良くないことは、「神との対話」でも言っています。
私たちは、自分の価値観において間違ったことはしません。たとえそれが世間的に間違ったことであっても。ですから、反省はしても罪悪感を抱く必要性はないのです。
これは極論ですが、たとえば無差別殺人のような犯罪を犯したとしても、罪悪感を抱くなということです。OSHO氏の言葉、そして「神との対話」も、そういうことを言っているのです。
「みんな自由な人間なのだ……全人格が自由でできている。人は自由そのものなのだ。」(p.200)
「神との対話」でも、同じ様なことが言われています。私たちは、基本的人権として自由を有するのではなく、私たちの存在そのものが本質的に自由なのです。
非常に多くの部分を引用しましたが、実に本質的なことをみごとに指摘していると思います。
OSHO氏は1990年に亡くなられているそうです。お会いする機会がないことは残念ですが、こうして本を読むことで、OSHO氏の考えを知ることができることに、感謝したいと思います。
2015年12月04日
健康で文化的な最低限度の生活
久しぶりにコミックマンガを読みました。柏木ハルコさんの作品です。現在第2巻まで販売されており、2冊一緒に買いました。
主人公は、区役所で働くことになった義経えみるという女性。配属先は福祉事務所の生活課です。ここで、生活保護に関する仕事をすることになります。この作品は、この主人公の奮闘を通じて、生活保護の問題をわかりやすく教えてくれています。
漫画なので、引用はあまりできません。概要をかいつまんで説明します。
まず、憲法第25条にこうあります。
「「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」
「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」」(第1話 p.13)
この理念に基づいて、最後の砦となるのが生活保護という制度なのです。
しかし、生活保護費は3兆円も使われており、「国や自治体の財政を圧迫している」のが現実です。「働ける人には働いてもらう!!」という考えも一方にあって、バランスが重要になります。
主人公は、配属されてすぐに、110世帯分のケースファイルを渡され、前任者から引き継ぐことになります。
前任者は言います。
「この一冊一冊にそれぞれの事情−−…それぞれの人生があります。」(第1話 p.17)
覚せい剤の後遺症に苦しむ人、夫から受けた暴力(DV)が原因で精神的に病んでいる人、生きる希望をなくした人、…。さまざまな人生があります。
「人の住まいを見るということは、人の暮らしを見る…ということです。」(第1話 p.23)
家庭訪問を通じて、その人にとってどうすることが最も良い助けになるのかを探り、保護を受けている人の幸せな生活を考えてあげる仕事です。
ある日、担当している1人から、「これから死にます。」という電話がかかります。
終業時間になっていました。主人公はとまどいながらも、近所の親戚に電話で伝えます。
よくあることと言われて安心したものの、やはり何かひかかり、本人に電話をしますが留守番電話です。主人公は、メッセージを残して、帰宅したのです。
「確かにコレ…一ケース一ケース全力でやってたら身がもたないかも……」(第1話 p.35)
しかし翌日、電話をかけてきた人が、本当に自殺したことを聞かされます。本当にあれで良かったのか?
「一ケース減って良かったじゃん。」(第1話.p.40)
そう言ってなぐさめてくれる同僚の言葉に、主人公はあれでよかったのだと思おうとします。
しかし、後始末のために自殺した人の部屋へ入ってみると、懸命に生きようとした跡が見えてきます。
「110ケースあろうが……国民の血税だろうが……ダメだ。それ…言っちゃあ、何か大切なものを失う……気がする…」(第1話 p.47 - 48)
このようにして主人公は、生活保護の受給者と真剣に向き合うようになります。
しかし、なかなか思い通りにならないのが現実です。
就労支援をしようとしても、本人は働く気があると言うのに、なかなか仕事に就けない人が多数います。
何が問題なのか、どこがひかかっているのか?主人公たちの悪戦苦闘が続きます。
「どんな温厚な人でも尊厳を侵されれば怒ります。」(第10話 p.3)
