さて今日は、「お金に対する考え方」についてです。
以前にも、私がメンターと私淑している吉江勝さんのメルマガを紹介しました。
そのとき紹介した「金のなる木」シリーズがまだ続いています。
ブログにも掲載されてますので、そちらもご覧ください。
・「お金は使えば使うほど入ってくる」
・「お金は使えば使うほど入ってくるの法則2」
この中で吉江さんは、以下のように明言されています。
「「お金は使えば使うほど入ってくるもの」
「仕事はワクワク楽しく成長できるもの」
「人生は豊かで味わい深く素晴らしいもの」
が正解です。」
また、お金を使うことのメリットを、次のように言われます。
「最大のメリットは自分のセルフイメージが上がることです。」
私も常々、自己肯定感を高めること、セルフイメージを高めることが重要だと言っています。
そのための簡単な方法が、思い切ってお金を使うことなんですね。
これは、やってみるとよくわかります。
たとえば、昼食をいつも400円の弁当にしていたなら、たまには1000円の定食にしてみる。
あるいは、もっと贅沢に、3000円くらいのステーキを食べに行く。
このときの気持ちの変化に注目してほしいのです。
迷っているときは、「もったいない」という気持ちがあるはずです。
なぜなら、そこにお金を使ってしまうと、お金がなくなってしまうと感じるから。
これが、「神との対話」で言っている「支える思考」「根となる考え」です。
「お金がなくなってしまう」「お金が足りない」「昼食に3000円使う価値が自分にはない」といった隠された思考があるのです。
これが自分が持っている「信念」なのです。
この信念を変えなければ、現実は変わりません。
そこで思い切って使ってみると、どんな変化があるでしょうか?
ここで、「あー、やっぱり使わなければ良かった。」と後悔していてはダメなのです。
だからここでも、「これでいいのだ〜!」と思う必要があるのですね。
つまり行動を肯定すると、その行動を正当化する理由を脳は勝手に作り上げます。
「私はたまには3000円の昼食を食べるのにふさわしい存在なのだ。」
ほら、セルフイメージが上がったでしょ?
吉江さんはさらに進めて、借金してでもお金を使えと言います。
ちょっと過激に感じますか?
でもこれも、理屈で言えば正しいのです。
だってそうでしょ?
借金してまでも自分のために使うのです。
いったいどんだけ素晴らしい存在なのでしょうね?
冗談じゃなく、そういうことなのです。
借金できるということは、それだけ価値があるということです。
借金が大きければ大きいほど、大きな価値があるのです。
事実、成功している人の多くが、それまでの自分では返せないと感じるほどの大きな借金を背負った経験があります。
吉江勝さんしかり、久保ひろしさんしかり、望月俊孝さんしかり、・・・。
借金してまで何かをすることで、自分に非常に大きな価値があることを自分で認めることになります。
その自己肯定感が、セルフイメージの高さが、自分の信念になるのです。
今読んでるホリエモンこと堀江貴文さんの本には、彼のお金に対する考え方が書かれています。
いずれまた紹介しますが、彼もまたお金を貯めるよりも使って体験することを勧めています。
また、金利が安いのだからと、何かをするなら借金することを勧めています。
ちまちまと小金を貯めている場合ではないのです。
「神との対話」では、自分の信念を書き換えるために、「思考−言葉−行為」という創造のツールを逆に使うように勧めています。
つまり最初に「行為」を行うのです。
その例として、物乞いに出会った時、直感的にお金をあげようと思ったのなら、理性を働かせる前にあげるようにと、すぐ行動することを促しています。
もしそこで理性を働かせると、「1ドルはもったいないから25セントコインがないかなあ」と探すようなことになるからです。
かまうことはない、お金はあるのだから。
そう言って、理性で考える前に行動することを勧めているのです。
これもつまり、直感的に行った行動に対して、脳は正当化する理由を与えるからです。
その与えた意味によって、自分の思考が書き換えられていくのです。
吉江さんのメルマガに、読者から送られた感想が載っています。
「神との対話」に触れているもの、吉江さんが「Aさん」と呼んでいるものは、私が送った感想です。
吉江さんから、宿題を出されてしまいました。(笑)
「ところで神はお金については
どのような見解をお持ちなのでしょうか?
今度Aさんのメルマガででも
特集して頂けると嬉しいです。」
吉江さんから頼まれたら、嫌とは言えませんよ。
なにせ吉江さんは、私のメンターですから。
と言うことで、次回から2回か3回に分けて、「神との対話」に示されているお金の話をメルマガで特集することにしますね。
どうぞ楽しみにしていてください。
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2015年04月01日
2015年04月02日
お金はいつも正しい
ホリエモンこと堀江貴文さんの本を読みました。
友人から勧められてネットで探したら、もう販売されていませんでした。それで中古で買ったのですが、文庫版が売られていたのですね。
いろいろ叩かれることが多かったホリエモンですが、Twitterのツイートなどを読むと、非常にまっとうなことを言われていると感じていました。
そんな彼がお金のことを書いていると知ったので、これは間違いないだろうと興味をもったのです。
ではさっそく、本から一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「誰もがこのプロセスで銀行の発行する銀行券が価値ある実物資産だと思い込んでいますが、よく考えてみてください。あるのは信用だけで、お札は銀行が発行した単なる紙切れに過ぎません。銀行が潰れれば価値はなくなります。
(中略)
つまり、お金とは「信用そのもの」をわかりやすく数値化したものであり、実は信用こそがその実体なのです。」(p.14)
まずこのように、「お金=信用」だと定義します。これも1つの考え方ですね。
「信用は相対的なものです。例えばある人物の評判を聞いた場合、100人に聞いて100人がすばらしい人だと評価するケースは稀でしょう。ある人はすばらしいと称賛するかもしれないし、ある人は悪口を言ったりするかもしれません。」(p.15)
つまり信用は相対的なものだから、人それぞれに価値基準が違うのです。
お金はそれを1つの数値で示したものです。本来はいろいろなパラメータで変わってくるものを、1つの物差しで表してわかり易くした。
それはそれで便利なのですが、それによって、お金そのものに力があると勘違いするようになるのでしょうね。
「これからは、会社に縛りつけられるのではなく、個々人が独立して仕事をしていく生き方が主流になってほしいとボクは思っています。インターネットが普及していなかった10年以上前は難しかったかもしれませんが、いまなら十分可能です。」(p.34)
神田昌典さんも、会社がなくなるという話をされています。あるプロジェクトに対して、スキルを持った人間がネットを介して集まり、それぞれの仕事をこなすことでプロジェクトを完成させる。
そんなふうに、会社としてではなく、プロジェクトごとに仕事が遂行されるような時代が、もうすぐやってくるのかもしれません。
「小学生の頃は強制的に預金をせざるを得ない状況のボクでしたが、大学生になって親元を離れてから、貯金は一切やめました。アルバイトである程度まとまったお金を持つと自動車を買ったり旅行に行ったりとパーっと使って見聞を広めるように務めました。
そもそもコツコツとお金を貯めるのが性に合わないというのもありますが、お金を使って得た経験は会社を立ち上げた際、役に立ったと思います。会社の立ち上げには全額借金で出資をしてもらったのですが、借金を負ったことで逆に良いプレッシャーが高まりました。結局、1年で予定以上の売上を計上し、利益を出して自分の役員報酬もたくさんもらうことができ、借金は1年で完済しました。」(p.48 - 49)
このようにホリエモンは、貯金をするより使って見聞を広めることが重要だと言います。
私も今は、この考えに賛成です。私もホリエモンと同様、子どものころは強制的に貯金をさせられてきました。
ホリエモンとの違いは、そこに違和感を覚えなかったということですね。ですから、50歳になるまで、ずっと貯金することを考えてきたのです。
「ギャンブルに限らず娯楽に使う借金は意味がありません。借金はあくまでもその金利を払っても元がとれるような場合にのみ活用すべきなのです。」(p.65)
ホリエモンは、自動車ローンは活用すべきだと言います。金利が安いし、車を得て体験することに意味があるからと。
一方で住宅ローンには否定的です。そもそも持ち家というのは重荷になるだけで、ライフスタイルの変化に対応しづらいもの。ローンでそれを買えば、さらに縛りつけられますから。
「もしやりたいことや欲しいものがあるなら、借金をして時間を短縮すべきです。すでに書きましたが、起業したときも全額借金で始め、あとに儲けて1年で返済しました。もし、お金を貯めて起業しようと思ったらタイミングを逃していたかもしれません。」(p.180)
借金は、目標達成までの時間を短縮するためにするのですね。
以前に誰かが、「消費のための借金は良くないが、投資のための借金は良い。」と言っていました。邱永漢さんだったかもしれません。
私もそう思い、自己投資も含めて、資産(投資用マンション)への投資なら借金をしました。けれども、ギャンブルはもちろんですが、単に生活費や消費のための借金はしてきませんでした。
完全とは言えないものの、まあそこそこ上手くやってこれたのではないかと思っています。
「もちろんそうなった場合は国がある程度の社会保障をすべきです。最低限の社記保障はセーフティネットがカバーするとして、それなりの生活水準を維持したり、好きなことを自由にやる上では常にキャッシュフローが潤沢にあるにこしたことはありません。
そうするためには「お金にお金を稼いでもらう体制をとる」ことが必要なのは間違いありません。まだまだ日本人に染みついた「貯金は美徳」という考え方を払拭するには時間がかかりそうですが、その概念が否定される時代が来るとすれば、それはやはりバランスのよい資産形成をすることに収斂(しゅうれん)するでしょう。現金、預金は当座の資金需要を賄うくらいの最低限にとどめておき、分散投資するのです。」(p.52 - 53)
ホリエモンが、年取って資産形成ができてなくて貧乏な人は自己責任だから救う必要がないと、やや冷たい意見をツイートしていました。
それを読んで私は、自己責任はそのとおりだが、救う必要があるかどうかは別問題だと、意見を言ったことがありました。
おそらく私は、ホリエモンのすべてのツイートを読んでなかったか、彼の意見を理解していなかったのでしょう。
ホリエモンは、自己責任であってもセーフティネットで救うべきだという意見を、ここでは述べていたのです。
「日本人の金融リテラシーの低さは、お金の稼ぎ方を知らないことにも原因があると思います。日本人の労働者の多くがサラリーマンや公務員です。そのため、「お金は稼ぐものではなく、もらうもの」と思い込みがちです。黙って働いていれば、口座に振り込まれているのがお金、そんな感覚の人がずいぶんいるのではないでしょうか。」(p.179 - 180)
これは私も耳が痛いです。ただ就職すれば稼げると、安易に考えていたのですから。だから多くを分け与えてくれない経営者に不満を持ち、不平や愚痴を漏らしていたのです。
「だったら自分で稼いでこい」と言われると、グーの音も出ませんでした。本当はサラリーマンであっても、自分でどう稼ぐかを考えるべきなのですね。
「そもそも結婚というものは農業が産業の主体だった時代に農地を長子相続させ、細分化したり、荒地になったりするのを防ぐための仕掛けでした。誰もが結婚できるように一夫一妻制が定着しただけの話であり、現代のようにほとんどの人が農業に従事しない時代に結婚制度はそぐわないとボクは思います。」(p.94)
「もし公的に結婚を認めてもらうことで精神的な安定を得たいというのであれば、それは実は結婚には向いていないと思います。そういうタイプの人ほど離婚する可能性が高いとボクは考えています。なぜなら、本人同士の結びつきに自信がない裏返しだからです。やはり経済的メリットが存分に活かせる人ほど、現在の結婚制度には向いていると思います。」(p.95)
農業との関係はわかりませんが、ホリエモンの結婚観には賛同します。
法で縛りつけなければならない結婚制度のどこに愛があるのでしょう?
