有名な「きけ わだつみのこえ」の第二集の本を読んでみました。
名前はよく知っていましたが、まあだいたい想像できるようなことだろうと思い込んで、これまで読まずにきました。
ところが最近、メンターの吉江さんから、ぜひ読むようにと強く言われたので、購入したのです。
読んでみると、たしかにいろいろと感じるところがありました。
では、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「世界人であることを忘れないようにといわれますけれど、私の理想もけっきょくそこにあります。ただそこに達するまでに我々はあまりに弱いし不完全でもあるので、やむをえず戦争というもっとも醜い営みにも没頭せねばならぬのだと思います。民族の発展、神に近づかんとする人類の、むしろ尊い過程であるかもしれません。
私の個体もこの大きな歴史の山の頂に燃焼する。私はそれを快く見つめることができます。ただ私たちは自分たちの思想や仕事をうけついでくれるべき人間をあとに遺したい。そして私のなしえなかった生活と理想を完成させてください。」(p.13)
これは、東京大学文学部の学生の久保恵男(くぼよしお)さんの、兄姉に向けた手紙の一部です。
この本に収められているのは、ほとんど大学の学歴を持っている人。そのせいか、あるいはそういう傾向のものを選んだためかわかりませんが、妙に文学的な傾向があります。
その中では、比較的に地に足ついた感じの文章だと思いました。現実的であり、かつまたエリートらしい見識を持ち合わせています。
私がこの文章に注目したのは、理想は理想としながら、現実を生きるには戦争という悪を受け入れることも必要、と見抜いているところです。
自分には果たせない理想、つまり平和な社会を、遺った人々に築いてほしいという願いが、ひしひしと伝わってきます。
「今日こそ最後だと覚悟して生活することを私たちはなかなかおよびがたいことだと思うが、古来動乱期に生涯を送った何十億何百億という人が、やはりそうした日を送ったと思うと、なんでもないことのように思われる。私たちが何の感銘もなく読んでいる明治維新や戦国時代の武士たちが、実はその一人一人がそうした日を送っていたのを思えば私たちの生活などは安楽のほうかもしれない。」(p.67)
これは東京大学経済学部卒の太田慶一(おおたけいいち)さんの日記のようです。
やはり教養がある人は、自分の視点だけでなく、客観的な見方をするのだなあと感心しました。
ただ歴史を知っているだけでなく、その中の登場人物の視点でながめてみる。そうすることで、自分を客観視できます。
そうやって外から自分を見てみれば、自分の苦悩というものが、ちっぽけなものに思えてくるという正直な気持ちなのでしょう。
「いつ死ぬか、いつ無一文になるかわからないような時代には何の係累もない一人身のほうが気楽でずっといいと思われるのは人情かもしれない。しかし「ヘルマンとドロテア」(ゲーテ作)の中にある言葉のように、そんな時こそ妻があり、夫があり、子供があり、父があるほうが人間らしいのではないか。幸福な時にも不幸な時にもともに楽しみともに苦しむ者を持つ者こそが人間であるのではないか。」(p.67)
これも同じ人の続きの文章になります。
ここでも想像を働かせ、独身の方が良いようにも思えるが、家族持ちの方が人間らしいとも言えると、公平な見方をしています。
どちらか一方に決め付けるのではなく、客観的に眺めた上で、自分はどっちの方が良いと思うかを考える。
さすがに当時の東大生は超一流のエリートだけあって、こういう見方が普通にできてしまうようですね。感心しました。
「昭和十八年十一月二十二日 遺書
戦場に征(い)くに当たって、何の感慨も起こらないものですね。我ながら不思議です。人間の精神というものは不思議なものだと思います。父母妹らに会うのも、これっきりになるかもしれないというのに、ぼたもちやおぜんざいを食べたいと思っています。底知れぬのんきさが人間の精神にひそんでいるのが妙ではありませんか。
では皆々お元気で。」(p.222)
なんとも陽気な遺書ではありませんか。これは東京大学文学部の岩田譲(いわたゆずる)さんのもの。入隊1年4ヶ月、ビルマで戦病死となっています。この遺書を書いた約9ヶ月後のことです。
まだ本当の死に直面していなかったので、こんなにのんきだったのでしょうか?
私には、そうは思えません。出征すれば、つねに死を覚悟することが求められていたでしょう。そういう中で自分の内側を覗いたとき、なぜかのんきな面があると再発見したのではないでしょうか。
私は戦争に行ったことはないのでわかりませんが、人間にはそういう一面もあるのかもしれないと思えてくるのです。
「ああ視界から彼女の姿は消え去った。現世において相見ることは、おそらくもうないであろう。私は静かに眼をとじ、彼女の姿を瞼(まぶた)のかげに浮かべた。彼女はかすかに笑う。さらば、愛する人よ。これが人生の姿なのだ。
会えば別れねばならぬ。夢・・・・・・そして虹のごとく美しすぎる愛の記録だ。しかし、すべてを去り、己を捨て、祖国に捧げよ。煩悩を絶ち、心しずかに征くべきである。」(p.244)
これは、早稲田大学商学部の市島保男(いちじまやすお)さんの日記だと思われます。
どういう状況かよくわかりませんが、先生、M君、Hちゃんと、自分と彼女という5人で行動していたときのことのようです。
多摩川園前という駅で降りる前に電車の中で、彼女から「あなたへ私の気持が傾いていた」と恋心を告げられました。そこで初めて両思いだったとわかったのです。
「僕の気持はね、何かしら君の態度に反発を感じながらも、君に惹かれていた」と、格好をつけながら自分の気持ちを告げるものの、電車は駅に到着します。そして「さよなら」と互いに言って別れたのです。
非常に文学的であり、メロドラマとも思える状況ですが、これが現実にあったのでしょうね。どうにもならない現実を前に、人はその嘆きを詩のように語りたくなるのかもしれません。
「昭和十九年十二月二十五日
現役兵証書(入隊命令)来る。昭和二十年三月、満州第九二二部隊入隊とある。すでに覚悟はついた。ただ征くのみ頑張るのみ。
昨日家に帰った時、長い間風呂にはいっていなかったので母に願って沸かしていただいた。しかし左手がまだ癒えぬので、体を洗うことができぬ。ために母上に流していただいた。ああ、二十(はたち)の壮者がいまだ母上にご厄介をおかけする。しかも体を洗っていただく。この感激忘れえようか。僕は思わず泣けてきた。来春三月満州に向かう身にとってこの一事は僕の思い出深いものとなる。おそらく一生忘れることはできまい。」(p.244 - 245)
これは神宮皇学館大学予科を卒業した安藤良隆(あんどうよしたか)さんの日記だと思われます。
昭和20年9月に病死とありますから、入隊してわずか半年です。過酷な内地の環境に適合できなかったのかもしれません。
それにしても、左手が思うように動かない若者でさえ、このころには徴兵されたのですね。
そういう身でありながら、不平不満を言うのではなく、母親のありがたさに感涙しています。そういう素直さ、優しさに感動します。
本書には、日記や手紙などの手記のほか、時の情勢を語った部分があります。その記述は、まさに岩波ならではの左翼的な見方に貫かれており、30万人の南京大虐殺が当然にあったという前提で書かれている部分もありました。
私は、事実に基づかない一方的な見方を押し付けるやり方には賛同できないので、そういう意味では、本書を推薦したいとは思いません。
しかし、その当時の若者たちが、どういう思いでいたかを知る上での一次資料としての価値は、十分にあると思っています。
国の存亡の危機を目前にして、一人の人間としてどう生きるのかを、彼らは常に自分に問うたことでしょう。その息吹が感じられるように思いました。