「仕事を失う、病気になる、お金がなくなる、そういったことで人の人生の選択肢はどんどん少なくなります。でもどんなに選択肢が少なくなっても、時には全く選択肢がないような状況でも、その人の生き方を最終的に決めるのは本人です。」(第10話 p.3 - 4)
「本人の意志を無視して、こちらの都合で無理矢理動かそうとすれば、人は当然怒ります。どんな人にもその人なりの「都合」があります。人は自分の「都合」でしか動きません。その「都合」を知るには、まず相手にしゃべってもらわないと…そのためにはこっちにも「聞く準備がある」と示す必要がありますね。」(第10話 p.4)
ここは、憲法の規定を考える上で、特に重要なことを示唆していると感じたので、長くなりましたが引用しました。
ただ生かされればそれでよい、というわけではないのです。「健康で文化的な最低限度の生活」とは、その人が自分の尊厳を持って生きること。それを保障することなのです。
あるとき、家族4人で暮らす家庭の高校生の子どもが、無断でアルバイトをしていたことが発覚します。不正受給です。
「本来なら生活保護の基準額からこの収入の額を引き、残りを保護費として支給するわけです。」(第12話 p.9)
不正受給は返還させなければなりません。
ギターを始めたことで、非行に走りかけていたのが改まったと喜んでいたのに、また非行に戻ってしまうかも…。
「オレは…そんな悪いことをしたんですか……?バイト代全額没収されなきゃなんないほど…」(第15話 p.19)
生活保護費は国民の税金から出ています。だから、「本来は受けるべきではない」と思われています。
その考えが前提にあるから、収入があれば、それと同じ額の生活保護費が差し引かれることになります。
しかし、このことが生活保護から抜け出せない原因にもなっています。だって、少しくらい働いたのでは、苦労するだけで生活が向上しないからです。
前に紹介した「ベーシック・インカム」を併せて読んでいただくと、このへんのことがよくわかると思います。
ベーシック・インカム(BI)の良いところは、受給するのに抵抗がないところです。だって、国民というだけで全員がもらえるのですから。
生活保護のように、それをもらう罪悪感がありません。また、働けば働くだけ収入は増えるので、就労に対するネガティブなインセンティブも働きません。
さらに上記のような、不正受給の概念がないので調査も不要だし、発覚したときの気まずさもありません。
漫画はまだ続くようですが、これを読むと、生活保護制度がいかに多くの問題を抱えているかがわかります。支給する側も受給する側も、非常に多くの負担を背負っています。
よく調査して、しっかりと描かれた漫画だと思います。ぜひ、読んでみてください。そして、私たちにとって憲法が規定する「健康で文化的な最低限度の生活」とはどういうことか、そのためにはどんなセーフティーネットが良いのか、考えてみてください。
2015年12月09日
すぐそばにある「貧困」
NPO法人「もやい」理事長の大西連さんの本を読みました。
6人に1人が貧困だと言われる日本。そういう中で、生活保護の申請を助けたりして、日本から貧困をなくすことをミッションに活動している団体、それが「もやい」です。
前回紹介した「健康で文化的な最低限度の生活」や「ベーシック・インカム」と一緒に買いました。日本の貧困対策はどうあるべきかを、自分なりに考えたかったからです。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
この本は、著者の大西さんの体験を、大西さんを主人公とした物語りとして書かれたものです。
大西さんが生活保護の申請を手伝った事例で、持病が悪化して路上生活もつらくなり、生活保護を求めた男性の話がありました。
申請は受け付けられ、その男性は施設に入ることになりました。それで大西さんは成功したと満足したのですが、それはとんでもない思い違いでした。
その男性は、4日後にはその施設から飛び出し、大西さんに対して激怒したのです。
「あんたに手伝ってもらって入った施設がどんなところだったか、あんたは知ってたのか? せまい部屋に2段ベッドが何個も突っ込まれて、手を伸ばしたら隣のやつにあたる。そんな20人部屋とかのタコ部屋に入れられて、こっちはたまったもんじゃねえ。」(p.73 - 74)
施設に入れたから、それで良かったとはいかないのです。たしかに雨露はしのげるでしょう。寒さに震えることもないでしょう。しかし、プライバシーも何もあったものではありません。それが人間としての文化的な生活と言えるでしょうか?