経済的なメリットというのも、これからはあまりなくなっていくかもしれません。
単にルームシェアなどのメリットなら、結婚している必要はありませんからね。
「余談ですが、結婚経験者のボクからのアドバイス。結婚に一番必要なのは、我慢強さです。他人同士が法的に結びつけられて生活をするわけですから、数々の衝突が生まれます。それを我慢できない人は結婚という形で生きることに窮屈さを感じると思います。」(p.96)
さすがホリエモン。鋭いところを突きますね。私も同感ですが、それを「我慢」にしているうちは、まだまだだと思います。
自分と違うことを「喜ぶ」くらいでなければ、一生を添い遂げるなど難しいことです。仮にできたとしても、それでは十分に満足はできないでしょう。
「上の世代は年功序列型賃金システムや終身雇用制度、退職金制度などで賃金支払いの先送りをしてきた結果、多くの資産を確保し、抱え込んでいます。それが、現在の経済状況を悪化させているのは間違いありません。」(p.119 - 120)
こう言って、世代間格差の問題を取り上げています。たしかにこういう一面があることを、私も否定できないと感じています。
「こうした不公平感をなくすために、1人当たり5〜10万円をすべての国民に毎月配るという「ベーシックインカム制度」を提言してきました。
ベーシックインカム制度は最低所得を保証するだけで、あとは原則自由が基本です。解雇などの規制も緩和されるので企業の経営自由度は上がります。稼ぎたい人はどんどん稼げばいいし、それを邪魔しないことで、さらに伸びる可能性があります。」(p.133 - 134)
これには驚きました。「神との対話」シリーズでも提示されていた案です。人が生きていくのに、「仕事をしなければならない」という制限を取っ払うということには、私も大賛成ですね。
「これが実現すれば、日々の暮らしに困窮しているのに「生活保護を受けたくない」というプライドから申請できないといった問題も回避できますし、申請を受理してもらうために何度も福祉事務所の窓口に通うストレスもなくなります。そもそも審査の必要がないので福祉事務所も負担から解放されます。」(p.134 - 135)
多くの人は、生活保護を受けなくて済むようになるでしょう。けれども、障害があって働けないだけでなく医療負担が大きい人は、やはり生活保護のような支援が必要だと思います。
それ以外の人は、元気なら路上生活でもして食費だけでも生活して行けます。数人が一緒になってルームシェアすれば、居住も問題ないでしょう。
最低限のお金をもらって、あとは自由にさせてもらう。私は、とても良い案だと思います。
「ベーシックインカム制度があると、みんな働かないようになるんじゃないかという意見もありますが、そんなことは絶対にありません。ボクは夢を実現するためにもっともっと働くでしょう。そういう社会であればこそ、人の役に立ちたいという人たちは思いっきり人の世話を焼くことができます。」(p.136)
これも「神との対話」シリーズで指摘されてることですね。働くことの意味が、「生活のため」から「自分らしく生きるため」にシフトするだけです。
そしてそうなることで、人々はもっと幸せになりやすくなるでしょう。だって、稼ぐことを二の次にしても、他の人を喜ばせる活動ができるのですから。
「お金はいつも正しいのです。使う側が間違っているから、おかしなことが起こるだけです。金銭が原因のトラブルなんて一番くだらないことです。」(p.185)
お金は使うものであって、使われるものではありません。お金の奴隷になるのではなく、主人として振る舞う。そのためにも、お金に対する正しい知識、考え方が重要だと思います。
2015年04月05日
ありがとうの神様
小林正観さんの本を読みました。
正観さんは、2011年10月に亡くなられています。したがってこの本は、これまでの著作を再編集したものとなっています。
「40年の研究で正観さんが伝えたかった「ベスト・メッセージ集」」と帯に書かれていますが、71のメッセージが、みごとにそれぞれ4ページに収まっています。
どれもこれも素晴らしいメッセージで、何度も読み返したいと思いました。
ではさっそく、一部を引用して内容を紹介しましょう。素晴らしい言葉があまりに多いので、引用するのはごく一部です。
「「ありがとう」だけでも神様を味方につけることができ、支援・応援をいただけるのですが、それに加えて「掃除」と「笑い」(現象に対する肯定)が加わることで、神様が強い味方になってくれるようです。」(p.12)
「掃除も、自分の身体を使ってすることが「実践」。笑うことも、心の中で思っただけではなくて、顔に出して表現することが「実践」。感謝も、「ありがとう」と声に出して言うことが「実践」です。」(p.13)
この「はじめに」に、この本の結論が要約されています。神様を味方につけるには、感謝、笑顔、掃除を実践することなのです。
私も常々「実践が重要だ」と言っています。なので、鏡を見たら「笑顔のワーク」、歩きながら「感謝のワーク」、そして素手でトイレ掃除を実践していますよ。
実はこのトイレ掃除の話は、私は小林正観さんと知らずに本(「ツキを呼ぶ「トイレ掃除」」)を読んだのです。あとで正観さんのことを知ってから、実はあの本も正観さんの本だったのだと知り、驚いたことがありました。
「生きることも、老いることも、病むことも、死ぬことも、自分の思いどおりになるわけではありません。
愛する人と別れることも、嫌いな人と顔を合わせることも、寒い・暑いという感覚も、自分の意思ではコントロールできません。
なにごとも「思いどおりにならない」ことがわかって、「思いどおりにならなくていい」「思いを持たなければいい」と気づいた瞬間から、人生はラクになります。」(p.14)
本文にも出てきますが、これがお釈迦様の悟りでもあります。苦集滅道(くしゅうめつどう)という四諦(したい)です。
「神との対話」でも、結果に執着するなと言っています。必要性を好みに変えるのだと。そうすることで、自由になるのです。
「人間の生きる目的は、頑張ることでも、努力することでも、何かを成し遂げることでもなく、「喜ばれる存在になる」=「頼まれごとをする」ことです。
自分の「使命」がわかったら、あとはそれをやって、疲労困憊(こんぱい)して死ねばよいだけです。」(p.17)
あらゆる執着を捨てた時、頼まれごとが増えてくると言います。それをすべて引き受けて、言われるがままにやる。
それが「喜ばれる存在になる」ということなのですね。そしてそれが、自分の使命なのだと。
「この人たちは、「普通に生活できることが、どれほど幸せか」を知っています。
普通に歩けること、普通に食べられること、普通に話ができること……、すべてに感謝をして、「ありがとうございます」と手を合わせることができるのです。」(p.20)
「幸せは、頑張った結果として手に入るものではありません。「必要なものは、すでに、すべていただいている」ことに気がつき、そのことに「ありがとう」と感謝できれば、神様が味方をし、夢も希望も持たなくても、幸せを感じることができるのです。」(p.23)
正観さんには、知的障害を持った娘さんがおられます。その娘さんから、人生の目的は争って勝利することではなく、「喜ばれる存在になること」だと教わったと言います。
そういう人は、すべてを受け入れて、感謝して、幸せに生きることができるのだと。
本文には、娘さんを授かった時の苦悩についても触れています。すぐに受け入れられたわけではなかったそうです。
でも、あるきっかけで受け入れられるようになってから、正観さんの考え方が変わったのだとか。
すべては自分のためになるのですね。
この「はじめに」の最後には、次のように人生の目的をまとめてあります。
「私はこのように、40年ほど、宇宙のしくみ、構造などに興味を持ち、研究を続けてきましたが、その結果、わかったことがあります。幸せというものは…、
「今、足りないものを探して、手に入れること」ではなくて、「自分がすでにいただいているものに感謝し、自分が恵まれていることに気がつき、嬉しい、楽しい、幸せ…、と生きていること」なのです。そして、そのために実践することは…、
「想いを持たず」、よき仲間からの「頼まれごと」をただやって、どんな問題が起こっても、すべてに「ありがとう」と感謝する(受け入れる)こと。
「そ・わ・かの法則(掃除・笑い・感謝)」を生活の中で実践することであり、「ありがとう」を口に出して言い、逆に、「不平不満、愚痴、泣き言、悪口、文句」を言わないこと。」
すると、神様が味方をしてくれて、すべての問題も出来事も、幸せに感じて「よき仲間に囲まれる」ことになり、「喜ばれる存在」になる。
これこそが「人生の目的」であり、「幸せの本質」なのです。」(p.26 - 27)
この「はじめに」に書かれていることを読んだだけでも、この本の素晴らしさがわかると思います。
本文を読むと、正観さんが自分の守護霊さんから聞いたという話も書かれています。
自分は唯物論者だと言われる正観さんですが、霊的な体験もあるようですね。
論理的に考えるということと、そうした独自の体験に基づいて、正観さんの考え方が作られていった。この本は、その集大成と言えるでしょう。
私はこれを1回読んでみましたが、ほぼすべてのメッセージの中に線が引かれ、ページが折られ、みなさんに紹介したいと思う文がたくさんできました。
しかし、「はじめに」から引用しただけでも相当な量になるので、引用はこれで終わりにします。
絶対オススメの一冊ですから、ぜひ読んでみてくださいね。
私も、また読み返してみたいと思います。1日に1メッセージずつ読み返す。そんな読み方もいいかなと感じました。
<追記>
続編の「ありがとうの奇跡」も同じようなスタイルです。2冊合わせてどうぞ。
2015年04月10日
This is 靈氣
フランク・アジャバ・ペッター氏による靈氣(レイキ)の本を読みました。
フランク氏は、日本に西洋レイキを広めた第一人者です。奥様が日本人だったということもあって、日本語には精通しておられます。
そのフランク氏が、レイキをもっと深く知りたいと、日本でレイキの歴史を訪ね歩き、直傳靈氣の山口千代子氏やご子息の忠夫氏、門戸を閉ざしている臼井靈氣療法学会の小川二三男氏、小山君子氏などに会ってインタビューした集大成が、この本なのです。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「学会の会員について小山先生はこう語った「会員ひとりひとりが人格を形成し心を浄化すべく努力しています。健康を保つためによく養生をし、正しく食べ、よく眠ることを心がけているのです。日々自己靈氣をかけます。靈氣は体中どこにでも効き、免疫力を高めます。内臓の働きを活発化し、新しい細胞の生成を促進するので、医療や手術に頼る必要がなくなります」」(p.56 - 57)
これが、創始者の臼井甕男氏が設立した臼井靈氣療法学会の会長を務めた小山氏の言葉です。
身体は神が宿るところだから、よく養うことが大切だと伝えられてきたのでしょう。
レイキをすることはもちん重要なのですが、それ以前に、心身を健康に保つという考え方が重要なのだと思います。
「臼井靈氣療法必携」という冊子は、臼井氏が生徒たちのために残した指導マニュアルです。ここには、インタビュアーと臼井氏の会話形式で、靈氣についての重要な考え方が掲載されています。
「(靈氣を)私物化するようなことを、私はけして誰にも許すつもりはありません。
(中略)
だからこそ、私は人間の公益のためにこれ(靈氣)を広く伝えることで、誰もが天からの恵みに浴し、それによって靈と肉体が一体となり、ひいては社会全体が天の与える福祉を実現することを目指しているのです。そもそも私たちの靈氣療法は、宇宙のエネルギーに基づく靈氣の独創的な療法ですから、そのパワーを得ることで、まず身体が壮健になり、穏健な考え方が得られ、生きることの愉悦感が増すのです。」(p.76 - 77)