その男性は、同部屋の人から金をせびられたり、財布を盗まれたりしたそうです。さらに、ご飯はカップ麺に唐揚げ弁当ばかりだとか。夜になると南京虫に襲撃されるのだと言います。
「あんなところに入れられるくらいなら、路上のほうがよっぽどましだ!」(p.74)
おそらく福祉事務所の人も、そういう施設に泊まったことはないのでしょう。だから平気で、そういう施設を斡旋できるのです。
また、「越年越冬」ということが書かれていました。以前、「ハケン村」というのがありましたが、それと似たようなものです。
新宿の中央公園にテントを張り、急病人に対応するため医療関係者やボランティアが24時間待機します。炊き出しも、昼と夜の2回行うのだそうです。
「どうしてこのような手厚い活動をするのかというと、年末年始は日雇いの仕事もなくなり、役所も「閉庁」といって休業になるため、路上生活者の行き場がなくなってしまうからだ。夜回りをしているだけでも、路上の寒さは心身に堪える。まして極寒の路上で寝泊りするなんて、想像を絶する過酷さだろう。」(p.86)
私も広島で夜警のバイトをしていたとき、路上生活者と仲良くなったことがありました。シャッターが下りたアーケード街が彼らの寝場所です。ダンボールを上手に組み立てて、寝床を作って寝ていました。
東京の大塚では、夜遅くに会社から出ると、雪が降る中、路上で寝ている人を見ました。どうやら地下鉄の通風孔の上に寝ているようで、そこだけ温かい空気が出てくるのです。
「なるほど、よく考えたなー!」と、そのときは思いました。しかし、今にして思えば、通風孔から暖かい空気が出るのは、一晩中だったかどうか・・・。それに、通風孔に触れていない方は、冷えた空気が冷たくて大変だったでしょう。
生活保護を受けるに至った人の中には、情報弱者も多いです。私たちはインターネットで検索することで、簡単に情報を手に入れられます。でも、そういうことができない人や、そもそも教育を受けられなかった人もいます。
「その後、T係長と僕の聞き取りにより、タニグチさんが、以前生活保護を利用していた自治体の職員から、「生活保護は人生で一回しか使えない」という嘘の説明をされていたことが明らかになった。」(p.122)
名前を偽って申請したため、不正受給を疑われたタニグチさんの例です。
嘘の説明をした職員も、悪気があったのではないかもしれません。ただ二度と生活保護を受けないで済むようにと思い、プレッシャーをかけようとしたのかもしれません。タニグチさんに良かれと思って。
「「生活保護=悪いこと」という社会のイメージが、彼の思考に影響を及ぼさなかったと、誰が言えるだろうか。」(p.123)
知的障害もあったタニグチさんは、嘘をつかないと生活保護が受けられないと思い込み、偽名を使ってしまったのです。
その問題の根底には、「生活保護は受けるべきではない」という考え方があると思います。
財政を圧迫していることも事実ですし、血税が使われていることも事実です。しかし、そこから生じる生活保護へのマイナスイメージが、様々な問題を引き起こしているように思います。
「一見したら非合理な選択を、路上の人たちがあえてしているように思えることがある。そのたびに「なんでこんなことを?」と、思ってしまうのだが、それは僕たちが、僕たちの価値基準で彼らの言動を測っているからにすぎない。路上では、僕たちの「ふつう」の考えや行動が通用しないことがほとんどだ。」(p.124)
偽名なんか使う必要ないのに、と思うのは、生活保護は何度でも受けられると知っているからです。それを「ふつう」に知らない人もいるのです。
マイノリティーの問題では、特にそういうことがあります。「ふつう、同性を好きにはならないだろう!?」それは、異性を好きになる人にとっての「ふつう」であって、すべての人の「ふつう」ではないのです。
生活保護の問題では、家族がいる場合の扶養義務が取り上げられることがあります。民法の規定で、2親等の家族・親族に扶養義務を定めているからです。
しかし生活保護においては、可能であれば扶養する、というのが前提です。強制力はありません。それは、家族や親族と言っても、様々な問題があるからです。
「とはいえ生活保護法上、「扶養」に関しては強制ではないにしても保護に優先するもの、とされている。DV(夫婦やカップル間の暴力)や虐待など、家族や親族に連絡することが危険な場合をのぞけば、多くの場合、「扶養照会」といって家族や親族に「扶養できるかどうか」を問い合わせることになるのだ。」(p.139)
これは何も問題がないように思えますが、この本では、このことによって虐待を受けた若者の例が取り上げられています。
生活保護を受けるなんて家族の恥だと思った父親が、その若者を呼び戻し、制裁を加えたのです。日常から「しつけ」と称して暴力を振るう父親でした。
「しかし、この「扶養照会」というのは実にやっかいだ。本来は生活保護が必要なくらい困窮しているのに、家族や親族に知られたくないという理由から申請をためらってしまう人があとを絶たない。また、この「扶養義務」を過度に役所側が強調することで、申請者の気持ちをくじけさせてしまうことも多い。」(p.140)
生活保護を受けたいと思っても、こういう壁があります。この壁のために、本当は受けるべき人に支援が届かないケースが出てくるのです。
この他にも様々なケースがあり、貧困に至る例が紹介されています。
幸いにも生活保護を受けることで、生活を立ち直らせたという人もいます。しかし、生活保護を受けることさえ断念し、餓死することになってしまう例も実際にあるのです。
「必要な人が必要な制度を利用する。それは、当たり前のことだ。きっと、誰もが賛同するに違いない。でも、必要か必要でないか。この二つの間に、どれほどの違いが、どれほどの差があるのだろうか。正しい線引きは、誰がしてくれるのだろう・・・・・・。」(p.252)
この問いかけは、実に重たいものがあります。その正しい判断のために、福祉事務所の担当者にも大変な負担がかかっています。血税ですから、なるべく使わないようにしたい。でも、必要な人には使わなければいけない。
貧困のケースは人それぞれです。働けるのに働かないと一言で言っても、様々な理由があります。それをいったい誰が、これは良い、これはダメ、と決めるのでしょう?誰に決められるのでしょう?
この本を読んで、私はますますベーシック・インカム制度(BI)の素晴らしさを感じました。申請するまでもなく、国民という理由だけで、一定額を受け取ることができるのです。
奇しくも昨日、フィンランドが世界で始めてBIを導入することになりそうだ、というニュースが飛び込んできました。
人口500万人ほどのフィンランドは、人口、経済規模とも、北海道と同じくらいなのだそうです。そこで、月に約11万円を国民全員に支給するというBIを導入しようとしています。
元々高福祉国のフィンランドですから、税金は高額です。地方所得税と国の所得税とで、収入の半分くらいを納税しています。さらに消費税は24%だとか。
それでも、安心が得られることに国民は納得している、と聞いていました。教育レベルも高く、世界に通用する産業を持つ国です。
それが、これまでの様々な福祉対策をBI一本にしようとしています。
フィンランドに問題があるとすれば、それは公務員の多さだと思います。多様な福祉を実現するためには、それだけ多くの人手が必要だったのです。
しかし、政府がやるのはBIだけとなれば、大勢の公務員は不要です。おそらくそこに、国の経済をさらに活性化させる方法を見出したのではないかと思います。
日本は、消費税の軽減税率導入など、コストがかかるわりに効果のない税制を導入しようとしています。
年金の問題も残したまま、誰も手をつけようとしません。破綻するのが見えているのに、そのツケを子孫に残そうとしています。
今こそ日本も、コストのかからない福祉に舵を切り、将来の禍根を絶つべきではないかと思います。日本でもBI導入の検討が始まることを願っています。
2015年12月14日
ゆるんだ人からうまくいく。
ひすいこたろうさんの本を読みました。Facebookで新刊が出ることを知り、何も考えずに注文したのです。手にとって見て気づいたのですが、これはひすいこたろうさんと植原紘治(うえはら・こうじ)さんとの共著でした。
サブタイトルが「意識全開ルン・ルの法則」とあります。なんだかまったく謎の本です。CDがついていて、「聴くだけで、あなたを天才にするCD」というコピーもありました。
疑問符が飛び交いますが、ともあれ、ひすいさんの本なら間違いはないだろうと思い、読んでみることにしました。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
巻頭に「サイバーリーディング「ルン・ル」収録。あなたを天才にする、意識全開CD。」とあって、そこにこのCDを聴くことによる効果を、それぞれの人の言葉で記してあります。たとえば、ひすいさんはこう言っています。
「1日に30冊もの本を処理できるようになり、1週間あれば200ページの原稿が書けるようになった」(p.4)
他にも「瞑想ができる」「思考や感覚を研ぎ澄ますことができる」「短期間で会社の業績も驚くほど上がりました」など、ものすごい効果があったと書かれています。
すごい効果だと思いますが、それにしてもよくわからないのは「ルン・ル」です。これまでに聞いたことがありません。
「この本に付属の意識全開CDを繰り返し聴くことで、あなたは、いつのまにか天才になっていることでしょう。
天才になるとは、何かを新たに身につけていくことではないのです。
むしろ自分がこれまで着ていた鎧を脱いでいくことです。
鎧を脱ぐために必要なのは、ただ、ゆるむこと、それだけです。」(p.18)
つまり、自分をゆるませるために、このCDが有効だと言います。そしてゆるむことで、天才になるのだと。
「「ルン・ルとは何か」、これはとても一言では言えないので、この本1冊を通して、あなたに感じていただく以外にないのですが、やることはカンタンです。
ただ、なにも考えず、このCDを聴いていただくだけです。」(p.19)
ということで、私もさっそく聴いてみました。完全版ではないようですが、19分に短縮されたものが録音されています。マントラとも言えるし、瞑想導入とも言えるような、不思議なCDでした。
「「余分な力」とは、自分とは、こういうものだという固定観念、また、こうでなければいけないと自身を縛っていた価値観、つまり、「余分な自我」が解放され、ゆるみ始めるのです。」(p.20)