まず臼井氏は、レイキを私物化しないと明言されています。これはつまり、レイキは臼井靈氣療法学会だけのものではない、ということも表していると思います。
また、レイキによって、まずは魂と肉体が一体化すること、そしてそれが社会全体に広がることを示しています。
そしてレイキのことを、「宇宙のエネルギーに基づく靈氣の独創的な療法」と説明し、宇宙のエネルギーに関係しているものであると言っています。
したがってそのエネルギーを得ることで、まず身体が癒やされ、続いて精神が癒やされ、生きることに積極的になれるのです。
続いて臼井氏は、臼井霊気療法がどういうものかを説明します。
「私の教義を成就し、心身を練磨向上させ、人として正道を歩むためには、第一に心を癒し、第二には肉体を健全にしなければなりません。心が誠の道に適い健全であれば、肉体は自ずから壮健になります。
そうして靈と肉体がひとつとなって平和と享楽の生涯を全うしながら、他の病者を癒し、自他ともに幸福を増進することが、臼井霊気療法の使命なのです。」(p.77)
先ほどと同じようなことですが、まずは心を癒やすことが重要だと言っています。心が健全になれば、肉体も壮健になるのだと。
そして、まず自身の心と体を癒し、魂と肉体を一体化させた上で、他者の病気を治すこと。それによって、自他ともに幸福を増進することがレイキの使命なのだと言います。
それから、レイキがどのような療法かを次のように説明します。
「心霊的な療法と言うこともできますが、物質的療法(身体による癒し)と言ってもかまわないでしょう。なぜなら、施術者の身体中から氣と光が放射するからです。特に眼、口、手から多く発します。ですから、患部を二、三分の間凝視するか、呼気を吹きかけるか、手で撫でたりしていますと、歯痛、頭痛、胃腸病、神経痛、乳腺症、打ち身、切り傷、火傷、その他の腫れや痛みなどはたちどころに痛みが去り、腫れがひきます。ただし、慢性疾患についてはそうもいきません。何回かの治療を要しますが、それでも一回の治療で効果が現れます。」(p.78)
このようにレイキ療法について説明し、百聞は一見にしかずだから、その効果を自分の目で確かめるようにと言います。
実際私も、レイキで痛みが消えることはたびたび経験しています。そういう経験を重ねる度に、「レイキってすごーい!」と思ってしまうのです。
またレイキは、身体の病気以外にも効果があると言います。
「心の患い、つまり憂鬱、虚弱、臆病、優柔不断、神経質その他の悪癖を矯正することができます。そして(靈氣を得ることで)神や仏のような心になり(施術者は)人々を治療するのを使命と感じるようになり、自他共に幸福に充ちることができます。」(p.79)
性癖治療と呼ばれますが、レイキには精神疾患や性格、悪癖を治す効果もあると言います。それとともに、施術者にも良い影響を与えるのだと。
私もレイキを始めたことで、人々に貢献することが使命だと感じるようになりました。
修得したレイキで病気や怪我で苦しむ人を助けてあげたい。そういう気持ちが強くなったのです。
また、レイキが誰にでもできるものかという質問には、このように答えています。
「生を受けた万物の者は、何であっても天恵として治療の靈能を備えているものです。
(中略)
老若男女は問わず、学者でも無学者でも、常識を備えている人ならばわずかの時間の間に立派に自分の病気を治し、他人の病気を癒す靈能を確実に得ることができます。」(p.82)
つまり植物や動物も、もともと治療の能力があるのです。ましてや万物の霊長である人間に、その能力がないはずがないと。これは自然治癒力と言われるものです。それを具体化したものがレイキだと説明するのです。
そしてそのレイキは、およそ常識的な考えができる人であれば、誰でも修得できると言います。これまで1人も、修得できなかった人はいないと説明しています。
第三代会長の武富咸一氏の治療法について、次のように書いています。
「血液感染とみられる子どもの治療中のこと、原因が過労にあると判断した先生は、子どもの背骨に施術することで癒したという。正確な診断があってこそ治療効果が上がることを、そうして弟子たちに伝えた。」(p.90 - 91)
やみくもに手を当てているだけでは、あまり効果が望めないということなのでしょう。
実際、臼井靈氣療法や直傳靈氣では、病腺(びょうせん)と呼んで、身体の悪い部分が手に感知され、場合によっては手が勝手に病腺に移動するとさえ言います。
どこに手を当てるかも、レイキが導いてくれるというわけです。
フランク氏は、山口千代子氏から霊授(アチューンメント)を受けており、直傳靈氣を修得されています。今は大師範として、代表代行として、直傳靈氣の重鎮となっておられます。
そのフランク氏が千代子氏から習った時の様子が、以下のように書かれています。
「病腺は千代子先生が最も訴えたい靈氣の秘術だった。
「手を置いてください、何か感じますか?」
脈拍と強いピリピリ感を覚えた。急にこんなことを聞いてみたくなった。
「先生は靈氣をかけている間、何を感じていますか?」
「愛ですね」
(中略)
「私は施術に出かけてバスに乗ることがあります。バス停で辛そうにしている人に出会うと、靈氣で癒してあげたくなります」
それが答えだった。
「患者さんとあなたにとって一番心地よいやり方を探してください。ご自分の腎臓にかけるなら、手のひらを背中に当てるのは都合が悪いですね。そういう時は手の甲でもいいんですよ」
それから千代子先生はおもむろに、ひとりの生徒の両足を軽打し、さすり始めた。
「うっ血していると感じたら、マッサージするとか軽く叩いてあげるとか指圧を加えるといいですよ。そうすれば、靈氣が深く入ります」」(p.126 - 127)
レイキを愛だと感じるのは、どうやら私だけではなさそうです。レイキをするとみんな、優しい気持ちになれるのでしょう。
あとの部分は、レイキの技術に関する内容です。場合によっては手の甲でもよい。これは、レイキが体中から出ることを証明しています。特に手のひら、眼(視線)、口(呼気)から多く出るのですが、それ以外からも出るようです。
また、レイキは他の療法との相性が良いとも言われます。マッサージや指圧、エステなどにも使えるのですね。
この本では、西洋レイキにない病腺について多く語っています。その中から、薬との関係を以下のように説明しています。
「抗癌剤のような強い薬を常用している、またはしていたなら、靈氣に反応すべき免疫力が押さえ込まれているので、病腺は深く潜行して表に出られないでいる。それが、エネルギーを受けて体が目覚めると、免疫力が働き始めるのだ。
同じように、疲労困憊している人からも、病腺は感じにくい。こんな人には、まず頭を最低三十分施術するといいと林先生は教えていた。そうすると、病腺のエンジンが全開になるそうだ!」(p.202)
また山口千代子氏へのインタビューでは、自己ヒーリングに関して興味深いことが語られていました。
「年とともに、もっと自分にかけるようになりました。ですが、人にかけてもらう方がよく効きます。」(p.270)
これは私自身も感じていました。自分でレイキをするより他の人からやってもらう方が、はるかに気持ちいいのです。
自分が感じたのと同じことを、直傳靈氣の創始者も感じていたことが、何だか嬉しくなりました。
この本は、レイキを愛するフランク氏が、後世に残すためにレイキをすべてを解き明かそうとしたものになっています。
タイトルにもあるように、まさに「これが靈氣(れいき)だ!」なのです。
レイキを学ぶ人には、ぜひ読んでいただきたい本だと思います。
2015年04月11日
大切な花を心にひとつ
かっこちゃんこと山元加津子さんの本を読みました。
今回の本は、かっこちゃんが気に入って読んでいた「星の王子さま」(サン・テグジュペリ作)を読み解くものになっています。
かっこちゃんは、この本がとても気に入っていて、内藤濯(ないとう・あろう)氏の訳本だけでなく、他の人の訳本、さらには英語訳も何冊か読んだそうです。
そうする中で、「どうしてこの言葉が使われるのだろう?」という疑問も出てきたのだとか。
そこで、フランス語で書かれた原本を読みながら、それをかっこちゃん流に翻訳し、さらにその物語について思うことを書き記すことになったようです。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「私は阪根さんからインカの話を聞いたり、アボリジニの方とお話ししているうちに、本当は学校の子どもたちだけが特別なわけではなくて、人には心の目と耳をすませば、空からものを見るような力があったり、まるでレントゲンのように、箱の中の洗濯ばさみの数がわかったりするのだろうかと、とてもうれしくなりました。
そして、自分ができないからといって間違いだなんて決めつけてはならないし、それから、本当はみんな素敵な力を持っているんだなあと思いました。」(p.30)
私たちは大人になるにつれ、こうあるべきなどと、勝手に決め付けをするようになり、それを信じて、他の可能性を認めなくなりがちです。本当は完全な自由なのに、自分で自分を制限しているのです。
自閉症などの障害を持った人が、特殊な能力を発揮することは、今は多くの人に知られるようになりました。
しかしそれは、彼らの特殊能力ではなく、人が本来持っていたものかもしれませんね。
「そして、私はそのとき、人は誰かが痛いと自分も痛くなるようにつくられているんだと思いました。そして、誰かがうれしいと、自分もうれしくなるように作られているんだと思いました。」(p.45 - 46)
「共感する」と言いますが、そういうことではなさそうです。人と人は、本当はつながっているのだということだと思います。
レイキをしていても、ある人は、被施術者の痛みを同様に感じたりするそうです。そうでなくても、悪い部分があると、それが手の痛みとして現れることがあります。
ですから、誰かの痛みが自分の痛みとして伝わり、誰かの喜びが自分の喜びとして伝わることが、本当にあるのだと、私には信じられるのです。
「かずきくんにとっては、冬の星座を覚えることなんて大切なことではなかったのです。でも、ガソリンスタンドを見られたことは、とてもうれしくて大切なこと。私は上手な滑りは見ることができなかったけど、ウサギの足跡は本当にうれしくて大切だったのです。人によって、大切なことは違うのですね。」(p.51)
私たちはつい、他人も自分と同じだと考え、ときには同じであるべきと考えてしまいがちです。けれども、それは真実ではないということですね。
そのことがわかっていたら、相手が自分と同じように考えないとしても、それを責めることはなくなります。
それを責めなければ、相手が嬉しいと感じたのなら、その嬉しさに共感してあげることはできます。
私は、「星の王子さま」という本は知っていましたが、おそらく読んだことはありません。
かっこちゃんの訳で読んでみると、実に不思議な物語です。理解の範疇を超えています。
でも、それを理解しなくてもいいのかなあって思えてきました。
相手が嬉しそうにしているなら、「きっと嬉しいんだ」と思って、その嬉しさにただ共感してあげればいいのではないかと。そんな気持ちになってきました。
「次郎くんのお母さんは次郎くんを今までだって、本当に愛しておられるのだけど、今ご自分を責めていることで、これからも優くんのおばあちゃんのようにもっともっと愛し続けるんだと思いました。
(中略)
愛するとは本当にどういうことなのでしょうか?」
これは、前提となる話をしないと理解できませんよね。
まず優くんが仮死状態で生まれた時、仮に助かっても重い障害が残るとわかったので、おばあさんは優くんが死んでほしいと願ったという話が前にあります。
つまりおばあさんは、生まれてきた孫よりも、障害児を抱えて苦しむかもしれない息子がかわいそうになったのです。