これで何となく見えてきました。つまり、私たちは本当は無限の存在なのですが、自己規制し、その規制していることさえ忘れて生きています。それを解き放つこと、つまり大いなる存在と一体化すること、自我を消滅させることによって、本来の力を取り戻していくのですね。
「なんで僕(ひすい)がこの本を作りたかったかというと、植原先生の存在の響きである「ルン・ル」をちゃんと後世に残しておきたかったからです。」(p.26)
たしかに、この本を読むまで「ルン・ル」のことはもちろん、植原さんのこともまったく知りませんでした。「ルン・ル」は30年の実績があるそうですが、それなのにあまり知られていなかったのです。
「息を吸って、吐くときに余分な力をハーッと解き放つ。その解き放した状態でまた吸う。そして、また息を吐きながら力を解き放していく。また、少しゆるみますから、ゆるんだら、その状態でまた息を吸う。
それを繰り返していくと、さまざまなことが起こります。
例えば、「ああ、体のここの部分が硬くなっているな」とか「ここが緊張しているな」という肉体的なことにも気づきますし、自分が気づかぬうちにため込んでいる思い、とらわれているいろいろなことに気づいていきます。
それも自分の中にため込んでいる力ですから、それに気づいたら、それに対して何の評価もしないで、「ああ、そうか、そういうことが自分の中にあったな。このことにとらわれていたんだな」と、それだけでいいです。」(p.45)
吐く息とともにゆるませていくと、身体だけでなく、精神の凝り固まった「とらわれ」に気づくと言います。
そのとき、それに対して評価をせず、ただそういうものがあったと気づくだけでよい、と。この辺は、バシャールが言っていることと通じるものがありますね。
「生命、いわゆるわたしたちが思っている、生きているとか、死ぬとかいうことから解放された生命を得るようになるんだと思います。
そういう状態になるから、生きているとか死んでいるとか気にもならなくなるし、心がすごく平安になります。死んだら怖いとか、生きるためにはどうしたらいいかとか、そういう煩わしいことにあまりとらわれなくなってきます。」(p.68)
ゆるむというプロセスについて、植原さんはこう説明します。そして、「やらない人にはわからない」のだから、ともかくやってみるよう勧めます。
永遠の生命と一体であると感じれば、この世の生死にとらわれなくなることは、何となくわかる気がします。「神との対話」などでも、繰り返しそのことが語られていますから。
この「ルン・ル」は、もともと速読から始まったと言います。
「よく読まなければわからない、覚えられないというのは、思い込みです。一度見たものはすべて覚えているから、それを思い出せばいいんですよ。」(p.111)
「ひすい もっとしっかり見なきゃいけないとか、寝ていたら見えないとか、そういう思い込みをどんどん外していってあげたんですね。
植原 それだけで人間の持っているものというのは働き始めますからね。」(p.111 - 112)
一度見れば覚えているとか、寝ていても見ているなど、驚くことが書かれています。しかし、これを読んだとき、これはまさにフォトリーディングだと思いました。
フォトリーディングは、驚く早さでページをめくるだけで、内容がすべて頭に入るという速読法です。神田昌典さんは、本を開かなくても良いとさえ言います。
そのとき重要なのは、質問だと言います。質問することで、そこに書かれている内容が頭に浮かぶのだと。ここでも植原さんは、思い出そうとするだけでいいと言います。
「この場合でいうならば、「自分は遅刻してはいけないって思っているからイライラするんだな」と気づいているだけでいいんです。そこに、いい悪いの価値判断を挟まない。
人前で過度に緊張するというのであれば、「恥をかいてはいけない」「人によく思われなければいけない」などの思い込みがあるわけです。」(p.124)
このように、私たちは様々な「思い込み」を抱えて生きています。本当はそうでなくてもいいのに、勝手に「かくあるべし」と自己規制しています。それによって自分で自分を矮小化し、自分で自分を苦しめているのですね。
ですから、そういう思い込みがあるのだと、気づくことが重要なのです。バシャールも、自分の観念に気づくようにと言っています。そうすれば、古い観念は消えて、今の自分にふさわしい観念になるからと。