この話をかっこちゃんは知っていて、次郎くんのお母さんに話したのです。
次郎くんのお母さんは、息子さんが事故にあったと聞いた時、事故にあったのが健常なお兄さんの方ではなく、障害を持った次郎くんだったら良かったのにと、一瞬でも考えてしまった自分を、ひどく責めていたのです。
優くんのおばあさんは、死んでほしいと願ったことが優くんに申し訳なくて、それからはとてもかわいがったそうです。
ですからかっこちゃんは、次郎くんのお母さんも、そうなるんだろうなあと思ったのです。
ここには、障害者の世話をすることが義務や犠牲に感じてしまうことがある、という現実があります。
かっこちゃんは「愛するとはどういうことか?」と悩んでおられますが、私は、簡単に答えが出せないものだと思います。
あるときはこうだと思い、あるときは別の答えを出す。迷いながら、何かを体験していく。
そうやって、だんだんと愛に近づいて行くのではないでしょうか。
「私は子どもたちと一緒にいて、一番に感じたのは、みんな素敵でみんな素晴らしいんだということでした。そして、それは、自分のことを好きでいていいんだという思いにつながったのです。」(p.79)
今あるそのままの自分を好きになる。そうであるべきだし、そうであってほしいと思います。
そのためには、他の人も今あるそのままでいいし、そのままで素晴らしいと認めることなんですね。
このことは、単に顔形のことや、人によって得意分野が違うということだけではないと、かっこちゃんは言います。
「たとえば、いつも穏やかな人と、すぐにカッとして、人を殴ってしまうような人がいるとしたら、私は穏やかな人のほうがいいのだと思っていたと思います。」(p.81)
怒りっぽい人より穏やかな人、不真面目な人より真面目な人が、より良いという価値観は絶対だと考えてしまいがちですからね。
「ラブラドールは穏やかだから盲導犬に適しているが、柴犬は、忠誠心が厚く、主人以外の人にはなつきにくく、攻撃的で、番犬に適している。」(p.82)
このように、犬種によって、遺伝子によって、その性格には違いがあると言います。もしそうなら、人間も同じだと言うのです。
「生まれた場所や得意、不得意や姿かたちとおなじように、自分の力でどうしようもないことを、責められてしまったら、その人はきっと悲しむでしょう。そして、自分ことを好きと思えなくなってしまうのではないでしょうか。」(p.82 - 83)
穏やかな性格の子は、あまり努力しなくても穏やかでいられます。でも、短気な性格の子が穏やかでいるには、相当な努力が必要になります。
そのことをわかっていれば、短気な子が少々暴れることも、いとおしい眼差しで見てやることができるのでしょうね。
「なおちゃんは、車椅子に乗っていて、手も足もあまり動かなかったけど、心はとても自由でした。根っこがあるから不自由だとか、車椅子に乗っているから不自由だとか、そんなことを決めつけているのは、やっぱり私の心が、自由でないからかもしれません。」(p.112)
「動けない」という意味では、車椅子に乗らざるを得ない人は不自由だと言えるでしょう。
でもかっこちゃんは、その価値観でしか見ないことの方が、不自由ではないかと言うのですね。
「でも、世話を焼いているとね、ただひとりの僕たちのいとおしい子だとはっきりとわかるんだよね。僕たちを選んで生まれてくれたなんて言う人がいてね。最初は、勝手なことを言うんじゃないよと思っていた僕がね、『きっとそうなんだよね』と思うようになるんだよね。それには時間が必要なんだよ」(p.134)
かっこちゃんの先輩で、障害を持った子どもが生まれた方の述懐です。
小林正観さんも、生まれてきた娘さんが障害者だとわかってから半年、現実を受け入れられなかったと言っています。
きっと時間は、私たちが愛に近づくことを助けてくれるのだと思います。
星の王子様は、自分の星に残してきた花の世話をするために、また星に戻っていきます。
旅をする中で、その花が特別であり、その世話をすることが、自分がやりたいこと、やるべきことと気づいたからです。
私たちもまた、何十億人の中の1人ではなく、自分にとって特別な存在になれば、その人のために世話をしたくなるのではないでしょうか。
愛するとは世話をすること。義務とか犠牲ではなく、ただそうしたいからというだけで。
そんなことを、この本を通じて考えさせてもらいました。
2015年04月17日
神さまがくれたひとすじの道
印鑰理生(いんやく・りお)くんの本を読みました。
以前に、「自分をえらんで生まれてきたよ」という本を読んでいたので、内容も調べずにちゅうちょなく購入しました。
結果的には、正直に言えばハズレです。あまりオススメしたいレベルではありません。
しかし、書かれている内容はそれほどひどいわけでもないので、せっかく読んだのですから、私がなぜそう感じたのかという分析の意味でも、ここに書いておこうと思います。
りおくんの本で感動したのは、自分で環境を選んで生まれてきたと明言しているところです。
つまり、宿命を自分で決めているということです。
そのことは、前回の本で多く語られていて、今回の本にはあまりありませんでした。
そして今回の内容は、あまりに普通というか、聞いて心地よい言葉が綴られているだけで、深みがないと感じたのです。
ひょっとしたら、前回のとそう変わらないのかもしれませんが。
たとえば、次の詩のような文です。
「すじみちは、
「奇跡」と呼ばれることもある。
「偶然」とか、「奇跡」とか、
どの方向から見るかで、言葉は変わる。
でも、言葉には関係なく、
ただ一歩一歩、歩いていく。
それが、人生というものだ。」(p.15)
なんだかわかったような、わからないような。こういうある意味で哲学的な、ちょっと飾った普通の言葉が続きます。
唯一異なるのは、2011年3月の震災2日前に、それを予言したかのように「人間を自殺させるおばけ」が町にやってきた夢を見たという話です。
そしてお母さんは、次のように言います。
「原子力発電所が爆発したとき、わたしは大きなショックを受けました。地震は天災ですが、原発事故は人災です。「人間を自殺させるおばけ」とは、核による被害のことではないか、と怖くなりました。」(p.23)
そしてりおくんたちは、震災の2日後に沖縄に移住します。
このあとに、りおくんの文が続きます。ウランは大地の神さまで、地下で幸せに暮らしていたのに、人間が掘り起こしたから怒って熱くなったと言います。
この文は、読み様によっては、核開発=悪いこと、ともとれますが、別の読み方をすれば、人間に大切なことを気づかせてくれたと言っているだけのようにも受け取れます。
「ウランの神さまも、原発も、放射能も、悪くない。
「爆発するな」っていうと、
ウランの神さまは、ますます怒るだろうね。
「ごめんなさい。
人間が勝手で、ごめんなさい」
というところから、始めなくてはいけない。」(p.27)
核開発そのものが悪いことではなく、これまで与えられてきた、当たり前と感じていたことに感謝し、迷惑をかけながら生きるほかないことを知って、詫びることが重要だと言っている。
そう受け取ることもできます。
考えてみれば、ウランの神さまが掘り起こされて怒るのなら、石油の神さまも、天然ガスの神さまも、石炭の神さまも、みな同じことです。
ウランだけが危険なものではなく、発電量あたりの死者という統計数字を見れば、石炭が明らかにトップです。
危険な炭鉱での事故はもちろん、大気汚染による健康被害もあります。地球温暖化の影響が本当かどうかはわかりませんが、それを信じる人からすれば、その被害は甚大と言わざるを得ません。
そういうことを前提に考えると、原発事故を一方的に人災と決めつけ、それを補強するかのようにスピリチュアル的な言葉を持ってくるやり方は、誤解を招くものと言わざるを得ません。
つまりスピリチュアル的な言葉には、反論できないからです。論理的にどうかではなく、特異体験によって得た言葉ですから。
ただ1つの救いは、それを押し付けようとはしてないことでしょうか。
「「ぜったいにおきる」「ぜったいにおきない」ということは、ない。
ぼくのいうことも、「ぜったいに正しい」ということは、ない。
だって、ふしぎは、信じることによって、おきるのだから。」(p.108)
この文だけが、唯一、私の心に残りました。
もしこの論理で言うなら、恐れる(=恐いことが起こると信じる)から、そういうことが起きるのです。言うなれば「引寄せの法則」です。
原発事故後、りおくんがお母さんに、「必ず、終わりはある。終わりがすぎると、もういいことがおきる。大丈夫」と言って安心させようとしたのも、そういうことだと思います。
ということで、期待が大きかったから、ちょっとがっかりした、というのが読後の感想です。
でも、さっきから言っているように、読み方によれば、スピリチュアル的な言葉の中にも読み取るべきことがあります。
そういう意味では、けして悪い本ではないと思います。
タイ人へのレイキ
ソンクラーン休暇中、妻の実家へ行ってきました。
妻の実家は、タイ東北部(イサン地方)にあります。バンコクから飛行機で約1時間。そこから車で約2時間です。
途中までは舗装された良い道ですが、実家が近づくと未舗装の赤土の道が続きます。クッションの抜けたピックアップトラックの後部座席は、お尻に優しくありませんね。(笑)
目的はもちろん、妻の帰省の付き添いです。ソンクラーンはタイ正月ですから、家族や親戚が集まってきます。友人も多数集まって、連夜の(昼からですが)どんちゃん騒ぎ。家の前がディスコになります。
3日間で、ビール大瓶12ケースが空きました。約90リットルをみんなで飲み干しました。支払いは、ぜんぶ私ですけどね。
まあでも、楽しかったから良しとしましょう。支払えるお金があることが幸せです。
さて、私には他にもミッションがありました。それは、妻のお義母さんなどへレイキをしてあげること。
ところが妻は、最初から非協力的です。妻は、私が私の両親へレイキをしているところは見ているので、その状況を説明してくれたら、話は簡単なのですけどね。
私「お義母さんへもレイキをしてあげようか?」
妻「必要ない。お義母さんは、そういうのは嫌い。」
私「おばあさんはどう?痛いところとか、あるんじゃないの?」
妻「おばあさんは、とっても健康。必要ない。」
まったく、取り付く島もありません。(苦笑)
タイ語もそれほど上手でない私が、レイキを説明するのも至難です。また相手は、日常会話はイサン語で、タイの標準語とはかなり違います。
どうしようかと思っていたとき、助け舟がありました。私のことが大好きだという妻のおじさんが、歯が痛くて薬を使っていると言って、薬を見せてくれたのです。
おじさんは、歯のほとんどが抜けていて、おそらく歯槽膿漏だと思われます。
私はすぐに、身振りで「ヒーリングをしてみませんか?5分で痛みがなくなりますよ。」と言って、おじさんを説得しました。
椅子に座ってもらい、痛いという左の奥歯のあたりに指をすぼめてあてがい、効果が現れるのを待ちます。
しばらくすると、おじさんがいいました。
「おぉ、なんかレーザーでも当てているみたいだ。」
5分くらいレイキして、おじさんに様子を聞いてみました。
「なんかジンジンしたよ。レーザーみたいだった。良かった。ありがとう。」
そう言って、私に握手を求めます。痛みが消えたのかどうかはっきりしませんが、喜んでくれたことは確かです。
おじさんがレイキを受けてくれたことで、少し気が楽になりました。
しかし、妻は相変わらず非協力的なので、お義母さんやおばあさんへのアプローチは、私がやるしかありません。
これまでに約5回くらい妻の実家に来ていますが、会話は挨拶程度で、ほとんどありません。せいぜい、「食べたか?」とか、「元気か?」という質問に答えるくらい。
それでも、今回はこれに挑戦しようと思っていたので、おばあさんが1人で縁台に腰掛けているところへ言って、こう切り出しました。
「おばあさん、マッサージしてあげましょうか?」
タイ人は、親や祖父母にマッサージ(ヌアット)をしてあげることが普通にあります。なので、マッサージと言って近づいたのです。
「どこか痛いところはありませんか?」
そう尋ねると、左の膝や腰が痛いとのこと。私は左手を腰に当てながら、膝の周辺を撫でるようにしてマッサージをしました。
そのうち、手の動きをだんだんと少なくしていって、ついには止めましまし。
「おばあさん、これが日本式のマッサージです。痛いのがなくなりますよ。やってみましょうか?」
そう言って、痛いという膝を両手で抱えるようにして、約30分ほどレイキをしました。
おばあさんへのレイキができたので、今度はお義母さんへレイキをしてあげようと思いました。
おばあさんにレイキをしているのは、お義母さんも見ているので、こちらは簡単です。
東屋で座っているお義母さんに近づき、手を当てる格好をして「日本式のマッサージをしましょうか?」と言いました。
お義母さんは、首から右手の肘にかけて痛みがあって、昨夜は眠れなかったと言います。
それで、左手を首筋に、右手を右二の腕に当てて、約30分ほどレイキをしました。
※親戚が寄り添って暮らす小集落の中庭にある東屋(あずまや)。
レイキは、理屈で説明するより体験させた方が早いと言われます。もし、体験してみて良くなければ、次から受けようとはしないでしょうから。
翌日もおばあさんのところへ行き、レイキをしてあげました。おばあさんは喜んで受けてくれました。
どうやら、膝痛はなくなったようです。
しかし、しばらく膝に手を当てていると、「痛い」と言います。まだ痛みが残っているのかと思ったのですが、どうやら別の痛みでした。
チクチクと内部で刺すような痛みがあるとのこと。おそらくそれは、良くなりかけている現象(好転反応)でしょう。
特に慢性病の場合、急性期の痛みが内在化されて、消えていることがあります。そういうケースでは、レイキをすることによって、慢性期の痛みが消える代わりに、急性期の痛みが復活するそうです。
おばあさんには、よくなりかけていると説明し、しばらくレイキを受けてもらいました。
次にお義母さんですが、今度は積極的に受けてくれました。痛みはまだ消えないようですが、気持よかったのだろうと思います。
この日は、施術中にお義母さんが体重を預けてきたので、どうしたのかと思ったら、うとうとと眠りかけていました。気持ちよかったのでしょうね。
お義母さんにも、約30分ほどレイキをしてあげました。
この日は、午前と午後の2回、おばあさんとお義母さんへ、それぞれ30分ずつレイキをしました。
また、お義母さんが、「この人にもやってあげてくれ。頭が痛いから。」と言うので、近所のおばあさんにもしてあげました。
頭を前後から挟むようにして、約30分ほどレイキをしたところ、「良くなった。ありがとう。」と言って喜んでもらえました。
翌日は、もうバンコクへ帰る日です。
昼過ぎには出立するため、午前中、食事が終わってから探してみると、お義母さんが東屋で座っていたので、近づいて「レイキをしましょうか?」と尋ねました。
「おばあさんにはしてあげたの?」と問われたので、「まだしてませんが、あとからします。」と答えて、まずはお義母さんへレイキをしました。
首筋や右の二の腕からは、相変わらずズキズキと刺すようなヒビキが感じられます。ヒビキは強くなったり弱くなったりしますが、なかなか消えないようです。
お義母さんへ約30分のレイキをしたあと、おばあさんの姿が見えたので、おばあさんにも「レイキをしましょうか?」と言って近づきました。
縁台に横になってもらい、左手を腰に当て、右手をおばあさんの左股関節から太ももにかけて、少しずつ動かしながらレイキをしました。
おばあさんは、膝の痛みはなくなったけど、左のももから腰にかけて痛いと言います。
でも、初日はずっと杖をついて歩いていたのに、この日は杖なしでさっさと歩いているので、おそらく状態はかなり良くなったのではと思います。
約30分ほどレイキをすると、おばあさんは手を合わせて「ありがとう」と言ってくれました。
どれだけ効果があったかは定かではありませんが、少なくともレイキをしてあげることが受け入れられたことは確かです。
それはレイキの治療効果ではなく、誰かから優しく触れてもらうことの心地良さかもしれません。
私は、それも含めてレイキの効果だと思います。レイキは愛ですから、誰かに寄り添い、一緒に時間を過ごしてあげることだけで、十分にその効果があると思うのです。
妻の実家は、タイ東北部(イサン地方)にあります。バンコクから飛行機で約1時間。そこから車で約2時間です。
途中までは舗装された良い道ですが、実家が近づくと未舗装の赤土の道が続きます。クッションの抜けたピックアップトラックの後部座席は、お尻に優しくありませんね。(笑)
目的はもちろん、妻の帰省の付き添いです。ソンクラーンはタイ正月ですから、家族や親戚が集まってきます。友人も多数集まって、連夜の(昼からですが)どんちゃん騒ぎ。家の前がディスコになります。
3日間で、ビール大瓶12ケースが空きました。約90リットルをみんなで飲み干しました。支払いは、ぜんぶ私ですけどね。
まあでも、楽しかったから良しとしましょう。支払えるお金があることが幸せです。
さて、私には他にもミッションがありました。それは、妻のお義母さんなどへレイキをしてあげること。
ところが妻は、最初から非協力的です。妻は、私が私の両親へレイキをしているところは見ているので、その状況を説明してくれたら、話は簡単なのですけどね。
私「お義母さんへもレイキをしてあげようか?」
妻「必要ない。お義母さんは、そういうのは嫌い。」
私「おばあさんはどう?痛いところとか、あるんじゃないの?」
妻「おばあさんは、とっても健康。必要ない。」
まったく、取り付く島もありません。(苦笑)
タイ語もそれほど上手でない私が、レイキを説明するのも至難です。また相手は、日常会話はイサン語で、タイの標準語とはかなり違います。
どうしようかと思っていたとき、助け舟がありました。私のことが大好きだという妻のおじさんが、歯が痛くて薬を使っていると言って、薬を見せてくれたのです。
おじさんは、歯のほとんどが抜けていて、おそらく歯槽膿漏だと思われます。
私はすぐに、身振りで「ヒーリングをしてみませんか?5分で痛みがなくなりますよ。」と言って、おじさんを説得しました。
椅子に座ってもらい、痛いという左の奥歯のあたりに指をすぼめてあてがい、効果が現れるのを待ちます。
しばらくすると、おじさんがいいました。
「おぉ、なんかレーザーでも当てているみたいだ。」
5分くらいレイキして、おじさんに様子を聞いてみました。
「なんかジンジンしたよ。レーザーみたいだった。良かった。ありがとう。」
そう言って、私に握手を求めます。痛みが消えたのかどうかはっきりしませんが、喜んでくれたことは確かです。
おじさんがレイキを受けてくれたことで、少し気が楽になりました。
しかし、妻は相変わらず非協力的なので、お義母さんやおばあさんへのアプローチは、私がやるしかありません。
これまでに約5回くらい妻の実家に来ていますが、会話は挨拶程度で、ほとんどありません。せいぜい、「食べたか?」とか、「元気か?」という質問に答えるくらい。
それでも、今回はこれに挑戦しようと思っていたので、おばあさんが1人で縁台に腰掛けているところへ言って、こう切り出しました。
「おばあさん、マッサージしてあげましょうか?」
タイ人は、親や祖父母にマッサージ(ヌアット)をしてあげることが普通にあります。なので、マッサージと言って近づいたのです。
「どこか痛いところはありませんか?」
そう尋ねると、左の膝や腰が痛いとのこと。私は左手を腰に当てながら、膝の周辺を撫でるようにしてマッサージをしました。
そのうち、手の動きをだんだんと少なくしていって、ついには止めましまし。
「おばあさん、これが日本式のマッサージです。痛いのがなくなりますよ。やってみましょうか?」
そう言って、痛いという膝を両手で抱えるようにして、約30分ほどレイキをしました。
おばあさんへのレイキができたので、今度はお義母さんへレイキをしてあげようと思いました。
おばあさんにレイキをしているのは、お義母さんも見ているので、こちらは簡単です。
東屋で座っているお義母さんに近づき、手を当てる格好をして「日本式のマッサージをしましょうか?」と言いました。
お義母さんは、首から右手の肘にかけて痛みがあって、昨夜は眠れなかったと言います。
それで、左手を首筋に、右手を右二の腕に当てて、約30分ほどレイキをしました。
※親戚が寄り添って暮らす小集落の中庭にある東屋(あずまや)。
レイキは、理屈で説明するより体験させた方が早いと言われます。もし、体験してみて良くなければ、次から受けようとはしないでしょうから。
翌日もおばあさんのところへ行き、レイキをしてあげました。おばあさんは喜んで受けてくれました。
どうやら、膝痛はなくなったようです。
しかし、しばらく膝に手を当てていると、「痛い」と言います。まだ痛みが残っているのかと思ったのですが、どうやら別の痛みでした。
チクチクと内部で刺すような痛みがあるとのこと。おそらくそれは、良くなりかけている現象(好転反応)でしょう。
特に慢性病の場合、急性期の痛みが内在化されて、消えていることがあります。そういうケースでは、レイキをすることによって、慢性期の痛みが消える代わりに、急性期の痛みが復活するそうです。
おばあさんには、よくなりかけていると説明し、しばらくレイキを受けてもらいました。
次にお義母さんですが、今度は積極的に受けてくれました。痛みはまだ消えないようですが、気持よかったのだろうと思います。
この日は、施術中にお義母さんが体重を預けてきたので、どうしたのかと思ったら、うとうとと眠りかけていました。気持ちよかったのでしょうね。
お義母さんにも、約30分ほどレイキをしてあげました。
この日は、午前と午後の2回、おばあさんとお義母さんへ、それぞれ30分ずつレイキをしました。
また、お義母さんが、「この人にもやってあげてくれ。頭が痛いから。」と言うので、近所のおばあさんにもしてあげました。
頭を前後から挟むようにして、約30分ほどレイキをしたところ、「良くなった。ありがとう。」と言って喜んでもらえました。
翌日は、もうバンコクへ帰る日です。
昼過ぎには出立するため、午前中、食事が終わってから探してみると、お義母さんが東屋で座っていたので、近づいて「レイキをしましょうか?」と尋ねました。
「おばあさんにはしてあげたの?」と問われたので、「まだしてませんが、あとからします。」と答えて、まずはお義母さんへレイキをしました。
首筋や右の二の腕からは、相変わらずズキズキと刺すようなヒビキが感じられます。ヒビキは強くなったり弱くなったりしますが、なかなか消えないようです。
お義母さんへ約30分のレイキをしたあと、おばあさんの姿が見えたので、おばあさんにも「レイキをしましょうか?」と言って近づきました。
縁台に横になってもらい、左手を腰に当て、右手をおばあさんの左股関節から太ももにかけて、少しずつ動かしながらレイキをしました。
おばあさんは、膝の痛みはなくなったけど、左のももから腰にかけて痛いと言います。
でも、初日はずっと杖をついて歩いていたのに、この日は杖なしでさっさと歩いているので、おそらく状態はかなり良くなったのではと思います。
約30分ほどレイキをすると、おばあさんは手を合わせて「ありがとう」と言ってくれました。
どれだけ効果があったかは定かではありませんが、少なくともレイキをしてあげることが受け入れられたことは確かです。
それはレイキの治療効果ではなく、誰かから優しく触れてもらうことの心地良さかもしれません。
私は、それも含めてレイキの効果だと思います。レイキは愛ですから、誰かに寄り添い、一緒に時間を過ごしてあげることだけで、十分にその効果があると思うのです。
2015年04月18日
あした死ぬかもよ?