「過去にとらわれることなく、未来を思いわずらうことなく、ますます嬉しく生き抜くこと、それがすべてです。
そういうとき、わたしたちは自分が勝手につくりあげた限界という枠組みを忘れて、本来持っている力をそのまま出すことができるのです。」(p.133)
よく「いま、ここに生きる」ということを言いますが、まさにこういうことでしょう。
「植原 『天才バカボン』もパパが一番すごい。本当の天才はバカボンじゃなくて、「これでいいのだ」と言っているバカボンのパパ。」(p.152 - 153)
これには、まったくの同感です。「これでいいのだ〜」と常に言えれば、何も問題はありませんから。
「正しいものを見られない状態であれこれ具体的に願っても、それが余分な力になるだけです。だから、これが一番というものひとつにしぼる。人に言ったら笑われるくらい大きな欲、ひとつにしぼるのです。」(p.168)
そう言って植原さんは、目標を1つにすることの重要性を説きます。そして、具体的に願いを叶える方法を、次のように説明します。
「手鏡を使います。手鏡は、自分の目だけ見えるものがベストです。というのは、顔全体が見えると、ここにシミがあるとか余分な力が入るからです(笑)
「自分の願いが本当に叶ったとしたら、わたしはどんな表情をするだろう」と想像してみるんです。自分の願いがすべて叶ったとしたら、わたしはどんなうれしい表情をするだろう? そのときの喜んでいる自分の瞳を手鏡で見ます。その瞳に向かって自分で「ありがとうございます」と言います。それだけでいいです。」(p.168)
願いが叶って喜んでいる自分の瞳を見て、「ありがとうございます」と感謝するのですね。それが叶った時を想像し、感謝することがコツだと、「神との対話」にもありましたが、感謝が秘訣のようです。
「でも、どんな状況にしろ、僕らの最終目的は、自分が最高に喜んでいる状態であり、そこをイメージすることで、あとはお任せして目の前のことをひとつひとつしっかりやっていけばいいんですね。余分な力を解き放っていくと、そのプロセスを見極めていくことができると。
植原 そうです。余分な力を抜いていくと、見事なほどに自分に必要なことが湧き上がります。」(p.169)
前半のひすいさんのまとめに対し、植原さんも同意します。細かなことをああしよう、こうしようと考えなくても、ただ目の前のことをやっていれば、必要なことは勝手にやってくるのです。
ひすいさんの師匠になる小林正観さんも、まさにそういう生き方をされた方でした。頼まれごとを断らず、ただたんたんとそれをやっていけば上手くいく、と言われていました。
「「半分しかない」と思うのは、別に悪いわけじゃないと思いますよ。「半分もあるなんて、チョー能天気じゃない?」と思うことがあってもいいと思う。どれがポジティブで、どれがネガティブかなんて、わたしは決められない。
事実は、「半分である」。それだけ認識しておけば、それ以上のことは判断しなくていい。」(p.211)
よく例として使われる「コップ半分の水」の話です。「半分しかない」と考えるのはネガティブだから悪く、「半分もある」とポジティブに考えるのが良い、とよく言われます。しかし植原さんは、「半分ある」とだけ考えて、判断する必要がないと言われます。
たしかに私たちは、何かにつけ判断しています。事実だけを見ればよいのに判断することで、様々な感情を浮かび上がらせているのです。
お釈迦様は、煩悩を取るための八正道として、正見(照見)を重視されました。正しく見るとは、ポジティブやネガティブの判断をせず、ありのままを見るということだそうです。
これは、自分の考えや感情を否定せずに、ただありのままに認識することにも通じていると思いました。
この本を読み始めてから、「ルン・ル」を1回以上聴くことを日課にしています。これまで瞑想が続かなかった私ですが、これを聴きながら吐く息でゆるませようとしていると、自然と瞑想になってくるように感じます。
湧き上がる思考をただ眺め、そんなことを考えているんだと観じる。なかなか面白いなと思いました。
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