ひすいこたろうさんの本を読みました。
ひすいさんの本は以前、はせくらみゆきさんとの共著になる「起こることは全部マル!」を読んでいました。
ひすいさんの、見方を変えるという考え方が素晴らしいと思ったので、今回も期待して読みました。
結果は、もちろん期待通りでしたよ。
そして、ひすいさんが見方を変えるきっかけになったのが、小林正観さんの5日間のセミナーに参加したことだったと、この本で初めて知りました。
なるほど、それなら納得です。正観さんの考え方を受け継がれているなら、間違いないと思いました。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「あの世には、お金も家具も服も家も持っていくことはできません。
だから、この世で財産を失うことは、ほんとうの不幸ではありません。
では、この世の最大の不幸はなんでしょう?
それは、死が間近に迫ったときに、自分の人生に後悔することです。
死ぬ前に後悔することこそ、最大の不幸です。」(p.4)
最大の不幸は、後悔をしたまま死ぬこと。これは名言ですね。
ひすいさんはこう言って、だから後悔しない生き方をしましょうと言います。そして、そのための方法を、この本の中で述べるのです。
「「バカげたことをもっとやればよかった」って後悔するのは、「バカをしちゃいけない」という思いがあるからです。
「もっとダンスに行けばよかった」って後悔するのは、「楽しんではいけない」という思いがあるからです。
まずは、あなたを自由に生きることから遠ざけている、思い込みや制限を探ってみましょう。」(p.29)
これは「神との対話」でも指摘されています。この「思い込みや制限」こそが、自分の信念(観念)です。価値観が固定化したものです。それが、本来自由な自分を制限しています。
「実は、思いどおりにいかないからこそ、人生は面白いんです。
サッカーが面白いのは、手を使ってはいけないから。
ゴルフが面白いのは、ボールを手に握りしめて、手で穴にねじ込んじゃいけないから。
(中略)
思いどおりにいったら、人は退屈するだけです。
(中略)
生きるって大変ですか?
大変に決まってるじゃないですか。
大変だからこそ、面白いんです。」(p.42 - 43)
これもよく言われることですよね。人生はゲームですって。
でも、この説明を聞いて理解していても、いざ、抜き差しならない現実に直面すると、慌てふためいたり、意気消沈したりするんです。不安が拭えないのですね。
「「過去最高度の不安を10点とすると、この不安は何点?」って。
過去最高度の不安を10点とすると、この不安は8点かな。
だったら、余裕でしょ。
(中略)
嫌な感情は「数値化」すると、その感情を「客観的」に見られるようになります。すると、すーっとその感情が離れていくのです。
そして、ここからがこの話の本題なのですが、僕らは、究極の逆境をすでにくぐり抜けてきています。
それは、誕生の瞬間です。」(p.44 - 45)
ひすいさんは、狭い産道を通って生まれてくるとき、約1.5トンの圧力を受け、頭蓋骨が歪むほどの苦痛を味わうと言います。
それが最大の苦痛であり、逆境であるとしたら、「それを10点とすると、目の前の逆境は何点?」と自問することで、不安を解消できると説明します。
これは、なかなか面白い方法だと思いました。
「大好きな人が死なずに、今日生きていてくれる。
それ以上の幸福ってありますか?
生きているって、大好きな人に会えること。会いに行ってその人を感じることができる。これ以上の幸福ってありますか?」(p.50)
今、愛情のある関係を結べている人がいるなら、この言葉は心に突き刺さりますよね。
私も常々言っていますが、出かける時は妻に必ず「ありがとう」と言うようにしています。なぜなら、それが最後に交わす言葉かもしれないから。
「最後の言葉は「ありがとう」でした。」と言いたいし、そう言えなかったら悔いが残ると思うのです。だって、愛する妻と一緒にいられることが、最高に幸せだと思うから。
だからどんなに喧嘩をして気分が悪かろうと、別れる時は笑顔になって「ありがとう」と言う。それが私の決心なのです。
「寒さのなか、家族を失い、家を失い、仕事を失った人たちが、ウソでもいいからと笑って前へ進んでいる。「泣いたって何も始まらないから」「笑っていると勢いが出るんだ」。そう笑いながら。
そんなすごい力が人間には隠されているんだ。
そんなにすごい力があなたにも隠されているんだ。
そのすごい力を発揮しないで、死んでどうする!?
どうせ死ぬなら、自分の底知れぬ可能性に驚いてから、死のうよ。」(p.59 - 60)
2011年3月11日の大津波で被災し、失意のどん底にあるはずの岩手の山田町の人々と出会い、ひすいさんはこう感じたのだそうです。
「「なんでも思い切ってやってみろよ。
どっちに転んだって、人間、野辺の石ころと一緒。
最後は骨となって一生終えるのだから。
だから思い切ってやってみろよ」
これは龍馬が生前残した言葉ですが、この言葉どおり、龍馬は、どんな事態でも深刻にならずに、人生を冒険として生き抜きました。」(p.66)
NHK大河ドラマ「龍馬伝」でも、明るく前向きに生きる龍馬像がみごとに描かれていました。
坂本龍馬は、どんな逆境においても諦めなかったばかりか、明るさを失わなかった。
「龍馬は、人生をなめきっていた。
いい意味で。」(p.64)
そうひすいさんが分析するように、しょせんいつか死ぬ運命なのだからという、死を見据えた思いがいつもあったのだと思います。
「想像した夢にワクワクできたら、それが心のジェットエンジンになります。あとは、意志を持ってそうなると決めて、もうそうなったつもりで、どんな小さな一歩でもいいから踏み出し続ければいい。すると夢って、案外あっさり叶うんです。」(p.84 - 85)
これもよく言われることですよね。ワクワクすることをやれば上手くいく。そうなったつもりで小さな一歩を踏み出す。
恐れ(不安)を捨てて、勇気を出して、小さな一歩を踏み出すこと。それが重要なのですね。
「逆をいえば、締切日を自らもうけることで、夢を引き寄せることができます。
いつまでにやりたいか、夢に締め切り日をもうけるのです。」(p.114)
いつかやろうと思っていると、いつまでもやれません。思い立ったが吉日と言いますが、すぐにやることが重要ですね。
それと同時に、この締切日をもうけるというのも、効果的だとよく言われます。納期のない仕事はないと言うように、ともかく可能と思われる期日を決めることです。
「本来、分解しても、全部品の重さを足せば、必ず商品Aの重さに戻るはずです。
ところが、精密な測定器でこれらを測ると違いました。
これまたラットの実験と同じように、分解すると、1万分の1重さが減るのです。」(p.150 - 151)
これは、東京大学物性研究所などで研究された川田薫理学博士の実験結果だそうです。ラットが死んだ場合も、機械を分解した場合も、重さが1万分の1ほど減るのだと。
これを川田博士は、「命の質量」とか、「思いの重さ」だと説明しています。
ラットの方は魂の重さとも言えますが、機械の方は不思議です。人の思いのエネルギーが機械にはあるので、分解することで機能しなくなれば、そのエネルギーが失われるということのようです。
これは本当のことかどうか何とも言えませんが、わかるような気もします。
「人生は、幸せになるのが目的じゃない。
幸せがスタート地点。幸せから夢へ向かうんです。
いまが不満だから幸せを目指すという人は、夢を成し遂げても、そこに見えるのは、新しい不満です。」(p.160)
これは、ひすいさんが正観さんから教わったこととして紹介されている部分です。
「神との対話」でも、同じように言っていますね。まず在り方を決めるのだと。幸せになりたいなら、さっさと幸せになる。その幸せを根拠として、何かをするんですね。
「これが最後だと思ったら、15分待つ踏切にすら、
喜びが出てくるんです。」(p.198)
開かずの踏切で15分待たされたというひすいさんの友人は、数年してこの踏切がなくなることを知り、「あのとき、15分待ってよかった」と思ったのだとか。
そのときはひどくイライラさせられた出来事が、あとになれば懐かしくて喜びを感じる出来事に変わる。そういうものなのですね。
「回想シーンに自分が登場するということは、「自分を客観視できている」ということです。
登場しないということは、トラウマがまだ現実のままだということです。現実の視点では、自分は見えないので、自分は登場しないわけですから。
この実験でわかったことは、自分を客観的に見られるこの視線こそ、自分を癒やす力になるということです。」(p.218)
これは、ある心理学者の実験で、トラウマを負った人にその出来事を思い出してもらったとき、そのイメージに自分が登場するかどうかの違いがあった、という結果について説明しています。
そして、ひすいさんはこの本で、「人生最後の日の自分の視点(自分を客観視する視点)」を読者に贈りたかったのだと言います。
この本の中で、自分の死亡記事を書くという部分がありました。実はちょうど昨日、それにピッタリの事例と出会いました。
みやざき中央新聞の今週号に載っていたのですが、ダイナマイトの発明で巨額の財産を築いたノーベルの話です。
彼のお兄さんがなくなったとき、新聞が間違ってノーベル自身の死として報じたのだとか。
「その記事は、「死の商人死す」の見出しと共に、「かつてないほど短期間に、かつてないほど多くの人を殺すことのできるものを創り出した人間が亡くなった」と書かれていました。」
ノーベルはこの記事を読んで愕然とし、生き方を改めたのだそうです。そして死後は財産を人類に貢献した人のために使ってほしいと遺言し、それでノーベル賞が作られたというわけです。
自分の死を客観的に見つめるということは、人の生き方を変えるのですね。
裸で生まれたこの身ですから、これ以上、何を失うこともありません。
それに死ぬ時は、この肉体さえも残していくことになります。
そうであれば、もう何も不安に思う必要はないでしょう。
私も龍馬のように、明るく前向きに、人生をなめきって生きようと思いました。
ハッピバースデイ!
2015年のソンクラーン(4月13日〜15日のタイ正月)は、妻の実家へ行ってきました。
妻の実家は、タイ東北部にあります。通称、イサン地方です。
タイの中では、人口が最も多い地域です。メコン川を挟んで、ラオスの一部と一緒に巨大な盆地を形成しています。
イサン人は、人種や言葉の点からも、中央部や南部のタイ人より、ラオス人に近いと思います。
バンコクからは飛行機で約1時間、そこから車で約2時間かけて行きました。
赤土の道が続き、信号機もない田舎です。携帯電話は使えますが、データ通信はほとんど無理。スマホは無用の長物です。街に行けばつながりますけどね。
そんなど田舎ですから、虫はいっぱいいるし、鶏はけたたましく鳴いています。
外から見れば、穏やかなあこがれの田舎生活のように見えるかもしれませんが、実際にそこへ行ってみると、全然違いますよ。
まず虫ですが、噛み付かれるとものすごく痛い赤蟻(モッデーン)がいるし、蚊はいたるところにいます。そしてブヨのような小さな虫やハエが、しょっちゅう目への侵入を図ろうとして、顔の周りを飛び交います。
それだけでも大変ですが、夜も安心していられません。鶏がやかましいのです。
鶏って、早朝に鳴くと思ってました?
それはまったくハズレです。未明、おそらく深夜1時くらいから、断続的に鳴いています。
どこかの鶏が鳴くと、他の鶏がまるで呼びかけに応えるかのように鳴くのです。鳴き声合戦が始まるわけです。
私が寝ていた部屋の壁を挟んだとなりに、鶏が飼われていました。闘鶏用の鶏ですけどね。
これが夜中に突然、バタバタバタと羽ばたきをします。何ごとが起こったのかと、最初はびっくりして飛び起きましたよ。
続けて「コーケコッコー!」と鳴くので、鶏が羽ばたく音だったのかと気づいた次第です。
それにしても、この「コーケコッコー!」がまたうるさいんです。けたたましいにもほどがあります。
それが断続的に繰り返されるので、初日はしばらく眠れませんでした。
ところがあるとき、この鳴き声がある言葉に聞こえたんですよね。
それで、これは面白いと聞き入っていると、どの鶏もそう言って鳴いているように聞こえます。
その言葉とは・・・
「ハッピバースデイ!」
さっきまで「コーケコッコー!」と聞こえていたはずなのに、なぜか「ハッピバースデイ!」にしか聞こえなくなりました。不思議なものですね。
でも考えてみると、どの鶏にも誕生日はあります。それぞれ違っていることでしょう。
あちこちの鶏たちが、「おぉ、今日はあそこんちのだれそれが誕生日だから、祝ってやろう。」と思って、声を限りに「ハッピバースデイ!」と言っていると想像してみました。
すると、なんだか微笑ましくて、楽しい気分になったのです。
「おぉ、またお祝いを言ってるな。そうそう、もっと大きな声で言ってあげないと、あっちまで届かないよ。」
そんな応援さえしたくなりました。
鳴き声を聞いて楽しい気分になると、「うるさい」という思いもなくなります。これも不思議ですね。
お陰で、それからは安眠できるようになりました。
「本当に「ハッピバースデイ!」って聞こえるの?」と思われるかもしれませんね。
それはぜひ、ご自身の耳でお確かめください。
このあたりでは、親戚が寄り集まって暮らす小集落がいくつもあります。妻の実家も、そうなっています。その小集落の中庭に東屋(下の画像)があり、そこに座って撮った動画です。
見方を変えると、悪い感情を呼び起こす出来事をそのままに、良い感情を生み出すことができるようになります。
今回、意図せずそういうことが起きました。これを意識的に使うようにすれば、人生は楽しいことばかりになるように思います。
妻の実家は、タイ東北部にあります。通称、イサン地方です。
タイの中では、人口が最も多い地域です。メコン川を挟んで、ラオスの一部と一緒に巨大な盆地を形成しています。
イサン人は、人種や言葉の点からも、中央部や南部のタイ人より、ラオス人に近いと思います。
バンコクからは飛行機で約1時間、そこから車で約2時間かけて行きました。
赤土の道が続き、信号機もない田舎です。携帯電話は使えますが、データ通信はほとんど無理。スマホは無用の長物です。街に行けばつながりますけどね。
そんなど田舎ですから、虫はいっぱいいるし、鶏はけたたましく鳴いています。
外から見れば、穏やかなあこがれの田舎生活のように見えるかもしれませんが、実際にそこへ行ってみると、全然違いますよ。
まず虫ですが、噛み付かれるとものすごく痛い赤蟻(モッデーン)がいるし、蚊はいたるところにいます。そしてブヨのような小さな虫やハエが、しょっちゅう目への侵入を図ろうとして、顔の周りを飛び交います。
それだけでも大変ですが、夜も安心していられません。鶏がやかましいのです。
鶏って、早朝に鳴くと思ってました?
それはまったくハズレです。未明、おそらく深夜1時くらいから、断続的に鳴いています。
どこかの鶏が鳴くと、他の鶏がまるで呼びかけに応えるかのように鳴くのです。鳴き声合戦が始まるわけです。
私が寝ていた部屋の壁を挟んだとなりに、鶏が飼われていました。闘鶏用の鶏ですけどね。
これが夜中に突然、バタバタバタと羽ばたきをします。何ごとが起こったのかと、最初はびっくりして飛び起きましたよ。
続けて「コーケコッコー!」と鳴くので、鶏が羽ばたく音だったのかと気づいた次第です。
それにしても、この「コーケコッコー!」がまたうるさいんです。けたたましいにもほどがあります。
それが断続的に繰り返されるので、初日はしばらく眠れませんでした。
ところがあるとき、この鳴き声がある言葉に聞こえたんですよね。
それで、これは面白いと聞き入っていると、どの鶏もそう言って鳴いているように聞こえます。
その言葉とは・・・
「ハッピバースデイ!」
さっきまで「コーケコッコー!」と聞こえていたはずなのに、なぜか「ハッピバースデイ!」にしか聞こえなくなりました。不思議なものですね。
でも考えてみると、どの鶏にも誕生日はあります。それぞれ違っていることでしょう。
あちこちの鶏たちが、「おぉ、今日はあそこんちのだれそれが誕生日だから、祝ってやろう。」と思って、声を限りに「ハッピバースデイ!」と言っていると想像してみました。
すると、なんだか微笑ましくて、楽しい気分になったのです。
「おぉ、またお祝いを言ってるな。そうそう、もっと大きな声で言ってあげないと、あっちまで届かないよ。」
そんな応援さえしたくなりました。
鳴き声を聞いて楽しい気分になると、「うるさい」という思いもなくなります。これも不思議ですね。
お陰で、それからは安眠できるようになりました。
「本当に「ハッピバースデイ!」って聞こえるの?」と思われるかもしれませんね。
それはぜひ、ご自身の耳でお確かめください。
このあたりでは、親戚が寄り集まって暮らす小集落がいくつもあります。妻の実家も、そうなっています。その小集落の中庭に東屋(下の画像)があり、そこに座って撮った動画です。
見方を変えると、悪い感情を呼び起こす出来事をそのままに、良い感情を生み出すことができるようになります。
今回、意図せずそういうことが起きました。これを意識的に使うようにすれば、人生は楽しいことばかりになるように思います。
2015年04月21日
聖なる予言
1994年に単行本として発売された「聖なる予言」ですが、もう一度読み直したくなって、文庫本を買いました。
著者はジェームズ・レッドフィールド氏で、翻訳は山川紘矢+山川亜希子夫妻です。
この本は、私が初めて手にしたスピリチュアル関係の本かもしれません。
著者のジェームズ氏は、自身の気づきをより多くの人に知ってもらうために、冒険小説というスタイルにしたのだそうです。
最初は、どこの出版社も相手にしなかったので、自費出版という形にしたのだとか。それが口コミで10万部も売れたため、大手の出版社が引き受けてくれたのだとか。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「別の言い方をすれば、宇宙の基本物質はその核心においては一種の純粋なエネルギーであり、古い機械的な宇宙モデルとは相容れない方法で、人間の意思と期待に順応するということです。つまり、私たちの期待そのものが、私たちのエネルギーを世界へと流出させ、他のエネルギーシステムに影響を与えるというわけです。」(p.72 - 73)
アインシュタインは、「E=m×c×c」という公式で、すべての物質はエネルギーからできていることを示しました。
そして量子物理学は、素粒子などを観察するとき、物質が観察者の影響を受けることを発見しました。
このことから、エネルギーは私たちの精神活動の影響を受けるということが、ここで表現されています。
つまり、いわゆる「引き寄せの法則」であり、「思考が現実を創る」という考え方です。
「「あなたが物の美しさと個性を感じると、あなたはエネルギーを受け取ります」と彼は言った。「そしてあなたの気持ちが愛にまで高まると、あなたはそうしたいと思っただけで、エネルギーを送り返すことができるのです」」(p.181)
すべての物はエネルギーからできていますから、エネルギーをやりとりすることができるんですね。
そして、私たちが愛に近づけば近づくほど、そのやりとりは効率的に行えるようになるのです。
「愛の役割はずっと誤解されていました。愛とは善人になるために何かするとか、道徳的義務感から世界をもっとよい場所にするとか、あるいは快楽を諦めるべきだというようなことではありません。エネルギーとつながると興奮し、至福感を感じ、それから愛を感じます。この愛の状態を維持するために、十分なエネルギーを見つけることは確かに世界を助けますが、それよりもまず第一に、自分のためになります。それは私達にできる最も気持ちのよいことなのです」(p.185 - 186)
愛とは、自分のエネルギーが高まること。これも、「神との対話」を知っていれば理解できます。
つまり私たちは完璧な愛になろうとしているのですから、それは世界のためにもなるし、自分自身としても気持ちのよいことに違いありません。
「どの人のドラマも、攻撃的なものから受身的なものまで、この分類のどこかにあてはまります。あまり攻撃的には見えなくても、エネルギーを取るために、人の欠点を見つけ出しては、ゆっくりとあなたの世界を侵害してゆく、あなたのお父さんのような人は、尋問者です。被害者よりは受け身の度合いが少ないものが、あなたの演じているよそよそしい傍観者のドラマです。ドラマは順番に、脅迫者、尋問者、傍観者、被害者となります。」(p.205)
人は、相手からエネルギーを奪おうとして、4つのタイプのドラマの、いずれかを演じると分析します。
脅迫者には被害者が、尋問者には傍観者が対応し、一方のドラマに巻き込まれることによって、対応するドラマを演じるようになるのだそうです。
ここで重要なのは、ドラマを演じる目的が、エネルギーを得たいためだということです。
逆に言えば、もし相手からエネルギー(愛)を得る必要がないとわかれば、ドラマを演じる必要性もなくなる、ということですね。
「私たちは両親から肉体をもらっただけではありません。霊的なものも受けついでいます。あなたはこの二人の間に生まれましたが、両親の人生はあなたが何者かということについて消しがたい影響力を持っています。本当のあなた自身を発見するためには、本当の自分は両親の真実の間から始まっていることを、認めなくてはなりません。それがあなたが二人の間に生まれた理由なのです。彼らがどんな生き方をしたか、高い視点から見ることです。」(p.219)
「あなたにとっては、霊性が問題なのです。あなたの全人生は、自分自身を成長させる道を見つけ出すためのものなのです。これはご両親が達成できずに、あなたに遺した問題です。」(p.221)
つまり、両親がそれぞれどんな信念(価値観)を持っていたかを知ることが重要だと言います。その信念の統合に、自分の使命があるのだからというわけですね。
「それに気づくためには、観察者の立場に自分をおく必要があります。何か考えが浮かんだら、なぜと思わなければなりません。なぜ、この考えが今浮かんだのか? これは自分の人生の問題にどう関係しているのか? 自分を観察者の立場に置くと、すべてをコントロールしなければならないという気持ちがなくなります。すると、私たちは進化の流れに身をまかせることができるのです」(p.268)
よく生きるためには客観的な視点が重要だと、先日紹介したひすいこたろうさんの「あした死ぬかもよ?」にも書かれていました。
ここではふと浮かんだ考え、つまり直感に注意することが書かれていますが、出来事に対しても同様です。
「すべての出来事は意味を持ち、私たちの疑問に何らかの意味で関係しているメッセージを含んでいるのです。これは特に、私たちが悪いことと呼んでいることにあてはまります。第七の知恵は、どんなに否定的な出来事であっても、そこに隠されている本当の意味を読み取るようにと言っています。」(284)
どうして今、こういうことが起こるのか? それを、外因的に捉えるのではなく、内因的に考えることです。
しかも、それを自虐的に捉えるのではなく、ポジティブに、自身が進化成長するためと捉えることが重要なのだと思います。
「あなたの体はあるレベルで振動しています。あなたのエネルギーを低くしすぎると、体が傷つき病気になります。ストレスと病気の関係です。愛は私たちの波動をあげる手段なのです。私たちを健康にしてくれます。愛はそれほど大切なんですよ」(p.276)
病気になるのも、私たちの波動レベルの問題なのですね。
そしてその波動レベルを高めるのに、愛が有効なのだと。
私は、レイキは愛だと言っていますが、レイキが病気に効果がある理由も、こういうところにあるのかもしれません。
「エネルギーを充たし、自分の状況や問題に自分を集中させる。すると、直感という形で、どこへ行けばよいか、何をすればよいか導きを受け取ることができる。次に偶然の一致が次々に起きて、私たちをその方向へと動かしてゆく」(p.278)
「すべての答えは、不思議な方法で他の人々によってもたらされるということです。」(p.278)
前に紹介した「「東の大富豪」の教え」でも、直感に従うことと、意味のある偶然の一致(シンクロニシティ)を見逃さないことが重要だとされています。
自分の直感を信じて、安心してそれにしたがうことが大切なのだと思います。
そして、出会う人は何らかのメッセージを携えている、ということですね。「神との対話」ではこれを贈り物と呼んでいます。
「子供をありのままに見るということです。しかし、進化を学ぶために、子供は、常に無条件に、私たちのエネルギーを必要とします。子供にとって最悪なことは、子供を矯正しようとして、子供のエネルギーを奪い取ることです。これは、すでにあなたも知っているように、コントロールドラマを作り出します。」(p.294)
子供をしつけようとして矯正することの問題点を、エネルギーの観点から述べています。
そして、脅迫者が犠牲者を作り、尋問者が傍観者を作るように、ドラマを生み出すのです。
さらに、子育てに対して重要なメッセージがあります。それは、子供の人数が重要だということです。
「それは一人の大人は一度に一人の子供にしか、注意を向けられないからです。大人の数に較べて子供の人数が多すぎると、大人はどうしてよいのかわからなくなって、十分にエネルギーを注ぐことができません。子供たちは大人の時間を得ようと競争し始めます」(p.295)
「一人の子供に全部の注意を向ける大人が少なくとも一人はいなければ、子供を産むべきではないと、人は次第にわかるようになると写本は言っています」(p.295)
「写本は、人間は血のつながりを超えて家族を拡大することを学ぶと、言っています。だから、誰か他の人が子供の面倒を見てもよいのです。全部のエネルギーが両親から来る必要はありません。実のところ、そうでない方がいいのです。しかし、誰が子供の面倒を見るにしろ、子供にはこの一対一の注目が与えられなくてはなりません」(p.296)
重要なのは、両親が愛情をもって育てるということではなく、1人の大人が1人の子どもに十分なエネルギーを注ぐことだと言います。
面白いのは、両親が与える必要がないばかりか、そうでない方が良いと言っている点です。
「神との対話」でも、子どもを産むには両親は若い方が良いが、育てるのは年老いた方が良いと指摘しています。つまり、子育ては両親がすべきではないということです。
「まず恋が芽生えると、二人は無意識のうちに愛を与え合います。二人の気持ちは高まり、気持ち良くなります。『恋に落ちた』状態というのは、信じられないほど、気持ちが高ぶるものです。ところが残念なことに、こうした気持ちが恋の相手から得られるものだと期待すると、宇宙のエネルギーから切り離されてしまいます。そしてますます、エネルギーを相手から得ようとします。ただそうなると、エネルギーが十分にないように感じて、お互いにエネルギーを与え合うのを止めてしまい、自分のコントロールドラマに逆戻りしてしまいます。そして、相手をコントロールして自分流のやり方でエネルギーを奪い始めるのです。ここに至ると、二人の関係は普通の権力闘争のレベルに落ちてしまうのです」(p.306)
まさにその通り、という感じですね。愛を相手から得られるものと期待したとき、歯車が狂い始めるのです。
そして、異性のエネルギーを求めてしまう原因を、次のように分析します。
「家庭でのエネルギー闘争のために、私たちはみな、大切な心理的プロセスを完成できませんでした。つまり、自分の中の異性を統合できなかったのです」(p.307)
「私たちが異性に中毒してしまうのは、この異性のエネルギーをまだ必要としているからです。内的な源として私たちが汲み取ることができる神秘的なエネルギーは、男性と女性をかねそなえています。最終的には私たちは完全にその源に全面的につながることができますが、進化を始めたばかりの時には、気をつけなければなりません。統合のプロセスは時間がかかるからです。女性か男性のエネルギーを求めて、早まって人間のエネルギー源とつながってしまうと、宇宙からのエネルギーをさえぎってしまうのです」(p.307)
これは面白い考えだと思いました。つまり、自分の中の異性を統合できていないから、外的な異性を必要としてしまう、ということです。
「写本は、彼女が本当に欲しているのは、男性エネルギーだと言っています。この男性エネルギーは彼女の女性面を補完するからです。この男性エネルギーから、彼女は完結した感覚と陶酔感を得ます。しかし彼女は、こうしたエネルギーを得る唯一の方法は、父親を性的に所有したり、自分の身近に引きとめておくことだと、まちがって思い込みます。」(p.308)
最初に異性の面を統合しようとする時、たいていは異性の親へのあこがれから始まると言います。
そして、異性の親からのエネルギーを得ようとして、やはり権力闘争に陥ってしまいがちなのです。
「第八の知恵によれば、初めて進化し始める時、私たちは自動的に異性のエネルギーを受け取り始めます。それは宇宙のエネルギーから自然に入ってきます。しかし用心しなければいけません。もし、このエネルギーを直接与えてくれる人が現れると、私たちは真の源から自分自身を断ち切って、退歩してしまうことがあるからです」(p.309)
つまり本来は、宇宙のエネルギーから異性のエネルギーも受け取り、自分の中の異性を統合する必要があるのですね。
なぜ異性に惹かれるのかということを考える上で、面白い考え方だと思いました。
「私たちがある人の姿や振る舞いを賞賛し、その姿や顔形が、より存在感を持ち始めるまで真剣に見つめ続けると、その時私たちは彼にエネルギーを送り、元気づけることができるのです。
もちろん、最初のステップは、自分自身のエネルギーを高く保つことです。そうすると、自分の中へとエネルギーの流れをおこし、私たちを通して、他の人へと流してゆくことができます。彼らの全体性、すなわち内面の美しさを賞賛すればするほど、沢山のエネルギーが彼らに流れてゆきます。そして自ずと、大量のエネルギーが私たちに流れ込むのです」(p.321)
まさに愛のことですね。愛を与えれば、愛は私たち自身を通じて流れていくために、そこを補うかのように宇宙から私たち自身に愛が流れ込みます。
これはレイキも同じです。患部がレイキを吸い取ると言われますが、吸われれば吸われるほど、私たちの身体にレイキが流れ込むのです。
レイキを行う者はパイプとなって、ただレイキを流す仲介役になります。でもそれによって、自分自身にも大量にレイキが流れるのです。
改めて読みなおしてみることで、この小説がスピリチュアル的な多くのことを語っていることがわかりました。
ジェームズ氏はこのあと、「第十の予言」などを書かれています。多分、そこまでは読んだと思いますが、その後は読んでいません。
スピリチュアル系はちょっと、という人でも、こういう冒険小説の形なら、読みやすいかもしれませんね。
●コメントを書く前に、こちらのコメント掲載の指針をお読みください。